旧聞日本橋
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著者名:長谷川時雨 

 八月の暑い午後、九歳(ここのつ)のあんぽんたんは古帳面屋(ふるちょうめんや)のおきんちゃんに連れられて、附木店(つけぎだな)のおきんちゃんの叔母(おば)さんの家へいった。
 附木店は浅草見附(みつけ)内の郡代――日本橋区馬喰町(ばくろちょう)の裏と神田の柳原河原のこっちうらにあたっている。以前(もと)は、日本橋区の松島町とおなじ層の住民地で、多く願人坊主(がんにんぼうず)がいたのだそうだ。附木を造って売ったから附木店の名がある。だが、あたしが連れてかれた時分はそんな場処ではなかった。表通りは何処(どこ)か閑散として、古鉄屋(ふるがねや)や、かもじ屋や、鍛冶屋(かじや)位が目に立ったが、横町は小奇麗(こぎれい)だった。
 おきんちゃんは、一間の格子と一間の出窓をもった家の前で止まった。窓には簾(すだれ)があって、前に細っこい植木が二、三本植わっていた。万年青(おもと)の芽分けが幾鉢も窓にならべてあって、鉢には鰻(うなぎ)の串(くし)をさし、赤い絹糸で万年青が行儀わるく育たないように輪を廻(めぐ)らしてあった。格子をあけると中の間の葭屏風(よしびょうぶ)のかげから、
「きんぼうかい?」
と声をかけた女(ひと)がある。昼寝をしていたのだろう屏風の横からこっちをちょいとみて、きんぼうが一人でないので起上った。
 あたしはその人を立派な女だなあと思って見とれていた。奇麗な女は幾人(いくたり)も見たが、なんだか大々(だいだい)してみえたのだ。色の浅黒い大きな顔で、鼻がすっと高くってしおのある眼だった。剃(そ)った眉毛(まゆげ)がまっ青だった。大きな赤い口で、歯は茄子色(なすびいろ)につやつやしていた。洗い髪がふっとふくれて、浴衣に博多の細帯をくいちがうように斜(はす)にまいていた。
 その女が、団扇(うちわ)をもつ手で、葭屏風をかたよらせながら言った。
「そのお子さんかい、きんぼう。」
 十歳(とお)で、小柄で、ませている、清元の巧者(じょうず)な、町の小娘お金坊は、蝶々髷(まげ)にさした花簪(かんざし)で頭を掻(か)きながら、ええといった。あんぽんたんのことは話しずみの友達だったのだろう。
「やっちゃん、てったのねえ。」
 その女は綺麗(きれい)な、ちりめんの小枕(こまくら)に絹糸の房の垂れている、きじ塗りの船底枕(ふなぞこまくら)をわきによせながら、花莚(はなござ)の上へ座ったままでいった。そばには大きな猫がいた。
 あたしは猫が大きらいだ。おまけに化けそうな大猫で、ふとい尻(し)っぽの長いのだから、なおいやだった。それにもかかわらず、初対面のこの女(ひと)の魅力と、ここの、せまい家(うち)の、八幡(やわた)の藪(やぶ)しらずのような面白さに、おきんちゃんについて毎日通うようになってしまった。
 おしょさん、とおきんちゃんは叔母さんのことを呼ぶ。その時分、好事家(こうずか)の間から、漸(ようや)く一般的に流行しかけて来た、東流(あずまりゅう)二絃琴(にげんきん)のお師匠さんだったからだ。
 ここで、すこしばかり知ったかぶりをいうと――これは九歳のあんぽんたんではなく、その後(のち)十年もの間にぼんやりと知ったものだが――東流二絃琴は明治十七年ごろ世に流行しはじめた。家元の藤舎芦船(とうしゃろせん)といった加藤某は、世をすねて、風流文雅に反(そ)れた士である。高弟藤舎芦雪(ろせつ)、またなみなみの材ではなかった。この後継者が早折(そうせつ)しなかったら、東流二絃琴はもっとひろまったであろうと惜まれていた。
 芦船、芦雪は、歌曲ともに創作する力をもち、九十五曲を作りひろめた。この二絃琴の特長は粋上品(いきひとがら)なのである。荻江節(おぎえぶし)も一中(いっちゅう)も河東(かとう)も、詩吟も、琴うたも、投節(なげぶし)も、あらゆるものの、よき節を巧みにとり入れて、しかも楽器相当に短章につくったところに妙味があった。それゆえ初心者には解せぬ、いうにいえぬうまみを出すことに苦心があったわけである。で、あれもこれもと知りつくした、一流の手練(てだれ)の人たちがならいはじめてひろめた。重(おも)に中年者以上の、生活に余裕のある、ものの音(ね)じめをあげつろう輩(やから)であった。
