報恩記
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著者名:芥川竜之介 

     阿媽港甚内(あまかわじんない)の話

 わたしは甚内(じんない)と云うものです。苗字(みょうじ)は――さあ、世間ではずっと前から、阿媽港甚内(あまかわじんない)と云っているようです。阿媽港甚内、――あなたもこの名は知っていますか? いや、驚くには及びません。わたしはあなたの知っている通り、評判の高い盗人(ぬすびと)です。しかし今夜参ったのは、盗みにはいったのではありません。どうかそれだけは安心して下さい。
 あなたは日本(にほん)にいる伴天連(ばてれん)の中でも、道徳の高い人だと聞いています。して見れば盗人と名のついたものと、しばらくでも一しょにいると云う事は、愉快ではないかも知れません。が、わたしも思いのほか、盗みばかりしてもいないのです。いつぞや聚楽(じゅらく)の御殿(ごてん)へ召された呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)の手代(てだい)の一人も、確か甚内と名乗っていました。また利休居士(りきゅうこじ)の珍重(ちんちょう)していた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師(れんがし)の本名(ほんみょう)は、甚内(じんない)とか云ったと聞いています。そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記(あまかわにっき)と云う本を書いた、大村(おおむら)あたりの通辞(つうじ)の名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか? そのほか三条河原(さんじょうがわら)の喧嘩に、甲比丹(カピタン)「まるどなど」を救った虚無僧(こむそう)、堺(さかい)の妙国寺(みょうこくじ)門前に、南蛮(なんばん)の薬を売っていた商人、……そう云うものも名前を明かせば、何がし甚内だったのに違いありません。いや、それよりも大事なのは、去年この「さん・ふらんしすこ」の御寺(みてら)へ、おん母「まりや」の爪を収めた、黄金(おうごん)の舎利塔(しゃりとう)を献じているのも、やはり甚内と云う信徒だった筈です。
 しかし今夜は残念ながら、一々そう云う行状を話している暇はありません。ただどうか阿媽港甚内(あまかわじんない)は、世間一般の人間と余り変りのない事を信じて下さい。そうですか? では出来るだけ手短かに、わたしの用向きを述べる事にしましょう。わたしはある男の魂のために、「みさ」の御祈りを願いに来たのです。いや、わたしの血縁のものではありません。と云ってもまたわたしの刃金(はがね)に、血を塗ったものでもないのです。名前ですか? 名前は、――さあ、それは明かして好(い)いかどうか、わたしにも判断はつきません。ある男の魂のために、――あるいは「ぽうろ」と云う日本人のために、冥福(めいふく)を祈ってやりたいのです。いけませんか?――なるほど阿媽港甚内に、こう云う事を頼まれたのでは、手軽に受合う気にもなれますまい。ではとにかく一通り、事情だけは話して見る事にしましょう。しかしそれには生死を問わず、他言(たごん)しない約束が必要です。あなたはその胸の十字架(くるす)に懸けても、きっと約束を守りますか? いや、――失礼は赦(ゆる)して下さい。(微笑)伴天連(ばてれん)のあなたを疑うのは、盗人(ぬすびと)のわたしには僭上(せんじょう)でしょう。しかしこの約束を守らなければ、(突然真面目(まじめ)に)「いんへるの」の猛火に焼かれずとも、現世(げんぜ)に罰(ばち)が下(くだ)る筈です。
 もう二年あまり以前の話ですが、ちょうどある凩(こがらし)の真夜中です。わたしは雲水(うんすい)に姿を変えながら、京の町中(まちなか)をうろついていました。京の町中をうろついたのは、その夜(よ)に始まったのではありません。もうかれこれ五日ばかり、いつも初更(しょこう)を過ぎさえすれば、必ず人目に立たないように、そっと家々を窺(うかが)ったのです。勿論何のためだったかは、註を入れるにも及びますまい。殊にその頃は摩利伽(まりか)へでも、一時渡っているつもりでしたから、余計に金(かね)の入用もあったのです。
 町は勿論とうの昔に人通りを絶っていましたが、星ばかりきらめいた空中には、小(お)やみもない風の音がどよめいています。わたしは暗い軒通(のきづた)いに、小川通(おがわどお)りを下(くだ)って来ると、ふと辻を一つ曲(まが)った所に、大きい角屋敷(かどやしき)のあるのを見つけました。これは京でも名を知られた、北条屋弥三右衛門(ほうじょうややそうえもん)の本宅です。同じ渡海(とかい)を渡世にしていても、北条屋は到底(とうてい)角倉(かどくら)などと肩を並べる事は出来ますまい。しかしとにかく沙室(しゃむろ)や呂宋(るそん)へ、船の一二艘(そう)も出しているのですから、一かどの分限者(ぶげんしゃ)には違いありません。わたしは何もこの家(うち)を目当に、うろついていたのではないのですが、ちょうどそこへ来合わせたのを幸い、一稼(ひとかせ)ぎする気を起しました。その上前にも云った通り、夜(よ)は深いし風も出ている、――わたしの商売にとりかかるのには、万事持って来いの寸法(すんぽう)です。わたしは路ばたの天水桶(てんすいおけ)の後(うしろ)に、網代(あじろ)の笠や杖を隠した上、たちまち高塀を乗り越えました。
