帰つてから
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著者名:与謝野晶子 

『泣いては人が笑ひますよ。ねえ、母(かあ)さんはもう何処(どこ)へも行(ゆ)かずに家(うち)にばかり居るのだからいいでせう。』
 云ふと二人は何でも黙頭(うなづ)くのであるが泣声はますます高くなる。幼稚園の門で別れやうとすると、
『母(かあ)さう、母(かあ)さん。』
 とまた云ふ鏡子はお照の居ない家(うち)なら伴(つ)れて帰るものをと思ふのであつた。爺やに慰められても聞かず二人は母を廊下に上げて教場(けうぢやう)まで伴(つ)れて行つた。
『さあ、運動場(ば)へ行きませう、花木さんはお姉(ねえ)さんぢやありませんか。お姉(ねえ)さんが泣いてはをかしいですね。瑞木さんももう泣かないでせう。』
 保姆(ほぼ)に云はれて二人は泣きながらまた黙頭(うなづ)いて居た。
 悔恨の銀の色の錘(おもり)を胸に置かれた鏡子が庭口(にはぐち)から入つて行つた時、書斎の敷居の上に坐つて英也は新聞を見て居た。座敷の縁(えん)ではお照がまだ榮子に乳(ちゝ)を含ませて居た。
『おかヘり遊ばせ。』
『お早う御座います。寝坊をしてしまひました。』
 と云ふ英也にも口が利かれなくて、唯お辞儀をしただけで鏡子は花壇の傍へ走つて行つて、二人には後向(うしろむき)になつて葉鶏頭の先を指で叩いて居た。鏡子はふと晨坊はどうしたであらうと思つて胸を轟(とゞろ)がせた。今縁側の傍迄行つた時に、晨が書棚の横の五寸と一尺程のひこんだ隅に立つて居た事に気が附いたのである。
『晨坊、いらつしやい。』
 鏡子は縁側の処(ところ)へ寄つて行つた。
『なあに。』
 と晨の云つて居るのはやはり其(そ)の狭い処(ところ)からである。
『晨は何時(いつ)もあんな処(ところ)に入(はい)つて居るのですか。』
『そんなこともないんですがねえ。』
 とお照は云ふ。
『いらつしやい。』
 晨は赤い口唇(くちびる)を細く窄(すぼ)めながら母の手へ来た。鏡子はそれを肩に載せてまた花壇へ行つた。
『いいお花ね。』
 子に見せながら、この子をもう一人かうして出れば後(あと)には心残りがない。家(うち)へ帰りたい帰りたいと思つた家(いへ)と云ふものは実はこんなものなのかと思つた。
『英(ひで)さん、今日(けふ)はお出かけ。』
 かう快活な声で云つて暫くして鏡子は上ヘ上(あが)つて来た。
『さあ。』
『行つていらつしやい。展覧会へでもね。』
『さあ。』
『そんなに東京を見くびるものぢやないわ。私は昨日(きのふ)東京を見て感心しちやつたのよ。麹町は好(い)い所ぢやありませんか、ねえお照さん。』
『さうですね。京都より好(い)い処(ところ)もありますね。』
 今度はお照が極く滅入(めい)つた調子である。
『歌舞伎座の案内を頼むのに好(い)い人があるのですがね、勤めの身ですからね、今日(けふ)はだめだらうと思ふのですよ。』
 かう微笑(ほゝえ)みながら云ふ英也が、自分のよく知らない良人(をつと)の若盛(わかざか)りと云ふものの影ではないかなどと鏡子は一寸(ちよつと)思ふ。
『私、あなたが飲んでいらつしやるのを見るとまた煙草(たばこ)が飲みたくてならなくなるのよ。』
 鏡子は英也の横顔を眺めながら云つた。
『お飲みになればいいぢやありませんか。』
 さう云つて英也はアイリスを一本火鉢にかざした叔母の指に持たせた。
『折角よしたのですからね。』
