或敵打の話
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著者名:芥川竜之介 

     発端

 肥後(ひご)の細川家(ほそかわけ)の家中(かちゅう)に、田岡甚太夫(たおかじんだゆう)と云う侍(さむらい)がいた。これは以前日向(ひゅうが)の伊藤家の浪人であったが、当時細川家の番頭(ばんがしら)に陞(のぼ)っていた内藤三左衛門(ないとうさんざえもん)の推薦で、新知(しんち)百五十石(こく)に召し出されたのであった。
 ところが寛文(かんぶん)七年の春、家中(かちゅう)の武芸の仕合(しあい)があった時、彼は表芸(おもてげい)の槍術(そうじゅつ)で、相手になった侍を六人まで突き倒した。その仕合には、越中守(えっちゅうのかみ)綱利(つなとし)自身も、老職一同と共に臨んでいたが、余り甚太夫の槍が見事なので、さらに剣術の仕合をも所望(しょもう)した。甚太夫は竹刀(しない)を執(と)って、また三人の侍を打ち据えた。四人目には家中の若侍に、新陰流(しんかげりゅう)の剣術を指南している瀬沼兵衛(せぬまひょうえ)が相手になった。甚太夫は指南番の面目(めんぼく)を思って、兵衛に勝を譲ろうと思った。が、勝を譲ったと云う事が、心あるものには分るように、手際よく負けたいと云う気もないではなかった。兵衛は甚太夫と立合いながら、そう云う心もちを直覚すると、急に相手が憎(にく)くなった。そこで甚太夫がわざと受太刀(うけだち)になった時、奮然と一本突きを入れた。甚太夫は強く喉(のど)を突かれて、仰向(あおむ)けにそこへ倒れてしまった。その容子(ようす)がいかにも見苦しかった。綱利(つなとし)は彼の槍術を賞しながら、この勝負があった後(のち)は、甚(はなはだ)不興気(ふきょうげ)な顔をしたまま、一言(いちごん)も彼を犒(ねぎら)わなかった。
 甚太夫の負けざまは、間もなく蔭口(かげぐち)の的になった。「甚太夫は戦場へ出て、槍の柄を切り折られたら何とする。可哀(かわい)や剣術は竹刀(しない)さえ、一人前には使えないそうな。」――こんな噂(うわさ)が誰云うとなく、たちまち家中(かちゅう)に広まったのであった。それには勿論同輩の嫉妬(しっと)や羨望(せんぼう)も交(まじ)っていた。が、彼を推挙した内藤三左衛門(ないとうさんざえもん)の身になって見ると、綱利の手前へ対しても黙っている訳には行かなかった。そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿への申訳けに切腹しようか。」とまで激語した。家中の噂を聞き流していたのでは、甚太夫も武士が立たなかった。彼はすぐに三左衛門の意を帯して、改めて指南番瀬沼兵衛(せぬまひょうえ)と三本勝負をしたいと云う願書(ねがいしょ)を出した。
 日ならず二人は綱利の前で、晴れの仕合(しあい)をする事になった。始(はじめ)は甚太夫が兵衛の小手(こて)を打った。二度目は兵衛が甚太夫の面(めん)を打った。が、三度目にはまた甚太夫が、したたか兵衛の小手を打った。綱利は甚太夫を賞するために、五十石(こく)の加増を命じた。兵衛は蚯蚓腫(みみずばれ)になった腕を撫(な)でながら、悄々(すごすご)綱利の前を退いた。
 それから三四日経ったある雨の夜(よ)、加納平太郎(かのうへいたろう)と云う同家中(かちゅう)の侍が、西岸寺(さいがんじ)の塀外(へいそと)で暗打ちに遇(あ)った。平太郎は知行(ちぎょう)二百石の側役(そばやく)で、算筆(さんぴつ)に達した老人であったが、平生(へいぜい)の行状から推して見ても、恨(うらみ)を受けるような人物では決してなかった。が、翌日瀬沼兵衛の逐天(ちくてん)した事が知れると共に、始めてその敵(かたき)が明かになった。甚太夫と平太郎とは、年輩こそかなり違っていたが、背恰好(せいかっこう)はよく似寄っていた。その上定紋(じょうもん)は二人とも、同じ丸に抱(だ)き明姜(みょうが)であった。兵衛はまず供の仲間(ちゅうげん)が、雨の夜路を照らしている提灯(ちょうちん)の紋に欺(あざむ)かれ、それから合羽(かっぱ)に傘(かさ)をかざした平太郎の姿に欺かれて、粗忽(そこつ)にもこの老人を甚太夫と誤って殺したのであった。
 平太郎には当時十七歳の、求馬(もとめ)と云う嫡子(ちゃくし)があった。求馬は早速公(おおやけ)の許(ゆるし)を得て、江越喜三郎(えごしきさぶろう)と云う若党と共に、当時の武士の習慣通り、敵打(かたきうち)の旅に上(のぼ)る事になった。甚太夫は平太郎の死に責任の感を免(まぬか)れなかったのか、彼もまた後見(うしろみ)のために旅立ちたい旨を申し出でた。と同時に求馬と念友(ねんゆう)の約があった、津崎左近(つざきさこん)と云う侍も、同じく助太刀(すけだち)の儀を願い出した。綱利は奇特(きどく)の事とあって、甚太夫の願は許したが、左近の云い分は取り上げなかった。
 求馬は甚太夫喜三郎の二人と共に、父平太郎の初七日(しょなぬか)をすますと、もう暖国の桜は散り過ぎた熊本(くまもと)の城下を後にした。

