地獄変
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著者名:芥川竜之介 

黒髮が火の粉になつて、舞ひ上るさまもよう見て置け。」
 大殿樣は三度口を御噤(おつぐ)みになりましたが、何を御思ひになつたのか、今度は唯肩を搖つて、聲も立てずに御笑ひなさりながら、
「末代までもない觀物ぢや。予もここで見物しよう。それ/\、簾(みす)を揚げて、良秀に中の女を見せて遣さぬか。」
 仰を聞くと仕丁の一人は、片手に松明の火を高くかざしながら、つか/\と車に近づくと、矢庭に片手をさし伸ばして、簾をさらりと揚げて見せました。けたゝましく音を立てて燃える松明(まつ)の光は、一しきり赤くゆらぎながら、忽ち狹い□(はこ)の中を鮮かに照し出しましたが、□(とこ)の上に慘(むごた)らしく、鎖にかけられた女房は――あゝ、誰か見違へを致しませう。きらびやかな繍のある櫻の唐衣にすべらかしの黒髮が艷やかに垂れて、うちかたむいた黄金の釵子(さつし)も美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違へ、小造りな體つきは、色の白い頸のあたりは、さうしてあの寂しい位つゝましやかな横顏は、良秀の娘に相違ございません。私は危く叫び聲を立てようと致しました。
 その時でございます。私と向ひあつてゐた侍は慌しく身を起して、柄頭(つかがしら)を片手に抑へながら、屹と良秀の方を睨みました。それに驚いて眺めますと、あの男はこの景色に、半ば正氣を失つたのでございませう。今まで下に蹲(うづくま)つてゐたのが、急に飛び立つたと思ひますと、兩手を前へ伸した儘、車の方へ思はず知らず走りかゝらうと致しました。唯生憎前にも申しました通り、遠い影の中に居りますので、顏貌(かほかたち)ははつきりと分りません。しかしさう思つたのはほんの一瞬間で、色を失つた良秀の顏はいや、まるで何か目に見えない力が、宙へ吊り上げたやうな良秀の姿は、忽ちうす暗がりを切り拔いてあり/\と眼前へ浮び上りました。娘を乘せた檳榔毛の車が、この時、「火をかけい」と云ふ大殿樣の御言と共に、仕丁たちが投げる松明の火を浴びて炎々と燃え上つたのでございます。

       十八

 火は見る/\中に、車蓋(やかた)をつゝみました。庇についた紫の流蘇(ふさ)が、煽られたやうにさつと靡くと、その下から濛々と夜目にも白い煙が渦を卷いて、或は簾(すだれ)、或は袖、或は棟の金物(かなもの)が、一時に碎けて飛んだかと思ふ程、火の粉が雨のやうに舞ひ上る――その凄じさと云つたらございません。いや、それよりもめらめらと舌を吐いて袖格子(そでがうし)に搦みながら、半空(なかぞら)までも立ち昇る烈々とした炎の色はまるで日輪が地に落ちて、天火が迸つたやうだとでも申しませうか。前に危く叫ばうとした私も、今は全く魂(たましひ)を消して、唯茫然と口を開きながら、この恐ろしい光景を見守るより外はございませんでした。しかし親の良秀は――
 良秀のその時の顏つきは、今でも私は忘れません。思はず知らず車の方へ驅け寄らうとしたあの男は、火が燃え上ると同時に、足を止めて、やはり手をさし伸した儘、食ひ入るばかりの眼つきをして、車をつゝむ焔煙を吸ひつけられたやうに眺めて居りましたが、滿身に浴びた火の光で、皺だらけな醜い顏は、髭の先までもよく見えます。が、その大きく見開いた眼の中と云ひ、引き歪めた脣のあたりと云ひ、或は又絶えず引き攣つてゐる頬の肉の震へと云ひ、良秀の心に交々(こも/″\)往來する恐れと悲しみと驚きとは、歴々と顏に描かれました。首を刎ねられる前の盜人でも、乃至は十王の廳へ引き出された、十逆五惡の罪人でもあゝまで苦しさうな顏は致しますまい。これには流石にあの強力(がうりき)の侍でさへ、思はず色を變へて、畏る/\大殿樣の御顏を仰ぎました。
 が、大殿樣は緊く唇を御噛みになりながら、時々氣味惡く御笑ひになつて、眼を放さずぢつと車の方を御見つめになつていらつしやいます。さうしてその車の中には――あゝ、私はその時、その車にどんな娘の姿を眺めたか、それを詳しく申し上げる勇氣は、到底あらうとも思はれません。あの煙に咽んで仰向(あふむ)けた顏の白さ、焔を掃(はら)つてふり亂れた髮の長さ、それから又見る間に火と變つて行く、櫻の唐衣の美しさ、――何と云ふ慘(むご)たらしい景色でございましたらう。殊に夜風が一下(ひとおろ)しして、煙が向うへ靡いた時、赤い上に金粉を撒いたやうな、焔の中から浮き上つて、髮を口に噛みながら、縛(いましめ)の鎖も切れるばかり身悶えをした有樣は、地獄の業苦を目のあたりへ寫し出したかと疑はれて、私始め強力の侍までおのづと身の毛がよだちました。
 するとその夜風が又一渡り、御庭の木々の梢にさつと通ふ――と誰でも、思ひましたらう。さう云ふ音が暗い空を、どことも知らず走つたと思ふと、忽ち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、鞠のやうに躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこみました。さうして朱塗のやうな袖格子が、ばら/\と燒け落ちる中に、のけ反(そ)つた娘の肩を抱いて、帛を裂くやうな鋭い聲を、何とも云へず苦しさうに、長く煙の外へ飛ばせました。續いて又、二聲三聲――私たちは我知らず、あつと同音に叫びました。壁代(かべしろ)のやうな焔を後にして、娘の肩に縋つてゐるのは、堀河の御邸に繁いであつた、あの良秀と諢名のある、猿だつたのでございますから。その猿が何處をどうしてこの御所まで、忍んで來たか、それは勿論誰にもわかりません。が、日頃可愛がつてくれた娘なればこそ、猿も一しよに火の中へはひつたのでございませう[#「ございませう」は底本では「ござませう」]。

