路上
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著者名:芥川竜之介 

しかも僕は、その時に、九分九厘まではあの女が嫉妬を焼く事を知っていたんだぜ。それでいて、手紙を書いたんだ。書かなけりゃいられなかったんだ。」
「妙な男だな。」
 俊助は目まぐるしい人通りの中に、足元(あしもと)の怪しい大井をかばいながら、もう一度こう繰返した。
「だから僕の場合はこうなんだ。――女が嫌になりたいために女に惚れる。より退屈になりたいために退屈な事をする。その癖僕は心の底で、ちっとも女が嫌になりたくはないんだ。ちっとも退屈でいたくはないんだ。だから君、悲惨(ひさん)じゃないか。悲惨だろう。この上仕方のない事はないだろう。」
 大井はいよいよ酔が発したと見えて、声さえ感動に堪えないごとく涙ぐむようになって来た。

        三十五

 その内に二人は、本郷行(ほんごうゆき)の電車に乗るべき、ある賑(にぎやか)な四つ辻へ来た。そこには無数の燈火(ともしび)が暗い空を炙(あぶ)った下に、電車、自動車、人力車(じんりきしゃ)の流れが、絶えず四方から押し寄せていた。俊助(しゅんすけ)は生酔(なまよい)の大井(おおい)を連れてこの四つ辻を向うへ突切るには、そう云う周囲の雑沓(ざっとう)と、険呑(けんのん)な相手の足元とへ、同時に気を配らなければならなかった。
 所がやっと向うへ辿(たど)りつくと、大井は俊助の心配には頓着なく、すぐにその通りにあるビヤホオルの看板を見つけて、
「おい、君、もう一杯ここでやって行こう。」と、海老茶(えびちゃ)色をした入口の垂幕(たれまく)を、無造作(むぞうさ)に開いてはいろうとした。
「よせよ。そのくらい御機嫌なら、もう大抵沢山じゃないか。」
「まあ、そんな事を云わずにつき合ってくれ。今度は僕が奢(おご)るから。」
 俊助はこの上大井の酒の相手になって、彼の特色ある恋愛談を傾聴するには、余りにポオト・ワインの酔(よい)が醒めすぎていた。そこで今まで抑えていたマントの背中を離しながら、
「じゃ、君一人で飲んで行くさ。僕はいくら奢(おご)られても真平(まっぴら)だ。」
「そうか。じゃ仕方がない。僕はまだ君に聞いて貰いたい事が残っているんだが――」
 大井は海老茶色の幕へ手をかけたまま、ふらつく足を踏みしめて、しばらく沈吟(ちんぎん)していたが、やがて俊助の鼻の先へ酒臭い顔を持って来ると、
「君は僕がどうしてあの晩、国府津(こうづ)なんぞへ行ったんだか知らないだろう。ありゃね、嫌(いや)になった女に別れるための方便なんだ。」
 俊助は外套の隠しへ両手を入れて、呆(あき)れた顔をしながら、大井と眼を見合せた。
「へええ、どうして?」
「どうしてったって、――まず僕が是非とも国へ帰らなければならないような理由を書き下(おろ)してさ。それから女と泣き別れの愁歎場(しゅうたんば)がよろしくあって、とどあの晩汽車の窓で手巾(ハンケチ)を振ると云うのが大詰(おおづめ)だったんだ。何しろ役者が役者だから、あいつは今でも僕が国へ帰っていると思っているんだろう。時々国の僕へ宛てたあいつの手紙が、こっちの下宿へ転送されて来るからね。」
 大井はこう云って、自(みずか)ら嘲るように微笑しながら、大きな掌(てのひら)を俊助の肩へかけて、
「僕だってそんな化(ばけ)の皮が、永久に剥(は)げないとは思っていない。が、剥げるまでは、その化の皮を大事にかぶっていたいんだ。この心もちは君に通じないだろうな。通じなけりゃ――まあ、それまでだが、つまり僕は嫌になった女に別れるんでも、出来るだけ向うを苦しめたくないんだ。出来るだけ――いくら嘘をついてもだね。と云って、何もその場合まで好(い)い子になりたいと云うんじゃない。向うのために、女のために、そうしてやるべき一種の義務が存在するような気がするんだ。君は矛盾(むじゅん)だと思うだろう。矛盾もまた甚しいと思うだろう。だろうが、僕はそう云う人間なんだ。それだけはどうか呑み込んで置いてくれ。――じゃ失敬しよう。わが親愛なる安田俊助(やすだしゅんすけ)。」
 大井は妙な手つきをして、俊助の肩を叩いたと思うと、その手に海老茶色の垂幕を挙げて、よろよろビヤホオルの中へはいってしまった。
「妙な男だな。」
 俊助は軽蔑とも同情とも判然しない一種の感情に動かされながら三度(みたび)こう呟いて、クラブ洗粉(あらいこ)の広告電燈が目まぐるしく明滅する下を、静に赤い停留場(ていりゅうば)の柱の方へ歩き出した。

