侏儒の言葉
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著者名:芥川竜之介 

   「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の序

「侏儒の言葉」は必(かならず)しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺(うかが)わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草(つるくさ)、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

   星

 太陽の下に新しきことなしとは古人の道破した言葉である。しかし新しいことのないのは独り太陽の下ばかりではない。
 天文学者の説によれば、ヘラクレス星群を発した光は我我の地球へ達するのに三万六千年を要するそうである。が、ヘラクレス星群と雖(いえど)も、永久に輝いていることは出来ない。何時か一度は冷灰のように、美しい光を失ってしまう。のみならず死は何処へ行っても常に生を孕(はら)んでいる。光を失ったヘラクレス星群も無辺の天をさまよう内に、都合の好い機会を得さえすれば、一団の星雲と変化するであろう。そうすれば又新しい星は続々と其処に生まれるのである。
 宇宙の大に比べれば、太陽も一点の燐火(りんか)に過ぎない。況(いわん)や我我の地球をやである。しかし遠い宇宙の極、銀河のほとりに起っていることも、実はこの泥団の上に起っていることと変りはない。生死は運動の方則のもとに、絶えず循環しているのである。そう云うことを考えると、天上に散在する無数の星にも多少の同情を禁じ得ない。いや、明滅する星の光は我我と同じ感情を表わしているようにも思われるのである。この点でも詩人は何ものよりも先に高々と真理をうたい上げた。
真砂(まさご)なす数なき星のその中に吾(われ)に向ひて光る星あり
 しかし星も我我のように流転を閲(けみ)すると云うことは――兎(と)に角(かく)退屈でないことはあるまい。

   鼻

 クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、世界の歴史はその為に一変していたかも知れないとは名高いパスカルの警句である。しかし恋人と云うものは滅多に実相を見るものではない。いや、我我の自己欺瞞(ぎまん)は一たび恋愛に陥ったが最後、最も完全に行われるのである。
 アントニイもそう云う例に洩(も)れず、クレオパトラの鼻が曲っていたとすれば、努めてそれを見まいとしたであろう。又見ずにはいられない場合もその短所を補うべき何か他の長所を探したであろう。何か他の長所と云えば、天下に我我の恋人位、無数の長所を具(そな)えた女性は一人もいないのに相違ない。アントニイもきっと我我同様、クレオパトラの眼とか唇とかに、あり余る償いを見出したであろう。その上又例の「彼女の心」! 実際我我の愛する女性は古往今来飽き飽きする程、素ばらしい心の持ち主である。のみならず彼女の服装とか、或は彼女の財産とか、或は又彼女の社会的地位とか、――それらも長所にならないことはない。更に甚しい場合を挙げれば、以前或名士に愛されたと云う事実乃至(ないし)風評さえ、長所の一つに数えられるのである。しかもあのクレオパトラは豪奢(ごうしゃ)と神秘とに充(み)ち満(み)ちたエジプトの最後の女王ではないか? 香の煙の立ち昇る中に、冠の珠玉でも光らせながら、蓮(はす)の花か何か弄(もてあそ)んでいれば、多少の鼻の曲りなどは何人の眼にも触れなかったであろう。況やアントニイの眼をやである。
 こう云う我我の自己欺瞞はひとり恋愛に限ったことではない。我々は多少の相違さえ除けば、大抵我我の欲するままに、いろいろ実相を塗り変えている。たとえば歯科医の看板にしても、それが我我の眼にはいるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽(ひ)いては我々の歯痛ではないか? 勿論(もちろん)我我の歯痛などは世界の歴史には没交渉であろう。しかしこう云う自己欺瞞は民心を知りたがる政治家にも、敵状を知りたがる軍人にも、或は又財況を知りたがる実業家にも同じようにきっと起るのである。わたしはこれを修正すべき理智の存在を否みはしない。同時に又百般の人事を統(す)べる「偶然」の存在も認めるものである。が、あらゆる熱情は理性の存在を忘れ易い。「偶然」は云わば神意である。すると我我の自己欺瞞は世界の歴史を左右すべき、最も永久な力かも知れない。
 つまり二千余年の歴史は眇(びょう)たる一クレオパトラの鼻の如何に依(よ)ったのではない。寧(むし)ろ地上に遍満した我我の愚昧(ぐまい)に依ったのである。哂(わら)うべき、――しかし壮厳な我我の愚昧に依ったのである。

