素描三題
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著者名:芥川竜之介 

 しかし庭鳥と思つたのはKさんにはほんの一瞬間だつた。Kさんはそこに佇(たたず)んだまま、あつけにとられずにはゐられなかつた。その畠へころげこんだものは実は今汽車に轢(ひ)かれた二十四五の男の頭だつた。

     三 武さん

 武(たけ)さんは二十八歳の時に何かにすがりたい慾望を感じ、(この慾望を生じた原因は特にここに言はずともよい。)当時名高い小説家だつたK先生を尋ねることにした。が、K先生はどう思つたか、武さんを玄関の中へ入れずに格子(かうし)戸越しにかう言ふのだつた。
「御用向きは何ですか?」
 武さんはそこに佇(たたず)んだまま、一部始終(いちぶしじゆう)をK先生に話した。
「その問題を解決するのはわたしの任ではありません。Tさんのところへお出でなさい。」
 T先生は基督(キリスト)教的色彩を帯びた、やはり名高い小説家だつた。武さんは早速(さつそく)その日のうちにT先生を訪問した。T先生は玄関へ顔を出すと、「わたしがTです。ではさやうなら」と言つたぎり、さつさと奥へ引きこまうとした。武さんは慌(あわ)ててT先生を呼びとめ、もう一度あらゆる事情を話した。
「さあ、それはむづかしい。……どうです、Uさんのところへ行つて見ては?」
 武さんはやつと三度目にU先生に辿(たど)り着いた。U先生は小説家ではない。名高い基督(キリスト)教的思想家だつた。武さんはこのU先生により、次第に信仰へはひつて行つた。同時に又次第に現世(げんせ)には珍らしい生活へはひつて行つた。
 それは唯はた目には石鹸(せつけん)や歯磨(はみが)きを売る行商(ぎやうしやう)だつた。しかし武さんは飯(めし)さへ食へれば、滅多(めつた)に荷を背負(せお)つて出かけたことはなかつた。その代りにトルストイを読んだり、蕪村(ぶそん)句集講義を読んだり、就中(なかんづく)聖書を筆写したりした。武さんの筆写した新旧約聖書は何千枚かにのぼつてゐるであらう。兎(と)に角(かく)武さんは昔の坊さんの法華経(ほけきやう)などを筆写したやうに勇猛に聖書を筆写したのである。
 或夏の近づいた月夜、武(たけ)さんは荷物を背負(せお)つたまま、ぶらぶら行商(ぎやうしやう)から帰つて来た。すると家の近くへ来た時、何か柔(やはら)かいものを踏みつぶした。それは月の光に透かして見ると、一匹の蟇(ひき)がへるに違ひなかつた。武さんは「俺(おれ)は悪いことをした」と思つた。それから家へ帰つて来ると、寝床の前に跪(ひざまづ)き、「神様、どうかあの蟇(ひき)がへるをお助け下さい」と十分ほど熱心に祈祷(きたう)をした。(武さんは立ち小便をする時にも草木(くさき)のない所にしたことはない。尤(もつと)もその為に一本の若木の枯れてしまつたことは確かである。)
 武さんを翌朝起したのはいつも早い牛乳配達だつた。牛乳配達は武さんの顔を見ると、紫がかつた壜(びん)をさし出しながら、晴れやかに武さんに話しかけた。
「今あすこを通つて来ると、踏みつぶされた蟇(ひき)がへるが一匹向うの草の中へはひつて行(ゆ)きましたよ。蟇がへるなどといふやつは強いものですね。」
 武さんは牛乳配達の帰つた後(あと)、早速(さつそく)感謝の祈祷をした。――これは武さんの直話(ぢきわ)である。僕は現世にもかういふ奇蹟(きせき)の行はれるといふことを語りたいのではない。唯現世にもかういふ人のゐるといふことを語りたいのである。僕の考へは武さんの考へとは、――僕にこの話をした武さんの考へとは或は反対になるであらう。しかし僕は不幸にも武さんのやうに信仰にはひつてゐない。従つて考への喰ひ違ふのはやむを得ないことと思つてゐる。
(昭和二・五・六)



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