帰つてから
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著者名:与謝野晶子 

『唯今迄のお照さんのお役目が大変で御座いました。』
 と出て来た妹に花を持たせる事も忘れなかつた。
 鏡子は書斎へ帰つてゆきなり、
『私ときどき喧嘩もして来てよ、帰りたいばかしに。』
 と云つて南夫婦をじつと見た。
『ほ、ほ、ほ。』
 と夏子は笑つた。やつとして南は、
『さうですか。』
 と云つて居た。南の気の毒なものを見るやうな目附(めつき)が鏡子には寂しく思はれるのであつた。巴里(パリイ)への手紙は今日(けふ)書けないかも知れぬと悲しい気持になつたり、書棚の引出しに確かにある筈(はず)の良人(をつと)と一緒に去年の夏頃とつた写真が見たいものだと云ふ気になつたりして居た。榮子がまたぐずぐず云つて居るのを聞いて夏子が立つて行つた。
 榮子は英也の向側に坐つたお照の横に、綿入(わたいれ)を何枚も重ねて脹(ふく)れた袖を奴凧(やつこだこ)のやうに広げて立つて、
『叔母さんとねんの、叔母さんとねんの。』
 と連呼して居た。
『どうなすつたの、榮ちやん。夏子さんとおねんねいたしませう。』
 と云つて夏子は坐つた。お照は榮子を膝に掛けさせて、
『母(かあ)さんと寝れば好(い)いので御座いますがね。』
 と云つた。
『今晩からは御(ご)無理で御座いますよ。榮ちやんいらつしやい。』
 榮子は夏子の伸(のば)した手の中へ来た。
『さあお寝召(ねめし)を着かへませう。お末さん何方(どちら)。』
『はあい。』
 お末は白い前掛で手を拭き拭き出て来て、暗い六畳の半間(はんげん)の戸棚から子供達の寝間着の皆入(はい)つた中位(ちうぐらゐ)な行李を引き出した。
『榮子さまは好(い)いので御座いますねえ、夏子さんとおねんねで御座いますか。』
『いいのですとも。』
 榮子を抱いて来た夏子はくるくると着替へをさせてしまつた。そして末の敷いた蒲団へ小(ちいさ)い身体(からだ)を横に置いて、自身も肱枕をして、
『ねんねえ、ねん、ねん。』
 と云つて居た。
『もう皆もお休みなさいよ。』
 書斎の母親は座敷に遊んで居る子供達にかう声を掛けた。
『いつもまだまだ寝ないのよ、母(かあ)さん。』
 滿は不平らしい声で云つた。
『でも、今朝(けさ)は早く起きたのでせう。だから。』
『はあい。』
 と滿は答へた。
『もう眠いのよ。母(かあ)さん。』
 母の傍へ来た花木がかう云つた。
『末や、お床(とこ)とつて。』
 云ひながら茶の間へ滿が出て行くと、
『まだ早いぢやありませんか。』
 とお照が云つた。
『母(かあ)さんが寝なさいつて云ふたんだあ。』
 羽織の白い毛糸の紐の先を歯で噛みながら云つて居る此声を、もう起き過ぎたねぞろ声だと母親は此方(こちら)で思つて居た。泣くやうな目附を見るやうにも思つて居た。
『さうですか、末や床(とこ)をとつておやり。』
 お照はまた、
『岸勇(きしゆう)と云ふのが好(い)いのでせう。』
 と英也に話を向けた。
『うん、うん、うん、あれなんか好(い)いのだ。』
 点頭(うなづ)きながら叔母にかう答へて英也は杯(さかづき)を取つた。畑尾がまた来たのと入り違へに南は榮子を寝かし附けた夏子を伴(つ)れて帰つて行つた。
『私ね、鞄なんかの鍵を無くしてしまつたのよ。神戸の宿屋でせうか。』
