伝吉の敵打ち
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著者名:芥川竜之介 

 伝吉はたちまち枡屋(ますや)を逐(お)われ、唐丸(とうまる)の松(まつ)と称された博徒松五郎(まつごろう)の乾児(こぶん)になった。爾来(じらい)ほとんど二十年ばかりは無頼(ぶらい)の生活を送っていたらしい。(註五)「木(こ)の葉(は)」はこの間(あいだ)に伝吉の枡屋の娘を誘拐(ゆうかい)したり、長窪(ながくぼ)の本陣(ほんじん)何某へ強請(ゆすり)に行ったりしたことを伝えている。これも他の諸書に載せてないのを見れば、軽々(けいけい)に真偽(しんぎ)を決することは出来ない。現に「農家義人伝」は「伝吉、一郷(いっきょう)の悪少(あくしょう)と共に屡(しばしば)横逆(おうげき)を行えりと云う。妄誕(もうたん)弁ずるに足らざる也。伝吉は父讐(ふしゅう)を復せんとするの孝子、豈(あに)、這般(しゃはん)の無状(ぶじょう)あらんや」と「木の葉」の記事を否定している。けれども伝吉はこの間も仇打ちの一念は忘れなかったのであろう。比較的伝吉に同情を持たない皆川蜩庵(みながわちょうあん)さえこう書いている。「伝吉は朋輩(ほうばい)どもには仇あることを云わず、仇あることを知りしものには自(みずか)らも仇の名など知らざるように装(よそお)いしとなり。深志(しんし)あるものの所作(しょさ)なるべし。」が、歳月は徒(いたず)らに去り、平四郎の往くえは不相変(あいかわらず)誰の耳にもはいらなかった。
 すると安政(あんせい)六年の秋、伝吉はふと平四郎の倉井(くらい)村にいることを発見した。もっとも今度は昔のように両刀を手挟(たばさ)んでいたのではない。いつか髪(かみ)を落した後(のち)、倉井村の地蔵堂(じぞうどう)の堂守(どうもり)になっていたのである。伝吉は「冥助(みょうじょ)のかたじけなさ」を感じた。倉井村と云えば長窪から五里に足りない山村(さんそん)である。その上笹山(ささやま)村に隣(とな)り合っているから、小径(こみち)も知らないのは一つもない。(地図参照)伝吉は現在平四郎の浄観(じょうかん)と云っているのも確かめた上、安政六年九月七日(なのか)、菅笠(すげがさ)をかぶり、旅合羽(たびがっぱ)を着、相州無銘(そうしゅうむめい)の長脇差(ながわきざし)をさし、たった一人仇打ちの途(と)に上(のぼ)った。父の伝三の打たれた年からやっと二十三年目に本懐(ほんかい)を遂げようとするのである。
 伝吉の倉井村へはいったのは戌(いぬ)の刻(こく)を少し過ぎた頃だった。これは邪魔(じゃま)のはいらないためにわざと夜を選んだからである。伝吉は夜寒(よさむ)の田舎道(いなかみち)を山のかげにある地蔵堂へ行った。窓障子(まどしょうじ)の破れから覗(のぞ)いて見ると、榾明(ほたあか)りに照された壁の上に大きい影が一つ映(うつ)っていた。しかし影の持主は覗(のぞ)いている角度の関係上、どうしても見ることは出来なかった。ただその大きい目前(もくぜん)の影は疑う余地のない坊主頭(ぼうずあたま)だった。のみならずしばらく聞き澄ましていても、この佗(わび)しい堂守(どうもり)のほかに人のいるけはいは聞えなかった。伝吉はまず雨落(あまお)ちの石へそっと菅笠(すげがさ)を仰向(あおむ)けに載せた。それから静かに旅合羽(たびがっぱ)を脱ぎ、二つに畳(たた)んだのを笠の中に入れた。笠も合羽もいつの間(ま)にかしっとりと夜露(よつゆ)にしめっていた。すると、――急に便通を感じた。伝吉はやむを得ず藪(やぶ)かげへはいり、漆(うるし)の木の下(した)へ用を足した。この一条を田代玄甫(たしろげんぽ)は「胆(きも)の太きこそ恐ろしけれ」と称(たた)え、小泉孤松(こいずみこしょう)は「伝吉の沈勇、極まれり矣(い)」と嘆じている。
 身仕度(みじたく)を整えた伝吉は長脇差(ながわきざし)を引き抜いた後(のち)、がらりと地蔵堂の門障子(かどしょうじ)をあけた。囲炉裡(いろり)の前には坊主が一人、楽々(らくらく)と足を投げ出していた。坊主はこちらへ背を見せたまま、「誰じゃい?」とただ声をかけた。伝吉はちょいと拍子抜(ひょうしぬ)けを感じた。第一にこう云う坊主の態度は仇(あだ)を持つ人とも思われなかった。第二にその後ろ姿は伝吉の心に描(えが)いていたよりもずっと憔悴(しょうすい)を極めていた。伝吉はほとんど一瞬間人違いではないかと云う疑いさえ抱いた。しかしもう今となってはためらっていられないのは勿論だった。