 世間の噂(うわさ)を聞いて御覧なさい。阿媽港甚内(あまかわじんない)は、忍術を使う、――誰でも皆そう云っています。しかしあなたは俗人のように、そんな事は本当と思いますまい。わたしは忍術も使わなければ、悪魔も味方にはしていないのです。ただ阿媽港(あまかわ)にいた時分、葡萄牙(ポルトガル)の船の医者に、究理の学問を教わりました。それを実地に役立てさえすれば、大きい錠前を□(ね)じ切ったり、重い閂(かんぬき)を外したりするのは、格別むずかしい事ではありません。(微笑)今までにない盗みの仕方、――それも日本(にっぽん)と云う未開の土地は、十字架や鉄砲の渡来と同様、やはり西洋に教わったのです。
 わたしは一ときとたたない内に、北条屋の家(うち)の中にはいっていました。が、暗い廊下(ろうか)をつき当ると、驚いた事にはこの夜更(よふ)けにも、まだ火影(ほかげ)のさしているばかりか、話し声のする小座敷があります。それがあたりの容子(ようす)では、どうしても茶室に違いありません。「凩(こがらし)の茶か」――わたしはそう苦笑(くしょう)しながら、そっとそこへ忍び寄りました。実際その時は人声のするのに、仕事の邪魔(じゃま)を思うよりも、数寄(すき)を凝らした囲いの中に、この家(や)の主人や客に来た仲間が、どんな風流を楽しんでいるか?――そんな事に心が惹(ひ)かれたのです。
 襖(ふすま)の外に身を寄せるが早いか、わたしの耳には思った通り、釜(かま)のたぎりがはいりました。が、その音がすると同時に、意外にも誰か話をしては、泣いている声が聞えるのです。誰か、――と云うよりもそれは二度と聞かずに、女だと云う事さえわかりました。こう云う大家(たいけ)の茶座敷に、真夜中女の泣いていると云うのは、どうせただ事ではありません。わたしは息をひそめたまま、幸い明いていた襖(ふすま)の隙(すき)から、茶室の中を覗(のぞ)きこみました。
 行燈(あんどん)の光に照された、古色紙(こしきし)らしい床(とこ)の懸け物、懸け花入(はないれ)の霜菊(しもぎく)の花。――囲(かこ)いの中には御約束通り、物寂びた趣が漂っていました。その床の前、――ちょうどわたしの真正面(ましょうめん)に坐った老人は、主人の弥三右衛門(やそうえもん)でしょう、何か細(こま)かい唐草(からくさ)の羽織に、じっと両腕を組んだまま、ほとんどよそ眼に見たのでは、釜の煮(に)え音でも聞いているようです。弥三右衛門の下座(しもざ)には、品(ひん)の好(い)い笄髷(こうがいまげ)の老女が一人、これは横顔を見せたまま、時々涙を拭っていました。
「いくら不自由がないようでも、やはり苦労だけはあると見える。」――わたしはそう思いながら、自然と微笑を洩(も)らしたものです。微笑を、――こう云ってもそれは北条屋(ほうじょうや)夫婦に、悪意があったのではありません。わたしのように四十年間、悪名(あくみょう)ばかり負っているものには、他人の、――殊に幸福らしい他人の不幸は、自然と微笑を浮ばせるのです。(残酷な表情)その時もわたしは夫婦の歎きが、歌舞伎(かぶき)を見るように愉快だったのです。(皮肉な微笑)しかしこれはわたし一人に、限った事ではありますまい。誰にも好まれる草紙(そうし)と云えば、悲しい話にきまっているようです。
 弥三右衛門はしばらくの後(のち)、吐息(といき)をするようにこう云いました。
「もうこの羽目(はめ)になった上は、泣いても喚(わめ)いても取返しはつかない。わたしは明日(あす)にも店のものに、暇(ひま)をやる事に決心をした。」
 その時また烈しい風が、どっと茶室を揺(ゆ)すぶりました。それに声が紛(まぎ)れたのでしょう。弥三右衛門の内儀(ないぎ)の言葉は、何と云ったのだかわかりません。が、主人は頷(うなず)きながら、両手を膝の上に組み合せると、網代(あじろ)の天井へ眼を上げました。太い眉(まゆ)、尖った頬骨(ほおぼね)、殊に切れの長い目尻、――これは確かに見れば見るほど、いつか一度は会っている顔です。
「おん主(あるじ)、『えす・きりすと』様。何とぞ我々夫婦の心に、あなた様の御力を御恵み下さい。……」
 弥三右衛門は眼を閉じたまま、御祈りの言葉を呟(つぶや)き始めました。老女もやはり夫のように天帝の加護を乞うているようです。わたしはその間(あいだ)瞬きもせず、弥三右衛門の顔を見続けました。するとまた凩(こがらし)の渡った時、わたしの心に閃(ひらめ)いたのは、二十年以前の記憶です。わたしはこの記憶の中に、はっきり弥三右衛門の姿を捉(とら)えました。
 その二十年以前の記憶と云うのは、――いや、それは話すには及びますまい。ただ手短に事実だけ云えば、わたしは阿媽港(あまかわ)に渡っていた時、ある日本(にほん)の船頭に危(あやう)い命を助けて貰いました。その時は互に名乗りもせず、それなり別れてしまいましたが、今わたしの見た弥三右衛門は、当年の船頭に違いないのです。わたしは奇遇(きぐう)に驚きながら、やはりこの老人の顔を見守っていました。そう云えば威(い)かつい肩のあたりや、指節(ゆびふし)の太い手の恰好(かっこう)には、未(いまだ)に珊瑚礁(さんごしょう)の潮(しお)けむりや、白檀山(びゃくだんやま)の匂いがしみているようです。
 弥三右衛門は長い御祈りを終ると、静かに老女へこう云いました。
「跡はただ何事も、天主(てんしゅ)の御意(ぎょい)次第と思うたが好(よ)い。――では釜のたぎっているのを幸い、茶でも一つ立てて貰おうか?」
 しかし老女は今更のように、こみ上げる涙を堪(こら)えるように、消え入りそうな返事をしました。
「はい。――それでもまだ悔(く)やしいのは、――」
「さあ、それが愚痴(ぐち)と云うものじゃ。北条丸(ほうじょうまる)の沈んだのも、抛(な)げ銀(ぎん)の皆倒れたのも、――」
