文芸的な、余りに文芸的な
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著者名:芥川竜之介 

 ――代助は花瓶の右手にある組み重ねの書棚の前へ行つて、上に載せた重い写真帖を取り上げて、立ちながら、金の留金(とめがね)を外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃まで来てぴたりと手を留めた。其処には二十歳位の女の半身がある。代助は眼を俯(ふ)せて凝(ぢつ)と女の顔を見詰めてゐた。――
 これは「それから」の第一回の結末である。
 出門日已遠(しゆつもんひすでにとほし) 不受徒旅欺(うけずとりよのあざむくを) 骨肉恩豈断(こつにくのおんあにたたんや) 手中挑青糸(しゆちゆうせいしをとる) 捷下万仞岡 俯身試搴旗
 これは更にずつと古い杜甫(とほ)の「前出塞(ぜんしゆつさい)」の詩の結末――ではない一首である。が、いづれも目に訴へる、――言はば一枚の人物画に近い造形美術的効果により、結末を生かしてゐるのは同じことである。
 (五)[#「(五)」は縦中横] これは畢竟(ひつきやう)余論である。志賀直哉氏の「子を盗む話」は西鶴の「子供地蔵」(大下馬(おほげば))を思はせ易い。が、更に「范(はん)の犯罪」はモオパスサンの「ラルテイスト」(?)を思はせるであらう。「ラルテイスト」の主人公はやはり女の体のまはりへナイフを打ちつける芸人である。「范の犯罪」の主人公は或精神的薄明りの中に見事に女を殺してしまふ。が、「ラルテイスト」の主人公は如何(いか)に女を殺さうとしても、多年の熟練を積んだ結果、ナイフは女の体に立たずに体のまはりにだけ立つのである。しかもこの事実を知つてゐる女は冷然と男を見つめたまま、微笑さへ洩らしてゐるのである。けれども西鶴の「子供地蔵」は勿論、モオパスサンの「ラルテイスト」も志賀直哉氏の作品には何の関係も持つてゐない。これは後世の批評家たちに模倣呼(よば)はりをさせぬ為に特にちよつとつけ加へるのである。

     六 僕等の散文

 佐藤春夫氏の説によれば、僕等の散文は口語文であるから、しやべるやうに書けと云ふことである。これは或は佐藤氏自身は不用意の裡(うち)に言つたことかも知れない。しかしこの言葉は或問題を、――「文章の口語化」と云ふ問題を含んでゐる。近代の散文は恐らくは「しやべるやうに」の道を踏んで来たのであらう。僕はその著しい例に(近くは)武者小路実篤、宇野浩二、佐藤春夫等の諸氏の散文を数へたいものである。志賀直哉氏も亦この例に洩れない。しかし僕等の「しやべりかた」が、紅毛人の「しやべりかた」は暫く問はず、隣国たる支那人の「しやべりかた」よりも音楽的でないことも事実である。僕は「しやべるやうに書きたい」願ひも勿論持つてゐないものではない。が、同時に又一面には「書くやうにしやべりたい」とも思ふものである。僕の知つてゐる限りでは夏目先生はどうかすると、実に「書くやうにしやべる」作家だつた。(但し「書くやうにしやべるものは即ちしやべるやうに書いてゐるから」と云ふ循環論法的な意味ではない。)「しやべるやうに書く」作家は前にも言つたやうにゐない訣(わけ)ではない。が、「書くやうにしやべる」作家はいつこの東海の孤島に現はれるであらう。しかし、――
 しかし僕の言ひたいのは「しやべる」ことよりも「書く」ことである。僕等の散文も羅馬(ロオマ)のやうに一日に成つたものではない。僕等の散文は明治の昔からじりじり成長をつづけて来たものである。その礎(いしずゑ)を据(す)ゑたものは明治初期の作家たちであらう。しかしそれは暫く問はず、比較的近い時代を見ても、僕は詩人たちが散文に与へた力をも数へたいと思ふものである。
 夏目先生の散文は必しも他を待つたものではない。しかし先生の散文が写生文に負ふ所のあるのは争はれない。ではその写生文は誰の手になつたか? 俳人兼歌人兼批評家だつた正岡子規の天才によつたものである。(子規はひとり写生文に限らず、僕等の散文、――口語文の上へ少からぬ功績を残した。)かう云ふ事実を振り返つて見ると、高浜虚子(きよし)、坂本四方太(しはうだ)等の諸氏もやはりこの写生文の建築師のうちに数へなければならぬ。(勿論「俳諧師」の作家高浜氏の小説の上に残した足跡は別に勘定するのである。)けれども僕等の散文が詩人たちの恩を蒙(かうむ)つたのは更に近い時代にもない訣ではない。ではそれは何かと言へば、北原白秋氏の散文である。僕等の散文に近代的な色彩や匂を与へたものは詩集「思ひ出」の序文だつた。かう云ふ点では北原氏の外に木下杢太郎(もくたらう)氏の散文を数へても善い。
 現世の人々は詩人たちを何か日本のパルナスの外に立つてゐるやうに思つてゐる。が、何も小説や戯曲はあらゆる文芸上の形式と没交渉に存在してゐる訣ではない。詩人たちは彼等の仕事の外にもやはり又僕等の仕事にいつも影響を与へてゐる。それは別に上に書いた事実の証明するばかりではない。僕等と同時代の作家たちの中に詩人佐藤春夫、詩人室生犀星(むろふさいせい)、詩人久米正雄等の諸氏を数へることは明らかに僕の説を裏書きするものである。いや、それ等の作家ばかりではない。最も小説家らしい里見□(とん)氏さへ幾篇かの詩を残してゐる筈である。
 詩人たちは或は彼等の孤立に多少の歎(たん)を持つてゐるかも知れない。しかしそれは僕に言はせれば、寧ろ「名誉の孤立」である。

     七 詩人たちの散文

 尤も詩人たちの散文は人力にも限りのある以上、大抵彼等の詩と同程度に完成してゐないのを常としてゐる。芭蕉(ばせを)の「奥の細道」もやはり又この例に洩れない。殊に冒頭の一節はあの全篇に漲(みなぎ)つた写生的興味を破つてゐる。第一「月日は百代の過客(くわかく)にして、ゆきかふ年も又旅人なり」と云ふ第一行を見ても、軽みを帯びた後半は前半の重みを受けとめてゐない。(散文にも野心のあつた芭蕉は同時代の西鶴の文章を「浅ましくもなり下(さが)れる姿」と評した。これは枯淡(こたん)を愛した芭蕉には少しも無理のない言葉である。)しかし彼の散文もやはり作家たちの散文に影響を与へたことは確かである。たとひそれは「俳文」と呼ばれる彼以後の散文を通過して来たにもしろ。

