玄鶴山房
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著者名:芥川竜之介 

それは又お鈴が恐れていたお芳の兄も同じことだった。お芳は千円の手切れ金を貰い、上総(かずさ)の或海岸にある両親の家へ帰った上、月々文太郎の養育料として若干の金を送って貰う、――彼はこういう条件に少しも異存を唱えなかった。のみならず妾宅に置いてあった玄鶴の秘蔵の煎茶(せんちゃ)道具なども催促されぬうちに運んで来た。お鈴は前に疑っていただけに一層彼に好意を感じた。
「就(つ)きましては妹のやつが若(も)しお手でも足りませんようなら、御看病に上りたいと申しておりますんですが。」
 お鈴はこの頼みに応じる前に腰ぬけの母に相談した。それは彼女の失策と云っても差し支えないものに違いなかった。お鳥は彼女の相談を受けると、あしたにもお芳に文太郎をつれて来て貰うように勧め出した。お鈴は母の気もちの外にも一家の空気の擾(みだ)されるのを惧(おそ)れ、何度も母に考え直させようとした。(その癖又一面には父の玄鶴とお芳の兄との中間(ちゅうかん)に立っている関係上、いつか素気なく先方の頼みを断れない気もちにも落ちこんでいた。)が、お鳥は彼女の言葉をどうしても素直には取り上げなかった。
「これがまだあたしの耳へはいらない前ならば格別だけれども――お芳の手前も羞(はずか)しいやね。」
 お鈴はやむを得ずお芳の兄にお芳の来ることを承諾した。それも亦或は世間を知らない彼女の失策だったかも知れなかった。現に重吉は銀行から帰り、お鈴にこの話を聞いた時、女のように優しい眉(まゆ)の間にちょっと不快らしい表情を示した。「そりゃ人手が殖えることは難有(ありがた)いにも違いないがね。………お父さんにも一応話して見れば善いのに。お父さんから断るのならばお前にも責任のない訣なんだから。」――そんなことも口に出して言ったりした。お鈴はいつになく欝(ふさ)ぎこんだまま、「そうだったわね」などと返事をしていた。しかし玄鶴に相談することは、――お芳に勿論未練のある瀕死(ひんし)の父に相談することは彼女には今になって見ても出来ない相談に違いなかった。
 ………お鈴はお芳親子を相手にしながら、こう云う曲折を思い出したりした。お芳は長火鉢に手もかざさず、途絶え勝ちに彼女の兄のことや文太郎のことを話していた。彼女の言葉は四五年前のように「それは」を S-rya と発音する田舎訛(いなかなま)りを改めなかった。お鈴はこの田舎訛りにいつか彼女の心もちも或気安さを持ち出したのを感じた。同時に又襖(ふすま)一重向うに咳(せき)一つしずにいる母のお鳥に何か漠然とした不安も感じた。
「じゃ一週間位はいてくれられるの?」
「はい、こちら様さえお差支えございませんければ。」
「でも着換え位なくっちゃいけなかないの?」
「それは兄が夜分にでも届けると申しておりましたから。」
 お芳はこう答えながら、退屈らしい文太郎に懐のキャラメルを出してやったりした。
「じゃお父さんにそう言って来ましょう。お父さんもすっかり弱ってしまってね。障子の方へ向っている耳だけ霜焼けが出来たりしているのよ。」
 お鈴は長火鉢の前を離れる前に何となしに鉄瓶をかけ直した。
「お母さん。」
 お鳥は何か返事をした。それはやっと彼女の声に目を醒(さ)ましたらしい粘り声だった。
「お母さん。お芳さんが見えましたよ。」
 お鈴はほっとした気もちになり、お芳の顔を見ないように早速長火鉢の前を立ち上った。それから次の間を通りしなにもう一度「お芳さんが」と声をかけた。お鳥は横になったまま、夜着の襟に口もとを埋めていた。が、彼女を見上げると、目だけに微笑に近いものを浮かべ、「おや、まあ、よく早く」と返事をした。お鈴ははっきりと彼女の背中にお芳の来ることを感じながら、雪のある庭に向った廊下をそわそわ「離れ」へ急いで行った。
