お律と子等と
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著者名:芥川竜之介 

 姉は父の方へ向き直ると、突然険しい目つきを見せた。
「あの時はお前も簪(かんざし)だの櫛(くし)だの買って貰ったじゃないか?」
「ええ、買って貰いました。買って貰っちゃいけないんですか?」
 姉は頭へ手をやったと思うと、白い菊の花簪(はなかんざし)をいきなり畳の上へ抛(ほう)り出した。
「何だ、こんな簪ぐらい。」
 父もさすがに苦い顔をした。
「莫迦(ばか)な事をするな。」
「どうせ私は莫迦ですよ。慎ちゃんのような利口じゃありません。私のお母さんは莫迦だったんですから、――」
 慎太郎は蒼(あお)い顔をしたまま、このいさかいを眺めていた。が、姉がこう泣き声を張り上げると、彼は黙って畳の上の花簪を掴(つか)むが早いか、びりびりその花びらをむしり始めた。
「何をするのよ。慎ちゃん。」
 姉はほとんど気違いのように、彼の手もとへむしゃぶりついた。
「こんな簪なんぞ入らないって云ったじゃないか? 入らなけりゃどうしたってかまわないじゃないか? 何だい、女の癖に、――喧嘩ならいつでも向って来い。――」
 いつか泣いていた慎太郎は、菊の花びらが皆なくなるまで、剛情に姉と一本の花簪を奪い合った。しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらい鮮(あざやか)に映(うつ)っているような気がしながら。――
 慎太郎はふと耳を澄(すま)せた。誰かが音のしないように、暗い梯子(はしご)を上(あが)って来る。――と思うと美津(みつ)が上り口から、そっとこちらへ声をかけた。
「旦那様(だんなさま)」
 眠っていると思った賢造は、すぐに枕から頭を擡(もた)げた。
「何だい?」
「お上(かみ)さんが何か御用でございます。」
 美津の声は震えていた。
「よし、今行く。」
 父が二階を下りて行った後(のち)、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中(いえじゅう)の物音にでも聞き入るように、じっと体を硬(こわ)ばらせていた。すると何故(なぜ)かその間に、現在の気もちとは縁の遠い、こう云う平和な思い出が、はっきり頭へ浮んで来た。
 ――これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷中(やなか)の墓地へ墓参りに行った。墓地の松や生垣(いけがき)の中には、辛夷(こぶし)の花が白らんでいる、天気の好(い)い日曜の午(ひる)過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜(おじぎ)をしただけだった。
「それでもう好いの?」
 母は水を手向(たむ)けながら、彼の方へ微笑を送った。
「うん。」
 彼は顔を知らない父に、漠然とした親しみを感じていた。が、この憐(あわれ)な石塔には、何の感情も起らないのだった。
 母はそれから墓の前に、しばらく手を合せていた。するとどこかその近所に、空気銃を打ったらしい音が聞えた。慎太郎は母を後に残して、音のした方へ出かけて行った。生垣(いけがき)を一つ大廻りに廻ると、路幅の狭い往来へ出る、――そこに彼よりも大きな子供が弟らしい二人と一しょに、空気銃を片手に下げたなり、何の木か木(こ)の芽の煙った梢(こずえ)を残惜(のこりお)しそうに見上げていた。――
 その時また彼の耳には、誰かの梯子(はしご)を上って来る音がみしりみしり聞え出した。急に不安になった彼は半ば床(とこ)から身を起すと、
「誰?」と上り口へ声をかけた。
「起きていたのか?」
 声の持ち主は賢造だった。
「どうかしたんですか?」
「今お母さんが用だって云うからね、ちょいと下へ行って来たんだ。」
 父は沈んだ声を出しながら、もとの蒲団(ふとん)の上へ横になった。
「用って、悪いんじゃないんですか?」
「何、用って云った所が、ただ明日(あした)工場(こうば)へ行くんなら、箪笥(たんす)の上の抽斗(ひきだし)に単衣物(ひとえもの)があるって云うだけなんだ。」
 慎太郎は母を憐んだ。それは母と云うよりも母の中の妻を憐んだのだった。
「しかしどうもむずかしいね。今なんぞも行って見ると、やっぱり随分苦しいらしいよ。おまけに頭も痛いとか云ってね、始終首を動かしているんだ。」
「戸沢さんにまた注射でもして貰っちゃどうでしょう?」
「注射はそう度々は出来ないんだそうだから、――どうせいけなけりゃいけないまでも、苦しみだけはもう少し楽にしてやりたいと思うがね。」
 賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺めるらしかった。
「お前のお母さんなんぞは後生(ごしょう)も好い方だし、――どうしてああ苦しむかね。」
 二人はしばらく黙っていた。
「みんなまだ起きていますか?」
 慎太郎は父と向き合ったまま、黙っているのが苦しくなった。
「叔母さんは寝ている。が、寝られるかどうだか、――」
 父はこう云いかけると、急にまた枕から頭を擡(もた)げて、耳を澄ますようなけはいをさせた。
「お父さん。お母さんがちょいと、――」
 今度は梯子(はしご)の中段から、お絹(きぬ)が忍びやかに声をかけた。
「今行くよ。」
「僕も起きます。」
 慎太郎は掻巻(かいま)きを刎(は)ねのけた。
「お前は起きなくっても好いよ。何かありゃすぐに呼びに来るから。」
 父はさっさとお絹の後から、もう一度梯子を下りて行った。
 慎太郎は床(とこ)の上に、しばらくあぐらをかいていたが、やがて立ち上って電燈をともした。それからまた坐ったまま、電燈の眩(まぶ)しい光の中に、茫然(ぼうぜん)とあたりを眺め廻した。母が父を呼びによこすのは、用があるなしに関らず、実はただ父に床(とこ)の側へ来ていて貰いたいせいかも知れない。――そんな事もふと思われるのだった。
 すると字を書いた罫紙(けいし)が一枚、机の下に落ちているのが偶然彼の眼を捉えた。彼は何気(なにげ)なくそれを取り上げた。
「M子に献ず。……」
 後(あと)は洋一の歌になっていた。
 慎太郎はその罫紙を抛(ほう)り出すと、両手を頭の後(うしろ)に廻しながら、蒲団の上へ仰向(あおむ)けになった。そうして一瞬間、眼の涼しい美津の顔をありあり思い浮べた。…………

        七

 慎太郎(しんたろう)がふと眼をさますと、もう窓の戸の隙間も薄白くなった二階には、姉のお絹(きぬ)と賢造(けんぞう)とが何か小声に話していた。彼はすぐに飛び起きた。
「よし、よし、じゃお前は寝た方が好いよ。」
 賢造はお絹にこう云ったなり、忙(いそが)しそうに梯子(はしご)を下りて行った。
 窓の外では屋根瓦に、滝の落ちるような音がしていた。大降(おおぶ)りだな、――慎太郎はそう思いながら、早速(さっそく)寝間着を着換えにかかった。すると帯を解いていたお絹が、やや皮肉に彼へ声をかけた。
「慎ちゃん。お早う。」
「お早う、お母さんは?」
「昨夜(ゆうべ)はずっと苦しみ通し。――」
「寝られないの?」
「自分じゃよく寝たって云うんだけれど、何だか側で見ていたんじゃ、五分もほんとうに寝なかったようだわ。そうしちゃ妙な事云って、――私(わたし)夜中(よなか)に気味が悪くなってしまった。」
 もう着換えのすんだ慎太郎は、梯子の上り口に佇(たたず)んでいた。そこから見える台所のさきには、美津(みつ)が裾を端折(はしょ)ったまま、雑巾(ぞうきん)か何かかけている。――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮(しんちゅう)の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚(はばか)られるような心もちがした。
「妙な事ってどんな事を?」
「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」
「頭が少しどうかしているんだね。――今は?」
「今は戸沢(とざわ)さんが来ているわ。」
「早いな。」
 慎太郎は美津がいなくなってから、ゆっくり梯子を下りて行った。
 五分の後(のち)、彼が病室へ来て見ると、戸沢はちょうどジキタミンの注射をすませた所だった。母は枕もとの看護婦に、後(あと)の手当をして貰いながら、昨夜(ゆうべ)父が云った通り、絶えず白い括(くく)り枕の上に、櫛巻(くしま)きの頭を動かしていた。
「慎太郎が来たよ。」
 戸沢の側に坐っていた父は声高(こわだか)に母へそう云ってから、彼にちょいと目くばせをした。
 彼は父とは反対に、戸沢の向う側へ腰を下した。そこには洋一(よういち)が腕組みをしたまま、ぼんやり母の顔を見守っていた。
「手を握っておやり。」
 慎太郎は父の云いつけ通り、両手の掌(たなごころ)に母の手を抑えた。母の手は冷たい脂汗(あぶらあせ)に、気味悪くじっとり沾(しめ)っていた。
 母は彼の顔を見ると、頷(うなず)くような眼を見せたが、すぐにその眼を戸沢へやって、
「先生。もういけないんでしょう。手がしびれて来たようですから。」と云った。
「いや、そんな事はありません。もう二三日の辛棒(しんぼう)です。」
 戸沢は手を洗っていた。
「じきに楽になりますよ。――おお、いろいろな物が並んでいますな。」
