天津教古文書の批判
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著者名:狩野亨吉 

此等の文字は個性習慣によつて頑強性を保持し、他の文書にも現れることを餘儀なくされてゐるのを見るであらう。所謂頑強の第三例である。
 以上書體の考察を約言すれば、此書は素人の筆で、菱湖の風を受けてゐる所より推測して、天保以前に遡らしめることの出來ないものである。
 第三、内容に就いて吟味するに、時日、地理、人物、事件の順序で調査する。
 時日に關し、干支閏月等の記入には不都合はない。
 地理に關し、越中國皇祖皇太神宮の所在が問題とすべきであるが、之を決定するには意外の困難が豫想せられるので、暫く天津教の言分を立てる。併し後で判るが結局はこの穿鑿の必要は無いのである。次に河内國交野郡私市師々窟寺は師々を獅子として生きる。昔は龜山帝の御陵があると想はれた有名な寺である。百重原も其附近にあつて鴨長明の歌で顯れてゐる。
 人物に關しては、長慶天皇を除き奉り、外の登場者は五十六人共皆目分らない。併しながら竹内家郎黨の名前の一二字を變へると、近頃の相當聞えた人が顯れ出るのである。私の氣付いた二三を選んでみようならば、顯れ出る人は岩崎彌之助、岩槻禮次郎、黒田清隆、澁澤榮一、平田東助、淺野長勳、松崎藏之助或は松井庫之助、藤田小四郎等で、此中藤田小四郎だけが明治前の人である。選び手が變ると又人數が増すことになるであらう。今一事郎黨の名前に就いて目立つことを云へば、一條二條と順を追ひ、七條を除き中條を以て之に變へて第三番目に置き、八條迄の苗字に各□立派な名乘を附けて並列させた奇觀である。郎黨の名前を讀んで行けば何か知らん近頃の人が並んでゐる樣な氣がしてならず、應永頃の勢揃ひとしては受取り難い所がある。即ち人物の實在性に關しては多大の疑團が存ずるのであるが、其一人を證明するにも否定するにも、丁度皇祖皇太神宮所在地の場合と同じ樣な困難を感ずるのであるから、無駄な努力を止めて、次ぎの事項に移る。
 事件即ち史實に關しては確實な證據を擧げ得られることだけを述べる。此縁起には、長慶天皇は「敵の爲に元中九年閏十月十五日夜御壽四十九歳御崩百重原に葬」と記載されてゐる。長慶天皇の御事蹟に就いては中間種々の説もあつたが、今日は略□一定し、崩御に關しては大乘院日記目録に記載する所を正しいとされてゐる。之に由れば天皇は南北合一の後京都に還幸せられ大覺寺に御座し、應永元年八月一日聖壽五十二にて崩御せられてゐる。右大乘院日記目録は當時第一流の學者であつた一條兼良の子大僧正尋尊の記録したもので、天津教文書など出たところで對抗覺束ない。即ち此文書の長慶天皇に關する記事は虚妄である。しかし聞く所に由ると天津教では何事でも自分側の主張を正しいとすると云ふことで、甚だ始末に惡いのであるが、此所でも必ず負惜に出るであらう。然らば進んで殉死者の一條に移る。先きに文體を論ずるに當り「紀氏竹内越中守正四位惟眞」と書下したのは典故を知らないためだと指摘して置いたが、官位を記す書式を知らないことは許してやつても、どうしても許せないのは正四位である。凡そ位階は大寶令で定められた以來明治初年末まで變化なしに傳つて來たもので、其定めによれば、位階には各□正從があり、殊に四位以下には正從に亦各□上下があつて、單に正四位と云ふ位は無いのである。即ち正四位竹内某など云ふ人の應永年間に存在したことは認める譯に行かない。從つて此記事は又虚妄である。何うしてこんな不都合なことを書いたか其原因を突止めて見よう。これには第一に考へられるのは、知つてこの樣な不都合を書く筈もないから、知らないで書いたものと爲さなければなるまい。そこで又二つの場合が考へられる。第一の場合は實は知つてゐるが一寸忘れるか不注意の爲めかで書落したものと取るのである。第二の場合は全く知らない爲め書かなかつたと取るのである。先づ事實は第一の場合であつたと取る。さうすると宗義惟義等は大事な尊族の官位を書き間違へたと云つただけで濟みさうであるが、さうは行かない。何ぜなら如何に長慶太神宮祕藏の文書とはいへ、書手が再見出來ない筈もなし、又最初書終つた時にも校讀もしたであらう。而して此所の不都合に氣付いたとすると全然清書し直すか又は訂正しなければならない筈である。しかるに何等施すところがないのを以て見れば、忘れたのでも見落したのでもなく全く知らなかつたのである。獨り宗義惟義が知らなかつたのみならず、竹内家代々の人も亦知らなかつたのである。さう演繹せざるを得ないではないか。併し要するに書手の二人が知らなかつただけでよろしい。即ち第一の場合が成立せずして第二の場合が成立することになる。即ち宗義惟義二人ともに正四位に上下のあることを知らないことになるのであるが、赤の子供や土百姓素町人ならいざ知らず、殿上人の資格ある惟義の近親たる二人が知らないとは何事ぞ。しかし事實知らないものなら致方もないが、其代り知らないで濟む時代に生息して貰はなければなるまい。さうすると惟義宗義は明治後の人と取るが相應しい。何ぜなら位階に上下の無くなつたのは明治に入つてからであり、之が確に制定されたのは明治二十年であるからである。
 以上内容の考察を約言すれば、此文書の史實が認められないのみならず、應永二年に竹内某々の書いたといふことも全く僞りと極まり、且つかゝる出鱈目を書く資格は明治も末年の無學のものに限られてゐると云ふ斷案が伴ふことになる。
 上述の理由に由り長慶皇太神宮由來は明治後期以後の僞作にかゝるものと判斷する。

