路上
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著者名:芥川竜之介 

 俊助(しゅんすけ)と辰子(たつこ)とは、さっきの応接室へ引き返した。引き返して見ると、以前はささなかった日の光が、斜(ななめ)に窓硝子(まどガラス)を射透して、ピアノの脚に落ちていた。それからその日の光に蒸されたせいか、壺にさした薔薇(ばら)の花も、前よりは一層重苦しく、甘い□(にお)いを放っていた。最後にあの令嬢の弾(ひ)くオルガンが、まるでこの癲狂院(てんきょういん)の建物のつく吐息(といき)のように、時々廊下の向うから聞えて来た。
「あの御嬢さんは、まだ弾いていらっしゃるのね。」
 辰子はピアノの前に立ったまま、うっとりと眼を遠い所へ漂わせた。俊助は煙草へ火をつけながら、ピアノと向い合った長椅子(ながいす)へ、ぐったりと疲れた腰を下して、
「失恋したくらいで、気が違うものかな。」と、独り語のように呟(つぶや)いた。と、辰子は静に眼を俊助の顔へ移して、
「違わないと御思いになって?」
「さあ――僕は違いそうもありませんね。それよりあなたはどうです。」
「私(わたし)? 私はどうするでしょう。」
 辰子は誰に尋ねるともなくこう云ったが、急に青白い頬に血の色がさすと、眼を白足袋(しろたび)の上に落して、
「わからないわ。」と小さな声を出した。
 俊助は金口(きんぐち)を啣(くわ)えたまま、しばらくはただ黙然(もくねん)と辰子の姿を眺めていたが、やがてわざと軽い調子で、
「御安心なさい。あんたなんぞは失恋するような事はないから。その代り――」
 辰子はまた静に眼を挙げて俊助の眉の間を見た。
「その代り?」
「失恋させるかも知れません。」
 俊助は冗談のように云った言葉が、案外真面目(まじめ)な調子を帯びていたのに気がついた。と同時に真面目なだけ、それだけ厭味なのを恥しく思った。
「そんな事を。」
 辰子はすぐに眼を伏せたが、やがて俊助の方へ後(うしろ)を向けると、そっとピアノの蓋を開けて、まるで二人をとりまいた、薔薇(ばら)の□いのする沈黙を追い払おうとするように、二つ三つ鍵盤(けんばん)を打った。それは打つ指に力がないのか、いずれも音とは思われないほど、かすかな音を響かせたのに過ぎなかった。が、俊助はその音を聞くと共に、日頃彼の軽蔑(けいべつ)する感傷主義(センティメンタリズム)が、彼自身をもすんでの事に捕えようとしていたのを意識した。この意識は勿論彼にとって、危険の意識には相違なかった。けれども彼の心には、その危険を免(まぬか)れたと云う、満足らしいものはさらになかった。
 しばらくして初子(はつこ)が新田(にった)と一しょに、応接室へ姿を現した時、俊助はいつもより快活に、
「どうでした。初子さん。モデルになるような患者が見つかりましたか。」と声をかけた。
「ええ、御蔭様で。」
 初子は新田と俊助とに、等分の愛嬌(あいきょう)をふり撒(ま)きながら、
「ほんとうに私(わたし)ためになりましたわ。辰子さんもいらっしゃれば好(い)いのに。そりゃ可哀そうな人がいてよ。いつでも、御腹(おなか)に子供がいると思っているんですって。たった一人、隅の方へ坐って、子守唄(こもりうた)ばかり歌っているの。」

