好色
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著者名:芥川竜之介 

平中(へいちゆう)といふ色ごのみにて、宮仕人(みやづかへびと)はさらなり、人の女(むすめ)など忍びて見
ぬはなかりけり。
宇治拾遺物語何(いか)でかこの人に不会(あは)では止まむと思ひ迷ける程に、平中病付(やみつき)にけり。
然(しかうし)て悩(なやみ)ける程に死(しに)にけり。
今昔物語色を好むといふは、かやうのふるまひなり。
十訓抄
     一 画姿

 泰平(たいへい)の時代にふさはしい、優美なきらめき烏帽子(ゑぼし)の下には、下(しも)ぶくれの顔がこちらを見てゐる。そのふつくりと肥つた頬に、鮮かな赤みがさしてゐるのは、何も臙脂(えんじ)をぼかしたのではない。男には珍しい餅肌が、自然と血の色を透(す)かせたのである。髭(ひげ)は品(ひん)の好い鼻の下に、――と云ふよりも薄い唇の左右に、丁度薄墨を刷(は)いたやうに、僅ばかりしか残つてゐない。しかしつややかな鬢(びん)の上には、霞も立たない空の色さへ、ほんのりと青みを映してゐる。耳はその鬢(びん)のはづれに、ちよいと上(あが)つた耳たぶだけ見える。それが蛤(はまぐり)の貝のやうな、暖かい色をしてゐるのは、かすかな光の加減らしい。眼は人よりも細い中(うち)に、絶えず微笑が漂つてゐる。殆(ほとんど)その瞳の底には、何時(いつ)でも咲き匂つた桜の枝が、浮んでゐるのかと思ふ位、晴れ晴れした微笑が漂つてゐる。が、多少注意をすれば、其処(そこ)には必しも幸福のみが住まつてゐない事がわかるかも知れない。これは遠い何物かに、□□(しやうけい)を持つた微笑である。同時に又手近い一切(いつさい)に、軽蔑を抱いた微笑である。頸(くび)は顔に比べると、寧(むし)ろ華奢(きやしや)すぎると評しても好い。その頸には白い汗衫(かざみ)の襟が、かすかに香を焚きしめた、菜の花色の水干(すゐかん)の襟と、細い一線を画(ゑが)いてゐる。顔の後にほのめいてゐるのは、鶴を織り出した几帳(きちやう)であらうか? それとものどかな山の裾に、女松(めまつ)を描いた障子であらうか? 兎に角曇つた銀のやうな、薄白い明(あかる)みが拡がつてゐる。……
 これが古い物語の中から、わたしの前に浮んで来た「天(あめ)が下(した)の色好(いろごの)み」平(たひら)の貞文(さだぶみ)の似顔である。平の好風(よしかぜ)に子が三人ある、丁度その次男に生まれたから、平中(へいちゆう)と渾名(あだな)を呼ばれたと云ふ、わたしの Don Juan の似顔である。

     二 桜

 平中は柱によりかかりながら、漫然と桜を眺めてゐる。近々と軒に迫つた桜は、もう盛りが過ぎたらしい。そのやや赤みの褪(あ)せた花には、永い昼過ぎの日の光が、さし交(かは)した枝の向き向きに、複雑な影を投げ合つてゐる。が、平中の眼は桜にあつても、平中の心は桜にない。彼はさつきから漫然と、侍従(じじゆう)の事を考へてゐる。
「始めて侍従を見かけたのは、――」
 平中はかう思ひ続けた。
「始めて侍従を見かけたのは、――あれは何時(いつ)の事だつたかな? さうさう、何でも稲荷詣(いなりまう)でに出かけると云つてゐたのだから、初午(はつうま)の朝だつたのに違ひない。あの女が車へ乗らうとする、おれが其処へ通りかかる、――と云ふのが抑々(そもそも)の起りだつた。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだつたが、紅梅や萌黄(もえぎ)を重ねた上へ、紫の袿(うちぎ)をひつかけてゐる、――その容子(ようす)が何とも云へなかつた。おまけに□(はこ)へはひる所だから、片手に袴をつかんだ儘(まま)、心もち腰をかがめ加減にした、――その又恰好もたまらなかつたつけ。本院の大臣(おとど)の御屋形(おんやかた)には、ずゐぶん女房も沢山ゐるが、まづあの位なのは一人もないな。あれなら平中が惚(ほ)れたと云つても、――」
 平中はちよいと真顔(まがほ)になつた。
