みごとな女
◇ピンチです!◇
◇暇つぶし何某◇

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著者名:森本薫 

みごとな女森本薫  人あさ子真紀収弘豪奢(ごうしゃ)と言うのではない、足りととのった家庭。人形をかざったピアノが一つ、坐り机が一つ、縁先に籐椅子が二つ、卓。みるところ若い女の部屋らしい。六月。誰もいない。あさ子。二十四。和服。身体つきは大柄で少し肥っているが美しい。時々片手を上げて指先で両の眉を内から外へ撫でつける癖がある。話をさせても他人の調子には頓着(とんちゃく)なく、緩(ゆっく)り句切って云うようなところがある。外出から帰ったところ。すこしの間部屋の真中に立って周囲を見まわし、思い出したようにピアノの前にいく。ちょっとためらった後、ショパンの作品九番の第二の夜曲をさぐりさぐり弾(ひ)き出す。甚だしく拙(まず)い。少し弾いて直ぐ行詰まって了(しま)う。立ち上って、楽譜をさがす。あさ子 (さがすものが見つからないらしく)どうしたのかしら……。(もう一度、そんなに多くもない楽譜をパラパラ繰る)あ、そうか……(楽譜を放り出してピアノを離れ、ゆっくり縁側へ出て、又入って来る。机の横に置いた小物入れから作りかけにした衣装人形を取り出し、縁側に行って椅子にかける)真紀。四十七。ずっと若くみえる。真紀 (縁づたいにきて通り過ぎそうになって気がつき)おや。あさ子、あなた何時(いつ)帰ったの?あさ子 たった今よ。薬局ん中でみてたんじゃないの。真紀 いいえ、ちっとも知らなかった、母さん。あさ子 そう。みてるんだと思ってた。御免なさいね。真紀 それはいいけれど。また行かなかったのね。(にやりとする)あさ子 あら母さん、行ったわよ。真紀 お弁当を届けさせたら、おいでになりませんって、変な顔して帰ってきたよ。ほんとは何処(どこ)かで遊んでたんだろう。あさ子 ひどいわ。そうじゃないのよ。ほんとに、行ったことは行ったのよ。そしたらね、よし子さんが、帯留(おびどめ)ね、先(せん)から言ってたでしょう、あれを買いに行くから付き合って呉(く)れって言うの。真紀 お裁縫は厭だし、丁度幸いと言うところね。あさ子 でもお友達がそう言うもの仕方がないわ。おつきあいよ。真紀 此の間お師匠さんにお目にかかったら、何て仰言(おっしゃ)ったと思う? あなた。あさ子 なんて?真紀 止(よ)そう。可哀そうだから。あさ子 あらあら母さん、何んて仰言ったのよ。言いかけといて止めるの? そんなことってないわ。さあ、母さんったら。真紀 何です? それは。あなたいくつ?あさ子 だって。じゃ言って呉れる?真紀 薬学校の方じゃ優等生だったそうですが、お裁縫の方じゃ劣等生です、って。卒業の見込無いそうですよ。あさ子 まあ! 嘘でしょう。真紀 自分で訊(き)いてみるといい。あさ子 あたしが訊いたら、そのとおりって仰言るにきまってるわ。真紀 自分でわかってれば、それでいいさ。あさ子 そうじゃないの。真紀 あなた、自分で、いけないって言われることがわかってれば、少しは精を出すものよ。あさ子 違うんだったら、母さん。お師匠さんはあたしを揶揄(からか)うのよ、そんな風に言って。真紀 あきれたひとだ。それで、あなた自分では一人前の腕のつもり?あさ子 卒業の見込み無し、ってほどではないと思うわ。真紀 (呆(あき)れた感じで)ふむん!あさ子 何よ、母さん。真紀 だってあなた。(笑う)あさ子 厭な母さん。真紀 あなたのお裁縫は、私が見たって、到底(とうてい)卒業の見込みはありゃしないよ。あさ子 あら。(悄気(しょげ)て)困るわ。あたし、ちっとも怠けてなんかいやしないのよ。だけど、あれでしょう三年間ちっともお針なんか持たなかったんだもの。