芭蕉雑記
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著者名:芥川竜之介 

     一 著書

 芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集(しちぶしふ)なるものも悉(ことごとく)門人の著はしたものである。これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞(みやうもん)を好まぬ為だつたらしい。
「曲翠(きよくすゐ)問(とふ)、発句(ほつく)を取りあつめ、集作ると云へる、此道の執心(しふしん)なるべきや。翁(をう)曰(いはく)、これ卑しき心より我(わが)上手(じやうず)なるを知られんと我を忘れたる名聞より出(いづ)る事也。」
 かう云つたのも一応は尤もである。しかしその次を読んで見れば、おのづから微笑を禁じ得ない。
「集とは其風体(ふうたい)の句々をえらび、我風体と云ふことを知らするまで也。我俳諧撰集の心なし。しかしながら貞徳(ていとく)以来其人々の風体ありて、宗因(そういん)まで俳諧を唱(となへ)来れり。然(しかれ)ども我(わが)云(いふ)所(ところ)の俳諧は其俳諧にはことなりと云ふことにて、荷兮野水(かけいやすゐ)等に後見(うしろみ)して『冬の日』『春の日』『あら野』等あり。」
 芭蕉の説に従へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば如何なる流派にも属せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に従へば、たとへば斎藤茂吉氏の「アララギ」へ歌を発表するのは名聞を求めぬことであり、「赤光」や「あら玉」を著はすのは「これ卑しき心より我上手なるを知られんと……」である!
 しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――「我俳諧撰集の心なし。」芭蕉の説に従へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことと思はなければならぬ。然らばこの「何か」は何だつたであらうか?
 芭蕉は大事の俳諧さへ「生涯の道の草」と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも「空(くう)」と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集を著はすのさへ、実は「悪」と考へる前に「空」と考へはしなかつたであらうか? 寒山(かんざん)は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳諧は流転(るてん)に任せたのではなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?
 僕は芭蕉に著書のなかつたのも当然のことと思つてゐる。その上宗匠の生涯には印税の必要もなかつたではないか?

     二 装幀

 芭蕉は俳書を上梓(じやうし)する上にも、いろいろ註文を持つてゐたらしい。たとへば本文の書きざまにはかう云ふ言葉を洩らしてゐる。
「書(かき)やうはいろいろあるべし。唯さわがしからぬ心づかひ有りたし。『猿簔(さるみの)』能筆なり。されども今少し大(おほい)なり。作者の名大(だい)にていやしく見え侍(はべ)る。」
 又勝峯晉風(かつみねしんぷう)氏の教へによれば、俳書の装幀(さうてい)も芭蕉以前は華美を好んだのにも関らず、芭蕉以後は簡素の中に寂(さ)びを尊んだと云ふことである。芭蕉も今日に生れたとすれば、やはり本文は九ポイントにするとか、表紙の布(きれ)は木綿にするとか、考案を凝(こ)らしたことであらう。或は又ウイリアム・モリスのやうに、ペエトロン杉風(さんぷう)とも相談の上に、Typography に新意を出したかも知れぬ。

     三 自釈

 芭蕉は北枝(ほくし)との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云(いふ)がごとし」と作品の自釈を却(しりぞ)けてゐる。しかしこれは当にならぬ。さう云ふ芭蕉も他の門人にはのべつに自釈を試みてゐる。時には大いに苦心したなどと手前味噌(てまへみそ)さへあげぬことはない。
「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店(たな)。此句、翁曰、心づかひせずと句になるものを、自讃に足らずとなり。又かまくらを生(いき)て出でけん初松魚(はつがつを)と云ふこそ心の骨折(ほねをり)人の知らぬ所なり。又曰猿の歯白し峰の月といふは其角(きかく)なり。塩鯛の歯ぐきは我老吟なり。下(しも)を魚の店と唯いひたるもおのづから句なりと宣(のたま)へり。」
 まことに「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」である。しかし芸術は頬がまちほど、何(なん)びとにもはつきりわかるものではない。いつも自作に自釈を加へるバアナアド・シヨウの心もちは芭蕉も亦多少は同感だつたであらう。