 よい衆の旦那、御内儀、権妻(ごんさい)――いき好みの、琴はどうも野暮くさいといった人が、これはいいと集まった。明治に生れた楽器である。八雲琴が素(もと)で、竹琴(ちっきん)、一絃琴などが参酌されたものと思われる。九代目市川団十郎が『忠臣蔵』の大石内蔵之助(くらのすけ)で、山科(やましな)の別れに「冬の恵(めぐみ)」を奏(かな)で、また四国旅行の旅土産(たびづと)に、「三津の眺め」の唱歌をつくったので、一層評判になった。宣伝にも抜目はなかったのであろうが、通人(つうじん)である芦船は、求めずしてその道の人たちとも社交(まじわり)があったので、むしろ団十郎の方が、新しい思いつきとして、または自分の好きな道を舞台にとりいれたのかもしれない。片岡仁左衛門も大石をすると二絃琴を弾いたが、調子がととのわないのが耳についた団十郎もしきりに調子を直し直し、芝居が楽になったそうである。
 二絃琴の調子は、糸がたった二筋(にほん)だから単純でいて、そのくせ複雑だ。一体二絃琴の響は一間(ひとま)へだてた方が丸味をおびてよいものだが、しかし、それは弾手の耳と、趣味の深さ浅さによるは論をまたない。もともと小楽器で、小曲的なものに適しているのを、大きな合奏曲の真似までしようとしたところにほころびがある。最初(はじめ)のうちの作曲や歌詞は、それをよく知ってつくられているが、段々大物にしようとしたところに無理がある。
 それは、芦船という人があまり器用すぎたのだろう。道楽で、猿若町(さるわかちょう)の芝居の囃子(はやし)部屋にもいたりしたから、あの楽器へ、長唄同様な囃子をつけた。黒人(くろうと)がきくと、あらゆる囃子の手がもちいられてあって舌をまくというが、そのよき伴奏者のために、細い二本の絃(いと)は悲鳴をあげなければならなくなって、二絃琴の真のよさを失なった嘆きがある。もとより、江戸情緒風物をたすける、影の、軽い伴奏はあってよい、私のいうのは鳴ものにまくしたてられて、ヒステリカルにキンキンならされるのを惜むまでだ――
 きんぼうに連れられて、あんぽんたんが二絃琴のおしょさんの家にいった時分には、もう家元芦船も芦雪も歿(なく)なっていた。直門(じきもん)に、芦質(ろしつ)、芦洲(ろしゅう)、芦総(ろそう)、芦寿賀(ろすが)らが残っていた。きんぼうのおばさんがその藤舎芦寿賀(とうしゃろすが)なのである。
 芦質さんという女が一番名望家らしかった。青白い、神経質らしい、その仲間でのインテリ夫人(おくさん)だった。薄い髪の毛を上品に、下の方へ丸めた束髪で、白っぽい風通(ふうつう)か小紋ちりめんを着て、黒い帯をしめ、金歯が光っていた。斯波(しば)さんの御新造(ごしんぞ)といって、浅草蔵前の方にいたから、もしかすると民政党の斯波氏のおうちの方だったかもしれない。この女(ひと)が家元の格をもっていたようだった。
 日本橋伊勢町の方に芦洲さんは住んでいた。肥(ふと)った黒い、立派な押出しのおかみさんだった。大きい、勢いのいい店の内儀だったのだろうと思う。いま、東流二絃琴の正統な弾手として奮闘しているのは、この人のお弟子さんたちにちがいない。ごく若い娘さんたちで、名取になっていた人のあったことを思いだす。この派の弾き手なら、直門の正しい手法といえるだろう。ただ、私の子供の耳にも、やや余情のない、勢いのいい、ハッキリした芸風と思えた。
 二絃琴は歌が――節がむずかしい。私はそんなふうにおぼえた。芦寿賀さんは節がやかましかった。曲をおぼえればそれでいいとしなかった。尤(もっと)も、それは、きん坊とあんぽんたんだけで、あとの人は普通(なみ)に、器楽の方を主にして教えはしたが、二人の子供は歌の方が三日、琴(きん)の方は一日で自分から弾けてしまった。
 あんぽんたんは、二絃琴がどんなものか、おぼろげながら知っていた。私の家にも芦船師が来たのだそうだが、そんな事は知っていない。ただ二絃琴という名は知らないが、おしょさんの家で見るそれとおなじ楽器が私の家(うち)にもあったのだ。父が時たまとりだして、安座(あぐら)をかいて、奏管(ろかん)(琴爪)で琴につけた譜面の星を、ウロウロ探しあてて弾いていた。大かた九世団十郎時代の、お弟子の一員ででもあったのであろう。父はその琴を撫(なで)ていった。
「これは芦船の形見だよ。」
 後にわかったのは、薬研堀(やげんぼり)にいた妾(ひと)は、日本橋区堀留(ほりどめ)の、杉の森に住んでいた堅田(かただ)という鳴物師(なりものし)の妹だった。今でも二絃琴の鳴物は、鼓(つづみ)の望月朴清(ぼくせい)の娘初子が総帥(そうすい)である。