        三十六

 下宿へ帰って来た俊助(しゅんすけ)は、制服を和服に着換(きかえ)ると、まず青い蓋(かさ)をかけた卓上電燈の光の下で、留守中(るすちゅう)に届いていた郵便へ眼を通した。その一つは野村(のむら)の手紙で、もう一つは帯封に乞(こう)高評(こうひょう)の判がある『城』の今月号だった。
 俊助は野村の手紙を披(ひら)いた時、その半切(はんきれ)を埋(うず)めているものは、多分父親の三回忌に関係した、家事上の紛紜(ふんうん)か何かだろうと云う、朧(おぼろ)げな予期を持っていた。ところがいくら読んで行っても、そう云う実際方面の消息はほとんど一句も見当らなかった。その代り郷土の自然だの生活だのの叙述が、到る所に美しい詠歎的な文字を並べていた。磯山(いそやま)の若葉の上には、もう夏らしい海雲(かいうん)が簇々(ぞくぞく)と空に去来していると云う事、その雲の下に干してある珊瑚採取(さんごさいしゅ)の絹糸の網が、眩(まばゆ)く日に光っていると云う事、自分もいつか叔父の持ち船にでも乗せて貰って、深海の底から珊瑚の枝を曳き上げたいと思っていると云う事――すべてが哲学者と云うよりは、むしろ詩人にふさわしい熱情の表現とも云わるべき性質のものだった。
 俊助にはこの絢爛(けんらん)たる文句の中に、現在の野村の心もちが髣髴出来るように感ぜられた。それは初子(はつこ)に対する純粋な愛が遍照(へんしょう)している心もちだった。そこには優しい喜びがあった。あるいはかすかな吐息(といき)があった。あるいはまたややもすれば流れようとする涙があった。だからその心もちを通過する限り、野村の眼に映じた自然や生活は、いずれも彼自身の愛の円光に、虹のごとき光彩を与えられていた。若葉も、海も、珊瑚採取も、ことごとくの意味においては、地上の実在を超越した一種の天啓にほかならなかった。従って彼の長い手紙も、その素朴な愛の幸福に同情出来るもののみが、始めて意味を解すべき黙示録(アポカリプス)のようなものだった。
 俊助は微笑と共に、野村の手紙を巻きおさめて、今度は『城』の封を切った。表紙にはビアズリイのタンホイゼルの画が刷(す)ってあって、その上に l'art pour l'art と、細い朱文字(しゅもじ)で入れた銘があった。目次を見ると、藤沢の「鳶色(とびいろ)の薔薇(ばら)」と云う抒情詩的の戯曲を筆頭に、近藤のロップス論とか、花房(はなぶさ)のアナクレオンの飜訳とか、いろいろな表題が行列していた。俊助ははなはだ同情のない眼で、しばらくそれらの表題を見廻していたが、やがて「倦怠(けんたい)」――大井篤夫(おおいあつお)と云う一行の文字にぶつかると、急にさっきの大井の姿が鮮かに記憶に浮んで来たので、早速その小説が載っている巻末の頁をはぐって見た。と、それは三人称でこそ書いてはあるが、実は今夜聞いた大井の告白を、そのまま活字にしたような小説だった。
 俊助はわずか十分ばかりの間に、造作なく「倦怠」を読み終るとまた野村の手紙をひろげて見て、その達筆な行(ぎょう)の上へ今更のように怪訝(かいが)の眼を落した。この手紙の中に磅□(ほうはく)している野村の愛と、あの小説の中にぶちまけてある大井の愛と――一人の初子に天国を見ている野村と、多くの女に地獄(じごく)を見ている大井と――それらの間にある大きな懸隔は、一体どこから生じたのだろう。いや、それよりも二人の愛は、どちらが本当の愛なのだろう。野村の愛が幻か。大井の愛が利己心か。それとも両方がそれぞれの意味で、やはり為(いつわり)のない愛だろうか。そうして彼自身の辰子に対する愛は?
 俊助は青い蓋(かさ)をかけた卓上電燈の光の下に、野村の手紙と大井の小説とを並べたまま、しばらくは両腕を胸に組んで、じっと西洋机(デスク)の前へ坐っていた。
(以上を以て「路上」の前篇を終るものとす。後篇は他日を期する事とすべし。)
(大正八年七月)



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