帰つてから
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著者名:与謝野晶子 

 と云つたお照は目に涙を溜めて居た。鏡子は京都者の軽い意味で云ふ横着と云ふ言葉が、東京者に悪い感じを与へるのと、東京の人が軽い意でちよくちよく嘘と云ふ言葉を遣ふのが京の人に不快を覚えさすのとは、一寸(ちよつと)説明した位(ぐらゐ)で分らない事だから、こんな時には黙つて居るより仕方がないと思つて居る。そしてこれからの困りやうが思ひ遣られるのであつたが、留守のうち、過去と云ふ事は思つて見たくなかつた。それでなくとも自分は彼方(あちら)に居た六ケ月の間、心の中で毎日子に跪(ひざまづ)いて罪を詫びない日はなかつたのであるからと思つて居た。榮子は御飯が熱いから厭(いや)、冷(つめた)いからいけないと三度程も替へさせてやつと食べにかゝつて居るのである。それは母を見ぬやうに目を閉(ふた)いで口を動(うごか)して居るのである。
『私を見るのが厭(いや)で目を閉(ふた)いで居るのね。』
『ふ、ふ。』
 とお照は笑つて、
『榮ちやん、好(い)い顔をなさいよ。あなたは真実(ほんとう)に可愛い表情をする人ぢやありませんか。』
 と云つて居た。
 書斎へ来て新聞を見ようとして、自身の事の出て居るのに気が附いた鏡子は、三四種の新聞を後(うしろ)の靜(しづか)の机の上へそのまゝ載せた。[#底本には「』」があるが除いた]
『お早う。』
 瑞木が挨拶に来た。花木も晨も来た。
『何故(なぜ)御挨拶に行(ゆ)けないのです。よくおしやべりをする口で。』
 お照の声が不意に書斎の隣で起つて、続いてぴしやり、ぴしやりと子の頭(かしら)を打つ音が鏡子に聞(きこ)[#ルビの「きこ」は底本では「こ」]えた。
『いやだあ、しない、しない。』
『これでもか、これでもですか。』
『しないのだ。いやだあ。』
 八頭(やつがしら)の芋を洗ふやうにお照は榮子の頭を畳に擦(す)りつけ擦(す)りつけして、そして茶の間へ出て襖子(ふすま)を閉めてしまつた。
『をばあさん。をばあさん。』
 榮子は有らん限りの泣声を立てゝ居る。鏡子は涙を零(こぼ)して居た。
『瑞木さんと花木さんの幼稚園へ行くのを、母さんは通(とほり)まで送つて上げよう。』
 鏡子は身を起してかう云つた。
『二人で行(ゆ)けるのよ。』
 端木が云つた。
『ぢやあ裏門まで。』
 末が赤いめりんすで包んだ双子(ふたご)の弁当を持つて来た。
『瑞木さん、花木さん、おはんけちの好(い)いのを上げませう。』[#底本では「』」は脱落]
 お照は二人のクリイム色の帯に白いはんけちを下げて遣つた。
『ありがたう。叔母さん。』
 瑞木が云ふと叔母は満足らしい笑(えみ)を見せて、
『いつていらつしやい。』
 と云つた。
『叔母さん、行つてまゐります。』
 二人は一緒にかう云つて庭口(にはぐち)から出て行つた。鏡子は二間(けん)程後(あと)から歩いて行(ゆ)くのであつた。車屋の角迄行(ゆ)くと、忘れて居るのであらうと思つて居た母親を見返つて、
『さよなら。』
 と二人は一緒に云つた。
『もう少し母(かあ)さんは行(ゆ)きませう。』
 二人はまた手を取つて歩き出したが、二三間(げん)先の曲角(まがりかど)でまた、
『さよなら。』
 と云つた。
『阪(さか)の処(ところ)まで行(ゆ)きますよ。』
 かう云つて随(つ)いて来る母親から次第に遠く離れて双子(ふたご)は急足(いそぎあし)で女子学院に添つた道を歩くのであつた。鏡子はお照を新橋から迎へて来て此処(こゝ)を歩いて居た時の自分の其(その)人に対する感情は純なものであつたなどゝ思ふ。けれど今だとてあの人を悪くは少しも思つて居ない。子供が俄かに母の手に帰つたので云ひ様(やう)もない寂寞を昨日(きのふ)からあの人は味(あぢは)つて居るのであるから、あゝした尖(とが)つた声で物を云つたり、可愛い榮子を打つたりするのである。さう同情して思ふから、一層この後(のち)があの人のためにも自分のためにも心配でならないと、こんな事を思つて居る鏡子は俯向(うつむ)き勝ちに歩(ほ)を運んで居た。何時(いつ)の間にか回生病院の前へ出た。
