貝殻
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著者名:芥川竜之介 

 すると彼は仏頂面(ぶつちやうづら)をしたまま、かう巡査に返事をした。
「わしはあの牛を盗んだから、三箇月も苦役(くえき)をして来たのでせう。して見ればあの牛はわしのものです。それが家へ帰つて見ると、やつぱり隣の小屋にゐましたから、(尤(もつと)も前よりは肥つてゐました。)わしの小屋へ曳いて来ただけですよ。それがどこが悪いのです?」

     十一 嫉妬

「[#底本では起こしのカギがヌケ]わたしはずゐぶん嫉妬深いと見えます。たとへば宿屋に泊まつた時、そこの番頭や女中たちがわたしに愛想(あいそ)よくお時宜(じぎ)をするでせう。それから又外(ほか)の客が来ると、やはり前と同じやうに愛想よくお時宜をしてゐるでせう。わたしはあれを見てゐると何(なん)だか後(あと)から来た客に反感を持たずにはゐられないのです。」――その癖僕にかう言つた人は僕の知つてゐる人々のうちでも一番温厚な好紳士だつた。

     十二 第一の接吻

 彼は彼女と夫婦になつた後(のち)、彼女に今までの彼に起つた、あらゆる情事を打ち明けることにした。その結果は彼の予想したやうに彼等の幸福を保証することになつた。しかし彼は彼女に[#「に」は底本では「にに」]もたつた一つの情事だけは打ち明けなかつた。それは彼が十八の時、或年上の宿屋の女中と接吻したと云ふことだつた。彼は何もこの情事だけは話すまいと思つた訣(わけ)ではなかつた。唯ちよつとしたことだつた為に話さずとも善(よ)いと思つただけだつた。
 それから二三年たつた後(のち)、彼は何かの話の次手(ついで)にふと彼女にこの情事を話した。すると彼女は顔色(かほいろ)を変へ、「あなたはあたしを欺ましてゐた」と言つた。それは小さい刺(とげ)のやうにいつまでも彼等夫婦の間に波瀾を起す種(たね)になつてしまつた。彼は彼女と喧嘩をした後(のち)、何度もひとりこんなことを考へなければならなかつた。――「俺は余り正直だつたのかしら。それとも又どこか内心には正直になり切らずにゐたのかしら。」

     十三 「いろは字引」にない言葉

 彼はエデインバラに留学中、電車に飛び乗らうとして転(ころ)げ落ち、人事不省(じんじふせい)になつてしまつた。が、病院へかつぎこまれる途中も譫語(うはごと)に英語をしやべつてゐた。彼の健康が恢復した後(のち)、彼の友だちは何げなしに彼にこのことを話して聞かせた。彼はそれ以来別人のやうに彼の語学力に確信を持ち、とうとう名高い英語学者になつた。――これは彼の立志譚(りつしだん)である。しかし僕に面白かつたのは彼の留守宅に住んでゐた彼の母親の言葉だつた。
「うちの息子は学問をして日本語はすつかり知り悉(つく)してしまひましたから、今度はわざわざ西洋へ行つて『いろは字引』にない言葉を習つてゐます。」

     十四 母と子と

 彼は近頃彼の母が芸者だつたことを知るやうになつた。しかも今は彼の母が北京(ペキン)の羊肉胡同(ヤンヨウフウトン)に料理屋を出してゐることも知るやうになつた。彼は商売上の用向きの為に二三日北京(ペキン)に滞在するのを幸ひ、久しぶりに彼女に会つて見ることにした。
 彼はその料理屋へ尋ねて行き、未(いま)[#底本ではルビの「い」が抜け]だに白粉(おしろい)の厚い彼女と一時間ばかり話をした。が、彼女の空々(そら/″\)しいお世辞に幻滅(げんめつ)を感ぜずにはゐられなかつた。それは彼女が几帳面(きちやうめん)な彼に何かケウトイ心もちを感じた為にも違ひなかつた。しかし又一つには今の檀那(だんな)に彼女の息子(むすこ)が尋ねて来たことを隠したかつた為にも違ひなかつた。
 彼女は彼の帰つた後(のち)、肩の凝(こ)りの癒(なほ)つたやうに感じた。が、翌日になつて見ると、親子の情などと云ふことを考へ、何か彼に素(そ)つ気(け)なかつたのをすまないやうにも感じ出した。彼がどこに泊まつてゐるかは勿論彼女にはわかつてゐた。彼女は日暮れにならないうちにと思ひ、薄汚い支那の人力車に乗つて彼のゐる旅館へ尋ねて行つた。けれどもそれは不幸にも彼が漢口(ハンカオ)へ向ふ為に旅館を出てしまつたところだつた。彼女は妙に寂しさを覚え、やむを得ず又人力車に乗つて砂埃(すなほこ)りの中を帰つて行つた。いつか彼女も白髪を抜くのに追はれ出したことなどを考へながら。
 彼はその日も暮れかかつた頃、京漢鉄道(けいかんてつどう)の客車の窓に白粉臭い母のことを考へてゐた。すると何か今更のやうに多少の懐しさも感じないではなかつた。が、彼女の金歯の多いのはどうも彼には愉快ではなかつた。

     十五 修辞学

 東海道線の三等客車の中。大工らしい印絆纒(しるしばんてん)の男が一人、江尻(えじり)あたりの海を見ながら、つれの男にかう言つてゐた――「見や。浪がチンコロのやうだ。」
(大正十五年十二月)



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