「だが本当に惚れてゐるかしら? 惚れてゐると云へば、惚れてゐるやうでもあるし、惚れてゐないと云へば、惚れて、――一体こんな事は考へてゐると、だんだんわからなくなるものだが、まあ一通りは惚れてゐるな。尤もおれの事だから、いくら侍従に惚れたと云つても、眼さきまで昏(くら)んでしまひはしない。何時かあの範実(のりざね)のやつと、侍従の噂(うはさ)をしてゐたら、憾(うら)むらくは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云つたつけ、あんな事は一目見た時にもうちやんと気がついてゐたのだ。範実(のりざね)などと云ふ男は、篳篥(ひちりき)こそちつとは吹けるだらうが、好色(かうしよく)の話となつた日には、――まあ、あいつはあいつとして置け。差向きおれが考へたいのは、侍従一人の事なのだから、――所でもう少し欲を云へば、顔もあれぢや寂しすぎるな。それも寂しすぎると云ふだけなら、何処(どこ)か古い画巻(ゑまき)じみた、上品な所がある筈だが、寂しい癖に薄情らしい、妙に落着いた所があるのは、どう考へても頼もしくない。女でもああ云ふ顔をしたのは、存外人を食つてゐるものだ。その上色も白い方ぢやない、浅黒いとまでは行かなくつても、琥珀色(こはくいろ)位な所はあるな。しかし何時見てもあの女は、何だかかう水際(みづぎは)立つた、震(ふる)ひつきたいやうな風をしてゐる。あれは確かにどの女も、真似の出来ない芸当だらう。……」
 平中は袴の膝を立てながら、うつとりと軒の空を見上げた。空は簇(むらが)つた花の間に、薄青い色をなごませてゐる。
「それにしてもこの間から、いくら文(ふみ)を持たせてやつても、返事一つよこさないのは、剛情にも程があるぢやないか? まあおれが文をつけた女は、大抵は三度目に靡(なび)いてしまふ。たまに堅い女があつても、五度と文をやつた事はない。あの恵眼(ゑげん)と云ふ仏師の娘なぞは、一首の歌だけに落ちたものだ。それもおれの作つた歌ぢやない。誰かが、さうさう、――義輔(よしすけ)が作つた歌だつけ。義輔はその歌を書いてやつても、とんと先方の青女房には相手にされなかつたとか云ふ話だが、同じ歌でもおれが書けば――尤も侍従はおれが書いても、やつぱり返事はくれなかつたから、あんまり自慢は出来ないかも知れない。しかし兎に角おれの文には必ず女の返事が来る、返事が来れば逢ふ事になる。逢ふ事になれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば――ぢきに又それが鼻についてしまふ。かうまあ相場がきまつてゐたものだ。所が侍従には一月ばかりに、ざつと二十通も文を書いたが、何とも便りがないのだからな。おれの艶書(えんしよ)の文体にしても、さう無際限にある訳ぢやなし、そろそろもう跡が続かなくなつた。だが今日やつた文の中には、『せめては唯見つとばかりの、二文字(ふたもじ)だに見せ給へ』と書いてやつたから、何とか今度こそ返事があるだらう。ないかな? もし今日も亦ないとすれば、――ああ、ああ、おれもついこの間までは、こんな事に気骨を折る程、意気地のない人間ぢやなかつたのだがな。何でも豊楽院(ぶらくゐん)の古狐は、女に化けると云ふ事だが、きつとあの狐に化かされたのは、こんな気がするのに違ひない。同じ狐でも奈良坂の狐は、三抱(みかか)へもあらうと云ふ杉の木に化ける。嵯峨の狐は牛車(ぎつしや)に化ける。高陽川(かやがは)の狐は女(め)の童(わらは)に化ける。桃薗(ももぞの)の狐は大池に化け――狐の事なぞはどうでも好(い)い。ええと、何を考へてゐたのだつけ?」
 平中は空を見上げた儘、そつと欠伸(あくび)を噛殺(かみころ)した。花に埋(うづ)まつた軒先からは、傾きかけた日の光の中に、時々白いものが飜つて来る。何処かに鳩も啼いてゐるらしい。
「兎に角あの女には根負(こんま)けがする。たとひ逢ふと云はないまでも、おれと一度話さへすれば、きつと手に入れて見せるのだがな。まして一晩逢ひでもすれば、――あの摂津(せつつ)でも小中将(こちゆうじやう)でも、まだおれを知らない内は、男嫌ひで通してゐたものだ。それがおれの手にかかると、あの通り好きものになるぢやないか? 侍従にした所が金仏(かなぼとけ)ぢやなし、有頂天にならない筈はあるまい。しかしあの女はいざとなつても、小中将のやうには恥しがるまいな。と云つて又摂津のやうに、妙にとりすます柄でもあるまい。きつと袖を口へやると、眼だけにつこり笑ひながら、――」
「殿様。」
「どうせ夜の事だから、切り燈台か何かがともつてゐる。その火の光があの女の髪へ、――」