   修身

 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
    *
 道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺(まひ)である。
    *
 妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病(おくびょう)ものか怠けものである。
    *
 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆(ほとん)ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。
    *
 強者は道徳を蹂躙(じゅうりん)するであろう。弱者は又道徳に愛撫(あいぶ)されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
    *
 道徳は常に古着である。
    *
 良心は我我の口髭(くちひげ)のように年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
    *
 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
    *
 我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉(とら)え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
 我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。
    *
 良心とは厳粛なる趣味である。
    *
 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未(いま)だ甞(かつ)て、良心の良の字も造ったことはない。
    *
 良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そう云う愛好者は十中八九、聡明(そうめい)なる貴族か富豪かである。

   好悪

 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯(ただ)我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、将(まさ)に溺(おぼ)れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依(よ)ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈(はず)である。いや、この二つの快不快は全然相容(あいい)れぬものではない。寧(むし)ろ鹹水(かんすい)と淡水とのように、一つに融(と)け合(あ)っているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜(すす)った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? 且(かつ)又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を考えるが好い。あの呪(のろ)うべきマソヒズムはこう云う肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加わったものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏の殉教を愛した基督教(キリストきょう)の聖人たちは大抵マソヒズムに罹(かか)っていたらしい。
 我我の行為を決するものは昔の希臘人(ギリシアじん)の云った通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲(く)み取(と)らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿(なか)れ。』耶蘇(やそ)さえ既にそう云ったではないか。賢人とは畢竟(ひっきょう)荊蕀(けいきょく)の路(みち)にも、薔薇(ばら)の花を咲かせるもののことである。

   侏儒の祈り

 わたしはこの綵衣(さいい)を纏(まと)い、この筋斗(きんと)の戯を献じ、この太平を楽しんでいれば不足のない侏儒(しゅじゅ)でございます。どうかわたしの願いをおかなえ下さいまし。
 どうか一粒の米すらない程、貧乏にして下さいますな。どうか又熊掌(ゆうしょう)にさえ飽き足りる程、富裕にもして下さいますな。
 どうか採桑の農婦すら嫌うようにして下さいますな。どうか又後宮の麗人さえ愛するようにもして下さいますな。
 どうか菽麦(しゅくばく)すら弁ぜぬ程、愚昧(ぐまい)にして下さいますな。どうか又雲気さえ察する程、聡明(そうめい)にもして下さいますな。
 とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀(よ)じ難い峯(みね)の頂を窮め、越え難い海の浪(なみ)を渡り――云わば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そう云う夢を見ている時程、空恐しいことはございません。わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守り下さいまし。
 わたしはこの春酒に酔い、この金鏤(きんる)の歌を誦(しょう)し、この好日を喜んでいれば不足のない侏儒でございます。

   神秘主義

 神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。
 古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。と云う意味は創世記を信じていたと云うことである。今人は既に中学生さえ、猿であると信じている。と云う意味はダアウインの著書を信じていると云うことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝(さ)らしていた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然(てんぜん)とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉(ことごとく)こう云う信念に安んじている。
 これは進化論ばかりではない。地球は円いと云うことさえ、ほんとうに知っているものは少数である。大多数は何時か教えられたように、円いと一図に信じているのに過ぎない。なぜ円いかと問いつめて見れば、上愚は総理大臣から下愚は腰弁に至る迄、説明の出来ないことは事実である。
 次ぎにもう一つ例を挙げれば、今人は誰も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たと云う話は未(いまだ)に時々伝えられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽霊などを見る者は迷信に囚(とら)われて居るからである。ではなぜ迷信に捉われているのか? 幽霊などを見るからである。こう云う今人の論法は勿論(もちろん)所謂(いわゆる)循環論法に過ぎない。
 況(いわん)や更にこみ入った問題は全然信念の上に立脚している。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、――わたしは「何物か」と云う以前に、ふさわしい名前さえ発見出来ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇(ばら)とか魚とか蝋燭(ろうそく)とか、象徴を用うるばかりである。たとえば我々の帽子でも好い。我々は羽根のついた帽子をかぶらず、ソフトや中折をかぶるように、祖先の猿だったことを信じ、幽霊の実在しないことを信じ、地球の円いことを信じている。もし嘘(うそ)と思う人は日本に於けるアインシュタイン博士、或はその相対性原理の歓迎されたことを考えるが好い。あれは神秘主義の祭である。不可解なる荘厳の儀式である。何の為に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さえ知らない。
 すると偉大なる神秘主義者はスウエデンボルグだのベエメだのではない。実は我々文明の民である。同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉え難い流行である。或は神意に似た好悪である。実際又西施(せいし)や竜陽君(りゅうようくん)の祖先もやはり猿だったと考えることは多少の満足を与えないでもない。

   自由意志と宿命と

 兎(と)に角(かく)宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺(まひ)を免れるから、我我自身に対する我我の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか?
 わたしは恬然と答えたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。なぜと云えば我我は我我に負わされた宿命により、我我の妻を娶(めと)ったではないか? 同時に又我我は我我に恵まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帯を買ってやらぬではないか?
 自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦(きょうだ)、理性と信仰、――その他あらゆる天秤(てんびん)の両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語(イギリスご)の good sense である。わたしの信ずるところによれば、グッドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁(よう)したり、大寒に団扇(うちわ)を揮(ふる)ったりする痩(や)せ我慢の幸福ばかりである。

   小児

 軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮(さつりく)を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然(きんぜん)と敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)や鍬形(くわがた)の兜(かぶと)は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?

