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著者名:芥川竜之介 

 半時間もかからずに書いた弔辞は意外の感銘を与えている。が、幾晩も電燈の光りに推敲(すいこう)を重ねた小説はひそかに予期した感銘の十分の一も与えていない。勿論彼はN氏の言葉を一笑に付する余裕(よゆう)を持っている。しかし現在の彼自身の位置は容易に一笑(いっしょう)に付することは出来ない。彼は弔辞には成功し、小説には見事に失敗した。これは彼自身の身になって見れば、心細い気のすることは事実である。一体運命は彼のためにいつこう云う悲しい喜劇の幕を下(おろ)してくれるであろう?………
 保吉はふと空を見上げた。空には枝を張った松の中に全然光りのない月が一つ、赤銅色(しゃくどういろ)にはっきりかかっている。彼はその月を眺めているうちに小便をしたい気がした。人通りは幸い一人もない。往来の左右は不相変(あいかわらず)ひっそりした篠垣の一列である。彼は右側の垣の下へ長ながと寂しい小便をした。
 するとまだ小便をしているうちに、保吉の目の前の篠垣はぎいと後ろへ引きあげられた。垣だとばかり思っていたものは垣のように出来た木戸(きど)だったのであろう。そのまた木戸から出て来たのを見れば、口髭(くちひげ)を蓄(たくわ)えた男である。保吉は途方(とほう)に暮れたから、小便だけはしつづけたまま、出来るだけゆっくり横向きになった。
「困りますなあ。」
 男はぼんやりこう云った。何だか当惑そのものの人間になったような声をしている。保吉はこの声を耳にした時、急に小便も見えないほど日の暮れているのを発見した。
(大正十三年三月)



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