俊寛
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著者名:芥川竜之介 

俊寛(しゅんかん)云いけるは……神明(しんめい)外(ほか)になし。唯(ただ)我等が一念なり。……唯仏法を修行(しゅぎょう)して、今度(こんど)生死(しょうし)を出で給うべし。源平盛衰記(げんぺいせいすいき)
(俊寛)いとど思いの深くなれば、かくぞ思いつづけける。「見せばやな我を思わぬ友もがな磯のとまやの柴(しば)の庵(いおり)を。」同上

        一

 俊寛様の話ですか? 俊寛様の話くらい、世間に間違って伝えられた事は、まずほかにはありますまい。いや、俊寛様の話ばかりではありません。このわたし、――有王(ありおう)自身の事さえ、飛(とん)でもない嘘が伝わっているのです。現についこの間も、ある琵琶法師(びわほうし)が語ったのを聞けば、俊寛様は御歎きの余り、岩に頭を打ちつけて、狂(くる)い死(じに)をなすってしまうし、わたしはその御死骸(おなきがら)を肩に、身を投げて死んでしまったなどと、云っているではありませんか? またもう一人の琵琶法師は、俊寛様はあの島の女と、夫婦の談(かた)らいをなすった上、子供も大勢御出来になり、都にいらしった時よりも、楽しい生涯(しょうがい)を御送りになったとか、まことしやかに語っていました。前の琵琶法師の語った事が、跡方(あとかた)もない嘘だと云う事は、この有王が生きているのでも、おわかりになるかと思いますが、後の琵琶法師の語った事も、やはり好(い)い加減の出たらめなのです。
 一体琵琶法師などと云うものは、どれもこれも我(われ)は顔(がお)に、嘘ばかりついているものなのです。が、その嘘のうまい事は、わたしでも褒(ほ)めずにはいられません。わたしはあの笹葺(ささぶき)の小屋に、俊寛様が子供たちと、御戯(おたわむ)れになる所を聞けば、思わず微笑を浮べましたし、またあの浪音の高い月夜に、狂い死をなさる所を聞けば、つい涙さえ落しました。たとい嘘とは云うものの、ああ云う琵琶法師(びわほうし)の語った嘘は、きっと琥珀(こはく)の中の虫のように、末代までも伝わるでしょう。して見ればそう云う嘘があるだけ、わたしでも今の内ありのままに、俊寛様の事を御話しないと、琵琶法師の嘘はいつのまにか、ほんとうに変ってしまうかも知れない――と、こうあなたはおっしゃるのですか? なるほどそれもごもっともです。ではちょうど夜長を幸い、わたしがはるばる鬼界(きかい)が島(しま)へ、俊寛様を御尋ね申した、その時の事を御話しましょう。しかしわたしは琵琶法師のように、上手にはとても話されません。ただわたしの話の取り柄(え)は、この有王が目(ま)のあたりに見た、飾りのない真実と云う事だけです。ではどうかしばらくの間(あいだ)、御退屈でも御聞き下さい。

        二

 わたしが鬼界が島に渡ったのは、治承(じしょう)三年五月の末、ある曇った午(ひる)過ぎです。これは琵琶法師も語る事ですが、その日もかれこれ暮れかけた時分、わたしはやっと俊寛(しゅんかん)様に、めぐり遇(あ)う事が出来ました。しかもその場所は人気(ひとけ)のない海べ、――ただ灰色の浪(なみ)ばかりが、砂の上に寄せては倒れる、いかにも寂しい海べだったのです。
 俊寛様のその時の御姿は、――そうです。世間に伝わっているのは、「童(わらわ)かとすれば年老いてその貌(かお)にあらず、法師かと思えばまた髪は空(そら)ざまに生(お)い上(あが)りて白髪(はくはつ)多し。よろずの塵(ちり)や藻屑(もくず)のつきたれども打ち払わず。頸(くび)細くして腹大きに脹(は)れ、色黒うして足手細し。人にして人に非ず。」と云うのですが、これも大抵(たいてい)は作り事です。殊に頸(くび)が細かったの、腹が脹(は)れていたのと云うのは、地獄変(じごくへん)の画(え)からでも思いついたのでしょう。つまり鬼界が島と云う所から、餓鬼(がき)の形容を使ったのです。なるほどその時の俊寛様は、髪も延びて御出(おい)でになれば、色も日に焼けていらっしゃいましたが、そのほかは昔に変らない、――いや、変らないどころではありません。昔よりも一層(いっそう)丈夫そうな、頼もしい御姿(おすがた)だったのです。それが静かな潮風(しおかぜ)に、法衣(ころも)の裾を吹かせながら、浪打際(なみうちぎわ)を独り御出でになる、――見れば御手(おて)には何と云うのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらっしゃいました。
「僧都(そうず)の御房(ごぼう)! よく御無事でいらっしゃいました。わたしです! 有王(ありおう)です!」
 わたしは思わず駈け寄りながら、嬉しまぎれにこう叫びました。
「おお、有王か!」
 俊寛様は驚いたように、わたしの顔を御覧になりました。が、もうわたしはその時には、御主人の膝を抱(だ)いたまま、嬉し泣きに泣いていたのです。
「よく来たな。有王! おれはもう今生(こんじょう)では、お前にも会えぬと思っていた。」
 俊寛様もしばらくの間(あいだ)は、涙ぐんでいらっしゃるようでしたが、やがてわたしを御抱き起しになると、
「泣くな。泣くな。せめては今日(きょう)会っただけでも、仏菩薩(ぶつぼさつ)の御慈悲(ごじひ)と思うが好(よ)い。」と、親のように慰めて下さいました。
「はい、もう泣きは致しません。御房(ごぼう)は、――御房の御住居(おすまい)は、この界隈(かいわい)でございますか?」
「住居か? 住居はあの山の陰(かげ)じゃ。」
 俊寛様は魚を下げた御手に、間近い磯山(いそやま)を御指しになりました。
「住居と云っても、檜肌葺(ひわだぶ)きではないぞ。」
「はい、それは承知して居ります。何しろこんな離れ島でございますから、――」
 わたしはそう云いかけたなり、また涙に咽(むせ)びそうにしました。すると御主人は昔のように、優しい微笑を御見せになりながら、
「しかし居心(いごころ)は悪くない住居じゃ。寝所(ねどころ)もお前には不自由はさせぬ。では一しょに来て見るが好(よ)い。」と、気軽に案内をして下さいました。