「殿様。」
 平中はやや慌(あわ)てたやうに、烏帽子(ゑぼし)の頭を後へ向けた。後には何時(いつ)か童(わらべ)が一人、ぢつと伏し眼になりながら、一通の文(ふみ)をさし出してゐる。何でもこれは一心に、笑ふのをこらへてゐたものらしい。
「消息(せうそこ)か?」
「はい、侍従様から、――」
 童はかう云ひ終ると、□々(そうそう)主人の前を下(さが)つた。
「侍従様から? 本当かしら?」
 平中は殆(ほとんど)恐る恐る、青い薄葉(うすえふ)の文を開いた。
「範実や義輔の悪戯(いたづら)ぢやないか? あいつ等はみんなこんな事が、何よりも好きな閑人(ひまじん)だから、――おや、これは侍従の文だ。侍従の文には違ひないが、――この文は、これは、何と云ふ文だい?」
 平中は文を抛(はふ)り出した。文には「唯見つとばかりの、二文字(ふたもじ)だに見せ給へ」と書いてやつた、その「見つ」と云ふ二文字だけが、――しかも平中の送つた文から、この二文字だけ切り抜いたのが、薄葉に貼りつけてあつたのである。
「ああ、ああ、天(あめ)が下(した)の色好みとか云はれるおれも、この位莫迦(ばか)にされれば世話はないな。それにしても侍従と云ふやつは、小面(こづら)の憎い女ぢやないか? 今にどうするか覚えてゐろよ。……」
 平中は膝を抱へた儘、茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の飜つた上には、もう風に吹かれた落花が、点々と幾ひらもこぼれてゐる。……

     三 雨夜

 それから二月程たつた後である。或長雨(ながあめ)の続いた夜、平中は一人本院の侍従の局(つぼね)へ忍んで行つた。雨は夜空が溶け落ちるやうに、凄(すさ)まじい響を立ててゐる。路は泥濘(でいねい)と云ふよりも、大水が出たのと変りはない。こんな晩にわざわざ出かけて行けば、いくらつれない侍従でも、憐れに思ふのは当然である、――かう考へた平中は、局の口へ窺(うかが)ひよると、銀を張つた扇を鳴らしながら、案内を請ふやうに咳ばらひをした。
 すると十五六の女(め)の童(わらは)が、すぐに其処へ姿を見せた。ませた顔に白粉(おしろい)をつけた、さすがに睡(ね)むさうな女の童である。平中は顔を近づけながら、小声に侍従へ取次を頼んだ。
 一度引きこんだ女の童は、局の口へ帰つて来ると、やはり小声にこんな返事をした。
「どうかこちらに御待ち下さいまし。今に皆様が御休みになれば、御逢ひになるさうでございますから。」
 平中は思はず微笑した。さうして女の童の案内通り、侍従の居間の隣らしい、遣戸(やりど)の側に腰を下した。
「やつぱりおれは智慧者だな。」
 女の童が何処かへ退いた後、平中は独りにやにやしてゐた。
「さすがの侍従も今度と云ふ今度は、とうとう心が折れたと見える。兎角(とかく)女と云ふやつは、ものの哀れを感じ易いからな。其処へ親切気を見せさへすれば、すぐにころりと落ちてしまふ。かう云ふ甲所(かんどころ)を知らないから、義輔(よしすけ)や範実(のりざね)は何と云つても、――待てよ。だが今夜逢へると云ふのは、何だか話が旨(うま)すぎるやうだぞ。――」
 平中はそろそろ不安になつた。
「しかし逢ひもしないものが、逢ふと云ふ訳もなささうなものだ。するとおれのひがみかな? 何しろざつと六十通ばかり、のべつに文を持たせてやつても、返事一つ貰へなかつたのだから、ひがみの起るのも尤もな話だ。が、ひがみではないとしたら、――又つくづく考へると、ひがみではない気もしない事はない。いくら親切に絆(ほだ)されても、今までは見向きもしなかつた侍従が、――と云つても相手はおれだからな。この位平中に思はれたとなれば、急に心も融けるかも知れない。」
 平中は衣紋(えもん)を直しながら、怯(お)づ怯(お)づあたりを透かして見た。が、彼のゐまはりには、くら闇の外(ほか)に何も見えない。その中に唯雨の音が、檜肌葺(ひはだぶき)の屋根をどよませてゐる。
「ひがみだと思へば、ひがみのやうだし、ひがみでないと、――いや、ひがみだと思つてゐれば、ひがみでも何でもなくなるし、ひがみでないと思つてゐれば、案外ひがみですみさうな気がする。一体運なぞと云ふやつは、皮肉に出来てゐるものだからな。して見れば、何でも一心(いつしん)にひがみでないと思ふ事だ。さうすると今にもあの女が、――おや、もうみんな寝始めたらしいぞ。」