        二十九

 初子が辰子と話している間に、新田はちょいと俊助(しゅんすけ)の肩を叩くと、
「おい、君に一つ見せてやる物がある。」と云って、それから女たちの方へ向きながら、
「あなた方はここで、しばらく御休みになって下さい。今、御茶でも差上げますから。」
 俊助は新田の云う通り、おとなしくその後(あと)について、明るい応接室からうす暗い廊下(ろうか)へ出ると、今度はさっきと反対の方向にある、広い畳敷の病室へつれて行かれた。するとここにも向うと同じように、鼠(ねずみ)の棒縞を着た男の患者が、二十人近くもごろごろしていた。しかもそのまん中には、髪をまん中から分けた若い男が、口を開(あ)いて、涎(よだれ)を垂らして、両手を翼(つばさ)のように動かしながら、怪しげな踊を踊っていた。新田は俊助をひっぱって、遠慮なくその連中の間へはいって行ったが、やがて膝を抱いて坐っていた、一人の老人をつかまえると、
「どうだね。何か変った事はないかい。」と、もっともらしく問いかけた。
「ございますよ。何でも今月の末までには、また磐梯山(ばんだいさん)が破裂するそうで、――昨晩(さくばん)もその御相談に、神々が上野(うえの)へ御集りになったようでございました。」
 老人は目脂(めやに)だらけの眼を見張って、囁くようにこう云った。が、新田はその答には頓着(とんちゃく)する気色(けしき)もなく、俊助の方を振返って、
「どうだ。」と、嘲るような声を出した。
 俊助は微笑を洩したばかりで、何ともその「どうだ」には答えなかった。と、新田はまた一人、これはニッケルの眼鏡をかけた、癇(かん)の強そうな男の前へ行って、
「いよいよ講和条約の調印もすんだようだね。君もこれからは暇になるだろう。」
 が、その男は陰鬱な眼を挙げて、じろりと新田の顔を見ながら、
「とても暇にはなりませんよ。クレマンソオはどうしても、僕の辞職を聴許(ちょうきょ)してくれませんからね。」
 新田は俊助と顔を見合せたが、そこに漂っている微笑を認めると、また黙然(もくねん)と病室の隅へ歩を移して、さっきからじっと二人を見つめていた、品の好(い)い半白の男に声をかけた。
「どうした。まだ細君は帰って来ないかね。」
「それがですよ。妻(さい)の方じゃ帰りたがっているんですが、――」
 その患者(かんじゃ)はこう云いかけて、急に疑わしそうな眼を俊助へ向けると、気味の悪いほど真剣な調子になって、
「先生、あなたは大変な人を伴(つ)れて御出でなすった。こりゃあの評判の女たらしですぜ。私の妻(さい)をひっかけた――」
「そうか。じゃ早速僕から、警察へ引き渡してやろう。」
 新田は無造作(むぞうさ)に調子を合わすと、三度(みたび)俊助の方へ振り返って、
「君、この連中が死んだ後で、脳髄(のうずい)を出して見るとね、うす赤い皺の重なり合った上に、まるで卵の白味(しろみ)のような物が、ほんの指先ほど、かかっているんだよ。」
「そうかね。」
 俊助は依然として微笑をやめなかった。
「つまり磐梯山(ばんだいさん)の爆発も、クレマンソオへ出した辞職届も、女たらしの大学生も、皆その白味のような物から出て来るんだ、我々の思想や感情だって――まあ、他は推して知るべしだね。」
 新田は前後左右に蠢(うごめ)いている鼠の棒縞を見廻しながら、誰にと云う事もなく、喧嘩を吹きかけるような手真似をした。