そりゃ、女学校の時分はやったけれど。真紀 そうかな、女学校の時分だって、大概母さんが代ってやっていたようよ。あさ子 そうだったかしら。真紀 厭だよ、此(こ)のひとは。そうだったかしらもないわ。あさ子 でも、古い話だから憶えてやしない、あたしは。真紀 させられた方で忘れないからいい。あさ子 母さんは物憶えのいい方よ、どっちかって言うと。真紀 あなたにはかなわない。あさ子 どうして?真紀 どうしてでも。(笑う)あさ子 (わけわからずに笑う)間。真紀 もう出来るの? それ。(あさ子の持っている人形を頤(あご)で示す)あさ子 も少し。真紀 今、何処をやってるの?あさ子 裾廻(すそまわ)しんところ。真紀 此の間中のと、また違ってるの?あさ子 ――。真紀 ねえ。あさ子 え?真紀 また違うのをやってるのかい?あさ子 そら、とうとう間違えちゃった。母さん、いろんなこと言うから、ほら(示して)こんな。真紀 だってあなた、さんざんひとに喋(しゃべ)らせといてちっとも聴いてやしないじゃないの。あさ子 だから、何よ。なに言ってたの、今。真紀 つまり、ね、あら厭だ、つまりなんて話じゃなかったのよ。少しは真面目に他人(ひと)の話を聴くものよ。あさ子 真面目に聴いてるわ、あたし。でも、何の事だか、訳が分らないんだもの、これ以上真面目になんてなれやしないでしょう。真紀 だからさ、一体どうする考え? そんなに次から次へお人形の着物ばかり慥(こしら)えて、お人形屋でも出すつもり?あさ子 出来たら、そうしたいわ。真紀 そんなこと言って、母さんを揶揄うんじゃないでしょうね。あさ子 どうして?真紀 どうしてって、そうじゃないか。あさ子 でも、あたし、することがないんだもの。真紀 することならいくらでもあるじゃないの、他に。あさ子 どんなこと、じゃあ?真紀 そうね、お茶をたてるとか、お裁縫だとか。その他にも、花を活(い)けるとか、それからまた時にはピアノをさらうとか、何だってあるよ。それだけあれば、為(す)ることが無いなんて言やしないな、母さんなら。あさ子 そうかしら。真紀 贅沢(ぜいたく)よ、あなた。あさ子 でもね、あたし薬専へ行ってた間、ちっともあんなことしなかったでしょう。だからこの頃になって急にあれやこれや一遍にやり出すとね、母さん怒っちゃ厭よ、怒りゃしないわね、あたし、あんなものがみんな、なんだか、こう大変な大仕事みたような気がして仕方が無いの。木曜がお茶で、土曜がお花、月曜がピアノでその他の日がお裁縫でしょう。だからそのほかの時に、独りでやってみる気なんて、起りやしないの。そのくせ、じっとしてると、……長い間学校にいた所為(せい)かしら。真紀 ――。あさ子 時々、あたしね、お友達のことなんか、考えてみるのよ。野田さんやなんか、どうしてるかしらん、なんて。真紀 お嫁入りなすった方かい。あさ子 医学部の研究室にいるひとよ。真紀 ――。あさ子 あたしもしばらく、あそこにいたわね。あたしが家へ帰ることにきまったので、代りにあのひとが行ったのよ。真紀 あなたは、今でもやっぱり、あの、理化学研究所に入らなかったことを、何とか思ってるんじゃない?あさ子 ――。真紀 そりゃ、惜しいには惜しいだろうけど、先生方もあんな風に言って下すったのだし。あさ子 (笑って)母さん、あたしもう何とも思ってやしない、それなら。真紀 そう、そんならいいけど。間。あさ子 此の間、慥えた人形ね。収さんが持って帰ったのよ。あれが一等出来が悪いんだのに。真紀 どうして、そんなのを持って帰るのだい、あの人。あさ子 しらないわ。変な恰好(かっこう)してるのよ、そりゃ。他のと取り換えるからって言うのに、これでなくちゃ厭だってきかないの。