鵠沼雑記
著者名:芥川竜之介
×
僕はバタの罐(くわん)をあけながら、軽井沢(かるゐざは)の夏を思ひ出した。その拍子(ひやうし)に頸(くび)すぢがちくりとした。僕は驚いてふり返つた。すると軽井沢に沢山(たくさん)ゐる馬蝿(うまばへ)が一匹飛んで行つた。それもこのあたりの馬蝿ではない。丁度(ちようど)軽井沢の馬蝿のやうに緑色の目をした馬蝿だつた。
×
僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴(かみなり)は何(なん)ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠(ほ)え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団(ふとん)をかぶるか、妻のゐる次の間(ま)へ避難してしまふ。
×
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札(ふだ)を出した家を見つけた。が、二三日たつた後(のち)、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名(かたかな)を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。(以上家を借りてから)
(一五・七・二〇)〔遺稿〕
ページジャンプ青空文庫の検索おまかせリスト▼オプションを表示暇つぶし青空文庫
Size:4080 Bytes
担当:undef