華々しき一族
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:森本薫 

未納 妾、須貝さんは、好きは好きだけど、お姉さんだってあの人好きなんだし、お姉さんと競争したって、とても勝てそうにもないから、もう止めにしちゃった。奥さんになるんなら、お姉さんの方がうまいことやれそうだわ。美※ 未納ちゃん、あなたは間違ってるわ。妾はまるで、そんなこと……。未納 考え違いしないでね。悔(くや)しいけど、妾は止めた。どうせ駄目だと思ったら妾は、さっさと引込むのよ。美※ 妾は未納ちゃんと須貝さんとだったら丁度、いいと思ってたくらいだわ、今も、だから、そんなことは言わないで……。未納 ありがと、でも、もういいわ。妾は、私でなければ生きて行けないって人を待ってるの。鉄風 当節一寸難しい注文だな。しかし、お前に言っとくが、美※姉さんは、昌允が好きなんだって言ってるが。美※ (うなずく)未納 (いきなり美※の頬を打つ)嘘被仰い。美※ ひどいわ。未納 美※さん。美※って呼ぶわよ。あなたは、妾と同い年よ。お姉さんなんかじゃないの。鉄風 どちらでもいいことだよ、そういうことは。静かに話をしろ、昂奮しちゃいかん。(諏訪に救を求めて)おい……。(諏訪ぼんやりして応えない)未納 妾は、お兄さんがあんたを好きだって、さっき言ったけれど、あれはただ、ほんとのことをそのまま言っただけよ。美※ だから、そうよ。妾はほんとの話だと思って聴いたのよ。それでいいじゃない。未納 嘘々。そう思って聴いただけじゃないわ。妾は……他人から恩を着せられるの大嫌い。憶えてて頂戴!美※ 何言ってるのよ。何のこと、それ。妾にはわからないわ。未納 そんなとぼけた顔しないで頂戴。ほんとに、わけがわからない時にする顔よ。美※ だって……妾には、何のことだかさっぱり分らないんだもの……無理だわ、そんなこと言って……。未納 もう沢山々々。そんなつまらない真似なんか止しましょう。兎に角妾達姉妹なんだものね。美※ 未納ちゃん!未納 なによう。妾はお姉さんの、その分別臭いところが嫌いなの、よくって……。いいからお姉さん振るのは止して頂戴。第一不愉快だわ。あなたが須貝さんを好きなのはよく分ってるのよ。お兄さんだって、そ言ってるわ。美※ 未納ちゃん! ちょっとお聞きなさいな!諏訪 (やり切れない)二人共何うしたと言うの。そんなことで喧嘩したって駄目よ。あなた方二人で幾ら言い合ったって何にもなりゃしないわよ、そんなこと……。ああ。未納 黙っててよ、一寸の間。母さん達には分らない話よ。鉄風 黙っているのはいいが、暴力を振うのは宜(よろ)しくない。でもこりゃァ、大変なことになって来たな。諏訪 妾、なんだか、わけがわからなくなって、来そうだわ。未納 お姉さん、はっきりしときましょう、その方がいいと思わなくって?美※ ええ、そう思うわ、妾も。鉄風 まあ、坐ったら何うだ。二人坐る。美※ それは、未納ちゃんに、そう言われると、妾がいけなかったかもしれないけれど……。妾の気持がどうでも……須貝さんは妾のことなんかまるで考えていないんだわ。未納 でも、好意を持ってることは、確かよ。妾わかってるわ。諏訪 (意味なく)そう。そりゃ、分らないわ。美※ 妾には分ってるわ。あの人、妾なんか好きじゃないのよ。未納 そんなこと言い出すと……。美※ あなたとは、仲良しじゃないの、誰がみたってそうみえると思うわ。未納 遊ぶだけだわ。美※ 妾は、遊んだこともないわ。鉄風 それは美※の言うとおりだ。未納 いいからお父さん、一寸の間黙ってらっしゃい。美※ 妾は、お兄さんのことは、ちっとも気がつかなかったのよ。妾の方じゃ兄妹だと思っていたから平気でいられたのね。恥ずかしいわ。我儘ばかり言ってたわ。諏訪 そんなことないわ。母さんが保証してよ。鉄風 ほんとに問題はないかね。これは……。美※ 未納ちゃんからそう言われてみると、お兄さんが妾によくして下すったことが、一つ一つ胸に思い当って来たわ、ほんとに妾いけなかったと思うの。未納 それはそうだわ。お兄さんは不器(ぶき)っちょだけど、あれで、いろいろ気をつかってはいるんだわ。だあれも、それを感じて上げないんだもの。鉄風 生意気を言うな。すると、この問題は昌允から出てるんだな、そいつは一向気がつかなかった。諏訪 妾、言ったでしょ、何かあるに違いないって。鉄風 しかし君は、事態がこうだとは言わなかったよ。諏訪 そんなこと、誰にだってわかりゃしないわ。鉄風 何か、か。それだけじゃ、分っていたとは言えんよ。未納 そいじゃァ、お姉さん本当なの、それ。美※ ええ、妾ね、以前は少し怖かったのよ。だけど、もう怖くなくなったわ。あの人はいろんないいところがあるのよ。そりゃァ……。未納 (機嫌が直っている)現金だわ、お姉さん現金よ。美※ ええ、そう。妾、自分でもそう思ってるの……(両手で頬を押える)可笑しいわね。未納 まあまあだ。お父さん、どう。構わないでしょ。鉄風 何とも言えん。母さんと相談してくれ。諏訪 妾にはわからないわ。あなたが始めに口を切ったことよ。あなたがいいように、して上げて下さい。鉄風 何も俺一人に委(まか)せることはないさ。