   武器

 正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理窟をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。古来「正義の敵」と云う名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。
 日本人の労働者は単に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反している。亜米利加(アメリカ)は新聞紙の伝える通り、「正義の敵」と云わなければならぬ。しかし支那人の労働者も単に支那人と生まれたが故に、千住(せんじゅ)から退去を命ぜられた。これも正義に反している。日本は新聞紙の伝える通り、――いや、日本は二千年来、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかったらしい。
 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆(ぎりょう)である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家(せんどうか)の雄弁である。武后(ぶこう)は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙(じゅうりん)した。しかし李敬業(りけいぎょう)の乱に当り、駱賓王(らくひんのう)の檄(げき)を読んだ時には色を失うことを免れなかった。「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限り、発し得ない名言だったからである。
 わたしは歴史を翻えす度に、遊就館を想(おも)うことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。青竜刀に似ているのは儒教(じゅきょう)の教える正義であろう。騎士の槍(やり)に似ているのは基督教(キリストきょう)の教える正義であろう。此処に太い棍棒(こんぼう)がある。これは社会主義者の正義であろう。彼処に房のついた長剣がある。あれは国家主義者の正義であろう。わたしはそう云う武器を見ながら、幾多の戦いを想像し、おのずから心悸(しんき)の高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執(と)りたいと思った記憶はない。

   尊王

 十七世紀の仏蘭西(フランス)の話である。或日 Duc de Bourgogne が Abb□ Choisy にこんなことを尋ねた。シャルル六世は気違いだった。その意味を婉曲(えんきょく)に伝える為には、何と云えば好いのであろう? アベは言下に返答した。「わたしならば唯(ただ)こう申します。シャルル六世は気違いだったと。」アベ・ショアズイはこの答を一生の冒険の中に数え、後のちまでも自慢にしていたそうである。
 十七世紀の仏蘭西はこう云う逸話の残っている程、尊王の精神に富んでいたと云う。しかし二十世紀の日本も尊王の精神に富んでいることは当時の仏蘭西に劣らなそうである。まことに、――欣幸(きんこう)の至りに堪えない。

   創作

 芸術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は芸術家の意識を超越した神秘の世界に存している。一半? 或は大半と云っても好い。
 我我は妙に問うに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はおのずから作品に露(あらわ)るることを免れない。一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境に対する畏怖(いふ)を語ってはいないであろうか?
 創作は常に冒険である。所詮(しょせん)は人力を尽した後、天命に委(ま)かせるより仕方はない。
少時学語苦難円 唯道工夫半未全
到老始知非力取 三分人事七分天
 趙甌北(ちょうおうほく)の「論詩」の七絶はこの間の消息を伝えたものであろう。芸術は妙に底の知れない凄(すご)みを帯びているものである。我我も金を欲しがらなければ、又名聞を好まなければ、最後に殆(ほとん)ど病的な創作熱に苦しまなければ、この無気味な芸術などと格闘する勇気は起らなかったかも知れない。

   鑑賞

 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具(そな)えている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧(あいまい)に出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。寧(むし)ろ廬山(ろざん)の峯々(みねみね)のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。

   古典

 古典の作者の幸福なる所以(ゆえん)は兎(と)に角(かく)彼等の死んでいることである。

   又

 我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでいることである。

   幻滅した芸術家

 或一群の芸術家は幻滅の世界に住している。彼等は愛を信じない。良心なるものをも信じない。唯昔の苦行者のように無何有の砂漠を家としている。その点は成程気の毒かも知れない。しかし美しい蜃気楼(しんきろう)は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅していない。いや、芸術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢は忽(たちま)ち空中に出現するのである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣(わけ)ではない。

   告白

 完全に自己を告白することは何人にも出来ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出来るものではない。
 ルッソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔録(ざんげろく)の中にも発見出来ない。メリメは告白を嫌った人である。しかし「コロンバ」は隠約(いんやく)の間に彼自身を語ってはいないであろうか? 所詮告白文学とその他の文学との境界線は見かけほどはっきりはしていないのである。