 伝吉は後(うし)ろ手に障子をしめ、「服部平四郎(はっとりへいしろう)」と声をかけた。坊主はそれでも驚きもせずに、不審(ふしん)そうに客を振り返った。が、白刃(しらは)の光りを見ると、咄嵯(とっさ)に法衣(ころも)の膝(ひざ)を起した。榾火(ほたび)に照らされた坊主の顔は骨と皮ばかりになった老人だった。しかし伝吉はその顔のどこかにはっきりと服部平四郎を感じた。
「誰じゃい、おぬしは?」
「伝三の倅(せがれ)の伝吉だ。怨(うら)みはおぬしの身に覚えがあるだろう。」
 浄観(じょうかん)は大きい目をしたまま、黙然(もくねん)とただ伝吉を見上げた。その顔に現れた感情は何とも云われない恐怖(きょうふ)だった。伝吉は刀を構えながら、冷やかにこの恐怖を享楽した。
「さあ、その伝三の仇(あだ)を返しに来たのだ。さっさと立ち上って勝負をしろ。」
「何、立ち上れじゃ?」
 浄観は見る見る微笑(びしょう)を浮べた。伝吉はこの微笑の中に何か妙に凄(すご)いものを感じた。
「おぬしは己(おれ)が昔のように立ち上れると思うているのか? 己は居(い)ざりじゃ。腰抜けじゃ。」
 伝吉は思わず一足(ひとあし)すさった。いつか彼の構えた刀はぶるぶる切先(きっさき)を震(ふる)わしていた。浄観はその容子(ようす)を見やったなり、歯の抜けた口をあからさまにもう一度こうつけ加えた。
「立ち居さえ自由にはならぬ体じゃ。」
「嘘(うそ)をつけ。嘘を……」
 伝吉は必死に罵(ののし)りかけた。が、浄観は反対に少しずつ冷静に返り出した。
「何が嘘じゃ? この村のものにも聞いて見るが好(よ)い。己は去年の大患(おおわずら)いから腰ぬけになってしもうたのじゃ。じゃが、――」
 浄観はちょいと言葉を切ると、まともに伝吉の目の中を見つめた。
「じゃが己(おれ)は卑怯(ひきょう)なことは云わぬ。いかにもおぬしの云う通り、おぬしの父親(てておや)は己の手にかけた。この腰抜けでも打つと云うなら、立派(りっぱ)に己は打たれてやる。」
 伝吉は短い沈黙の間(あいだ)にいろいろの感情の群(むら)がるのを感じた。嫌悪(けんお)、憐憫(れんびん)、侮蔑(ぶべつ)、恐怖、――そう云う感情の高低(こうてい)は徒(いたずら)に彼の太刀先(たちさき)を鈍(にぶ)らせる役に立つばかりだった。伝吉は浄観を睨(にら)んだぎり、打とうか打つまいかと逡巡(しゅんじゅん)していた。
「さあ、打て。」
 浄観はほとんど傲然(ごうぜん)と斜(ななめ)に伝吉へ肩を示した。その拍子(ひょうし)にふと伝吉は酒臭い浄観の息を感じた。と同時に昔の怒のむらむらと心に燃え上るのを感じた。それは父を見殺しにした彼自身に対する怒だった。理が非でも仇(あだ)を打たなければ消えることを知らない怒だった。伝吉は武者震(むしゃぶる)いをするが早いか、いきなり浄観を袈裟(けさ)がけに斬った。……
 伝吉の見事に仇を打った話はたちまち一郷(いちごう)の評判になった。公儀(こうぎ)も勿論この孝子には格別の咎(とが)めを加えなかったらしい。もっとも予(あらかじ)め仇打ちの願書(がんしょ)を奉ることを忘れていたから、褒美(ほうび)の沙汰(さた)だけはなかったようである。その後(ご)の伝吉を語ることは生憎(あいにく)この話の主題ではない。が、大体を明かにすれば、伝吉は維新(いしん)後材木商を営み、失敗に失敗を重ねた揚句(あげく)、とうとう精神に異状を来した。死んだのは明治(めいじ)十年の秋、行年(ぎょうねん)はちょうど五十三である。(註六)しかしこう云う最期(さいご)のことなどは全然諸書に伝わっていない。現に「孝子伝吉物語」は下(しも)のように話を結んでいる。――
「伝吉はその後(のち)家富み栄え、楽しい晩年を送りました。積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)ありとは誠にこの事でありましょう。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。」
(大正十二年十二月)



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