路上
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著者名:芥川竜之介 

「シュライエルマッヘル?」
「僕の卒業論文さ。」
 野村は気のなさそうな声を出すと、ぐったり五分刈の頭を下げて、自分の手足を眺めていたが、やがて元気を恢復したらしく、胸の金釦(きんボタン)をかけ直して、
「もうそろそろ出かけなくっちゃ。――じゃ癲狂院(てんきょういん)行きの一件は、何分よろしく取計らってくれ給え。」

        十九

 野村(のむら)が止めるのも聞かず、俊助(しゅんすけ)は鳥打帽にインバネスをひっかけて、彼と一しょに森川町の下宿を出た。幸(さいわい)とうに風が落ちて、往来には春寒い日の暮が、うす明(あかる)くアスファルトの上を流れていた。
 二人は電車で中央停車場へ行った。野村の下げていた鞄(かばん)を赤帽に渡して、もう電燈のともっている二等待合室へ行って見ると、壁の上の時計の針が、まだ発車の時刻には大分遠い所を指していた。俊助は立ったまま、ちょいと顎(あご)をその針の方へしゃくって見せた。
「どうだ、晩飯を食って行っては。」
「そうさな。それも悪くはない。」
 野村は制服の隠しから時計を出して、壁の上のと見比べていたが、
「じゃ君は向うで待っていてくれ給え。僕は先へ切符を買って来るから。」
 俊助は独りで待合室の側の食堂へ行った。食堂はほとんど満員だった。それでも彼が入口に立って、逡巡(しゅんじゅん)の視線を漂わせていると、気の利(き)いた給仕が一人、すぐに手近の卓子(テエブル)に空席があるのを教えてくれた。が、その卓子(テエブル)には、すでに実業家らしい夫婦づれが、向い合ってフオクを動かしていた。彼は西洋風に遠慮したいと思ったが、ほかに腰を下(おろ)す所がないので、やむを得ずそこへ連(つらな)らせて貰う事にした。もっとも相手の夫婦づれは、格別迷惑らしい容子(ようす)もなく、一輪(いちりん)挿(ざ)しの桜を隔てながら、大阪弁で頻(しきり)に饒舌(しゃべ)っていた。
 給仕が註文を聞いて行くと、間もなく野村が夕刊を二三枚つかんで、忙しそうにはいって来た。彼は俊助に声をかけられて、やっと相手の居場所に気がつくと、これは隣席の夫婦づれにも頓着なく、無造作(むぞうさ)に椅子をひき寄せて、
「今、切符を買っていたら、大井(おおい)君によく似た人を見かけたが、まさか先生じゃあるまいな。」
「大井だって、停車場へ来ないとは限らないさ。」
「いや、何でも女づれらしかったから。」
 そこへスウプが来た。二人はそれぎり大井を閑却(かんきゃく)して、嵐山(あらしやま)の桜はまだ早かろうの、瀬戸内(せとうち)の汽船は面白かろうのと、春めいた旅の話へ乗り換えてしまった。するとその内に、野村が皿の変るのを待ちながら、急に思い出したと云う調子で、
「今初子(はつこ)さんの所へ例の件を電話でそう云って置いた。」
「じゃ今日は誰も送りに来ないか。」
「来るものか。何故(なぜ)?」
 何故と尋(き)かれると、俊助も返事に窮するよりほかはなかった。
「栗原へは今朝(けさ)手紙を出すまで、国へ帰るとも何とも云っちゃなかったんだから――その手紙も電話で聞くと、もう少しさっき届いたばかりだそうだ。」
 野村はまるで送りに来ない初子のために、弁解の労を執(と)るような口調だった。
「そうか。道理で今日辰子(たつこ)さんに遇(あ)ったが何ともそう云う話は聞かなかった。」
「辰子さんに遇った? いつ?」
「午(ひる)すぎに電車の中で。」
 俊助はこう答えながら、さっき下宿で辰子の話が出たにも関らず、何故今までこんな事を黙っていたのだろうと考えた。が、それは彼自身にも偶然か故意か、判断がつけられなかった。

        二十

 プラットフォオムの上には例のごとく、見送りの人影が群(むらが)っていた。そうしてそれが絶えず蠢(うごめ)いている上に、電燈のともった列車の窓が、一つずつ明(あかる)く切り抜かれていた。野村(のむら)もその窓から首を出して、外に立っている俊助(しゅんすけ)と、二言(ふたこと)三言(みこと)落着かない言葉を交換した。彼等は二人とも、周囲の群衆の気もちに影響されて、発車が待遠いような、待遠くないような、一種の慌(あわただ)しさを感じずにはいられなかった。殊に俊助は話が途切れると、ほとんど敵意があるような眼で、左右の人影を眺めながら、もどかしそうに下駄(げた)の底を鳴らしていた。
 その内にやっと発車の電鈴(ベル)が響いた。
「じゃ行って来給え。」
 俊助は鳥打帽の庇(ひさし)へ手をかけた。
「失敬、例の一件は何分よろしく願います。」と、野村はいつになく、改まった口調で挨拶した。
 汽車はすぐに動き出した。俊助はいつまでもプラットフォオムに立って、次第に遠ざかって行く野村を見送るほど、感傷癖に囚われてはいなかった。だから彼はもう一度鳥打帽の庇へ手をかけると、未練なくあたりの人影に交って、入口の階段の方へ歩き出した。
 が、その時、ふと彼の前を通りすぎる汽車の窓が眼にはいると、思いがけずそこには大井篤夫(おおいあつお)が、マントの肘(ひじ)を窓枠に靠(もた)せながら、手巾(ハンケチ)を振っているのが見えた。俊助は思わず足を止めた。と同時にさっき大井を見かけたと云う野村の言葉を思い出した。けれども大井は俊助の姿に気がつかなかったものと見えて、見る見る汽車の窓と共に遠くなりながらも、頻(しきり)に手巾(ハンケチ)を振り続けていた。俊助は狐(きつね)につままれたような気がして、茫然とその後を見送るよりほかはなかった。
 が、この衝動(ショック)から恢復した時、俊助の心は何よりも、その手巾(ハンケチ)の閃きに応ずべき相手を物色するのに忙しかった。彼はインバネスの肩を聳かせて、前後左右に雪崩(なだ)れ出した見送り人の中へ視線を飛ばした。勿論彼の頭の中には、女づれのようだったと云う野村の言葉が残っていた。しかしそれらしい女の姿を、いくら探しても見当らなかった。と云うよりもそれらしい女が、いつも人影の間にうろうろしていた。そうしてその代りどれが本当の相手だか、さらに判別がつかなかった。彼はとうとう物色を断念しなければならなかった。
 中央停車場の外へ出て、丸の内の大きな星月夜(ほしづきよ)を仰いだ時も、俊助はまださっきの不思議な心もちから、全く自由にはなっていなかった。彼には大井がその汽車へ乗り合せていたと云う事より、汽車の窓で手巾を振っていたと云う事が、滑稽なくらい矛盾(むじゅん)な感を与えるものだった。あの悪辣(あくらつ)な人間を以て自他共に許している大井篤夫が、どうしてあんな芝居じみた真似をしていたのだろう。あるいは人が悪いのは附焼刃(つけやきば)で、実は存外正直な感傷主義者(センティメンタリスト)が正体かも知れない。――俊助はいろいろな臆測(おくそく)の間(あいだ)に迷いながら、新開地のような広い道路を、濠側(ほりばた)まで行って電車に乗った。
 ところが翌日大学へ行くと、彼は純文科に共通な哲学概論の教室で、昨夜七時の急行へ乗った筈の大井と、また思いがけなく顔を合せた。