 と鏡子は云つて居た。此人は甥であつても年下であつても、もう思想がちやんと出来上つて居る人で、自身などを叔母、叔母と云ふだけが最善の事をして居ると思つて居るに違ひないのであると、こんな事を鏡子が思つて居るうちに煙草(たばこ)は皆粉(こ)になつて灰の上に散つて居た。煙草(たばこ)に気が附いた時鏡子は好(い)い事をしたと思つた。廃(や)めた事をあんなに良人(をつと)から善(よろこ)ばれた煙草(たばこ)だからと、さう思ふのであるが水色の煙が鼻の前に靡(なび)くのを見ると堪(た)へ難くなつて座を立つた。
 昼飯(ひるはん)の時も榮子は目を閉(ふた)いで食べた。お照が叱ると、
『末とあべる。』
 と云ふ。
『母(かあ)さんが厭(いや)なの、他所(よそ)へ行つちまつたら好(い)いと思ふの。』
 鏡子が笑声(わらひごゑ)で云つた時、榮子は初めて目を開(あ)いて母を見て点頭(うなづ)いた。
『榮子は厭(いや)な人ね。母(かあ)さんは今日(けふ)鞄を開けたらもう一つ人形があるのだけれど、榮子はいらないこと。』
『欲しくないや。いらないや。』
 榮子は叔母の方を向いて低い声で云つた。
 一時頃に英也は出て行つた。鏡子はコロンボ以来の消息を良人(をつと)に書かうとして居た。畑尾が来た。畑尾は昨日(きのふ)彼方此方(あちらこちら)で聞いた鏡子の噂などを語るのであつたが、鏡子は此人が今に大阪訛(なまり)を忘れ得ないで居るのが、一層この人をなつかし味(み)のある人にするのであるやうに、お照は京言葉を使へば好(い)いではないか、女中困らしの彼方(あちら)の固有名詞は最も多く使つて居るのになどと思つて居た。お照が榮子を抱いて来た。
『甘(あま)うますわねえ。』
『ええ。』
 と云つて、お照はまた、
『此人は一番姉(ねえ)さんのお気質によく似て居るのでせうよ。何力(どちら)も強い者同志でびんと撥ねてるのですよ。』
 と云つた。
『あら、あんな事、私がそんなに強い人なものですか。ねえ畑尾さん。一人行つて一人帰るのがさう云つた人に見えるか知らないけれど、違ひますねえ、畑尾さん。まるでねえ、畑尾さん。』
 訴へるやうに畑尾を見て云つた。畑尾は口を半(なかば)開(あ)けて、頬(ほゝ)をむごむごさせて限りもなく気の毒に思ふと云ふ表情を見せた。
『それでもねえ。』
 と未(ま)だお照は云つて居た。榮子の眉と目の間、高い鼻、口元がお照に似て居ると云ふ事も鏡子は云ひ出すのに遠慮をして居る自分とは違つた気強(きづよ)い人を恨めしく思つた、畑尾はそこそこに帰つて行つた。瑞木と花木が朝の涙などは跡方(あとかた)もない顔して帰つて来た。滿と健も帰つて来た。何と思つたか健が手紙を涙を零(こぼ)しながら書いて居る母の傍へ来て、
『母(かあ)さん、何時(いつ)迄も生きて居て頂戴よ。え、母(かあ)さん。』
 と云つた。
『母(かあ)さん所(とこ)へ行つていらつしやいよう。いらつしやいてばよう。』
 癇走(かんばし)つた声が打叩きする音に交つて頻(しきり)に聞(きこ)える。鏡子は立つて行(ゆ)かうとしてまた思ひ返して筆をとつた。
『榮子なんか駄目だ。馬鹿。威張(ゐば)つたつて駄目だよ。兄(あに)さんを撲(ぶ)つたりしてももう聞かないよ。』
 滿の罵(のゝし)る声がしたかはたれ時(どき)に、鏡子は茶の間へ出て行(ゆ)くと、お照は四畳半で榮子をじつとじつと抱(いだ)いて居た。(終り)



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