『さうですか、大変ですね。』
『ええ。』
 と云つたが、鏡子は先刻(さつき)お照から大変だと云はれた時程ひしひし悪い事をしたと云ふ気も起(おこ)らないのであつた。
『三越へ電話で頼んで頂戴よ。彼処(あすこ)にはあるに決つて居るのだから。』
『ああさうですね。宜しうおます。』
 それから昨日(きのふ)神戸でしかけた旅の話の続きのやうな話が長く続いた。鏡子は気に掛(かゝ)る良人(をつと)の金策の話を此人にするのに、今日(けふ)は未(ま)だ余り早すぎると下臆病(したおくびやう)な心が思はせるので、それは心にしまつて居た。
 お照が出て来て、
『英さんがお先に失礼すると申して二階へ上(あが)りました。』
 と云つた。
『さう。あなたも今日(けふ)はくたびれたでせうね。』
『いいえ。そんな事があるものですか。』
 とお照は云つた。京女のその人は行(ゆき)届いた言葉で今度の礼を畑尾に云つて居た。
『また伺ひます。さやうなら。』
 何時(いつ)もの風で畑尾はだしぬけにかう云つて帰つた。
『姉(ねえ)さん、私はね、初め四月(よつき)程の不経済な暮しをして居ました事を思ひますと姉(ねえ)さんに済まなくつて済まなくつて、仕方がないのですよ。』
 お照は右の手首を左の手の掌(ひら)でぐりぐりと返しながら姉の顔を見て云つた。
『済んだことだわ。何とも思つて居やしませんよ。』
 余り聞きたく無い事であつたから鏡子は口早(くちばや)に云つてしまつた。
『榮子の薬代も随分かかりますしね。』
『さうでせう。さうでせう。』
 鏡子は少し自棄気味(やけぎみ)で云つた。
『榮子一人にどれだけお金の掛つたか知れませんよ。』
『あのう、巴里(パリイ)から一番おしまひに来た手紙は何時(いつ)でしたの。』
 と鏡子が云つた。
『十日(とうか)程前でしたかしら。』
『見せて頂戴な。』
『はい。』
 お照は本箱の上に載せた蝋色の箱の中から青い切手のはつた封筒の手紙を出した。手に取つて宛名を見ると、鏡子は思ひも及ばなかつた徴(かす)[#「徴(かす)」はママ]かな妬みの胸に湧くのを覚えたのであつた。
 子供達皆無事のよし、何事も皆お前様の深き心入(こゝろいれ)よりと嬉しく候。
 と書き出して、優しい言葉が多く書いてある。鏡子が巴里(パリイ)に居た頃、自身達の本国に居た頃より遥かに多く月々の費(かゝ)りが入(い)るのを知らせて来る妹の家計を、下手であると怒つては出すのも出すのも妹を叱る一方の手紙だつたのを、傍からもう少し優しくとか、もう少しどうかならないかと頼み抜いた自分が、傍に居ない日になると、他人の自分が居なくなると兄は妹にこんな手紙も書けるのであるとかう思ふと、鏡子は何とも知れぬ不快な心持になつた。鏡子も無事に日本へ帰るかどうかと心配がされると云ふやうな事もあるのであるが、良人(をつと)の愛に馴れた妻はこの位の事は嬉しいとも思はないのである。
『畑尾さんの処(ところ)へ来たと云ふ方が近いたよりなんですね。』
 鏡子は何気(なにげ)ない振(ふり)でかう云つて居た。
『私もう寝ませうかねえ。』
 とまた云つた鏡子の声は情なさうであつた。
『さうなさいまし。』
『おやすみなさい。』
