帰つてから
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■暇つぶし何某■

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著者名:与謝野晶子 

 顔も声もこれは最も変つて居なかつた。鏡子は意識もなしに先刻(さつき)から時々其(その)人に物を云つて居た黒目鏡(めがね)が南の夏子であることに漸く気が附いて来た。
『お変りなくつて、南さんもね。』
『南も参るので御座いますがね、どうしても出なければならない講義がありましてね、私ばかり参りましたの、[#「、」は底本では脱落]皆様が大(おほ)よろこびで大変で御座いましたの、奥様まあおめでたう御座います。』
 静かにではあるがかう続けざまに夏子は云つた。
『一寸(ちよつと)お写真を取らして戴きます。』
 先刻(さつき)同車して来た記者は写真師を伴(つ)れて来た。
『困るわ、私まだ顔も洗はないのだから。』
 鏡子はお照に云ふともなく記者に云ふともなく云つて、夏子の肩に手を掛けて顔を蔭へ隠すやうにした。
『ねえ、かうしてね。』
 小声(こごゑ)で云つた。
『困つてしまひますね。』
 夏子は写真師に聞(きこ)えるやうな声で云つた。お照は鏡子の窶(やつ)れた横顔を身も慄(ふる)ふ程寒く思つて見て居た。
 改札口の所には平井夫婦、外山(とやま)文学士などと云ふ鏡子の知合(しりあひ)が来て居た、靜の弟子で株式取引所の書記をして居る大塚も来て居た。十年余り前に靜と鏡子が渋谷で新(しん)世帯を持つた頃に逢つた限(き)り逢はない昔馴染(なぢみ)の小原(をはら)も来て居た。鏡子の帰朝の不意だつたこと、ともかくも衰弱の少(すくな)く見えるので嬉しいと云ふことなどが皆の口から出た。鏡子は自身でも歯痒(がゆ)く思ふやうなぐずぐずした挨拶をして居たが、急に晴やかな声を出して、
『平井さんの小説が大層評判が好(い)いさうですね。』
 と云つた。
『此頃は無暗(むやみ)に書きたいのですよ。』
 平井は微笑(ほゝえ)みながら云つた。その人の妻は口を覆ふて笑ふて居た。
『車を持つて来させて御座います。』
 清は鏡子を車寄せの方へ導いて行つた。旅客(りよかく)は怪しむ様に目をこの三十女(さんじうをんな)に寄せた。
『滿がね、私の事を叔母さん叔母さんと間違へて云ふのですよ。』
 車に乗らうとして横に居た外山にかう云つた鏡子の言葉尻はおろおろと曇つて居た。
『ああ、さうですか。』
 外山は満面に笑(ゑみ)を湛(たゝ)へて云つて居た。瑞木が鏡子の前へ乗つた。花木も乗りたさうな顔をして居たのであつたが後(うしろ)の叔母の車に居た。瑞木を膝に乗せた車が麹町へ上(あが)つて行(ゆ)く。こんな空想を西洋に居た時に何度鏡子はした事か知れない。滿、瑞木、健、花木、晨、榮子と云ふ順に気にかゝるとは何時(いつ)も鏡子が良人(をつと)に云つて居た事で、瑞木は双子(ふたご)の妹になつて居るのであるが、身体(からだ)も大きいし、脳の発達も早くから勝(すぐ)れて居たから両親には長女として思はれて居るのである。容貌(きれう)も好(い)い。赤ん坊の時から二人の女中が瑞木の方を抱きたいと云つて喧嘩をしたりなどもした。鏡子はまた子供の中で自身の通りの目をしたのは瑞木だけであると思ふから、永久と云ふ相続さるゝ生命は明らさまに瑞木に宿つて居るやうにも思ふのである。どうしても今日(けふ)母に抱かれる初めの人は瑞木でなければならないのであつた。
『お悧口(りこう)にして居た。』
 女(むすめ)の顔を上から覗(のぞ)き込んで鏡子が云つた。
『ええ。』
