鵠沼雑記
著者名:芥川竜之介
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僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴(かみなり)は何(なん)ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠(ほ)え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団(ふとん)をかぶるか、妻のゐる次の間(ま)へ避難してしまふ。
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僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札(ふだ)を出した家を見つけた。が、二三日たつた後(のち)、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名(かたかな)を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。(以上家を借りてから)
(一五・七・二〇)〔遺稿〕
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