 鏡子は寝室へ行つた。八畳の真中(まんなか)に都鳥(みやこどり)の模様のメリンスの鏡子の蒲団が敷かれてある、その右の横に三人の男の子の床(とこ)が並んで居て、左には瑞木と花木が寝て居る。若草の中の微風(そよかぜ)のやうな子等の寝息、鏡子のこがれ抜いたその春風に寝る事も鏡子にはやつぱり寂しく思はれた。良人(をつと)を置いて一人この人等の傍へ寝に帰らうとは、立つ前の夜(よ)の悲しい思ひの中でも決して決して鏡子は思はなかつたのであつた。ふとお照がもう五つ六つ年若(としわか)な女であつたなら、そしてあのやうな恐い顔でなかつたならせめて嬉しいであらうなどとこんな事も思ふのであつた。
 五時頃から滿と健はもう目を覚(さま)して、互いの床(とこ)の中から出す手や足を引張り合つたり、爆(は)ぜるやうな呼び声を立てたりして居た。鏡子は昨夜(ゆふべ)二三十分位(ぐらゐ)は眠れたが、それも思ひなしかも分らない程で朝になつたのである。六ケ月の寝台(ベツト)の寝ごこちから、畳の上に帰つた初めての夜(よ)の苦痛もあつたからであらう。
『母(かあ)さん、母(かあ)さん。』
 滿が呼んで見た。
『なあに。』
『母(かあ)さん、仏蘭西(ふらんす)の話をして頂戴よ。』
『して、して。』
 と健も云ふ。
『母(かあ)さん、話してい。』
 花木も云ふ。
『母(かあ)さん。』
 云はねば済まないやうに瑞木も云つた。
『狐(けえね)の母(かあ)さん、お乳(ちゝ)を飲ましてくえないか。』
 目を覚して晨も声を出した。
『何を云つてるの。』
『学校子供云ふの。』
 これは健の友達の弟がさう云つたと云ふ話を晨の聞き覚えた事なのである。
『母(かあ)さん、話してよう。』
 滿が云ふのに続いて皆が母(かあ)さん、母(かあ)さんと云ふ。
『母(かあ)さんは昨夜(ゆふべ)よく眠(ね)ないのでね、頭が痛いのよ。』
『さう。ぢやあいいや。』
 と滿は云つた。
『つまらないなあ。』
 と健は云ふ。好きでない気質の交つた子だと、鏡子は昔からの感情の改(あらたま)り難(がた)い事も健に思つたのであつた。隣の間で榮子の泣声(なきごゑ)がする。
『お湯が沸きましたよ。滿。』
 お照が甥を起(おこ)しに来た。
『あら、叔母さんがもう起きていらしやる。』
 鏡子が枕から頭(つむり)を上げようとするのを、お照は押(おさ)へるやうな手附をして、
『まあ、お休みなさいよ。』
 と云つた。滿と健はばたばたと床(とこ)を抜けて行つた。
『どうせ寝られないのだから。』
 都鳥(みやこどり)の居る紺青(こんじやう)の浪が大きく動いて鏡子は床(とこ)の上に起き上つた。
『昨晩はよくお休みなさいましたか。』
『ちつとも。』
 寝くたれ髪が長く垂れて少女(をとめ)のやうな後姿(うしろすがた)であつた。
『兄(にい)さんが余計お湯を使つちやつた。』
 健の泣き出したのを聞いてお照は洗面場(ば)の方へ行つた。榮子はまた声を張り上げて泣いた。
 鏡子は鏡の室(ま)から出て来て、
『お照さん、こんな結ひ様(やう)もあるのよ。』
 と云つて、頭(あたま)を其(その)方へ傾けて見せた。髪の根を下の方で束(たば)ねて、そしてその根も末の方も皆裏へ折り返して畳んでしまつてあるのである。
『さつぱりとして軽さうですね。』
『けれど尼様(あまさま)のやうに見える寂しい頭だつて良人(うち)は嫌ひなのよ。』
『さう云へばさうですね。昨日(きのふ)のになさいまし。』
『でもいいわ。今は尼様だわ。』
 頬(ほ)を少し赤めて彼方(あちら)へ行つた姉をお照は面白くなく思つて見送つた。
