芭蕉雑記
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著者名:芥川竜之介 

「……芭蕉はかう答へた。……さう云ふことは西洋の詩にもあるのかも知れない。この間森鴎外と話したら、ゲエテにはそれも多いさうである。又近頃の詩人の何とかイツヒの作品にも多い。実はその詩も聞かせて貰つたのだが、生憎(あいにく)すつかり忘れてしまつた。」
 これだけでも返答の出来るのは当時の俳人には稀だつたかも知れない。が、兎に角海彼岸の文学に疎(うと)かつた事だけは確である。のみならず芭蕉は言詮(げんせん)を絶した芸術上の醍醐味(だいごみ)をも嘗めずに、徒(いたづ)らに万巻の書を読んでゐる文人墨客(ぼくかく)の徒を嫌つてゐたらしい。少くとも学者らしい顔をする者には忽ち癇癪(かんしやく)を起したと見え、常に諷刺的天才を示した独特の皮肉を浴びせかけてゐる。
「山里は万歳(まんざい)遅し梅の花。翁去来(きよらい)へ此句を贈られし返辞に、この句二義に解すべく候。山里は風寒く梅の盛(さかり)に万歳来らん。どちらも遅しとや承らん。又山里の梅さへ過ぐるに万歳殿の来ぬ事よと京なつかしき詠(ながめ)や侍らん。翁此返辞に其事とはなくて、去年の水無月(みなつき)五条あたりを通り候に、あやしの軒に看板を懸けて、はくらんの妙薬ありと記す。伴(ともな)ふどち可笑(をか)しがりて、くわくらん(霍乱)の薬なるべしと嘲笑(あざわら)ひ候まま、それがし答へ候ははくらん(博覧)病(やみ)が買ひ候はんと申しき。」
 これは一門皆学者だつた博覧多識の去来には徳山(とくさん)の棒よりも手痛かつたであらう。(去来は儒医二道に通じた上、「乾坤弁説(けんこんべんせつ)」の翻訳さへ出した向井霊蘭(むかゐれいらん)を父に持ち、名医元端(げんたん)や大儒元成(げんせい)を兄弟に持つてゐた人である。)なほ又次手(ついで)に一言すれば、芭蕉は一面理智の鋭い、悪辣(あくらつ)を極めた諷刺家である。「はくらん病が買ひ候はん」も手厳(てきび)しいには違ひない。が、「東武(とうぶ)の会に盆を釈教(しやくけう)とせず、嵐雪(らんせつ)是を難ず。翁曰、盆を釈教とせば正月は神祇(しんぎ)なるかとなり。」――かう云ふ逸話も残つてゐる。兎に角芭蕉の口の悪いのには屡(しばしば)門人たちも悩まされたらしい。唯幸ひにこの諷刺家は今を距(さ)ること二百年ばかり前に腸加答児(カタル)か何かの為に往生した。さもなければ僕の「芭蕉雑記」なども定めし得意の毒舌の先にさんざん飜弄されたことであらう。
 芭蕉の海彼岸の文学に余り通じてゐなかつたことは上に述べた通りである。では海彼岸の文学に全然冷淡だつたかと云ふと、これは中々冷淡所ではない。寧ろ頗(すこぶ)る熱心に海彼岸の文学の表現法などを自家の薬籠(やくろう)中に収めてゐる。たとへば支考(しかう)の伝へてゐる下の逸話に徴(ちよう)するが好い。
「ある時翁の物がたりに、此ほど白氏(はくし)文集を見て、老鶯(らうあう)と云(いひ)、病蚕(びやうさん)といへる言葉のおもしろければ、
黄鳥(うぐひす)や竹の子藪に老(おい)を啼(なく)
さみだれや飼蚕(かひこ)煩(わづら)ふ桑の畑
 斯く二句を作り侍りしが、鴬は筍藪(たけのこやぶ)といひて老若(らうにやく)の余情もいみじく籠(こも)り侍らん。蚕は熟語をしらぬ人は心のはこびをえこそ聞くまじけれ。是は筵(むしろ)の一字を入れて家に飼ひたるさまあらんとなり。」