君の考えも聴こうじゃないか。諏訪 考えなんかありません。いろんなことが、一度に起っちゃったものだから、妾、頭ん中が滅茶々々よ。明日が心配だわ。あなたがやって下さい。鉄風 俺にだって一向名案も浮ばない。兄と妹とが愛し合うということは、世間の手前、どう言うことになるのかね。昌允 (川原から)未納そこに居ないか?間。昌允 (外で)美※さん!美※、立ち上って窓の所へ行く。美※ どうなすったの、裸なんかになって。未納、美※の傍へ行く。未納 泳いで来たのね。昌允 身体を拭くものを出して呉れ。濡れてるんだ。美※、奥へ行く。鉄風 泳ぐのは少し早くないかな。未納 一寸、寒いかもしれないわね。早く、上ってらっしゃい。いいこと教えて上げてよ。鉄風 無鉄砲なことをする奴だ。美※、タオルを持って出てくる。美※ 抛(ほう)ってよ、よくって。鉄風 (諏訪に)少し休んでみちゃァどうだ。横になってみた方がいいかもしれないよ。諏訪 ええ。妾の部屋、西日が這入るものでこれからひとっ時、困るわ。(立上る)鉄風 だったら、俺の部屋を提供するさ。諏訪 ありがと、そうして戴こうかしら。昌允。昌允 母さん、何か用ですか、早く帰れって。諏訪 いいえ、別に、どうして?昌允 須貝さんに言伝(ことづて)なすったんじゃないんですか。諏訪 ああ、別に用はなかったんだけど、早く御飯にしようかと思って……。昌允 なんだ。未納 一緒に泳いでたの、あの人。昌允 いや、あの人は、撮影所へ行ったよ。鉄風 宣伝を聞いてすぐ帰ったわけじゃないんだな、すると。昌允 どうせなんでもないんだろうと思って……。鉄風 そういう奴だ、いざと言う時の間には会わんよ、お前は。未納 お兄さん、お兄さん。昌允 なんだ、忙しい奴だな。未納 忙しいわけよ。わかってて。美※ 未納ちゃん! (未納の手を取る)未納 (それを振り払って)いいじゃないの。お兄さんったら、そんな難しい顔をしたって駄目よ、後で恥しがったってきかないわよ。昌允 なんのことだ。だらしのない顔をするな。鉄風 未納、余計な世話は焼かない方がいいぞ。未納 いいわよ、余計なお世話なんかじゃないわ。妾も、やっぱり嬉しいのよ。ほんとに、一番嬉しいのは妾かもしれないのよ。昌允 (くしゃみをする)畜生。(もう一つ)諏訪 今頃泳いだりなんかするからよ。昌允 少し、冷たかったかな。中学生が二、三人、やってるもんだから。大丈夫だと思って入ってやったんだが……。美※ 夏の風邪は癒(なお)り難いのよ、ほんとに……。未納 お兄さん、美※姉さんね。須貝。須貝 (一寸うろうろして)やあ、家族会議?未納 重大問題よ。須貝 へえ……。(行こうとする)鉄風 須貝君!須貝 は!鉄風 う。いや、別に何でもないんだが、後で一寸話したいことがあるんだが……。須貝 承知しました。僕も一寸、先生にお話したいことがありますので……。(もじもじしている)諏訪 あの……どうでした、道具の都合は?須貝 ああ。撮影所へは行かなかったんです。(去る)諏訪 あなた、何を言うつもりだったの。鉄風 そりゃ君、この際何か言う必要があると思ったのさ。諏訪 だったら、どうしてお言いにならなかったの。鉄風 だって、一体何う言ったらいいんだい?未納 厭だわ、お父さん。鉄風 俺だって厭だよ、だが、向うでも何か言うことがあると言ってる。諏訪 あなたが思わせ振りをなさるからよ。鉄風 それだけのものかな。諏訪 そんなことわからないわ、須貝さんに訊いてみなきゃ。昌允 僕は知っていますよ、その話は。鉄風 ふむ。お前には前以(まえも)って話しているのか。昌允 前以ってと言うわけじゃないでしょう。今の先、道の端で立話に聴いたばかりですよ。諏訪 何のこと。昌允 自分で言うと言ってるじゃないですか。未納 何? 聞きたいじゃないの、だって……。昌允 言ってもいいさ。だが、お前は聞かない方がいいぞ。未納 あら、どうして……。昌允 お前のがっかりする話だ。お前にも俺にも、あんまり嬉しくない話だ。美※ お兄さん、何言ってるの。おかしな話ね。昌允 美※さん、須貝さんは君と結婚したいと言ってるんだが……。一同に軽い動揺。昌允 どうしたんです。鉄風 どうもしやしないさ、別に……。未納 ほんと、その話。昌允 ほんとだろう、自分で、そ言ってる以上は。未納 あーあ。やっぱり、妾、どうしても駄目なんだわ。やっと喜びかけると、又ペシャンコだ。昌允 お前と俺とは、どうやら揃いの籤(くじ)を掴んでいるようだな。いくら兄妹だと言って、あんまり有難くない一対だよ。未納 ほんとだわ。妾が、お兄さんに似ているのかしら、お兄さんの方が妾に似ているのかしら……。鉄風 どうも、話の筋道がわからんね。諏訪 妾には、尚更、わからないわ。美※ (自信なく)厭だわ……妾……そう言うこと……。昌允 どうしてさ。美※ どうしてでも……。未納 お姉さんは、昌允さんが好きになっちゃったもんだから……。鉄風 (苦しい咳払い)このことは……全然問題を含まないというわけじゃァないが……事実を有りの儘に言うとそのとおりなんだ。昌允 どう言うことです、それは。少々手遅れみたような話だが……よくわからない。未納 お兄さんの、気持やなんかが、判然してくると美※姉さんも……あなたがいい人だって気がして来たんだって……。