 しばらくの後(のち)わたしたちは、浪ばかり騒がしい海べから、寂しい漁村(ぎょそん)へはいりました。薄白い路の左右には、梢(こずえ)から垂れた榕樹(あこう)の枝に、肉の厚い葉が光っている、――その木の間に点々と、笹葺(ささぶ)きの屋根を並べたのが、この島の土人の家なのです。が、そう云う家の中に、赤々(あかあか)と竈(かまど)の火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ来たと云う、懐(なつか)しい気もちだけはして来ました。
 御主人は時々振り返りながら、この家にいるのは琉球人(りゅうきゅうじん)だとか、あの檻(おり)には豕(いのこ)が飼ってあるとか、いろいろ教えて下さいました。しかしそれよりも嬉しかったのは、烏帽子(えぼし)さえかぶらない土人の男女が、俊寛様の御姿を見ると、必ず頭を下げた事です。殊に一度なぞはある家の前に、鶏(とり)を追っていた女の児さえ、御時宜(おじぎ)をしたではありませんか? わたしは勿論嬉しいと同時に、不思議にも思ったものですから、何か訳のある事かと、そっと御主人に伺(うかが)って見ました。
「成経(なりつね)様や康頼(やすより)様が、御話しになった所では、この島の土人も鬼(おに)のように、情(なさけ)を知らぬ事かと存じましたが、――」
「なるほど、都にいるものには、そう思われるに相違あるまい。が、流人(るにん)とは云うものの、おれたちは皆都人(みやこびと)じゃ。辺土(へんど)の民はいつの世にも、都人と見れば頭を下げる。業平(なりひら)の朝臣(あそん)、実方(さねかた)の朝臣、――皆大同小異ではないか? ああ云う都人もおれのように、東(あずま)や陸奥(みちのく)へ下(くだ)った事は、思いのほか楽しい旅だったかも知れぬ。」
「しかし実方の朝臣などは、御隠れになった後(のち)でさえ、都恋しさの一念から、台盤所(だいばんどころ)の雀(すずめ)になったと、云い伝えて居(お)るではありませんか?」
「そう云う噂(うわさ)を立てたものは、お前と同じ都人じゃ。鬼界(きかい)が島(しま)の土人と云えば、鬼のように思う都人じゃ。して見ればこれも当てにはならぬ。」
 その時また一人御主人に、頭を下げた女がいました。これはちょうど榕樹(あこう)の陰に、幼な児を抱いていたのですが、その葉に後(うしろ)を遮(さえぎ)られたせいか、紅染(べにぞ)めの単衣(ひとえ)を着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、優(やさ)しい会釈(えしゃく)を返されてから、
「あれが少将の北(きた)の方(かた)じゃぞ。」と、小声に教えて下さいました。
 わたしはさすがに驚きました。
「北(きた)の方(かた)と申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」
 俊寛様は薄笑いと一しょに、ちょいと頷(うなず)いて御見せになりました。
「抱いていた児も少将の胤(たね)じゃよ。」
「なるほど、そう伺って見れば、こう云う辺土(へんど)にも似合わない、美しい顔をして居りました。」
「何、美しい顔をしていた? 美しい顔とはどう云う顔じゃ?」
「まあ、眼の細い、頬(ほお)のふくらんだ、鼻の余り高くない、おっとりした顔かと思いますが、――」
「それもやはり都の好みじゃ。この島ではまず眼の大きい、頬のどこかほっそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顔が尊まれる。そのために今の女なぞも、ここでは誰も美しいとは云わぬ。」
 わたしは思わず笑い出しました。
「やはり土人の悲しさには、美しいと云う事を知らないのですね。そうするとこの島の土人たちは、都の上臈(じょうろう)を見せてやっても、皆醜(みにく)いと笑いますかしら?」
「いや、美しいと云う事は、この島の土人も知らぬではない。ただ好みが違っているのじゃ。しかし好みと云うものも、万代不変(ばんだいふへん)とは請合(うけあ)われぬ。その証拠には御寺(みてら)御寺の、御仏(みほとけ)の御姿(みすがた)を拝むが好(よ)い。三界六道(さんがいろくどう)の教主、十方最勝(じっぽうさいしょう)、光明無量(こうみょうむりょう)、三学無碍(さんがくむげ)、億億衆生引導(おくおくしゅじょういんどう)の能化(のうげ)、南無大慈大悲(なむだいじだいひ)釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)も、三十二相(そう)八十種好(しゅこう)の御姿(おすがた)は、時代ごとにいろいろ御変りになった。御仏(みほとけ)でももしそうとすれば、如何(いかん)かこれ美人と云う事も、時代ごとにやはり違う筈じゃ。都でもこの後(のち)五百年か、あるいはまた一千年か、とにかくその好みの変る時には、この島の土人の女どころか、南蛮北狄(なんばんほくてき)の女のように、凄(すさ)まじい顔がはやるかも知れぬ。」
「まさかそんな事もありますまい。我国ぶりはいつの世にも、我国ぶりでいる筈ですから。」
「所がその我国ぶりも、時と場合では当てにならぬ。たとえば当世の上臈(じょうろう)の顔は、唐朝(とうちょう)の御仏(みほとけ)に活写(いきうつ)しじゃ。これは都人(みやこびと)の顔の好みが、唐土(もろこし)になずんでいる証拠(しょうこ)ではないか? すると人皇(にんおう)何代かの後(のち)には、碧眼(へきがん)の胡人(えびす)の女の顔にも、うつつをぬかす時がないとは云われぬ。」
 わたしは自然とほほ笑(え)みました。御主人は以前もこう云う風に、わたしたちへ御教訓なすったのです。「変らぬのは御姿ばかりではない。御心もやはり昔のままだ。」――そう思うと何だかわたしの耳には、遠い都の鐘の声も、通(かよ)って来るような気がしました。が、御主人は榕樹(あこう)の陰に、ゆっくり御み足を運びながら、こんな事もまたおっしゃるのです。
「有王。おれはこの島に渡って以来、何が嬉しかったか知っているか? それはあのやかましい女房(にょうぼう)のやつに、毎日小言(こごと)を云われずとも、暮されるようになった事じゃよ。」

        三

 その夜(よ)わたしは結(ゆ)い燈台(とうだい)の光に、御主人の御飯を頂きました。本来ならばそんな事は、恐れ多い次第なのですが、御主人の仰(おお)せもありましたし、御給仕にはこの頃御召使いの、兎唇(みつくち)の童(わらべ)も居りましたから、御招伴(ごしょうばん)に預(あずか)った訳なのです。