 白楽天の長慶集(ちやうけいしふ)は「嵯峨(さが)日記」にも掲げられた芭蕉の愛読書の一つである。かう云ふ詩集などの表現法を換骨奪胎(くわんこつだつたい)することは必しも稀ではなかつたらしい。たとへば芭蕉の俳諧はその動詞の用法に独特の技巧を弄してゐる。
一声(ひとこゑ)の江(え)に横たふや時鳥(ほととぎす)
  立石寺(りつしやくじ)(前書略)
閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声
  鳳来寺に参籠して
木枯(こがらし)に岩吹とがる杉間(すぎま)かな
 是等の動詞の用法は海彼岸の文学の字眼(じがん)から学んだのではないであらうか? 字眼とは一字の工(こう)の為に一句を穎異(えいい)ならしめるものである。例へば下に引用する岑参(しんしん)の一聯に徴(ちよう)するがよい。
孤燈燃客夢 寒杵搗郷愁
 けれども学んだと断言するのは勿論頗る危険である。芭蕉はおのづから海彼岸の詩人と同じ表現法を捉へたかも知れない。しかし下に挙げる一句もやはり暗合に外ならないであらうか?
鐘消えて花の香は撞く夕べかな
 僕の信ずる所によれば、これは明らかに朱飲山(しゆいんさん)の所謂(いはゆる)倒装法を俳諧に用ひたものである。
紅稲啄残鸚鵡粒 碧梧棲老鳳凰枝
 上に挙げたのは倒装法を用ひた、名高い杜甫の一聯である。この一聯を尋常に云ひ下せば、「鸚鵡啄残紅稲粒 鳳凰棲老碧梧枝」と名詞の位置を顛倒(てんたう)しなければならぬ。芭蕉の句も尋常に云ひ下せば、「鐘搗いて花の香消ゆる夕べかな」と動詞の位置の顛倒する筈である。すると一は名詞であり、一は又動詞であるにもせよ、これを俳諧に試みた倒装法と考へるのは必しも独断とは称し難いであらう。
 蕪村の海彼岸の文学に学ぶ所の多かつたことは前人も屡(しばしば)云ひ及んでゐる。が、芭蕉のはどう云ふものか、余り考へる人もゐなかつたらしい。(もし一人でもゐたとすれば、この「鐘消えて」の句のことなどはとうの昔に気づいてゐた筈である。)しかし延宝(えんぱう)天和(てんな)の間(かん)の芭蕉は誰でも知つてゐるやうに、「憶老杜(ラウトヲオモフ)、髭風(ヒゲカゼ)ヲ吹(フイ)テ暮秋(ボシウ)歎(タン)ズルハ誰(タ)ガ子(コ)ゾ」「夜着は重し呉天(ごてん)に雪を見るあらん」以下、多数に海彼岸の文学を飜案した作品を残してゐる。いや、そればかりではない。芭蕉は「虚栗(みなしぐり)」(天和三年上梓)の跋(ばつ)の後に「芭蕉洞桃青」と署名してゐる。「芭蕉庵桃青」は必しも海彼岸の文学を聯想せしめる雅号ではない。しかし「芭蕉洞桃青」は「凝烟肌帯緑映日瞼粧紅(ギヨウエンキミドリヲオビヒニエイジテケンクレナヰヲヨソホフ)」の詩中の趣(おもむき)を具へてゐる。(これは勝峯晉風氏も「芭蕉俳句定本」の年譜の中に「洞の一字を見落してならぬ」と云つてゐる。)すると芭蕉は――少くとも延宝天和の間の芭蕉は、海彼岸の文学に少なからず心酔してゐたと云はなければならぬ。或は多少の危険さへ冒(をか)せば、談林風の鬼窟裡(きくつり)に堕在(だざい)してゐた芭蕉の天才を開眼(かいげん)したものは、海彼岸の文学であるとも云はれるかも知れない。かう云ふ芭蕉の俳諧の中に、海彼岸の文学の痕跡のあるのは、勿論不思議がるには当らない筈である。偶(たまたま)、「芭蕉俳句定本」を読んでゐるうちに、海彼岸の文学の影響を考へたから、「芭蕉雑記」の後に加へることにした。
附記。芭蕉は夙(つと)に伊藤坦庵(たんあん)、田中桐江(とうかう)などの学者に漢学を学んだと伝へられてゐる。しかし芭蕉の蒙(かうむ)つた海彼岸の文学の影響は寧ろ好んで詩を作つた山口素堂(そだう)に発するのかも知れない。