     八 詩歌

 日本の詩人たちは現世の人々にパルナスの外にゐると思はれてゐる。その理由の一半は現世の人々の鑑賞眼が詩歌に及ばないことも数へられるであらう。しかし又一つには詩歌は畢(つひ)に散文のやうに僕等の全生活感情を盛り難いことにもよる訣(わけ)である。(詩は――古い語彙(ごゐ)を用ひるとすれば、新体詩は短歌や発句(ほつく)よりもかう云ふ点では自由である。プロレツトカルトの詩はあつても、プロレツトカルトの発句はない。)しかし詩人たちは、――たとへば現世の歌人たちもかう云ふ試みをしてゐないことはない。その最も著しい例は「悲しき玩具」の歌人石川啄木(たくぼく)が僕等に残した仕事である。これは恐らくは今日では言ひ古されてゐることであらう。しかし「新詩社」は啄木の外にもこの「オデイツソイスの弓」を引いたもう一人の歌人を生み出してゐる。「酒(さか)ほがひ」の歌人吉井勇氏は正にかう云ふ仕事をした。「酒ほがひ」の歌にうたはれたものはいづれも小説の匂を帯びてゐる。(或は心理描写の影を帯びてゐる。)大川端(おほかはばた)の秋の夕暮に浪費を思つた吉井勇氏はかう云ふ点では石川啄木と、――貧苦と闘つた石川啄木と好個(かうこ)の対照を作るものであらう。(なほ又次手(ついで)に一言すれば、「アララギ」の父正岡子規が「明星」の子北原白秋と僕等の散文を作り上げる上に力を合せたのも好対照である。)が、これは必しも「新詩社」にばかりあつたことではない。斎藤茂吉氏は「赤光(しやくくわう)」の中に「死に給ふ母」、「おひろ」等の連作を発表した。のみならず又十何年か前に石川啄木の残して行つた仕事を――或は所謂(いはゆる)「生活派」の歌を今もなほ着々と完成してゐる。元来斎藤茂吉氏の仕事ほど、多岐多端に渡つてゐるものはない。同氏の歌集は一首ごとに倭琴(わごん)やセロや三味線や工場の汽笛を鳴り渡らせてゐる。(僕の言ふのは「一首ごと」である。「一首の中に」と言ふのではない。)若(も)しこのまま書きつづけるとすれば、僕は或はいつの間にか斎藤茂吉論に移つてしまふであらう。しかしそれは便宜上、歯止めをかけて置かなければならぬ。僕はまだこの次手に書きたいことを持ち合せてゐる。が、兎に角斎藤茂吉氏ほど、仕事の上に慾の多い歌人は前人の中にも少かつたであらう。

     九  両大家の作品

 勿論あらゆる作品はその作家の主観を離れることは出来ない。しかし仮に客観と云ふ便宜上の貼り札を用ひるとすれば、自然主義の作家たちの中でも最も客観的な作家は徳田秋声氏である。正宗白鳥氏はこの点では対蹠点(たいせきてん)に立つてゐると言つても善い。正宗白鳥氏の厭世主義は武者小路実篤氏の楽天主義と好箇の対照を作つてゐる。のみならず殆ど道徳的である。徳田氏の世界も暗いものかも知れない。しかしそれは小宇宙である。久米正雄氏の「徳田水(とくだすゐ)」と呼んだ東洋詩的情緒のある小宇宙である。そこにはたとひ娑婆苦(しやばく)はあつても、地獄の業火(ごふくわ)は燃えてゐない。けれども正宗氏はこの地面の下に必ず地獄を覗(のぞ)かせてゐる。僕は確か一昨年の夏、正宗氏の作品を集めた本を手当り次第に読破して行つた。人生の表裏を知つてゐることは正宗氏も徳田氏に劣らないかも知れない。しかし僕の受けた感銘は――少くとも僕の受けた感銘中、最も僕に迫つたものは中世紀から僕等を動かしてゐた宗教的情緒に近いものである。
我を過ぎて汝は歎きの市(まち)に入り
我を過ぎて汝は永遠の苦しみに入る。……
(追記。この後二三日を経て正宗氏の「ダンテに就いて」を読んだ。感慨少からず。)

     十 厭世主義

 正宗白鳥氏の教へる所によれば、人生はいつも暗澹(あんたん)としてゐる。正宗氏はこの事実を教へる為に種々雑多の「話」を作つた。(尤も同氏の作品中には「話」らしい話のない小説も少くない。)しかもその「話」を運ぶ為にも種々雑多のテクニイクを用ひてゐる。才人の名はかう云ふ点でも当然正宗氏の上に与へらるべきであらう。しかし僕の言ひたいのは同氏の厭世主義的人生観である。
 僕も亦正宗氏のやうに如何なる社会組織のもとにあつても、我々人間の苦しみは救ひ難いものと信じてゐる。あの古代のパンの神に似たアナトオル・フランスのユウトピア(「白い石の上で」)さへ仏陀(ぶつだ)の夢みた寂光土(じやくくわうど)ではない。生老(しやうらう)病死は哀別離苦と共に必ず僕等を苦しめるであらう。僕は確か去年の秋、ダスタエフスキイの子供か孫かの餓死した電報を読んだ時、特にかう思はずにはゐられなかつた。これは勿論コムミユニスト治下のロシアにあつた話である。しかしアナアキストの世界となつても、畢竟(ひつきやう)我々人間は我々人間であることにより、到底幸福に終始することは出来ない。
 けれども「金(かね)が仇(かたき)」とは封建時代以来の名言である。金の為に起る悲劇や喜劇は社会組織の変化と共に必ず多少は減ずるであらう。いや、僕等の精神的生活も幾分か変化を受ける筈である。若しかう云ふ点を力説すれば、我々人間の将来は或は明るいと言はれるであらう。しかし又金の為に起らずにゐる悲劇や喜劇もない訣ではない。のみならず金は必しも我々人間を飜弄(ほんろう)する唯一の力ではないのである。
 正宗白鳥氏がプロレタリアの作家たちと立ち場を異にするのは当然である。僕も亦、――僕は或は便宜上のコムミユニストか何かに変るかも知れない。が、本質的にはどこまで行つても、畢竟ジヤアナリスト兼詩人である。文芸上の作品もいつかは滅びるのに違ひない。現に僕の耳学問によれば、フランス語のリエゾンさへ失はれつつある以上、ボオドレエルの詩の響もおのづから明日(みやうにち)異るであらう。(尤もそんなことはどうなつても我々日本人には差支へない。)しかし一行の詩の生命は僕等の生命よりも長いのである。僕は今日も亦明日のやうに「怠惰なる日の怠惰なる詩人」、――一人の夢想家であることを恥としない。

     十一 半ば忘れられた作家たち

 僕等は少くとも銭のやうに必ず両面を具へてゐる。両面以上を具へてゐることも勿論決して稀ではない。紅毛人の作り出した「芸術家として又人として」はこの両面を示すものである。「人として」失敗したと共に「芸術家として」成功したものは盗人兼詩人だつたフランソア・ヴイヨンにまさるものはない。「ハムレツト」の悲劇もゲエテによれば、思想家たるべきハムレツトが父の仇(かたき)を打たなければならぬ王子だつた悲劇である。これも亦或は両面の剋(こく)し合つた悲劇と言はれるであらう。僕等の日本は歴史上にもかう云ふ人物を持ち合せてゐる。征夷(せいい)大将軍源実朝(さねとも)は政治家としては失敗した。しかし「金槐集(きんくわいしふ)」の歌人源実朝は芸術家としては立派に成功してゐる。が、「人として」――或は何としてでも失敗したにしろ、芸術家としても成功しないことは更に悲劇的であると言はなければならぬ。
 しかし芸術家として成功したかどうかは容易に決定出来るものではない。現にラムボオを嗤(わら)つたフランスは今日ではラムボオに敬礼し出した。が、たとひ誤植だらけにもしろ、三冊(?)の著書のあつたことはラムボオの為には仕合せである。若し著書もなかつたとしたならば、……
 僕は僕の先輩や知人に二三の好短篇を書きながら、しかもいつか忘れられた何人かの人々を数へてゐる。彼等は今日の作家たちよりも或は力を欠いてゐたかも知れない。けれども偶然と云ふものはやはりそこにもあつた訣である。(若し全然かう云ふ分子を認めない作家があるとすれば、それは例外とする外はない。)それ等の作品を集めることは或は不可能に近いかも知れない。しかし若し出来るとすれば、彼等の為は暫く問はず、後人(こうじん)の為にも役立つことであらう。
「生まるる時の早かりしか、或は又遅かりしか」は南蛮の詩人の歎(なげき)ばかりではない。僕は福永挽歌(ばんか)、青木健作、江南文三(えなみぶんざ)等の諸氏にもかう云ふ歎を感じてゐる。僕はいつか横文字の雑誌に「半ば忘れられた作家たち」と云ふシリイズの広告を発見した。僕も亦或はかう云ふシリイズに名を連ねる作家たちの一人であらう。かう云ふのは格別謙遜したのではない。イギリスのロマン主義時代の流行児だつた「僧」の作家ルイズさへやはりこのシリイズの中の一人である。しかし半ば忘れられた作家たちは必しも過去ばかりにある訣(わけ)ではない。のみならず彼等の作品は一つの作品として見る時には現世の諸雑誌に載る作品よりも劣つてゐるとは言はれないのである。