 御部屋は竹縁(ちくえん)をめぐらせた、僧庵(そうあん)とも云いたい拵(こしら)えです。縁先に垂れた簾(すだれ)の外には、前栽(せんざい)の竹(たか)むらがあるのですが、椿(つばき)の油を燃やした光も、さすがにそこまでは届きません。御部屋の中には皮籠(かわご)ばかりか、廚子(ずし)もあれば机もある、――皮籠は都を御立ちの時から、御持ちになっていたのですが、廚子や机はこの島の土人が、不束(ふつつか)ながらも御拵(おこしら)え申した、琉球赤木(りゅうきゅうあかぎ)とかの細工(さいく)だそうです。その廚子の上には経文(きょうもん)と一しょに、阿弥陀如来(あみだにょらい)の尊像が一体、端然と金色(こんじき)に輝いていました。これは確か康頼(やすより)様の、都返りの御形見(おかたみ)だとか、伺ったように思っています。
 俊寛(しゅんかん)様は円座(わろうだ)の上に、楽々と御坐りなすったまま、いろいろ御馳走(ごちそう)を下さいました。勿論この島の事ですから、酢(す)や醤油(しょうゆ)は都ほど、味が好(よ)いとは思われません。が、その御馳走の珍しい事は、汁、鱠(なます)、煮(に)つけ、果物、――名さえ確かに知っているのは、ほとんど一つもなかったくらいです。御主人はわたしが呆(あき)れたように、箸(はし)もつけないのを御覧になると、上機嫌に御笑いなさりながら、こう御勧(おすす)め下さいました。
「どうじゃ、その汁の味は? それはこの島の名産の、臭梧桐(くさぎり)と云う物じゃぞ。こちらの魚(うお)も食うて見るが好(よ)い。これも名産の永良部鰻(えらぶうなぎ)じゃ。あの皿にある白地鳥(しろちどり)、――そうそう、あの焼き肉じゃ。――それも都(みやこ)などでは見た事もあるまい。白地鳥と云う物は、背の青い、腹の白い、形は鸛(こう)にそっくりの鳥じゃ。この島の土人はあの肉を食うと、湿気(しっき)を払うとか称(とな)えている。その芋(いも)も存外味は好(よ)いぞ。名前か? 名前は琉球芋(りゅうきゅういも)じゃ。梶王(かじおう)などは飯の代りに、毎日その芋を食うている。」
 梶王と云うのはさっき申した、兎唇(みつくち)の童(わらべ)の名前なのです。
「どれでも勝手に箸(はし)をつけてくれい。粥(かゆ)ばかり啜(すす)っていさえすれば、得脱(とくだつ)するように考えるのは、沙門にあり勝ちの不量見(ふりょうけん)じゃ。世尊(せそん)さえ成道(じょうどう)される時には、牧牛(ぼくぎゅう)の女難陀婆羅(むすめなんだばら)の、乳糜(にゅうび)の供養(くよう)を受けられたではないか? もしあの時空腹のまま、畢波羅樹下(ひっぱらじゅか)に坐っていられたら、第六天の魔王波旬(はじゅん)は、三人の魔女なぞを遣(つかわ)すよりも、六牙象王(ろくげのぞうおう)の味噌漬(みそづ)けだの、天竜八部(てんりゅうはちぶ)の粕漬(かすづ)けだの、天竺(てんじく)の珍味を降(ふ)らせたかも知らぬ。もっとも食足(くいた)れば淫(いん)を思うのは、我々凡夫の慣(なら)いじゃから、乳糜を食われた世尊の前へ、三人の魔女を送ったのは、波旬も天(あ)っ晴(ぱれ)見上げた才子じゃ。が、魔王の浅間(あさま)しさには、その乳糜を献(けん)じたものが、女人(にょにん)じゃと云う事を忘れて居った。牧牛の女難陀婆羅、世尊に乳糜を献じ奉る、――世尊が無上の道へ入られるには、雪山(せつざん)六年の苦行よりも、これが遥かに大事だったのじゃ。『取彼乳糜(かのにゅうびをとり)如意飽食(いのごとくほうしょくし)、悉皆浄尽(しっかいじょうじんす)。』――仏本行経(ぶつほんぎょうきょう)七巻の中(うち)にも、あれほど難有(ありがた)い所は沢山あるまい。――『爾時菩薩食糜(そのときぼさつびをしょくし)已訖従座而起(すでにおわりてざよりしてたつ)。安庠漸々(あんじょうにぜんぜん)向菩提樹(ぼだいじゅにむかう)。』どうじゃ。『安庠漸々(あんじょうにぜんぜん)向菩提樹(ぼだいじゅにむかう)。』女人(にょにん)を見、乳糜に飽(あ)かれた、端厳微妙(たんごんみみょう)の世尊の御姿が、目(ま)のあたりに拝(おが)まれるようではないか?」
 俊寛様は楽しそうに、晩の御飯をおしまいになると、今度は涼しい竹縁(ちくえん)の近くへ、円座(わろうだ)を御移しになりながら、
「では空腹が直ったら、都(みやこ)の便りでも聞かせて貰おう。」とわたしの話を御促(おうなが)しになりました。
 わたしは思わず眼を伏せました。兼ねて覚悟はしていたものの、いざ申し上げるとなって見ると、今更のように心が怯(おく)れたのです。しかし御主人は無頓着に、芭蕉(ばしょう)の葉の扇(おうぎ)を御手にしたまま、もう一度御催促(ごさいそく)なさいました。
「どうじゃ、女房は相不変(あいかわらず)小言(こごと)ばかり云っているか?」
 わたしはやむを得ず俯向(うつむ)いたなり、御留守(おるす)の間(あいだ)に出来(しゅったい)した、いろいろの大変を御話しました。御主人が御捕(おとら)われなすった後(のち)、御近習(ごきんじゅ)は皆逃げ去った事、京極(きょうごく)の御屋形(おやかた)や鹿(しし)ヶ谷(たに)の御山荘も、平家(へいけ)の侍に奪われた事、北(きた)の方(かた)は去年の冬、御隠れになってしまった事、若君も重い疱瘡(もがさ)のために、その跡を御追いなすった事、今ではあなたの御家族の中でも、たった一人姫君(ひめぎみ)だけが、奈良(なら)の伯母御前(おばごぜ)の御住居(おすまい)に、人目を忍んでいらっしゃる事、――そう云う御話をしている内に、わたしの眼にはいつのまにか、燈台の火影(ほかげ)が曇って来ました。軒先の簾(すだれ)、廚子(ずし)の上の御仏(みほとけ)、――それももうどうしたかわかりません。わたしはとうとう御話半(なか)ばに、その場へ泣き沈んでしまいました。御主人は始終黙然(もくねん)と、御耳を傾けていらしったようです。が、姫君の事を御聞きになると、突然さも御心配そうに、法衣(ころも)の膝を御寄せになりました。
「姫はどうじゃ? 伯母御前にはようなついているか?」
「はい。御睦(おむつま)しいように存じました。」
 わたしは泣く泣く俊寛様へ、姫君の御消息(ごしょうそく)をさし上げました。それはこの島へ渡るものには、門司(もじ)や赤間(あかま)が関(せき)を船出する時、やかましい詮議(せんぎ)があるそうですから、髻(もとどり)に隠して来た御文(おふみ)なのです。御主人は早速(さっそく)燈台の光に、御消息をおひろげなさりながら、ところどころ小声に御読みになりました。