     四 詩人

「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは芭蕉の惟然(ゐねん)に語つた言葉である。その他俳諧を軽んじた口吻(こうふん)は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧(むし)ろ当然の言葉である。
 しかしその「生涯の道の草」に芭蕉ほど真剣になつた人は滅多(めつた)にゐないのに違ひない。いや、芭蕉の気の入れかたを見れば、「生涯の道の草」などと称したのはポオズではないかと思ふ位である。
「土芳(とはう)云(いふ)、翁曰(いはく)、学ぶ事は常にあり。席に臨んで文台と我と間(かん)に髪(はつ)を入れず。思ふこと速(すみやか)に云(いひ)出(いで)て、爰(ここ)に至(いたり)てまよふ念なし。文台引おろせば即反故(ほご)なりときびしく示さるる詞(ことば)もあり。或時は大木倒すごとし。鍔本(つばもと)にきりこむ心得、西瓜きるごとし。梨子(なし)くふ口つき、三十六句みなやり句などといろいろにせめられ侍(はべ)るも、みな巧者の私意を思ひ破らせんの詞(ことば)なり。」
 この芭蕉の言葉の気ぐみは殆ど剣術でも教へるやうである。到底俳諧を遊戯にした世捨人などの言葉ではない。更に又芭蕉その人の句作に臨んだ態度を見れば、愈情熱に燃え立つてゐる。
「許六(きよろく)云、一とせ江戸にて何がしが歳旦びらきとて翁を招きたることあり。予が宅に四五日逗留の後にて侍る。其日雪降て暮にまゐられたり。其俳諧に、
人声の沖にて何を呼(よぶ)やらん  桃鄰
 鼠は舟をきしる暁  翁
 予其後芭蕉庵へ参(まゐり)とぶらひける時、此句をかたり出し給ふに、予が云、さてさて此暁の一字ありがたき事、あだに聞かんは無念の次第也。動かざること、大山のごとしと申せば師起き上りて曰、此暁の一字聞きとどけ侍りて、愚老が満足かぎりなし。此句はじめは
須磨の鼠の舟きしるおと
 と案じける時、前句に声の字有(あり)て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは気を廻(めぐら)し侍れども、一句連続せざると宣(のたま)へり。予が云、是須磨の鼠よりはるかにまされり。(中略)暁の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん、これほどに聞(きき)てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば、肝をつぶしたる顔のみにて、善悪の差別もなく、鮒の泥に酔たるごとし、其夜此句したる時、一座のものどもに我遅参の罪ありと云へども、此句にて腹を医せよと自慢せしと宣ひ侍る。」
 知己に対する感激、流俗に対する軽蔑、芸術に対する情熱、――詩人たる芭蕉の面目はありありとこの逸話に露(あら)はれてゐる。殊に「この句にて腹を医(いや)せよ」と大気焔を挙げた勢ひには、――世捨人は少時(しばらく)問はぬ。敬虔(けいけん)なる今日の批評家さへ辟易(へきえき)しなければ幸福である。
「翁凡兆(ぼんてう)に告て曰、一世のうち秀逸三五(さんご)あらん人は作者、十句に及ぶ人は名人なり。」
 名人さへ一生を消磨した後、十句しか得られぬと云ふことになると、俳諧も亦閑事業ではない。しかも芭蕉の説によれば、つまりは「生涯の道の草」である!
「十一日。朝またまた時雨(しぐれ)す。思ひがけなく東武(とうぶ)の其角(きかく)来る。(中略)すぐに病床にまゐりて、皮骨(ひこつ)連立(れんりつ)したまひたる体を見まゐらせて、且愁ひ、且悦ぶ。師も見やりたまひたるまでにて、ただただ涙ぐみたまふ。(中略)
鬮(くじ)とりて菜飯(なめし)たたかす夜伽(よとぎ)かな  木節
皆子なり蓑虫(みのむし)寒く鳴きつくす  乙州
うづくまる薬のもとの寒さかな  丈艸
吹井(ふきゐ)より鶴をまねかん初時雨(しぐれ)  其角
 一々惟然(ゐねん)吟声しければ、師丈艸(ぢやうさう)が句を今一度と望みたまひて、丈艸でかされたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり、面白し面白しと、しは嗄(が)れし声もて讃めたまひにけり。」
 これは芭蕉の示寂(じじやく)前一日に起つた出来事である。芭蕉の俳諧に執する心は死よりもなほ強かつたらしい。もしあらゆる執着に罪障を見出した謡曲の作者にこの一段を語つたとすれば、芭蕉は必ず行脚(あんぎや)の僧に地獄の苦艱を訴へる後(のち)ジテの役を与へられたであらう。
 かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか? ゲエテは詩作をしてゐる時には Daemon に憑(つ)かれてゐると云つた。芭蕉も亦世捨人になるには余りに詩魔の翻弄(ほんろう)を蒙(かうむ)つてゐたのではないであらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか?
 僕は世捨人になり了(おほ)せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。さもなければ深草(ふかくさ)の元政(げんせい)などにも同じやうに敬意を表したかも知れぬ。