        三十

 初子(はつこ)と辰子(たつこ)とを載せた上野行(うえのゆき)の電車は、半面に春の夕日を帯びて、静に停留場(ていりゅうば)から動き出した。俊助(しゅんすけ)はちょいと角帽(かくぼう)をとって、窓の内の吊皮(つりかわ)にすがっている二人の女に会釈(えしゃく)をした。女は二人とも微笑していた。が、殊に辰子の眼は、微笑の中(うち)にも憂鬱な光を湛えて、じっと彼の顔に注がれているような心もちがした。彼の心には刹那(せつな)の間、あの古ぼけた教室の玄関に、雨止(あまや)みを待っていた彼女の姿が、稲妻(いなずま)のように閃いた。と思うと、電車はもう速力を早めて、窓の内の二人の姿も、見る見る彼の眼界を離れてしまった。
 その後を見送った俊助は、まだ一種の興奮が心に燃えているのを意識していた。彼はこのまま、本郷行(ほんごうゆき)の電車へ乗って、索漠(さくばく)たる下宿の二階へ帰って行くのに忍びなかった。そこで彼は夕日の中を、本郷とは全く反対な方向へ、好い加減にぶらぶら歩き出した。賑かな往来は日暮(ひぐれ)が近づくのに従って、一層人通りが多かった。のみならず、飾窓(ショウウインドウ)の中にも、アスファルトの上にも、あるいはまた並木の梢(こずえ)にも、至る所に春めいた空気が動いていた。それは現在の彼の気もちを直下(じきげ)に放出したような外界だった。だから町を歩いて行く彼の心には、夕日の光を受けながら、しかも夕日の色に染まっていない、頭の上の空のような、微妙な喜びが流れていた。………
 その空が全く暗くなった頃、彼はその通りのある珈琲店(カッフェ)で、食後の林檎(りんご)を剥(む)いていた。彼の前には硝子(ガラス)の一輪挿しに、百合(ゆり)の造花が挿してあった。彼の後では自働ピアノが、しっきりなくカルメンを鳴らしていた。彼の左右には幾組もの客が、白い大理石の卓子(テエブル)を囲みながら、綺麗(きれい)に化粧した給仕女と盛に饒舌(しゃべ)ったり笑ったりしていた。彼はこう云う周囲に身を置きながら、癲狂院(てんきょういん)の応接室を領していた、懶(ものう)い午後の沈黙を思った。室咲(むろざ)きの薔薇(ばら)、窓からさす日の光、かすかなピアノの響、伏目になった辰子の姿――ポオト・ワインに暖められた心には、そう云う快い所が、代る代る浮んだり消えたりした。が、やがて給仕女が一人、紅茶を持って来たのに気がついて、何気(なにげ)なく眼を林檎から離すと、ちょうど入口の硝子戸が開(あ)いた所で、しかもその入口には、黒いマントを着た大井篤夫(おおいあつお)が、燈火(ともしび)の多い外の夜から、のっそりはいって来る所だった。
「おい。」
 俊助は思わず声をかけた。と、大井は驚いた視線を挙げて、煙草の煙の立ちこめている珈琲店(カッフェ)の中を見廻したが、すぐに俊助の顔を見つけると、
「やあ、妙な所へ来ているな。」と云いながら、彼の卓子(テエブル)の向うへ歩み寄って、マントも脱がずに腰を下した。
「君こそ妙な所が御馴染(おなじみ)じゃないか。」
 俊助はこう冷評(ひやか)しながら、大井に愛想(あいそ)を売っている給仕女を一瞥(いちべつ)した。
「僕はボヘミヤンだ。君のようなエピキュリアンじゃない。到る処の珈琲店(カッフェ)、酒場(バア)、ないしは下(くだ)って縄暖簾(なわのれん)の類(たぐい)まで、ことごとく僕の御馴染(おなじみ)なんだ。」
 大井はもうどこかで一杯やって来たと見えて、まっ赤に顔を火照(ほて)らせながら、こんな下らない気焔を挙げた。