「離れ」は明るい廊下から突然はいって来たお鈴の目には実際以上に薄暗かった。玄鶴は丁度起き直ったまま、甲野に新聞を読ませていた。が、お鈴の顔を見ると、いきなり「お芳か?」と声をかけた。それは妙に切迫した、詰問に近い嗄(しゃが)れ声(ごえ)だった。お鈴は襖側(ふすまがわ)に佇(たたず)んだなり、反射的に「ええ」と返事をした。それから、――誰も口を利かなかった。
「すぐにここへよこしますから。」
「うん。………お芳一人かい?」
「いいえ。………」
 玄鶴は黙って頷(うなず)いていた。
「じゃ甲野さん、ちょっとこちらへ。」
 お鈴は甲野よりも一足先に小走りに廊下を急いで行った。丁度雪の残った棕櫚(しゅろ)の葉の上には鶺鴒(せきれい)が一羽尾を振っていた。しかし彼女はそんなことよりも病人臭い「離れ」の中から何か気味の悪いものがついて来るように感じてならなかった。

   四

 お芳が泊りこむようになってから、一家の空気は目に見えて険悪になるばかりだった。それはまず武夫が文太郎をいじめることから始まっていた。文太郎は父の玄鶴よりも母のお芳に似た子供だった。しかも気の弱い所まで母のお芳に似た子供だった。お鈴も勿論(もちろん)こう云う子供に同情しない訣(わけ)ではないらしかった。が時々は文太郎を意気地なしと思うこともあるらしかった。
 看護婦の甲野は職業がら、冷やかにこのありふれた家庭的悲劇を眺めていた、――と云うよりも寧(むし)ろ享楽していた。彼女の過去は暗いものだった。彼女は病家の主人だの病院の医者だのとの関係上、何度一塊の青酸加里を嚥(の)もうとしたことだか知れなかった。この過去はいつか彼女の心に他人の苦痛を享楽する病的な興味を植えつけていた。彼女は堀越家へはいって来た時、腰ぬけのお鳥が便をする度に手を洗わないのを発見した。「この家のお嫁さんは気が利いている。あたしたちにも気づかないように水を持って行ってやるようだから。」――そんなことも一時は疑深い彼女の心に影を落した。が、四五日いるうちにそれは全然お嬢様育ちのお鈴の手落ちだったのを発見した。彼女はこの発見に何か満足に近いものを感じ、お鳥の便をする度に洗面器の水を運んでやった。
「甲野さん、あなたのおかげさまで人間並みに手が洗えます。」
 お鳥は手を合せて涙をこぼした。甲野はお鳥の喜びには少しも心を動かさなかった。しかしそれ以来三度に一度は水を持って行かなければならぬお鈴を見ることは愉快だった。従ってこう云う彼女には子供たちの喧嘩(けんか)も不快ではなかった。彼女は玄鶴にはお芳親子に同情のあるらしい素振りを示した。同時に又お鳥にはお芳親子に悪意のあるらしい素振りを示した。それはたとい徐(おもむ)ろにもせよ、確実に効果を与えるものだった。
 お芳が泊ってから一週間ほどの後、武夫は又文太郎と喧嘩をした。喧嘩は唯(ただ)豚の尻(し)っ尾(ぽ)は柿の蔕(へた)に似ているとか似ていないとか云うことから始まっていた。武夫は彼の勉強部屋の隅に、――玄関の隣の四畳半の隅にか細い文太郎を押しつけた上、さんざん打ったり蹴(け)ったりした。そこへ丁度来合せたお芳は泣き声も出ない文太郎を抱き上げ、こう武夫をたしなめにかかった。
「坊ちゃん、弱いものいじめをなすってはいけません。」
 それは内気な彼女には珍らしい棘(とげ)のある言葉だった。武夫はお芳の権幕に驚き、今度は彼自身泣きながら、お鈴のいる茶の間へ逃げこもった。するとお鈴もかっとしたと見え、手ミシンの仕事をやりかけたまま、お芳親子のいる所へ無理八理に武夫を引きずって行った。
