保吉の手帳から
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著者名:芥川竜之介 

「なるほどそれじゃ莫迦莫迦(ばかばか)しい。危険を冒(おか)すだけ損の訣(わけ)ですね。」
 大浦は「はあ」とか何とか云った。その癖変に浮かなそうだった。
「だが賞与さえ出るとなれば、――」
 保吉はやや憂鬱(ゆううつ)に云った。
「だが、賞与さえ出るとなれば、誰でも危険を冒すかどうか?――そいつもまた少し疑問ですね。」
 大浦は今度は黙っていた。が、保吉が煙草を啣(くわ)えると、急に彼自身のマッチを擦(す)り、その火を保吉の前へ出した。保吉は赤あかと靡(なび)いた焔(ほのお)を煙草の先に移しながら、思わず口もとに動いた微笑(びしょう)を悟(さと)られないように噛(か)み殺した。
「難有(ありがと)う。」
「いや、どうしまして。」
 大浦はさりげない言葉と共に、マッチの箱をポケットへ返した。しかし保吉は今日(こんにち)もなおこの勇ましい守衛の秘密を看破(かんぱ)したことと信じている。あの一点のマッチの火は保吉のためにばかり擦(す)られたのではない。実に大浦の武士道を冥々(めいめい)の裡(うち)に照覧(しょうらん)し給う神々のために擦られたのである。
(大正十二年四月)



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