        二十一

 その日俊助(しゅんすけ)は、いつよりもやや出席が遅れたので、講壇をめぐった聴講席の中でも、一番後(うしろ)の机に坐らなければならなかった。所がそこへ坐って見ると、なぞえに向うへ低くなった二三列前の机に、見慣れた黒木綿の紋附が、澄まして頬杖をついていた。俊助はおやと思った。それから昨夜(さくや)中央停車場で見かけたのは、大井篤夫(おおいあつお)じゃなかったのかしらと思った。が、すぐにまた、いや、やはり大井に違いなかったと思い返した。そうしたら、彼が手巾(ハンケチ)を振っているのを見た時よりも、一層狐につままれたような心もちになった。
 その内に大井は何かの拍子(ひょうし)に、ぐるりとこちらへ振返った。顔を見ると、例のごとく傲岸不遜(ごうがんふそん)な表情があった。俊助は当然なるべきこの表情を妙にもの珍しく感じながら、「やあ」と云う挨拶(あいさつ)を眼で送った。と、大井も黒木綿(くろもめん)の紋附の肩越に、顎(あご)でちょいと会釈(えしゃく)をしたが、それなりまた向うを向いて、隣にいた制服の学生と、何か話をし始めたらしかった。俊助は急に昨夜の一件を確かめたい気が強くなって来た。が、そのためにわざわざ席を離れるのは、面倒でもあるし、莫迦莫迦(ばかばか)しくもあった。そこで万年筆へインクを吸わせながら、いささか腰を擡(もた)げ兼ねていると、哲学概論を担当している、有名なL教授が、黒い鞄を小脇に抱えて、のそのそ外からはいって来てしまった。
 L教授は哲学者と云うよりも、むしろ実業家らしい風采を備えていた。それがその日のように、流行の茶の背広を一着して、金の指環(ゆびわ)をはめた手を動かしながら、鞄の中の草稿を取り出したりなどしていると、殊に講壇よりは事務机の後(うしろ)に立たせて見たいような心もちがした。が、講義は教授の風采とは没交渉に、その面倒なカント哲学の範疇(カテゴリイ)の議論から始められた。俊助は専門の英文学の講義よりも、反(かえ)って哲学や美学の講義に忠実な学生だったから、ざっと二時間ばかりの間、熱心に万年筆を動かして、手際(てぎわ)よくノオトを取って行った。それでも合(あ)い間(ま)毎に顔を挙げて、これは煩杖をついたまま、滅多にペンを使わないらしい大井の後姿を眺めると、時々昨夜以来の不思議な気分が、カントと彼との間へ靄(もや)のように流れこんで来るのを感ぜずにはいられなかった。
 だからやがて講義がすんで、机を埋(うず)めていた学生たちがぞろぞろ講堂の外へ流れ出すと、彼は入口の石段の上に足を止めて、後から来る大井と一しょになった。大井は相不変(あいかわらず)ノオト・ブックのはみ出した懐(ふところ)へ、無精(ぶしょう)らしく両手を突込んでいたが、俊助の顔を見るなりにやにや笑い出して、
「どうした。この間の晩の美人たちは健在か。」と、逆に冷評を浴びせかけた。
 二人のまわりには大勢の学生たちが、狭い入口から両側の石段へ、しっきりなく溢(あふ)れ出していた。俊助は苦笑(くしょう)を漏(もら)したまま、大井の言葉には答えないで、ずんずんその石段の一つを下りて行った。そうしてそこに芽を吹いている欅(けやき)の並木の下へ出ると、始めて大井の方を振り返って、
「君は気がつかなかったか、昨夜(ゆうべ)東京駅で遇ったのを。」と、探りの一句を投げこんで見た。

        二十二

「へええ、東京駅で?」
 大井(おおい)は狼狽(ろうばい)したと云うよりも、むしろ決断に迷ったような眼つきをして、狡猾(ずる)そうにちらりと俊助(しゅんすけ)の顔を窺(うかが)った。が、その眼が俊助の冷やかな視線に刎返(はねかえ)されると、彼は急に悪びれない態度で、
「そうか。僕はちっとも気がつかなかった。」と白状した。
「しかも美人が見送りに来ていたじゃないか。」
 勢(いきお)いに乗った俊助は、もう一度際(きわ)どい鎌をかけた。けれども大井は存外平然と、薄笑(うすわらい)を唇に浮べながら、
「美人か――ありゃ僕の――まあ好いや。」と、思わせぶりな返事に韜晦(とうかい)してしまった。
「一体どこへ行ったんだ?」
「ありゃ僕の――」に辟易(へきえき)した俊助は、今度は全く技巧を捨てて、正面から大井を追窮した。
「国府津(こうづ)まで。」
「それから?」
「それからすぐに引返した。」
「どうして?」
「どうしてったって、――いずれ然るべき事情があってさ。」
 この時丁子(ちょうじ)の花の□(におい)が、甘たるく二人の鼻を打った。二人ともほとんど同時に顔を挙げて見ると、いつかもうディッキンソンの銅像の前にさしかかる所だった。丁子は銅像をめぐった芝生の上に、麗(うら)らかな日の光を浴びて、簇々(ぞくぞく)とうす紫の花を綴っていた。
「だからさ、その然るべき事情とは抑(そもそ)も何だと尋(き)いているんだ。」
 と、大井は愉快そうに、大きな声で笑い出した。
「つまらん事を心配する男だな。然るべき事情と云ったら、要するに然るべき事情じゃないか。」
 が、俊助も二度目には、容易に目つぶしを食わされなかった。
「いくら然るべき事情があったって、ちょいと国府津(こうづ)まで行くだけなら、何も手巾(ハンケチ)まで振らなくったって好さそうなもんじゃないか。」
 するとさすがに大井の顔にも、瞬(またた)く間(ま)周章(しゅうしょう)したらしい気色(けしき)が漲った。けれども口調(くちょう)だけは相不変(あいかわらず)傲然と、
「これまた別に然るべき事情があって振ったのさ。」
 俊助は相手のたじろいだ虚につけ入って、さらに調戯(からか)うような悪問(わるど)いの歩を進めようとした。が、大井は早くも形勢の非になったのを覚ったと見えて、正門の前から続いている銀杏(いちょう)の並木の下へ出ると、
「君はどこへ行く? 帰るか。じゃ失敬。僕は図書館へ寄って行くから。」と、巧に俊助を抛り出して、さっさと向うへ行ってしまった。
 俊助はその後を見送りながら、思わず苦笑(くしょう)を洩(もら)したが、この上追っかけて行ってまでも、泥を吐かせようと云う興味もないので、正門を出るとまっすぐに電車通りを隔てている郁文堂(いくぶんどう)の店へ行った。ところがそこへ足を入れると、うす暗い店の奥に立って、古本を探していた男が一人、静に彼の方へ向き直って、
「安田(やすだ)さん。しばらく。」と、優しい声をかけた。