 男の子二人が、
『行つて参ります。』
 と云つて庭口(にはぐち)から出た後(あと)で外の家族は朝飯(あさげ)の膳に着いた。
『英さんのおみおつけが別にしてあつた。』
『さうですね。』
 お照が立つと、わあつと榮子が泣き出した。直(す)ぐ叔母は戻つて来て榮子を膝の上に上げて、
『どうしました。どうしました。お乳(ちゝ)を上げようね。』
 と云つて襟をくつろげた。榮子は小(ちいさ)い手を腹立たしげに入れて叔母の乳(ちゝ)を引き出して口に入れた。
『まあ乳(ちゝ)を飲むのですか。』
 と鏡子は云つたが、心は老いたる処女の心持の方が不可思議でならないのであつた。
『ええ。』
 お照はまた其(その)子に、
『母(かあ)さんのお乳(ちゝ)は真実(ほんとう)のお乳(ちゝ)よ、お貰ひなさいよ。』
 と云つた。
『いやだわ。』
 と鏡子は反撥的に云つた。そして、
『何故(なぜ)さうなのでせう。玉川の方でも乳(ちゝ)は一年限(ぎ)りで廃(よ)して居たのだつたのにね。』
 かう云ひながら末の出す赤い盆にてつせんの花の描(か)いた茶碗を載せた。
『さあ御飯を食べませう。』
 お照は乳房(ちぶさ)をもぎ放して榮子を下に置いた。また泣いて居たのを、
『ばつたりおだまり。』
 と叔母に云はれるのと一緒に声を飲んだ子がをかしくて鏡子は笑ひ出したく思つた。後(おく)れて来た花木が、
『あら、叔母さん嘘、お芋のおみおつけだと云つたのに。』
 と云つて汁椀の中を箸で掻き廻して居る。
『八つ頭と云つてこれもお芋ですよ。』
 と母親が云つた。
『叔母さんは嘘つきですとも。』
 と云つたお照は目に涙を溜めて居た。鏡子は京都者の軽い意味で云ふ横着と云ふ言葉が、東京者に悪い感じを与へるのと、東京の人が軽い意でちよくちよく嘘と云ふ言葉を遣ふのが京の人に不快を覚えさすのとは、一寸(ちよつと)説明した位(ぐらゐ)で分らない事だから、こんな時には黙つて居るより仕方がないと思つて居る。そしてこれからの困りやうが思ひ遣られるのであつたが、留守のうち、過去と云ふ事は思つて見たくなかつた。それでなくとも自分は彼方(あちら)に居た六ケ月の間、心の中で毎日子に跪(ひざまづ)いて罪を詫びない日はなかつたのであるからと思つて居た。榮子は御飯が熱いから厭(いや)、冷(つめた)いからいけないと三度程も替へさせてやつと食べにかゝつて居るのである。それは母を見ぬやうに目を閉(ふた)いで口を動(うごか)して居るのである。
『私を見るのが厭(いや)で目を閉(ふた)いで居るのね。』
『ふ、ふ。』
 とお照は笑つて、
『榮ちやん、好(い)い顔をなさいよ。あなたは真実(ほんとう)に可愛い表情をする人ぢやありませんか。』
 と云つて居た。
 書斎へ来て新聞を見ようとして、自身の事の出て居るのに気が附いた鏡子は、三四種の新聞を後(うしろ)の靜(しづか)の机の上へそのまゝ載せた。[#底本には「』」があるが除いた]
『お早う。』
 瑞木が挨拶に来た。花木も晨も来た。
『何故(なぜ)御挨拶に行(ゆ)けないのです。よくおしやべりをする口で。』
 お照の声が不意に書斎の隣で起つて、続いてぴしやり、ぴしやりと子の頭(かしら)を打つ音が鏡子に聞(きこ)[#ルビの「きこ」は底本では「こ」]えた。
『いやだあ、しない、しない。』
『これでもか、これでもですか。』
『しないのだ。いやだあ。』