        一

 津崎左近(つざきさこん)は助太刀の請(こい)を却(しりぞ)けられると、二三日家に閉じこもっていた。兼ねて求馬(もとめ)と取換した起請文(きしょうもん)の面(おもて)を反故(ほご)にするのが、いかにも彼にはつらく思われた。のみならず朋輩(ほうばい)たちに、後指(うしろゆび)をさされはしないかと云う、懸念(けねん)も満更ないではなかった。が、それにも増して堪え難かったのは、念友(ねんゆう)の求馬を唯一人甚太夫(じんだゆう)に託すと云う事であった。そこで彼は敵打(かたきうち)の一行(いっこう)が熊本の城下を離れた夜(よ)、とうとう一封の書を家に遺して、彼等の後(あと)を慕うべく、双親(ふたおや)にも告げず家出をした。
 彼は国境(くにざかい)を離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅(さんえき)の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重(いくえ)にも同道を懇願した。甚太夫は始(はじめ)は苦々(にがにが)しげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易(ようい)に承(う)け引く色を示さなかった。が、しまいには彼も我(が)を折って、求馬の顔を尻眼にかけながら、喜三郎(きさぶろう)の取りなしを機会(しお)にして、左近の同道を承諾した。まだ前髪(まえがみ)の残っている、女のような非力(ひりき)の求馬は、左近をも一行に加えたい気色(けしき)を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返(くりかえ)していた。
 一行四人は兵衛(ひょうえ)の妹壻(いもうとむこ)が浅野家(あさのけ)の家中にある事を知っていたから、まず文字(もじ)が関(せき)の瀬戸(せと)を渡って、中国街道(ちゅうごくかいどう)をはるばると広島の城下まで上って行った。が、そこに滞在して、敵(かたき)の在処(ありか)を探(さぐ)る内に、家中の侍(さむらい)の家へ出入(でいり)する女の針立(はりたて)の世間話から、兵衛は一度広島へ来て後(のち)、妹壻の知るべがある予州(よしゅう)松山(まつやま)へ密々に旅立ったと云う事がわかった。そこで敵打の一行はすぐに伊予船(いよぶね)の便(びん)を求めて、寛文(かんぶん)七年の夏の最中(もなか)、恙(つつが)なく松山の城下へはいった。
 松山に渡った一行は、毎日編笠(あみがさ)を深くして、敵の行方(ゆくえ)を探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処を露(あらわ)さなかった。一度左近が兵衛らしい梵論子(ぼろんじ)の姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の由縁(ゆかり)もない他人だと云う事が明かになった。その内にもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝を塞(ふさ)いでいた藻(も)の下から、追い追い水の色が拡がって来た。それにつれて一行の心には、だんだん焦燥の念が動き出した。殊に左近は出合いをあせって、ほとんど昼夜の嫌いなく、松山の内外を窺(うかが)って歩いた。敵打の初太刀(しょだち)は自分が打ちたい。万一甚太夫に遅れては、主親(しゅうおや)をも捨てて一行に加わった、武士たる自分の面目(めんぼく)が立たぬ。――彼はこう心の内に、堅く思いつめていたのであった。
 松山へ来てから二月(ふたつき)余り後(のち)、左近はその甲斐(かい)があって、ある日城下に近い海岸を通りかかると、忍駕籠(しのびかご)につき添うた二人の若党が、漁師たちを急がせて、舟を仕立てているのに遇(あ)った。やがて舟の仕度が出来たと見えて、駕籠(かご)の中の侍が外へ出た。侍はすぐに編笠をかぶったが、ちらりと見た顔貌(かおかたち)は瀬沼兵衛に紛(まぎ)れなかった。左近は一瞬間ためらった。ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退(の)いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、行(ゆ)く方(え)をつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、名乗(なのり)をかけて打たねばならぬ。――左近はこう咄嗟(とっさ)に決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛(せぬまひょうえ)、加納求馬(かのうもとめ)が兄分、津崎左近が助太刀(すけだち)覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな。」と叱りつけた。左近は思わず躊躇(ちゅうちょ)した。その途端に侍の手が刀の柄前(つかまえ)にかかったと思うと、重(かさ)ね厚(あつ)の大刀が大袈裟(おおげさ)に左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深(まぶか)くかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。