「いえ、そんな事ではございません。せめては倅(せがれ)の弥三郎(やさぶろう)でも、いてくれればと思うのでございますが、……」
 わたしはこの話を聞いている内に、もう一度微笑が浮んで来ました。が、今度は北条屋(ほうじょうや)の不運に、愉快を感じたのではありません。「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の阿媽港甚内(あまかわじんない)にも、立派(りっぱ)に恩返しが出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、わたしのほかにはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。何一つ悪事を働かない代りに、どのくらい善行を施(ほどこ)した時には、嬉しい心もちになるものか、――そんな事も碌(ろく)には知らないのですから。
「何、ああ云う人でなしは、居らぬだけにまだしも仕合せなぐらいじゃ。……」
 弥三右衛門は苦々(にがにが)しそうに、行燈(あんどん)へ眼を外(そ)らせました。
「あいつが使いおった金でもあれば、今度も急場だけは凌(しの)げたかも知れぬ。それを思えば勘当(かんどう)したのは、………」
 弥三右衛門はこう云ったなり、驚いたようにわたしを眺めました。これは驚いたのも無理はありません。わたしはその時声もかけずに、堺(さかい)の襖(ふすま)を明けたのですから。――しかもわたしの身なりと云えば、雲水(うんすい)に姿をやつした上、網代(あじろ)の笠を脱いだ代りに、南蛮頭巾(なんばんずきん)をかぶっていたのですから。
「誰だ、おぬしは?」
 弥三右衛門は年はとっていても、咄嗟(とっさ)に膝を起しました。
「いや、御驚きになるには及びません。わたしは阿媽港甚内と云うものです。――まあ、御静かになすって下さい。阿媽港甚内は盗人(ぬすびと)ですが、今夜突然参上したのは、少しほかにも訣(わけ)があるのです。――」
 わたしは頭巾(ずきん)を脱ぎながら、弥三右衛門の前に坐りました。
 その後(のち)の事は話さずとも、あなたには推察出来るでしょう。わたしは北条屋(ほうじょうや)の危急(ききゅう)を救うために、三日と云う日限(にちげん)を一日も違えず、六千貫の金(かね)を調達する、恩返しの約束を結んだのです。――おや、誰か戸の外に、足音が聞えるではありませんか? では今夜は御免下さい。いずれ明日(あす)か明後日(あさって)の夜(よる)、もう一度ここへ忍(しの)んで来ます。あの大十字架(おおくるす)の星の光は阿媽港(あまかわ)の空には輝いていても、日本(にっぽん)の空には見られません。わたしもちょうどああ云うように日本では姿を晦(くら)ませていないと、今夜「みさ」を願いに来た、「ぽうろ」の魂のためにもすまないのです。
 何、わたしの逃げ途(みち)ですか? そんな事は心配に及びません。この高い天窓(てんまど)からでも、あの大きい暖炉(だんろ)からでも、自由自在に出て行かれます。ついてはどうか呉々(くれぐれ)も、恩人「ぽうろ」の魂のために、一切他言(たごん)は慎(つつし)んで下さい。

     北条屋弥三右衛門の話

 伴天連(ばてれん)様。どうかわたしの懺悔(ざんげ)を御聞き下さい。御承知でも御座いましょうが、この頃世上に噂の高い、阿媽港甚内(あまかわじんない)と云う盗人(ぬすびと)がございます。根来寺(ねごろでら)の塔に住んでいたのも、殺生関白(せっしょうかんぱく)の太刀(たち)を盗んだのも、また遠い海の外(そと)では、呂宋(るそん)の太守を襲ったのも、皆あの男だとか聞き及びました。それがとうとう搦(から)めとられた上、今度一条戻(もど)り橋(ばし)のほとりに、曝(さら)し首(くび)になったと云う事も、あるいは御耳にはいって居りましょう。わたしはあの阿媽港甚内に一方(ひとかた)ならぬ大恩を蒙(こうむ)りました。が、また大恩を蒙っただけに、ただ今では何とも申しようのない、悲しい目にも遇(あ)ったのでございます。どうかその仔細(しさい)を御聞きの上、罪びと北条屋弥三右衛門(ほうじょうややそうえもん)にも、天帝の御愛憐を御祈り下さい。
 ちょうど今から二年ばかり以前の、冬の事でございます。ずっとしけばかり続いたために、持ち船の北条丸(ほうじょうまる)は沈みますし、抛(な)げ銀は皆倒れますし、――それやこれやの重なった揚句(あげく)、北条屋一家は分散のほかに、仕方のない羽目(はめ)になってしまいました。御承知の通り町人には取引き先はございましても、友だちと申すものはございません。こうなればもう我々の家業は、うず潮に吸われた大船(おおぶね)も同様、まっ逆(さか)さまに奈落(ならく)の底へ、落ちこむばかりなのでございます。するとある夜、――今でもこの夜(よ)の事は忘れません。ある凩(こがらし)の烈しい夜(よる)でございましたが、わたし共夫婦は御存知の囲(かこ)いに、夜の更(ふ)けるのも知らず話して居りました。そこへ突然はいって参ったのは、雲水(うんすい)の姿に南蛮頭巾(なんばんずきん)をかぶった、あの阿媽港甚内(あまかわじんない)でございます。わたしは勿論驚きもすれば、また怒(いか)りも致しました。が、甚内の話を聞いて見ますと、あの男はやはり盗みを働きに、わたしの宅へ忍びこみましたが、茶室には未(いまだ)に火影(ほかげ)ばかりか、人の話し声が聞えている、そこで襖越(ふすまご)しに、覗(のぞ)いて見ると、この北条屋弥三右衛門は、甚内の命を助けた事のある、二十年以前の恩人だったと、こう云う次第ではございませんか?