   人生
    ――石黒定一君に――

 もし游泳(ゆうえい)を学ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思うであろう。もし又ランニングを学ばないものに駈(か)けろと命ずるものがあれば、やはり理不尽だと思わざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、こう云う莫迦(ばか)げた命令を負わされているのも同じことである。
 我我は母の胎内にいた時、人生に処する道を学んだであろうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論(もちろん)游泳を学ばないものは満足に泳げる理窟はない。同様にランニングを学ばないものは大抵人後に落ちそうである。すると我我も創痍(そうい)を負わずに人生の競技場を出られる筈(はず)はない。
 成程世人は云うかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者(ゆうえいしゃ)や千のランナアを眺めたにしろ、忽(たちま)ち游泳を覚えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉(ことごと)く水を飲んでおり、その又ランナアは一人残らず競技場の土にまみれている。見給え、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに渋面を隠しているではないか?
 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦莫迦(ばかばか)しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外(らちがい)に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

   又

 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。

   又

 人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎(と)に角(かく)一部を成している。

   或自警団員の言葉

 さあ、自警の部署に就(つ)こう。今夜は星も木木の梢(こずえ)に涼しい光を放っている。微風もそろそろ通い出したらしい。さあ、この籐(とう)の長椅子(ながいす)に寝ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら気楽に警戒しよう。もし喉(のど)の渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸いまだポケットにはチョコレエトの棒も残っている。
 聴き給え、高い木木の梢に何か寝鳥の騒いでいるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云うことを知らないであろう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失った為にあらゆる苦痛を味わっている。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飲めぬ為にも少からぬ不自由を忍んでいる。人間と云う二足の獣は何と云う情けない動物であろう。我我は文明を失ったが最後、それこそ風前の灯火のように覚束(おぼつか)ない命を守らなければならぬ。見給え。鳥はもう静かに寐入(ねい)っている。羽根蒲団(ぶとん)や枕(まくら)を知らぬ鳥は!
 鳥はもう静かに寝入っている。夢も我我より安らかであろう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未来にも生きなければならぬ。と云う意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞(な)めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであろう。東京を焼かれた我我は今日の餓(うえ)に苦しみ乍(なが)ら、明日の餓にも苦しんでいる。鳥は幸いにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限ったことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。
 小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云ったそうである。蝶――と云えばあの蟻を見給え。もし幸福と云うことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であろう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快楽をも心得ている。蟻は破産や失恋の為に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じように楽しい希望を持ち得るであろうか? 僕は未だに覚えている。月明りの仄(ほの)めいた洛陽(らくよう)の廃都に、李太白(りたいはく)の詩の一行さえ知らぬ無数の蟻の群を憐(あわれ)んだことを!
 しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯(ただ)冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐まなければならぬ。況(いわん)や殺戮(さつりく)を喜ぶなどは、――尤(もっと)も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
 我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観(えんせいかん)の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?
 夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不変(あいかわらず)頭の上に涼しい光を放っている。さあ、君はウイスキイを傾け給え。僕は長椅子に寐ころんだままチョコレエトの棒でも噛(かじ)ることにしよう。

   地上楽園

 地上楽園の光景は屡(しばしば)詩歌にもうたわれている。が、わたしはまだ残念ながら、そう云う詩人の地上楽園に住みたいと思った覚えはない。基督教徒(キリストきょうと)の地上楽園は畢竟(ひっきょう)退屈なるパノラマである。黄老の学者の地上楽園もつまりは索漠とした支那料理屋に過ぎない。況んや近代のユウトピアなどは――ウイルヤム・ジェエムスの戦慄(せんりつ)したことは何びとの記憶にも残っているであろう。
 わたしの夢みている地上楽園はそう云う天然の温室ではない。同時に又そう云う学校を兼ねた食糧や衣服の配給所でもない。唯此処に住んでいれば、両親は子供の成人と共に必ず息を引取るのである。それから男女の兄弟はたとい悪人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合わないのである。それから女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す為に従順そのものに変るのである。それから子供は男女を問わず、両親の意志や感情通りに、一日のうちに何回でも聾と唖と腰ぬけと盲目とになることが出来るのである。それから甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互いに相手を褒め合うことに無上の満足を感ずるのである。それから――ざっとこう云う処を思えば好い。
 これは何もわたし一人の地上楽園たるばかりではない。同時に又天下に充満した善男善女の地上楽園である。唯古来の詩人や学者はその金色の瞑想(めいそう)の中にこう云う光景を夢みなかった。夢みなかったのは別に不思議ではない。こう云う光景は夢みるにさえ、余りに真実の幸福に溢(あふ)れすぎているからである。
 附記 わたしの甥はレムブラントの肖像画を買うことを夢みている。しかし彼の小遣いを十円貰うことは夢みていない。これも十円の小遣いは余りに真実の幸福に溢れすぎているからである。

   暴力

 人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
 しかし亦権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。