        二

 左近(さこん)を打たせた三人の侍は、それからかれこれ二年間、敵(かたき)兵衛(ひょうえ)の行(ゆ)く方(え)を探って、五畿内(ごきない)から東海道をほとんど隈(くま)なく遍歴した。が、兵衛の消息は、杳(よう)として再び聞えなかった。
 寛文(かんぶん)九年の秋、一行は落ちかかる雁(かり)と共に、始めて江戸の土を踏んだ。江戸は諸国の老若貴賤(ろうにゃくきせん)が集まっている所だけに、敵の手がかりを尋ねるのにも、何かと便宜が多そうであった。そこで彼等はまず神田の裏町(うらまち)に仮の宿を定めてから甚太夫(じんだゆう)は怪しい謡(うたい)を唱って合力(ごうりき)を請う浪人になり、求馬(もとめ)は小間物(こまもの)の箱を背負(せお)って町家(ちょうか)を廻る商人(あきゅうど)に化け、喜三郎(きさぶろう)は旗本(はたもと)能勢惣右衛門(のせそうえもん)へ年期切(ねんきぎ)りの草履取(ぞうりと)りにはいった。
 求馬は甚太夫とは別々に、毎日府内をさまよって歩いた。物慣れた甚太夫は破れ扇に鳥目(ちょうもく)を貰いながら、根気よく盛り場を窺(うかが)いまわって、さらに倦(う)む気色(けしき)も示さなかった。が、年若な求馬の心は、編笠に憔(やつ)れた顔を隠して、秋晴れの日本橋(にほんばし)を渡る時でも、結局彼等の敵打(かたきうち)は徒労に終ってしまいそうな寂しさに沈み勝ちであった。
 その内に筑波颪(つくばおろ)しがだんだん寒さを加え出すと、求馬は風邪(かぜ)が元になって、時々熱が昂(たか)ぶるようになった。が、彼は悪感(おかん)を冒しても、やはり日毎に荷を負うて、商(あきない)に出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主(しゅう)思いの若党の眼に涙を催させるのが常であった。しかし彼等は二人とも、病さえ静に養うに堪えない求馬の寂しさには気がつかなかった。
 やがて寛文十年の春が来た。求馬はその頃から人知れず、吉原の廓(くるわ)に通い出した。相方(あいかた)は和泉屋(いずみや)の楓(かえで)と云う、所謂(いわゆる)散茶女郎(さんちゃじょろう)の一人であった。が、彼女は勤めを離れて、心から求馬のために尽した。彼も楓のもとへ通っている内だけ、わずかに落莫とした心もちから、自由になる事が出来たのであった。
 渋谷(しぶや)の金王桜(こんおうざくら)の評判が、洗湯(せんとう)の二階に賑わう頃、彼は楓の真心に感じて、とうとう敵打(かたきうち)の大事を打ち明けた。すると思いがけなく彼女の口から、兵衛らしい侍が松江(まつえ)藩の侍たちと一しょに、一月(ひとつき)ばかり以前和泉屋へ遊びに来たと云う事がわかった。幸(さいわい)、その侍の相方(あいかた)の籤(くじ)を引いた楓は、面体(めんてい)から持ち物まで、かなりはっきりした記憶を持っていた。のみならず彼が二三日中(うち)に、江戸を立って雲州(うんしゅう)松江(まつえ)へ赴(おもむ)こうとしている事なぞも、ちらりと小耳(こみみ)に挟んでいた。求馬は勿論喜んだ。が、再び敵打の旅に上るために、楓と当分――あるいは永久に別れなければならない事を思うと、自然求馬の心は勇まなかった。彼はその日彼女を相手に、いつもに似合わず爛酔(らんすい)した。そうして宿へ帰って来ると、すぐに夥(おびただ)しく血を吐いた。
 求馬は翌日から枕についた。が、何故(なぜ)か敵(かたき)の行方(ゆくえ)が略(ほぼ)わかった事は、一言(ひとこと)も甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖乞(そでご)いに出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日葺屋町(ふきやちょう)の芝居小屋などを徘徊(はいかい)して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣(くわ)えたまま、もう火のはいった行燈(あんどう)の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天(ぎょうてん)しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自刃(じじん)の仔細(しさい)とが認(したた)めてあった。「私儀(わたくしぎ)柔弱(にゅうじゃく)多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ候間(そうろうあいだ)……」――これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心(とうしん)の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦(にが)い顔を照らした。
 書面は求馬が今年(ことし)の春、楓(かえで)と二世(にせ)の約束をした起請文(きしょうもん)の一枚であった。