     五 未来

「翁遷化(せんげ)の年深川を出(いで)給ふ時、野坡(やは)問(とう)て云(いふ)、俳諧やはり今のごとく作し侍らんや。翁曰、しばらく今の風なるべし、五七(ごしち)年も過なば一変あらんとなり。」
「翁曰、俳諧世に三合は出(いで)たり。七合は残(のこり)たりと申されけり。」
 かう云ふ芭蕉の逸話を見ると、如何にも芭蕉は未来の俳諧を歴々と見透してゐたやうである。又大勢の門人の中には義理にも一変したいと工夫したり、残りの七合を拵(こしら)へるものは自分の外にないと己惚(うぬぼ)れたり、いろいろの喜劇も起つたかも知れぬ。しかしこれは「芭蕉自身の明日」を指した言葉であらう。と云ふのはつまり五六年も経(ふ)れば、芭蕉自身の俳諧は一変化すると云ふ意味であらう。或は又既に公(おほやけ)にしたのは僅々三合の俳諧に過ぎぬ、残りの七合の俳諧は芭蕉自身の胸中に横はつてゐると云ふ意味であらう。すると芭蕉以外の人には五六年は勿論、三百年たつても、一変化することは出来ぬかも知れぬ。七合の俳諧も同じことである。芭蕉は妄(みだり)に街頭の売卜(ばいぼく)先生を真似る人ではない。けれども絶えず芭蕉自身の進歩を感じてゐたことは確かである。――僕はかう信じて疑つたことはない。

     六 俗語

 芭蕉はその俳諧の中に屡(しばしば)俗語を用ひてゐる。たとへば下(しも)の句に徴(ちよう)するが好い。
  洗馬(せば)にて
梅雨(つゆ)ばれの私雨(わたくしあめ)や雲ちぎれ
「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉(ことごとく)俗語ならぬはない。しかも一句の客情(かくじやう)は無限の寂しみに溢(あふ)れてゐる。(成程かう書いて見ると、不世出の天才を褒(ほ)め揚(あ)げるほど手数のかからぬ仕事はない。殊に何びとも異論を唱へぬ古典的天才を褒め揚げるのは!)かう云ふ例は芭蕉の句中、枚挙(まいきよ)に堪へぬと云つても好い。芭蕉のみづから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語(がうご)したのも当然のことと云はなければならぬ。「正す」とは文法の教師のやうに語格や仮名遣ひを正すのではない。霊活(れいくわつ)に語感を捉へた上、俗語に魂を与へることである。
「じだらくに居れば涼しき夕(ゆふべ)かな。宗次(そうじ)。猿みの撰の時、宗次今一句の入集を願ひて数句吟じ侍れど取(とる)べき句なし。一夕(いつせき)、翁の側(かたはら)に侍りけるに、いざくつろぎ給へ、我も臥(ふし)なんと宣(のたま)ふ。御ゆるし候へ、じだらくに居れば涼しく侍ると申しければ、翁曰、これこそ発句なれとて、今の句に作(つくり)て入集せさせ給ひけり。」(小宮豊隆氏はこの逸話に興味のある解釈を加へてゐる。同氏の芭蕉研究を参照するが好い。)
 この時使はれた「じだらくに」はもう単純なる俗語ではない。紅毛人の言葉を借りれば、芭蕉の情調のトレモロを如実に表現した詩語である。これを更に云ひ直せば、芭蕉の俗語を用ひたのは俗語たるが故に用ひたのではない。詩語たり得るが故に用ひたのである。すると芭蕉は詩語たり得る限り、漢語たると雅語たるとを問はず、如何なる言葉をも用ひたことは弁ずるを待たぬのに違ひない。実際又芭蕉は俗語のみならず、漢語をも雅語をも正したのである。
  佐夜(さよ)の中山(なかやま)にて
命なりわづかの笠の下涼み
  杜牧(とぼく)が早行(さうかう)の残夢、小夜の
  中山にいたりて忽ち驚く
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
 芭蕉の語彙(ごゐ)はこの通り古今東西に出入してゐる。が、俗語を正したことは最も人目に止まり易い特色だつたのに違ひない。又俗語を正したことに詩人たる芭蕉の大力量も窺(うかが)はれることは事実である。成程談林(だんりん)の諸俳人は、――いや、伊丹(いたみ)の鬼貫(おにつら)さへ芭蕉よりも一足先に俗語を使つてゐたかも知れぬ。けれども所謂平談俗話に錬金術を施(ほどこ)したのは正に芭蕉の大手柄である。
 しかしこの著しい特色は同時に又俳諧に対する誤解を生むことにもなつたらしい。その一つは俳諧を解し易いとした誤解であり、その二つは俳諧を作り易いとした誤解である。俳諧の月並みに堕(だ)したのは、――そんなことは今更弁ぜずとも好い。月並みの喜劇は「芭蕉雑談」の中に子規居士(こじ)も既に指摘してゐる。唯芭蕉の使つた俗語の精彩を帯びてゐたことだけは今日もなほ力説せねばならぬ。さもなければ所謂民衆詩人は不幸なるウオルト・ホイツトマンと共に、芭蕉をも彼等の先達の一人に数へ上げることを憚(はばか)らぬであらう。