   「人間らしさ」

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持っていない。いや、屡「人間らしさ」に軽蔑(けいべつ)を感ずることは事実である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事実である。愛を?――或は愛よりも憐憫(れんびん)かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬようになったとすれば、人生は到底住するに堪えない精神病院に変りそうである。Swift の畢(つい)に発狂したのも当然の結果と云う外はない。
 スウィフトは発狂する少し前に、梢(こずえ)だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟(つぶや)いたことがあるそうである。この逸話は思い出す度にいつも戦慄(せんりつ)を伝えずには置かない。わたしはスウィフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかったことをひそかに幸福に思っている。

   椎の葉

 完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。如何なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終始することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それは唯(ただ)如何に幸福に絶望するかと云うことのみである。
「家(いへ)にあれば笥(け)にもる飯(いひ)を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる」とは行旅の情をうたったばかりではない。我我は常に「ありたい」ものの代りに「あり得る」ものと妥協するのである。学者はこの椎の葉にさまざまの美名を与えるであろう。が、無遠慮に手に取って見れば、椎の葉はいつも椎の葉である。
 椎の葉の椎の葉たるを歎(たん)ずるのは椎の葉の笥たるを主張するよりも確かに尊敬に価している。しかし椎の葉の椎の葉たるを一笑し去るよりも退屈であろう。少くとも生涯同一の歎を繰り返すことに倦(う)まないのは滑稽(こっけい)であると共に不道徳である。実際又偉大なる厭世(えんせい)主義者は渋面ばかり作ってはいない。不治の病を負ったレオパルディさえ、時には蒼(あお)ざめた薔薇(ばら)の花に寂しい頬笑(ほほえ)みを浮べている。……
 追記 不道徳とは過度の異名である。

   仏陀

 悉達多(しったるた)は王城を忍び出た後六年の間苦行した。六年の間苦行した所以(ゆえん)は勿論(もちろん)王城の生活の豪奢(ごうしゃ)を極めていた祟(たた)りであろう。その証拠にはナザレの大工の子は、四十日の断食しかしなかったようである。

   又

 悉達多は車匿(しゃのく)に馬轡(ばひ)を執(と)らせ、潜(ひそ)かに王城を後ろにした。が、彼の思弁癖は屡(しばしば)彼をメランコリアに沈ましめたと云うことである。すると王城を忍び出た後、ほっと一息ついたものは実際将来の釈迦無二仏(しゃかむにぶつ)だったか、それとも彼の妻の耶輸陀羅(やすだら)だったか、容易に断定は出来ないかも知れない。

   又

 悉達多は六年の苦行の後、菩提樹(ぼだいじゅ)下に正覚(しょうがく)に達した。彼の成道の伝説は如何に物質の精神を支配するかを語るものである。彼はまず水浴している。それから乳糜(にゅうび)を食している。最後に難陀婆羅(なんだばら)と伝えられる牧牛の少女と話している。

   政治的天才

 古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧(むし)ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものを云うのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅(わず)かに一歩である」と云った。この言葉は帝王の言葉と云うよりも名優の言葉にふさわしそうである。

   又

 民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも抛(なげう)たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用いなければならぬ。しかし一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱そうとすれば、如何なる政治的天才も忽(たちま)ち非命に仆(たお)れる外はない。つまり帝王も王冠の為におのずから支配を受けているのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとえば昔仁和寺(にんなじ)の法師の鼎(かなえ)をかぶって舞ったと云う「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。

   恋は死よりも強し

「恋は死よりも強し」と云うのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に恋ばかりではない。たとえばチブスの患者などのビスケットを一つ食った為に知れ切った往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い証拠である。食慾の外にも数え挙げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは沢山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであろう。(勿論死に対する情熱は例外である。)且(か)つ又恋はそう云うもののうちでも、特に死よりも強いかどうか、迂濶(うかつ)に断言は出来ないらしい。一見、死よりも強い恋と見做(みな)され易い場合さえ、実は我我を支配しているのは仏蘭西人(フランスじん)の所謂(いわゆる)ボヴァリスムである。我我自身を伝奇の中の恋人のように空想するボヴァリイ夫人以来の感傷主義である。

   地獄

 人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児(ちょうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕(お)ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟(とっさ)の間に餓鬼道の飯も掠(かす)め得るであろう。況(いわん)や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになってしまう筈(はず)である。

   醜聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件(びゃくれんじけん)、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」
 グルモンの答は中(あた)っている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦(きょうだ)を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。

   又

 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

   輿論

 輿論(よろん)は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。

   又

 輿論の存在に価する理由は唯(ただ)輿論を蹂躙(じゅうりん)する興味を与えることばかりである。

   敵意

 敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快(そうかい)であり、且(かつ)又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である。