「……世の中かきくらして晴るる心地なく侍(はべ)り。……さても三人(みたり)一つ島に流されけるに、……などや御身(おんみ)一人残り止まり給うらんと、……都には草のゆかりも枯れはてて、……当時は奈良の伯母御前の御許(おんもと)に侍り。……おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる住居(すまい)推(お)し量(はか)り給え。……さてもこの三とせまで、いかに御心(みこころ)強く、有(う)とも無(む)とも承わらざるらん。……とくとく御上(おんのぼ)り候え。恋しとも恋し。ゆかしともゆかし。……あなかしこ、あなかしこ。……」
 俊寛様は御文を御置きになると、じっと腕組みをなすったまま、大きい息をおつきになりました。
「姫はもう十二になった筈じゃな。――おれも都には未練(みれん)はないが、姫にだけは一目会いたい。」
 わたしは御心中(ごしんちゅう)を思いやりながら、ただ涙ばかり拭(ぬぐ)っていました。
「しかし会えぬものならば、――泣くな。有王(ありおう)。いや、泣きたければ泣いても好(よ)い。しかしこの娑婆(しゃば)世界には、一々泣いては泣き尽せぬほど、悲しい事が沢山あるぞ。」
 御主人は後(うしろ)の黒木(くろき)の柱に、ゆっくり背中を御寄せになってから、寂しそうに御微笑なさいました。
「女房(にょうぼう)も死ぬ。若(わか)も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形(やかた)や山荘もおれの物ではない。おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今のさまじゃ。が、この苦艱(くげん)を受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人衆苦(しゅうく)の大海に、没在(ぼつざい)していると考えるのは、仏弟子(ぶつでし)にも似合わぬ増長慢(ぞうじょうまん)じゃ。『増長驕慢(ぞうじょうきょうまんは)、尚非世俗白衣所宜(なおせぞくびゃくえのよろしきところにあらず)。』艱難(かんなん)の多いのに誇る心も、やはり邪業(じゃごう)には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土(ぞくさんへんど)の中(うち)にも、おれほどの苦を受けているものは、恒河沙(ごうがしゃ)の数(かず)より多いかも知れぬ。いや、人界(にんがい)に生れ出たものは、たといこの島に流されずとも、皆おれと同じように、孤独の歎(たん)を洩(も)らしているのじゃ。村上(むらかみ)の御門(みかど)第七の王子、二品中務親王(にほんなかつかさしんのう)、六代の後胤(こういん)、仁和寺(にんなじ)の法印寛雅(ほういんかんが)が子、京極(きょうごく)の源大納言雅俊卿(みなもとのだいなごんまさとしきょう)の孫に生れたのは、こう云う俊寛(しゅんかん)一人じゃが、天(あめ)が下(した)には千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛、百億の俊寛が流されているぞ。――」
 俊寛様はこうおっしゃると、たちまちまた御眼(おんめ)のどこかに、陽気な御気色(みけしき)が閃(ひらめ)きました。
「一条二条の大路(おおじ)の辻に、盲人が一人さまようているのは、世にも憐(あわ)れに見えるかも知れぬ。が、広い洛中洛外(らくちゅうらくがい)、無量無数の盲人どもに、充ち満ちた所を眺めたら、――有王(ありおう)。お前はどうすると思う? おれならばまっ先にふき出してしまうぞ。おれの島流しも同じ事じゃ。十方(じっぽう)に遍満(へんまん)した俊寛どもが、皆ただ一人流されたように、泣きつ喚(わめ)きつしていると思えば、涙の中(うち)にも笑わずにはいられぬ。有王。三界一心(さんがいいっしん)と知った上は、何よりもまず笑う事を学べ。笑う事を学ぶためには、まず増長慢を捨てねばならぬ。世尊(せそん)の御出世(ごしゅっせい)は我々衆生(しゅじょう)に、笑う事を教えに来られたのじゃ。大般涅槃(だいはつねはん)の御時(おんとき)にさえ、摩訶伽葉(まかかしょう)は笑ったではないか?」
 その時はわたしもいつのまにか、頬(ほお)の上に涙が乾いていました。すると御主人は簾(すだれ)越しに、遠い星空を御覧になりながら、
「お前が都へ帰ったら、姫にも歎きをするよりは、笑う事を学べと云ってくれい。」と、何事もないようにおっしゃるのです。
「わたしは都へは帰りません。」
 もう一度わたしの眼の中には、新たに涙が浮んで来ました。今度はそう云う御言葉を、御恨(おうら)みに思った涙なのです。
「わたしは都にいた時の通り、御側勤(おそばづと)めをするつもりです。年とった一人の母さえ捨て、兄弟にも仔細(しさい)は話さずに、はるばるこの島へ渡って来たのは、そのためばかりではありませんか? わたしはそうおっしゃられるほど、命が惜いように見えるでしょうか? わたしはそれほど恩義を知らぬ、人非人(にんぴにん)のように見えるでしょうか? わたしはそれほど、――」
「それほど愚かとは思わなかった。」
 御主人はまた前のように、にこにこ御笑いになりました。
「お前がこの島に止(とど)まっていれば、姫の安否(あんぴ)を知らせるのは、誰がほかに勤めるのじゃ? おれは一人でも不自由はせぬ。まして梶王(かじおう)と云う童(わらべ)がいる。――と云ってもまさか妬(ねた)みなぞはすまいな? あれは便りのないみなし児じゃ。幼い島流しの俊寛じゃ。お前は便船のあり次第、早速(さっそく)都へ帰るが好(よ)い。その代り今夜は姫への土産(みやげ)に、おれの島住いがどんなだったか、それをお前に話して聞かそう。またお前は泣いているな? よしよし、ではやはり泣きながら、おれの話を聞いてくれい。おれは独り笑いながら、勝手に話を続けるだけじゃ。」
 俊寛様は悠々と、芭蕉扇(ばしょうせん)を御使いなさりながら、島住居(しまずまい)の御話をなさり始めました。軒先(のきさき)に垂れた簾(すだれ)の上には、ともし火の光を尋ねて来たのでしょう、かすかに虫の這(は)う音が聞えています。わたしは頭を垂れたまま、じっと御話に伺い入りました。

        四