 平中は耳を側立(そばだ)てた。成程(なるほど)ふと気がついて見れば、不相変(あひかはらず)小止(をや)みない雨声(うせい)と一しよに、御前(ごぜん)へ詰めてゐた女房たちが局々(つぼねつぼね)に帰るらしい、人ざわめきが聞えて来る。
「此処が辛抱のし所だな。もう半時(はんとき)もたちさへすれば、おれは何の造作もなく、日頃の思ひが晴らされるのだ。が、まだ何だか肚(はら)の底には、安心の出来ない気もちもあるぞ。さうさう、これが好いのだつけ。逢はれないものだと思つてゐれば、不思議に逢ふ事が出来るものだ。しかし皮肉な運のやつは、さう云ふおれの胸算用(むなさんよう)も見透かしてしまふかも知れないな。ぢや逢はれると考へようか? それにしても勘定づくだから、やつぱりこちらの思ふやうには、――ああ、胸が痛んで来た。一そ何か侍従なぞとは、縁のない事を考へよう。大分どの局もひつそりしたな。聞えるのは雨の音ばかりだ。ぢや早速眼をつぶつて、雨の事でも考へるとしよう。春雨、五月雨、夕立、秋雨、……秋雨と云ふ言葉があるかしら? 秋の雨、冬の雨、雨だり、雨漏り、雨傘、雨乞ひ、雨竜(あまりよう)、雨蛙、雨革(あまがは)、雨宿り、……」
 こんな事を思つてゐる内に、思ひがけない物の音が、平中の耳を驚かせた。いや、驚かせたばかりではない、この音を聞いた平中の顔は、突然弥陀(みだ)の来迎(らいがう)を拝した、信心深い法師よりも、もつと歓喜に溢れてゐる。何故と云へば遣戸(やりど)の向うに、誰か懸け金を外(はづ)した音が、はつきり耳に響いたのである。
 平中は遣戸を引いて見た。戸は彼の思つた通り、するりと閾(しきゐ)の上を辷(すべ)つた。その向うには不思議な程、空焚(そらだき)の匂が立ち罩(こ)めた、一面の闇が拡がつてゐる。平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這ひながら、手探りに奥へ進み寄つた。が、この艶(なまめ)いた闇の中には、天井の雨の音の外に、何一つ物のけはひもしない。たまたま手がさはつたと思へば、衣桁(いかう)や鏡台ばかりである。平中はだんだん胸の動悸が、高まるやうな気がし出した。
「ゐないのかな? ゐれば何とか云ひさうなものだ。」
 かう彼が思つた時、平中の手は偶然にも柔かな女の手にさはつた。それからずつと探りまはすと、絹らしい打衣(うちぎぬ)の袖にさはる。その衣(きぬ)の下の乳房にさはる。円々した頬や顋(あご)にさはる。氷よりも冷たい髪にさはる。――平中はとうとうくら闇の中に、ぢつと独り横になつた、恋しい侍従を探り当てた。
 これは夢でも幻でもない。侍従は平中の鼻の先に、打衣一つかけた儘、しどけない姿を横たへてゐる。彼は其処にゐすくんだなり、我知らずわなわな震へ出した。が、侍従は不相変、身動きをする気色さへ見えない。こんな事は確か何かの草紙に、書いてあつたやうな心もちがする。それともあれは何年か以前、大殿油(おほとのあぶら)の火影(ほかげ)に見た何かの画巻にあつたのかも知れない。
「忝(かたじけ)ない。忝ない。今まではつれないと思つてゐたが、もう向後(かうご)は御仏よりも、お前に身命を捧げるつもりだ。」
 平中は侍従を引き寄せながら、かうその耳に囁(ささや)かうとした。が、いくら気は急(せ)いても、舌は上顋(うはあご)に引ついた儘、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の匂や、妙に暖い肌の匂は、無遠慮に彼を包んで来る。――と思ふと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかつた。
 一瞬間、――その一瞬間が過ぎてしまへば、彼等は必ず愛欲の嵐に、雨の音も、空焚きの匂も、本院の大臣(おとど)も、女(め)の童(わらは)も忘却してしまつたに相違ない。しかしこの際(きは)どい刹那(せつな)に侍従は半ば身を起すと、平中の顔に顔を寄せながら、恥しさうな声を出した。
「お待ちなさいまし。まだあちらの障子には、懸金が下してございませんから、あれをかけて参ります。」
 平中は唯頷(うなづ)いた。侍従は二人の褥(しとね)の上に、匂の好い暖(ぬく)みを残した儘、そつと其処を立つて行つた。
「春雨、侍従、弥陀如来、雨宿り、雨だれ、侍従、侍従、……」