   ユウトピア

 完全なるユウトピアの生れない所以(ゆえん)は大体下の通りである。――人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれる筈(はず)はない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものも忽(たちま)ち不完全に感ぜられてしまう。

   危険思想

 危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である。

   悪

 芸術的気質を持った青年の「人間の悪」を発見するのは誰よりも遅いのを常としている。

   二宮尊徳

 わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋(わらじ)を造ったり、大人のように働きながら、健気(けなげ)にも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚(りっしたん)のように――と云うのはあらゆる通俗小説のように、感激を与え易い物語である。実際又十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。……
 けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代りに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼等は尊徳の教育に寸毫(すんごう)の便宜をも与えなかった。いや、寧(むし)ろ与えたものは障碍(しょうがい)ばかりだった位である。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と云わなければならぬ。しかし我々の両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。尊徳の両親は酒飲みでも或は又博奕(ばくち)打ちでも好い。問題は唯尊徳である。どう云う艱難辛苦(かんなんしんく)をしても独学を廃さなかった尊徳である。我我少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。
 わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じている。成程彼等には尊徳のように下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違いない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を顕(あら)わしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。丁度鎖に繋(つな)がれた奴隷のもっと太い鎖を欲しがるように。

   奴隷

 奴隷廃止と云うことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云うことである。我我の社会は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和国さえ、奴隷の存在を予想しているのは必ずしも偶然ではないのである。

   又

 暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。

   悲劇

 悲劇とはみずから羞(は)ずる所業を敢(あえ)てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄(はいせつ)作用を行うことである。

   強弱

 強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことには何の痛痒(つうよう)も感じない代りに、知(し)らず識(し)らず友人を傷つけることには児女に似た恐怖を感ずるものである。
 弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するものである。

   S・Mの智慧

 これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
 弁証法の功績。――所詮(しょせん)何ものも莫迦(ばか)げていると云う結論に到達せしめたこと。
 少女。――どこまで行っても清冽(せいれつ)な浅瀬。
 早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にいるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも当らないからね。
 追憶。――地平線の遠い風景画。ちゃんと仕上げもかかっている。
 女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出来ているものらしい。
 年少時代。――年少時代の憂欝(ゆううつ)は全宇宙に対する驕慢(きょうまん)である。
 艱難汝(なんじ)を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。
 我等如何に生くべき乎(か)。――未知の世界を少し残して置くこと。

   社交

 あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。もし寸毫の虚偽をも加えず、我我の友人知己に対する我我の本心を吐露するとすれば、古(いにし)えの管鮑(かんぽう)の交りと雖(いえど)も破綻(はたん)を生ぜずにはいなかったであろう。管鮑の交りは少時問わず、我我は皆多少にもせよ、我我の親密なる友人知己を憎悪し或は軽蔑(けいべつ)している。が、憎悪も利害の前には鋭鋒(えいほう)を収めるのに相違ない。且(かつ)又軽蔑は多々益々恬然(てんぜん)と虚偽を吐かせるものである。この故に我我の友人知己と最も親密に交る為めには、互に利害と軽蔑とを最も完全に具(そな)えなければならぬ。これは勿論(もちろん)何びとにも甚だ困難なる条件である。さもなければ我我はとうの昔に礼譲に富んだ紳士になり、世界も亦とうの昔に黄金時代の平和を現出したであろう。

   瑣事

 人生を幸福にする為には、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦(そよ)ぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
 人生を幸福にする為には、日常の瑣事(さじ)に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦(そよ)ぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

   神

 あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。

   又

 我我は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価いするほど、全能の神を信じていない。

   民衆

 民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。所謂(いわゆる)民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。

   又

 民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは兎(と)も角(かく)も誇るに足ることである。

   又

 古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。

   チエホフの言葉

 チエホフはその手記の中に男女の差別を論じている。――「女は年をとると共に、益々女の事に従うものであり、男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである。」
 しかしこのチエホフの言葉は男女とも年をとると共に、おのずから異性との交渉に立ち入らないと云うのも同じことである。これは三歳の童児と雖(いえど)もとうに知っていることと云わなければならぬ。のみならず男女の差別よりも寧(むし)ろ男女の無差別を示しているものと云わなければならぬ。

   服装

 少くとも女人の服装は女人自身の一部である。啓吉の誘惑に陥らなかったのは勿論(もちろん)道念にも依(よ)ったのであろう。が、彼を誘惑した女人は啓吉の妻の借着をしている。もし借着をしていなかったとすれば、啓吉もさほど楽々とは誘惑の外に出られなかったかも知れない。
 註 菊池寛氏の「啓吉の誘惑」を見よ。