        二十三

 ほとんど常に夕暮の様な店の奥の乏しい光も、まっ赤な土耳其帽(トルコぼう)を頂いた藤沢(ふじさわ)を見分けるには十分だった。俊助(しゅんすけ)は答礼の帽を脱ぎながら、埃臭(ほこりくさ)い周囲の古本と相手のけばけばしい服装との間に、不思議な対照を感ぜずにはいられなかった。
 藤沢は大英百科全書の棚(たな)に華奢(きゃしゃ)な片手をかけながら、艶(なまめ)かしいとも形容すべき微笑を顔中に漂わせて、
「大井(おおい)さんには毎日御会いですか。」
「ええ、今も一しょに講義を聴いて来たところです。」
「僕はあの晩以来、一度も御目にかからないんですが――」
 俊助は近藤(こんどう)と大井との間の確執(かくしつ)が、同じく『城』同人(どうじん)と云う関係上、藤沢もその渦中へ捲きこんだのだろうと想像した。が、藤沢はそう思われる事を避けたいのか、いよいよ優しい声を出して、
「僕の方からは二三度下宿へ行ったんですけれど、生憎(あいにく)いつも留守(るす)ばかりで――何しろ大井さんはあの通り、評判のドン・ジュアンですから、その方で暇がないのかも知れませんがね。」
 大学へはいって以来、初めて大井を知った俊助は、今日(きょう)まであの黒木綿の紋附にそんな脂粉(しふん)の気が纏綿(てんめん)していようとは、夢にも思いがけなかった。そこで思わず驚いた声を出しながら、
「へええ、あれで道楽者ですか。」
「さあ、道楽者かどうですか――とにかく女はよく征服する人ですよ。そう云う点にかけちゃ高等学校時代から、ずっと我々の先輩でした。」
 その瞬間俊助の頭の中には、昨夜(さくや)汽車の窓で手巾(ハンケチ)を振っていた大井の姿が、ありありと浮び上って来た。と同時にやはり藤沢が、何か大井に含む所があって、好(い)い加減に中傷の毒舌を弄しているのではないかとも思った。が、次の瞬間に藤沢はちょいと首を曲げて、媚(こ)びるような微笑を送りながら、
「何でも最近はどこかのレストランの給仕と大へん仲が好くなっているそうです。御同様羨望(せんぼう)に堪えない次第ですがね。」
 俊助は藤沢がこう云う話を、むしろ大井の名誉のために弁じているのだと云う事に気がついた。それと共に、頭の中の大井の姿は、いよいよその振っている手巾(ハンケチ)から、濃厚に若い女性の□(におい)を放散せずにはすまさなかった。
「そりゃ盛(さかん)ですね。」
「盛ですとも。ですから僕になんぞ会っている暇がないのも、重々無理はないんです。おまけに僕の行く用向きと云うのが、あの精養軒(せいようけん)の音楽会の切符の御金を貰いに行くんですからね。」
 藤沢はこう云いながら、手近の帳場机にある紙表紙の古本をとり上げたが、所々(ところどころ)好い加減に頁を繰ると、すぐに俊助の方へ表紙を見せて、
「これも花房(はなぶさ)さんが売ったんですね。」
 俊助は自然微笑が唇(くちびる)に上って来るのを意識した。
「梵字(サンスクリット)の本ですね。」
「ええ、マハアバラタか何からしいですよ。」

        二十四

「安田(やすだ)さん、御客様でございますよ。」
 こう云う女中の声が聞えた時、もう制服に着換えていた俊助(しゅんすけ)は[#「は」は底本では「はは」]、よしとか何とか曖昧(あいまい)な返事をして置いて、それからわざと元気よく、梯子段(はしごだん)を踏み鳴しながら、階下(した)へ行った。行って見ると、玄関の格子(こうし)の中には、真中(まんなか)から髪を割って、柄の長い紫のパラソルを持った初子(はつこ)が、いつもよりは一層溌剌(はつらつ)と外光に背(そむ)いて佇(たたず)んでいた。俊助は閾(しきい)の上に立ったまま、眩しいような感じに脅(おびや)かされて、
「あなた御一人?」と尋ねて見た。
「いいえ、辰子(たつこ)さんも。」
 初子は身を斜(ななめ)にして、透(すか)すように格子の外を見た。格子の外には、一間に足らない御影(みかげ)の敷石があって、そのまた敷石のすぐ外には、好い加減古びたくぐり門があった。初子の視線を追った俊助は、そのくぐり門の戸を開け放した向うに、見覚えのある紺と藍との竪縞(たてじま)の着物が、日の光を袂(たもと)に揺(ゆす)りながら、立っているのを発見した。
「ちょいと上って、御茶でも飲んで行きませんか。」
「難有(ありがと)うございますけれど――」
 初子は嫣然(えんぜん)と笑いながら、もう一度眼を格子の外へやった。
「そうですか。じゃすぐに御伴(おとも)しましょう。」
「始終御迷惑ばかりかけますのね。」
「何、どうせ今日は遊んでいる体なんです。」
 俊助は手ばしこく編上(あみあげ)の紐をからげると外套を腕にかけたまま、無造作(むぞうさ)に角帽を片手に掴(つか)んで、初子の後(あと)からくぐり門の戸をくぐった。
 初子のと同じ紫のパラソルを持って、外に待っていた辰子は、俊助の姿を見ると、しなやかな手を膝に揃えて、叮嚀に黙礼の頭(かしら)を下げた。俊助はほとんど冷淡に会釈(えしゃく)を返した。返しながら、その冷淡なのがあるいは辰子に不快な印象を与えはしないだろうかと気づかった。と同時にまた初子の眼には、それでもまだ彼の心中を裏切るべき優しさがありはしまいかとも思った。が、初子は二人の応対(おうたい)には頓着なく、斜(ななめ)に紫のパラソルを開きながら、
「電車は? 正門前(せいもんまえ)から御乗りになって。」
「ええ、あちらの方が近いでしょう。」
 三人は狭い往来を歩き出した。
「辰子さんはね、どうしても今日はいらっしゃらないって仰有(おっしゃ)ったのよ。」
 俊助は「そうですか?」と云う眼をして、隣に歩いている辰子を見た。辰子の顔には、薄く白粉(おしろい)を刷(は)いた上に、紫のパラソルの反映がほんのりと影を落していた。
「だって、私、気の違っている人なんぞの所へ行くのは、気味が悪いんですもの。」
「私は平気。」
 初子はくるりとパラソルを廻しながら、
「時々気違いになって見たいと思う事もあるわ。」
「まあ、いやな方ね。どうして?」
「そうしたら、こうやって生きているより、もっといろいろ変った事がありそうな気がするの。あなたそう思わなくって?」
「私? 私は変った事なんぞなくったって好いわ。もうこれで沢山。」

        二十五

 新田(にった)はまず三人の客を病院の応接室へ案内した。そこはこの種の建物には珍しく、窓掛、絨氈(じゅうたん)、ピアノ、油絵などで、甚しい不調和もなく装飾されていた。しかもそのピアノの上には、季節にはまだ早すぎる薔薇(ばら)の花が、無造作(むぞうさ)に手頃な青銅の壺へ挿(さ)してあった。新田は三人に椅子を薦(すす)めると、俊助(しゅんすけ)の問に応じて、これは病院の温室で咲かせた薔薇だと返答した。
 それから新田は、初子(はつこ)と辰子(たつこ)との方へ向いて、予(あらかじ)め俊助が依頼して置いた通り、精神病学に関する一般的智識とでも云うべきものを、歯切れの好(い)い口調で説明した。彼は俊助の先輩として、同じ高等学校にいた時分から、畠違(はたけちが)いの文学に興味を持っている男だった。だからその説明の中にも、種々の精神病者の実例として、ニイチェ、モオパッサン、ボオドレエルなどと云う名前が、一再ならず引き出されて来た。
 初子は熱心にその説明を聞いていた。辰子も――これは始終伏眼(ふしめ)がちだったが、やはり相当な興味だけは感じているらしく思われた。俊助は心の底の方で、二人の注意を惹(ひ)きつけている説明者の新田が羨しかった。が、二人に対する新田の態度はほとんど事務的とも形容すべき、甚だ冷静なものだった。同時にまた縞の背広に地味な襟飾(ネクタイ)をした彼の服装も、世紀末(せいきまつ)の芸術家の名前を列挙するのが、不思議なほど、素朴に出来上っていた。
「何だか私、御話を伺っている内に、自分も気が違っているような気がして参りました。」
 説明が一段落ついた所で、初子はことさら真面目な顔をしながら、ため息をつくようにこう云った。
「いや、実際厳密な意味では、普通正気(しょうき)で通っている人間と精神病患者との境界線が、存外はっきりしていないのです。況(いわ)んやかの天才と称する連中(れんじゅう)になると、まず精神病者との間に、全然差別がないと云っても差支えありません。その差別のない点を指摘したのが、御承知の通りロムブロゾオの功績です。」
「僕は差別のある点も指摘して貰いたかった。」
 こう俊助が横合(よこあい)から、冗談(じょうだん)のように異議を申し立てると、新田は冷かな眼をこちらへ向けて、
「あれば勿論指摘したろう。が、なかったのだから、やむを得ない。」
「しかし天才は天才だが、気違いはやはり気違いだろう。」
「そう云う差別なら、誇大妄想狂(こだいもうぞうきょう)と被害(ひがい)妄想狂との間にもある。」
「それとこれと一しょにするのは乱暴だよ。」
「いや、一しょにすべきものだ。成程天才は有為(エフィシエント)だろう。狂人は有為(エフィシエント)じゃないに違いない。が、その差別は人間が彼等の所行(しょぎょう)に与えた価値の差別だ。自然に存している差別じゃない。」
 新田の持論を知っている俊助は、二人の女と微笑を交換して、それぎり口を噤(つぐ)んでしまった。と、新田もさすがに本気すぎた彼自身を嘲るごとく、薄笑の唇を歪(ゆが)めて見せたが、すぐに真面目な表情に返ると、三人の顔を見渡して、
「じゃ一通り、御案内しましょう。」と、気軽く椅子(いす)から立ち上った。