        三十一

「但し御馴染(おなじみ)だって、借のある所にゃ近づかないがね。」
 大井(おおい)は急に調子を下げて、嘲笑(あざわら)うような表情をしたが、やがて帳場机の方へ半身を□(ね)じ向けると、
「おい、ウイスキイを一杯。」と、横柄(おうへい)な声で命令した。
「じゃ、至る所、近づけなかないか。」
「莫迦(ばか)にするな。こう見えたって――少くとも、この家(うち)へは来ているじゃないか。」
 この時給仕女の中でも、一番背の低い、一番子供らしいのがウイスキイのコップを西洋盆(サルヴァ)へ載せて、大事そうに二人の所へ持って来た。それは括(くく)り頤(あご)の、眼の大きい、白粉(おしろい)の下に琥珀色(こはくいろ)の皮膚(ひふ)が透(す)いて見える、健康そうな娘だった。俊助(しゅんすけ)はその給仕女がそっと大井の顔へ親しみのある眼(ま)なざしを送りながら、盛りこぼれそうなウイスキイのコップを卓子(テエブル)の上へ移した時、二三日前に郁文堂(いくぶんどう)であの土耳其帽(トルコぼう)の藤沢(ふじさわ)が話して聞かせた、最近の大井の情事なるものを思い出さずにはいられなかった。と、果して大井も臆面(おくめん)なく、その給仕女の方へまっ赤になった顔を向けると、
「そんなにすますなよ。僕が来て嬉しかったら、遠慮なく嬉しそうな顔をするが好いぜ。こりゃ僕の親友でね、安田(やすだ)と云う貴族なんだ。もっとも貴族と云ったって、爵位なんぞがある訳じゃない。ただ僕よりゃ少し金があるだけの違いなんだ。――僕の未来の細君、お藤(ふじ)さん。ここの家じゃ、まず第一の美人だね。もし今度また君が来たら、この人にゃ特別に沢山ティップを置いて行ってくれ。」
 俊助は煙草に火をつけながら、微笑するよりほかはなかった。が、娘はこの種類の女には珍しい、純粋な羞恥(しゅうち)の血を頬に上らせながら、まるで弟にでも対するように、ちょいと大井を睨(ね)めると、そのまま派手な銘仙(めいせん)の袂(たもと)を飜(ひるがえ)して、□々(そうそう)帳場机の方へ逃げて行ってしまった。大井はその後姿(うしろすがた)を目送しながら、わざとらしく大きな声で笑い出したが、すぐに卓子(テエブル)の上のウイスキイをぐいとやって、
「どうだ。美人だろう。」と、冗談のように俊助の賛同を求めた。
「うん、素直そうな好い女だ。」
「いかん、いかん。僕の云っているのは、お藤(ふじ)の――お藤さんの肉体的の美しさの事だ。素直そうななんぞと云う、精神的の美しさじゃない。そんな物は大井篤夫(おおいあつお)にとって、あってもなくっても同じ事だ。」
 俊助は相手にならないで、埃及(エジプト)の煙ばかり鼻から出していた。すると大井は卓子(テエブル)越しに手をのばして、俊助の鼈甲(べっこう)の巻煙草入から金口(きんぐち)を一本抜きとりながら、
「君のような都会人は、ああ云う種類の美に盲目(もうもく)だからいかん。」と、妙な所へ攻撃の火の手を上げ始めた。
「そりゃ君ほど烱眼(けいがん)じゃないが。」
「冗談じゃないぜ。君ほど烱眼じゃないなんぞとは、僕の方で云いたいくらいだ。藤沢のやつは、僕の事を、何ぞと云うとドン・ジュアン呼ばわりをするが、近来は君の方へすっかり御株を取られた形があらあね。どうした。いつかの両美人は?」
 俊助は何を措(お)いても、この場合この話題が避けたかった。そこで彼は大井の言葉がまるで耳へはいらないように、また談柄(だんぺい)をお藤さんなる給仕女の方へ持って行った。

        三十二

「幾つだ、あのお藤(ふじ)さんと云うのは?」
「行年(ぎょうねん)十八、寅の八白(はっぱく)だ。」
 大井(おおい)はまた新に註文したウイスキイをひっかけながら、高々と椅子(いす)の上へあぐらをかいて、
「年まわりから云や、あんまり素直でもなさそうだが、――まあ、そんな事はどうでも好い、素直だろうが、素直でなかろうが、どうせ女の事だから、退屈な人間にゃ相違なかろう。」
「ひどく女を軽蔑(けいべつ)するな。」
「じゃ君は尊敬しているか。」
 俊助(しゅんすけ)は今度も微笑の中(うち)に、韜晦(とうかい)するよりほかはなかった。と、大井は三杯目のウイスキイを前に置いて、金口の煙を相手へ吹きかけながら、
「女なんてものは退屈だぜ。上(かみ)は自動車へ乗っているのから下(しも)は十二階下に巣を食っているのまで、突っくるめて見た所が、まあ精々十種類くらいしかないんだからな。嘘だと思ったら、二年でも三年でも、滅茶滅茶に道楽をして見るが好(い)い。すぐに女の種類が尽きて、面白くも何ともなくなっちまうから。」
「じゃ君も面白くない方か。」
「面白くない方か? 冗談(じょうだん)だろう。――いや、皮肉なら皮肉でも好い。面白くないと云っている僕が、やっぱりこうやって女ばかり追っかけている。それが君にゃ莫迦(ばか)げて見えるんだろう。だがね、面白くないと云うのも本当なんだ。同時にまた面白いと云うのも本当なんだ。」
 大井は四杯目のウイスキイを命じた頃から、次第に平常の傲岸(ごうがん)な態度がなくなって、酔を帯びた眼の中にも、涙ぐんでいるような光が加わって来た。勿論俊助はこう云う相手の変化を、好奇心に富んだ眼で眺めていた。が、大井は俊助の思わくなぞにはさらに頓着しない容子(ようす)で、五杯六杯と続けさまにウイスキイを煽(あお)りながら、ますます熱心な調子になって、
「面白いと云うのはね、女でも追っかけていなけりゃ、それこそつまらなくってたまらないからなんだ。が、追っかけて見た所で、これまた面白くも何ともありゃしない。じゃどうすれば好いんだと君は云うだろう。じゃどうすれば好いんだと――それがわかっているぐらいなら、僕もこんなに寂しい思いなんぞしなくってもすむ。僕は始終僕自身にそう云っているんだ。じゃどうすれば好いんだと。」
 俊助は少し持て余しながら、冗談のように相手を和(やわら)げにかかった。
「惚(ほ)れられるさ。そうすりゃ、少しは面白いだろう。」
 が、大井は反(かえ)って真面目な表情を眼にも眉にも動かしながら、大理石の卓子(テエブル)を拳骨(げんこつ)で一つどんと叩くと、
「所がだ。惚れられるまでは、まだ退屈でも我慢がなるが、惚れられたとなったら、もう万事休すだ。征服の興味はなくなってしまう。好奇心もそれ以上は働きようがない。後(あと)に残るのはただ、恐るべき退屈中の退屈だけだ。しかも女と云うやつは、ある程度まで関係が進歩すると、必ず男に惚れてしまうんだから始末が悪い。」
 俊助は思わず大井の熱心さに釣りこまれた。
「じゃどうすれば好いんだ?」
「だからさ。だからどうすれば好いんだと僕も云っていたんだ。」
 大井はこう云いながら、殺気立った眉をひそめて、七八杯目のウイスキイをまずそうにぐいと飲み干した。

