杜子春
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著者名:芥川竜之介 

 杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐つてゐました。
 虎と蛇とは、一つ餌食を狙つて、互に隙でも窺(うかが)ふのか、暫くは睨合ひの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬(またた)く内に、なくなつてしまふと思つた時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さつきの通りこうこうと枝を鳴らしてゐるばかりなのです。杜子春はほつと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待つてゐました。
 すると一陣の風が吹き起つて、墨のやうな黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにはに闇を二つに裂いて、凄じく雷(らい)が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しよに瀑(たき)のやうな雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐つてゐました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山(がびさん)も、覆(くつがへ)るかと思ふ位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟(とどろ)いたと思ふと、空に渦巻いた黒雲の中から、まつ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
 杜子春は思はず耳を抑へて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡つて、向うに聳(そび)えた山山の上にも、茶碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いてゐます。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じやうに、鉄冠子(てつくわんし)の留守をつけこんだ、魔性の悪戯(いたづら)に違ひありません。杜子春は漸(やうや)く安心して、額の冷汗を拭ひながら、又岩の上に坐り直しました。
 が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐つてゐる前へ、金の鎧(よろひ)を着下(きくだ)した、身の丈三丈もあらうといふ、厳かな神将が現れました。神将は手に三叉(みつまた)の戟(ほこ)を持つてゐましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔(いか)らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山といふ山は、天地開闢(かいびやく)の昔から、おれが住居(すまひ)をしてゐる所だぞ。それも憚(はばか)らずたつた一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかつたら、一刻も早く返答しろ。」と言ふのです。
 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然(もくねん)と口を噤(つぐ)んでゐました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属(けんぞく)たちが、その方をずたずたに斬つてしまふぞ。」
 神将は戟(ほこ)を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさつと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満(みちみ)ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしてゐるのです。
 この景色を見た杜子春は、思はずあつと叫びさうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思ひ出して、一生懸命に黙つてゐました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒つたの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとつてやるぞ。」
 神将はかう喚(わめ)くが早いか、三叉(みつまた)の戟(ほこ)を閃(ひらめ)かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。さうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑ひながら、どこともなく消えてしまひました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しよに、夢のやうに消え失せた後だつたのです。
 北斗の星は又寒さうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせてゐます。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向(あふむ)けにそこへ倒れてゐました。

       五

 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れてゐましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
 この世と地獄との間には、闇穴道(あんけつだう)といふ道があつて、そこは年中暗い空に、氷のやうな冷たい風がぴゆうぴゆう吹き荒(すさ)んでゐるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯(ただ)木の葉のやうに、空を漂つて行きましたが、やがて森羅殿(しんらでん)といふ額の懸つた立派な御殿の前へ出ました。
 御殿の前にゐた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまはりを取り捲いて、階(きざはし)の前へ引き据ゑました。階の上には一人の王様が、まつ黒な袍(きもの)に金の冠(かんむり)をかぶつて、いかめしくあたりを睨んでゐます。これは兼ねて噂(うはさ)に聞いた、閻魔(えんま)大王に違ひありません。杜子春はどうなることかと思ひながら、恐る恐るそこへ跪(ひざまづ)いてゐました。
「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐つてゐた?」
 閻魔大王の声は雷のやうに、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答へようとしましたが、ふと又思ひ出したのは、「決して口を利くな。」といふ鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、唖(おし)のやうに黙つてゐました。すると閻魔大王は、持つてゐた鉄の笏(しやく)を挙げて、顔中の鬚(ひげ)を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思ふ? 速(すみやか)に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責(かしやく)に遇(あ)はせてくれるぞ。」と、威丈高(ゐたけだか)に罵(ののし)りました。
 が、杜子春は相変らず唇(くちびる)一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言ひつけると、鬼どもは一度に畏(かしこま)つて、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞ひ上りました。
 地獄には誰でも知つてゐる通り、剣(つるぎ)の山や血の池の外にも、焦熱(せうねつ)地獄といふ焔の谷や極寒(ごくかん)地獄といふ氷の海が、真暗な空の下に並んでゐます。鬼どもはさういふ地獄の中へ、代る代る杜子春を抛(はふ)りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、焔に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵(きね)に撞(つ)かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸はれるやら、熊鷹に眼を食はれるやら、――その苦しみを数へ立ててゐては、到底際限がない位、あらゆる責苦(せめく)に遇はされたのです。それでも杜子春は我慢強く、ぢつと歯を食ひしばつた儘、一言も口を利きませんでした。
 これにはさすがの鬼どもも、呆れ返つてしまつたのでせう。もう一度夜のやうな空を飛んで、森羅殿の前へ帰つて来ると、さつきの通り杜子春を階(きざはし)の下に引き据ゑながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言ふ気色(けしき)がございません。」と、口を揃へて言上(ごんじやう)しました。
 閻魔大王は眉をひそめて、暫く思案に暮れてゐましたが、やがて何か思ひついたと見えて、
「この男の父母(ちちはは)は、畜生道に落ちてゐる筈だから、早速ここへ引き立てて来い。」と、一匹の鬼に云ひつけました。
 鬼は忽ち風に乗つて、地獄の空へ舞ひ上りました。と思ふと、又星が流れるやうに、二匹の獣を駆り立てながら、さつと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといへばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に坐つてゐたか、まつすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思ひをさせてやるぞ。」
 杜子春はかう嚇(おど)されても、やはり返答をしずにゐました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さへ都合が好ければ、好いと思つてゐるのだな。」
 閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまへ。」
 鬼どもは一斉に「はつ」と答へながら、鉄の鞭(むち)をとつて立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈(みれんみしやく)なく打ちのめしました。鞭はりうりうと風を切つて、所嫌はず雨のやうに、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、――畜生になつた父母は、苦しさうに身を悶(もだ)えて、眼には血の涙を浮べた儘、見てもゐられない程嘶(いなな)き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか。」
 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階(きざはし)の前へ、倒れ伏してゐたのです。
 杜子春は必死になつて、鉄冠子の言葉を思ひ出しながら、緊(かた)く眼をつぶつてゐました。するとその時彼の耳には、殆(ほとんど)声とはいへない位、かすかな声が伝はつて来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰(おつしや)つても、言ひたくないことは黙つて御出(おい)で。」
 それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色(けしき)さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……

       六

 その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでゐるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、――すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇(すがめ)の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反(かへ)つて嬉しい気がするのです。」
 杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」
「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急に厳(おごそか)な顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)つてゐました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」
 鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸(さいはひ)、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓(ふもと)に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、さも愉快さうにつけ加へました。
(大正九年六月)



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