「お前が一体我儘(わがまま)なんです。さあ、お芳さんにおあやまりなさい、ちゃんと手をついておあやまりなさい。」
 お芳はこう云うお鈴の前に文太郎と一しょに涙を流し、平あやまりにあやまる外はなかった。その又仲裁役を勤めるものは必ず看護婦の甲野だった。甲野は顔を赤めたお鈴を一生懸命に押し戻しながら、いつももう一人の人間の、――じっとこの騒ぎを聞いている玄鶴の心もちを想像し、内心には冷笑を浮かべていた。が、勿論そんな素ぶりは決して顔色にも見せたことはなかった。
 けれども一家を不安にしたものは必しも子供の喧嘩ばかりではなかった。お芳は又いつの間にか何ごともあきらめ切ったらしいお鳥の嫉妬(しっと)を煽(あお)っていた。尤(もっと)もお鳥はお芳自身には一度も怨(うら)みなどを言ったことはなかった。(これは又五六年前、お芳がまだ女中部屋に寝起きしていた頃も同じだった。)が、全然関係のない重吉に何かと当り勝ちだった。重吉は勿論とり合わなかった。お鈴はそれを気の毒に思い、時々母の代りに詫(わ)びたりした。しかし彼は苦笑したぎり、「お前までヒステリイになっては困る」と話を反らせるのを常としていた。
 甲野はお鳥の嫉妬にもやはり興味を感じていた。お鳥の嫉妬それ自身は勿論、彼女が重吉に当る気もちも甲野にははっきりとわかっていた。のみならず彼女はいつの間にか彼女自身も重吉夫婦に嫉妬に近いものを感じていた。お鈴は彼女には「お嬢様」だった。重吉も――重吉は兎(と)に角(かく)世間並みに出来上った男に違いなかった。が、彼女の軽蔑(けいべつ)する一匹の雄(おす)にも違いなかった。こう云う彼等の幸福は彼女には殆(ほとん)ど不正だった。彼女はこの不正を矯(た)める為に(!)重吉に馴(な)れ馴(な)れしい素振りを示した。それは或は重吉には何ともないものかも知れなかった。けれどもお鳥を苛立(いらだ)たせるには絶好の機会を与えるものだった。お鳥は膝頭(ひざがしら)も露(あら)わにしたまま、「重吉、お前はあたしの娘では――腰ぬけの娘では不足なのかい?」と毒々しい口をきいたりした。
 しかしお鈴だけはその為に重吉を疑ったりはしないらしかった。いや、実際甲野にも気の毒に思っているらしかった。甲野はそこに不満を持ったばかりか、今更のように人の善いお鈴を軽蔑せずにはいられなかった。が、いつか重吉が彼女を避け出したのは愉快だった。のみならず彼女を避けているうちに反(かえっ)て彼女に男らしい好奇心を持ち出したのは愉快だった。彼は前には甲野がいる時でも、台所の側の風呂へはいる為に裸になることをかまわなかった。けれども近頃ではそんな姿を一度も甲野に見せないようになった。それは彼が羽根を抜いた雄鶏(おんどり)に近い彼の体を羞(は)じている為に違いなかった。甲野はこう云う彼を見ながら、(彼の顔も亦雀斑(そばかす)だらけだった。)一体彼はお鈴以外の誰に惚(ほ)れられるつもりだろうなどと私(ひそ)かに彼を嘲(あざけ)ったりしていた。
 或霜曇りに曇った朝、甲野は彼女の部屋になった玄関の三畳に鏡を据え、いつも彼女が結びつけたオオル・バックに髪を結びかけていた。それは丁度愈(いよいよ)お芳が田舎へ帰ろうと言う前日だった。お芳がこの家を去ることは重吉夫婦には嬉(うれ)しいらしかった。が、反ってお鳥には一層苛立たしさを与えるらしかった。甲野は髪を結びながら、甲高(かんだか)いお鳥の声を聞き、いつか彼女の友だちが話した或女のことを思い出した。彼女はパリに住んでいるうちにだんだん烈(はげ)しい懐郷病に落ちこみ、夫の友だちが帰朝するのを幸い、一しょに船へ乗りこむことにした。長い航海も彼女には存外苦痛ではないらしかった。しかし彼女は紀州沖へかかると、急になぜか興奮しはじめ、とうとう海へ身を投げてしまった。日本へ近づけば近づくほど、懐郷病も逆に昂(たか)ぶって来る、――甲野は静かに油っ手を拭(ふ)き、腰ぬけのお鳥の嫉妬は勿論、彼女自身の嫉妬にもやはりこう云う神秘な力が働いていることを考えたりしていた。