     七 耳

 芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。
 俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。僅々十七字の活殺の中に「言葉の音楽」をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。のみならず「調べ」にのみ執(しふ)するのは俳諧の本道を失したものである。芭蕉の「調べ」を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に「調べ」を忘れたことはない。いや、時には一句の妙を「調べ」にのみ託したものさへある。
夏の月御油(ごゆ)より出でて赤坂(あかさか)や
 これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少陳套(ちんたう)の譏(そし)りを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。
年の市線香買ひに出でばやな
 仮に「夏の月」の句をリブレツトオよりもスコアアのすぐれてゐる句とするならば、この句の如きは両者ともに傑出したものの一例である。年の市(いち)に線香を買ひに出るのは物寂びたとは云ふものの、懐しい気もちにも違ひない。その上「出でばやな」とはずみかけた調子は、宛然芭蕉その人の心の小躍(こをど)りを見るやうである。更に又下の句などを見れば、芭蕉の「調べ」を駆使するのに大自在を極めてゐたことには呆気(あつけ)にとられてしまふ外はない。
秋ふかき隣は何をする人ぞ
 かう云ふ荘重の「調べ」を捉(とら)へ得たものは茫々たる三百年間にたつた芭蕉一人である。芭蕉は子弟を訓(をし)へるのに「俳諧は万葉集の心なり」と云つた。この言葉は少しも大風呂敷ではない。芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以(ゆゑん)である。

     八 同上

 芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴へる美しさと耳に訴へる美しさとの微妙に融け合つた美しさである。西洋人の言葉を借りれば、言葉の Formal element と Musical element との融合の上に独特の妙のあることである。これだけは蕪村(ぶそん)の大手腕も畢(つひ)に追随出来なかつたらしい。下(しも)に挙げるのは几董(きとう)の編した蕪村句集に載つてゐる春雨の句の全部である。
春雨やものかたりゆく蓑(みの)と笠
春雨や暮れなんとしてけふもあり
柴漬(ふしづけ)や沈みもやらで春の雨
春雨やいざよふ月の海半ば
春雨や綱が袂に小提灯(こぢやうちん)
  西の京にばけもの栖(す)みて久しく
  あれ果たる家有りけり。
  今は其沙汰なくて、
春雨や人住みて煙(けぶり)壁を洩る
物種(ものだね)の袋濡らしつ春の雨
春雨や身にふる頭巾(づきん)着たりけり
春雨や小磯の小貝濡るるほど
滝口(たきぐち)に灯を呼ぶ声や春の雨
ぬなは生(お)ふ池の水(み)かさや春の雨
  夢中吟
春雨やもの書かぬ身のあはれなる
 この蕪村の十二句は目に訴へる美しさを、――殊に大和絵らしい美しさを如何にものびのびと表はしてゐる。しかし耳に訴へて見ると、どうもさほどのびのびとしない。おまけに十二句を続けさまに読めば、同じ「調べ」を繰り返した単調さを感ずる憾(うら)みさへある。が、芭蕉はかう云ふ難所に少しも渋滞(じふたい)を感じてゐない。
春雨や蓬(よもぎ)をのばす草の道
  赤坂にて
無性(ぶしやう)さやかき起されし春の雨
 僕はこの芭蕉の二句の中(うち)に百年の春雨を感じてゐる。「蓬をのばす草の道」の気品の高いのは云ふを待たぬ。「無性さや」に起り、「かき起されし」とたゆたつた「調べ」にも柔媚(じうび)に近い懶(ものう)さを表はしてゐる。所詮蕪村の十二句もこの芭蕉の二句の前には如何(いかん)とも出来ぬと評する外はない。兎に角芭蕉の芸術的感覚は近代人などと称するものよりも、数等の洗練を受けてゐたのである。

     九 画

 東洋の詩歌は和漢を問はず、屡(しばしば)画趣を命にしてゐる。エポスに詩を発した西洋人はこの「有声の画」の上にも邪道の貼り札をするかも知れぬ。しかし「遙知郡斎夜(ハルカニシルグンサイノヨ) 凍雪封松竹(トウセツシヨウチクヲフウズ) 時有山僧来(トキニサンソウノキタルアリ) 懸燈独自宿(トウヲカケテドクジシユクス)」は宛然たる一幀(いつたう)の南画である。又「蔵並ぶ裏は燕のかよひ道」もおのづから浮世絵の一枚らしい。この画趣を表はすのに自在の手腕を持つてゐたのもやはり芭蕉の俳諧に見のがされぬ特色の一つである。
涼しさやすぐに野松の枝のなり
夕顔や酔(ゑう)て顔出す窓(まど)の穴
山賤(やまがつ)のおとがひ閉づる葎(むぐら)かな
 第一は純然たる風景画である。第二は点景人物を加へた風景画である。第三は純然たる人物画である。この芭蕉の三様の画趣はいづれも気品の低いものではない。殊に「山賤の」は「おとがひ閉づる」に気味の悪い大きさを表はしてゐる。かう云ふ画趣を表現することは蕪村さへ数歩を遜(ゆづ)らなければならぬ。(度(たび)たび引合ひに出されるのは蕪村の為に気の毒である。が、これも芭蕉以後の巨匠だつた因果と思はなければならぬ。)のみならず最も蕪村らしい大和画の趣を表はす時にも、芭蕉はやはり楽々と蕪村に負けぬ効果を収めてゐる。
粽(ちまき)ゆふ片手にはさむひたひ髪
 芭蕉自身はこの句のことを「物語の体(たい)」と称したさうである。

