海のほとり
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著者名:芥川竜之介 

「どうしてもはいらないか?」
「どうしてもはいらない。」
「イゴイストめ!」
 Mは体を濡(ぬ)らし濡らし、ずんずん沖(おき)へ進みはじめた。僕はMには頓着(とんじゃく)せず、着もの脱ぎ場から少し離れた、小高い砂山の上へ行った。それから貸下駄を臀(しり)の下に敷き、敷島(しきしま)でも一本吸おうとした。しかし僕のマツチの火は存外強い風のために容易に巻煙草に移らなかった。
「おうい。」
 Mはいつ引っ返したのか、向うの浅瀬に佇(たたず)んだまま、何か僕に声をかけていた。けれども生憎(あいにく)その声も絶え間(ま)のない浪(なみ)の音のためにはっきり僕の耳へはいらなかった。
「どうしたんだ?」
 僕のこう尋ねた時にはMはもう湯帷子(ゆかた)を引っかけ、僕の隣に腰を下ろしていた。
「何、水母(くらげ)にやられたんだ。」
 海にはこの数日来、俄(にわか)に水母が殖(ふ)えたらしかった。現に僕もおとといの朝、左の肩から上膊(じょうはく)へかけてずっと針の痕(あと)をつけられていた。
「どこを?」
「頸(くび)のまわりを。やられたなと思ってまわりを見ると、何匹も水の中に浮いているんだ。」
「だから僕ははいらなかったんだ。」
「□(うそ)をつけ。――だがもう海水浴もおしまいだな。」
 渚(なぎさ)はどこも見渡す限り、打ち上げられた海草(かいそう)のほかは白(しら)じらと日の光に煙っていた。そこにはただ雲の影の時々大走(おおばし)りに通るだけだった。僕等は敷島を啣(くわ)えながら、しばらくは黙ってこう言う渚に寄せて来る浪を眺めていた。
「君は教師の口はきまったのか?」
 Mは唐突(いきなり)とこんなことを尋ねた。
「まだだ。君は?」
「僕か? 僕は……」
 Mの何か言いかけた時、僕等は急に笑い声やけたたましい足音に驚かされた。それは海水着に海水帽をかぶった同年輩(どうねんぱい)の二人(ふたり)の少女だった。彼等はほとんど傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に僕等の側を通り抜けながら、まっすぐに渚へ走って行った。僕等はその後姿(うしろすがた)を、――一人(ひとり)は真紅(しんく)の海水着を着、もう一人はちょうど虎(とら)のように黒と黄とだんだらの海水着を着た、軽快な後姿を見送ると、いつか言い合せたように微笑していた。
「彼女たちもまだ帰らなかったんだな。」
 Mの声は常談(じょうだん)らしい中にも多少の感慨を託(たく)していた。
「どうだ、もう一ぺんはいって来ちゃ?」
「あいつ一人ならばはいって来るがな。何しろ『ジンゲジ』も一しょじゃ、……」
 僕等は前の「嫣然(えんぜん)」のように彼等の一人に、――黒と黄との海水着を着た少女に「ジンゲジ」と言う諢名(あだな)をつけていた。「ジンゲジ」とは彼女の顔だち(ゲジヒト)の肉感的(ジンリッヒ)なことを意味するのだった。僕等は二人ともこの少女にどうも好意を持ち悪(にく)かった。もう一人の少女にも、――Mはもう一人の少女には比較的興味を感じていた。のみならず「君は『ジンゲジ』にしろよ。僕はあいつにするから」などと都合(つごう)の好(い)いことを主張していた。
「そこを彼女のためにはいって来いよ。」
「ふん、犠牲的(ぎせいてき)精神を発揮してか?――だがあいつも見られていることはちゃんと意識しているんだからな。」
「意識していたって好いじゃないか。」
「いや、どうも少し癪(しゃく)だね。」