        三

 寛文(かんぶん)十年の夏、甚太夫(じんだゆう)は喜三郎(きさぶろう)と共に、雲州松江の城下へはいった。始めて大橋(おおはし)の上に立って、宍道湖(しんじこ)の天に群(むらが)っている雲の峰を眺めた時、二人の心には云い合せたように、悲壮な感激が催された。考えて見れば一行は、故郷の熊本を後にしてから、ちょうどこれで旅の空に四度目の夏を迎えるのであった。
 彼等はまず京橋(きょうばし)界隈(かいわい)の旅籠(はたご)に宿を定めると、翌日からすぐに例のごとく、敵の所在を窺い始めた。するとそろそろ秋が立つ頃になって、やはり松平家(まつだいらけ)の侍に不伝流(ふでんりゅう)の指南をしている、恩地小左衛門(おんちこざえもん)と云う侍の屋敷に、兵衛(ひょうえ)らしい侍のかくまわれている事が明かになった。二人は今度こそ本望が達せられると思った。いや、達せずには置かないと思った。殊に甚太夫はそれがわかった日から、時々心頭に抑え難い怒と喜を感ぜずにはいられなかった。兵衛はすでに平太郎(へいたろう)一人の敵(かたき)ではなく、左近(さこん)の敵でもあれば、求馬(もとめ)の敵でもあった。が、それよりも先にこの三年間、彼に幾多の艱難を嘗(な)めさせた彼自身の怨敵(おんてき)であった。――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。
 しかし恩地小左衛門は、山陰(さんいん)に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足(しゅそく)となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴(はや)りながらも、兵衛が一人外出する機会を待たなければならなかった。
 機会は容易に来なかった。兵衛はほとんど昼夜とも、屋敷にとじこもっているらしかった。その内に彼等の旅籠(はたご)の庭には、もう百日紅(ひゃくじつこう)の花が散って、踏石(ふみいし)に落ちる日の光も次第に弱くなり始めた。二人は苦しい焦燥の中に、三年以前返り打に遇った左近の祥月命日(しょうつきめいにち)を迎えた。喜三郎はその夜(よ)、近くにある祥光院(しょうこういん)の門を敲(たた)いて和尚(おしょう)に仏事を修して貰った。が、万一を慮(おもんぱか)って、左近の俗名(ぞくみょう)は洩(も)らさずにいた。すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌(いはい)があった。喜三郎は仏事が終ってから、何気(なにげ)ない風を装(よそお)って、所化(しょけ)にその位牌の由縁(ゆかり)を尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人(びと)が、月に二度の命日には必ず回向(えこう)に来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納(かのう)親子や左近の霊が彼等に冥助(みょうじょ)を与えているような、気強さを感ぜずにはいられなかった。
 甚太夫は喜三郎の話を聞きながら、天運の到来を祝すと共に、今まで兵衛の寺詣(てらもう)でに気づかなかった事を口惜(くちお)しく思った。「もう八日(ようか)経てば、大檀那様(おおだんなさま)の御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈(あんどう)を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追憶をさまざま語り合った。が、彼等の菩提(ぼだい)を弔(とむら)っている兵衛の心を酌(く)む事なぞは、二人とも全然忘却していた。