真紀 変梃(へんてこ)な所はあなたの感じが出てるんだろう、きっと。あさ子 ひどいわ、母さん。真紀 あれで、いろんなことをやってみるらしいね。あさ子 収さん? 建築の写真なんか集めてるのよ。真紀 文学部なんだろう。あさ子 ほんとは芝居の勉強がしたいんだって。真紀 芝居って。あの芝居かい、歌舞伎やなんかでやっている。あさ子 さあ、あたしにもよくわからないんだけれど。真紀 変なものをやるんだね。他にすることがありそうなものを。あさ子 だって、そりゃ、仕方が無いと思う。母さん嫌い? あのひと。真紀 好きさ。いい人だもの。けどやってることはね。あさ子 文学?真紀 あんまり好きじゃないね。あさ子 あたし達は解らないのよ。家じゃ、みんな化学なんだもの。真紀 それで、あなたにも始終(しょっちゅう)そんな話をするの文学とか、芝居とか。あさ子 ちっともよ。あたしがそんな話をし出すと妙な顔をするのよ。真紀 解からないときめてるんだね。あさ子 きまりが悪いのよ、きっと。赧(あか)い顔するのよ。真紀 何考えてるんか、わからないね、若い人って。それじゃ、いつも、どんな話をしてるの?あさ子 話なんてしやしない。真紀 でもピアノのお稽古が済んだら直(す)ぐ帰っちまうってわけじゃないでしょう。先生がお帰りになってからだってあなた達、随分、調子にのってお喋りしてるようよ。あさ子 母さん大概傍(そば)にいるじゃないの。真紀 いない時のことよ。あさ子 いない時だって、おんなし。真紀 昨日はお天気だったが明日は雨だろう、とか、家の二階の梯子段(はしごだん)は十二段だけれどあんたんところは何段ですって話だの、そんな話ばかりかい。あさ子 そんなに何時も何時もお天気の話ばかり、しやしない。真紀 あなたのは、大概そのへんよ。あさ子 (睨む)まあ。あさ子、指先で眉を撫でつける、之で三度目くらい。真紀、真似る。あさ子 母さん!真紀 私が言うのよ、それは。わるい癖よ。あさ子 憚(はば)かりさま。真紀 いくつだい、収さん。あさ子 (拗(す)ねて)しらない。真紀 二十、四?あさ子 三。真紀 じゃ、一つ下ね、あなたより、そうは見えないねえ。あさ子 老(ふ)けてみえる方ね。真紀 男はその方がいいんだよ。あさ子 女は?真紀 女はあなた、(気を換えて)莫迦(ばか)なことを訊(き)くものじゃない。何時だってそれよ、あなたは。(間、一寸躊(ためら)った後)あなた、此の間、よし子さんのところへお招(よ)ばれして行ったね、お祭とかで。あさ子 え。真紀 あの時、何方(どなた)かに会ったあすこで。あさ子 いいえ。真紀 そう。あさ子 よし子さんのお兄さんって、あんな方あたししらなかった、あの時迄。真紀 会ったのかい。その方に。あさ子 鈴木内科へ出てらっしゃるんですって。真紀 弘さんて方だね。あさ子 あら母さん知ってるの?真紀 そりゃ……あなたの知らないことで私の知ってることだってあるさ。間。真紀 (何か云いそうにする)収、黙って静かに入る。痩せた学生。二十三。あさ子 来た来た。真紀 (驚いて振返る)あら。収、笑って一寸頭を下げる。真紀 なんです、あさ子。来た来たって何?収 兎を追い出してるつもりですよ、おばさん。真紀 ほんと。失礼よ。あさ子 (大きな声で笑う)収 怪(け)しからんね。他人が入ってくると、いきなりげらげら笑うって法があるかい。あさ子 今ね、今、あんたのことを言ってたの。真紀 あさ子。あさ子 母さんね。あんたの悪口言ってたのよ。だから慌(あわ)ててるの。(笑う)真紀 嘘よ、あさ子がそう言ったの。あさ子 あら、あたしじゃないわ。自分こそ。収 どうも大変な所へ入って来たらしいなあ。
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