「おれがこの島へ流されたのは、治承(じしょう)元年七月の始じゃ。おれは一度も成親(なりちか)の卿(きょう)と、天下なぞを計った覚えはない。それが西八条(にしはちじょう)へ籠(こ)められた後(のち)、いきなり、この島へ流されたのじゃから、始はおれも忌々(いまいま)しさの余り、飯を食う気さえ起らなかった。」
「しかし都の噂(うわさ)では、――」
 わたしは御言葉を遮(さえぎ)りました。
「僧都(そうず)の御房(ごぼう)も宗人(むねと)の一人に、おなりになったとか云う事ですが、――」
「それはそう思うに違いない。成親の卿さえ宗人の一人に、おれを数えていたそうじゃから、――しかしおれは宗人ではない。浄海入道(じょうかいにゅうどう)の天下が好(よ)いか、成親の卿の天下が好いか、それさえおれにはわからぬほどじゃ。事によると成親の卿は、浄海入道よりひがんでいるだけ、天下の政治には不向きかも知れぬ。おれはただ平家(へいけ)の天下は、ないに若(し)かぬと云っただけじゃ。源平藤橘(げんぺいとうきつ)、どの天下も結局あるのはないに若(し)かぬ。この島の土人を見るが好(よ)い。平家の代(よ)でも源氏の代でも、同じように芋(いも)を食うては、同じように子を生んでいる。天下の役人は役人がいぬと、天下も亡ぶように思っているが、それは役人のうぬ惚(ぼ)れだけじゃ。」
「が僧都(そうず)の御房(ごぼう)の天下になれば、何御不足にもありますまい。」
 俊寛(しゅんかん)様の御眼(おめ)の中には、わたしの微笑が映ったように、やはり御微笑が浮びました。
「成親(なりちか)の卿の天下同様、平家(へいけ)の天下より悪いかも知れぬ。何故(なぜ)と云えば俊寛は、浄海入道(じょうかいにゅうどう)より物わかりが好(よ)い。物わかりが好ければ政治なぞには、夢中になれぬ筈ではないか? 理非曲直(りひきょくちょく)も弁(わきま)えずに、途方(とほう)もない夢ばかり見続けている、――そこが高平太(たかへいだ)の強い所じゃ。小松(こまつ)の内府(ないふ)なぞは利巧なだけに、天下を料理するとなれば、浄海入道より数段下じゃ。内府も始終病身じゃと云うが、平家一門のためを計(はか)れば、一日も早く死んだが好(よ)い。その上またおれにしても、食色(じきしき)の二性を離れぬ事は、浄海入道と似たようなものじゃ。そう云う凡夫(ぼんぷ)の取った天下は、やはり衆生(しゅじょう)のためにはならぬ。所詮人界(しょせんにんがい)が浄土になるには、御仏(みほとけ)の御天下(おんてんか)を待つほかはあるまい。――おれはそう思っていたから、天下を計る心なぞは、微塵(みじん)も貯えてはいなかった。」
「しかしあの頃は毎夜のように、中御門高倉(なかみかどたかくら)の大納言様(だいなごんさま)へ、御通いなすったではありませんか?」
 わたしは御不用意を責めるように、俊寛様の御顔を眺めました、ほんとうに当時の御主人は、北(きた)の方(かた)の御心配も御存知ないのか、夜は京極(きょうごく)の御屋形(おやかた)にも、滅多(めった)に御休みではなかったのです。しかし御主人は不相変(あいかわらず)、澄ました御顔をなすったまま、芭蕉扇(ばしょうせん)を使っていらっしゃいました。
「そこが凡夫の浅ましさじゃ。ちょうどあの頃あの屋形には、鶴(つる)の前(まえ)と云う上童(うえわらわ)があった。これがいかなる天魔の化身(けしん)か、おれを捉(とら)えて離さぬのじゃ。おれの一生の不仕合わせは、皆あの女がいたばかりに、降(ふ)って湧いたと云うても好(よ)い。女房に横面(よこつら)を打たれたのも、鹿(しし)ヶ谷(たに)の山荘を仮(か)したのも、しまいにこの島へ流されたのも、――しかし有王(ありおう)、喜んでくれい。おれは鶴の前に夢中になっても、謀叛(むほん)の宗人(むねと)にはならなかった。女人(にょにん)に愛楽を生じたためしは、古今の聖者にも稀(まれ)ではない。大幻術の摩登伽女(まとうぎゃにょ)には、阿難尊者(あなんそんじゃ)さえ迷わせられた。竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)も在俗の時には、王宮の美人を偸(ぬす)むために、隠形(おんぎょう)の術を修せられたそうじゃ。しかし謀叛人になった聖者は、天竺震旦(てんじくしんたん)本朝を問わず、ただの一人もあった事は聞かぬ。これは聞かぬのも不思議はない。女人(にょにん)に愛楽を生ずるのは、五根(ごこん)の欲を放つだけの事じゃ。が、謀叛(むほん)を企てるには、貪嗔癡(どんしんち)の三毒を具えねばならぬ。聖者は五欲を放たれても、三毒の害は受けられぬのじゃ。して見ればおれの知慧(ちえ)の光も、五欲のために曇ったと云え、消えはしなかったと云わねばなるまい。――が、それはともかくも、おれはこの島へ渡った当座、毎日忌々(いまいま)しい思いをしていた。」
「それはさぞかし御難儀(ごなんぎ)だったでしょう。御食事は勿論、御召し物さえ、御不自由勝ちに違いありませんから。」
「いや、衣食は春秋(はるあき)二度ずつ、肥前(ひぜん)の国鹿瀬(かせ)の荘(しょう)から、少将のもとへ送って来た。鹿瀬の荘は少将の舅(しゅうと)、平(たいら)の教盛(のりもり)の所領の地じゃ。その上おれは一年ほどたつと、この島の風土にも慣れてしまった。が、忌々(いまいま)しさを忘れるには、一しょに流された相手が悪い。丹波(たんば)の少将成経(なりつね)などは、ふさいでいなければ居睡(いねむ)りをしていた。」
「成経様は御年若でもあり、父君の御不運を御思いになっては、御歎きなさるのもごもっともです。」
「何、少将はおれと同様、天下はどうなってもかまわぬ男じゃ。あの男は琵琶(びわ)でも掻(か)き鳴らしたり、桜の花でも眺めたり、上臈(じょうろう)に恋歌(れんか)でもつけていれば、それが極楽(ごくらく)じゃと思うている。じゃからおれに会いさえすれば、謀叛人の父ばかり怨んでいた。」
「しかし康頼(やすより)様は僧都(そうず)の御房(ごぼう)と、御親しいように伺(うかが)いましたが。」
「ところがこれが難物なのじゃ。康頼は何でも願(がん)さえかければ、天神地神(てんじんちじん)諸仏菩薩(しょぶつぼさつ)、ことごとくあの男の云うなり次第に、利益(りやく)を垂れると思うている。つまり康頼の考えでは、神仏も商人と同じなのじゃ。ただ神仏は商人のように、金銭では冥護(みょうご)を御売りにならぬ。じゃから祭文(さいもん)を読む。香火を供(そな)える。この後(うしろ)の山なぞには、姿の好(よ)い松が沢山あったが、皆康頼に伐(き)られてしもうた。伐って何にするかと思えば、千本の卒塔婆(そとば)を拵(こしら)えた上、一々それに歌を書いては、海の中へ抛(ほう)りこむのじゃ。おれはまだ康頼くらい、現金な男は見た事がない。」