 平太郎の命日は、一日毎に近づいて来た。二人は妬刃(ねたば)を合せながら、心静(しずか)にその日を待った。今はもう敵打(かたきうち)は、成否の問題ではなくなっていた。すべての懸案はただその日、ただその時刻だけであった。甚太夫は本望(ほんもう)を遂(と)げた後(のち)の、逃(の)き口(くち)まで思い定めていた。
 ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈(あんどう)の光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革(しょうぶがわ)の裁付(たっつけ)に黒紬(くろつむぎ)の袷(あわせ)を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の襷(たすき)をかけた。差料(さしりょう)は長谷部則長(はせべのりなが)の刀に来国俊(らいくにとし)の脇差(わきざ)しであった。喜三郎も羽織は着なかったが、肌(はだ)には着込みを纏(まと)っていた。二人は冷酒(ひやざけ)の盃を換(か)わしてから、今日までの勘定をすませた後、勢いよく旅籠(はたご)の門(かど)を出た。
 外はまだ人通りがなかった。二人はそれでも編笠に顔を包んで、兼ねて敵打の場所と定めた祥光院(しょうこういん)の門前へ向った。ところが宿を離れて一二町行くと、甚太夫は急に足を止めて、「待てよ。今朝(けさ)の勘定は四文(しもん)釣銭が足らなかった。おれはこれから引き返して、釣銭の残りを取って来るわ。」と云った。喜三郎はもどかしそうに、「高(たか)が四文のはした銭(ぜに)ではございませんか。御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥目(ちょうもく)は元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、末代(まつだい)までの恥辱になるわ。その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」――彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。
 が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょになった。その日は薄雲が空に迷って、朧(おぼろ)げな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗(なつめ)の葉が黄ばんでいる寺の塀外(へいそと)を徘徊(はいかい)しながら、勇んで兵衛の参詣を待った。
 しかしかれこれ午(ひる)近くなっても、未(いまだ)に兵衛は見えなかった。喜三郎はいら立って、さりげなく彼の参詣の有無を寺の門番に尋ねて見た。が、門番の答にも、やはり今日はどうしたのだか、まだ参られぬと云う事であった。
 二人は惴(はや)る心を静めて、じっと寺の外に立っていた。その間に時は用捨なく移って、やがて夕暮の色と共に、棗の実を食(は)み落す鴉(からす)の声が、寂しく空に響くようになった。喜三郎は気を揉(も)んで、甚太夫の側へ寄ると、「一そ恩地の屋敷の外へ参って居りましょうか。」と囁いた。が、甚太夫は頭(かしら)を振って、許す気色(けしき)も見せなかった。
 やがて寺の門の空には、這(は)い塞(ふさが)った雲の間に、疎(まばら)な星影がちらつき出した。けれども甚太夫は塀に身を寄せて、執念(しゅうね)く兵衛を待ち続けた。実際敵を持つ兵衛の身としては、夜更(よふ)けに人知れず仏参をすます事がないとも限らなかった。
 とうとう初夜(しょや)の鐘が鳴った。それから二更(にこう)の鐘が鳴った。二人は露に濡れながら、まだ寺のほとりを去らずにいた。
 が、兵衛はいつまで経っても、ついに姿を現さなかった。