「まあ、お母さん、どうしたんです? こんな所まで這(は)い出(だ)して来て。お母さんったら。――甲野さん、ちょっと来て下さい。」
 お鈴の声は「離れ」に近い縁側から響いて来るらしかった。甲野はこの声を聞いた時、澄み渡った鏡に向ったまま、始めてにやりと冷笑を洩(も)らした。それからさも驚いたように「はい唯今(ただいま)」と返事をした。

   五

 玄鶴はだんだん衰弱して行った。彼の永年の病苦は勿論(もちろん)、彼の背中から腰へかけた床ずれの痛みも烈(はげ)しかった。彼は時々唸(うな)り声(ごえ)を挙げ、僅(わず)かに苦しみを紛(まぎ)らせていた。しかし彼を悩ませたものは必しも肉体的苦痛ばかりではなかった。彼はお芳の泊っている間は多少の慰めを受けた代りにお鳥の嫉妬(しっと)や子供たちの喧嘩(けんか)にしっきりない苦しみを感じていた。けれどもそれはまだ善かった。玄鶴はお芳の去った後は恐しい孤独を感じた上、長い彼の一生と向い合わない訣(わけ)には行かなかった。
 玄鶴の一生はこう云う彼には如何にも浅ましい一生だった。成程ゴム印の特許を受けた当座は比較的彼の一生でも明るい時代には違いなかった。しかしそこにも儕輩(さいはい)の嫉妬や彼の利益を失うまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめていた。ましてお芳を囲い出した後は、――彼は家庭のいざこざの外にも彼等の知らない金の工面にいつも重荷を背負いつづけだった。しかも更に浅ましいことには年の若いお芳に惹(ひ)かれていたものの、少くともこの一二年は何度内心にお芳親子を死んでしまえと思ったか知れなかった。
「浅ましい?――しかしそれも考えて見れば、格別わしだけに限ったことではない。」
 彼は夜などはこう考え、彼の親戚(しんせき)や知人のことを一々細かに思い出したりした。彼の婿の父親は唯(ただ)「憲政を擁護する為に」彼よりも腕の利かない敵を何人も社会的に殺していた。それから彼に一番親しい或年輩の骨董屋(こっとうや)は先妻の娘に通じていた。それから或弁護士は供託金を費消していた。それから或篆刻家(てんこくか)は、――しかし彼等の犯した罪は不思議にも彼の苦しみには何の変化も与えなかった。のみならず逆に生そのものにも暗い影を拡(ひろ)げるばかりだった。
「何、この苦しみも長いことはない。お目出度くなってしまいさえすれば………」
 これは玄鶴にも残っていたたった一つの慰めだった。彼は心身に食いこんで来るいろいろの苦しみを紛らす為に楽しい記憶を思い起そうとした。けれども彼の一生は前にも言ったように浅ましかった。若(も)しそこに少しでも明るい一面があるとすれば、それは唯何も知らない幼年時代の記憶だけだった。彼は度たび夢うつつの間に彼の両親の住んでいた信州の或山峡の村を、――殊に石を置いた板葺(いたぶ)き屋根や蚕臭(かいこくさ)い桑ボヤを思い出した。が、その記憶もつづかなかった。彼は時々唸り声の間に観音経を唱えて見たり、昔のはやり歌をうたって見たりした。しかも「妙音観世音(みょうおんかんぜおん)、梵音海潮音(ぼんおんかいちょうおん)、勝彼世間音(しょうひせけんおん)」を唱えた後、「かっぽれ、かっぽれ」をうたうことは滑稽(こっけい)にも彼には勿体(もったい)ない気がした。