 八頭(やつがしら)の芋を洗ふやうにお照は榮子の頭を畳に擦(す)りつけ擦(す)りつけして、そして茶の間へ出て襖子(ふすま)を閉めてしまつた。
『をばあさん。をばあさん。』
 榮子は有らん限りの泣声を立てゝ居る。鏡子は涙を零(こぼ)して居た。
『瑞木さんと花木さんの幼稚園へ行くのを、母さんは通(とほり)まで送つて上げよう。』
 鏡子は身を起してかう云つた。
『二人で行(ゆ)けるのよ。』
 端木が云つた。
『ぢやあ裏門まで。』
 末が赤いめりんすで包んだ双子(ふたご)の弁当を持つて来た。
『瑞木さん、花木さん、おはんけちの好(い)いのを上げませう。』[#底本では「』」は脱落]
 お照は二人のクリイム色の帯に白いはんけちを下げて遣つた。
『ありがたう。叔母さん。』
 瑞木が云ふと叔母は満足らしい笑(えみ)を見せて、
『いつていらつしやい。』
 と云つた。
『叔母さん、行つてまゐります。』
 二人は一緒にかう云つて庭口(にはぐち)から出て行つた。鏡子は二間(けん)程後(あと)から歩いて行(ゆ)くのであつた。車屋の角迄行(ゆ)くと、忘れて居るのであらうと思つて居た母親を見返つて、
『さよなら。』
 と二人は一緒に云つた。
『もう少し母(かあ)さんは行(ゆ)きませう。』
 二人はまた手を取つて歩き出したが、二三間(げん)先の曲角(まがりかど)でまた、
『さよなら。』
 と云つた。
『阪(さか)の処(ところ)まで行(ゆ)きますよ。』
 かう云つて随(つ)いて来る母親から次第に遠く離れて双子(ふたご)は急足(いそぎあし)で女子学院に添つた道を歩くのであつた。鏡子はお照を新橋から迎へて来て此処(こゝ)を歩いて居た時の自分の其(その)人に対する感情は純なものであつたなどゝ思ふ。けれど今だとてあの人を悪くは少しも思つて居ない。子供が俄かに母の手に帰つたので云ひ様(やう)もない寂寞を昨日(きのふ)からあの人は味(あぢは)つて居るのであるから、あゝした尖(とが)つた声で物を云つたり、可愛い榮子を打つたりするのである。さう同情して思ふから、一層この後(のち)があの人のためにも自分のためにも心配でならないと、こんな事を思つて居る鏡子は俯向(うつむ)き勝ちに歩(ほ)を運んで居た。何時(いつ)の間にか回生病院の前へ出た。
『さよなら。』
 今度は母の方から大きく云つた。
『さようなら。』
 双子(ふたご)は振返つて一寸(ちよつと)お辞儀をしたが、直(す)ぐ阪(さか)を駆けて降りやうとした。十間(けん)程先で二人はぱつと左右に分れた。そしてわつと泣き出した。鏡子がまだ阪(さか)の上に立つて居た事は云ふ迄もない。鏡子は転(ころ)ぶやうに子の傍へ行つた。二人を両手で同じ処に引き寄せた。鏡子はべつたり土に坐つて、親子三人は半年前の新橋の悲しい別れを今の事に思つて道端(みちばた)で声を放つて泣いたのであつた。小学生が四五人怪しさうにこれを見て通つた。
『母(かあ)さん、母(かあ)さん。』
 と絶えず云ふ瑞木の言葉の奥には行つちやあ厭(いや)と云ふ声が確かにあるのをもとより母は知つて居た。[#「底本では「。」は脱落]
『ぢやあ幼稚園まで送つて上げようね。』
 二人は泣きながら黙頭(うなづ)くのであつた。歩み出しても泣(なき)[#「なき」は底本では「ない」]じやくりが止まりさうにない。
『泣いては人が笑ひますよ。ねえ、母(かあ)さんはもう何処(どこ)へも行(ゆ)かずに家(うち)にばかり居るのだからいいでせう。』