     大団円

 甚太夫(じんだゆう)主従は宿を変えて、さらに兵衛(ひょうえ)をつけ狙った。が、その後(ご)四五日すると、甚太夫は突然真夜中から、烈しい吐瀉(としゃ)を催し出した。喜三郎(きさぶろう)は心配の余り、すぐにも医者を迎えたかったが、病人は大事の洩れるのを惧(おそ)れて、どうしてもそれを許さなかった。
 甚太夫は枕に沈んだまま、買い薬を命に日を送った。しかし吐瀉は止まなかった。喜三郎はとうとう堪え兼ねて、一応医者の診脈(しんみゃく)を請うべく、ようやく病人を納得させた。そこで取りあえず旅籠(はたご)の主人に、かかりつけの医者を迎えて貰った。主人はすぐに人を走らせて、近くに技(ぎ)を売っている、松木蘭袋(まつきらんたい)と云う医者を呼びにやった。
 蘭袋は向井霊蘭(むかいれいらん)の門に学んだ、神方(しんぽう)の名の高い人物であった。が、一方また豪傑肌(ごうけつはだ)の所もあって、日夜杯(さかずき)に親みながらさらに黄白(こうはく)を意としなかった。「天雲(あまぐも)の上をかけるも谷水をわたるも鶴(つる)のつとめなりけり」――こう自(みずか)ら歌ったほど、彼の薬を請うものは、上(かみ)は一藩の老職から、下(しも)は露命も繋(つな)ぎ難い乞食(こじき)非人(ひにん)にまで及んでいた。
 蘭袋は甚太夫の脈をとって見るまでもなく、痢病(りびょう)と云う見立てを下(くだ)した。しかしこの名医の薬を飲むようになってもやはり甚太夫の病は癒(なお)らなかった。喜三郎は看病の傍(かたわら)、ひたすら諸々(もろもろ)の仏神に甚太夫の快方を祈願した。病人も夜長の枕元に薬を煮(に)る煙を嗅(か)ぎながら、多年の本望を遂げるまでは、どうかして生きていたいと念じていた。
 秋は益(ますます)深くなった。喜三郎は蘭袋の家へ薬を取りに行く途中、群を成した水鳥が、屡(しばしば)空を渡るのを見た。するとある日彼は蘭袋の家の玄関で、やはり薬を貰いに来ている一人の仲間(ちゅうげん)と落ち合った。それが恩地小左衛門(おんちこざえもん)の屋敷のものだと云う事は、蘭袋の内弟子(うちでし)と話している言葉にも自(おのずか)ら明かであった。彼はその仲間が帰ってから、顔馴染(かおなじみ)の内弟子に向って、「恩地殿のような武芸者も、病には勝てぬと見えますな。」と云った。「いえ、病人は恩地様ではありません。あそこに御出でになる御客人です。」――人の好さそうな内弟子は、無頓着にこう返事をした。
 それ以来喜三郎は薬を貰いに行く度に、さりげなく兵衛の容子(ようす)を探った。ところがだんだん聞き出して見ると、兵衛はちょうど平太郎の命日頃から、甚太夫と同じ痢病のために、苦しんでいると云う事がわかった。して見れば兵衛が祥光院へ、あの日に限って詣(もう)でなかったのも、その病のせいに違いなかった。甚太夫はこの話を聞くと、一層病苦に堪えられなくなった。もし兵衛が病死したら、勿論いくら打ちたくとも、敵(かたき)の打てる筈はなかった。と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜(おと)したら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに枕(まくら)を噛(か)みながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵(かたき)瀬沼兵衛(せぬまひょうえ)の快癒も祈らざるを得なかった。