 なるほどそう云われて見れば、かれこれ二十年にもなりましょうか、まだわたしが阿媽港(あまかわ)通いの「ふすた」船の船頭を致していた頃、あそこへ船がかりをしている内に、髭(ひげ)さえ碌(ろく)にない日本人を一人、助けてやった事がございます。何でもその時の話では、ふとした酒の上の喧嘩(けんか)から、唐人(とうじん)を一人殺したために、追手(おって)がかかったとか申して居りました。して見ればそれが今日(こんにち)では、あの阿媽港甚内と云う、名代(なだい)の盗人(ぬすびと)になったのでございましょう。わたしはとにかく甚内の言葉も嘘ではない事がわかりましたから、一家のものの寝ているのを幸い、まずその用向きを尋ねて見ました。
 すると甚内の申しますには、あの男の力に及ぶ事なら、二十年以前の恩返しに、北条屋の危急を救ってやりたい、差当(さしあた)り入用(いりよう)の金子(きんす)の高は、どのくらいだと尋ねるのでございます。わたしは思わず苦笑(くしょう)致しました。盗人に金を調達して貰う、――それが可笑(おか)しいばかりではございません。いかに阿媽港甚内でも、そう云う金があるくらいならば、何もわざわざわたしの宅へ、盗みにはいるにも当りますまい。しかしその金高(きんだか)を申しますと、甚内は小首(こくび)を傾けながら、今夜の内にはむずかしいが、三日も待てば調達しようと、無造作(むぞうさ)に引き受けたのでございます。が、何しろ入用なのは、六千貫と云う大金でございますから、きっと調達出来るかどうか、当(あ)てになるものではございません。いや、わたしの量見(りょうけん)では、まず賽(さい)の目をたのむよりも、覚束(おぼつか)ないと覚悟をきめていました。
 甚内はその夜(よ)わたしの家内に、悠々と茶なぞ立てさせた上、凩(こがらし)の中を帰って行きました。が、その翌日になって見ても、約束の金は届きません。二日目も同様でございました。三日目は、――この日は雪になりましたが、やはり夜(よ)に入ってしまった後(のち)も、何一つ便りはありません。わたしは前に甚内の約束は、当にして居らぬと申し上げました。が、店のものにも暇(ひま)を出さず、成行きに任(まか)せていた所を見ると、それでも幾分か心待ちには、待っていたのでございましょう。また実際三日目の夜(よ)には、囲いの行燈(あんどん)に向っていても、雪折れの音のする度毎に、聞き耳ばかり立てて居りました。
 所が三更(さんこう)も過ぎた時分、突然茶室の外(そと)の庭に、何か人の組み合うらしい物音が聞えるではございませんか? わたしの心に閃(ひらめ)いたのは、勿論(もちろん)甚内の身の上でございます。もしや捕(と)り手(て)でもかかったのではないか?――わたしは咄嗟(とっさ)にこう思いましたから、庭に向いた障子(しょうじ)を明けるが早いか、行燈(あんどん)の火を掲(かか)げて見ました。雪の深い茶室の前には、大明竹(だいみんちく)の垂れ伏したあたりに、誰か二人掴(つか)み合っている――と思うとその一人は、飛びかかる相手を突き放したなり、庭木の陰(かげ)をくぐるように、たちまち塀の方へ逃げ出しました。雪のはだれる音、塀に攀(よ)じ登る音、――それぎりひっそりしてしまったのは、もうどこか塀(へい)の外へ、無事に落ち延びたのでございましょう。が、突き放された相手の一人は、格別跡を追おうともせず、体の雪を払いながら、静かにわたしの前へ歩み寄りました。
「わたしです。阿媽港甚内(あまかわじんない)ですよ。」
 わたしは呆気(あっけ)にとられたまま、甚内の姿を見守りました。甚内は今夜も南蛮頭巾(なんばんずきん)に、袈裟法衣(けさころも)を着ているのでございます。
「いや、とんだ騒(さわ)ぎをしました。誰もあの組打ちの音に、眼を覚さねば仕合せですが。」
 甚内は囲(かこ)いへはいると同時に、ちらりと苦笑(くしょう)を洩(も)らしました。
「何、わたしが忍(しの)んで来ると、ちょうど誰かこの床(ゆか)の下へ、這(は)いこもうとするものがあるのです。そこで一つ手捕(てど)りにした上、顔を見てやろうと思ったのですが、とうとう逃げられてしまいました。」
 わたしはまださっきの通り、捕り手の心配がございましたから、役人ではないかと尋(たず)ねて見ました。が、甚内は役人どころか、盗人だと申すのでございます。盗人が盗人を捉(とら)えようとした、――このくらい珍しい事はございますまい。今度は甚内よりもわたしの顔に、自然と苦笑が浮びました。しかしそれはともかくも、調達の成否(せいひ)を聞かない内は、わたしの心も安まりません。すると甚内は云わない先に、わたしの心を読んだのでございましょう、悠々と胴巻(どうまき)をほどきながら、炉(ろ)の前へ金包(かねづつ)みを並べました。
「御安心なさい、六千貫の工面(くめん)はつきましたから。――実はもう昨日(きのう)の内に、大抵(たいてい)調達したのですが、まだ二百貫ほど不足でしたから、今夜はそれを持って来ました。どうかこの包みを受け取って下さい。また昨日(きのう)までに集めた金は、あなた方御夫婦も知らない内に、この茶室の床下(ゆかした)へ隠して置きました。大方(おおかた)今夜の盗人のやつも、その金を嗅(か)ぎつけて来たのでしょう。」