 瑞木は不安らしくかう云つたのである。大きい目には涙が溜(たま)つて居る。それを見ると鏡子も悲しくなつて来た。汽車から持つて出た氷を包んだタオルはこの時まだ大事さうに鏡子の手に持たれて居たので、指ににじむその雫(しづく)を冷(つめた)く思つたのは十月の末(すゑ)の日比谷の寂しい木立の中を車の進む時であつた。
『兄(にい)さん、お父(とう)様の帰る時は僕も神戸へ行くよ。』
『伴(つ)れて行つて上げるよ。』
『兄(にい)さんに伴(つ)れて行つて貰はないでも母(かあ)さんと行(ゆ)くのだよ。』
『ぢやあ行(ゆ)きなさいよ。僕なんかもうこれから君と一緒に学校へ行(ゆ)かない。何時(いつ)でも先行つちまふから好(い)い。』
『いやあ、兄(にい)さん。』
『およしなさいよ。ぎやあの大将。』
 二番目の車に居る二人は三宅阪を曲(まが)る時にこんな争ひをして居た。麹町の通(とほり)から市ケ谷へ附いた新開の道を通る時、鏡子は立つ前の一月(ひとつき)程この道を通つて湯屋へ子供達を伴(つ)れて行く度に、やがて来る日の悲しさが思はれて胸がいつぱいになつた事などの思ひ出が氷の雫(しづく)と同じやうに心からしみ出すのを覚えた。其(その)事を云つて巴里(パリイ)でかこつた相手の事も思ひ出される。車屋の角を曲(まが)るともう美阪家(みさかけ)の勝手の門が見えた。
『ををばあさあん。』
 と大きい声で云つて居るのが塀越(ご)しに聞(きこ)えた。同じ節で同じ事を云ふ低い声も聞(きこ)える。大きいのが女の子の声で低いのが男の子の声である。この刹那(せつな)に鏡子はお照から来た何時(いつか)の手紙にも榮が可愛くなつたとばかり書いてあつて、[#「、」は底本では「。」]ついぞ晨の事の無かつたのと、自身が抱かうとすると反(そ)りかへつて、
『いやだあい。』
 と幾度も繰り返した榮子の気の強さを思つて、其(その)子が叔母の愛の前に幅を拡(ひろ)げて晨は陰の者になつて居るのではないかと胸が轟(とゞろ)いた。早く晨を抱いて遣らねばならないと思はず鏡子の身体(からだ)は前へ出た。
『おかへりい。』
 門の戸は重い音を立てゝ開(あ)けられた。瑞木を車夫が下へ降(おろ)すのと一緒に鏡子は転(ころ)ぶやうにして門をくゞつた。
 玄関の板間(いたのま)に晨は伏目(ふしめ)に首を振りながら微笑(ほゝゑ)んで立つて居た。榮子は青味の多い白眼勝(がち)の眼で母をじろと見て、口を曲(ゆが)めた儘障子に身を隠した。格別大きくなつて居るやうではなかつた。晨は三寸程は確かに大きくなつたと思はれるのであつた。円顔の十七八の女中も出て来て居た。
『晨坊さん。』
 母のかう云ふのを聞いて、晨は筒袖の手を鉄砲のやうに前へ出して、そして口を小(ちいさ)くすぼめて奥へ走つて入つた。
『抱つこしませう。晨坊さん。』
 鏡子は晨を追つて家へ上(あが)つたのであつた。座敷から其(その)次をかう走り廻るのが鏡子に面白かつた。
 白い菊と黄な菊と桃色のダリヤの間に葉鶏頭は黒味のある紅色をして七八本も立つて居る。[#「。」は底本では脱落]やもめのやうな白いコスモスも一本ある。それを覆ふて居る大きい木は月桂樹の葉見たやうな、葉の大きい樹(き)で珊瑚のやうな、赤い実が葉の根に総て附いて居る。新嘉坡(しんがぽうる)、香港(ほんこん)などで夏花(なつばな)の盛りに逢つて来た鏡子は、この草や木を見て、東の極(はて)のつゝましい国に帰つて来たと云ふ寂しみを感じぬでもなかつた。
『よく花がついたのね。』
『ええ。』
 お照は嬉しさうに云つた。
『清さんや英(ひで)さんは車ぢやなかつたの。』
『さうなんでせうね。姉(ねえ)さん、お召替(めしかへ)を遊ばせ。』
『はあ。私ね、けどね、此儘であなたに一度お礼をよく云つてしまはなければ。』