 が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄(こくはく)であった。彼の病は重(おも)りに重って、蘭袋(らんたい)の薬を貰ってから、まだ十日と経たない内に、今日か明日かと云う容態(ようだい)になった。彼はそう云う苦痛の中にも、執念(しゅうね)く敵打(かたきうち)の望を忘れなかった。喜三郎は彼の呻吟(しんぎん)の中に、しばしば八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と云う言葉がかすかに洩れるのを聞いた。殊にある夜は喜三郎が、例のごとく薬を勧めると、甚太夫はじっと彼を見て、「喜三郎。」と弱い声を出した。それからまたしばらくして、「おれは命が惜しいわ。」と云った。喜三郎は畳へ手をついたまま、顔を擡(もた)げる事さえ出来なかった。
 その翌日、甚太夫は急に思い立って、喜三郎に蘭袋を迎えにやった。蘭袋はその日も酒気を帯びて、早速彼の病床を見舞った。「先生、永々の御介抱、甚太夫辱(かたじけな)く存じ申す。」――彼は蘭袋の顔を見ると、床(とこ)の上に起直(おきなお)って、苦しそうにこう云った。「が、身ども息のある内に、先生を御見かけ申し、何分願いたい一儀がござる。御聞き届け下さりょうか。」蘭袋は快く頷(うなず)いた。すると甚太夫は途切(とぎ)れ途切れに、彼が瀬沼兵衛をつけ狙(ねら)う敵打の仔細(しさい)を話し出した。彼の声はかすかであったが、言葉は長物語の間にも、さらに乱れる容子(ようす)がなかった。蘭袋は眉をひそめながら、熱心に耳を澄ませていた。が、やがて話が終ると、甚太夫はもう喘(あえ)ぎながら、「身ども今生(こんじょう)の思い出には、兵衛の容態(ようだい)が承(うけたまわ)りとうござる。兵衛はまだ存命でござるか。」と云った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこの言葉を聞いた時には、涙が抑えられないようであった。しかし彼は膝を進ませると、病人の耳へ口をつけるようにして、「御安心めされい。兵衛殿の臨終は、今朝(こんちょう)寅(とら)の上刻(じょうこく)に、愚老確かに見届け申した。」と云った。甚太夫の顔には微笑が浮んだ。それと同時に窶(やつ)れた頬(ほお)へ、冷たく涙の痕(あと)が見えた。「兵衛――兵衛は冥加(みょうが)な奴でござる。」――甚太夫は口惜(くちお)しそうに呟(つぶや)いたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床の上へ乱れた頭(かしら)を垂れた。そうしてついに空しくなった。……
 寛文(かんぶん)十年陰暦(いんれき)十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に上(のぼ)った。彼の振分(ふりわ)けの行李(こうり)の中には、求馬(もとめ)左近(さこん)甚太夫(じんだゆう)の三人の遺髪がはいっていた。

     後談

 寛文(かんぶん)十一年の正月、雲州(うんしゅう)松江(まつえ)祥光院(しょうこういん)の墓所(はかしょ)には、四基(しき)の石塔が建てられた。施主は緊(かた)く秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の僧形(そうぎょう)が紅梅(こうばい)の枝を提(さ)げて、朝早く祥光院の門をくぐった。
 その一人は城下に名高い、松木蘭袋(まつきらんたい)に紛(まぎ)れなかった。もう一人の僧形は、見る影もなく病み耄(ほう)けていたが、それでも凛々(りり)しい物ごしに、どこか武士らしい容子(ようす)があった。二人は墓前に紅梅の枝を手向(たむ)けた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。……
 後年黄檗慧林(おうばくえりん)の会下(えか)に、当時の病み耄けた僧形とよく似寄った老衲子(ろうのうし)がいた。これも順鶴(じゅんかく)と云う僧名(そうみょう)のほかは、何も素性(すじょう)の知れない人物であった。
(大正九年四月)



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