『さよなら。』
 今度は母の方から大きく云つた。
『さようなら。』
 双子(ふたご)は振返つて一寸(ちよつと)お辞儀をしたが、直(す)ぐ阪(さか)を駆けて降りやうとした。十間(けん)程先で二人はぱつと左右に分れた。そしてわつと泣き出した。鏡子がまだ阪(さか)の上に立つて居た事は云ふ迄もない。鏡子は転(ころ)ぶやうに子の傍へ行つた。二人を両手で同じ処に引き寄せた。鏡子はべつたり土に坐つて、親子三人は半年前の新橋の悲しい別れを今の事に思つて道端(みちばた)で声を放つて泣いたのであつた。小学生が四五人怪しさうにこれを見て通つた。
『母(かあ)さん、母(かあ)さん。』
 と絶えず云ふ瑞木の言葉の奥には行つちやあ厭(いや)と云ふ声が確かにあるのをもとより母は知つて居た。[#「底本では「。」は脱落]
『ぢやあ幼稚園まで送つて上げようね。』
 二人は泣きながら黙頭(うなづ)くのであつた。歩み出しても泣(なき)[#「なき」は底本では「ない」]じやくりが止まりさうにない。
『泣いては人が笑ひますよ。ねえ、母(かあ)さんはもう何処(どこ)へも行(ゆ)かずに家(うち)にばかり居るのだからいいでせう。』
 云ふと二人は何でも黙頭(うなづ)くのであるが泣声はますます高くなる。幼稚園の門で別れやうとすると、
『母(かあ)さう、母(かあ)さん。』
 とまた云ふ鏡子はお照の居ない家(うち)なら伴(つ)れて帰るものをと思ふのであつた。爺やに慰められても聞かず二人は母を廊下に上げて教場(けうぢやう)まで伴(つ)れて行つた。
『さあ、運動場(ば)へ行きませう、花木さんはお姉(ねえ)さんぢやありませんか。お姉(ねえ)さんが泣いてはをかしいですね。瑞木さんももう泣かないでせう。』
 保姆(ほぼ)に云はれて二人は泣きながらまた黙頭(うなづ)いて居た。
 悔恨の銀の色の錘(おもり)を胸に置かれた鏡子が庭口(にはぐち)から入つて行つた時、書斎の敷居の上に坐つて英也は新聞を見て居た。座敷の縁(えん)ではお照がまだ榮子に乳(ちゝ)を含ませて居た。
『おかヘり遊ばせ。』
『お早う御座います。寝坊をしてしまひました。』
 と云ふ英也にも口が利かれなくて、唯お辞儀をしただけで鏡子は花壇の傍へ走つて行つて、二人には後向(うしろむき)になつて葉鶏頭の先を指で叩いて居た。鏡子はふと晨坊はどうしたであらうと思つて胸を轟(とゞろ)がせた。今縁側の傍迄行つた時に、晨が書棚の横の五寸と一尺程のひこんだ隅に立つて居た事に気が附いたのである。
『晨坊、いらつしやい。』
 鏡子は縁側の処(ところ)へ寄つて行つた。
『なあに。』
 と晨の云つて居るのはやはり其(そ)の狭い処(ところ)からである。
『晨は何時(いつ)もあんな処(ところ)に入(はい)つて居るのですか。』
『そんなこともないんですがねえ。』
 とお照は云ふ。
『いらつしやい。』
 晨は赤い口唇(くちびる)を細く窄(すぼ)めながら母の手へ来た。鏡子はそれを肩に載せてまた花壇へ行つた。
『いいお花ね。』
 子に見せながら、この子をもう一人かうして出れば後(あと)には心残りがない。家(うち)へ帰りたい帰りたいと思つた家(いへ)と云ふものは実はこんなものなのかと思つた。
『英(ひで)さん、今日(けふ)はお出かけ。』
 かう快活な声で云つて暫くして鏡子は上ヘ上(あが)つて来た。
『さあ。』
『行つていらつしやい。展覧会へでもね。』
『さあ。』
『そんなに東京を見くびるものぢやないわ。私は昨日(きのふ)東京を見て感心しちやつたのよ。麹町は好(い)い所ぢやありませんか、ねえお照さん。』
『さうですね。京都より好(い)い処(ところ)もありますね。』
 今度はお照が極く滅入(めい)つた調子である。
『歌舞伎座の案内を頼むのに好(い)い人があるのですがね、勤めの身ですからね、今日(けふ)はだめだらうと思ふのですよ。』