 平中はちやんと眼を開(あ)いたなり、彼自身にも判然しない、いろいろな事を考へてゐる。すると向うのくら闇に、かちりと懸金を下す音がした。
「雨竜、香炉、雨夜のしなさだめ、ぬば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり、夢にだに、――どうしたのだらう? 懸け金はもう下りたと思つたが、――」
 平中は頭を擡(もた)げて見た。が、あたりにはさつきの通り、空焚きの匂が漂つた、床(ゆか)しい闇があるばかりである。侍従は何処へ行つたものか、衣ずれの音も聞えて来ない。
「まさか、――いや、事によると、――」
 平中は褥(しとね)を這ひ出すと、又元のやうに手探りをしながら、向うの障子へ辿(たど)りついた。すると障子には部屋の外から、厳重に懸け金が下してある。その上耳を澄ませて見ても、足音一つさせるものはない。局々が大雨の中に、いづれもひつそりと寝静まつてゐる。
「平中、平中、お前はもう天が下の色好みでも何でもない。――」
 平中は障子に寄りかかつた儘、失心したやうに呟いた。
「お前の容色も劣へた。お前の才も元のやうぢやない。お前は範実(のりざね)や義輔(よしすけ)よりも、見下げ果てた意気地なしだ。……」

     四 好色問答

 これは平中の二人の友達――義輔と範実との間に交換された、或無駄話の一節である。
義輔 「あの侍従と云ふ女には、さすがの平中もかなはないさうだね。」範実 「さう云ふ噂だね。」義輔 「あいつには好(い)い見せしめだよ。あいつは女御更衣(によごかうい)でなければ、どんな女にでも手を出す男だ。ちつとは懲(こ)らしてやる方が好い。」範実 「へええ、君も孔子の御弟子か?」義輔 「孔子の教なぞは知らないがね。どの位女が平中の為に、泣かされたか位は知つてゐるのだ。もう一言次手(ついで)につけ加へれば、どの位苦しんだ夫があるか、どの位腹を立てた親があるか、どの位怨んだ家来があるか、それもまんざら知らないぢやない。さう云ふ迷惑をかける男は当然鼓(こ)を鳴らして責むべき者だ。君はさう考へないかね?」範実 「さうばかりも行かないからね。成程(なるほど)平中一人の為に、世間は迷惑してゐるかも知れない。しかしその罪は平中一人が、負ふべきものでもなからうぢやないか?」義輔 「ぢや又外に誰が負ふのだね?」範実 「それは女に負はせるのさ。」義輔 「女に負はせるのは可哀さうだよ。」範実 「平中に負はせるのも可哀さうぢやないか?」義輔 「しかし平中が口説(くど)いたのだからな。」範実 「男は戦場に太刀打ちをするが、女は寝首(ねくび)しか掻(か)かないのだ。人殺しの罪は変るものか。」義輔 「妙に平中の肩を持つな。だがこれだけは確かだらう? 我々は世間を苦しませないが、平中は世間を苦しませてゐる。」範実 「それもどうだかわからないね。一体我々人間は、如何(いか)なる因果か知らないが、互に傷(きずつ)け合はないでは、一刻も生きてはゐられないものだよ。唯平中は我々よりも、余計に世間を苦しませてゐる。この点は、ああ云ふ天才には、やむを得ない運命だね。」義輔 「冗談ぢやないぜ。平中が天才と一しよになるなら、この池の鰌(どぢやう)も竜になるだらう。」範実 「平中は確かに天才だよ。あの男の顔に気をつけ給へ。あの男の声を聞き給へ。あの男の文(ふみ)を読んで見給へ。もし君が女だつたら、あの男と一晩逢つて見給へ。あの男は空海上人だとか小野道風だとかと同じやうに、母の胎内を離れた時から、非凡な能力を授かつて来たのだ。あれが天才でないと云へば、天下に天才は一人もゐない。その点では我々二人の如きも、到底平中の敵ぢやないよ。」義輔 「しかしだね。しかし天才は君の云ふやうに、罪ばかり作つてはゐないぢやないか? たとへば道風の書を見れば、微妙な筆力に動かされるとか、空海上人の誦経(ずきやう)を聞けば――」範実 「僕は何も天才は、罪ばかり作ると云ひはしない。罪も作ると云つてゐるのだ。」義輔 「ぢや平中とは違ふぢやないか? あいつの作るのは罪ばかりだぜ。」範実 「それは我々にはわからない筈だ。仮名も碌(ろく)に書けないものには、道風の書もつまらないぢやないか? 信心気(しんじんき)のちつともないものには、空海上人の誦経(ずきやう)よりも、傀儡(くぐつ)の歌の方が面白いかも知れない。