        二十六

 三人が初めて案内された病室には、束髪(そくはつ)に結った令嬢が、熱心にオルガンを弾(ひ)いていた。オルガンの前には鉄格子(てつごうし)の窓があって、その窓から洩れて来る光が、冷やかに令嬢の細面(ほそおもて)を照らしていた。俊助(しゅんすけ)はこの病室の戸口に立って、窓の外を塞(ふさ)いでいる白椿(しろつばき)の花を眺めた時、何となく西洋の尼寺(あまでら)へでも行ったような心もちがした。
「これは長野のある資産家の御嬢さんですが、何でも縁談が調わなかったので、発狂したのだとか云う事です。」
「御可哀(おかわい)そうね。」
 辰子(たつこ)は細い声で、囁(ささや)くようにこう云った。が、初子(はつこ)は同情と云うよりも、むしろ好奇心に満ちた眼を輝かせて、じっと令嬢の横顔を見つめていた。
「オルガンだけは忘れないと見えるね。」
「オルガンばかりじゃない。この患者は画も描く。裁縫もする。字なんぞは殊に巧(たくみ)だ。」
 新田(にった)は俊助にこう云ってから、三人を戸口に残して置いて、静にオルガンの側へ歩み寄った。が、令嬢はまるでそれに気がつかないかのごとく、依然として鍵盤(けんばん)に指を走らせ続けていた。
「今日(こんにち)は。御気分はいかがです?」
 新田は二三度繰返して問いかけたが、令嬢はやはり窓の外の白椿と向い合ったまま、振返る気色(けしき)さえ見せなかった。のみならず、新田が軽く肩へ手をかけると、恐ろしい勢いでふり払いながら、それでも指だけは間違いなく、この病室の空気にふさわしい、陰鬱な曲を弾(ひ)きやめなかった。
 三人は一種の無気味(ぶきみ)さを感じて無言のまま、部屋を外へ退(しりぞ)いた。
「今日は御機嫌(ごきげん)が悪いようです。あれでも気が向くと、思いのほか愛嬌(あいきょう)のある女なんですが。」
 新田は令嬢の病室の戸をしめると、多少失望したらしい声を出したが、今度はそのすぐ前の部屋の戸を開けて、
「御覧なさい。」と、三人の客を麾(さしまね)いた。
 はいって見ると、そこは湯殿のように床(ゆか)を叩(たた)きにした部屋だった。その部屋のまん中には、壺(つぼ)を埋(い)けたような穴が三つあって、そのまた穴の上には、水道栓が蛇口(じゃぐち)を三つ揃えていた。しかもその穴の一つには、坊主頭(ぼうずあたま)の若い男が、カアキイ色の袋から首だけ出して、棒を立てたように入れてあった。
「これは患者の頭を冷(ひや)す所ですがね、ただじゃあばれる惧(おそれ)があるので、ああ云う風に袋へ入れて置くんです。」
 成程その男のはいっている穴では蛇口(じゃぐち)の水が細い滝になって、絶えず坊主頭の上へ流れ落ちていた。が、その男の青ざめた顔には、ただ空間を見つめている、どんよりした眼があるだけで、何の表情も浮んではいなかった。俊助は無気味を通り越して、不快な心もちに脅(おびや)かされ出した。
「これは残酷(ざんこく)だ。監獄の役人と癲狂院(てんきょういん)の医者とにゃ、なるもんじゃない。」
「君のような理想家が、昔は人体解剖(かいぼう)を人道に悖(もと)ると云って攻撃したんだ。」
「あれで苦しくは無いんでしょうか。」
「無論、苦しいも苦しくないもないんです。」
 初子は眉一つ動かさずに、冷然と穴の中の男を見下(みおろ)していた。辰子は――ふと気がついた俊助が初子から眼を転じた時、もうその部屋の中にはいつの間にか、辰子の姿が見えなくなっていた。

        二十七

 俊助(しゅんすけ)は不快になっていた矢先だから、初子(はつこ)と新田(にった)とを後に残して、うす暗い廊下(ろうか)へ退却した。と、そこには辰子(たつこ)が、途方(とほう)に暮れたように、白い壁を背負って佇(たたず)んでいた。
「どうしたのです。気味が悪いんですか。」
 辰子は水々しい眼を挙げて、訴えるように俊助の顔を見た。
「いいえ、可哀(かわい)そうなの。」
 俊助は思わず微笑した。
「僕は不愉快です。」
「可哀そうだとは御思いにならなくって?」
「可哀そうかどうかわからないが――とにかくああ云う人間が、ああしているのを見たくないんです。」
「あの人の事は御考えにならないの。」
「それよりも先に、自分の事を考えるんです。」
 辰子の青白い頬には、あるかない微笑の影がさした。
「薄情な方ね。」
「薄情かも知れません。その代りに自分の関係している事なら――」
「御親切?」
 そこへ新田と初子とが出て来た。
「今度は――と、あちらの病室へ行って見ますか。」
 新田は辰子や俊助の存在を全く忘れてしまったように、さっさと二人の前を通り越して、遠い廊下のつき当りにある戸口の方へ歩き出した。が、初子は辰子の顔を見ると、心もち濃い眉(まゆ)をひそめて、
「どうしたの。顔の色が好くなくってよ。」
「そう。少し頭痛(ずつう)がするの。」
 辰子は低い声でこう答えながら、ちょいと掌(てのひら)を額に当てたが、すぐにいつものはっきりした声で、
「行きましょう。何でもないわ。」
 三人は皆別々の事を考えながら、前後してうす暗い廊下を歩き出した。
 やがて廊下のつき当りまで来ると、新田はその部屋の戸を開けて、後(うしろ)の三人を振返りながら、「御覧なさい」と云う手真似(てまね)をした。ここは柔道の道場を思わせる、広い畳敷の病室だった。そうしてその畳の上には、ざっと二十人近い女の患者が、一様に鼠(ねずみ)の棒縞の着物を着て雑然と群羊のごとく動いていた。俊助は高い天窓(てんまど)の光の下(もと)に、これらの狂人の一団を見渡した時、またさっきの不快な感じが、力強く蘇生(よみがえ)って来るのを意識した。
「皆仲良くしているわね。」
 初子は家畜(かちく)を見るような眼つきをしながら、隣に立っている辰子に囁いた。が、辰子は静に頷(うなず)いただけで、口へ出しては、何とも答えなかった。
「どうです。中へはいって見ますか。」
 新田は嘲るような微笑を浮べて、三人の顔を見廻した。
「僕は真(ま)っ平(ぴら)だ。」
「私も、もう沢山。」
 辰子はこう云って、今更のようにかすかな吐息を洩らした。
「あなたは?」
 初子は生々した血の気を頬(ほお)に漲らせて、媚(こ)びるようにじっと新田の顔を見た。
「私は見せて頂きますわ。」