『云つて頂かないでも結構ですわ。』
 お照が次の六畳へ行つた。鏡子は書斎の障子を懐しげに見入つて居た。
 六畳へ入(はい)つて着物を替へやうとしながら鏡子は辺(あた)りを見廻して、
『お照さん、真実(ほんとう)に難有(ありがた)うよ。何もかもよくこんなにきちんとして置いて下すつたのね。』
 畳も新しくて清々(すが/\)しいのである。
『姉(ねえ)さんは真実(ほんとう)にお窶(やつ)れになりましたのね。』
 お照は先刻(さつき)から云ひたくてならなかつたと云ふやうに云つた。
『真実(ほんとう)ね。あらこんな襟買つとつて下すつたの、いいわね、けれどをかしいでせう。印度洋で焼けて来た顔だもの。』
 鏡子は平常着(ふだんぎ)の銘仙に重ねられた紫地の水色の大きい菊のある襟を合せながら云つた。
『早くもとの通りにおなりなさいね。』
『何だかもう硼酸(ほうさん)で洗つたりする勇気もないわ。』
『そんなこと。』
『私まだ顔を洗はないのよ。』
『さうでしたね。直(す)ぐ湯を沸かさせませう。』
 鏡子はこんなに睦まじく話す人が家の中にある事を涙の零(こぼ)れる程嬉しく思ふのであつた。小紋の羽織の紐を結ぶと直(す)ぐ鏡子は鏡のある四畳半へ行かうとした。茶の間を通つた時、やつぱり我家(わがいへ)と云ふものは嬉しい処であるとこんな気分に鏡子はなつた。もう余程影の薄いものになつて居たやうなあるものが、実はさうでもない事が分つて来たのである。鏡の前へ一寸(ちよつと)嘘坐(うそずわ)りして中を覗(のぞ)くと、今の紫の襟が黒くなつた顔の傍に、見得(みえ)を切つた役者のやうに光つて居た。良人(をつと)が居ないのだからと鏡子は不快な投(なげ)やり心(ごゝろ)を起(おこ)して立つた。巴里(パリイ)の家の大きな三つの姿見に毎日半襟と着物のつりあひを気にして写し抜いた事などが醜い女の妬(ねた)みのやうに胸を刺すのであつた。
 書斎の靜の机の上も鏡子のも綺麗に片附いて居て、書棚の硝子戸にも曇り一つ残つて居なかつた。小菊が床(とこ)に挿してある。掛けたあの人の銀短冊の箔(はく)の黒くなつたのが自身の上に来た凋落と同じ悲しいものと思つて鏡子は眺めて[#「眺めて」は底本では「眺めた」]居た。門の開(あ)く音がして、それから清と英也が庭口から廻つて来、畑尾と夏子が玄関から上(あが)つて来た。
 新聞記者の二三人が来て帰つた後(あと)で清とお照は相談をひそひそとして居たが、それから清はお照の持つて来た硯で、紙にお逢ひ致さず候(さふらふ)と書いた。それをお照が御飯粒で玄関の外へ張つた。これで大(だい)安心が出来たと云ふ風にお照は書斎へ行つた。
『姉(ねえ)さん、兄(にい)さんがさう云ひましてね、お逢ひ致さず候(さふらふ)と書いて玄関へ張つたのですよ。もう安心ですわ。あんなに詰めかけて来ると外(ほか)の者がひやひやするのですもの、巴里(パリイ)の兄(にい)さんもそれが案じられると云つて居(を)られるのですからね。』
『お照さん、巴里(パリイ)から私に手紙が来て居ないこと。』
『いいえ。』
『さうですか。』
『もう家(うち)へも参る頃なんですよ。』
『私は来て居るだらうとばかり思つてたわ。』
 鏡子は情(なさけ)なささうに云つて、□(おとがひ)をべたりと襟に附けて、口笛を吹くやうな口をして吐息(といき)をした。お照が何(なに)と云つて慰めたものかと思つて居ると、俄に鏡子が、

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◇暇つぶし何某◇

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