天才の功徳(くどく)がわかる為には、こちらにも相当の資格が入るさ。」義輔 「それは君の云ふ通りだがね、平中尊者(そんじや)の功徳なぞは、――」範実 「平中の場合も同じぢやないか? ああ云ふ好色の天才の功徳は、女だけが知つてゐる筈だ。君はさつきどの位女が平中の為に泣かされたかと云つたが、僕は反対にかう云ひたいね。どの位女が平中の為に、無上の歓喜を味はつたか、どの位女が平中の為に、しみじみ生き甲斐を感じたか、どの位女が平中の為に、犠牲の尊さを教へられたか、どの位女が平中の為に、――」義輔 「いや、もうその位で沢山だよ。君のやうに理窟をつければ、案山子(かかし)も鎧武者(よろひむしや)になつてしまふ。」範実 「君のやうに嫉妬深いと、鎧武者も案山子と思つてしまふぜ。」義輔 「嫉妬深い? へええ、これは意外だね。」範実 「君は平中を責める程、淫奔(いんぽん)な女を責めないぢやないか? たとひ口では責めてゐても、肚の底で責めてゐまい。それはお互に男だから、何時か嫉妬が加はるのだ。我々はみんな多少にしろ、もし平中になれるものなら、平中になつて見たいと云ふ、人知れない野心を持つてゐる。その為に平中は謀叛人(むほんにん)よりも、一層我々に憎まれるのだ。考へて見れば可哀さうだよ。」義輔 「ぢや君も平中になりたいかね?」範実 「僕か? 僕はあまりなりたくない。だから僕が平中を見るのは、君が見るのよりも公平なのだ。平中は女が一人出来ると、忽ちその女に飽きてしまふ。さうして誰か外の女に、可笑しい程夢中になつてしまふ。あれは平中の心の中には、何時(いつ)も巫山(ふざん)の神女(しんによ)のやうな、人倫(じんりん)を絶した美人の姿が、髣髴(はうふつ)と浮んでゐるからだよ。平中は何時も世間の女に、さう云ふ美しさを見ようとしてゐる。実際惚れてゐる時には、見る事が出来たと思つてゐるのだ。が、勿論二三度逢へば、さう云ふ蜃気楼(しんきろう)は壊れてしまふ。その為にあいつは女から女へ、転々と憂(う)き身をやつしに行くのだ。しかも末法(まつぽふ)の世の中に、そんな美人のゐる筈はないから、結局平中の一生は、不幸に終るより仕方がない。その点では君や僕の方が、遙かに仕合せだと云ふものさ。しかし平中の不幸なのは、云はば天才なればこそだね。あれは平中一人ぢやない。空海上人や小野道風も、きつとあいつと似てゐたらう。兎に角仕合になる為には、御同様凡人が一番だよ……。」
     五 まりも美しとなげく男

 平中(へいちゆう)は独り寂しさうに、本院の侍従の局(つぼね)に近い、人気(ひとけ)のない廊下に佇んでゐる。その廊下の欄にさした、油のやうな日の色を見ても、又今日は暑さが加はるらしい。が、庇(ひさし)の外の空には、簇々(そうそう)と緑を抽(ぬ)いた松が、静かに涼しさを守つてゐる。
「侍従はおれを相手にしない。おれももう侍従は思ひ切つた。――」
 平中は蒼白い顔をした儘、ぼんやりこんな事を思つてゐる。
「しかしいくら思ひ切つても、侍従の姿は幻のやうに、必ず眼前に浮んで来る。おれは何時かの雨夜以来、唯この姿を忘れたいばかりに、どの位四方の神仏へ、祈願を凝(こ)らしたかわからない。が、加茂の御社(みやしろ)へ行けば、御鏡の中にありありと、侍従の顔が映つて見える。清水(きよみづ)の御寺(みてら)の内陣にはひれば、観世音菩薩の御姿さへ、その儘侍従に変つてしまふ。もしこの姿が何時までも、おれの心を立ち去らなければ、おれはきつと焦(こが)れ死(じに)に、死んでしまふのに相違ない。――」
 平中は長い息をついた。
「だがその姿を忘れるには、――たつた一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅間しい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵してゐるだらう。其処を一つ見つけさへすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたやうに、侍従の幻も崩れてしまふ。おれの命はその刹那に、やつとおれのものになるのだ。が、何処が浅間しいか、何処が不浄を蔵してゐるか、それは誰も教へてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従は河原の女乞食と、実は少しも変らない証拠を。……」