     十 衆道

 芭蕉もシエクスピイアやミケル・アンジエロのやうに衆道(しゆだう)を好んだと云はれてゐる。この談(はなし)は必しも架空ではない。元禄は井原西鶴の大鑑(おほかがみ)を生んだ時代である。芭蕉も亦或は時代と共に分桃(ぶんたう)の契(ちぎ)りを愛したかも知れない。現に又「我も昔は衆道好きのひが耳にや」とは若い芭蕉の筆を執つた「貝おほひ」の中の言葉である。その他芭蕉の作品の中には「前髪もまだ若草の匂かな」以下、美少年を歌つたものもない訳ではない。
 しかし芭蕉の性慾を倒錯(たうさく)してゐたと考へるのは依然として僕には不可能である。成程芭蕉は明らかに「我も昔は衆道好き」と云つた。が、第一にこの言葉は巧みに諧謔の筆を弄(ろう)した「貝おほひ」の判詞(はんのことば)の一節である。するとこれをものものしい告白のやうに取り扱ふのは多少の早計ではないであらうか? 第二によし又告白だつたにせよ、案外昔の衆道好きは今の衆道好きではなかつたかも知れない。いや、今も衆道好きだつたとすれば、何も特に「昔は」と断る必要もない筈である。しかも芭蕉は「貝おほひ」を出した寛文十一年の正月にもやつと二十九歳だつたのを思ふと、昔と云ふのも「春の目ざめ」以後数年の間を指してゐるであらう。かう云ふ年頃の Homo-Sexuality は格別珍らしいことではない。二十世紀に生れた我々さへ、少時(せうじ)の性慾生活をふり返つて見れば、大抵一度は美少年に恍惚とした記憶を蓄へてゐる。況(いはん)や門人の杜国(とこく)との間に同性愛のあつたなどと云ふ説は畢竟(ひつきやう)小説と云ふ外はない。