 わたしは夢でも見ているように、そう云う言葉を聞いていました。盗人に金を施(ほどこ)して貰う、――それはあなたに伺わないでも、確かに善い事ではございますまい。しかし調達が出来るかどうか、半信半疑の境(さかい)にいた時は、善悪も考えずに居りましたし、また今となって見れば、むげに受け取らぬとも申されません。しかもその金を受け取らないとなれば、わたしばかりか一家のものも、路頭(ろとう)に迷うのでございます。どうかこの心もちに、せめては御憐憫(ごれんびん)を御加え下さい。わたしはいつか甚内の前に、恭(うやうや)しく両手をついたまま、何も申さずに泣いて居りました。……
 その後(のち)わたしは二年の間(あいだ)、甚内の噂(うわさ)を聞かずに居りました。が、とうとう分散もせずに恙(つつが)ないその日を送られるのは、皆甚内の御蔭でございますから、いつでもあの男の仕合せのために、人知れずおん母「まりや」様へも、祈願(きがん)をこめていたのでございます。ところがどうでございましょう、この頃往来(おうらい)の話を聞けば、阿媽港甚内(あまかわじんない)は御召捕(おめしと)りの上、戻(もど)り橋(ばし)に首を曝(さら)していると、こう申すではございませんか? わたくしは驚きも致しました。人知れず涙も落しました。しかし積悪の報(むくい)と思えば、これも致し方はございますまい。いや、むしろこの永年、天罰も受けずに居りましたのは、不思議だったくらいでございます。が、せめてもの恩返しに、陰(かげ)ながら回向(えこう)をしてやりたい。――こう思ったものでございますから、わたしは今日(きょう)伴(とも)もつれずに、早速一条戻り橋へ、その曝し首を見に参りました。
 戻り橋のほとりへ参りますと、もうその首を曝した前には、大勢(おおぜい)人がたかって居ります。罪状を記(しる)した白木(しらき)の札(ふだ)、首の番をする下役人(したやくにん)――それはいつもと変りません。が、三本組み合せた、青竹の上に載せてある首は、――ああ、そのむごたらしい血まみれの首は、どうしたと云うのでございましょう? わたしは騒々(そうぞう)しい人だかりの中に、蒼(あお)ざめた首を見るが早いか、思わず立ちすくんでしまいました。この首はあの男ではございません。阿媽港甚内の首ではございません。この太い眉(まゆ)、この突き出た頬(ほお)、この眉間(みけん)の刀創(かたなきず)、――何一つ甚内には似て居りません。しかし、――わたしは突然日の光も、わたしのまわりの人だかりも、竹の上に載せた曝(さら)し首も、皆どこか遠い世界へ、流れてしまったかと思うくらい、烈しい驚きに襲われました。この首は甚内ではございません。わたしの首でございます。二十年以前のわたし、――ちょうど甚内の命を助けた、その頃のわたしでございます。「弥三郎(やさぶろう)!」――わたしは舌さえ動かせたなら、こう叫んでいたかも知れません。が、声を揚げるどころかわたしの体は瘧(おこり)を病んだように、震(ふる)えているばかりでございました。
 弥三郎! わたしはただ幻のように、倅(せがれ)の曝し首を眺めました。首はやや仰向(あおむ)いたまま半ば開(ひら)いた□(まぶた)の下から、じっとわたしを見守って居ります。これはどうした訣(わけ)でございましょう? 倅は何かの間違いから、甚内と思われたのでございましょうか? しかし御吟味(ごぎんみ)も受けたとすれば、そう云う間違いは起りますまい。それとも阿媽港甚内というのは、倅だったのでございましょうか? わたしの宅へ来た贋雲水(にせうんすい)は、誰か甚内の名前を仮りた、別人だったのでございましょうか? いや、そんな筈はございません。三日と云う日限(にちげん)を一日も違(たが)えず、六千貫の金を工面(くめん)するものは、この広い日本の国にも、甚内のほかに誰が居りましょう? して見ると、――その時わたしの心の中には、二年以前雪の降った夜(よ)、甚内と庭に争っていた、誰とも知らぬ男の姿が、急にはっきり浮んで参りました。あの男は誰だったのでございましょう? もしや倅ではございますまいか? そう云えばあの男の姿かたちは、ちらりと一目見ただけでも、どうやら倅の弥三郎に、似ていたようでもございます。しかしこれはわたし一人の、心の迷いでございましょうか? もし倅だったとすれば、――わたしは夢の覚めたように、しけじけ首を眺めました。するとその紫ばんだ、妙に緊(しま)りのない唇(くちびる)には、何か微笑(ほほえみ)に近い物が、ほんのり残っているのでございます。
 曝(さら)し首に微笑が残っている、――あなたはそんな事を御聞きになると、御哂(おわら)いになるかも知れません。わたしさえそれに気のついた時には、眼のせいかとも思いました。が、何度見直しても、その干(ひ)からびた唇には、確かに微笑らしい明(あかる)みが、漂(ただよ)っているのでございます。わたしはこの不思議な微笑に、永い間(あいだ)見入って居りました。と、いつかわたしの顔にも、やはり微笑が浮んで参りました。しかし微笑が浮ぶと同時に、眼には自然と熱い涙も、にじみ出して来たのでございます。
「お父(とう)さん、勘忍(かんにん)して下さい。――」
 その微笑は無言の内に、こう申していたのでございます。
