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著者名:芥川竜之介 

「お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨夜(ゆうべ)でおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家(うち)へ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。」
「そう、私(わたし)どっちでも好いわ。」
 お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕(とら)えたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。と同時にまたお君さんの眼にはまるで「不如帰(ほととぎす)」を読んだ時のような、感動の涙が浮んできた。この感動の涙を透(とお)して見た、小川町、淡路町(あわじちょう)、須田町の往来が、いかに美しかったかは問うを待たない。歳暮(せいぼ)大売出しの楽隊の音、目まぐるしい仁丹(じんたん)の広告電燈、クリスマスを祝う杉の葉の飾(かざり)、蜘蛛手(くもで)に張った万国国旗、飾窓(かざりまど)の中のサンタ・クロス、露店に並んだ絵葉書(えはがき)や日暦(ひごよみ)――すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦(きら)びやかに続いているかと思われる。今夜に限って天上の星の光も冷たくない。時々吹きつける埃風(ほこりかぜ)も、コオトの裾を巻くかと思うと、たちまち春が返ったような暖い空気に変ってしまう。幸福、幸福、幸福……
 その内にふとお君さんが気がつくと、二人(ふたり)はいつか横町(よこちょう)を曲ったと見えて、路幅の狭い町を歩いている。そうしてその町の右側に、一軒の小さな八百屋(やおや)があって、明(あかる)く瓦斯(ガス)の燃えた下に、大根、人参(にんじん)、漬(つ)け菜(な)、葱(ねぎ)、小蕪(こかぶ)、慈姑(くわい)、牛蒡(ごぼう)、八(や)つ頭(がしら)、小松菜(こまつな)、独活(うど)、蓮根(れんこん)、里芋、林檎(りんご)、蜜柑の類が堆(うずたか)く店に積み上げてある。その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍子(ひょうし)に、葱の山の中に立っている、竹に燭奴(つけぎ)を挟んだ札(ふだ)の上へ落ちた。札には墨黒々(すみくろぐろ)と下手(へた)な字で、「一束(ひとたば)四銭(よんせん)」と書いてある。あらゆる物価が暴騰した今日(こんにち)、一束四銭と云う葱は滅多にない。この至廉(しれん)な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から覚めた。間髪(かんはつ)を入れずとは正にこの謂(いい)である。薔薇(ばら)と指環と夜鶯(ナイチンゲエル)と三越(みつこし)の旗とは、刹那に眼底を払って消えてしまった。その代り間代(まだい)、米代、電燈代、炭代、肴代(さかなだい)、醤油代、新聞代、化粧代、電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰(あたか)も火取虫の火に集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群(むらが)って来る。お君さんは思わずその八百屋の前へ足を止めた。それから呆気(あっけ)にとられている田中君を一人後に残して、鮮(あざやか)な瓦斯(ガス)の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢(きゃしゃ)な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
「あれを二束(ふたたば)下さいな。」と云った。
 埃風(ほこりかぜ)の吹く往来には、黒い鍔広(つばびろ)の帽子(ぼうし)をかぶって、縞(しま)の荒い半オオヴァの襟を立てた田中君が、洋銀の握りのある細い杖をかいこみながら、孤影悄然(しょうぜん)として立っている。田中君の想像には、さっきからこの町のはずれにある、格子戸造(こうしどづくり)の家が浮んでいた。軒に松(まつ)の家(や)と云う電燈の出た、沓脱(くつぬ)ぎの石が濡れている、安普請(やすぶしん)らしい二階家である、が、こうした往来に立っていると、その小ぢんまりした二階家の影が、妙にだんだん薄くなってしまう。そうしてその後(あと)には徐(おもむろ)に一束四銭の札(ふだ)を打った葱(ねぎ)の山が浮んで来る。と思うとたちまち想像が破れて、一陣の埃風(ほこりかぜ)が過ぎると共に、実生活のごとく辛辣(しんらつ)な、眼に滲(し)むごとき葱の□(におい)が実際田中君の鼻を打った。
「御待ち遠さま。」
 憐むべき田中君は、世にも情無(なさけな)い眼つきをして、まるで別人でも見るように、じろじろお君さんの顔を眺めた。髪を綺麗にまん中から割って、忘れな草の簪(かんざし)をさした、鼻の少し上を向いているお君さんは、クリイム色の肩掛をちょいと顋(あご)でおさえたまま、片手に二束八銭の葱を下げて立っている。あの涼しい眼の中に嬉しそうな微笑を躍らせながら。

       ―――――――――――――――――――――――――

 とうとうどうにか書き上げたぞ。もう夜が明けるのも間はあるまい。外では寒そうな鶏(にわとり)の声がしているが、折角(せっかく)これを書き上げても、いやに気のふさぐのはどうしたものだ。お君さんはその晩何事もなく、またあの女髪結(おんなかみゆい)の二階へ帰って来たが、カッフェの女給仕をやめない限り、その後(ご)も田中君と二人で遊びに出る事がないとは云えまい。その時の事を考えると、――いや、その時はまたその時の事だ。おれが今いくら心配した所で、どうにもなる訳のものではない。まあこのままでペンを擱(お)こう。左様(さよう)なら。お君さん。では今夜もあの晩のように、ここからいそいそ出て行って、勇ましく――批評家に退治(たいじ)されて来給え。
(大正八年十二月十一日)



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