昌允 しかし、美※さんは須貝さんを好きな筈じゃないか。尠(すくな)くとも俺よりは……。未納 それは、お兄さんのことを知らなかったからよ。事情が違うのよ、今とは。昌允 お前の言ってることは、はっきりしないぞ、事情は、以前だって今だって同じ事情だ。俺は別に、判然してもいないし、隠しても……、ははあ、貴様……。未納、壁際の方へ動く。昌允 (未納を追って行って)怪(け)しからん奴だ。貴様と言う奴は……。先刻俺になんて言った。須貝さんをお前に牽制させといて俺がうまいことしようと思ってると言ったじゃないか、その尻から……実に怪しからん奴だ……。そう言う暗中飛躍を……。(未納を壁際へ押しつける)未納 あらあらそうじゃないんだったら、痛いじゃないの、蓄音機が駄目じゃないか。お父さん!鉄風、やれやれと云う形。昌允、手を離す。未納 乱暴だわ。息が詰るじゃないの。昌允 その方が余計なこと喋らなくっていいだろう。未納 妾は、そんなつもりじゃなかったのよ。妾はもう、とても駄目だと思って観念してたんだわ。昌允 それだったらそれでいいじゃないか。未納 でもお兄さんのことだって、一遍は言っといたげようと思っただけよ。その他のことなんて考えてやしなかった。昌允 そうすると、俺は……お前に礼を言わなくちゃァならないことになるのか。未納 首を締めるほどのことじゃないと思うわ、兎に角。昌允 しかし美※さん、も少し考えた方がいいと思うね、これは。美※ ――。昌允 一時の気持の動きだけで、こんなことをきめると、後で困るのは自分だけだよ。僕にしたって後悔されるよりは今のままの方が、結局いいからね。それに……僕の方ではもう……気持の上では、ある区切りまで来てるんだから……。(くしゃみ)あなたは、自分の、好きなことを……。美※、黙って唇を噛んでいる。未納 (呟くように)妾は、今日何てへまばかり、やってるんだろう。言うことすることみんな的が外(はず)れてるんだもの、いっそおかしいくらいだわ。自分独りで悲しんだり、喜んだりして……。諏訪 妾、もう黙っていられないわ。こんな面倒なことって、一体誰から起ったことなの。みんな須貝さんからでしょう。あなた、もうあの人にこの家を出て戴きましょう。鉄風 しかし、俺が考えるには、この問題は別に、須貝の方で不都合(ふつごう)な点は無いように思うがね。問題を面倒にしているのは、主として家の連中じゃァないのかい。諏訪 あなたのように落ちつき返っていちゃ、何だって誰にだって罪も責任も起りゃしないわ。だって須貝さんさえ居なかったら、何もこんないろんな面倒なことは起りようがないじゃありませんか。鉄風 しかし、事実は須貝はいたんだし、いろんな面倒なことは起ってしまったのだ。そう言う意味で須貝の責任を問うと言うことになると、ただ、須貝がこの世に生れたと言うことがいかんということになる。人間は誰だってこの世に生れたと言うだけの理由で非難をされる責任は無いさ。諏訪 あなたの演説なんか妾は聴きゃしないのよ。妾は、どうしてもあの人に出て行って貰うのよ。妾はもう、あの人を信用することは出来ないんだわ。あなた方もそうよ。あなた方の中、誰があの人を愛して、誰があの人を信用したって、母さんはもう、あの人を信用することは出来ないのよ。あの人は軽薄で、嘘つきで、浮気者で、信用のない兵六玉(ひょうろくだま)よ。鉄風 中々見事な弁舌だ。しかし、例えばあの人間を此処の家から出て貰うとしてもだね、どう言う理由で出て貰うんだね。まさか俺の娘が二人とも君を愛している、そういう状態では家庭の平均が保てんから出て行って呉れ、そう言うわけにも行かんだろう。それに、もともと俺にしたって、君にしたって、二人の中どちらかは須貝に貰って貰うつもりでいたんだろう。諏訪 二人の中一人ですわ。二人共じゃありませんのよ。それも、うまく行った場合の話じゃありませんか。今の場合はちっとも家ん中がうまく行ってやしないわ。妾は未納をと思っているのに、須貝さんは美※を欲しいと言う。その美※を昌さんが愛しているんだと言う。おまけに三人が三人で、いろんなことを……妾達にはとても、わかんないようなことを考えたり、したりしてるんだわ。妾には我慢がならないわ、こんなこと。鉄風 一体、これは家の若い連中がいかんよ。大体お前達は物事を慎重に取扱い過ぎるのかね。それともあんまり不真面目に見過ぎているのかね。お前達の行動は実に不可解だ。不可解極まる。まるで、相手の先手を打つことばかりに苦心しているようじゃないか。未納 妾達不真面目じゃないわ。妾だって物事を考えないでする方じゃないのよ。ただ結果の方が妾達より先回りしてばかりいるんだわ。妾だって困るわ。こんなんなら、始めから何にもしなかった方がずっと、気が楽で愉(たの)しかったのよ。鉄風 一体若い者って言うものは、物事をするのに、もっと情熱と誠意がなければ、いかんよ。お前達にはそれがない。若い者にあるべき新鮮さ、熱情、烈しさ、懸命さ、そう言うものがない。それでいて、一通り心得たような顔つきをしているのはどういうものかね。昌允 と言ったところで、僕達にはお父さんみたように、美※のお母さんと、いきなり結婚して僕達を面喰わせたり、五十を越してからでも、相変らず情熱と誠意を以て泪(なみだ)の名画を拵(こしら)えて、大向うを退屈させたりする芸当は出来やしませんよ。