 母の枕もとの盆の上には、大神宮や氏神(うじがみ)の御札(おふだ)が、柴又(しばまた)の帝釈(たいしゃく)の御影(みえい)なぞと一しょに、並べ切れないほど並べてある。――母は上眼(うわめ)にその盆を見ながら、喘(あえ)ぐように切れ切れな返事をした。
「昨夜(ゆうべ)、あんまり、苦しかったものですから、――それでも今朝(けさ)は、お肚(なか)の痛みだけは、ずっと楽になりました。――」
 父は小声に看護婦へ云った。
「少し舌がつれるようですね。」
「口が御粘(ねば)りになるんでしょう。――これで水をさし上げて下さい。」
 慎太郎は看護婦の手から、水に浸(ひた)した筆を受け取って、二三度母の口をしめした。母は筆に舌を搦(から)んで、乏しい水を吸うようにした。
「じゃまた上りますからね、御心配な事はちっともありませんよ。」
 戸沢は鞄(かばん)の始末をすると、母の方へこう大声に云った。それから看護婦を見返りながら、
「じゃ十時頃にも一度、残りを注射して上げて下さい。」と云った。
 看護婦は口の内で返事をしたぎり、何か不服そうな顔をしていた。
 慎太郎と父とは病室の外へ、戸沢の帰るのを送って行った。次の間(ま)には今朝も叔母が一人気抜けがしたように坐っている、――戸沢はその前を通る時、叮嚀(ていねい)な叔母の挨拶に無造作(むぞうさ)な目礼を返しながら、後(あと)に従った慎太郎へ、
「どうです? 受験準備は。」と話しかけた。が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。
「こりゃどうも、――弟さんだとばかり思ったもんですから、――」
 慎太郎も苦笑した。
「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。やはり宅の忰(せがれ)なんぞが受験準備をしているせいですな。――」
 戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。
 医者が雨の中を帰った後(のち)、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側に、洋一(よういち)が巻煙草を啣(くわ)えていた。
「眠いだろう?」
 慎太郎はしゃがむように、長火鉢の縁(ふち)へ膝(ひざ)を当てた。
「姉さんはもう寝ているぜ。お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」
「うん、――昨夜(ゆうべ)夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」
 洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ抛(ほう)りこんだ。
「でもお母さんが唸(うな)らなくなったから好いや。」
「ちっとは楽になったと見えるねえ。」
 叔母は母の懐炉(かいろ)に入れる懐炉灰を焼きつけていた。
「四時までは苦しかったようですがね。」
 そこへ松が台所から、銀杏返(いちょうがえ)しのほつれた顔を出した。
「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」
「はい、はい、今行きます。」
 叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。
「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」
 叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸(あくび)を噛み殺しながら、やっと重い腰を擡(もた)げた。
「僕も一寝入りして来るかな。」
 慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――それだけが頭に拡がっていた。
 すると突然次の間(ま)から、慌(あわただ)しく看護婦が駆けこんで来た。
「どなたかいらしって下さいましよ。どなたか、――」
 慎太郎は咄嗟(とっさ)に身を起すと、もう次の瞬間には、隣の座敷へ飛びこんでいた。そうして逞(たくま)しい両腕に、しっかりお律(りつ)を抱き上げていた。
「お母さん。お母さん。」
 母は彼に抱かれたまま、二三度体を震(ふる)わせた。それから青黒い液体を吐いた。
「お母さん。」
 誰もまだそこへ来ない何秒かの間(あいだ)、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、食い入るような眼を注いでいた。
(大正九年十月二十三日)



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