     十二 詩的精神

 僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論(ばくろん)を述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。すると谷崎氏は「さう云ふものならば何にでもあるぢやないか?」と言つた。僕はその時も述べた通り、何にでもあることは否定しない。「マダム・ボヴアリイ」も「ハムレツト」も「神曲」も「ガリヴアアの旅行記」も悉く詩的精神の産物である。どう云ふ思想も文芸上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の浄火(じやうくわ)を通つて来なければならぬ。僕の言ふのはその浄火を如何に燃え立たせるかと云ふことである。それは或は半ば以上、天賦(てんぷ)の才能によるものかも知れない。いや、精進の力などは存外(ぞんぐわい)効のないものであらう。しかしその浄火の熱の高低は直ちに或作品の価値の高低を定めるのである。
 世界は不朽(ふきう)の傑作にうんざりするほど充満してゐる。が、或作家の死んだ後、三十年の月日を経ても、なほ僕等の読むに足る十篇の短篇を残したものは大家と呼んでも差支(さしつかへ)ない。たとひ五篇を残したとしても、名家の列には入るであらう。最後に三篇を残したとすれば、それでも兎(と)に角(かく)一作家である。この一作家になることさへ容易に出来るものではない。僕はこれも亦横文字の雑誌に「短篇などは二三日のうちに書いてしまふものである」と云ふウエルズの言葉を発見した。二三日は暫く問はず、締め切り日を前に控へた以上、誰でも一日のうちに書かないものはない。しかしいつも二三日のうちに書いてしまふと断言するのはウエルズのウエルズたる所以(ゆゑん)である。従つて彼は碌(ろく)な短篇を書かない。

     十三 森先生

 僕はこの頃「鴎外全集」第六巻を一読し、不思議に思はずにはゐられなかつた。先生の学は古今を貫き、識は東西を圧してゐるのは今更のやうに言はずとも善い。のみならず先生の小説や戯曲は大抵は渾然(こんぜん)と出来上つてゐる。(所謂ネオ・ロマン主義は日本にも幾多の作品を生んだ。が、先生の戯曲「生田川(いくたがは)」ほど完成したものは少かつたであらう。)しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓目(ひいきめ)に見るとしても、畢(つひ)に作家の域にはひつてゐない。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋両浦嶼(たまくしげふたりうらしま)」を読んでも、如何に先生が日本語の響を知つてゐたかが窺(うかが)はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴(はうふつ)出来ない訣ではない。同時に又体裁を成してゐることはいづれも整然と出来上つてゐる。この点では殆ど先生としては人工を尽したと言つても善いかも知れない。
 けれども先生の短歌や発句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ掴(つか)めば、或程度の巧拙(かうせつ)などは余り気がかりになるものではない。が、先生の短歌や発句は巧(かう)は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて来ない。これは先生には短歌や発句は余戯に外ならなかつた為であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戯曲や小説にもやはり鋒芒(ほうばう)を露(あら)はしてゐない。(かう云ふのは先生の戯曲や小説を必しも無価値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の余戯だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが仏尊し」の譏(そし)りを受けることを顧みないとすれば。)
 僕はかう云ふことを考へた揚句(あげく)、畢竟(ひつきやう)森先生は僕等のやうに神経質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢(つひ)に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽斎(しぶえちうさい)」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聡明の資と共に僕を動かさずには措(お)かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書斎に和服を着た先生と話してゐた。方丈(はうぢやう)の室に近い書斎の隅には新らしい薄縁(うすべ)りが一枚あり、その上には虫干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。――「この間柴野栗山(りつざん)(?)の手紙を集めて本に出した人が来たから、僕はあの本はよく出来てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎(あいにく)月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出来ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北条霞亭(かてい)の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覚えてゐる。かう言ふ先生に瞠目(だうもく)するものは必しも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白状すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を残したいと思つてゐる一人である。

     十四 白柳秀湖氏

 僕は又この頃白柳秀湖(しらやなぎしうこ)氏の「声なきに聴く」と云ふ文集を読み、「僕の美学」、「羞恥心(しうちしん)に関する考察」、「動物の発性期と食物との関係」等の小論文に少からず興味を感じた。「僕の美学」は題の示すやうに正に白柳氏の美学に当り、「羞恥心に関する考察」は白柳氏の倫理学に当るものである。今後者は暫く問はず、前者をちよつと紹介すれば、美は僕等の生活から何の関係もなしに生まれたものではない。僕等の祖先は焚火を愛し、林間に流れる水を愛し、肉を盛る土器を愛し、敵を打ち倒す棒を愛した。美はこれ等の生活的必要品(?)からおのづから生まれて来たのである。……
 かう云ふ小論文は少くとも僕には現世に多いコントよりも遙に尊敬に価するものである。(白柳氏はこの小論文の末にこれは「文壇の一隅に唯物美学の呼声、若しくはそれに関する飜訳の現れる絶対以前」に書いたと註してゐる。)僕は美学などは全然知らない。況(いはん)や唯物美学などと云ふものには更に縁のない衆生(しゆじやう)である。しかし白柳氏の美の発生論は僕にも僕の美学を作る機会を与へた。白柳氏は造形美術以外の美の発生に言及してゐない。僕はもう十数年前、或山中の宿に鹿の声を聞き、何かしみじみと人恋しさを感じた。あらゆる抒情詩はこの鹿の声に、――雌を呼ぶ雄の声に発したのであらう。しかしこの唯物美学は俳人は勿論、遠い昔の歌人さへ知つてゐたかも知れない。唯叙事詩に至つては確かに太古の民のゴシツプに起源を発してゐたのであらう。「イリアツド」は神々のゴシツプである。その又ゴシツプは僕等には野蛮な荘厳(さうごん)に充(み)ち満ちた美を感じさせるのに違ひない。しかしそれは「僕等には」である。太古の民は「イリアツド」に彼等の歓びや悲しみや苦しみを感ぜずにはゐなかつたであらう。のみならずそこに彼等の心の燃え上るのを感ぜずにはゐなかつたであらう。……
 白柳秀湖氏は美の中に僕等の祖先の生活を見てゐる。が、僕等は僕等ばかりではない。アフリカの沙漠に都会の出来る頃には僕等の子孫の祖先になるのである。従つて僕等の心もちは丁度地下の泉のやうに僕等の子孫にも伝はるであらう。僕は白柳秀湖氏のやうに焚き火に親しみを感じるものである。同時に又その親しみに太古の民を思ふものである。(僕は「槍ヶ岳紀行」の中にちよつとこのことを書いたつもりである。)しかし「猿に近い吾々の祖先」は彼等の焚き火を燃やす為にどの位苦心をしたことであらう。焚き火を燃やすことを発明したのは勿論天才だつたのに違ひない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたものはやはり何人かの天才たちである。僕はこの苦心を思ふ時、不幸にも「今の芸術といふものなど、無くなつてしまつてもよい」とは考へない。