        二十八

 俊助(しゅんすけ)と辰子(たつこ)とは、さっきの応接室へ引き返した。引き返して見ると、以前はささなかった日の光が、斜(ななめ)に窓硝子(まどガラス)を射透して、ピアノの脚に落ちていた。それからその日の光に蒸されたせいか、壺にさした薔薇(ばら)の花も、前よりは一層重苦しく、甘い□(にお)いを放っていた。最後にあの令嬢の弾(ひ)くオルガンが、まるでこの癲狂院(てんきょういん)の建物のつく吐息(といき)のように、時々廊下の向うから聞えて来た。
「あの御嬢さんは、まだ弾いていらっしゃるのね。」
 辰子はピアノの前に立ったまま、うっとりと眼を遠い所へ漂わせた。俊助は煙草へ火をつけながら、ピアノと向い合った長椅子(ながいす)へ、ぐったりと疲れた腰を下して、
「失恋したくらいで、気が違うものかな。」と、独り語のように呟(つぶや)いた。と、辰子は静に眼を俊助の顔へ移して、
「違わないと御思いになって?」
「さあ――僕は違いそうもありませんね。それよりあなたはどうです。」
「私(わたし)? 私はどうするでしょう。」
 辰子は誰に尋ねるともなくこう云ったが、急に青白い頬に血の色がさすと、眼を白足袋(しろたび)の上に落して、
「わからないわ。」と小さな声を出した。
 俊助は金口(きんぐち)を啣(くわ)えたまま、しばらくはただ黙然(もくねん)と辰子の姿を眺めていたが、やがてわざと軽い調子で、
「御安心なさい。あんたなんぞは失恋するような事はないから。その代り――」
 辰子はまた静に眼を挙げて俊助の眉の間を見た。
「その代り?」
「失恋させるかも知れません。」
 俊助は冗談のように云った言葉が、案外真面目(まじめ)な調子を帯びていたのに気がついた。と同時に真面目なだけ、それだけ厭味なのを恥しく思った。
「そんな事を。」
 辰子はすぐに眼を伏せたが、やがて俊助の方へ後(うしろ)を向けると、そっとピアノの蓋を開けて、まるで二人をとりまいた、薔薇(ばら)の□いのする沈黙を追い払おうとするように、二つ三つ鍵盤(けんばん)を打った。それは打つ指に力がないのか、いずれも音とは思われないほど、かすかな音を響かせたのに過ぎなかった。が、俊助はその音を聞くと共に、日頃彼の軽蔑(けいべつ)する感傷主義(センティメンタリズム)が、彼自身をもすんでの事に捕えようとしていたのを意識した。この意識は勿論彼にとって、危険の意識には相違なかった。けれども彼の心には、その危険を免(まぬか)れたと云う、満足らしいものはさらになかった。
 しばらくして初子(はつこ)が新田(にった)と一しょに、応接室へ姿を現した時、俊助はいつもより快活に、
「どうでした。初子さん。モデルになるような患者が見つかりましたか。」と声をかけた。
「ええ、御蔭様で。」
 初子は新田と俊助とに、等分の愛嬌(あいきょう)をふり撒(ま)きながら、
「ほんとうに私(わたし)ためになりましたわ。辰子さんもいらっしゃれば好(い)いのに。そりゃ可哀そうな人がいてよ。いつでも、御腹(おなか)に子供がいると思っているんですって。たった一人、隅の方へ坐って、子守唄(こもりうた)ばかり歌っているの。」

        二十九

 初子が辰子と話している間に、新田はちょいと俊助(しゅんすけ)の肩を叩くと、
「おい、君に一つ見せてやる物がある。」と云って、それから女たちの方へ向きながら、
「あなた方はここで、しばらく御休みになって下さい。今、御茶でも差上げますから。」
 俊助は新田の云う通り、おとなしくその後(あと)について、明るい応接室からうす暗い廊下(ろうか)へ出ると、今度はさっきと反対の方向にある、広い畳敷の病室へつれて行かれた。するとここにも向うと同じように、鼠(ねずみ)の棒縞を着た男の患者が、二十人近くもごろごろしていた。しかもそのまん中には、髪をまん中から分けた若い男が、口を開(あ)いて、涎(よだれ)を垂らして、両手を翼(つばさ)のように動かしながら、怪しげな踊を踊っていた。新田は俊助をひっぱって、遠慮なくその連中の間へはいって行ったが、やがて膝を抱いて坐っていた、一人の老人をつかまえると、
「どうだね。何か変った事はないかい。」と、もっともらしく問いかけた。
「ございますよ。何でも今月の末までには、また磐梯山(ばんだいさん)が破裂するそうで、――昨晩(さくばん)もその御相談に、神々が上野(うえの)へ御集りになったようでございました。」
 老人は目脂(めやに)だらけの眼を見張って、囁くようにこう云った。が、新田はその答には頓着(とんちゃく)する気色(けしき)もなく、俊助の方を振返って、
「どうだ。」と、嘲るような声を出した。
 俊助は微笑を洩したばかりで、何ともその「どうだ」には答えなかった。と、新田はまた一人、これはニッケルの眼鏡をかけた、癇(かん)の強そうな男の前へ行って、
「いよいよ講和条約の調印もすんだようだね。君もこれからは暇になるだろう。」
 が、その男は陰鬱な眼を挙げて、じろりと新田の顔を見ながら、
「とても暇にはなりませんよ。クレマンソオはどうしても、僕の辞職を聴許(ちょうきょ)してくれませんからね。」
 新田は俊助と顔を見合せたが、そこに漂っている微笑を認めると、また黙然(もくねん)と病室の隅へ歩を移して、さっきからじっと二人を見つめていた、品の好(い)い半白の男に声をかけた。
「どうした。まだ細君は帰って来ないかね。」
「それがですよ。妻(さい)の方じゃ帰りたがっているんですが、――」
 その患者(かんじゃ)はこう云いかけて、急に疑わしそうな眼を俊助へ向けると、気味の悪いほど真剣な調子になって、
「先生、あなたは大変な人を伴(つ)れて御出でなすった。こりゃあの評判の女たらしですぜ。私の妻(さい)をひっかけた――」
「そうか。じゃ早速僕から、警察へ引き渡してやろう。」
 新田は無造作(むぞうさ)に調子を合わすと、三度(みたび)俊助の方へ振り返って、
「君、この連中が死んだ後で、脳髄(のうずい)を出して見るとね、うす赤い皺の重なり合った上に、まるで卵の白味(しろみ)のような物が、ほんの指先ほど、かかっているんだよ。」
「そうかね。」
 俊助は依然として微笑をやめなかった。
「つまり磐梯山(ばんだいさん)の爆発も、クレマンソオへ出した辞職届も、女たらしの大学生も、皆その白味のような物から出て来るんだ、我々の思想や感情だって――まあ、他は推して知るべしだね。」
 新田は前後左右に蠢(うごめ)いている鼠の棒縞を見廻しながら、誰にと云う事もなく、喧嘩を吹きかけるような手真似をした。