鉄風 俺は、親子がそう言う争いをすることは好まない。だが、若し俺と諏訪とが一緒になる前に、お前が美※を何とか思っていたとしたら、それを前以て明にすべきだったんじゃないかね。それというのも、お前達の徒(いたずら)なる狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)の為(な)す所じゃないか。諏訪 もうお願いだから、そんなことで喧嘩なんかしないで下さいな。妾が言ってるのは、そんなこととは何の関係もないことです。話は簡単です。須貝さんにこの家から出て行って貰うということだけよ。美※ だって母さん。それは、お気の毒だわ。あの人は、何にも御存じないことだもの、だから、こんなこと、みんな、なかったことにしといたらそれでいいでしょ。ねえ。鉄風 兎に角、俺は今須貝を放逐する気にはなれんよ。俺は長い間かかって彼奴を一人前の技術家にしてやった。これからというところで、こんな風な出来事で手放して了うのはあんまり惜しい気がするんだ。昌允 それは惜しい惜しくないに拘(かかわ)らず、今の場合須貝さんに、この家を出て行って呉れというのは少し無法でしょう。お父さん達の料簡(りょうけん)では、未納か美※か、どっちかをあの人に呉れてやるつもりだった。ところが須貝さんは美※を選んだ。その他の事はあの人には関係の無いことですよ。諏訪 いいえ、あの人に関係の無いことでも、妾達の家庭には大きな関係のあることだわ。そして妾達にとっては、妾達の家が一番大事な問題なんですからね。他の事柄こそ、それに比べれば小さいことだわ。未納 でも母さん、須貝さんは明日っから、始めて一本でお仕事なさるんでしょう。それだのに、今出て行って貰うなんて非道(ひど)いわ。そんなこと出来ないわ。諏訪 あなた達、みんな妾に反対なんですね、いいわ、それでも妾は出て行って貰います。妾ひとりで、このことはやってみせます。(鉄風が何か云いかけるのを押えて)いいえ、あなただって、妾が此処に(胸を押えて)持っている、一つの理由をお聞きになったら、きっと妾の考えを当然だとお思いになってよ。妾の処置を有難がって下さる筈だわ。……さあ。今度こそ、お部屋へ行って休みましょう……。(二階へ上って行く。階段を、上り切った所で振り返り)あの人は、先刻この家を出て行く前にそう言ったのよ。自分は今の所誰とも結婚したくない。そう言うことを考えてみたくない。その理由はあなただって。妾だって……。(去る)――早い幕――           三情景は前景と同じ。鉄風、諏訪、昌允、美※、未納。鉄風 兎に角、俺は今須貝を放逐する気にはなれんよ。俺は長い間かかって彼奴を一人前の技術家にしてやった。これからというところで、こんな風な出来事で手放して了うのはあんまり惜しい気がするんだ。昌允 それは惜しい惜しくないに拘らず、今の場合須貝さんに、この家を出て行って呉れというのは少し無法でしょう。お父さん達の料簡では、未納か美※か、どっちかをあの人に呉れてやるつもりだった。ところが須貝さんは美※を選んだ。その他の事はあの人には関係の無いことですよ。諏訪 いいえ、あの人に関係の無いことでも、妾達の家庭には大きな関係のあることだわ。そして妾達にとっては、妾達の家が一番大事な問題なんですからね。他の事柄こそ、それに比べれば小さいことだわ。未納 でも母さん、須貝さんは明日っから、初めて一本でお仕事なさるんでしょう。それだのに、今出て行って貰うなんて非道(ひど)いわ。そんなこと出来ないわ。諏訪 あなた達、みんな妾に反対なんですね、いいわ、それでも妾は出て行って貰います。妾ひとりで、このことはやってみせます。(鉄風が何か云いかけるのを押えて)いいえ、あなただって、妾が此処に(胸を押えて)持っている、一つの理由をお聞きになったら、きっと妾の考えを当然だとお思いになってよ。妾の処置を有難がって下さる筈だわ。……さあ。今度こそ、お部屋へ行って休みましょう……。(二階へ上って行く。階段を、上り切った所で振り返り)あの人は、先刻この家を出て行く前にそう言ったのよ。自分は今の所誰とも結婚したくない。そう言うことを考えてみたくない。その理由はあなただって、妾だって……(去る)鉄風 みんな……聞いたかね。未納 聞いたわ。鉄風 昌允も聞いたかね。昌允 そうの様です。鉄風 じゃあ俺の聞いたことは、確かなんだな。美※ 不思議だけど、確かだわ。鉄風 俺は、今聞いたことを信じなきゃならん立場にいるのかな。一体こう言うことって、有り得ることなのかね。未納 有り得ることだわ。こう言うことの可能性ってものは、無限大だわ。理窟もなにもありゃしないわ。鉄風 黙ってろ! 俺が比較的冷静な人間であることは、この際僥倖(ぎょうこう)とも言うべきことだ。これが普通の人間であってみろ。地団駄を踏み、わめきかえったかもしれないところだ。多分椅子の一つくらいは壊したかもしれんよ。だが俺は、大芝居は好まん。しかし言って置くが、今日の出来事は俺に取っては充分驚嘆に値するものだった。昌允 (慰める気で)お父さん、元気を落しちゃいけませんよ。きっと冗談ですよ。