     十五 「文芸評論」

 批評も亦文芸上の一形式である。僕等の誉(ほ)めたり貶(けな)したりするのも畢竟(ひつきやう)は自己を表現する為であらう。幕の上に映つたアメリカの役者に、――しかも死んでしまつたヴアレンテイノに拍手を送つて吝(をし)まないのは相手を歓ばせる為でも何でもない。唯好意を、――惹(ひ)いては自己を表現する為にするのである。若し自己を表現する為とすれば、……
 小説や戯曲も紅毛人の作品に或は遙かに及ばないかも知れない。が、批評も亦紅毛人の作品に遜色(そんしよく)のあるのは確かである。僕はかう云ふ荒蕪(くわうぶ)の中に唯正宗白鳥氏の「文芸評論」を愛読した。批評家正宗白鳥氏の態度は紅毛人の言葉を借りれば、徹頭徹尾ラコニツクである。のみならず「文芸評論」は必ずしも文芸評論ではない。時には文芸の中の人生評論である。しかも僕は巻煙草を片手に「文芸評論」を愛読した。時々石のごろごろした一本道を思ひ出しながら、その又一本道の日の光に残酷な歓びを感じながら。

     十六 文学的未開地

 イギリスは久しく閑却してゐた十八世紀の文芸に注目してゐる。それは一つには大戦の後には誰も陽気なものを求めてゐるからであらう。(僕は私(ひそ)かに世界中同じではないかと思つてゐる。同時に又大戦の為に打撃を受けない日本さへいつかこの流行に感染してゐるのも不思議なものだと思つてゐる。)しかし又一つには閑却してゐた為に文学者たちの研究に材料を与へ易い為もある訣である。雀は米のない流しもとへは来ない。文学者たちも同じことであらう。従つて等閑に附せられることはそれ自身発見されることになる訣である。
 これは日本でも同じことである。俳諧寺一茶(いつさ)は暫く問はず、天明以後の俳人たちの仕事は殆ど誰にも顧みられてゐない。僕はかう云ふ俳人たちの仕事も次第に顕(あらは)れて来ることと思つてゐる。しかも「月並み」の一言では到底片づけられない一面も次第に顕れて来ることと思つてゐる。
 等閑に附せられると云ふことも必しも悪いことばかりではない。

     十七 夏目先生

 僕はいつか夏目先生が風流漱石山人になつてゐるのに驚嘆した。僕の知つてゐた先生は才気煥発(くわんぱつ)する老人である。のみならず機嫌の悪い時には先輩の諸氏は暫く問はず、後進の僕などは往生だつた。成程天才と云ふものはかう云ふものかと思つたこともないではない。何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顔をこちらへ向けずに僕に「葉巻をとつてくれ給へ」と言つた。しかし葉巻がどこにあるかは生憎(あいにく)僕には見当もつかない。僕はやむを得ず「どこにありますか?」と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)顋(あご)を右へ振つた。僕は怯(お)づ怯(お)づ右を眺め、やつと客間の隅の机の上に葉巻の箱を発見した。
「それから」「門」「行人(かうじん)」「道草」等はいづれもかう云ふ先生の情熱の生んだ作品である。先生は枯淡(こたん)に住したかつたかも知れない。実際又多少は住してゐたであらう。が、僕が知つてゐる晩年さへ、決して文人などと云ふものではなかつた。まして「明暗」以前にはもつと猛烈だつたのに違ひない。僕は先生のことを考へる度に老辣無双(らうらつぶさう)の感を新たにしてゐる。が、一度身の上の相談を持ちこんだ時、先生は胃の具合も善かつたと見え、かう僕に話しかけた。――「何も君に忠告するんぢやないよ。唯僕が君の位置に立つてゐるとすればだね。……」僕は実はこの時には先生に顋を振られた時よりも遙かに参らずにはゐられなかつた。

     十八 メリメエの書簡集

 メリメエはフロオベエルの「マダム・ボヴアリイ」を読んだ時、「超凡の才能を浪費してゐる」と言つた。「マダム・ボヴアリイ」はロマン主義者のメリメエには実際かう感ぜられたかも知れない。しかしメリメエの書簡集(誰かわからない女に宛てた恋愛書簡集)はいろいろの話を含んでゐる。たとへばパリから書いた二番目の書簡に、――
 ルウ・サン・オノレエに貧しい女が一人住んでゐた。彼女は見すぼらしい屋根裏の部屋を殆ど一度も離れなかつた。それから又十二になる娘を一人持つてゐた。その少女は午後からオペラへ勤め、大抵真夜中に帰つて来るのだつた。或夜のこと、娘は門番の部屋へ下りて来て「蝋燭(らふそく)に火をつけて貸して下さい」と言つた。門番の女房は娘のあとから屋根裏の部屋へ昇つて行つた。するとあの貧しい女は死骸になつて横たはつてゐた。のみならず娘は古トランクから出した一束の手紙を燃やしてゐた。「お母さんは今夜死にました。これはお母さんが死ぬ前に読まずに焼けと言つてゐた手紙です」――娘は門番の女房にかう言つた。娘は父の名も知らなければ母の名も知らなかつた。しかも生活の途(みち)と言つては唯せつせとオペラへ勤め、猿になつたり、悪魔になつたり、ほんの端役(フイギユラント)を勤めるだけだつた。母親は最後の教訓に「いつまでも端役(はやく)でゐるやうに、又善良でゐるやうに」と言つた。娘は今でもこの教訓通り、善良な端役(フイギユラント)に終始してゐる。
 もう一つ次手(ついで)に田舎の話を引けば、今度はカンヌから書いた書簡に、――
 グラツスに近い或農夫が一人、谷底に倒れて死んでゐた。前夜にそこへ転(ころ)げ落ちたか、抛(はふ)りこまれたかしたものである。すると同じ仲間の農夫が一人、彼の友だちに殺人犯人は彼自身であると公言した。「どうして? なぜ?」「あの男は俺の羊を呪つたやつだ。俺は俺の羊飼ひに教はり、三本の釘(くぎ)を鍋の中で煮てから、呪文(じゆもん)を唱へてやることにした。あの男はその晩に死んでしまつたのだ。」……
 この書簡集は一八四〇から一八七〇――メリメエの歿年に亘(わた)つてゐる。(彼の「カルメン」は一八四四の作品である。)かう云ふ話はそれ自身小説になつてゐないかも知れない。しかしモオテイフを捉へれば、小説になる可能性を持つてゐる。モオパスサンは暫く問はず、フイリツプはかう言ふ話から幾つも美しい短篇を作つた。僕等は勿論樗牛(ちよぎう)の言つたやうに「現代を超越」など出来るものではない。しかも僕等を支配する時代は存外短いものである。僕はメリメエの書簡集の中に彼の落ち穂を見出した時、しみじみかう感ぜずにはゐられなかつた。
 メリメエはこの誰かわからない女へ手紙を書きはじめた時分から幾つも傑作を残してゐる。それから又死んでしまふ前には新教徒の一人になつてゐる。これも亦僕にはニイチエ以前の超人崇拝家だつたメリメエを思ふと、多少の興味のないこともない。

     十九 古典

 僕等は皆知つてゐることの外は書けない。古典の作家たちも同じだつたであらう。プロフエツサアたちは文芸評論をする時、いつもこの事実を閑却してゐる。尤もこれは一概にプロフエツサアたちばかりとは言はれないかも知れない。しかしそれは兎も角も、僕は晩年に「あらし」を書いたシエクスピイアの心中に同情に近いものを感じてゐる。