「お父さん。不孝の罪は勘忍して下さい。わたしは二年以前の雪の夜(よる)、勘当(かんどう)の御詫(おわ)びがしたいばかりに、そっと家(うち)へ忍(しの)んで行きました。昼間は店のものに見られるのさえ、恥(はずか)しいなりをしていましたから、わざわざ夜(よ)の更(ふ)けるのを待った上、お父さんの寝間(ねま)の戸を叩(たた)いても、御眼にかかるつもりでいたのです。ところがふと囲(かこ)いの障子に、火影(ほかげ)のさしているのを幸い、そこへ怯(お)ず怯(お)ず行きかけると、いきなり誰か後(うしろ)から、言葉もかけずに組つきました。
「お父さん。それから先はどうなったか、あなたの知っている通りです。わたしは余り不意だったため、お父さんの姿を見るが早いか、相手の曲者(くせもの)を突き放したなり、高塀(たかべい)の外へ逃げてしまいました。が、雪明(ゆきあか)りに見た相手の姿は、不思議にも雲水(うんすい)のようでしたから、誰も追う者のないのを確かめた後(のち)、もう一度あの茶室の外へ、大胆(だいたん)にも忍んで行ったのです。わたしは囲いの障子越しに、一切(いっさい)の話を立ち聞きました。
「お父さん。北条屋(ほうじょうや)を救った甚内(じんない)は、わたしたち一家の恩人です。わたしは甚内の身に危急(ききゅう)があれば、たとえ命は抛(なげう)っても、恩に報いたいと決心しました。またこの恩を返す事は、勘当を受けた浮浪人(ふろうにん)のわたしでなければ出来ますまい。わたしはこの二年間、そう云う機会を待っていました。そうして、――その機会が来たのです。どうか不孝の罪は勘忍して下さい。わたしは極道(ごくどう)に生れましたが、一家の大恩だけは返しました。それがせめてもの心やりです。……」
 わたしは宅へ帰る途中も、同時に泣いたり笑ったりしながら、倅(せがれ)のけなげさを褒(ほ)めてやりました。あなたは御存知になりますまいが、倅の弥三郎(やさぶろう)もわたしと同様、御宗門(ごしゅうもん)に帰依(きえ)して居りましたから、もとは「ぽうろ」と云う名前さえも、頂いて居ったものでございます。しかし、――しかし倅も不運なやつでございました。いや、倅ばかりではございません。わたしもあの阿媽港甚内(あまかわじんない)に一家の没落さえ救われなければ、こんな嘆きは致しますまいに。いくら未練(みれん)だと思いましても、こればかりは切(せつ)のうございます。分散せずにいた方が好(よ)いか、倅を殺さずに置いた方が好いか、――(突然苦しそうに)どうかわたしを御救い下さい。わたしはこのまま生きていれば、大恩人の甚内を憎むようになるかも知れません。………(永い間(あいだ)の歔欷(すすりなき))

     「ぽうろ」弥三郎の話

 ああ、おん母「まりや」様! わたしは夜(よ)が明け次第、首を打たれる事になっています。わたしの首は地に落ちても、わたしの魂(たましい)は小鳥のように、あなたの御側へ飛んで行くでしょう。いや、悪事ばかり働いたわたしは、「はらいそ」(天国)の荘厳(しょうごん)を拝する代りに、恐しい「いんへるの」(地獄)の猛火の底へ、逆落(さかおと)しになるかも知れません。しかしわたしは満足です。わたしの心には二十年来、このくらい嬉しい心もちは、宿った事がないのです。
 わたしは北条屋弥三郎(ほうじょうややさぶろう)です。が、わたしの曝(さら)し首(くび)は、阿媽港甚内(あまかわじんない)と呼ばれるでしょう。わたしがあの阿媽港甚内、――これほど愉快(ゆかい)な事があるでしょうか? 阿媽港甚内、――どうです? 好(い)い名前ではありませんか? わたしはその名前を口にするだけでも、この暗い牢(ろう)の中さえ、天上の薔薇(ばら)や百合(ゆり)の花に、満ち渡るような心もちがします。
 忘れもしない二年前(ぜん)の冬、ちょうどある大雪の夜(よる)です。わたしは博奕(ばくち)の元手(もとで)が欲しさに、父の本宅へ忍びこみました。ところがまだ囲いの障子(しょうじ)に、火影(ほかげ)がさしていましたから、そっとそこを窺(うかが)おうとすると、いきなり誰か言葉もかけず、わたしの襟上(えりがみ)を捉(とら)えたものがあります。振り払う、また掴(つか)みかかる、――相手は誰だか知らないのですが、その力の逞(たくま)しい事は、到底ただものとは思われません。のみならず二三度揉(も)み合う内に、茶室の障子が明(あ)いたと思うと、庭へ行燈(あんどん)をさし出したのは、紛(まぎ)れもない父の弥三右衛門(やそうえもん)です。わたしは一生懸命に、掴(つか)まれた胸倉(むなぐら)を振り切りながら、高塀の外へ逃げ出しました。
 しかし半町(はんちょう)ほど逃げ延びると、わたしはある軒下(のきした)に隠れながら、往来の前後を見廻しました。往来には夜目にも白々(しろじろ)と、時々雪煙りが揚(あが)るほかには、どこにも動いているものは見えません。相手は諦(あきら)めてしまったのか、もう追いかけても来ないようです。が、あの男は何ものでしょう? 咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に見た所では、確かに僧形(そうぎょう)をしていました。が、さっきの腕の強さを見れば、――殊に兵法にも精(くわ)しいのを見れば、世の常の坊主ではありますまい。第一こう云う大雪の夜(よ)に、庭先へ誰か坊主(ぼうず)が来ている、――それが不思議ではありませんか? わたしはしばらく思案した後(のち)、たとい危(あぶな)い芸当にしても、とにかくもう一度茶室の外へ、忍び寄る事に決心しました。