例えば、須貝さんがそんなことを言ったとしたって、本気じゃありませんよ。また本気にしたところでそんな……。鉄風 本気にしたところで……どうだと言うんだね。母さんが取り合うまいと言うのかね。それはそうだろう。そうあってほしいと思うよ。いや、そうあらねばならん。しかし……。昌允 しかし?鉄風 しかし……(気を換えて)お前の質問に俺が答えなければならんと言うわけはないだろう。「しかし」は「しかし」だ……。今んなって俺は、嫉妬を感じなきゃならんのかね、この俺が。これはやり切れない。我慢のならんことだ。そう言えば、先刻、俺が降りて来た時、諏訪は何時(いつ)に無く陽気ではしゃいでいた様だ……。美※ お父さん! お父さん! それは非道(ひど)いわ。あんまりだわ。妾の母さんは……。鉄風 美※。俺は、誰も疑やしない。誰にだって謂(い)われのない疑なんか掛けやしない。だがまあ、考えてみてくれ、須貝は未納と一番仲良しにしていながら、一方では諏訪に言い寄っている。かと思うとお前と結婚したいという。(二階へ上って行く)疑いというのは、こう言うんじゃァないよ。俺達の習慣では、こう言うことは奇怪だと言う。重ねて言うが、俺はお前達の母さんを疑ってなんかいやしない……ただ……お母さんはまだ若い……。(去る)三人、ぼんやりと大きな溜息をつく。未納 さて……と。扉を乱暴に閉(しめ)る音。未納 同情するわ、妾……。美※ どう言うことになるのかしら。昌允 どう言うことになるかなあ。とにかく、いろんなことが起ったからね……。未納 でも、ほんとは、なんにも出来事なんて起きてやしないのよ。昌允 そうさ。出来事と言うのが、急行列車の顛覆(てんぷく)のようなものだけを言うとすればだ。美※ あの人、逐(お)い出されるのかしら。昌允 みんなが冷静になる迄待つさ。心が落ちついてみれば、いろんなことが分って来るだろう。どちらにしても、須貝さんは、あなたと結婚したがっている。それは、確かな話だし……あなたにしたって……。美※ あの人が妾と結婚したいと言うのは、わからないわ。あの人は、妾なんか全然好きじゃないんだわ。若し好きだとしたって、他の女の人と同じほどにだけだわ。なにも特に、妾と……。昌允 そんなことは、あなたにはわからない。わからなくってもいいことだ。美※ あの方、自分でそう被仰ったのよ。勿論はっきりそう言ったわけじゃないわ。だけど妾、自分が莫迦だとは思わないわ。何でも……ないのに……疑って見られちゃ、つまらないから、お互に気をつけようって……そう言うことを被仰ったわ、御自分で……。それから二時間にもなりゃしない今……。未納 それで、お姉さん、お部屋で泣いてたのね。それじゃ、妾と一緒だわ。美※ そうよ、だけど、もうそれで、妾、はっきりしたわ。もう、そんなこと、考えないことにしたの。昌允 それは……取りようによっては……どうにでも取れることだ。だが……そう言うことで簡単に……そう……言うことを……。美※ お兄さんは……妾が、始めに須貝さんを好きになったことが許せないのね。昌允 いや、そうじゃない。美※ そう……。でも……妾(立上る)そうだと思うわ。(出て行く)未納 お兄さん、そう? ほんとにそうなの?昌允 そうじゃないよ。俺はただ、美※のほんとの仕合せのことを考えてみるだけのことだ。お前、今でも、出来たら須貝さんと結婚したい気かい。未納 妾? 妾……何だか興味なくなってきた。そんなに言うほどの人かな。昌允 ふむ。未納 だけどお兄さんは、あんなに美※姉さんが好きだったんだし……。昌允 勿論さ。未納 まあ。昌允 今でもそうだ、俺は美※が好きなんだ。大変好きだと言ってもいいくらいだ。ほんとだよ。未納 威張らなくったっていいわ。昌允 お前は不真面目でいかん。未納 ノー、ノー。昌允 何?未納 違うって言ったの。昌允 若い者にあるべき新鮮さ、熱情、烈しさ、(行詰って)烈しさ……。未納 大胆さ。昌允 大胆さ。少し違う。未納 意味はそう言う意味よ。昌允 兎に角お前のは、怪(け)しからん。未納 妾はふざけてなんかいないわ。昌允 そうか。しかし、お前のは、あれはいかん。未納 何? どうして?昌允 どうしてでもいかん。あんなのはない。未納 わからないわ。昌允 お前のやったことさ。未納 いろんなこと、したからよく憶えてない。考えてないこと迄、して了ったかもしれないわ。昌允 だったら考えて見る必要があるよ。お前のやったことはおせっかいというものだ。未納 だって、あれは仕方が無いわ。昌允 仕方ないことはないさ。未納 妾、はッと思って了うと、もう我慢出来なかったのよ。昌允 自分のことだけやればいいんだ。お前のは露出症だよ、あれは下品だ。自分だけで納得が行かずに俺達の分まで一人で、やってしまいやがった。未納 御免なさい。昌允 御免なさいじゃあ、済まんよ。未納 でも……、そんなにしても、自分じゃちっとも得が行かなかったわ。昌允 それだから、尚いかんというのだ。ああ言うことは、お前みたいな人間のやることじゃないよ。未納 ――(溜息)昌允 厭な顔するな。未納 変な気持だわ。昌允 誰だって、そうだ。未納 お姉さん、どうなんだろう。昌允 わからん。他人の心どころじゃない。未納 お姉さんも、少し現金ね。