     第三 長慶天皇御眞筆

 第二の文書は寫眞の標記に長慶天皇御眞筆とあり、二通より成立する。其全文は下記の如くである。
 第一文書            第二文書
鳴ゆたなり諸國巡り       鳴呼覺り天に神辟
父をふて合して歸る       獅子口に隱魂都百重
河内の口ち寺          帝乃千代守り
 元中九壬申八月二十六日     元中壬申十閏月九日
  ゆたなり(華押)         覺理(華押)
        惟眞へ         惟眞へ
        宗義へ         宗義へ
        信治へ         信治へ
 右長慶天皇御眞筆とあるものと此次に出づる後醍醐天皇御眞筆とあるものとは、孰れも破損甚しく且つ汚染も多く、何のためかくなるまでに麁末な扱方を爲したものであるか解釋に苦むところである。破損汚染も果して自然のものか、それとも人工を加へたものにあらざるか、甚だ疑ふべきところがある。併しながら此程度の寫眞ではこの疑問につき十分の研究を爲し難いから、其調べは止めにして直に文書の意味を取調べる。而して豫め斷つて置くが、此文書も又次の文書も一目瞭然天皇のものでないことが分るのであるから、其積りで批判する。
 第一、文體に就いて吟味するに、二通とも僅か三十字足らずの文の中に誤字、當字、衍字、脱字等夥しく構へ、誤字を除いた外は態と分り難くする目的を以て、恐らく尊嚴を増すために、異樣の書振りを試みた如くに想はれる。そこで之を平易の文に書換へると第一文書は「嗚呼寛成は諸國を巡り、父を追ふて合して河内の獅子窟寺に歸る。」第二文書は「嗚呼覺理は天に神避け、獅子窟寺に隱れ都す、百重原は帝の千代守る所。」とこんな意味ではなからうかと想ふ。原文を有りのまゝに讀めば巫女の口寄せか御筆先かの口調に類し、一種の悲哀を感ぜさせる。かゝる變梃な文であるから、其意味などに重きを置くのも考物であるが、一つ見逃すことの出來ないのは第一文書の三行目にある口ち寺の「ち」である。私は之を「つ」の轉訛と取つたのであるが、類似の轉訛は平群眞鳥の文書と稱するものにも現れるから注意すべきである。
 以上文體の考察を約言すれば、此文は假名違ひがあり、假名の多過ぎたるも時代の下れることを示し、口寄せ風の口調も如何はしいことであり、之を長慶天皇の宸翰など稱するは實に以ての外のことである。
 第二、書體に就いて吟味するに、筆法は長慶太神宮御由來を書いた人のものと全く一致し、從つて筆者の同一人なること疑ふべくもない。前に特異の字形として摘出して置いた字が此所にも出てゐるから證據となる。二つの文書とも第一行第一字は鳴であるが、これは嗚の誤りである。呼の崩方もあやしい。最早誤字など云々する必要も薄らいで來たが、それでも參考になるから例の特異の字形即ち頑強性を有するもの三つを摘出する。それは「歸」「都」「守」である。これがやがて後醍醐天皇御眞筆にも重ねて現出するのである。
 以上書體の考察を約言すれば、此等二つの文書の筆者は長慶太神宮御由來の筆者と同一であると云ふ事實に歸着する。
 第三、内容に就いて吟味するに、第一文書に「父ををふて合して歸る」とあるが、前に之を父を追ふと讀み、御父君後村上天皇の御跡を追はれ御一所に河内に入らせられたと取つたのである。處が長慶天皇が河内に入られたのは長慶太神宮御由來によつて見ても此文書の日附元中九年八月二十六日より遠く遡ることはないと推せられる。即ち後村上天皇崩御の正中二十三年よりずつと後のことである。さうすると前の讀方では史實と合はないことになる。そこで假名の「を」を正しいと立てて終ふと讀めば其所までは宜しいが、「合して歸る」へ續かなくなり、神祕的な説明でもしなければ分らなくなる。而して神祕的の解釋なら勝手に出來ることであるが、そんなことをする必要もない。何故なら此文書の記事は幾分長慶太神宮御由來を補足する所もあるが、歸着する所は由來記と同一で、何等事實と認められるものでないのであるから、結局此文書は僞物と極り、此上研究する價値のないものだからである。次に第二の文書は第一行の末字がよく讀めないのであるが、多分「辟」かと想ひ、而して又此字はかゝる文書に不相應と推し、「避」の間違ではなからうかと取り、□を補つて讀んだのである。處で天に神避くるはあながち概念すること出來ないでもないが聊か神祕的になる恐れがある。そこで寧ろ辟のまゝにして置いたらどうかと見るに、辟は天子となり明かとなり徴すともまだ幾らも意味がある。此等の意味で附會けるには更に努力を要する如く思はれる。而して如何なる努力も此文書の殿を承つてゐる由來記同樣の史實を肯定することは不可能である。結局此文書は第一文書と同じく僞物と極まるのである。
 以上内容の考察を約言すれば、二通の文書の記すところ大體長慶太神宮御由來の記事に含まれ居るか或は演繹すべき範圍のもので、全く虚構に過ぎないのである。
 上述の理由に由り長慶天皇御眞筆は明治末期に作成したる僞物と鑑定する。

     第四 後醍醐天皇御眞筆

 第三の文書は標記して後醍醐天皇御眞筆と題し二通ある。全文左の通りである。
 第一文書            第二文書
流が禮くる常陸のくに居     我禮隱魂ゆく登む靈實ば
足し王洗良日の國歸り      帝枝たむく帝の國倍榮

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