     十一 海彼岸の文学

「或禅僧、詩の事を尋ねられしに、翁曰(いはく)、詩の事は隠士素堂(いんしそだう)と云ふもの此道に深きすきものにて、人の名を知れるなり。かれ常に云ふ、詩は隠者の詩、風雅にてよろし。」
「正秀(せいしう)問(とふ)、古今集に空に知られぬ雪ぞ降りける、人に知られぬ花や咲くらん、春に知られぬ花ぞ咲くなる、一集にこの三首を撰す。一集一作者にかやうの事例(ためし)あるにや。翁曰、貫之(つらゆき)の好める言葉と見えたり。かやうの事は今の人の嫌ふべきを、昔は嫌はずと見えたり。もろこしの詩にも左様の例(ためし)あるにや。いつぞや丈艸の物語に杜子美(としび)に専ら其事あり。近き詩人に于鱗(うりん)とやらんの詩に多く有る事とて、其詩も、聞きつれど忘れたり。」
 于鱗は嘉靖七子(かせいしちし)の一人李攀竜(りはんりよう)のことであらう。古文辞を唱へた李攀竜の芭蕉の話中に挙げられてゐるのは杜甫に対する芭蕉の尊敬に一道の光明を与へるものである。しかしそれはまづ問はないでも好い。差当り此処に考へたいのは海彼岸(かいひがん)の文学に対する芭蕉その人の態度である。是等の逸話に窺(うかが)はれる芭蕉には少しも学者らしい面影は見えない。今仮に是等の逸話を当代の新聞記事に改めるとすれば、質問を受けた芭蕉の態度はこの位淡泊を極めてゐるのである。――
「某新聞記者の西洋の詩のことを尋ねた時、芭蕉はその記者にかう答へた。――西洋の詩に詳(くは)しいのは京都の上田敏(びん)である。彼の常に云ふ所によれば、象徴派の詩人の作品は甚だ幽幻を極めてゐる。」
「……芭蕉はかう答へた。……さう云ふことは西洋の詩にもあるのかも知れない。この間森鴎外と話したら、ゲエテにはそれも多いさうである。又近頃の詩人の何とかイツヒの作品にも多い。実はその詩も聞かせて貰つたのだが、生憎(あいにく)すつかり忘れてしまつた。」
 これだけでも返答の出来るのは当時の俳人には稀だつたかも知れない。が、兎に角海彼岸の文学に疎(うと)かつた事だけは確である。のみならず芭蕉は言詮(げんせん)を絶した芸術上の醍醐味(だいごみ)をも嘗めずに、徒(いたづ)らに万巻の書を読んでゐる文人墨客(ぼくかく)の徒を嫌つてゐたらしい。少くとも学者らしい顔をする者には忽ち癇癪(かんしやく)を起したと見え、常に諷刺的天才を示した独特の皮肉を浴びせかけてゐる。
「山里は万歳(まんざい)遅し梅の花。翁去来(きよらい)へ此句を贈られし返辞に、この句二義に解すべく候。山里は風寒く梅の盛(さかり)に万歳来らん。どちらも遅しとや承らん。又山里の梅さへ過ぐるに万歳殿の来ぬ事よと京なつかしき詠(ながめ)や侍らん。翁此返辞に其事とはなくて、去年の水無月(みなつき)五条あたりを通り候に、あやしの軒に看板を懸けて、はくらんの妙薬ありと記す。伴(ともな)ふどち可笑(をか)しがりて、くわくらん(霍乱)の薬なるべしと嘲笑(あざわら)ひ候まま、それがし答へ候ははくらん(博覧)病(やみ)が買ひ候はんと申しき。」
 これは一門皆学者だつた博覧多識の去来には徳山(とくさん)の棒よりも手痛かつたであらう。(去来は儒医二道に通じた上、「乾坤弁説(けんこんべんせつ)」の翻訳さへ出した向井霊蘭(むかゐれいらん)を父に持ち、名医元端(げんたん)や大儒元成(げんせい)を兄弟に持つてゐた人である。)なほ又次手(ついで)に一言すれば、芭蕉は一面理智の鋭い、悪辣(あくらつ)を極めた諷刺家である。「はくらん病が買ひ候はん」も手厳(てきび)しいには違ひない。が、「東武(とうぶ)の会に盆を釈教(しやくけう)とせず、嵐雪(らんせつ)是を難ず。翁曰、盆を釈教とせば正月は神祇(しんぎ)なるかとなり。」――かう云ふ逸話も残つてゐる。兎に角芭蕉の口の悪いのには屡(しばしば)門人たちも悩まされたらしい。唯幸ひにこの諷刺家は今を距(さ)ること二百年ばかり前に腸加答児(カタル)か何かの為に往生した。さもなければ僕の「芭蕉雑記」なども定めし得意の毒舌の先にさんざん飜弄されたことであらう。
 芭蕉の海彼岸の文学に余り通じてゐなかつたことは上に述べた通りである。では海彼岸の文学に全然冷淡だつたかと云ふと、これは中々冷淡所ではない。寧ろ頗(すこぶ)る熱心に海彼岸の文学の表現法などを自家の薬籠(やくろう)中に収めてゐる。たとへば支考(しかう)の伝へてゐる下の逸話に徴(ちよう)するが好い。
「ある時翁の物がたりに、此ほど白氏(はくし)文集を見て、老鶯(らうあう)と云(いひ)、病蚕(びやうさん)といへる言葉のおもしろければ、
黄鳥(うぐひす)や竹の子藪に老(おい)を啼(なく)
さみだれや飼蚕(かひこ)煩(わづら)ふ桑の畑
 斯く二句を作り侍りしが、鴬は筍藪(たけのこやぶ)といひて老若(らうにやく)の余情もいみじく籠(こも)り侍らん。蚕は熟語をしらぬ人は心のはこびをえこそ聞くまじけれ。是は筵(むしろ)の一字を入れて家に飼ひたるさまあらんとなり。」
 白楽天の長慶集(ちやうけいしふ)は「嵯峨(さが)日記」にも掲げられた芭蕉の愛読書の一つである。かう云ふ詩集などの表現法を換骨奪胎(くわんこつだつたい)することは必しも稀ではなかつたらしい。たとへば芭蕉の俳諧はその動詞の用法に独特の技巧を弄してゐる。
一声(ひとこゑ)の江(え)に横たふや時鳥(ほととぎす)
  立石寺(りつしやくじ)(前書略)
閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声
  鳳来寺に参籠して
木枯(こがらし)に岩吹とがる杉間(すぎま)かな
 是等の動詞の用法は海彼岸の文学の字眼(じがん)から学んだのではないであらうか? 字眼とは一字の工(こう)の為に一句を穎異(えいい)ならしめるものである。例へば下に引用する岑参(しんしん)の一聯に徴(ちよう)するがよい。
孤燈燃客夢 寒杵搗郷愁
 けれども学んだと断言するのは勿論頗る危険である。芭蕉はおのづから海彼岸の詩人と同じ表現法を捉へたかも知れない。しかし下に挙げる一句もやはり暗合に外ならないであらうか?
鐘消えて花の香は撞く夕べかな
 僕の信ずる所によれば、これは明らかに朱飲山(しゆいんさん)の所謂(いはゆる)倒装法を俳諧に用ひたものである。
紅稲啄残鸚鵡粒 碧梧棲老鳳凰枝
 上に挙げたのは倒装法を用ひた、名高い杜甫の一聯である。この一聯を尋常に云ひ下せば、「鸚鵡啄残紅稲粒 鳳凰棲老碧梧枝」と名詞の位置を顛倒(てんたう)しなければならぬ。芭蕉の句も尋常に云ひ下せば、「鐘搗いて花の香消ゆる夕べかな」と動詞の位置の顛倒する筈である。すると一は名詞であり、一は又動詞であるにもせよ、これを俳諧に試みた倒装法と考へるのは必しも独断とは称し難いであらう。
 蕪村の海彼岸の文学に学ぶ所の多かつたことは前人も屡(しばしば)云ひ及んでゐる。が、芭蕉のはどう云ふものか、余り考へる人もゐなかつたらしい。(もし一人でもゐたとすれば、この「鐘消えて」の句のことなどはとうの昔に気づいてゐた筈である。)しかし延宝(えんぱう)天和(てんな)の間(かん)の芭蕉は誰でも知つてゐるやうに、「憶老杜(ラウトヲオモフ)、髭風(ヒゲカゼ)ヲ吹(フイ)テ暮秋(ボシウ)歎(タン)ズルハ誰(タ)ガ子(コ)ゾ」「夜着は重し呉天(ごてん)に雪を見るあらん」以下、多数に海彼岸の文学を飜案した作品を残してゐる。いや、そればかりではない。芭蕉は「虚栗(みなしぐり)」(天和三年上梓)の跋(ばつ)の後に「芭蕉洞桃青」と署名してゐる。「芭蕉庵桃青」は必しも海彼岸の文学を聯想せしめる雅号ではない。しかし「芭蕉洞桃青」は「凝烟肌帯緑映日瞼粧紅(ギヨウエンキミドリヲオビヒニエイジテケンクレナヰヲヨソホフ)」の詩中の趣(おもむき)を具へてゐる。(これは勝峯晉風氏も「芭蕉俳句定本」の年譜の中に「洞の一字を見落してならぬ」と云つてゐる。)すると芭蕉は――少くとも延宝天和の間の芭蕉は、海彼岸の文学に少なからず心酔してゐたと云はなければならぬ。或は多少の危険さへ冒(をか)せば、談林風の鬼窟裡(きくつり)に堕在(だざい)してゐた芭蕉の天才を開眼(かいげん)したものは、海彼岸の文学であるとも云はれるかも知れない。かう云ふ芭蕉の俳諧の中に、海彼岸の文学の痕跡のあるのは、勿論不思議がるには当らない筈である。偶(たまたま)、「芭蕉俳句定本」を読んでゐるうちに、海彼岸の文学の影響を考へたから、「芭蕉雑記」の後に加へることにした。
附記。芭蕉は夙(つと)に伊藤坦庵(たんあん)、田中桐江(とうかう)などの学者に漢学を学んだと伝へられてゐる。しかし芭蕉の蒙(かうむ)つた海彼岸の文学の影響は寧ろ好んで詩を作つた山口素堂(そだう)に発するのかも知れない。