「それでも莫迦(ばか)にはなりません。都の噂ではその卒塔婆が、熊野(くまの)にも一本、厳島(いつくしま)にも一本、流れ寄ったとか申していました。」
「千本の中には一本や二本、日本(にほん)の土地へも着きそうなものじゃ。ほんとうに冥護(みょうご)を信ずるならば、たった一本流すが好(よ)い。その上康頼は難有(ありがた)そうに、千本の卒塔婆(そとば)を流す時でも、始終風向きを考えていたぞ。いつかおれはあの男が、海へ卒塔婆を流す時に、帰命頂礼(きみょうちょうらい)熊野三所(くまのさんしょ)の権現(ごんげん)、分けては日吉山王(ひよしさんおう)、王子(おうじ)の眷属(けんぞく)、総じては上(かみ)は梵天帝釈(ぼんてんたいしゃく)、下(しも)は堅牢地神(けんろうじしん)、殊には内海外海(ないかいげかい)竜神八部(りゅうじんはちぶ)、応護(おうご)の眦(まなじり)を垂れさせ給えと唱(とな)えたから、その跡(あと)へ並びに西風大明神(にしかぜだいみょうじん)、黒潮権現(くろしおごんげん)も守らせ給え、謹上再拝(きんじょうさいはい)とつけてやった。」
「悪い御冗談(ごじょうだん)をなさいます。」
 わたしもさすがに笑い出しました。
「すると康頼(やすより)は怒(おこ)ったぞ。ああ云う大嗔恚(だいしんい)を起すようでは、現世利益(げんぜりやく)はともかくも、後生往生(ごしょうおうじょう)は覚束(おぼつか)ないものじゃ。――が、その内に困まった事には、少将もいつか康頼と一しょに、神信心を始めたではないか? それも熊野(くまの)とか王子(おうじ)とか、由緒(ゆいしょ)のある神を拝むのではない。この島の火山には鎮護(ちんご)のためか、岩殿(いわどの)と云う祠(ほこら)がある。その岩殿へ詣でるのじゃ。――火山と云えば思い出したが、お前はまだ火山を見た事はあるまい?」
「はい、たださっき榕樹(あこう)の梢(こずえ)に、薄赤い煙のたなびいた、禿(は)げ山の姿を眺めただけです。」
「では明日(あす)でもおれと一しょに、頂へ登って見るが好(よ)い。頂へ行けばこの島ばかりか、大海の景色は手にとるようじゃ。岩殿の祠も途中にある、――その岩殿へ詣でるのに、康頼はおれにも行けと云うたが、おれは容易(ようい)には行こうとは云わぬ。」
「都では僧都(そうず)の御房(ごぼう)一人、そう云う神詣でもなさらないために、御残されになったと申して居ります。」
「いや、それはそうかも知れぬ。」
 俊寛様は真面目(まじめ)そうに、ちょいと御首を御振りになりました。
「もし岩殿に霊があれば、俊寛一人を残したまま、二人の都返りを取り持つくらいは、何とも思わぬ禍津神(まがつがみ)じゃ。お前はさっきおれが教えた、少将の女房を覚えているか? あの女もやはり岩殿へ、少将がこの島を去らぬように、毎日毎夜詣でたものじゃ。所がその願(がん)は少しも通らぬ。すると岩殿と云う神は、天魔にも増した横道者(おうどうもの)じゃ。天魔には世尊御出世(せそんごしゅっせい)の時から、諸悪を行うと云う戒行(かいぎょう)がある。もし岩殿の神の代りに、天魔があの祠にいるとすれば、少将は都へ帰る途中、船から落ちるか、熱病になるか、とにかくに死んだのに相違ない。これが少将もあの女も、同時に破滅させる唯一の途(みち)じゃ。が、岩殿は人間のように、諸善ばかりも行わねば、諸悪ばかりも行わぬらしい。もっともこれは岩殿には限らぬ。奥州名取郡(おうしゅうなとりのこおり)笠島(かさじま)の道祖(さえ)は、都の加茂河原(かもがわら)の西、一条の北の辺(ほとり)に住ませられる、出雲路(いずもじ)の道祖(さえ)の御娘(おんむすめ)じゃ。が、この神は父の神が、まだ聟(むこ)の神も探されぬ内に、若い都の商人(あきゅうど)と妹背(いもせ)の契(ちぎり)を結んだ上、さっさと奥へ落ちて来られた。こうなっては凡夫も同じではないか? あの実方(さねかた)の中将は、この神の前を通られる時、下馬(げば)も拝(はい)もされなかったばかりに、とうとう蹴殺(けころ)されておしまいなすった。こう云う人間に近い神は、五塵を離れていぬのじゃから、何を仕出かすか油断はならぬ。このためしでもわかる通り、一体神と云うものは、人間離れをせぬ限り、崇(あが)めろと云えた義理ではない。――が、そんな事は話の枝葉(えだは)じゃ。康頼(やすより)と少将とは一心に、岩殿詣でを続け出した。それも岩殿を熊野(くまの)になぞらえ、あの浦は和歌浦(わかのうら)、この坂は蕪坂(かぶらざか)なぞと、一々名をつけてやるのじゃから、まず童(わらべ)たちが鹿狩(ししがり)と云っては、小犬を追いまわすのも同じ事じゃ。ただ音無(おとなし)の滝(たき)だけは本物よりもずっと大きかった。」
「それでも都の噂では、奇瑞(きずい)があったとか申していますが。」
「その奇瑞の一つはこうじゃ。結願(けちがん)の当日岩殿の前に、二人が法施(ほっせ)を手向(たむ)けていると、山風が木々を煽(あお)った拍子(ひょうし)に、椿(つばき)の葉が二枚こぼれて来た。その椿の葉には二枚とも、虫の食った跡(あと)が残っている。それが一つには帰雁(きがん)とあり、一つには二とあったそうじゃ。合せて読めば帰雁二(きがんに)となる、――こんな事が嬉しいのか、康頼は翌日得々(とくとく)と、おれにもその葉を見せなぞした。成程二とは読めぬでもない。が、帰雁(きがん)はいかにも無理じゃ。おれは余り可笑(おか)しかったから、次の日山へ行った帰りに、椿の葉を何枚も拾って来てやった。その葉の虫食いを続けて読めば、帰雁二どころの騒(さわ)ぎではない。『明日帰洛(みょうにちきらく)』と云うのもある。『清盛横死(きよもりおうし)』と云うのもある。『康頼往生(おうじょう)』と云うのもある。おれはさぞかし康頼も、喜ぶじゃろうと思うたが、――」
「それは御立腹なすったでしょう。」