        三十三

 俊助(しゅんすけ)はしばらく口を噤(つぐ)んで、大井(おおい)の指にある金口(きんぐち)がぶるぶる震えるのを眺めていた。と、大井はその金口を灰皿の中へ抛りこんで、いきなり卓子(テエブル)越しに俊助の手をつかまえると、
「おい。」と、切迫した声を出した。
 俊助は返事をする代りに、驚いた眼を挙げて、ちょいと大井の顔を見た。
「おい、君はまだ覚えているだろう、僕があの七時の急行の窓で、女の見送り人に手巾(ハンケチ)を振っていた事があるのを。」
「勿論覚えている。」
「じゃ聞いてくれ。僕はあの女とこの間まで同棲していたんだ。」
 俊助は好奇心が動くと共に、もう好い加減にアルコオル性の感傷主義(センティメンタリズム)は御免を蒙りたいと云う気にもなった。のみならず、周囲の卓子(テエブル)を囲んでいる連中が、さっきからこちらへ迂散(うさん)らしい視線を送っているのも不快だった。そこで彼は大井の言葉には曖昧(あいまい)な返事を与えながら、帳場の側に立っているお藤(ふじ)に、「来い」と云う相図(あいず)をして見せた。が、お藤がそこを離れない内に、最初彼の食事の給仕をした女が、急いで卓子(テエブル)の前へやって来た。
「勘定(かんじょう)をしてくれ。この方(かた)の分も一しょだ。」
 すると大井は俊助の手を離して、やはり眼に涙を湛えたまま、しげしげと彼の顔を眺めたが、
「おい、おい、勘定を払ってくれなんていつ云った? 僕はただ、聞いてくれと云ったんだぜ。聞いてくれりゃ好し、聞いてくれなけりゃ――そうだ。聞いてくれなけりゃ、さっさと帰ったら好いじゃないか。」
 俊助は勘定をすませると、新に火をつけた煙草を啣(くわ)えながら、劬(いたわ)るような微笑を大井に見せて、
「聞くよ。聞くが、ね、我々のように長く坐りこんじゃ、ここの家(うち)も迷惑だろう。だから一まず外へ出た上で、聞く事にしようじゃないか。」
 大井はやっと納得(なっとく)した。が、卓子(テエブル)を離れるとなると、彼は口が達者なのとは反対に、頗(すこぶ)る足元が蹣跚(まんさん)としていた。
「好いか。おい。危いぜ。」
「冗談云っちゃいけない。高がウイスキイの十杯や十五杯――」
 俊助は大井の手をとらないばかりにして、入口の硝子戸(ガラスど)の方へ歩き出した。と、そこにはもうお藤(ふじ)が、大きく硝子戸を開(あ)けながら、心配そうな眼を見張って、二人の出て来るのを待ち受けていた。彼女はそこの天井から下っている支那燈籠(しなどうろう)の光を浴びて、最前(さいぜん)よりはさらに子供らしく、それだけ俊助にはさらに美しく見えた。が、大井はまるでお藤の存在には気がつかなかったものと見えて、逞(たくまし)い俊助の手に背中を抱えられながら、口一つ利(き)かずにその前を通りすぎた。
「難有(ありがと)うございます。」
 大井の後(あと)から外へ出た俊助には、こう云うお藤の言葉の中に、彼の大井に対する厚情を感謝しているような響が感じられた。彼はお藤の方を振り返って、その感謝に答うべき微笑を送る事を吝(おし)まなかった。お藤は彼等が往来へ出てしまってからも、しばらくは明(あかる)い硝子戸の前に佇(たたず)みながら、白い前掛(エプロン)の胸へ両手を合せて、次第に遠くなって行く二人の後姿を、懐しそうにじっと見守っていた。