        三十

 初子(はつこ)と辰子(たつこ)とを載せた上野行(うえのゆき)の電車は、半面に春の夕日を帯びて、静に停留場(ていりゅうば)から動き出した。俊助(しゅんすけ)はちょいと角帽(かくぼう)をとって、窓の内の吊皮(つりかわ)にすがっている二人の女に会釈(えしゃく)をした。女は二人とも微笑していた。が、殊に辰子の眼は、微笑の中(うち)にも憂鬱な光を湛えて、じっと彼の顔に注がれているような心もちがした。彼の心には刹那(せつな)の間、あの古ぼけた教室の玄関に、雨止(あまや)みを待っていた彼女の姿が、稲妻(いなずま)のように閃いた。と思うと、電車はもう速力を早めて、窓の内の二人の姿も、見る見る彼の眼界を離れてしまった。
 その後を見送った俊助は、まだ一種の興奮が心に燃えているのを意識していた。彼はこのまま、本郷行(ほんごうゆき)の電車へ乗って、索漠(さくばく)たる下宿の二階へ帰って行くのに忍びなかった。そこで彼は夕日の中を、本郷とは全く反対な方向へ、好い加減にぶらぶら歩き出した。賑かな往来は日暮(ひぐれ)が近づくのに従って、一層人通りが多かった。のみならず、飾窓(ショウウインドウ)の中にも、アスファルトの上にも、あるいはまた並木の梢(こずえ)にも、至る所に春めいた空気が動いていた。それは現在の彼の気もちを直下(じきげ)に放出したような外界だった。だから町を歩いて行く彼の心には、夕日の光を受けながら、しかも夕日の色に染まっていない、頭の上の空のような、微妙な喜びが流れていた。………
 その空が全く暗くなった頃、彼はその通りのある珈琲店(カッフェ)で、食後の林檎(りんご)を剥(む)いていた。彼の前には硝子(ガラス)の一輪挿しに、百合(ゆり)の造花が挿してあった。彼の後では自働ピアノが、しっきりなくカルメンを鳴らしていた。彼の左右には幾組もの客が、白い大理石の卓子(テエブル)を囲みながら、綺麗(きれい)に化粧した給仕女と盛に饒舌(しゃべ)ったり笑ったりしていた。彼はこう云う周囲に身を置きながら、癲狂院(てんきょういん)の応接室を領していた、懶(ものう)い午後の沈黙を思った。室咲(むろざ)きの薔薇(ばら)、窓からさす日の光、かすかなピアノの響、伏目になった辰子の姿――ポオト・ワインに暖められた心には、そう云う快い所が、代る代る浮んだり消えたりした。が、やがて給仕女が一人、紅茶を持って来たのに気がついて、何気(なにげ)なく眼を林檎から離すと、ちょうど入口の硝子戸が開(あ)いた所で、しかもその入口には、黒いマントを着た大井篤夫(おおいあつお)が、燈火(ともしび)の多い外の夜から、のっそりはいって来る所だった。
「おい。」
 俊助は思わず声をかけた。と、大井は驚いた視線を挙げて、煙草の煙の立ちこめている珈琲店(カッフェ)の中を見廻したが、すぐに俊助の顔を見つけると、
「やあ、妙な所へ来ているな。」と云いながら、彼の卓子(テエブル)の向うへ歩み寄って、マントも脱がずに腰を下した。
「君こそ妙な所が御馴染(おなじみ)じゃないか。」
 俊助はこう冷評(ひやか)しながら、大井に愛想(あいそ)を売っている給仕女を一瞥(いちべつ)した。
「僕はボヘミヤンだ。君のようなエピキュリアンじゃない。到る処の珈琲店(カッフェ)、酒場(バア)、ないしは下(くだ)って縄暖簾(なわのれん)の類(たぐい)まで、ことごとく僕の御馴染(おなじみ)なんだ。」
 大井はもうどこかで一杯やって来たと見えて、まっ赤に顔を火照(ほて)らせながら、こんな下らない気焔を挙げた。

        三十一

「但し御馴染(おなじみ)だって、借のある所にゃ近づかないがね。」
 大井(おおい)は急に調子を下げて、嘲笑(あざわら)うような表情をしたが、やがて帳場机の方へ半身を□(ね)じ向けると、
「おい、ウイスキイを一杯。」と、横柄(おうへい)な声で命令した。
「じゃ、至る所、近づけなかないか。」
「莫迦(ばか)にするな。こう見えたって――少くとも、この家(うち)へは来ているじゃないか。」
 この時給仕女の中でも、一番背の低い、一番子供らしいのがウイスキイのコップを西洋盆(サルヴァ)へ載せて、大事そうに二人の所へ持って来た。それは括(くく)り頤(あご)の、眼の大きい、白粉(おしろい)の下に琥珀色(こはくいろ)の皮膚(ひふ)が透(す)いて見える、健康そうな娘だった。俊助(しゅんすけ)はその給仕女がそっと大井の顔へ親しみのある眼(ま)なざしを送りながら、盛りこぼれそうなウイスキイのコップを卓子(テエブル)の上へ移した時、二三日前に郁文堂(いくぶんどう)であの土耳其帽(トルコぼう)の藤沢(ふじさわ)が話して聞かせた、最近の大井の情事なるものを思い出さずにはいられなかった。と、果して大井も臆面(おくめん)なく、その給仕女の方へまっ赤になった顔を向けると、
「そんなにすますなよ。僕が来て嬉しかったら、遠慮なく嬉しそうな顔をするが好いぜ。こりゃ僕の親友でね、安田(やすだ)と云う貴族なんだ。もっとも貴族と云ったって、爵位なんぞがある訳じゃない。ただ僕よりゃ少し金があるだけの違いなんだ。――僕の未来の細君、お藤(ふじ)さん。ここの家じゃ、まず第一の美人だね。もし今度また君が来たら、この人にゃ特別に沢山ティップを置いて行ってくれ。」
 俊助は煙草に火をつけながら、微笑するよりほかはなかった。が、娘はこの種類の女には珍しい、純粋な羞恥(しゅうち)の血を頬に上らせながら、まるで弟にでも対するように、ちょいと大井を睨(ね)めると、そのまま派手な銘仙(めいせん)の袂(たもと)を飜(ひるがえ)して、□々(そうそう)帳場机の方へ逃げて行ってしまった。大井はその後姿(うしろすがた)を目送しながら、わざとらしく大きな声で笑い出したが、すぐに卓子(テエブル)の上のウイスキイをぐいとやって、
「どうだ。美人だろう。」と、冗談のように俊助の賛同を求めた。
「うん、素直そうな好い女だ。」
「いかん、いかん。僕の云っているのは、お藤(ふじ)の――お藤さんの肉体的の美しさの事だ。素直そうななんぞと云う、精神的の美しさじゃない。そんな物は大井篤夫(おおいあつお)にとって、あってもなくっても同じ事だ。」
 俊助は相手にならないで、埃及(エジプト)の煙ばかり鼻から出していた。すると大井は卓子(テエブル)越しに手をのばして、俊助の鼈甲(べっこう)の巻煙草入から金口(きんぐち)を一本抜きとりながら、
「君のような都会人は、ああ云う種類の美に盲目(もうもく)だからいかん。」と、妙な所へ攻撃の火の手を上げ始めた。
「そりゃ君ほど烱眼(けいがん)じゃないが。」
「冗談じゃないぜ。君ほど烱眼じゃないなんぞとは、僕の方で云いたいくらいだ。藤沢のやつは、僕の事を、何ぞと云うとドン・ジュアン呼ばわりをするが、近来は君の方へすっかり御株を取られた形があらあね。どうした。いつかの両美人は?」
 俊助は何を措(お)いても、この場合この話題が避けたかった。そこで彼は大井の言葉がまるで耳へはいらないように、また談柄(だんぺい)をお藤さんなる給仕女の方へ持って行った。

