頸飾り
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著者名:モーパッサンギ・ド 

 ロイゼル夫人はその頸飾りを携へてフオレスチャ夫人の処に返済すべくでかけた。フオレスチャ夫人は冷やかな態度を示しながら、
「もう少し早く返して頂きたかったですよ、これでもチョイチョイ入用なことがありますからね」
 夫人は函を開きもしなかった。それを彼女は内々恐れていたのである。もしそれが換え玉であるとしれたら如何しよう、如何弁解したらよいだろう? キット自分を悪人と思うに相違ない。このような思いがロイゼルの心の中を往来していたのである。
 彼女は今頃貧というものの辛さをしみじみと心に味わった。けれど今となってはいたし方がない。ともすれば沈み勝な心をとりなおして、我れと我身を奮ましながら、恐ろしい負債を是非とも消却しなければならぬと考えた。まず下婢に暇をやって、今までの住居(すまい)を引き払って下層な下町の物置部屋のような一室を借りることにした。
 彼女は初めて労働の苦痛を知り始めた。そして、面倒な台所仕事を不慣れな手つきでやり始めた。ほんのりと桃色をした柔らかな指先で脂ぎった茶碗や皿を洗った。汚れたリンネルのシャツ、テーブル掛け、布巾その他色々なものを洗濯して、それを一々竿にかけて干す。水はというと、勾配の急な坂の下まで汲みに行かなければならない。彼女は坂の途中で幾度となく休んでようやく水をくんでくるのである。彼女はまた長屋の連中と一緒に笊を小脇に抱えて、八百屋や果物屋や肉屋などに出かけて行く。そして、僅かばかりの銭のために色々と押し問答などして、物価の安そうな処をみつけて歩くようになった。
 月の終わりになると証書の書き換えをしたり、いい訳をしたり、それは中々の大役であった。
 夫は夜になると商売人の帳簿の写しを内職にやった。その外一頁五銭程にしか当たらぬ写字を夜の更けるまでやった。
 このような生活がざっと十年程継続した。
 十年の終わりに二人はヤット元利合わせてすっかりの負債を消却することが出来た。
 ロイゼル夫人は年をとった。見るから面やつれのした世話女房になった――骨が固くなった。手足はあれて皮が剛ばった。縺れた頭をして、胸のあたりをたばけ、真っ赤な手で洗濯の水をザブザブとあたりに跳ねかしながら、彼女は大声で長屋の連中と話をするようになった。けれど時には夫の留守などに窓側へよりかかって、自分が一生に一番美しかったあの夜の光景(ありさま)を思い浮かべて果敢ない追憶に耽けることもある。
 あの頸飾りさえ失なさなかったら、今頃は如何になっているだろう? ああ誰か解るものか? 世の中というものは奇妙なものだ、変遷(うつりかわり)の烈しいものだ! あのようなささいな物から、自分たちの運命が如何にも存在されるのだ!
 ある日曜のことであった。彼女は一週の疲労(つかれ)を癒するためシャンゼ・リゼイの方へ散歩に出かけた。その時フト小児(こども)を連れている女に逢った。それは忘れもせぬフオレスチャ夫人で、依然として若く美しく口元に微笑さえ湛えていた。
 ロイゼルはなんとなく心を動かされた。今はもうまったく負債を消却した暁である、今までのことを打ち明けても差し支えはあるまい、そうだ、こう思いながら彼女は昔の友人の傍に立った。
「御機嫌よう」とまず言葉を掛けた。
 一方の友人はこの見なれぬ粗末な服装の女にさも慣々しく言葉をかけられたので、一方ならず吃驚(びっくり)してあわてながら、
「あなたは!――私一向に存知ませんが、もしや人違いでは御座いませんか」
「否、私はあのロイゼルでございますよ、お見忘れですか?」
「オヤ、あなたが――あのマシルドさん、まあ大層御様子がお変わりになったこと! 一体如何なすったのです」
「ハイ、今まで私も随分と色々な苦労をいたしましたよ。これもそれも、あのいつぞやお宅に拝措物に上がったのが原因(もと)なので――つまりあなたのためなので」
「私のためですって! それはまた如何して」
「あなたはあの夜会の時、私にお借下さったダイヤモンドの頸飾りを記憶(おぼ)えていらっしゃいましょう?」
「ハイ、よく覚えております。それで?」
「実は、あれを私が失なしましたので」
「何ですって、あなたは自分で宅までお持ちになったじゃありませんか?」
「ハイ、それはよく似た代りのを差し上げたので。私共はそれを買いますのにそれはそれは大変な借財をいたしまして、ようやく十年という長い月日をかけて、ようやくそれを返済することが出来ましたので、無一物の私たちの身に取りまして、如何の位辛うどざいましたか、少しはお察しを願います」
 フオレスチャ夫人はちょっと黙した、がやがて、
「それなら、あの、あなたは代りにダイヤモンドの頸飾りを買って返して下さったのですね」
「ハイ、それなら、あなたは今までそれをお気づきなさらなかったのですか、もっとも大層よく似ておりましたから」
 で、彼女の傲り気は一種の無耶気な様子を示して微笑んだ。
 フオレスチャ夫人は真底から動かされてロイゼルの両手をしっかりと握った。
「あ、あ、お気の毒な、マシルドさん! 私のあれは人造で、せいぜい五百フラン位なものだったのですよ!」




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