奇怪な再会
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著者名:芥川竜之介 

ややしばらく押し問答をした後(のち)、ともかくも牧野の云う通り一応は家(うち)へ帰る事に、やっと話が片附いたんだ。が、いよいよ帰るとなっても、野次馬(やじうま)は容易に退(の)くもんじゃない。お蓮もまたどうかすると、弥勒寺橋(みろくじばし)の方へ引っ返そうとする。それを宥(なだ)めたり賺(すか)したりしながら、松井町(まついちょう)の家(うち)へつれて来た時には、さすがに牧野も外套(がいとう)の下が、すっかり汗になっていたそうだ。……」
 お蓮は家(いえ)へ帰って来ると、白い子犬を抱いたなり、二階の寝室へ上(のぼ)って行った。そうして真暗な座敷の中へ、そっとこの憐れな動物を放した。犬は小さな尾を振りながら、嬉しそうにそこらを歩き廻った。それは以前飼っていた時、彼女の寝台(ねだい)から石畳の上へ、飛び出したのと同じ歩きぶりだった。
「おや、――」
 座敷の暗いのを思い出したお蓮は、不思議そうにあたりを見廻した。するといつか天井からは、火をともした瑠璃燈(るりとう)が一つ、彼女の真上に吊下(つりさが)っていた。
「まあ、綺麗だ事。まるで昔に返ったようだねえ。」
 彼女はしばらくはうっとりと、燦(きら)びやかな燈火(ともしび)を眺めていた。が、やがてその光に、彼女自身の姿を見ると、悲しそうに二三度頭(かしら)を振った。
「私は昔の□蓮(けいれん)じゃない。今はお蓮と云う日本人(にほんじん)だもの。金(きん)さんも会いに来ない筈だ。けれども金さんさえ来てくれれば、――」
 ふと頭(かしら)を擡(もた)げたお蓮は、もう一度驚きの声を洩(も)らした。見ると小犬のいた所には、横になった支那人が一人、四角な枕へ肘(ひじ)をのせながら、悠々と鴉片(あへん)を燻(くゆ)らせている! 迫った額、長い睫毛(まつげ)、それから左の目尻(めじり)の黒子(ほくろ)。――すべてが金に違いなかった。のみならず彼はお蓮を見ると、やはり煙管(きせる)を啣(くわ)えたまま、昔の通り涼しい眼に、ちらりと微笑を浮べたではないか?
「御覧。東京はもうあの通り、どこを見ても森ばかりだよ。」
 成程(なるほど)二階の亜字欄(あじらん)の外には、見慣ない樹木が枝を張った上に、刺繍(ぬいとり)の模様にありそうな鳥が、何羽も気軽そうに囀(さえず)っている、――そんな景色を眺めながら、お蓮は懐しい金の側に、一夜中(いちやじゅう)恍惚(こうこつ)と坐っていた。………
「それから一日か二日すると、お蓮――本名は孟□蓮(もうけいれん)は、もうこのK脳病院の患者(かんじゃ)の一人になっていたんだ。何でも日清戦争中は、威海衛(いかいえい)のある妓館(ぎかん)とかに、客を取っていた女だそうだが、――何、どんな女だった? 待ち給え。ここに写真があるから。」
 Kが見せた古写真には、寂しい支那服の女が一人、白犬と一しょに映っていた。
「この病院へ来た当座は、誰が何と云った所が、決して支那服を脱がなかったもんだ。おまけにその犬が側にいないと、金さん金さんと喚(わめ)き立てるじゃないか? 考えれば牧野も可哀そうな男さ。□蓮(けいれん)を妾(めかけ)にしたと云っても、帝国軍人の片破(かたわ)れたるものが、戦争後すぐに敵国人を内地へつれこもうと云うんだから、人知れない苦労が多かったろう。――え、金はどうした? そんな事は尋(き)くだけ野暮だよ。僕は犬が死んだのさえ、病気かどうかと疑っているんだ。」
(大正九年十二月)



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