        三十二

「幾つだ、あのお藤(ふじ)さんと云うのは?」
「行年(ぎょうねん)十八、寅の八白(はっぱく)だ。」
 大井(おおい)はまた新に註文したウイスキイをひっかけながら、高々と椅子(いす)の上へあぐらをかいて、
「年まわりから云や、あんまり素直でもなさそうだが、――まあ、そんな事はどうでも好い、素直だろうが、素直でなかろうが、どうせ女の事だから、退屈な人間にゃ相違なかろう。」
「ひどく女を軽蔑(けいべつ)するな。」
「じゃ君は尊敬しているか。」
 俊助(しゅんすけ)は今度も微笑の中(うち)に、韜晦(とうかい)するよりほかはなかった。と、大井は三杯目のウイスキイを前に置いて、金口の煙を相手へ吹きかけながら、
「女なんてものは退屈だぜ。上(かみ)は自動車へ乗っているのから下(しも)は十二階下に巣を食っているのまで、突っくるめて見た所が、まあ精々十種類くらいしかないんだからな。嘘だと思ったら、二年でも三年でも、滅茶滅茶に道楽をして見るが好(い)い。すぐに女の種類が尽きて、面白くも何ともなくなっちまうから。」
「じゃ君も面白くない方か。」
「面白くない方か? 冗談(じょうだん)だろう。――いや、皮肉なら皮肉でも好い。面白くないと云っている僕が、やっぱりこうやって女ばかり追っかけている。それが君にゃ莫迦(ばか)げて見えるんだろう。だがね、面白くないと云うのも本当なんだ。同時にまた面白いと云うのも本当なんだ。」
 大井は四杯目のウイスキイを命じた頃から、次第に平常の傲岸(ごうがん)な態度がなくなって、酔を帯びた眼の中にも、涙ぐんでいるような光が加わって来た。勿論俊助はこう云う相手の変化を、好奇心に富んだ眼で眺めていた。が、大井は俊助の思わくなぞにはさらに頓着しない容子(ようす)で、五杯六杯と続けさまにウイスキイを煽(あお)りながら、ますます熱心な調子になって、
「面白いと云うのはね、女でも追っかけていなけりゃ、それこそつまらなくってたまらないからなんだ。が、追っかけて見た所で、これまた面白くも何ともありゃしない。じゃどうすれば好いんだと君は云うだろう。じゃどうすれば好いんだと――それがわかっているぐらいなら、僕もこんなに寂しい思いなんぞしなくってもすむ。僕は始終僕自身にそう云っているんだ。じゃどうすれば好いんだと。」
 俊助は少し持て余しながら、冗談のように相手を和(やわら)げにかかった。
「惚(ほ)れられるさ。そうすりゃ、少しは面白いだろう。」
 が、大井は反(かえ)って真面目な表情を眼にも眉にも動かしながら、大理石の卓子(テエブル)を拳骨(げんこつ)で一つどんと叩くと、
「所がだ。惚れられるまでは、まだ退屈でも我慢がなるが、惚れられたとなったら、もう万事休すだ。征服の興味はなくなってしまう。好奇心もそれ以上は働きようがない。後(あと)に残るのはただ、恐るべき退屈中の退屈だけだ。しかも女と云うやつは、ある程度まで関係が進歩すると、必ず男に惚れてしまうんだから始末が悪い。」
 俊助は思わず大井の熱心さに釣りこまれた。
「じゃどうすれば好いんだ?」
「だからさ。だからどうすれば好いんだと僕も云っていたんだ。」
 大井はこう云いながら、殺気立った眉をひそめて、七八杯目のウイスキイをまずそうにぐいと飲み干した。

        三十三

 俊助(しゅんすけ)はしばらく口を噤(つぐ)んで、大井(おおい)の指にある金口(きんぐち)がぶるぶる震えるのを眺めていた。と、大井はその金口を灰皿の中へ抛りこんで、いきなり卓子(テエブル)越しに俊助の手をつかまえると、
「おい。」と、切迫した声を出した。
 俊助は返事をする代りに、驚いた眼を挙げて、ちょいと大井の顔を見た。
「おい、君はまだ覚えているだろう、僕があの七時の急行の窓で、女の見送り人に手巾(ハンケチ)を振っていた事があるのを。」
「勿論覚えている。」
「じゃ聞いてくれ。僕はあの女とこの間まで同棲していたんだ。」
 俊助は好奇心が動くと共に、もう好い加減にアルコオル性の感傷主義(センティメンタリズム)は御免を蒙りたいと云う気にもなった。のみならず、周囲の卓子(テエブル)を囲んでいる連中が、さっきからこちらへ迂散(うさん)らしい視線を送っているのも不快だった。そこで彼は大井の言葉には曖昧(あいまい)な返事を与えながら、帳場の側に立っているお藤(ふじ)に、「来い」と云う相図(あいず)をして見せた。が、お藤がそこを離れない内に、最初彼の食事の給仕をした女が、急いで卓子(テエブル)の前へやって来た。
「勘定(かんじょう)をしてくれ。この方(かた)の分も一しょだ。」
 すると大井は俊助の手を離して、やはり眼に涙を湛えたまま、しげしげと彼の顔を眺めたが、
「おい、おい、勘定を払ってくれなんていつ云った? 僕はただ、聞いてくれと云ったんだぜ。聞いてくれりゃ好し、聞いてくれなけりゃ――そうだ。聞いてくれなけりゃ、さっさと帰ったら好いじゃないか。」
 俊助は勘定をすませると、新に火をつけた煙草を啣(くわ)えながら、劬(いたわ)るような微笑を大井に見せて、
「聞くよ。聞くが、ね、我々のように長く坐りこんじゃ、ここの家(うち)も迷惑だろう。だから一まず外へ出た上で、聞く事にしようじゃないか。」
 大井はやっと納得(なっとく)した。が、卓子(テエブル)を離れるとなると、彼は口が達者なのとは反対に、頗(すこぶ)る足元が蹣跚(まんさん)としていた。
「好いか。おい。危いぜ。」
「冗談云っちゃいけない。高がウイスキイの十杯や十五杯――」
 俊助は大井の手をとらないばかりにして、入口の硝子戸(ガラスど)の方へ歩き出した。と、そこにはもうお藤(ふじ)が、大きく硝子戸を開(あ)けながら、心配そうな眼を見張って、二人の出て来るのを待ち受けていた。彼女はそこの天井から下っている支那燈籠(しなどうろう)の光を浴びて、最前(さいぜん)よりはさらに子供らしく、それだけ俊助にはさらに美しく見えた。が、大井はまるでお藤の存在には気がつかなかったものと見えて、逞(たくまし)い俊助の手に背中を抱えられながら、口一つ利(き)かずにその前を通りすぎた。
「難有(ありがと)うございます。」
 大井の後(あと)から外へ出た俊助には、こう云うお藤の言葉の中に、彼の大井に対する厚情を感謝しているような響が感じられた。彼はお藤の方を振り返って、その感謝に答うべき微笑を送る事を吝(おし)まなかった。お藤は彼等が往来へ出てしまってからも、しばらくは明(あかる)い硝子戸の前に佇(たたず)みながら、白い前掛(エプロン)の胸へ両手を合せて、次第に遠くなって行く二人の後姿を、懐しそうにじっと見守っていた。