     二十 ジヤアナリズム

 もう一度佐藤春夫氏の言葉を引けば、「文章はしやべるやうに書け」と云ふことである。僕は実際この文章をしやべるやうに書いて行つた。が、いくら書いて行つても、しやべりたいことは尽きさうもない。僕は実にかう云ふ点ではジヤアナリストであると思つてゐる。従つて職業的ジヤアナリストを兄弟であると思つてゐる。(尤も向うから御免だと言はれれば、黙つて引き下る外はない。)ジヤアナリズムと云ふものは畢竟(ひつきやう)歴史に外ならない。(新聞記事に誤伝があるのも歴史に誤伝があるのと同じことである。)歴史も又畢竟伝記である。その又伝記は、小説とどの位異つてゐるであらう。現に自叙伝は「私(わたくし)」小説と云ふものとはつきりした差別を持つてゐない。暫くクロオチエの議論に耳を貸さずに抒情詩等の詩歌を例外とすれば、あらゆる文芸はジヤアナリズムである。のみならず新聞文芸は明治大正の両時代に所謂文壇的作品に遜色のない作品を残した。徳富蘇峰(そほう)、陸羯南(くがかつなん)、黒岩涙香(るゐかう)、遅塚(ちづか)麗水等の諸氏の作品は暫く問はず、山中未成氏の書いた通信さへ文芸的には現世に多い諸雑誌の雑文などに劣るものではない。のみならず、――
 のみならず新聞文芸の作家たちはその作品に署名しなかつた為に名前さへ伝はらなかつたのも多いであらう。現に僕はかう云ふ人々の中に二三の詩人たちを数へてゐる。僕は一生のどの瞬間を除いても、今日の僕自身になることは出来ない。かう云ふ人々の作品も(僕はその作家の名前を知らなかつたにしろ)僕に詩的感激を与へた限り、やはりジヤアナリスト兼詩人たる今日の僕には恩人である。僕を作家にした偶然はやはり彼等をジヤアナリストにした。若し袋に入れた月給以外に原稿料のとれることを幸福であるとするならば、僕は彼等よりも幸福である。(虚名などは幸福にはならない。)かう云ふ点を除外すれば、僕等は彼等と職業的に何の相違も持つてゐない。少くとも僕はジヤアナリストだつた。今日もなほジヤアナリストである。将来も勿論ジヤアナリストであらう。
 しかし諸大家たちは暫く問はず、僕はこのジヤアナリストたる天職にも時々うんざりすることは事実である。
(昭和二年二月二十六日)
     二十一 正宗白鳥氏の「ダンテ」

 正宗白鳥氏のダンテ論は前人のダンテ論を圧倒してゐる。少くとも独特な点ではクロオチエのダンテ論にも劣らないかも知れない。僕はあの議論を愛読した。正宗氏はダンテの「美しさ」には殆ど目をつぶつてゐる。それは或は故意にしたのであらう。或は又自然にしたのかも知れない。故上田敏(びん)博士もダンテの研究家の一人だつた。しかも「神曲」を飜訳しようとしてゐた。が、博士の遺稿を見れば、イタリア語の原文によつたものではない。あの書き入れの示すやうにケエリイの英吉利(イギリス)訳によつたのである。ケエリイの英吉利訳によりながら、ダンテの「美しさ」を云々(うんぬん)するのは或は滑稽に堕ちるのであらう。(僕も亦ケエリイの外は読んだことはない。)しかしダンテの「美しさ」はたとひケエリイの英吉利訳だけ読んでも、幾分か感ぜられるのは確かである。……
 それから又「神曲」は一面には晩年のダンテの自己弁護である。公金費消か何かの嫌疑(けんぎ)を受けたダンテはやはり僕等自身のやうに自己弁護を必要としたのに違ひない。しかしダンテの達した天国は僕には多少退屈である。それは僕等は事実上地獄を歩いてゐる為であらうか? 或は又ダンテも浄罪界の外に登ることの出来なかつた為であらうか?……
 僕等は皆超人ではない。あの逞(たくま)しいロダンさへ名高いバルザツクの像を作り、世間の悪評を受けた時には神経的に苦しんだのである。故郷を追はれたダンテも亦神経的に苦しんだのに違ひない。殊に死後には幽霊になり、彼の息子に現れたと云ふことは幾分かダンテの体質を――彼の息子に遺伝したダンテの体質を示してゐるであらう。ダンテは実際ストリントベリイのやうに地獄の底から脱け出して来た。現に「神曲」の浄罪界は病後の歓びに近いものを持つてゐる。……
 しかしそれ等はダンテの皮下一寸に及ばないことばかりであらう。正宗氏はあの論文の中にダンテの骨肉を味はつてゐる。あの論文の中にあるのは十三世紀でもなければ伊太利(イタリイ)でもない。唯僕等のゐる娑婆(しやば)界である。平和を、唯平和を、――これはダンテの願ひだつたばかりではない。同時に又ストリントベリイの願ひだつた。僕は正宗氏のダンテを仰がずにダンテを見たことを愛してゐる。ベアトリチエは正宗氏の言ふやうに女人よりもはるかに天人に近い。若しダンテを読んだ後、目(ま)のあたりにベアトリチエに会つたとしたならば、僕等は必ず失望するであらう。
 僕はこの文章を書いてゐるうちにふとゲエテのことを思ひ出した。ゲエテの描いたフリイデリケは殆ど可憐(かれん)そのものである。が、ボンの大学教授ネエケはフリイデリケの必しもさう云ふ女人でないことを発表した。D□ntzer 等の理想主義者たちは勿論この事実を信じてゐない。しかしゲエテ自身もネエケの言葉の偽(いつは)りでないことを認めてゐる。のみならずフリイデリケの住んでゐた Sesenheim の村も亦ゲエテの描いたのとは違つてゐたらしい。Tieck はわざわざこの村を尋ね、「後悔した」とさへ語つてゐる。ベアトリチエも亦同じことであらう。けれどもかう云ふベアトリチエはベアトリチエ自身を示さないにもせよ、ダンテ自身を示してゐる。ダンテは晩年に至つても、所謂「永遠の女性」を夢みてゐた。しかし所謂「永遠の女性」は天国の外には住んでゐない。のみならずその天国は「しないことの後悔」に充ち満ちてゐる。丁度地獄は炎の中に「したことの後悔」を広げてゐるやうに。
 僕はダンテ論を読んでゐるうちに鉄仮面の下にある正宗氏の双眼の色を感じた。古人は「君看双眼色(きみみよさうがんのいろ) 不語似無愁(かたらざればうれひなきににたり)」と言つた。やはり正宗氏の双眼の色も、――しかし僕は恐れてゐる。正宗氏は或はこの双眼も義眼であると言ふかも知れない。