     十二 詩人

 蕉風の付(つ)け合(あひ)に関する議論は樋口功(いさを)氏の「芭蕉研究」に頗(すこぶ)る明快に述べられてゐる。尤も僕は樋口氏のやうに、発句は蕉門の竜象(りゆうざう)を始め蕪村も甚だ芭蕉には劣つてゐなかつたとは信ぜられない。が、芭蕉の付け合の上に古今独歩の妙のあることはまことに樋口氏の議論の通りである。のみならず元禄の文芸復興の蕉風の付け合に反映してゐたと云ふのは如何にも同感と云はなければならぬ。
 芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。いや、寧ろ時代の中に全精神を投じた詩人である。たまたまその間口の広さの芭蕉の発句に現れないのはこれも樋口氏の指摘したやうに発句は唯「わたくし詩歌」を本道とした為と云はなければならぬ。蕪村はこの金鎖(きんさ)を破り、発句を自他無差別(むしやべつ)の大千世界(だいせんせかい)へ解放した。「お手打(てうち)の夫婦なりしを衣更(ころもがへ)」「負けまじき相撲を寝物語かな」等はこの解放の生んだ作品である。芭蕉は許六の「名将の橋の反(そり)見る扇かな」にさへ、「此句は名将の作にして、句主の手柄は少しも無し」と云ふ評語を下した。もし「お手打の夫婦」以下蕪村の作品を見たとすれば、後代の豎子(じゆし)の悪作劇に定めし苦い顔をしたことであらう。勿論蕪村の試みた発句解放の善悪はおのづから問題を異にしなければならぬ。しかし芭蕉の付け合を見ずに、蕪村の小説的構想などを前人未発のやうに賞揚するのは甚だしい片手落ちの批判である。
 念の為にもう一度繰り返せば、芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。最も切実に時代を捉へ、最も大胆に時代を描いた万葉集以後の詩人である。この事実を知る為には芭蕉の付け合を一瞥(いちべつ)すれば好い。芭蕉は茶漬を愛したなどと云ふのも嘘ではないかと思はれるほど、近松を生み、西鶴を生み、更に又師宣(もろのぶ)を生んだ元禄の人情を曲尽(きよくじん)してゐる。殊に恋愛を歌つたものを見れば、其角さへ木強漢(ぼくきやうかん)に見えぬことはない。況(いはん)や後代の才人などは空也(くうや)の痩せか、乾鮭(からざけ)か、或は腎気(じんき)を失つた若隠居かと疑はれる位である。