   処女崇拝

 我我は処女を妻とする為にどの位妻の選択に滑稽(こっけい)なる失敗を重ねて来たか、もうそろそろ処女崇拝には背中を向けても好い時分である。

   又

 処女崇拝は処女たる事実を知った後に始まるものである。即ち卒直なる感情よりも零細なる知識を重んずるものである。この故に処女崇拝者は恋愛上の衒学者(げんがくしゃ)と云わなければならぬ。あらゆる処女崇拝者の何か厳然と構えているのも或は偶然ではないかも知れない。

   又

 勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見ているものであろう。

   礼法

 或女学生はわたしの友人にこう云う事を尋ねたそうである。
「一体接吻(せっぷん)をする時には目をつぶっているものなのでしょうか? それともあいているものなのでしょうか?」
 あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共に甚だ遺憾に思っている。

   貝原益軒

 わたしはやはり小学時代に貝原益軒(かいばらえきけん)の逸事を学んだ。益軒は嘗(かつ)て乗合船の中に一人の書生と一しょになった。書生は才力に誇っていたと見え、滔々(とうとう)と古今の学芸を論じた。が、益軒は一言も加えず、静かに傾聴するばかりだった。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としていた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒の前に忸怩(じくじ)として先刻の無礼を謝した。――こう云う逸事を学んだのである。
 当時のわたしはこの逸事の中に謙譲の美徳を発見した。少くとも発見する為に努力したことは事実である。しかし今は不幸にも寸毫(すんごう)の教訓さえ発見出来ない。この逸事の今のわたしにも多少の興味を与えるは僅(わず)かに下のように考えるからである。――
 一 無言に終始した益軒の侮蔑(ぶべつ)は如何に辛辣(しんらつ)を極めていたか!
 二 書生の恥じるのを欣(よろこ)んだ同船の客の喝采(かっさい)は如何に俗悪を極めていたか!
 三 益軒の知らぬ新時代の精神は年少の書生の放論の中にも如何に溌溂(はつらつ)と鼓動していたか!

   或弁護

 或新時代の評論家は「蝟集(いしゅう)する」と云う意味に「門前雀羅(じゃくら)を張る」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云う法はない。もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬笑(ほほえ)みは門前雀羅を張るようだった」と形容しても好い筈(はず)である。
 もし通用さえするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸っている。たとえば「わたくし小説」もそうではないか? Ich-Roman と云う意味は一人称を用いた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定まってはいない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歴談と見られたが最後、三人称を用いた小説さえ「わたくし」小説と呼ばれているらしい。これは勿論独逸人(ドイツじん)の――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与えた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じように意外の新例を生ずるかも知れない。
 すると或評論家は特に学識に乏しかったのではない。唯(ただ)聊(いささ)か時流の外に新例を求むるのに急だったのである。その評論家の揶揄(やゆ)を受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。

   制限

 天才もそれぞれ乗り越え難い或制限に拘束されている。その制限を発見することは多少の寂しさを与えぬこともない。が、それはいつの間にか却(かえ)って親しみを与えるものである。丁度竹は竹であり、蔦(つた)は蔦である事を知ったように。

   火星

 火星の住民の有無を問うことは我我の五感に感ずることの出来る住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出来る条件を具(そな)えるとは限っていない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸(すずかけ)を黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかも知れないのである。

   Blanqui の夢

 宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等(これら)の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟(ひっきょう)有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息(せいそく)する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在している筈(はず)である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々(ぼうぼう)たる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗を蒙(こうむ)っているかも知れない。……
 これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問う所ではない。唯(ただ)ブランキは牢獄(ろうごく)の中にこう云う夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我我の心の底へ滲(し)み渡る寂しさを蓄えている。夢は既に地上から去った。我我も慰めを求める為には何万億哩(マイル)の天上へ、――宇宙の夜に懸った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。

   庸才

 庸才(ようさい)の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。

   機智

 機智とは三段論法を欠いた思想であり、彼等の所謂(いわゆる)「思想」とは思想を欠いた三段論法である。

   又

 機智に対する嫌悪の念は人類の疲労に根ざしている。

   政治家

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事実の知識だけである。畢竟某党の某首領はどう言う帽子をかぶっているかと言うのと大差のない知識ばかりである。

   又

 所謂「床屋政治家」とはこう言う知識のない政治家である。若(も)し夫(そ)れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。且(かつ)又利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高尚である。

   事実

 しかし紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。

   武者修業

 わたしは従来武者修業とは四方の剣客と手合せをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になって見ると、実は己ほど強いものの余り天下にいないことを発見する為にするものだった。――宮本武蔵伝読後。