       十九

 が、猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬間でございました。金梨子地(きんなしぢ)のやうな火の粉が一しきり、ぱつと空へ上つたかと思ふ中に、猿は元より娘の姿も、黒煙の底に隱されて、御庭のまん中には唯、一輛の火の車が凄じい音を立てながら、燃(も)え沸(たぎ)つてゐるばかりでございます。いや、火の車と云ふよりも、或は火の柱と云つた方が、あの星空を衝いて□え返る、恐ろしい火焔の有樣にはふさはしいかも知れません。
 その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、――何と云ふ不思議な事でございませう。あのさつきまで地獄の責苦に惱んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな滿面に浮べながら、大殿樣の御前も忘れたのか、兩腕をしつかり胸に組んで、佇んでゐるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有樣が映つてゐないやうなのでございます。唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――さう云ふ景色に見えました。
 しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘(ひとりむすめ)の斷末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故(なぜ)か人間とは思はれない夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな嚴(おごそか)さがございました。でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騷ぎながら飛びまはる數の知れない夜鳥でさへ、氣のせゐか良秀の揉烏帽子のまはりへは、近づかなかつたやうでございます。恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、圓光の如く懸つてゐる、不可思議な威嚴が見えたのでございませう。
 鳥でさへさうでございます。まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異樣な隨喜の心に充ち滿ちて、まるで開眼(かいげん)の佛でも見るやうに、眼も離さず、良秀を見つめました。空一面に鳴り渡る車の火とそれに魂を奪はれて、立ちすくんでゐる良秀と――何と云ふ莊嚴、何と云ふ歡喜でございませう。が、その中でたつた一人、[#「たつた一人、」は底本では「たつた、」]御縁の上の大殿樣だけは、まるで別人かと思はれる程、御顏の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫(さしぬき)の膝を兩手にしつかり御つかみになつて、丁度喉の渇いた獸のやうに喘ぎつゞけていらつしやいました。……

       二十

 その夜雪解の御所で、大殿樣が車を御燒きになつた事は、誰の口からともなく世上へ洩れましたが、それに就いては隨分いろ/\な批判を致すものも居つたやうでございます。先第一に何故(なぜ)大殿樣が良秀の娘を御燒き殺しなすつたか、――これは、かなはぬ戀の恨みからなすつたのだと云ふ噂が、一番多うございました。が、大殿樣の思召しは、全く車を燒き人を殺して[#「殺して」は底本では「「殺しで」]までも、屏風の畫を描かうとする繪師根性の曲(よこしま)なのを懲らす御心算(おつもり)だつたのに相違ございません。現に私は、大殿樣が御口づからさう仰有るのを伺つた事さへございます。
 それからあの良秀が、目前で娘を燒き殺されながら、それでも屏風の畫を描きたいと云ふその木石のやうな心もちが、やはり何かとあげつらはれたやうでございます。中にはあの男を罵つて、畫の爲には親子の情愛も忘れてしまふ、人面獸心の曲者だなどと申すものもございました。あの横川(よがは)の僧都樣などは、かう云ふ考へに味方をなすつた御一人で、「如何に一藝一能に秀でやうとも、人として五常を辨へねば、地獄に墮ちる外はない」などと、よく仰有つたものでございます。
 所がその後一月ばかり經(た)つて、愈々地獄變の屏風が出來上りますと良秀は早速それを御邸へ持つて出て、恭しく大殿樣の御覽に供へました。丁度その時は僧都樣も御居合はせになりましたが、屏風の畫を一目御覽になりますと、流石にあの一帖の天地に吹き荒んでゐる火の嵐の恐しさに御驚きなすつたのでございませう。それまでは苦い顏をなさりながら、良秀の方をじろ/\睨めつけていらしつたのが、思はず知らず膝を打つて、「出かし居つた」と仰有(おつしや)いました。この言を御聞になつて、大殿樣が苦笑なすつた時の御容子も、未だに私は忘れません。
 それ以來あの男を惡く云ふものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もゐなくなりました。誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議に嚴(おごそ)かな心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱を如實に感じるからでもございませうか。
 しかしさうなつた時分には、良秀はもうこの世に無い人の數にはいつて居りました。それも屏風の出來上つた次の夜に、自分の部屋の梁(はり)へ繩をかけて、縊(くび)れ死んだのでございます。一人娘(ひとりむすめ)を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらへるのに堪へなかつたのでございませう。屍骸は今でもあの男の家の跡に埋まつて居ります。尤も小さな標(しるし)の石は、その後何十年かの雨風(あめかぜ)に曝(さら)されて、とうの昔誰の墓とも知れないやうに、苔蒸(こけむ)してゐるにちがひございません。




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