「康頼は怒るのに妙を得ている。舞(まい)も洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者じゃ。あの男は謀叛(むほん)なぞに加わったのも、嗔恚(しんい)に牽(ひ)かれたのに相違ない。その嗔恚の源(みなもと)はと云えば、やはり増長慢(ぞうじょうまん)のなせる業(わざ)じゃ。平家(へいけ)は高平太(たかへいだ)以下皆悪人、こちらは大納言(だいなごん)以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ惚(ぼ)れがためにならぬ。またさっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが好(よ)いか、少将のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ。」
「成経(なりつね)様御一人だけは、御妻子もあったそうですから、御紛(まぎ)れになる事もありましたろうに。」
「ところが始終蒼い顔をしては、つまらぬ愚痴(ぐち)ばかりこぼしていた。たとえば谷間の椿を見ると、この島には桜も咲かないと云う。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云う。何でもそこにある物は云わずに、ない物だけ並べ立てているのじゃ。一度なぞはおれと一しょに、磯山(いそやま)へ□吾(つわ)を摘(つ)みに行ったら、ああ、わたしはどうすれば好(よ)いのか、ここには加茂川(かもがわ)の流れもないと云うた。おれがあの時吹き出さなかったのは、我立つ杣(そま)の地主権現(じしゅごんげん)、日吉(ひよし)の御冥護(ごみょうご)に違いない。が、おれは莫迦莫迦(ばかばか)しかったから、ここには福原(ふくはら)の獄(ひとや)もない、平相国(へいしょうこく)入道浄海(にゅうどうじょうかい)もいない、難有(ありがた)い難有いとこう云うた。」
「そんな事をおっしゃっては、いくら少将でも御腹立ちになりましたろう。」
「いや、怒(おこ)られれば本望じゃ。が、少将はおれの顔を見ると、悲しそうに首を振りながら、あなたには何もおわかりにならない、あなたは仕合せな方(かた)ですと云うた。ああ云う返答は、怒られるよりも難儀じゃ。おれは、――実はおれもその時だけは、妙に気が沈んでしもうた。もし少将の云うように、何もわからぬおれじゃったら、気も沈まずにすんだかも知れぬ。しかしおれにはわかっているのじゃ。おれも一時は少将のように、眼の中の涙を誇ったことがある。その涙に透(す)かして見れば、あの死んだ女房(にょうぼう)も、どのくらい美しい女に見えたか、――おれはそんな事を考えると、急に少将が気の毒になった。が、気の毒になって見ても、可笑(おか)しいものは可笑しいではないか? そこでおれは笑いながら、言葉だけは真面目(まじめ)に慰めようとした。おれが少将に怒られたのは、跡にも先にもあの時だけじゃ。少将はおれが慰めてやると、急に恐しい顔をしながら、嘘をおつきなさい。わたしはあなたに慰められるよりも、笑われる方が本望ですと云うた。その途端(とたん)に、――妙ではないか? とうとうおれは吹き出してしもうた。」
「少将はどうなさいました?」
「四五日の間はおれに遇(お)うても、挨拶(あいさつ)さえ碌(ろく)にしなかった。が、その後(のち)また遇うたら、悲しそうに首を振っては、ああ、都へ返りたい、ここには牛車(ぎっしゃ)も通らないと云うた。あの男こそおれより仕合せものじゃ。――が、少将や康頼(やすより)でも、やはり居らぬよりは、いた方が好(よ)い。二人に都へ帰られた当座、おれはまた二年ぶりに、毎日寂しゅうてならなかった。」
「都の噂(うわさ)では御寂しいどころか、御歎き死(じ)にもなさり兼ねない、御容子(ごようす)だったとか申していました。」
 わたしは出来るだけ細々(こまごま)と、その御噂を御話しました。琵琶法師(びわほうし)の語る言葉を借りれば、
「天に仰ぎ地に俯(ふ)し、悲しみ給えどかいぞなき。……猶(なお)も船の纜(ともづな)に取りつき、腰になり脇になり、丈(たけ)の及ぶほどは、引かれておわしけるが、丈も及ばぬほどにもなりしかば、また空(むな)しき渚(なぎさ)に泳ぎ返り、……是具(これぐ)して行けや、我(われ)乗せて行けやとて、おめき叫び給えども、漕(こ)ぎ行く船のならいにて、跡は白浪(しらなみ)ばかりなり。」と云う、御狂乱(ごきょうらん)の一段を御話したのです。俊寛様は御珍しそうに、その話を聞いていらっしゃいましたが、まだ船の見える間(あいだ)は、手招(てまね)ぎをなすっていらしったと云う、今では名高い御話をすると、
「それは満更(まんざら)嘘ではない。何度もおれは手招(てまね)ぎをした。」と、素直(すなお)に御頷(おうなず)きなさいました。
「では都の噂通り、あの松浦(まつら)の佐用姫(さよひめ)のように、御別れを御惜しみなすったのですか?」
「二年の間同じ島に、話し合うた友だちと別れるのじゃ。別れを惜しむのは当然ではないか? しかし何度も手招ぎをしたのは、別れを惜しんだばかりではない。――一体あの時おれの所へ、船のはいったのを知らせたのは、この島にいる琉球人(りゅうきゅうじん)じゃ。それが浜べから飛んで来ると、息も切れ切れに船々と云う。船はまずわかったものの、何の船がはいって来たのか、そのほかの言葉はさっぱりわからぬ。あれはあの男もうろたえた余り、日本語と琉球語とを交(かわ)る交(がわ)る、饒舌(しゃべ)っていたのに違いあるまい。おれはともかくも船と云うから、早速浜べへ出かけて見た。すると浜べにはいつのまにか、土人が大勢(おおぜい)集っている。その上に高い帆柱(ほばしら)のあるのが、云うまでもない迎いの船じゃ。おれもその船を見た時には、さすがに心が躍(おど)るような気がした。少将や康頼(やすより)はおれより先に、もう船の側へ駈けつけていたが、この喜びようも一通りではない。現にあの琉球人なぞは、二人とも毒蛇(どくじゃ)に噛(か)まれた揚句(あげく)、気が狂ったのかと思うたくらいじゃ。その内に六波羅(ろくはら)から使に立った、丹左衛門尉基安(たんのさえもんのじょうもとやす)は、少将に赦免(しゃめん)の教書を渡した。が、少将の読むのを聞けば、おれの名前がはいっていない。おれだけは赦免にならぬのじゃ。――そう思ったおれの心の中(うち)には、わずか一弾指(いちだんし)の間(あいだ)じゃが、いろいろの事が浮んで来た。姫や若(わか)の顔、女房(にょうぼう)の罵(ののし)る声、京極(きょうごく)の屋形(やかた)の庭の景色、天竺(てんじく)の早利即利兄弟(そうりそくりきょうだい)、震旦(しんたん)の一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)、本朝の実方(さねかた)の朝臣(あそん)、――とても一々数えてはいられぬ。