        三十四

 大井(おおい)は角帽の庇(ひさし)の下に、鈴懸(すずかけ)の並木を照らしている街燈の光を受けるが早いか、俊助(しゅんすけ)の腕へすがるようにして、
「じゃ聞いてくれ。迷惑だろうが、聞いてくれ。」と、執念(しゅうね)くさっきの話を続け出した。
 俊助も今度は約束した手前、一時を糊塗(こと)する訳にも行かなかった。
「あの女は看護婦でね、僕が去年の春扁桃腺(へんとうせん)を煩(わずら)った時に――まあ、そんな事はどうでも好い、とにかく僕とあの女とは、去年の春以来の関係なんだ。それが君、どうして別れるようになったと思う? 単にあの女が僕に惚れたからなんだ。と云うよりゃ偶然の機会で、惚れていると云う事を僕に見せてしまったからなんだ。」
 俊助は絶えず大井の足元を顧慮しながら、街燈の下を通りすぎる毎に、長くなったり短くなったりする彼等の影を、アスファルトの上に踏んで行った。そうしてややもすると散漫になり勝ちな注意を、相手の話へ集中させるのに忙しかった。
「と云ったって、何も大したいきさつがあった訳でも何でもない。ただ、あいつが僕の所へ来た手紙の事で、嫉妬(やきもち)を焼いただけの事なんだ。が、その時僕はあの女の腹の底まで見えたような気がして、一度に嫌気(いやき)がさしてしまったじゃないか。するとあいつは嫉妬を焼いたと云う、その事だけが悪いんだと思ったもんだから、――いや、これも余談だった。僕が君に話したいのは、その僕の所へ来た手紙と云うやつなんだがね。」
 大井はこう云って、酒臭(さけくさ)い息を吐きながら、俊助の顔を覗(のぞ)くようにした。
「その手紙の差出人は、女名前じゃあったけれど、実は僕自身なんだ。驚くだろう。僕だって、自分で驚いているんだから、君が驚くのはちっとも不思議はない。じゃ何故(なぜ)僕はそんな手紙を書いたんだ? あの女が嫉妬を焼くかどうか、それが知りたかったからさ。」
 さすがにこの時は俊助も、何か得体の知れない物にぶつかったような心もちがした。
「妙な男だな。」
「妙だろう。あいつが僕に惚れている事がわかりゃ、あいつが嫌(いや)になると云う事は、僕は百も承知しているんだ。そうしてあいつが嫌になった暁(あかつき)にゃ、余計世の中が退屈になると云う事も知っているんだ。しかも僕は、その時に、九分九厘まではあの女が嫉妬を焼く事を知っていたんだぜ。それでいて、手紙を書いたんだ。書かなけりゃいられなかったんだ。」
「妙な男だな。」
 俊助は目まぐるしい人通りの中に、足元(あしもと)の怪しい大井をかばいながら、もう一度こう繰返した。
「だから僕の場合はこうなんだ。――女が嫌になりたいために女に惚れる。より退屈になりたいために退屈な事をする。その癖僕は心の底で、ちっとも女が嫌になりたくはないんだ。ちっとも退屈でいたくはないんだ。だから君、悲惨(ひさん)じゃないか。悲惨だろう。この上仕方のない事はないだろう。」
 大井はいよいよ酔が発したと見えて、声さえ感動に堪えないごとく涙ぐむようになって来た。

        三十五

 その内に二人は、本郷行(ほんごうゆき)の電車に乗るべき、ある賑(にぎやか)な四つ辻へ来た。そこには無数の燈火(ともしび)が暗い空を炙(あぶ)った下に、電車、自動車、人力車(じんりきしゃ)の流れが、絶えず四方から押し寄せていた。俊助(しゅんすけ)は生酔(なまよい)の大井(おおい)を連れてこの四つ辻を向うへ突切るには、そう云う周囲の雑沓(ざっとう)と、険呑(けんのん)な相手の足元とへ、同時に気を配らなければならなかった。
 所がやっと向うへ辿(たど)りつくと、大井は俊助の心配には頓着なく、すぐにその通りにあるビヤホオルの看板を見つけて、
「おい、君、もう一杯ここでやって行こう。」と、海老茶(えびちゃ)色をした入口の垂幕(たれまく)を、無造作(むぞうさ)に開いてはいろうとした。
「よせよ。そのくらい御機嫌なら、もう大抵沢山じゃないか。」
「まあ、そんな事を云わずにつき合ってくれ。今度は僕が奢(おご)るから。」
 俊助はこの上大井の酒の相手になって、彼の特色ある恋愛談を傾聴するには、余りにポオト・ワインの酔(よい)が醒めすぎていた。そこで今まで抑えていたマントの背中を離しながら、
「じゃ、君一人で飲んで行くさ。僕はいくら奢(おご)られても真平(まっぴら)だ。」
「そうか。じゃ仕方がない。僕はまだ君に聞いて貰いたい事が残っているんだが――」
 大井は海老茶色の幕へ手をかけたまま、ふらつく足を踏みしめて、しばらく沈吟(ちんぎん)していたが、やがて俊助の鼻の先へ酒臭い顔を持って来ると、
「君は僕がどうしてあの晩、国府津(こうづ)なんぞへ行ったんだか知らないだろう。ありゃね、嫌(いや)になった女に別れるための方便なんだ。」
 俊助は外套の隠しへ両手を入れて、呆(あき)れた顔をしながら、大井と眼を見合せた。
「へええ、どうして?」
「どうしてったって、――まず僕が是非とも国へ帰らなければならないような理由を書き下(おろ)してさ。それから女と泣き別れの愁歎場(しゅうたんば)がよろしくあって、とどあの晩汽車の窓で手巾(ハンケチ)を振ると云うのが大詰(おおづめ)だったんだ。何しろ役者が役者だから、あいつは今でも僕が国へ帰っていると思っているんだろう。時々国の僕へ宛てたあいつの手紙が、こっちの下宿へ転送されて来るからね。」
 大井はこう云って、自(みずか)ら嘲るように微笑しながら、大きな掌(てのひら)を俊助の肩へかけて、
「僕だってそんな化(ばけ)の皮が、永久に剥(は)げないとは思っていない。が、剥げるまでは、その化の皮を大事にかぶっていたいんだ。この心もちは君に通じないだろうな。通じなけりゃ――まあ、それまでだが、つまり僕は嫌になった女に別れるんでも、出来るだけ向うを苦しめたくないんだ。出来るだけ――いくら嘘をついてもだね。と云って、何もその場合まで好(い)い子になりたいと云うんじゃない。向うのために、女のために、そうしてやるべき一種の義務が存在するような気がするんだ。君は矛盾(むじゅん)だと思うだろう。矛盾もまた甚しいと思うだろう。だろうが、僕はそう云う人間なんだ。それだけはどうか呑み込んで置いてくれ。――じゃ失敬しよう。わが親愛なる安田俊助(やすだしゅんすけ)。」
 大井は妙な手つきをして、俊助の肩を叩いたと思うと、その手に海老茶色の垂幕を挙げて、よろよろビヤホオルの中へはいってしまった。
「妙な男だな。」
 俊助は軽蔑とも同情とも判然しない一種の感情に動かされながら三度(みたび)こう呟いて、クラブ洗粉(あらいこ)の広告電燈が目まぐるしく明滅する下を、静に赤い停留場(ていりゅうば)の柱の方へ歩き出した。

        三十六

 下宿へ帰って来た俊助(しゅんすけ)は、制服を和服に着換(きかえ)ると、まず青い蓋(かさ)をかけた卓上電燈の光の下で、留守中(るすちゅう)に届いていた郵便へ眼を通した。その一つは野村(のむら)の手紙で、もう一つは帯封に乞(こう)高評(こうひょう)の判がある『城』の今月号だった。
 俊助は野村の手紙を披(ひら)いた時、その半切(はんきれ)を埋(うず)めているものは、多分父親の三回忌に関係した、家事上の紛紜(ふんうん)か何かだろうと云う、朧(おぼろ)げな予期を持っていた。ところがいくら読んで行っても、そう云う実際方面の消息はほとんど一句も見当らなかった。
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