 それから一時(いっとき)ばかりたった頃(ころ)です。あの怪しい行脚(あんぎゃ)の坊主(ぼうず)は、ちょうど雪の止んだのを幸い、小川通(おがわどお)りを下(くだ)って行きました。これが阿媽港甚内(あまかわじんない)なのです。侍(さむらい)、連歌師(れんがし)、町人、虚無僧(こむそう)、――何にでも姿を変えると云う、洛中(らくちゅう)に名高い盗人(ぬすびと)なのです。わたしは後(あと)から見え隠れに甚内の跡をつけて行きました。その時ほど妙に嬉しかった事は、一度もなかったのに違いありません。阿媽港甚内! 阿媽港甚内! わたしはどのくらい夢の中(うち)にも、あの男の姿を慕っていたでしょう。殺生関白(せっしょうかんぱく)の太刀(たち)を盗んだのも甚内です。沙室屋(しゃむろや)の珊瑚樹(さんごじゅ)を詐(かた)ったのも甚内です。備前宰相(びぜんさいしょう)の伽羅(きゃら)を切ったのも、甲比丹(カピタン)「ぺれいら」の時計を奪ったのも、一夜(いちや)に五つの土蔵を破ったのも、八人の参河侍(みかわざむらい)を斬り倒したのも、――そのほか末代にも伝わるような、稀有(けう)の悪事を働いたのは、いつでも阿媽港甚内(あまかわじんない)です。その甚内は今わたしの前に、網代(あじろ)の笠を傾けながら、薄明るい雪路を歩いている。――こう云う姿を眺められるのは、それだけでも仕合せではありませんか? が、わたしはこの上にも、もっと仕合せになりたかったのです。
 わたしは浄厳寺(じょうごんじ)の裏へ来ると、一散(いっさん)に甚内へ追いつきました。ここはずっと町家(ちょうか)のない土塀(どべい)続きになっていますから、たとい昼でも人目を避けるには、一番御誂(おあつら)えの場所なのですが、甚内はわたしを見ても、格別驚いた気色(けしき)は見せず、静かにそこへ足を止めました。しかも杖(つえ)をついたなり、わたしの言葉を待つように、一言(ひとこと)も口を利(き)かないのです。わたしは実際恐る恐る、甚内の前に手をつきました。しかしその落着いた顔を見ると、思うように声さえ出て来ません。
「どうか失礼は御免下さい。わたしは北条屋弥三右衛門(ほうじょうややそうえもん)の倅(せがれ)弥三郎(やさぶろう)と申すものです。――」
 わたしは顔を火照(ほて)らせながら、やっとこう口を切りました。
「実は少し御願いがあって、あなたの跡を慕(した)って来たのですが、……」
 甚内はただ頷(うなず)きました。それだけでも気の小さいわたしには、どのくらい難有(ありがた)い気がしたでしょう。わたしは勇気も出て来ましたから、やはり雪の中に手をついたなり、父の勘当(かんどう)を受けている事、今はあぶれものの仲間にはいっている事、今夜父の家(うち)へ盗みにはいった所が、計(はか)らず甚内にめぐり合った事、なおまた父と甚内との密談も一つ残らず聞いた事、――そんな事を手短(てみじか)に話しました。が、甚内は不相変(あいかわらず)、黙然(もくねん)と口を噤(つぐ)んだまま、冷やかにわたしを見ているのです。わたしはその話をしてしまうと、一層膝を進ませながら、甚内の顔を覗(のぞ)きこみました。
「北条一家(ほうじょういっか)の蒙(こうむ)った恩は、わたしにもまたかかっています。わたしはその恩を忘れないしるしに、あなたの手下(てした)になる決心をしました。どうかわたしを使って下さい。わたしは盗みも知っています。火をつける術(すべ)も知っています。そのほか一通りの悪事だけは、人に劣(おと)らず知っています。――」
 しかし甚内は黙っています。わたしは胸を躍らせながら、いよいよ熱心に説き立てました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしは必ず働きます。京、伏見(ふしみ)、堺(さかい)、大阪、――わたしの知らない土地はありません。わたしは一日に十五里歩きます。力も四斗俵(しとびょう)は片手に挙(あが)ります。人も二三人は殺して見ました。どうかわたしを使って下さい。わたしはあなたのためならば、どんな仕事でもして見せます。伏見の城の白孔雀(しろくじゃく)も、盗めと云えば、盗んで来ます。『さん・ふらんしすこ』の寺の鐘楼(しゅろう)も、焼けと云えば焼いて来ます。右大臣家(うだいじんけ)の姫君も、拐(かどわか)せと云えば拐して来ます。奉行の首も取れと云えば、――」
 わたしはこう云いかけた時、いきなり雪の中へ蹴倒(けたお)されました。
「莫迦(ばか)め!」
 甚内(じんない)は一声叱ったまま、元の通り歩いて行きそうにします。わたしはほとんど気違いのように法衣(ころも)の裾(すそ)へ縋(すが)りつきました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしはどんな場合にも、きっとあなたを離れません。あなたのためには水火にも入ります。あの『えそぽ』の話の獅子王(ししおう)さえ、鼠(ねずみ)に救われるではありませんか? わたしはその鼠になります。わたしは、――」
「黙れ。甚内は貴様なぞの恩は受けぬ。」
 甚内はわたしを振り放すと、もう一度そこへ蹴倒しました。
「白癩(びゃくらい)めが! 親孝行でもしろ!」
 わたしは二度目に蹴倒された時、急に口惜(くや)しさがこみ上げて来ました。
「よし! きっと恩になるな!」