 云ふと二人は何でも黙頭(うなづ)くのであるが泣声はますます高くなる。幼稚園の門で別れやうとすると、
『母(かあ)さう、母(かあ)さん。』
 とまた云ふ鏡子はお照の居ない家(うち)なら伴(つ)れて帰るものをと思ふのであつた。爺やに慰められても聞かず二人は母を廊下に上げて教場(けうぢやう)まで伴(つ)れて行つた。
『さあ、運動場(ば)へ行きませう、花木さんはお姉(ねえ)さんぢやありませんか。お姉(ねえ)さんが泣いてはをかしいですね。瑞木さんももう泣かないでせう。』
 保姆(ほぼ)に云はれて二人は泣きながらまた黙頭(うなづ)いて居た。
 悔恨の銀の色の錘(おもり)を胸に置かれた鏡子が庭口(にはぐち)から入つて行つた時、書斎の敷居の上に坐つて英也は新聞を見て居た。座敷の縁(えん)ではお照がまだ榮子に乳(ちゝ)を含ませて居た。
『おかヘり遊ばせ。』
『お早う御座います。寝坊をしてしまひました。』
 と云ふ英也にも口が利かれなくて、唯お辞儀をしただけで鏡子は花壇の傍へ走つて行つて、二人には後向(うしろむき)になつて葉鶏頭の先を指で叩いて居た。鏡子はふと晨坊はどうしたであらうと思つて胸を轟(とゞろ)がせた。今縁側の傍迄行つた時に、晨が書棚の横の五寸と一尺程のひこんだ隅に立つて居た事に気が附いたのである。
『晨坊、いらつしやい。』
 鏡子は縁側の処(ところ)へ寄つて行つた。
『なあに。』
 と晨の云つて居るのはやはり其(そ)の狭い処(ところ)からである。
『晨は何時(いつ)もあんな処(ところ)に入(はい)つて居るのですか。』
『そんなこともないんですがねえ。』
 とお照は云ふ。
『いらつしやい。』
 晨は赤い口唇(くちびる)を細く窄(すぼ)めながら母の手へ来た。鏡子はそれを肩に載せてまた花壇へ行つた。
『いいお花ね。』
 子に見せながら、この子をもう一人かうして出れば後(あと)には心残りがない。家(うち)へ帰りたい帰りたいと思つた家(いへ)と云ふものは実はこんなものなのかと思つた。
『英(ひで)さん、今日(けふ)はお出かけ。』
 かう快活な声で云つて暫くして鏡子は上ヘ上(あが)つて来た。
『さあ。』
『行つていらつしやい。展覧会へでもね。』
『さあ。』
『そんなに東京を見くびるものぢやないわ。私は昨日(きのふ)東京を見て感心しちやつたのよ。麹町は好(い)い所ぢやありませんか、ねえお照さん。』
『さうですね。京都より好(い)い処(ところ)もありますね。』
 今度はお照が極く滅入(めい)つた調子である。
『歌舞伎座の案内を頼むのに好(い)い人があるのですがね、勤めの身ですからね、今日(けふ)はだめだらうと思ふのですよ。』
 かう微笑(ほゝえ)みながら云ふ英也が、自分のよく知らない良人(をつと)の若盛(わかざか)りと云ふものの影ではないかなどと鏡子は一寸(ちよつと)思ふ。
『私、あなたが飲んでいらつしやるのを見るとまた煙草(たばこ)が飲みたくてならなくなるのよ。』
 鏡子は英也の横顔を眺めながら云つた。
『お飲みになればいいぢやありませんか。』
 さう云つて英也はアイリスを一本火鉢にかざした叔母の指に持たせた。
『折角よしたのですからね。』