     二十二 近松門左衛門

 僕は谷崎潤一郎、佐藤春夫の両氏と一しよに久しぶりに人形芝居を見物した。人形は役者よりも美しい。殊(こと)に動かずにゐる時は綺麗(きれい)である。が、人形を使つてゐる黒ん坊と云ふものは薄気味悪い。現にゴヤは人物の後に度たびああ云ふものをつけ加へた。僕等も或はああ云ふものに、――無気味な運命に駆(か)られてゐるのであらう。……
 けれども僕の言ひたいのは人形よりも近松門左衛門である。僕は小春(こはる)治兵衛(ぢへゑ)を見てゐるうちに今更のやうに近松を考へ出した。近松は写実主義者西鶴に対し、理想主義者の名を博してゐる。僕は近松の人生観を知らない。近松は或は天を仰いで僕等の小を歎いてゐたであらう。或は又天気模様を考へては明日の入りを気遣つてゐたであらう。しかしそれは今日では誰も知らないことは確かである。唯近松の浄瑠璃(じやうるり)を見れば、近松は決して理想主義者ではない。理想主義者では――理想主義者とは一体何であらう? 西鶴は文芸上の写実主義者である。同時に又人生観上の現実主義者である。(少くとも作品によれば)しかし文芸上の写実主義者は必ずしも人生観上の現実主義者ではない。いや、「マダム・ボヴアリイ」を書いた作家は文芸上にも又ロマン主義者だつた。若し夢を求めることをロマン主義と呼ぶとすれば、近松も亦ロマン主義者であらう。しかし又一面にはやはり逞(たくま)しい写実主義者である。「小春治兵衛」の河内屋(かはちや)から鴈治郎(がんぢらう)の姿を抹殺せよ。(この為には文楽を見ることである。)そのあとに残るものは何でもない、人生の隅々へ目の届いた写実主義的戯曲である。成程そこには元禄時代の抒情詩もまじつてゐるのに違ひない。が、この抒情詩を持つてゐるものをロマン主義者と呼ぶとすれば、――ド・リイル・ラダンの言葉に偽りはない。僕等は阿呆でないとすれば、いづれもロマン主義者になる訣である。
 元禄時代の戯曲的手法は今日よりも多少自然ではない。しかし元禄時代以後の戯曲的手法よりもはるかに小細工を用ひないものである。かう云ふ手法に煩(わづら)はされないとすれば、「小春治兵衛」は心理描写の上には決して写実主義を離れてゐない。近松は彼等の官能主義やイゴイズムにも目を注いでゐる。いや、彼等の中にある何か不思議なものにも目につけてゐる。彼等を死に導いたものは必ずしも太兵衛(たへゑ)の悪意ではない。おさん親子の善意も亦やはり彼等を苦しませてゐる。
 近松は度々日本のシエクスピイアに比せられてゐる。それは在来の諸家の説よりも或は一層シエクスピイア的かも知れない。第一に近松はシエクスピイアのやうに殆ど理智を超越してゐる。(ラテン人種の戯曲家モリエエルの理智を想起せよ。)それから又戯曲の中に美しい一行を撒(ま)き散らしてゐる。最後に悲劇の唯中にも喜劇的場景を点出してゐる。僕は炬燵(こたつ)の場の乞食坊主を見ながら、何度も名高い「マクベス」の中の酔つ払ひの姿を思ひ出した。
 近松の世話ものは高山樗牛以来、時代ものの上に置かれてゐる。が、近松は時代ものの中にもロマン主義者に終始したのではない。これも亦多少シエクスピイア的である。シエクスピイアは羅馬(ロオマ)の都に時計を置いて顧みなかつた。近松も時代を無視してゐることはシエクスピイア以上である。のみならず神代(かみよ)の世界さへ悉(ことごと)く元禄時代の世界にした。それ等の人物も心理描写の上には存外屡(しばしば)写実主義的である。たとへば「日本振袖始(にほんふりそではじめ)」さへ、巨旦(こたん)蘇旦(そたん)兄弟の争ひは全然世話もの中の一場景と変りはない。しかも巨旦の妻の気もちや父を殺した後の巨旦の気もちは恐らくは現世にも通用するであらう。まして素戔嗚(すさのを)の尊(みこと)の恋愛などは恐れながら有史以来少しも変らない××である。
 近松の時代ものは世話ものよりも勿論荒唐無稽(くわうたうむけい)である。しかしその為に世話ものにない「美しさ」のあつたことは争はれない。たとへば日本の南部の海岸に偶然漂つて来た船の中に支那美人のゐる場景を想像せよ。(国姓爺合戦(こくせんやかつせん))それは僕等自身の異国趣味にも未だに或満足を与へるであらう。
 高山樗牛は不幸にもこれ等の特色を無視してゐる。近松の時代ものは世話ものよりも必しも下にあるものではない。唯僕等は封建時代の市井(しせい)を比較的身近に感じてゐる。元禄時代の河庄(かはしやう)は明治時代の小待合に近い。小春は、――殊に役者の扮する小春は明治時代の芸者に似たものである。かう云ふ事実は近松の世話ものに如実(によじつ)と云ふ感じを与へ易い。しかし何百年か過ぎ去つた後、――即ち封建時代の市井さへ夢の中の夢に変つた後、近松の浄瑠璃をふり返つて見れば、僕等は時代ものの必ずしも下にゐないことを見出すであらう。のみならず時代ものは一面にはやはり世話ものと同時代の大名の生活を描いてゐる。しかもその世話ものほど如実と云ふ感じを与へないのは封建時代の社会制度の僕等を大名の生活とは縁の遠いものにしてゐる為である。九重(ここのへ)の雲の中にいらせられる御一人さへ不思議にも近松の浄瑠璃(じやうるり)を愛読し給うた。それは近松の出身によるか、或は又市井の出来事に好奇心を持たれた為かも知れない。しかし近松の時代ものに元禄時代の上流階級を感じられなかつたとも限らないのである。
 僕は人形芝居を見物しながら、こんなことを考へてゐた。人形芝居は衰へてゐるらしい。のみならず浄瑠璃も原作通りに語つてゐないと云ふことである。しかし僕には芝居よりもはるかに興味の深いものだつた。

     二十三 模倣

 紅毛人は日本人の模倣に長じてゐることを軽蔑してゐる。のみならず日本人の風俗や習慣(或は道徳)の滑稽であることを軽蔑してゐる。僕は堀口九万一(くまいち)氏の紹介した「雪さん」と云ふフランス小説の梗概(かうがい)を読み、(「女性」三月号所載)今更のやうにこの事実を考へ出した。
 日本人は模倣に長じてゐる。僕等の作品も紅毛人の作品の模倣であることは争はれない。しかし彼等も僕等のやうにやはり模倣に長じてゐる。ホイツスラアは油画の上に浮世画を模倣をしなかつたか? いや、彼等は彼等同志もやはり模倣し合つてゐる。更に又過去に溯(さかのぼ)れば、大いなる支那は彼等の為にどの位先例を示したであらう? 彼等は或は彼等の模倣は「消化」であると云ふかも知れない。若し「消化」であると云ふならば、僕等の模倣も亦「消化」である。同じ水墨(すゐぼく)を以てしても、日本の南画は支那の南画ではない。のみならず僕等は往来の露店に言葉通り豚カツを消化してゐる。
 しかも模倣を便宜とすれば、模倣するのに勝ることはない。僕等は先祖伝来の名刀を揮(ふる)ひながら、彼等のタンクや毒瓦斯(ガス)と戦ふ必要を認めないものである。しかも物質的文明はたとひ必要のない時にさへ、おのづから模倣を強(し)ひずには措かない。現に古代には軽羅(けいら)をまとつた希臘(ギリシヤ)、羅馬(ロオマ)等の暖国の民さへ、今では北狄(ほくてき)の考案した、寒気に堪へるのに都合の善い洋服と云ふものを用ひてゐる。
 僕等の風俗や習慣の彼等に滑稽に見えるのもやはり少しも不思議ではない。彼等は僕等の美術には――殊に工芸美術にはとうに多少の賞讃をしてゐる。それは唯目(ま)のあたりに見ることの出来る為と言はなければならぬ。僕等の感情や思想などは、必ずしも容易に見えるものではない。江戸末期の英吉利(イギリス)公使だつた Sir Rutherford Alcock は灸(きう)を据(す)ゑてゐる子供を見、如何に僕等は迷信の為にみづから苦めてゐるかと嘲笑した。僕等の風俗や習慣の中に潜んだ感情や思想は今日でも、――小泉八雲(やぐも)を出した今日でもやはり彼等には不可解である。彼等は僕等の風俗や習慣を勿論笑はずにはゐられないであらう。同時に又彼等の風俗や習慣もやはり僕等には可笑(をか)しいのである。たとへばエドガア・ポオは酒飲みだつた為に(或は酒飲みだつたかどうかと云ふ為に)永年死後の名声を落してゐた。「李白(りはく)一斗詩百篇」を誇る日本ではかう云ふことは可笑しいと云ふ外はない。この互に軽蔑し合ふことは避け難い事実とは云ふものの、やはり悲しむべき事実である。のみならず僕等は僕等自身の中にもかう云ふ悲劇を感じないことはない。いや、僕等の精神的生活は大抵は古い僕等に対する新しい僕等の戦ひである。
 しかし僕等は彼等よりも幾分か彼等を了解してゐる。(これは或は僕等には寧(むし)ろ不名誉なことかも知れない。)彼等は僕等に一顧(いつこ)も与へてゐない。僕等は彼等には未開人である。しかも日本に住んでゐる彼等は必ずしも彼等を代表するものではない。恐らくは世界を支配する彼等のサムプルとするにも足りないものであらう。が、僕等は丸善のある為に多少彼等の魂を知つてゐることは確かである。
 なほ又次手(ついで)につけ加へれば、彼等も亦本質的にはやはり僕等と異つてゐない。僕等は(彼等も一しよにした)皆世界と云ふ箱船に乗つた人間獣の一群である。しかもこの箱船の中は決して明るいものではない。殊に僕等日本人の船室は度(たび)たび大地震に見舞はれるのである。
 堀口九万一氏の紹介は生憎(あいにく)まだ完結してゐない。のみならず氏の加へる筈の批評も載つてゐないのである。が、僕はそれだけにも、ふとこんなことを考へた為にとりあへずペンを走らせることにした。