 彼等は手をつないだまま、もう浅瀬へはいっていた。浪(なみ)は彼等の足もとへ絶えず水吹(しぶ)きを打ち上げに来た。彼等は濡れるのを惧(おそ)れるようにそのたびにきっと飛び上った。こう言う彼等の戯(たわむ)れはこの寂しい残暑の渚と不調和に感ずるほど花やかに見えた。それは実際人間よりも蝶(ちょう)の美しさに近いものだった。僕等は風の運んで来る彼等の笑い声を聞きながら、しばらくまた渚から遠ざかる彼等の姿を眺めていた。
「感心に中々勇敢だな。」
「まだ背(せ)は立っている。」
「もう――いや、まだ立っているな。」
 彼等はとうに手をつながず、別々に沖へ進んでいた。彼等の一人は、――真紅(しんく)の海水着を着た少女は特にずんずん進んでいた。と思うと乳ほどの水の中に立ち、もう一人の少女を招きながら、何か甲高(かんだか)い声をあげた。その顔は大きい海水帽のうちに遠目(とおめ)にも活(い)き活(い)きと笑っていた。
「水母(くらげ)かな?」
「水母かも知れない。」
 しかし彼等は前後したまま、さらに沖へ出て行くのだった。
 僕等は二人の少女の姿が海水帽ばかりになったのを見、やっと砂の上の腰を起した。それから余り話もせず、(腹も減っていたのに違いなかった。)宿の方へぶらぶら帰って行った。

        三

 ……日の暮も秋のように涼しかった。僕等は晩飯をすませた後(のち)、この町に帰省中のHと言う友だちやNさんと言う宿の若主人ともう一度浜へ出かけて行った。それは何も四人とも一しょに散歩をするために出かけたのではなかった。HはS村の伯父(おじ)を尋ねに、Nさんはまた同じ村の籠屋(かごや)へ庭鳥(にわとり)を伏せる籠を註文(ちゅうもん)しにそれぞれ足を運んでいたのだった。
 浜伝(はまづた)いにS村へ出る途(みち)は高い砂山の裾(すそ)をまわり、ちょうど海水浴区域とは反対の方角に向っていた。海は勿論砂山に隠れ、浪の音もかすかにしか聞えなかった。しかし疎(まば)らに生(は)え伸びた草は何か黒い穂(ほ)に出ながら、絶えず潮風(しおかぜ)にそよいでいた。
「この辺(へん)に生えている草は弘法麦(こうぼうむぎ)じゃないね。――Nさん、これば何と言うの?」
 僕は足もとの草をむしり、甚平(じんべい)一つになったNさんに渡した。
「さあ、蓼(たで)じゃなし、――何と言いますかね。Hさんは知っているでしょう。わたしなぞとは違って土地っ子ですから。」
 僕等もNさんの東京から聟(むこ)に来たことは耳にしていた。のみならず家附(いえつき)の細君は去年の夏とかに男を拵(こしら)えて家出したことも耳にしていた。
「魚(さかな)のこともHさんはわたしよりはずっと詳(くわ)しいんです。」
「へええ、Hはそんなに学者かね。僕はまた知っているのは剣術ばかりかと思っていた。」
 HはMにこう言われても、弓の折れの杖を引きずったまま、ただにやにや笑っていた。
「Mさん、あなたも何かやるでしょう?」
「僕? 僕はまあ泳ぎだけですね。」
 Nさんはバットに火をつけた後(のち)、去年水泳中に虎魚(おこぜ)に刺(さ)された東京の株屋の話をした。その株屋は誰が何と言っても、いや、虎魚(おこぜ)などの刺す訣(わけ)はない、確かにあれは海蛇(うみへび)だと強情を張っていたとか言うことだった。
「海蛇なんてほんとうにいるの?」
 しかしその問に答えたのはたった一人(ひとり)海水帽をかぶった、背の高いHだった。
「海蛇か? 海蛇はほんとうにこの海にもいるさ。」
「今頃もか?」
「何、滅多(めった)にゃいないんだ。」