ただ今でも可笑(おか)しいのは、その中にふと車を引いた、赤牛(あかうし)の尻が見えた事じゃ。しかしおれは一心に、騒(さわ)がぬ容子(ようす)をつくっていた。勿論少将や康頼は、気の毒そうにおれを慰めたり、俊寛も一しょに乗せてくれいと、使にも頼んだりしていたようじゃ。が、赦免の下(くだ)らぬものは、何をどうしても、船へは乗れぬ。おれは不動心を振い起しながら、何故(なぜ)おれ一人赦免に洩(も)れたか、その訳をいろいろ考えて見た。高平太(たかへいだ)はおれを憎んでいる。――それも確かには違いない。しかし高平太は憎(にく)むばかりか、内心おれを恐れている。おれは前(さき)の法勝寺(ほっしょうじ)の執行(しゅぎょう)じゃ。兵仗(へいじょう)の道は知る筈がない。が、天下は思いのほか、おれの議論に応ずるかも知れぬ。――高平太はそこを恐れているのじゃ。おれはこう考えたら、苦笑(くしょう)せずにはいられなかった。山門や源氏(げんじ)の侍どもに、都合(つごう)の好(い)い議論を拵(こしら)えるのは、西光法師(さいこうほうし)などの嵌(はま)り役じゃ。おれは眇(びょう)たる一平家(へいけ)に、心を労するほど老耄(おいぼ)れはせぬ。さっきもお前に云うた通り、天下は誰でも取っているが好(い)い。おれは一巻の経文(きょうもん)のほかに、鶴(つる)の前(まえ)でもいれば安堵(あんど)している。しかし浄海入道(じょうかいにゅうどう)になると、浅学短才の悲しさに、俊寛も無気味(ぶきみ)に思うているのじゃ。して見れば首でも刎(は)ねられる代りに、この島に一人残されるのは、まだ仕合せの内かも知れぬ。――そんな事を思うている間(あいだ)に、いよいよ船出と云う時になった。すると少将の妻になった女が、あの赤児を抱いたまま、どうかその船に乗せてくれいと云う。おれは気の毒に思うたから、女は咎(とが)めるにも及ぶまいと、使の基安(もとやす)に頼んでやった。が、基安は取り合いもせぬ。あの男は勿論役目のほかは、何一つ知らぬ木偶(でく)の坊じゃ。おれもあの男は咎めずとも好(い)い。ただ罪の深いのは少将じゃ。――」
 俊寛様は御腹立たしそうに、ばたばた芭蕉扇(ばしょうせん)を御使いなさいました。
「あの女は気違いのように、何でも船へ乗ろうとする。舟子(ふなご)たちはそれを乗せまいとする。とうとうしまいにあの女は、少将の直垂(ひたたれ)の裾(すそ)を掴(つか)んだ。すると少将は蒼(あお)い顔をしたまま、邪慳(じゃけん)にその手を刎(は)ねのけたではないか? 女は浜べに倒れたが、それぎり二度と乗ろうともせぬ。ただおいおい泣くばかりじゃ。おれはあの一瞬間、康頼(やすより)にも負けぬ大嗔恚(だいしんい)を起した。少将は人畜生(じんちくしょう)じゃ。康頼もそれを見ているのは、仏弟子(ぶつでし)の所業(しょぎょう)とも思われぬ。おまけにあの女を乗せる事は、おれのほかに誰も頼まなかった。――おれはそう思うたら、今でも不思議な気がするくらい、ありとあらゆる罵詈讒謗(ばりざんぼう)が、口を衝(つ)いて溢(あふ)れて来た。もっともおれの使ったのは、京童(きょうわらべ)の云う悪口(あっこう)ではない。八万法蔵(はちまんほうぞう)十二部経中(じゅうにぶきょうちゅう)の悪鬼羅刹(あっきらせつ)の名前ばかり、矢つぎ早に浴びせたのじゃ。が、船は見る見る遠ざかってしまう。あの女はやはり泣き伏したままじゃ。おれは浜べにじだんだを踏(ふ)みながら、返せ返せと手招ぎをした。」
 御主人の御腹立ちにも関(かかわ)らず、わたしは御話を伺っている内に、自然とほほ笑(え)んでしまいました。すると御主人も御笑いになりながら、
「その手招ぎが伝わっているのじゃ。嗔恚の祟(たた)りはそこにもある。あの時おれが怒(おこ)りさえせねば、俊寛は都へ帰りたさに、狂いまわったなぞと云う事も、口(くち)の端(は)へ上(のぼ)らずにすんだかも知れぬ。」と、仕方がなさそうにおっしゃるのです。
「しかしその後(のち)は格別(かくべつ)に、御歎きなさる事はなかったのですか?」
「歎(なげ)いても仕方はないではないか? その上(うえ)時のたつ内には、寂しさも次第に消えて行った。おれは今では己身(こしん)の中(うち)に、本仏(ほんぶつ)を見るより望みはない。自土即浄土(じどそくじょうど)と観じさえすれば、大歓喜(だいかんぎ)の笑い声も、火山から炎(ほのお)の迸(ほどばし)るように、自然と湧(わ)いて来なければならぬ。おれはどこまでも自力(じりき)の信者じゃ。――おお、まだ一つ忘れていた。あの女は泣き伏したぎり、いつまでたっても動こうとせぬ。その内に土人も散じてしまう。船は青空に紛(まぎ)れるばかりじゃ。おれは余りのいじらしさに、慰めてやりたいと思うたから、そっと後手(うしろで)に抱(だ)き起そうとした。するとあの女はどうしたと思う? いきなりおれをはり倒したのじゃ。おれは目が眩(く)らみながら、仰向(あおむ)けにそこへ倒れてしもうた。おれの肉身に宿らせ給う、諸仏(しょぶつ)諸菩薩(しょぼさつ)諸明王(しょみょうおう)も、あれには驚かれたに相違ない。しかしやっと起き上って見ると、あの女はもう村の方へ、すごすご歩いて行く所じゃった。何、おれをはり倒した訳か? それはあの女に聞いたが好(よ)い。が、事によると人気(ひとけ)はなし、凌(りょう)ぜられるとでも思ったかも知れぬ。」

        五

 わたしは御主人とその翌日、この島の火山へ登りました。それから一月ほど御側(おそば)にいた後(のち)、御名残り惜しい思いをしながら、もう一度都へ帰って来ました。「見せばやなわれを思わむ友もがな磯(いそ)のとまやの柴(しば)の庵(いおり)を」――これが御形見(おかたみ)に頂いた歌です。俊寛(しゅんかん)様はやはり今でも、あの離れ島の笹葺(ささぶ)きの家に、相不変(あいかわらず)御一人悠々と、御暮らしになっている事でしょう。事によると今夜あたりは、琉球芋(りゅうきゅういも)を召し上りながら、御仏(みほとけ)の事や天下の事を御考えになっているかも知れません。そう云う御話はこのほかにも、まだいろいろ伺ってあるのですが、それはまたいつか申し上げましょう。
(大正十年十二月)



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