     二十四 代作の弁護

「古代の画家は少からず傑出した弟子を持つてゐる。が、近代の画家は持つてゐない。それは彼等の金の為に、或は高遠な理想の為に弟子を教へる為である。古代の画家の弟子を教へたのは代作をさせるつもりだつた。従つて彼等の技巧上の秘密も悉(ことごと)く弟子に伝へたのである。弟子の傑出したのも不思議ではない。」――かう云ふサミユエル・バツトラアの言葉は一面には真実を語つてゐる。天賦の才はその為にばかり勿論生まれて来るものではない。しかし又その為に促されることも多いであらう。僕はこの頃フロオベエルのモオパスサンを教へるのにどの位深切を尽(つく)したかを知つた。(彼はモオパスサンの原稿を読んでやる時、連続した二つの文章の同じ構造であるのさへやかましく言つた。)しかしそれは何びとにも望むことの出来るものではない。(弟子に才能のある場合にしても)
 今日の日本は芸術さへ大量生産を要求してゐる。のみならず作家自身にしても、大量生産をしない限り、衣食することも容易ではない。しかし量的向上は大抵質的低下である。すると古人の行つたやうに弟子に代作させることも或は幾多の才人を生ずることになるかも知れない。封建時代の戯作者(げさくしや)は勿論、明治時代の新聞小説家も全然この便法を用ひなかつたのではなかつた。美術家は、――たとへばロダンはやはり部分的には彼の作品を弟子に作らせてゐたのである。
 かう云ふ伝統を持つた代作は或は今後は行はれるかも知れない。のみならずそれは必ずしも一時代の芸術を俗悪にするとも限らないのである。弟子はテクニイクを修(をさ)めた後、勿論独立しても差支ない。が、或は二代目、三代目と襲名(しふめい)することも出来るであらう。
 僕はまだ不幸にも代作して貰ふ機会を持つてゐない。が、他人の作品を代作出来る自信は持つてゐる。唯一つむづかしいことには他人の作品を代作するのは自作するよりも手間どるに違ひない。

     二十五 川柳

「川柳(せんりう)」は日本の諷刺詩である。しかし「川柳」の軽視せられるのは何も諷刺詩である為ではない。寧ろ「川柳」と云ふ名前の余りに江戸趣味を帯びてゐる為に何か文芸と云ふよりも他のものに見られる為である。古い川柳の発句(ほつく)に近いことは或は誰も知つてゐるかも知れない。のみならず発句も一面には川柳に近いものを含んでゐる。その最も著しい例は「鶉衣(うづらごろも)」(?)の初板にある横井也有(やいう)の連句であらう。あの連句はポルノグラフイツクな川柳集――「末摘花(すゑつむはな)」と選ぶ所はない。
安どもらひの蓮のあけぼの
 かう云ふ川柳の発句に近いことは誰でも認めずにゐられないであらう。(蓮は勿論造花の蓮である。)のみならず後代の川柳も全部俗悪と云ふことは出来ない。それ等も亦封建時代の町人の心を――彼等の歓びや悲しみを諧謔(かいぎやく)の中に現してゐる。若しそれ等を俗悪と云ふならば、現世の小説や戯曲も亦同様に俗悪と云はなければならぬ。
 小島政二郎氏は前に川柳の中の官能的描写を指摘した。後代は或は川柳の中の社会的苦悶(くもん)を指摘するかも知れない。僕は川柳には門外漢である。が、川柳も抒情詩や叙事詩のやうにいつかフアウストの前を通るであらう、尤も江戸伝来の夏羽織か何かひつかけながら。
心より詩人わが
喜ばむことを君知るや。
一人だに聞くことを
願はぬ詞(ことば)を歌はしめよ。

     二十六 詩形

 お伽噺(とぎばなし)の王女は城の中に何年も静かに眠つてゐる。短歌や俳句を除いた日本の詩形もやはりお伽噺の王女と変りはない。万葉集の長歌は暫(しば)らく問はず、催馬楽(さいばら)も、平家物語も、謡曲も、浄瑠璃も韻文(ゐんぶん)である。そこには必ず幾多の詩形が眠つてゐるのに違ひない。唯別行に書いただけでも、謡曲はおのづから今日の詩に近い形を現はすのである。そこには必ず僕等の言葉に必然な韻律のあることであらう。(今日の民謡と称するものは少くとも大部分は詩形上都々逸(どどいつ)と変りはない。)この眠つてゐる王女を見出すだけでも既に興味の多い仕事である。まして王女を目醒(めざ)ませることをや。
 尤も今日の詩は――更に古風な言葉を使へば、新体詩はおのづからかう云ふ道に歩みを運んでゐるかも知れない。又今日の感情を盛るのに昨日の詩形は役立たないであらう。しかし僕は過去の詩形を必ずしも踏襲(たふしふ)しろと言ふのではない。唯それ等の詩形の中に何か命のあるものを感ずるのである。同時に又その何かを今よりも意識的に掴(つか)めと言ひたいのである。
 僕等は皆どう云ふ点でも烈しい過渡時代に生を享(う)けてゐる。従つて矛盾に矛盾を重ねてゐる。光は――少くとも日本では東よりも西から来るかも知れない。が、過去からも来る訣(わけ)である。アポリネエルたちの連作体の詩は元禄時代の連句に近いものである。のみならず数等完成しないものである。この王女を目醒まさせることは勿論誰にも出来ることではない。が、一人のスウインバアンさへ出れば――と云ふよりも更に大力量の一人の「片歌の道守り」さへ出れば……
 日本の過去の詩の中には緑いろのものが何か動いてゐる。何か互に響き合ふものが――僕はその何かを捉へることは勿論、その何かを生かすことも出来ないものの一人であらう。しかしその何かを感じてゐることは必ずしも人後に落ちないつもりである。こんなことは文芸上或は末の末のことかも知れない。唯僕はその何かに――ぼんやりした緑いろの何かに不思議にも心を惹(ひ)かれるのである。