        三十四

 大井(おおい)は角帽の庇(ひさし)の下に、鈴懸(すずかけ)の並木を照らしている街燈の光を受けるが早いか、俊助(しゅんすけ)の腕へすがるようにして、
「じゃ聞いてくれ。迷惑だろうが、聞いてくれ。」と、執念(しゅうね)くさっきの話を続け出した。
 俊助も今度は約束した手前、一時を糊塗(こと)する訳にも行かなかった。
「あの女は看護婦でね、僕が去年の春扁桃腺(へんとうせん)を煩(わずら)った時に――まあ、そんな事はどうでも好い、とにかく僕とあの女とは、去年の春以来の関係なんだ。それが君、どうして別れるようになったと思う? 単にあの女が僕に惚れたからなんだ。と云うよりゃ偶然の機会で、惚れていると云う事を僕に見せてしまったからなんだ。」
 俊助は絶えず大井の足元を顧慮しながら、街燈の下を通りすぎる毎に、長くなったり短くなったりする彼等の影を、アスファルトの上に踏んで行った。そうしてややもすると散漫になり勝ちな注意を、相手の話へ集中させるのに忙しかった。
「と云ったって、何も大したいきさつがあった訳でも何でもない。ただ、あいつが僕の所へ来た手紙の事で、嫉妬(やきもち)を焼いただけの事なんだ。が、その時僕はあの女の腹の底まで見えたような気がして、一度に嫌気(いやき)がさしてしまったじゃないか。するとあいつは嫉妬を焼いたと云う、その事だけが悪いんだと思ったもんだから、――いや、これも余談だった。僕が君に話したいのは、その僕の所へ来た手紙と云うやつなんだがね。」
 大井はこう云って、酒臭(さけくさ)い息を吐きながら、俊助の顔を覗(のぞ)くようにした。
「その手紙の差出人は、女名前じゃあったけれど、実は僕自身なんだ。驚くだろう。僕だって、自分で驚いているんだから、君が驚くのはちっとも不思議はない。じゃ何故(なぜ)僕はそんな手紙を書いたんだ? あの女が嫉妬を焼くかどうか、それが知りたかったからさ。」
 さすがにこの時は俊助も、何か得体の知れない物にぶつかったような心もちがした。
「妙な男だな。」
「妙だろう。あいつが僕に惚れている事がわかりゃ、あいつが嫌(いや)になると云う事は、僕は百も承知しているんだ。そうしてあいつが嫌になった暁(あかつき)にゃ、余計世の中が退屈になると云う事も知っているんだ。しかも僕は、その時に、九分九厘まではあの女が嫉妬を焼く事を知っていたんだぜ。それでいて、手紙を書いたんだ。書かなけりゃいられなかったんだ。」
「妙な男だな。」
 俊助は目まぐるしい人通りの中に、足元(あしもと)の怪しい大井をかばいながら、もう一度こう繰返した。
「だから僕の場合はこうなんだ。――女が嫌になりたいために女に惚れる。より退屈になりたいために退屈な事をする。その癖僕は心の底で、ちっとも女が嫌になりたくはないんだ。ちっとも退屈でいたくはないんだ。だから君、悲惨(ひさん)じゃないか。悲惨だろう。この上仕方のない事はないだろう。」
 大井はいよいよ酔が発したと見えて、声さえ感動に堪えないごとく涙ぐむようになって来た。