     十二 詩人

 蕉風の付(つ)け合(あひ)に関する議論は樋口功(いさを)氏の「芭蕉研究」に頗(すこぶ)る明快に述べられてゐる。尤も僕は樋口氏のやうに、発句は蕉門の竜象(りゆうざう)を始め蕪村も甚だ芭蕉には劣つてゐなかつたとは信ぜられない。が、芭蕉の付け合の上に古今独歩の妙のあることはまことに樋口氏の議論の通りである。のみならず元禄の文芸復興の蕉風の付け合に反映してゐたと云ふのは如何にも同感と云はなければならぬ。
 芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。いや、寧ろ時代の中に全精神を投じた詩人である。たまたまその間口の広さの芭蕉の発句に現れないのはこれも樋口氏の指摘したやうに発句は唯「わたくし詩歌」を本道とした為と云はなければならぬ。蕪村はこの金鎖(きんさ)を破り、発句を自他無差別(むしやべつ)の大千世界(だいせんせかい)へ解放した。「お手打(てうち)の夫婦なりしを衣更(ころもがへ)」「負けまじき相撲を寝物語かな」等はこの解放の生んだ作品である。芭蕉は許六の「名将の橋の反(そり)見る扇かな」にさへ、「此句は名将の作にして、句主の手柄は少しも無し」と云ふ評語を下した。もし「お手打の夫婦」以下蕪村の作品を見たとすれば、後代の豎子(じゆし)の悪作劇に定めし苦い顔をしたことであらう。勿論蕪村の試みた発句解放の善悪はおのづから問題を異にしなければならぬ。しかし芭蕉の付け合を見ずに、蕪村の小説的構想などを前人未発のやうに賞揚するのは甚だしい片手落ちの批判である。
 念の為にもう一度繰り返せば、芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。最も切実に時代を捉へ、最も大胆に時代を描いた万葉集以後の詩人である。この事実を知る為には芭蕉の付け合を一瞥(いちべつ)すれば好い。芭蕉は茶漬を愛したなどと云ふのも嘘ではないかと思はれるほど、近松を生み、西鶴を生み、更に又師宣(もろのぶ)を生んだ元禄の人情を曲尽(きよくじん)してゐる。殊に恋愛を歌つたものを見れば、其角さへ木強漢(ぼくきやうかん)に見えぬことはない。況(いはん)や後代の才人などは空也(くうや)の痩せか、乾鮭(からざけ)か、或は腎気(じんき)を失つた若隠居かと疑はれる位である。

狩衣(かりぎぬ)を砧(きぬた)の主(ぬし)にうちくれて     路通(ろつう)
 わが稚名(をさなな)を君はおぼゆや     芭蕉

 宮に召されしうき名はづかし   曾良(そら)
手枕(たまくら)に細きかひなをさし入(いれ)て    芭蕉

殿守(とのもり)がねぶたがりつる朝ぼらけ   千里(せんり)
 兀(は)げたる眉を隠すきぬぎぬ    芭蕉

 足駄(あしだ)はかせぬ雨のあけぼの    越人(をつじん)
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉

上置(うはおき)の干葉(ほしな)きざむもうはの空    野坡(やは)
 馬に出ぬ日は内で恋する     芭蕉

 やさしき色に咲るなでしこ    嵐蘭(らんらん)
よつ折の蒲団(ふとん)に君が丸(まろ)くねて    芭蕉

 是等の作品を作つた芭蕉は近代の芭蕉崇拝者の芭蕉とは聊(いささ)か異つた芭蕉である。たとへば「きぬぎぬやあまりか細くあでやかに」は枯淡なる世捨人の作品ではない。菱川(ひしかは)の浮世絵に髣髴(はうふつ)たる女や若衆(わかしゆ)の美しさにも鋭い感受性を震はせてゐた、多情なる元禄びとの作品である。「元禄びとの」、――僕は敢て「元禄びとの」と言つた。是等の作品の抒情詩的甘露味はかの化政度の通人などの夢寐(むび)にも到り得る境地ではない。彼等は年代を数へれば、「わが稚名を君はおぼゆや」と歌つた芭蕉と、僅か百年を隔つるのに過ぎぬ。が、実は千年の昔に「常陸少女(ひたちをとめ)を忘れたまふな」と歌つた万葉集中の女人よりも遙かに縁の遠い俗人だつたではないか?

     十三 鬼趣

 芭蕉もあらゆる天才のやうに時代の好尚(かうしやう)を反映してゐることは上に挙げた通りである。その著しい例の一つは芭蕉の俳諧にある鬼趣(きしゆ)であらう。「剪燈新話(せんとうしんわ)」を飜案した浅井了意(れうい)の「御伽婢子(おとぎばふこ)」は寛文(くわんぶん)六年の上梓(じやうし)である。爾来(じらい)かう云ふ怪談小説は寛政頃まで流行してゐた。たとへば西鶴の「大下馬(おほげば)」などもこの流行の生んだ作品である。正保(しやうはう)元年に生れた芭蕉は寛文、延宝(えんぱう)、天和(てんな)、貞享(ぢやうきやう)を経、元禄七年に長逝した。すると芭蕉の一生は怪談小説の流行の中に終始したものと云はなければならぬ。この為に芭蕉の俳諧も――殊にまだ怪談小説に対する一代の興味の新鮮だつた「虚栗(みなしぐり)」以前の俳諧は時々鬼趣を弄(もてあそ)んだ、巧妙な作品を残してゐる。たとへば下の例に徴するが好い。

小夜嵐(さよあらし)とぼそ落ちては堂の月    信徳(しんとく)
 古入道は失せにけり露      桃青(たうせい)

 から尻沈む淵はありけり     信徳
小蒲団に大蛇(をろち)の恨み鱗形(うろこがた)      桃青

気違(きちがひ)を月のさそへば忽(たちまち)に      桃青
 尾を引ずりて森の下草      似春(じしゆん)

 夫(つま)は山伏あまの呼び声      信徳
一念の□(うなぎ)となつて七(なな)まとひ     桃青

骨刀(こつがたな)土器鍔(かはらけつば)のもろきなり      其角
 痩せたる馬の影に鞭うつ     桃青

 山彦嫁をだいてうせけり     其角
忍びふす人は地蔵にて明過(あけすぐ)し    桃青

釜かぶる人は忍びて別るなり    其角
 槌(つち)を子に抱くまぼろしの君    桃青

 今其(その)とかげ金色(こんじき)の王       峡水(けふすゐ)
袖に入る□竜(あまりよう)夢(ゆめ)を契(ちぎ)りけむ     桃青

 是等の作品の或ものは滑稽であるのにも違ひない。が、「痩せたる馬の影」だの「槌を子に抱く」だのの感じは当時の怪談小説よりも寧ろもの凄い位である。芭蕉は蕉風を樹立した後、殆ど鬼趣には縁を断(た)つてしまつた。しかし無常の意を寓した作品はたとひ鬼趣ではないにもせよ、常に云ふ可らざる鬼気を帯びてゐる。
  骸骨の画に
夕風や盆挑灯(ぼんぢやうちん)も糊ばなれ
  本間主馬(しゆめ)が宅に、骸骨どもの笛、
  鼓をかまへて能(のう)する所を画きて、
  壁に掛けたり(下略)
稲妻やかほのところが薄(すすき)の穂
(大正十二年―十三年)



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