   ユウゴオ

 全フランスを蔽(おお)う一片のパン。しかもバタはどう考えても、余りたっぷりはついていない。

   ドストエフスキイ

 ドストエフスキイの小説はあらゆる戯画に充(み)ち満(み)ちている。尤(もっと)もその又戯画の大半は悪魔をも憂鬱(ゆううつ)にするに違いない。

   フロオベル

 フロオベルのわたしに教えたものは美しい退屈もあると言うことである。

   モオパスサン

 モオパスサンは氷に似ている。尤も時には氷砂糖にも似ている。

   ポオ

 ポオはスフィンクスを作る前に解剖学を研究した。ポオの後代を震駭(しんがい)した秘密はこの研究に潜んでいる。

   森鴎外

 畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人(ギリシアじん)である。

   或資本家の論理

「芸術家の芸術を売るのも、わたしの蟹(かに)の鑵詰(かんづ)めを売るのも、格別変りのある筈はない。しかし芸術家は芸術と言えば、天下の宝のように思っている。ああ言う芸術家の顰(ひそ)みに傚(なら)えば、わたしも亦一鑵六十銭の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も芸術家のように莫迦莫迦(ばかばか)しい己惚(うぬぼ)れを起したことはない。」

   批評学
    ――佐佐木茂索君に――

 或天気の好い午前である。博士に化けた Mephistopheles は或大学の講壇に批評学の講義をしていた。尤もこの批評学は Kant の Kritik や何かではない。只(ただ)如何に小説や戯曲の批評をするかと言う学問である。
「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になったかと思いますから、今日は更に一歩進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは読んで字の通り、或作品の芸術的価値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは頗(すこぶ)るこの論法には危険であります。
「たとえば日本の桜の花の上にこの論法を用いて御覧なさい。桜の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用うるためには『より善い半ば』よりも『より悪い半ば』――即ち桜の花の匂(にお)いを肯定しなければなりません。つまり『匂いは正にある。が、畢竟それだけだ』と断案を下してしまうのであります。若し又万一『より悪い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言う破綻(はたん)を生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟(ひっきょう)それだけだ』――これでは少しも桜の花を貶(けな)したことにはなりません。
「勿論(もちろん)批評学の問題は如何に或小説や戯曲を貶すかと言うことに関しています。しかしこれは今更のように申し上げる必要はありますまい。
「ではこの『より善い半ば』や『より悪い半ば』は何を標準に区別しますか? こう言う問題を解決する為には、これも度たび申し上げた価値論へ溯(さかのぼ)らなければなりません。価値は古来信ぜられたように作品そのものの中にある訳ではない、作品を鑑賞する我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より悪い半ば』は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に区別しなければなりません。
「たとえば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は悪いものであります。又今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いものに違いありません。或作品の芸術的価値の『より善い半ば』や『より悪い半ば』も当然こう言う例のように区別しなければなりません。
「この標準を用いずに、美とか真とか善とか言う他の標準を求めるのは最も滑稽(こっけい)な時代錯誤であります。諸君は赤らんだ麦藁帽(むぎわらぼう)のように旧時代を捨てなければなりません。善悪は好悪を超越しない、好悪は即ち善悪である、愛憎は即ち善悪である、――これは『半肯定論法』に限らず、苟(いやし)くも批評学に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。
「扨(さて)『半肯定論法』とは大体上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『それだけだ』と言う言葉であります。この『それだけだ』と言う言葉は是非使わなければなりません。第一『それだけだ』と言う以上、『それ』即ち『より悪い半ば』を肯定していることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定していることも確かであります。即ち『それだけだ』と言う言葉は頗(すこぶ)る一揚一抑の趣に富んでいると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の芸術的価値さえ、隠約の間に否定しています。勿論否定していると言っても、なぜ否定するかと言うことは説明も何もしていません。只(ただ)言外に否定している、――これはこの『それだけだ』と言う言葉の最も著しい特色であります。顕(けん)にして晦(かい)、肯定にして否定とは正に『それだけだ』の謂(いい)でありましょう。
「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に縁(よ)って魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思います。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝(ゆううつ)等の非難を加える事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると罵(ののし)ってもかまいません。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には偏頗(へんぱ)の疑いを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』は兎(と)に角(かく)或作品の芸術的価値を半ばは認めているのでありますから、容易に公平の看を与え得るのであります。
「就(つ)いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套(がいとう)』を出しますから、来週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加えて来て下さい。(この時若い聴講生が一人、「先生、『全否定論法』を加えてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加えることは少くとも当分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎に角声名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加えるのに限ると思います。……」
    * * * * *
 一週間たった後、最高点を採った答案は下に掲げる通りである。
「正に器用には書いている。が、畢竟それだけだ。」

   親子

 親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。成種牛馬は親の為に養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘(わがまま)である。若(も)し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪(りゃくだつ)結婚を弁護しなければならぬ。

   又

 子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。
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