        三十五

 その内に二人は、本郷行(ほんごうゆき)の電車に乗るべき、ある賑(にぎやか)な四つ辻へ来た。そこには無数の燈火(ともしび)が暗い空を炙(あぶ)った下に、電車、自動車、人力車(じんりきしゃ)の流れが、絶えず四方から押し寄せていた。俊助(しゅんすけ)は生酔(なまよい)の大井(おおい)を連れてこの四つ辻を向うへ突切るには、そう云う周囲の雑沓(ざっとう)と、険呑(けんのん)な相手の足元とへ、同時に気を配らなければならなかった。
 所がやっと向うへ辿(たど)りつくと、大井は俊助の心配には頓着なく、すぐにその通りにあるビヤホオルの看板を見つけて、
「おい、君、もう一杯ここでやって行こう。」と、海老茶(えびちゃ)色をした入口の垂幕(たれまく)を、無造作(むぞうさ)に開いてはいろうとした。
「よせよ。そのくらい御機嫌なら、もう大抵沢山じゃないか。」
「まあ、そんな事を云わずにつき合ってくれ。今度は僕が奢(おご)るから。」
 俊助はこの上大井の酒の相手になって、彼の特色ある恋愛談を傾聴するには、余りにポオト・ワインの酔(よい)が醒めすぎていた。そこで今まで抑えていたマントの背中を離しながら、
「じゃ、君一人で飲んで行くさ。僕はいくら奢(おご)られても真平(まっぴら)だ。」
「そうか。じゃ仕方がない。僕はまだ君に聞いて貰いたい事が残っているんだが――」
 大井は海老茶色の幕へ手をかけたまま、ふらつく足を踏みしめて、しばらく沈吟(ちんぎん)していたが、やがて俊助の鼻の先へ酒臭い顔を持って来ると、
「君は僕がどうしてあの晩、国府津(こうづ)なんぞへ行ったんだか知らないだろう。ありゃね、嫌(いや)になった女に別れるための方便なんだ。」
 俊助は外套の隠しへ両手を入れて、呆(あき)れた顔をしながら、大井と眼を見合せた。
「へええ、どうして?」
「どうしてったって、――まず僕が是非とも国へ帰らなければならないような理由を書き下(おろ)してさ。それから女と泣き別れの愁歎場(しゅうたんば)がよろしくあって、とどあの晩汽車の窓で手巾(ハンケチ)を振ると云うのが大詰(おおづめ)だったんだ。何しろ役者が役者だから、あいつは今でも僕が国へ帰っていると思っているんだろう。時々国の僕へ宛てたあいつの手紙が、こっちの下宿へ転送されて来るからね。」
 大井はこう云って、自(みずか)ら嘲るように微笑しながら、大きな掌(てのひら)を俊助の肩へかけて、
「僕だってそんな化(ばけ)の皮が、永久に剥(は)げないとは思っていない。が、剥げるまでは、その化の皮を大事にかぶっていたいんだ。この心もちは君に通じないだろうな。通じなけりゃ――まあ、それまでだが、つまり僕は嫌になった女に別れるんでも、出来るだけ向うを苦しめたくないんだ。出来るだけ――いくら嘘をついてもだね。と云って、何もその場合まで好(い)い子になりたいと云うんじゃない。向うのために、女のために、そうしてやるべき一種の義務が存在するような気がするんだ。君は矛盾(むじゅん)だと思うだろう。矛盾もまた甚しいと思うだろう。だろうが、僕はそう云う人間なんだ。それだけはどうか呑み込んで置いてくれ。――じゃ失敬しよう。わが親愛なる安田俊助(やすだしゅんすけ)。」
 大井は妙な手つきをして、俊助の肩を叩いたと思うと、その手に海老茶色の垂幕を挙げて、よろよろビヤホオルの中へはいってしまった。
「妙な男だな。」
 俊助は軽蔑とも同情とも判然しない一種の感情に動かされながら三度(みたび)こう呟いて、クラブ洗粉(あらいこ)の広告電燈が目まぐるしく明滅する下を、静に赤い停留場(ていりゅうば)の柱の方へ歩き出した。