 と鏡子は云つて居た。此人は甥であつても年下であつても、もう思想がちやんと出来上つて居る人で、自身などを叔母、叔母と云ふだけが最善の事をして居ると思つて居るに違ひないのであると、こんな事を鏡子が思つて居るうちに煙草(たばこ)は皆粉(こ)になつて灰の上に散つて居た。煙草(たばこ)に気が附いた時鏡子は好(い)い事をしたと思つた。廃(や)めた事をあんなに良人(をつと)から善(よろこ)ばれた煙草(たばこ)だからと、さう思ふのであるが水色の煙が鼻の前に靡(なび)くのを見ると堪(た)へ難くなつて座を立つた。
 昼飯(ひるはん)の時も榮子は目を閉(ふた)いで食べた。お照が叱ると、
『末とあべる。』
 と云ふ。
『母(かあ)さんが厭(いや)なの、他所(よそ)へ行つちまつたら好(い)いと思ふの。』
 鏡子が笑声(わらひごゑ)で云つた時、榮子は初めて目を開(あ)いて母を見て点頭(うなづ)いた。
『榮子は厭(いや)な人ね。母(かあ)さんは今日(けふ)鞄を開けたらもう一つ人形があるのだけれど、榮子はいらないこと。』
『欲しくないや。いらないや。』
 榮子は叔母の方を向いて低い声で云つた。
 一時頃に英也は出て行つた。鏡子はコロンボ以来の消息を良人(をつと)に書かうとして居た。畑尾が来た。畑尾は昨日(きのふ)彼方此方(あちらこちら)で聞いた鏡子の噂などを語るのであつたが、鏡子は此人が今に大阪訛(なまり)を忘れ得ないで居るのが、一層この人をなつかし味(み)のある人にするのであるやうに、お照は京言葉を使へば好(い)いではないか、女中困らしの彼方(あちら)の固有名詞は最も多く使つて居るのになどと思つて居た。お照が榮子を抱いて来た。
『甘(あま)うますわねえ。』
『ええ。』
 と云つて、お照はまた、
『此人は一番姉(ねえ)さんのお気質によく似て居るのでせうよ。何力(どちら)も強い者同志でびんと撥ねてるのですよ。』
 と云つた。
『あら、あんな事、私がそんなに強い人なものですか。ねえ畑尾さん。一人行つて一人帰るのがさう云つた人に見えるか知らないけれど、違ひますねえ、畑尾さん。まるでねえ、畑尾さん。』
 訴へるやうに畑尾を見て云つた。畑尾は口を半(なかば)開(あ)けて、頬(ほゝ)をむごむごさせて限りもなく気の毒に思ふと云ふ表情を見せた。
『それでもねえ。』
 と未(ま)だお照は云つて居た。榮子の眉と目の間、高い鼻、口元がお照に似て居ると云ふ事も鏡子は云ひ出すのに遠慮をして居る自分とは違つた気強(きづよ)い人を恨めしく思つた、畑尾はそこそこに帰つて行つた。瑞木と花木が朝の涙などは跡方(あとかた)もない顔して帰つて来た。滿と健も帰つて来た。何と思つたか健が手紙を涙を零(こぼ)しながら書いて居る母の傍へ来て、
『母(かあ)さん、何時(いつ)迄も生きて居て頂戴よ。え、母(かあ)さん。』
 と云つた。
『母(かあ)さん所(とこ)へ行つていらつしやいよう。いらつしやいてばよう。』
 癇走(かんばし)つた声が打叩きする音に交つて頻(しきり)に聞(きこ)える。鏡子は立つて行(ゆ)かうとしてまた思ひ返して筆をとつた。
『榮子なんか駄目だ。馬鹿。威張(ゐば)つたつて駄目だよ。兄(あに)さんを撲(ぶ)つたりしてももう聞かないよ。』
 滿の罵(のゝし)る声がしたかはたれ時(どき)に、鏡子は茶の間へ出て行(ゆ)くと、お照は四畳半で榮子をじつとじつと抱(いだ)いて居た。(終り)



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