 僕等は四人とも笑い出した。そこへ向うからながらみ取りが二人(ふたり)、(ながらみと言うのは螺(にし)の一種である。)魚籃(びく)をぶら下(さ)げて歩いて来た。彼等は二人とも赤褌(あかふんどし)をしめた、筋骨(きんこつ)の逞(たくま)しい男だった。が、潮(しお)に濡れ光った姿はもの哀れと言うよりも見すぼらしかった。Nさんは彼等とすれ違う時、ちょっと彼等の挨拶(あいさつ)に答え、「風呂(ふろ)にお出(い)で」と声をかけたりした。
「ああ言う商売もやり切れないな。」
 僕は何か僕自身もながらみ取りになり兼ねない気がした。
「ええ、全くやり切れませんよ。何しろ沖へ泳いで行っちゃ、何度も海の底へ潜(もぐ)るんですからね。」
「おまけに澪(みお)に流されたら、十中八九は助からないんだよ。」
 Hは弓の折れの杖を振り振り、いろいろ澪の話をした。大きい澪は渚から一里半も沖へついている、――そんなことも話にまじっていた。
「そら、Hさん、ありゃいつでしたかね、ながらみ取りの幽霊(ゆうれい)が出るって言ったのは?」
「去年――いや、おととしの秋だ。」
「ほんとうに出たの?」
 HさんはMに答える前にもう笑い声を洩(も)らしていた。
「幽霊じゃなかったんです。しかし幽霊が出るって言ったのは磯(いそ)っ臭い山のかげの卵塔場(らんとうば)でしたし、おまけにそのまたながらみ取りの死骸(しがい)は蝦(えび)だらけになって上(あが)ったもんですから、誰でも始めのうちは真(ま)に受けなかったにしろ、気味悪がっていたことだけは確かなんです。そのうちに海軍の兵曹上(へいそうあが)りの男が宵のうちから卵塔場に張りこんでいて、とうとう幽霊を見とどけたんですがね。とっつかまえて見りゃ何のことはない。ただそのながらみ[#「ながらに」に傍点]取りと夫婦約束をしていたこの町の達磨茶屋(だるまぢゃや)の女だったんです。それでも一時は火が燃えるの人を呼ぶ声が聞えるのって、ずいぶん大騒(おおさわ)ぎをしたもんですよ。」
「じゃ別段その女は人を嚇(おど)かす気で来ていたんじゃないの?」
「ええ、ただ毎晩十二時前後にながらみ取りの墓の前へ来ちゃ、ぼんやり立っていただけなんです。」
 Nさんの話はこう言う海辺(うみべ)にいかにもふさわしい喜劇だった。が、誰も笑うものはなかった。のみならず皆なぜともなしに黙って足ばかり運んでいた。
「さあこの辺(へん)から引っ返すかな。」
 僕等はMのこう言った時、いつのまにかもう風の落ちた、人気(ひとけ)のない渚(なぎさ)を歩いていた。あたりは広い砂の上にまだ千鳥(ちどり)の足跡(あしあと)さえかすかに見えるほど明るかった。しかし海だけは見渡す限り、はるかに弧(こ)を描(えが)いた浪打ち際に一すじの水沫(みなわ)を残したまま、一面に黒ぐろと暮れかかっていた。
「じや失敬。」
「さようなら。」
 HやNさんに別れた後(のち)、僕等は格別急ぎもせず、冷びえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音のほかに時々澄み渡った蜩(ひぐらし)の声も僕等の耳へ伝わって来た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いている蜩だった。
「おい、M!」
 僕はいつかMより五六歩あとに歩いていた。
「何だ?」
「僕等ももう東京へ引き上げようか?」
「うん、引き上げるのも悪くはないな。」
 それからMは気軽そうにティッペラリイの口笛を吹きはじめた。
(大正十四年八月七日)



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