     二十七 プロレタリア文芸

 僕等は時代を超越することは出来ない。のみならず階級を超越することも出来ない。トルストイは女の話をする時には少しも猥褻(わいせつ)を嫌はなかつた。それは又ゴルキイを辟易(へきえき)させるのに足るものだつた。ゴルキイはフランク・ハリスとの問答の中に「わたしはトルストイよりも礼儀を重んじてゐる。若しトルストイを学んだとしたらば、彼等はそれをわたしの素性(すじやう)の為と――百姓育ちの為と解釈するであらう」と正直に衷情(ちゆうじやう)を話してゐる。ハリスは又その言葉に「ゴルキイの未だに百姓であることはこの点に――即ち百姓育ちを羞(は)ぢる点に露はれてゐる」と註してゐる。
 中産階級の革命家を何人も生んでゐるのは確かである。彼等は理論や実行の上に彼等の思想を表現した。が、彼等の魂は果して中産階級を超越してゐたであらうか? ルツテルは羅馬加特力(ロオマカトリツク)教に反逆した。しかも彼の仕事を妨げる悪魔の姿を目撃した。彼の理智は新しかつたであらう。しかし彼の魂はやはり羅馬加特力教の地獄を見ずにはゐられなかつたのである。これは宗教の上ばかりではない。社会制度の上でも同じことである。
 僕等は僕等の魂に階級の刻印を打たれてゐる。のみならず僕等を拘束するものは必ずしも階級ばかりではない。地理的にも大は日本から小は一市一村に至る僕等の出生地も拘束してゐる。その他遺伝や境遇等も考へれば、僕等は僕等自身の複雑であることに驚嘆せずにはゐられないであらう。(しかも僕等を造つてゐるものはいづれも僕の意識の中に登つて来るとは限らないのである。)
 カアル・マルクスは暫らく問はず、古来の女子参政権論者はいづれも良妻を伴つてゐた。科学上の産物さへかう云ふ条件を示してゐるとすれば、芸術上の作品は――殊に文芸上の作品はあらゆる条件を示してゐる訣(わけ)である。僕等はそれぞれ異つた天気の下やそれぞれ異つた土の上に芽を出した草と変りはない。同時に又僕等の作品も無数の条件を具へた草の実である。若し神の目に見るとすれば、僕等の作品の一篇に僕等の全生涯を示してゐるのであらう。
 プロレタリア文芸は――プロレタリア文芸とは何であらう? 勿論第一に考へられるのはプロレタリア文明の中に花を開いた文芸である。これは今日の日本にはない。それから次に考へられるものはプロレタリアの為に闘ふ文芸である。これは日本にもないことはない。(若しスウイツルでも隣国だつたとすれば、或はもつと生まれたであらう。)第三に考へられるはコムミユニズムやアナアキズムの主義を持つてゐないにもせよ、プロレタリア的魂を根柢にした文芸である。第二のプロレタリア文芸は勿論第三のプロレタリア文芸と必ずしも両立しないものではない。しかし若し多少でも新しい文芸を生ずるとすれば、それはこのプロレタリア的魂の生んだ文芸でなければならぬ。
 僕は隅田川の川口に立ち、帆前船(ほまへせん)や達磨船(だるません)の集まつたのを見ながら今更のやうに今日の日本に何の表現も受けてゐない「生活の詩」を感じずにはゐられなかつた。かう云ふ「生活の詩」をうたひ上げることはかう云ふ生活者を待たなければならぬ。少くともかう云ふ生活者にずつと同伴してゐなければならぬ筈である。コムミユニズムやアナアキズムの思想を作品の中に加へることは必ずしもむづかしいことではない。が、その作品の中に石炭のやうに黒光りのする詩的荘厳を与へるものは畢竟(ひつきやう)プロレタリア的魂だけである。年少で死んだフイリツプは正にかう云ふ魂の持ち主だつた。
 フロオベエルは「マダム・ボヴアリイ」にブウルジヨアの悲劇を描き尽した。しかしブウルジヨアに対するフロオベエルの軽蔑は「マダム・ボヴアリイ」を不滅にしない。「マダム・ボヴアリイ」を不滅にするものは唯フロオベエルの手腕だけである。フイリツプはプロレタリア的魂の外にも鍛(きた)へこんだ手腕を具へてゐる。するとどう云ふ芸術家も完成を目ざして進まなければならぬ。あらゆる完成した作品は方解石のやうに結晶したまま、僕等の子孫の遺産になるのである。たとひ風化作用を受けるにしても。

     二十八 国木田独歩

 国木田独歩は才人だつた。彼の上に与へられる「無器用」と云ふ言葉は当つてゐない。独歩の作品はどれをとつて見ても、決して無器用に出来上つてゐない。「正直者」、「巡査」、「竹の木戸」、「非凡なる凡人」……いづれも器用に出来上つてゐる。若(も)し彼を無器用と云ふならば、フイリツプも亦無器用であらう。
 しかし独歩の「無器用」と云はれたのは全然理由のなかつた訣ではない。彼は所謂戯曲的に発展する話を書かなかつた。のみならず長ながとも書かなかつた。(勿論どちらも出来なかつたのである。)彼の受けた「無器用」の言葉はおのづからそこに生じたのであらう。が、彼の天才は或は彼の天才の一部は実にそこに存してゐた。
 独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた。二葉亭四迷(ふたばていしめい)や石川啄木も、かう云ふ悲劇中の人物である。尤も二葉亭四迷は彼等よりも柔かい心臓を持つてゐなかつた。(或は彼等よりも逞(たくま)しい実行力を具へてゐた。)彼の悲劇はその為に彼等よりもはるかに静かだつた。二葉亭四迷の全生涯は或はこの悲劇的でない悲劇の中にあるかも知れない。……
 しかし更に独歩を見れば、彼は鋭い頭脳の為に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔かい心臓の為に天上を見ずにもゐられなかつた。前者は彼の作品の中に「正直者」、「竹の木戸」等の短篇を生じ、後者は「非凡なる凡人」、「少年の悲哀」、「画の悲しみ」等の短篇を生じた。自然主義者も人道主義者も独歩を愛したのは偶然ではない。
 柔い心臓を持つてゐた独歩は勿論おのづから詩人だつた。(と云ふ意味は必しも詩を書いてゐたと云ふことではない。)しかも島崎藤村(とうそん)氏や田山花袋(くわたい)氏と異る詩人だつた。大河に近い田山氏の詩は彼の中に求められない。同時に又お花畠に似た島崎氏の詩も彼の中に求められない。彼の詩はもつと切迫してゐる。独歩は彼の詩の一篇の通り、いつも「高峰の雲よ」と呼びかけてゐた。年少時代の独歩の愛読書の一つはカアライルの「英雄論」だつたと云ふことである。カアライルの歴史観も或は彼を動かしたかも知れない。が、更に自然なのはカアライルの詩的精神に触れたことである。
 けれども彼は前にも言つたやうな鋭い頭脳の持ち主だつた。「山林に自由存す」の詩は「武蔵野」の小品に変らざるを得ない。「武蔵野」はその名前通り、確かに平原に違ひなかつた。しかしまたその雑木林は山々を透かしてゐるのに違ひなかつた。徳富蘆花(ろくわ)氏の「自然と人生」は「武蔵野」と好対照を示すものであらう。自然を写生してゐることはどちらも等しいのに違ひない。が、後者は前者よりも沈痛な色彩を帯びてゐる。のみならず広いロシアを含んだ東洋的伝統の古色を帯びてゐる。逆説的な運命はこの古色のある為に「武蔵野」を一層新らしくした。(幾多の人びとは独歩の拓(ひら)いた「武蔵野」の道を歩いて行つたであらう。が、僕の覚えてゐるのは吉江孤雁(こがん)氏一人だけである。当時の吉江氏の小品集は現世の「本の洪水」の中に姿を失つてしまつたらしい。が、何か梨の花に近い、ナイイヴな美しさに富んだものである。)
 独歩は地上に足をおろした。それから――あらゆる人々のやうに野蛮な人生と向ひ合つた。
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