椰子蟹
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著者名:宮原晃一郎 

        四

 蟹(かに)はこうして箱のまま汽船の甲板(かんぱん)に積み込まれ、時々汐(しお)につけられ、時々蓋(ふた)を少しあけては古臭いコプラを喰べさされました。そこには夜もなく、昼もありません。いつも真暗(まっくら)で、いつも変な臭(にお)いがして、そうぞうしい音や、人の声がしております。蟹は日本から来た学者たちに生きた標本として、捕(とら)われたのでした。けれども自分ではそんなことは知りません。ただいつもいつも窮屈な思いばかりしておりました。けれども一番困ったのは暗いのよりも臭いのよりも、そうぞうしいのよりも、寒くなって来ることでした。が、暑いところで生れ、熱いところで育った蟹には寒いということは分りませんでした。
「何だか甲羅(こうら)の中で身が縮んでしまう。妙に熱くて、甲羅がピリピリ痛い。」と、蟹は思いました。熱いくるしみだけより知らない蟹には、寒いときの苦しさもやはり熱いからだと思ったのです。
 こんなことが余程(よほど)ながく続きましたので、蟹はすっかり弱ってしまいました。甲羅の色も悪くなり、足も二本ばかりぼろぼろになってもげてしまいました。すると或(ある)ときでした。人が箱の蓋をしっかり閉(し)めるのを忘れたと見え、いっもとちがって、蒼白(あおじろ)い光りが上の方からさして来ます。蟹は不思議に思って、大分(だいぶ)不自由になった足を動かして、その光の漏れる穴のところへ行ってみました。穴はかなりに大きくて、蟹はすぐそこから這(は)い出すことが出来ました。
 外は十二月の夜で、月が真白(まっしろ)い霜にさえておりました。蟹の出たのは神戸(こうべ)の或(ある)宿屋の中庭だったのです。あたりはしんとしております。蟹はふしぎそうに見廻(みまわ)しますと、そこに一本の樹があって、それに実がなっております。
「椰子の実だ。椰子の実だ。」
 蟹はわずかばかり泡(あわ)を口の端(はし)に吹いて、うれしそうにその樹にのぼろうとしました。実はそれは椰子の樹ではなく、その幹(みき)はかたく、すべすべしておりました。その上に蟹は脚(あし)も二本少くなっておりましたからなかなかのぼるのに難儀でした。それでも自分の好きな椰子の実の新しいのを、久しぶりで喰(た)べられるという考えから、一生懸命に樹に登りました。そしてその実を鋏(はさみ)でチョキンと切って落しました。蟹は又(また)難儀をして、樹から降り、その実を割ってみましたが、元より椰子の実が神戸にあろう筈(はず)はありません。まだ見たことのない妙なものでした。そこで又樹に登って、又一つ実をチョキンと切り落しては、降りて来て、喰べようとすると、やはり同じ喰べられない実です。もう一度登ってチョキンと切り落して、降りて喰べようとすると、やはり喰べられない実です、こうして幾度も幾度も登ったり、降りたりして、もう樹の上にはたった一つだけしか実が残らなくなったとき、無理をしていた蟹の力はすっかり尽きて、高い梢(こずえ)からぱたりと下に落ちてしまいました。
 夜(よ)があけました。宿屋の人が起きてみると、風も吹かなかったのに、どうしたものか庭には柘榴(ざくろ)が一ばいに落ちておりました。そうして靴脱(くつぬ)ぎ石(いし)の上に鋏の大きな蟹が死んでいるのを見ると、学者たちを呼んでまいりました。
「かわいそうに、柘榴を椰子と間違えたのだよ。」と、一人が言いました。
「潰(つぶ)れてしまったけれど、まだ形だけは残っている。アルコール潰(づけ)にしよう。」
 可哀(かわい)そうな椰子蟹はとうとう瓶(びん)に入れられて、或(ある)学校の標本室に今でも残っております。




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