昌允 そうかい、どうしてだ。未納 だって、そうよ。昌允 言ってみろ。未納 慍(おこ)るから、厭。昌允 慍る元気もない。未納 お兄さんのことね……そ言ったらすぐ、その気になっちゃうんだもの……。昌允 それで、お前だって喜んじゃったじゃないか。未納 そりゃ、そうよ。昌允 だったら、一緒じゃないか。未納 だって……。昌允 だっても糞もない。未納 お姉さんだったら、何でも肩を持つわ、お兄さん。昌允 それは、そうさ。未納 ――(溜息)昌允 何だ。未納 お兄さんはいいわね。昌允 そうか、どうして。未納 お姉さんがいるから。誰も彼も、わあッ、と妾を好きになって呉れないかなァ。昌允 俺だって、美※には、考える暇をやらなきゃァ、ならないさ。お前の考えるようには行かない。未納 お姉さんは考えてるわ。あの人は、お買物する時だって、一番上手だわ、それに須貝さんが母さんを好きなんだとすると……。昌允 しかし、須貝さんは、俺達の親爺になることは出来んよ、もう、ちゃんと一人あるんだからな。未納 どうしてお兄さんは、そんなに、須貝さんと、お姉さんを一緒にしたいの。昌允 したいわけじゃないさ。未納 そうかしら、でも可笑しいわ。昌允 何故だ。未納 お兄さん、一生懸命逃げてるみたいだわ。昌允 莫迦な。つまらんことを言うな。未納 だけど、そうみえてよ。昌允 それはお前の見方だ。俺の所為(せい)じゃないよ。未納 ――。昌允 (誰に云うともなく)俺は、美※が俺と結婚することなんか絶対に無いと思ったんだ。あんまり思いがけないことなものだから……。未納 (立上る)妾、今誰かが、妾を好きだって言って来たら、誰でも好きになってやるわ。ほんとよ、それ……(出て行く)昌允、じっとしている。立上る。ぶらぶら歩く。マントルピースの上の花瓶をみている。いきなり、そいつを掴むと思い切って床に叩(たた)きつけようとするが、しない。も一度その場所へ置き、両手でそれを撫でている。須貝、服を改めて、両手に相当大きなトランクを提げている。昌允をみて、当惑して立止る。昌允 ああ。須貝 ああ。昌允 (じろじろみて)何の真似です? それは。間。須貝 逃げ出そうと思ってね。(自分の風態を見る)間。昌允 (了解して)そうですか。須貝 あなたに、教わったようなものです。止(と)めやしないでしょう。稍々永い間。昌允 止めるなと、言われれば別に止めやしないけれど……。まあ、も少しいいでしょう。話して行って下さい。須貝 お家の人に会いたくないのですが……。昌允 会わずに行くつもりですか。須貝 手紙を書いておきました。いずれ、お会いします。しかし、今は一寸まずい。昌允 そうですか、しかしまあ、も少しいらっしゃい。大丈夫ですよ。須貝 会うと困るんだがな。昌允 出てきやしませんよ。須貝 そうですか。(荷物を入口の所迄、持って行っておいて)あんまり、ゆっくりもしていられないが……。昌允 あなたを行かせたくないな、僕は。須貝 どうして。昌允 僕の思ったより、いい人なんだもの。須貝 有難う。あなたも僕の思ったほど悪い人じゃなかった。昌允 訣別に臨んで知己を得たわけですね。須貝 いや、ほんとだ。昌允 一度一緒に飲みたかったですね。須貝 そう言う時もあるでしょう。その時はひとつ、やりましょう。昌允 楽しみにしておきます。須貝 お互、腹の底を覗(うかが)うようなことは止めてね。昌允 う……。須貝 君、オレンヂ・ジュースにウイスキーを入れたりするのは婦人の為(す)ることだ。止したまえ。酒なら灘の生一本、これがいい。それからウイスキー。昌允 今度会う迄、練習しときましょう。須貝 よろしい。そう願いましょう。昌允 荷物は、あれだけですか。他に残っていませんか。須貝 残っています。あれは、シャツだの、ハンカチーフだの言うものです。それに季節の洋服と、そう言うものです。後のものはおいときます。昌允 宿がきまったら、送りましょうか。須貝 そうしていただくとありがたいですな。しかし捨ててくだすってもいいです。あんまり、役に立つものもないんですから、御ぞんじのとおりですが……。昌允 まあ、いいです。送ることにしておきましょう。須貝 感謝に堪えんです。う……煙草を喫(す)ってっても、大丈夫ですか。昌允 大丈夫ですよ。放って置いたら、今日中は出て来やしません。須貝 有難い。どうです。昌允 ……。(黙って受とる。須貝は手ばやくマッチを摺(す)る)いや、どうも……。須貝 ……。全くいい景色ですね。ここからみていると。昌允 風致保存区域ですからね。須貝 あの雲の色を御覧なさい。紫色に光っている。荘厳と言うべきですな。昌允 ああ言う色の酒がありますね。須貝 そう、なんて言ったか……。とにかく実にいい景色だ。おやあんな所を、女の子があるいてる。日本人じゃないな。昌允 僕はさっき泳いで来ましたよ。須貝 みていました。中々鮮やかでした。僕も泳いでみたいと思ってたが。昌允 まだ、少し冷いです。須貝 そうかな。少し早いかもしれないな。どうして、泳いだりなんかしたんです。昌允 どうしてと言うことは、ありませんよ。須貝 僕は直ぐ帰り給えと言ったでしょう。昌允 しかし別に用はなかったそうですよ。須貝 そりゃ帰ってみなきゃ、わからない。昌允 ところが帰ってみたら、そうだった。