        三十六

 下宿へ帰って来た俊助(しゅんすけ)は、制服を和服に着換(きかえ)ると、まず青い蓋(かさ)をかけた卓上電燈の光の下で、留守中(るすちゅう)に届いていた郵便へ眼を通した。その一つは野村(のむら)の手紙で、もう一つは帯封に乞(こう)高評(こうひょう)の判がある『城』の今月号だった。
 俊助は野村の手紙を披(ひら)いた時、その半切(はんきれ)を埋(うず)めているものは、多分父親の三回忌に関係した、家事上の紛紜(ふんうん)か何かだろうと云う、朧(おぼろ)げな予期を持っていた。ところがいくら読んで行っても、そう云う実際方面の消息はほとんど一句も見当らなかった。その代り郷土の自然だの生活だのの叙述が、到る所に美しい詠歎的な文字を並べていた。磯山(いそやま)の若葉の上には、もう夏らしい海雲(かいうん)が簇々(ぞくぞく)と空に去来していると云う事、その雲の下に干してある珊瑚採取(さんごさいしゅ)の絹糸の網が、眩(まばゆ)く日に光っていると云う事、自分もいつか叔父の持ち船にでも乗せて貰って、深海の底から珊瑚の枝を曳き上げたいと思っていると云う事――すべてが哲学者と云うよりは、むしろ詩人にふさわしい熱情の表現とも云わるべき性質のものだった。
 俊助にはこの絢爛(けんらん)たる文句の中に、現在の野村の心もちが髣髴出来るように感ぜられた。それは初子(はつこ)に対する純粋な愛が遍照(へんしょう)している心もちだった。そこには優しい喜びがあった。あるいはかすかな吐息(といき)があった。あるいはまたややもすれば流れようとする涙があった。だからその心もちを通過する限り、野村の眼に映じた自然や生活は、いずれも彼自身の愛の円光に、虹のごとき光彩を与えられていた。若葉も、海も、珊瑚採取も、ことごとくの意味においては、地上の実在を超越した一種の天啓にほかならなかった。従って彼の長い手紙も、その素朴な愛の幸福に同情出来るもののみが、始めて意味を解すべき黙示録(アポカリプス)のようなものだった。
 俊助は微笑と共に、野村の手紙を巻きおさめて、今度は『城』の封を切った。表紙にはビアズリイのタンホイゼルの画が刷(す)ってあって、その上に l'art pour l'art と、細い朱文字(しゅもじ)で入れた銘があった。目次を見ると、藤沢の「鳶色(とびいろ)の薔薇(ばら)」と云う抒情詩的の戯曲を筆頭に、近藤のロップス論とか、花房(はなぶさ)のアナクレオンの飜訳とか、いろいろな表題が行列していた。俊助ははなはだ同情のない眼で、しばらくそれらの表題を見廻していたが、やがて「倦怠(けんたい)」――大井篤夫(おおいあつお)と云う一行の文字にぶつかると、急にさっきの大井の姿が鮮かに記憶に浮んで来たので、早速その小説が載っている巻末の頁をはぐって見た。と、それは三人称でこそ書いてはあるが、実は今夜聞いた大井の告白を、そのまま活字にしたような小説だった。
 俊助はわずか十分ばかりの間に、造作なく「倦怠」を読み終るとまた野村の手紙をひろげて見て、その達筆な行(ぎょう)の上へ今更のように怪訝(かいが)の眼を落した。この手紙の中に磅□(ほうはく)している野村の愛と、あの小説の中にぶちまけてある大井の愛と――一人の初子に天国を見ている野村と、多くの女に地獄(じごく)を見ている大井と――それらの間にある大きな懸隔は、一体どこから生じたのだろう。いや、それよりも二人の愛は、どちらが本当の愛なのだろう。野村の愛が幻か。大井の愛が利己心か。それとも両方がそれぞれの意味で、やはり為(いつわり)のない愛だろうか。そうして彼自身の辰子に対する愛は?
 俊助は青い蓋(かさ)をかけた卓上電燈の光の下に、野村の手紙と大井の小説とを並べたまま、しばらくは両腕を胸に組んで、じっと西洋机(デスク)の前へ坐っていた。
(以上を以て「路上」の前篇を終るものとす。後篇は他日を期する事とすべし。)
(大正八年七月)



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