 かう微笑(ほゝえ)みながら云ふ英也が、自分のよく知らない良人(をつと)の若盛(わかざか)りと云ふものの影ではないかなどと鏡子は一寸(ちよつと)思ふ。
『私、あなたが飲んでいらつしやるのを見るとまた煙草(たばこ)が飲みたくてならなくなるのよ。』
 鏡子は英也の横顔を眺めながら云つた。
『お飲みになればいいぢやありませんか。』
 さう云つて英也はアイリスを一本火鉢にかざした叔母の指に持たせた。
『折角よしたのですからね。』
 と鏡子は云つて居た。此人は甥であつても年下であつても、もう思想がちやんと出来上つて居る人で、自身などを叔母、叔母と云ふだけが最善の事をして居ると思つて居るに違ひないのであると、こんな事を鏡子が思つて居るうちに煙草(たばこ)は皆粉(こ)になつて灰の上に散つて居た。煙草(たばこ)に気が附いた時鏡子は好(い)い事をしたと思つた。廃(や)めた事をあんなに良人(をつと)から善(よろこ)ばれた煙草(たばこ)だからと、さう思ふのであるが水色の煙が鼻の前に靡(なび)くのを見ると堪(た)へ難くなつて座を立つた。
 昼飯(ひるはん)の時も榮子は目を閉(ふた)いで食べた。お照が叱ると、
『末とあべる。』
 と云ふ。
『母(かあ)さんが厭(いや)なの、他所(よそ)へ行つちまつたら好(い)いと思ふの。』
 鏡子が笑声(わらひごゑ)で云つた時、榮子は初めて目を開(あ)いて母を見て点頭(うなづ)いた。
『榮子は厭(いや)な人ね。母(かあ)さんは今日(けふ)鞄を開けたらもう一つ人形があるのだけれど、榮子はいらないこと。』
『欲しくないや。いらないや。』
 榮子は叔母の方を向いて低い声で云つた。
 一時頃に英也は出て行つた。鏡子はコロンボ以来の消息を良人(をつと)に書かうとして居た。畑尾が来た。畑尾は昨日(きのふ)彼方此方(あちらこちら)で聞いた鏡子の噂などを語るのであつたが、鏡子は此人が今に大阪訛(なまり)を忘れ得ないで居るのが、一層この人をなつかし味(み)のある人にするのであるやうに、お照は京言葉を使へば好(い)いではないか、女中困らしの彼方(あちら)の固有名詞は最も多く使つて居るのになどと思つて居た。お照が榮子を抱いて来た。
『甘(あま)うますわねえ。』
『ええ。』
 と云つて、お照はまた、
『此人は一番姉(ねえ)さんのお気質によく似て居るのでせうよ。何力(どちら)も強い者同志でびんと撥ねてるのですよ。』
 と云つた。
『あら、あんな事、私がそんなに強い人なものですか。ねえ畑尾さん。一人行つて一人帰るのがさう云つた人に見えるか知らないけれど、違ひますねえ、畑尾さん。まるでねえ、畑尾さん。』
 訴へるやうに畑尾を見て云つた。畑尾は口を半(なかば)開(あ)けて、頬(ほゝ)をむごむごさせて限りもなく気の毒に思ふと云ふ表情を見せた。
『それでもねえ。』
 と未(ま)だお照は云つて居た。榮子の眉と目の間、高い鼻、口元がお照に似て居ると云ふ事も鏡子は云ひ出すのに遠慮をして居る自分とは違つた気強(きづよ)い人を恨めしく思つた、畑尾はそこそこに帰つて行つた。瑞木と花木が朝の涙などは跡方(あとかた)もない顔して帰つて来た。滿と健も帰つて来た。何と思つたか健が手紙を涙を零(こぼ)しながら書いて居る母の傍へ来て、
『母(かあ)さん、何時(いつ)迄も生きて居て頂戴よ。え、母(かあ)さん。』
 と云つた。
『母(かあ)さん所(とこ)へ行つていらつしやいよう。いらつしやいてばよう。』
 癇走(かんばし)つた声が打叩きする音に交つて頻(しきり)に聞(きこ)える。鏡子は立つて行(ゆ)かうとしてまた思ひ返して筆をとつた。
『榮子なんか駄目だ。馬鹿。威張(ゐば)つたつて駄目だよ。兄(あに)さんを撲(ぶ)つたりしてももう聞かないよ。』
 滿の罵(のゝし)る声がしたかはたれ時(どき)に、鏡子は茶の間へ出て行(ゆ)くと、お照は四畳半で榮子をじつとじつと抱(いだ)いて居た。(終り)



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