須貝 而(しか)るに、君は、帰らなかった。帰らないで水ん中へ飛び込んだ。何故です。昌允 理由なんか、無いと言ってるじゃァありませんか。須貝 言わなければ言わんでよろしい。しかし、僕が美※さんを貰いたいと言ったのは僕の間違いでした。取消しておきます。昌允 しかし……。須貝 何故なら、僕は、あの人に惚(ほ)れとらん。と言って悪ければ、他の人に惚れている。昌允 じゃァ、なぜ、美※と結婚したいなどと言い出したのです。須貝 他にすることが無いじゃありませんか。考えても御覧なさい。しかし、つまらんことでした。昌允 僕の言ったことを聞かなかったのですか。僕は未納が……未納を……。須貝 美※さんは、あなたを、本当の兄貴だと言っていましたよ。昌允 それは、言い訳になりゃしない。須貝 それに、正直に言うと、あなたの言いなりになることは僕の自尊心が許さんものね。昌允 莫迦な。須貝 莫迦なことです。そしてもう一つ、決定的に莫迦なことは……ああ、もう行かなけりゃァならない。(立上る)昌允 決定的に莫迦なことは?須貝 みなさんによろしく。昌允 須貝さん、行くのは止した方がいい。此処にいらっしゃい。ねえ、行くのはお止しなさい。須貝 つまらん。止したまえ。昌允 あなたは、そんなことで、自分の一生のことを決めたり破ったりするんですね、それじゃァ。須貝 そう大袈裟(おおげさ)に言わんで下さい。あなたは、どうやら僕を非難したい口振りだが、僕にとっては、一つが失敗すれば、後はどれもこれも同じ値打しか持っていませんよ。昌允 あなたと言う人は、真面目なんですか。真面目なんですかそれで。須貝 折角ながら、僕にもわからんです。どちらにでもなろうと思えばなれる。と言う所ですね。しかしも少し放っておいて下すったら、僕はきっと未納君を細君にしたくなったと思いますね。おかしな話ですな。昌允 ――。須貝 どら。みなさんによろしく、もう、夏ですな。夕方は実にいい。昌允 仕事の方はどうします。須貝 それは先生の処置にまかせておきましょう。昌允 宿が定(きま)ったら、知らせて下さるでしょう。須貝 知らせましょう。奥さんに明日の晩は成功を祈ると言って下さい。いや、言わない方がいいかな。昌允 そう言っときましょう。明日は、変ったことが二つあると思ったが。一つになったわけだ。須貝 じゃ失敬。一つ減ったわけだ。昌允 さよなら。荷物、持てますか。須貝 その辺で、車を目付(めっ)けますよ。昌允 そうですか。じゃァ……。須貝、去る。奥の方で、ベルが鳴る。繰り返し。昌允 (二階へ向いて怒鳴る)婢(ねえ)やはいませんよ。鉄風 (二階へ出て来て)婢やは何処へ行ったんだ! ひとが呼ぶ時に居た例(ためし)がない!昌允 伯母さんが、病気で宿へ帰ったじゃありませんか。多分、戻って来ないだろうって言ったじゃありませんか。鉄風、ぶつぶつ云いながら入る。再び、ベルの音。昌允 ちえ(忌々(いまいま)しく、上を見上げる。今度は答えないで放って置く)未納、続いて美※。未納 妾が行くわ。美※ いいから、妾が行くから。諏訪、二階へ出て来る。昌允 (坐りながら、二階を見て)婢やは、いないんですよ。諏訪 そうね、妾、うっかりしていた。(降りて来る)未納 何か御用!諏訪 いいの、御飯にして貰おうと思って……。昌允 御飯食べるんですか?諏訪 どうして?昌允 僕は欲しくない。諏訪 喰べなきゃ毒だわ。美※ 妾達で、つくってよ。(出て行く)諏訪 いいわ、何処かへそう言いましょう。未納 妾だって出来るわ。いいわ、母さん。(出て行く)間。諏訪 やっと、日が落ちたんだわね。この頃は日が長いものだから……(窓を押し開いて)ああいい気持!昌允 気分はどうです。諏訪 ありがと、大体いいわ。昌允 そりゃいい具合でした。諏訪 頭の芯(しん)が、少し痛いの。昌允 いけませんね。諏訪 胸も苦しいのよ。昌允 ――。諏訪 足もなんだか、ひどく疲れたような具合だわ。昌允 あんまり騒ぐからですよ。諏訪 あなただってそうじゃないの。昌允 僕は……。諏訪 お父さんと喧嘩をおっぱじめたり……。昌允 何だって母さんは、あんなことを親爺に言ったんです。諏訪 お父さんに?昌允 親爺にですよ。可哀想じゃ、ありませんか。諏訪 一番可哀想なのは母さんだわ。昌允 親爺、茫然としている。諏訪 妾だってそうだわ。昌允 そりゃ、僕だって……。諏訪 御免なさい。母さん昂奮しちゃったもんだから。昌允 昂奮はいいけれど、母さんは、ほんとに須貝さんを追い出すつもりなんですか。諏訪 それは、追い出すと言うと、角(かど)だつけれど、どっかへ移って貰いたいわ、その方がいいと思わない。昌允 別に、その方がいい、と言う理由もないと思うけれど……。諏訪 何故。今、このままで、あの人にずっといて貰ったとしたら、どう。家中のものが、誰も彼も、気が落ちつかないじゃないの、いやだわ、そんなこと……。昌允 それは、このまま打(うっち)ゃっとけばそうだろうけれど、あの人の言うとおり、美※と一緒にして了えばそれでいい話じゃないですか。諏訪 それは、出来ないわ。そんなことは出来ないのよ、妾には。昌允 僕や、未納への心使いだったら、つまらんことですよ。僕達だって子供じゃ、ないんですから。