狩衣(かりぎぬ)を砧(きぬた)の主(ぬし)にうちくれて     路通(ろつう)
 わが稚名(をさなな)を君はおぼゆや     芭蕉

 宮に召されしうき名はづかし   曾良(そら)
手枕(たまくら)に細きかひなをさし入(いれ)て    芭蕉

殿守(とのもり)がねぶたがりつる朝ぼらけ   千里(せんり)
 兀(は)げたる眉を隠すきぬぎぬ    芭蕉

 足駄(あしだ)はかせぬ雨のあけぼの    越人(をつじん)
きぬぎぬやあまりか細くあでやかに 芭蕉

上置(うはおき)の干葉(ほしな)きざむもうはの空    野坡(やは)
 馬に出ぬ日は内で恋する     芭蕉

 やさしき色に咲るなでしこ    嵐蘭(らんらん)
よつ折の蒲団(ふとん)に君が丸(まろ)くねて    芭蕉

 是等の作品を作つた芭蕉は近代の芭蕉崇拝者の芭蕉とは聊(いささ)か異つた芭蕉である。たとへば「きぬぎぬやあまりか細くあでやかに」は枯淡なる世捨人の作品ではない。菱川(ひしかは)の浮世絵に髣髴(はうふつ)たる女や若衆(わかしゆ)の美しさにも鋭い感受性を震はせてゐた、多情なる元禄びとの作品である。「元禄びとの」、――僕は敢て「元禄びとの」と言つた。是等の作品の抒情詩的甘露味はかの化政度の通人などの夢寐(むび)にも到り得る境地ではない。彼等は年代を数へれば、「わが稚名を君はおぼゆや」と歌つた芭蕉と、僅か百年を隔つるのに過ぎぬ。が、実は千年の昔に「常陸少女(ひたちをとめ)を忘れたまふな」と歌つた万葉集中の女人よりも遙かに縁の遠い俗人だつたではないか?

     十三 鬼趣

 芭蕉もあらゆる天才のやうに時代の好尚(かうしやう)を反映してゐることは上に挙げた通りである。その著しい例の一つは芭蕉の俳諧にある鬼趣(きしゆ)であらう。「剪燈新話(せんとうしんわ)」を飜案した浅井了意(れうい)の「御伽婢子(おとぎばふこ)」は寛文(くわんぶん)六年の上梓(じやうし)である。爾来(じらい)かう云ふ怪談小説は寛政頃まで流行してゐた。たとへば西鶴の「大下馬(おほげば)」などもこの流行の生んだ作品である。正保(しやうはう)元年に生れた芭蕉は寛文、延宝(えんぱう)、天和(てんな)、貞享(ぢやうきやう)を経、元禄七年に長逝した。すると芭蕉の一生は怪談小説の流行の中に終始したものと云はなければならぬ。この為に芭蕉の俳諧も――殊にまだ怪談小説に対する一代の興味の新鮮だつた「虚栗(みなしぐり)」以前の俳諧は時々鬼趣を弄(もてあそ)んだ、巧妙な作品を残してゐる。たとへば下の例に徴するが好い。

小夜嵐(さよあらし)とぼそ落ちては堂の月    信徳(しんとく)
 古入道は失せにけり露      桃青(たうせい)

 から尻沈む淵はありけり     信徳
小蒲団に大蛇(をろち)の恨み鱗形(うろこがた)      桃青

気違(きちがひ)を月のさそへば忽(たちまち)に      桃青
 尾を引ずりて森の下草      似春(じしゆん)

 夫(つま)は山伏あまの呼び声      信徳
一念の□(うなぎ)となつて七(なな)まとひ     桃青

骨刀(こつがたな)土器鍔(かはらけつば)のもろきなり      其角
 痩せたる馬の影に鞭うつ     桃青

 山彦嫁をだいてうせけり     其角
忍びふす人は地蔵にて明過(あけすぐ)し    桃青

釜かぶる人は忍びて別るなり    其角
 槌(つち)を子に抱くまぼろしの君    桃青

 今其(その)とかげ金色(こんじき)の王       峡水(けふすゐ)
袖に入る□竜(あまりよう)夢(ゆめ)を契(ちぎ)りけむ     桃青

 是等の作品の或ものは滑稽であるのにも違ひない。が、「痩せたる馬の影」だの「槌を子に抱く」だのの感じは当時の怪談小説よりも寧ろもの凄い位である。芭蕉は蕉風を樹立した後、殆ど鬼趣には縁を断(た)つてしまつた。しかし無常の意を寓した作品はたとひ鬼趣ではないにもせよ、常に云ふ可らざる鬼気を帯びてゐる。
  骸骨の画に
夕風や盆挑灯(ぼんぢやうちん)も糊ばなれ
  本間主馬(しゆめ)が宅に、骸骨どもの笛、
  鼓をかまへて能(のう)する所を画きて、
  壁に掛けたり(下略)
稲妻やかほのところが薄(すすき)の穂
(大正十二年―十三年)



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