「寝るが極楽。寝るが極楽………」
 玄鶴は何も彼も忘れる為に唯ぐっすり眠りたかった。実際又甲野は彼の為に催眠薬を与える外にもヘロインなどを注射していた。けれども彼には眠りさえいつも安らかには限らなかった。彼は時々夢の中にお芳や文太郎に出合ったりした。それは彼には、――夢の中の彼には明るい心もちのするものだった。(彼は或夜の夢の中にはまだ新しい花札の「桜の二十」と話していた。しかもその又「桜の二十」は四五年前のお芳の顔をしていた。)しかしそれだけに目の醒(さ)めた後は一層彼を見じめにした。玄鶴はいつか眠ることにも恐怖に近い不安を感ずるようになった。
 大晦日(おおみそか)もそろそろ近づいた或午後、玄鶴は仰向(あおむ)けに横たわったなり、枕(まくら)もとの甲野へ声をかけた。
「甲野さん、わしはな、久しく褌(ふんどし)をしめたことがないから、晒(さら)し木綿(もめん)を六尺買わせて下さい。」
 晒し木綿を手に入れることはわざわざ近所の呉服屋へお松を買いにやるまでもなかった。
「しめるのはわしが自分でしめます。ここへ畳んで置いて行って下さい。」
 玄鶴はこの褌を便りに、――この褌に縊(くび)れ死ぬことを便りにやっと短い半日を暮した。しかし床の上に起き直ることさえ人手を借りなければならぬ彼には容易にその機会も得られなかった。のみならず死はいざとなって見ると、玄鶴にもやはり恐しかった。彼は薄暗い電灯の光に黄檗(おうばく)の一行ものを眺めたまま、未だ生を貪(むさぼ)らずにはいられぬ彼自身を嘲(あざけ)ったりした。
「甲野さん、ちょっと起して下さい。」
 それはもう夜の十時頃だった。
「わしはな、これからひと眠りします。あなたも御遠慮なくお休みなすって下さい。」
 甲野は妙に玄鶴を見つめ、こう素っ気ない返事をした。
「いえ、わたくしは起きております。これがわたくしの勤めでございますから。」
 玄鶴は彼の計画も甲野の為に看破(みやぶ)られたのを感じた。が、ちょっと頷(うなず)いたぎり、何も言わずに狸寝入(たぬきねい)りをした。甲野は彼の枕もとに婦人雑誌の新年号をひろげ、何か読み耽(ふ)けっているらしかった。玄鶴はやはり蒲団(ふとん)の側の褌のことを考えながら、薄目(うすめ)に甲野を見守っていた。すると――急に可笑(おか)しさを感じた。
「甲野さん。」
 甲野も玄鶴の顔を見た時はさすがにぎょっとしたらしかった。玄鶴は夜着によりかかったまま、いつかとめどなしに笑っていた。
「なんでございます?」
「いや、何でもない。何にも可笑しいことはありません。――」
 玄鶴はまだ笑いながら、細い右手を振って見せたりした。
「今度は………なぜかこう可笑しゅうなってな。………今度はどうか横にして下さい。」
 一時間ばかりたった後、玄鶴はいつか眠っていた。その晩は夢も恐しかった。彼は樹木の茂った中に立ち、腰の高い障子の隙(すき)から茶室めいた部屋を覗(のぞ)いていた。そこには又まる裸の子供が一人、こちらへ顔を向けて横になっていた。それは子供とは云うものの、老人のように皺(しわ)くちゃだった。玄鶴は声を挙げようとし、寝汗だらけになって目を醒ました。…………
「離れ」には誰も来ていなかった。のみならずまだ薄暗かった。まだ?――しかし玄鶴は置き時計を見、彼是(かれこれ)正午に近いことを知った。彼の心は一瞬間、ほっとしただけに明るかった。けれども又いつものように忽(たちま)ち陰欝(いんうつ)になって行った。彼は仰向けになったまま、彼自身の呼吸を数えていた。それは丁度何ものかに「今だぞ」とせかれている気もちだった。玄鶴はそっと褌を引き寄せ、彼の頭に巻きつけると、両手にぐっと引っぱるようにした。