(くしゃみ、二つ三つ)諏訪 いいえ、それじゃ、妾の気持が済まないの、だから、あなたにどう、未納にどうってことはないの。あなた寒気がするんじゃない?昌允 いや、母さんの気持なんか、済まなくったって大した問題じゃありませんよ。当人達の気が済めば、それでいいことでしょう。諏訪 そうは、行かなくってよ。妾は、妾達の家庭を規律のないものにしたくありません。昌允 規律って言うのは、何です。僕は別に須貝君と美※の結婚は、規律を無くするものだとは思っていませんよ。諏訪 昌さん、あなたの気持もわかります。だけど、母さんの気持だって、わかるでしょう。お願いだから駄々っ子、言うのは止して頂戴。昌允 莫迦な下らん話です。諏訪 下らん話でもいいの、母さんいいようにします。昌允 そうは行きませんよ。母さんひとりのいいようにはならない。諏訪 だけど、あなたの思うとおりにも、なり兼ねますのよ。昌允 僕ひとりの、思うようにしようとは言いません。自然な処置をなさいと言うのです。諏訪 なんです。癇癪(かんしゃく)を起したりして、このことは母さんにまかせて下さい。ね。昌允 実際癇癪を起しますよ、どうして、あなたは、そんな持ってまわったことをするんです。実につまらん。諏訪 いいえ、持って回ったことじゃありません。妾は、須貝さんを、信用しないのです。これは一つに美※の為なんですもの。昌允 あはあ。分った、母さんには……須貝さんが、母さんに好意を示したくせに、そのすぐ後から美※を貰いたいと言ったことがいけないのだ、そうですね。諏訪 まあ! 昌さん!昌允 しかし、そうするより、他に、どんな仕方があります。諏訪 妾は、貰いたいと言ったことがいけないなど言ってやしない。昌允 しかし、そうですよ、それは。諏訪 昌さん、まあ、お聴きなさい、母さんは……。昌允 いいですよ、母さん。それがいけないとは、誰だって言ってやしません。だけど、もう、すっかり済んじゃったわけです、実を言うと須貝さんは、追立てを喰う前に、自分で追ん出て行きました。あの人も莫迦じゃないですね。(去る)諏訪、一寸打たれる。今更らしく、戸口の所へ出て行って外を見る。美※、未納。美※ あら、暗いわね、誰もいないのかしら。未納 母さん!諏訪 (我に返って)うん。未納 そこにいたの。諏訪 (外を見たまま)此処よ。美※ 御飯、出来てよ。未納 (二階へ)お父さん、御飯!美※ どうしたの、母さん。諏訪 いいえ、どうも……。暗くなったわね。(壁をさぐってスイッチを入れる)美※ すっかり暮れてしまったわ。未納 涼しくなったわね。(窓の傍へ行く)お姉さん、宵の明星よ。緑色をしてるわ。美※、近づいて行く。諏訪 あのね、須貝さんね。どっか、行って了ったんだって。二人、答えない。諏訪 母さん、いけなかったかしら。二人、答えない。諏訪 母さんは、出て行って貰うって言ったけれど、そのことはあの人には、まだ言ってないのよ。言わない先に自分で出て行ったのよ。でも、やっぱり、母さんの所為(せい)かしら。二人、答えない。諏訪 そうかもしれない、何故だかわからないけど、やっぱり、あなた達に、あやまらなければならない気がするわ、もしも、母さんが、いけないと思ったら、堪忍(かんにん)して頂戴。母さんは、いくらでもあやまってみたい気がするのよ。二人、答えない。諏訪 須貝さんは、妾達みんなに、黙って、行って了ったのよ。左様ならも言わないで、何処かへ行って了ったのよ。少し酷(ひど)いと思わない。だけど、その方がほんとによかったかもしれないわね。これからはみんな、以前のようにずっと仲よく暮してゆけるじゃないの、厭なごたごたなんかなくって……。美※、啜り泣き始める。未納 お姉さん! お姉さん!美※ 妾、あの人に、いけなかったわ。ほんとに……いけなかったわ。諏訪 そうじゃないわ。母さんが、悪かったの、御免なさいね。さ、もう……(ハンカチを出して渡す)あなた達にそう言われると母さんが困るじゃないの。妾はみんなの為にいいようにって考えただけなのよ。ほんとに何うすればよかったんでしょうね。こんな気持じゃァとても明日の晩は舞台で踊れやしないわ。どうしようかしら……。でももう、止めるわけにはゆかないし……。未納 可哀そうに……。この家を出て行って、あの人一体何処へ行くんでしょう。あの人は、やっぱり妾の仲良しだわ。(泣き出す)心配だわ。諏訪 泣かないで頂戴。さあ、二人共どうしたの、元気を出して頂戴。妾はまた何故あんなに腹を立ててしまったんだろう。そんな風に腹を立てることなんか無かったのに……。未納 悪い人なんかじゃァないわ。みんなに、(しゃくり上げて)みんなに黙って行って了うなんか、あの人がいい人の証拠だと思うわ。美※ あの人と、結婚しないなんて……言ったけれど悪かったわ。ほんとに。未納 そうよ。妾だって、おしまいには……厭な人だと思ったりして……みんな間違いだわ……。諏訪 母さん迄泣いて了うじゃないの……。こら、こんなに涙が出て来て……。(ハンカチを取り戻す)――幕――   (雑誌掲載は『劇作』昭和十年七月、初演は昭和二十五年五月)   
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:81 KB

担当:undef