 しかし甚内は見返りもせず、さっさと雪路(ゆきみち)を急いで行きます。いつかさし始めた月の光に網代(あじろ)の笠(かさ)を仄(ほの)めかせながら、……それぎりわたしは二年の間(あいだ)、ずっと甚内を見ずにいるのです。(突然笑う)「甚内は貴様なぞの恩は受けぬ」……あの男はこう云いました。しかしわたしは夜(よ)の明け次第、甚内の代りに殺されるのです。
 ああ、おん母「まりや様!」わたしはこの二年間、甚内の恩を返したさに、どのくらい苦しんだか知れません。恩を返したさに?――いや、恩と云うよりも、むしろ恨(うらみ)を返したさにです。しかし甚内はどこにいるか? 甚内は何をしているか?――誰にそれがわかりましょう? 第一甚内はどんな男か?――それさえ知っているものはありません。わたしが遇(あ)った贋雲水(にせうんすい)は四十前後の小男です。が、柳町(やなぎまち)の廓(くるわ)にいたのは、まだ三十を越えていない、赧(あか)ら顔に鬚(ひげ)の生えた、浪人だと云うではありませんか? 歌舞伎(かぶき)の小屋を擾(さわ)がしたと云う、腰の曲った紅毛人(こうもうじん)、妙国寺(みょうこくじ)の財宝(ざいほう)を掠(かす)めたと云う、前髪の垂れた若侍、――そう云うのを皆甚内とすれば、あの男の正体(しょうたい)を見分ける事さえ、到底(とうてい)人力には及ばない筈です。そこへわたしは去年の末から、吐血(とけつ)の病に罹(かか)ってしまいました。
 どうか恨(うら)みを返してやりたい、――わたしは日毎に痩(や)せ細りながら、その事ばかりを考えていました。するとある夜わたしの心に、突然閃(ひらめ)いた一策があります。「まりや」様! 「まりや」様! この一策を御教え下すったのは、あなたの御恵みに違いありません。ただわたしの体を捨てる、吐血(とけつ)の病に衰え果てた、骨と皮ばかりの体を捨てる、――それだけの覚悟をしさえすれば、わたしの本望は遂げられるのです。わたしはその夜(よ)嬉しさの余り、いつまでも独り笑いながら、同じ言葉を繰返していました。――「甚内の身代(みがわ)りに首を打たれる。甚内の身代りに首を打たれる。………」
 甚内の身代りに首を打たれる――何とすばらしい事ではありませんか? そうすれば勿論わたしと一しょに、甚内の罪も亡(ほろ)んでしまう。――甚内は広い日本(にっぽん)国中、どこでも大威張(おおいばり)に歩けるのです。その代り(再び笑う)――その代りわたしは一夜の内に、稀代(きだい)の大賊(たいぞく)になれるのです。呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)の手代(てだい)だったのも、備前宰相(びぜんさいしょう)の伽羅(きゃら)を切ったのも、利休居士(りきゅうこじ)の友だちになったのも、沙室屋(しゃむろや)の珊瑚樹(さんごじゅ)を詐(かた)ったのも、伏見の城の金蔵(かねぐら)を破ったのも、八人の参河侍(みかわざむらい)を斬り倒したのも、――ありとあらゆる甚内の名誉は、ことごとくわたしに奪われるのです。(三度(さんど)笑う)云わば甚内を助けると同時に、甚内の名前を殺してしまう、一家の恩を返すと同時に、わたしの恨(うら)みも返してしまう、――このくらい愉快な返報(へんぽう)はありません。わたしがその夜(よ)嬉しさの余り、笑い続けたのも当然です。今でも、――この牢(ろう)の中でも、これが笑わずにいられるでしょうか?
 わたしはこの策を思いついた後、内裏(だいり)へ盗みにはいりました。宵闇(よいやみ)の夜(よ)の浅い内ですから、御簾(みす)越しに火影(ほかげ)がちらついたり、松の中に花だけ仄(ほの)めいたり、――そんな事も見たように覚えています。が、長い廻廊(かいろう)の屋根から、人気(ひとけ)のない庭へ飛び下りると、たちまち四五人の警護(けいご)の侍に、望みの通り搦(から)められました。その時です。わたしを組み伏せた鬚侍(ひげざむらい)は、一生懸命に縄(なわ)をかけながら、「今度こそは甚内を手捕りにしたぞ」と、呟(つぶや)いていたではありませんか? そうです。阿媽港甚内(あまかわじんない)のほかに、誰が内裏(だいり)なぞへ忍びこみましょう? わたしはこの言葉を聞くと、必死にもがいている間(あいだ)でも、思わず微笑(びしょう)を洩らしたものです。
「甚内は貴様なぞの恩にはならぬ。」――あの男はこう云いました。しかしわたしは夜(よ)の明け次第、甚内の代りに殺されるのです。何と云う気味(きみ)の好(よ)い面当(つらあ)てでしょう。わたしは首を曝(さら)されたまま、あの男の来るのを待ってやります。甚内はきっとわたしの首に、声のない哄笑(こうしょう)を感ずるでしょう。「どうだ、弥三郎(やさぶろう)の恩返しは?」――その哄笑はこう云うのです。「お前はもう甚内では無い。阿媽港甚内はこの首なのだ、あの天下に噂の高い、日本(にっぽん)第一の大盗人(おおぬすびと)は!」(笑う)ああ、わたしは愉快です。このくらい愉快に思った事は、一生にただ一度です。が、もし父の弥三右衛門(やそうえもん)に、わたしの曝(さら)し首を見られた時には、――(苦しそうに)勘忍して下さい。お父さん! 吐血の病に罹(かか)ったわたしは、たとい首を打たれずとも、三年とは命は続かないのです。どうか不孝は勘忍して下さい、わたしは極道(ごくどう)に生まれましたが、とにかく一家の恩だけは返す事が出来たのですから、………
(大正十一年三月)



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