 平中はかう考へながら、ふと懶(ものう)い視線を挙げた。
「おや、あすこへ来かかつたのは、侍従の局の女(め)の童(わらは)ではないか?」
 あの利口さうな女の童は、撫子(なでしこ)重(がさ)ねの薄物の袙(あこめ)に、色の濃い袴を引きながら、丁度こちらへ歩いて来る。それが赤紙の画扇の陰に、何か筐(はこ)を隠してゐるのは、きつと侍従のした糞(まり)を捨てに行く所に相違ない。その姿を一目見ると、突然平中の心の中(うち)には、或大胆な決心が、稲妻のやうに閃(ひらめ)き渡つた。
 平中は眼の色を変へたなり、女の童の行く手に立ち塞がつた。そしてその筐をひつたくるや否や、廊下の向ふに一つ見える、人のゐない部屋へ飛んで行つた。不意を打たれた女の童は、勿論泣き声を出しながら、ばたばた彼を追ひかけて来る。が、その部屋へ躍りこむと、平中は、遣戸(やりど)を立て切るが早いか、手早く懸け金を下してしまつた。
「さうだ。この中を見れば間違ひない。百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまふ。……」
 平中はわなわな震へる手に、ふはりと筐の上へかけた、香染(かうぞめ)の薄物を掲げて見た。筐は意外にも精巧を極めた、まだ真新しい蒔絵(まきゑ)である。
「この中に侍従の糞(まり)がある。同時におれの命もある。……」
 平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、時鳥(ほととぎす)を描(か)いた筐が一つ、はつきり空中に浮き出してゐる。……
「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸つてゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、――いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか?……」
 平中は窶(やつ)れた頬の上に、涙の痕を光らせながら、今更のやうに思ひ惑つた。しかし少時(しばらく)沈吟(ちんぎん)した後、急に眼を輝かせると、今度はかう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。
「平中! 平中! お前は何と云ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従の糞(まり)を見さへすれば、必(かならず)お前は勝ち誇れるのだ。……」
 平中は殆(ほとんど)気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子(ちやうじ)の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛(まぎ)れもない、飛び切りの沈(ぢん)の匂である。
「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、――」
 平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も丁子(ちやうじ)を煮返した、上澄みの汁に相違ない。
「するとこいつも香木かな?」
 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透(とほ)る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、急(たちま)ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。
「侍従! お前は平中を殺したぞ!」
 平中はかう呻(うめ)きながら、ばたりと蒔絵の筐を落した。さうして其処の床の上へ、仏倒(ほとけだふ)しに倒れてしまつた。その半死の瞳の中には、紫摩金(しまごん)の円光にとりまかれた儘、※然(てんぜん)[#「女+展」、180-下-14]と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……
(大正十年九月)



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