カルメン
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著者名:芥川竜之介 

 僕等はとうとう最後の幕まで、――カルメンの死骸(しがい)を擁(よう)したホセが、「カルメン! カルメン!」と慟哭(どうこく)するまで僕等のボックスを離れなかった。それは勿論舞台よりもイイナ・ブルスカアヤを見ていたためである。この男を殺したことを何とも思っていないらしい露西亜のカルメンを見ていたためである。

       ×          ×          ×

 それから二三日たったある晩、僕はあるレストランの隅にT君とテエブルを囲んでいた。
「君はイイナがあの晩以来、確か左の薬指(くすりゆび)に繃帯(ほうたい)していたのに気がついているかい?」
「そう云えば繃帯していたようだね。」
「イイナはあの晩ホテルへ帰ると、……」
「駄目(だめ)だよ、君、それを飲んじゃ。」
 僕はT君に注意した。薄い光のさしたグラスの中にはまだ小さい黄金虫(こがねむし)が一匹、仰向(あおむ)けになってもがいていた。T君は白葡萄酒(しろぶどうしゅ)を床(ゆか)へこぼし、妙な顔をしてつけ加えた。
「皿を壁へ叩きつけてね、そのまた欠片(かけら)をカスタネットの代りにしてね、指から血の出るのもかまわずにね、……」
「カルメンのように踊ったのかい?」
 そこへ僕等の興奮とは全然つり合わない顔をした、頭の白い給仕が一人、静に鮭(さけ)の皿を運んで来た。……
(大正十五年四月十日)



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