 そこへ丁度顔を出したのはまるまると着膨(きぶく)れた武夫だった。
「やあ、お爺さんがあんなことをしていらあ。」
 武夫はこう囃(はや)しながら、一散に茶の間へ走って行った。

   六

 一週間ばかりたった後、玄鶴は家族たちに囲まれたまま、肺結核の為に絶命した。彼の告別式は盛大(!)だった。(唯、腰ぬけのお鳥だけはその式にも出る訣に行かなかった。)彼の家に集まった人々は重吉夫婦に悔みを述べた上、白い綸子(りんず)に蔽(おお)われた彼の柩(ひつぎ)の前に焼香した。が、門を出る時には大抵彼のことを忘れていた。尤(もっと)も彼の故朋輩(ほうばい)だけは例外だったのに違いなかった。「あの爺さんも本望だったろう。若い妾(めかけ)も持っていれば、小金もためていたんだから。」――彼等は誰も同じようにこんなことばかり話し合っていた。
 彼の柩(ひつぎ)をのせた葬用馬車は一輛(りょう)の馬車を従えたまま、日の光も落ちない師走(しわす)の町を或火葬場へ走って行った。薄汚い後の馬車に乗っているのは重吉や彼の従弟(いとこ)だった。彼の従弟の大学生は馬車の動揺を気にしながら、重吉と余り話もせずに小型の本に読み耽(ふけ)っていた。それは Liebknecht の追憶録の英訳本だった。が、重吉は通夜疲れの為にうとうと居睡(いねむ)りをしていなければ、窓の外の新開町を眺め、「この辺もすっかり変ったな」などと気のない独り語を洩(も)らしていた。
 二輛の馬車は霜どけの道をやっと火葬場へ辿(たど)り着いた。しかし予(あらかじ)め電話をかけて打ち合せて置いたのにも関らず、一等の竈は満員になり、二等だけ残っていると云うことだった。それは彼等にはどちらでも善かった。が、重吉は舅(しゅうと)よりも寧(むし)ろお鈴の思惑を考え、半月形の窓越しに熱心に事務員と交渉した。
「実は手遅れになった病人だしするから、せめて火葬にする時だけは一等にしたいと思うんですがね。」――そんな□(うそ)もついて見たりした。それは彼の予期したよりも効果の多い□らしかった。
「ではこうしましょう。一等はもう満員ですから、特別に一等の料金で特等で焼いて上げることにしましょう。」
 重吉は幾分か間の悪さを感じ、何度も事務員に礼を言った。事務員は真鍮(しんちゅう)の眼鏡をかけた好人物らしい老人だった。
「いえ、何、お礼には及びません。」
 彼等は竈に封印した後、薄汚い馬車に乗って火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀(れんがべい)の前に佇(たたず)んだまま、彼等の馬車に目礼していた。重吉はちょっと狼狽(ろうばい)し、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乗せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラアの枯れた道を走っていた。
「あれですね?」
「うん、………俺たちの来た時もあすこにいたかしら。」
「さあ、乞食(こじき)ばかりいたように思いますがね。……あの女はこの先どうするでしょう?」
 重吉は一本の敷島(しきしま)に火をつけ、出来るだけ冷淡に返事をした。
「さあ、どう云うことになるか。……」
 彼の従弟は黙っていた。が、彼の想像は上総(かずさ)の或海岸の漁師町を描いていた。それからその漁師町に住まなければならぬお芳親子も。――彼は急に険しい顔をし、いつかさしはじめた日の光の中にもう一度リイプクネヒトを読みはじめた。




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