 おしょさんの家は格子戸の中が半間(はんげん)のたたきに二畳、となりに窓の部屋、中の間の八畳にずっと戸棚があって、一方の壁に箪笥(たんす)がならび、その上に一ぱい細かいものが飾られてある。そのさきが長四畳(ながよじょう)と台所ののれん口がある。長四畳の縁は台所の後までついていて鉢植ものの棚と、箱庭と金魚鉢の小庭がある。庭口から女中さんが厠(ごふじょう)へくるときは、外で下駄をぬいでくるほど小庭の中はきれいで、浜でとれる小貝や小砂利が磨いてしいてある。外は紺屋(こうや)の張り場だった。塀外に茄子(なす)の花が紫に咲いて、赤紫蘇(しそ)のほが長く出ていた。
 外(おもて)の窓の部屋に、硝子(ガラス)戸の戸棚と小引出しがずっとならんでいたが、おしょさんの連合(つれあい)の商業(しょうばい)は眼鏡のわくとレンズを問屋へ入れるだけで、商品が量(かさ)ばらない商業だった。時々下職(したじょく)が註文をうけに来ていた。連合は開港場の横浜で手びろくやっていた、派手な商館相手の商人だったが、おしょさんのために逼塞(ひっそく)したということだった。らっこのトルコ型の帽子に、ラクダの頸(くび)巻きをして、外国人のような高い鼻をもった大きな人だったが、家にいる時は冬は糸織のねんねこを着、夏は八端(はったん)の平ぐけを締めて、あんまり話はしないが細かく気のつく人だった。
 おきんちゃんのうちも日蓮宗狂だが、此家(ここ)の二人もそうだった。長四畳には帝釈様(たいしゃくさま)の髭(ひげ)題目の軸がかかっていて、お会式(えしき)の万燈(まんどん)の花傘の、長い竹についた紙の花が丸く輪にして上の方にかかっている。軸の前の小机には、お燈明(とうみょう)やら蝋燭(ろうそく)台やら、お花立やらお供物(もりもの)の具や、日朝上人(にっちょうさま)のお厨子(ずし)やら、種々(さまざま)な仏器が飾ってある。
 おしょさんは、その部屋の、真中の柱に、長い柱鏡のかかっている前に、緋(ひ)の毛せんを敷いて二面の二絃琴にむかって座っている。すべての小道具は、燦然(さんぜん)とみな磨かれて艶々(つやつや)している。座ぶとんの傍に紫檀(したん)の煙草盆があって、炉扇(ろせん)でよせられた富士山形の灰の上に香(こう)がくゆっている。二面の二絃琴の間には、漢方医がもたせてあるいた薬箱が、丁度両横から押出すようになっていて具合がよいので、薄い横とじの唄本(うたほん)をおくためにおかれてあった。六ツばかりある引出しには、絃(いと)や、小鋏(こばさみ)や、懐中持ちの薬入れに入れた、絃に塗る練油(ねりあぶら)などが入れてあった。おじさんは、おしょさんのために、子供たちの琴の譜をさし示す銀の細い、消息子(しょうそくし)のような棒をつくらせてくれたりした。
 おしょさんが髱(たぼ)をかきつけている巧(うま)さ――合せ鏡で、毛筋棒(けすじ)のさきで丸髷の根元を撫(なで)ている時鬘(かつら)のように格好のいい頭を、あんぽんたんは凝(じっ)と見つめていた。七日目(なぬかめ)でも結いたてよりきれいで格好もよかった。私は夏の日、日盛りを稽古にゆくが、おしょさんの邪魔はしなかった。おしょさんが寝ていても、お客様があっても、髪結いさんが来ていても、お湯にいってきてからでもお化粧がすんで、さあはじめましょうよといわれるまで、幾時間でも、待てば待つほどおとなしくよろこんでいた。なぜなら、おしょさんのうちには、くさ双紙(ぞうし)の合巻(ごうかん)ものが、本箱に幾つあったかしれない。それがみんな、ちょいと何処(どこ)にもあるようなのではなかった。品も新らしいように奇麗で、みんな初版摺(ず)りだったから、表紙絵の色刷(ず)りも美事だった。
「ヤッちゃんは大事に丁寧に見るから。」
 おしょさんは誰も他に人がいないと、秘蔵な『田舎源氏』まで出して見せてくれた。
「ヤッちゃんは絵を見るばかりじゃない、ちゃんと読むんだからな。」
 おじさんも同感であるといった。だから向うでも長い日のうちには、私は半日いようと邪魔にならない存在になって、ちょいとした留守番もする。そこらにのそのそしていても、猫とおんなじ位の身うちあしらいだった。ある時おじさんがうんうんいって押入れの葛籠(つづら)を引っぱりだして暑いのに何をはじめたんですとおしょさんが小言をいった。
 古い錦絵(にしきえ)――芝居の絵を沢山に張った折本(おりほん)を、幾冊かだしてくれた。私の家にもそれらはいくらかあった。だが、ここのように系統だって集めたものではない。夫婦は熱心に、これはなんという役者で誰の弟子、当り芸はなにで、こんな見得(みえ)をした時がよかったとか、この時の着附けはこうだとか、誰の芸風はこうで彼はこうと、自分たちの興味も手つだってよく話してくれた。
 小伝馬町の古帳面屋の店蔵(みせぐち)の住居の二階で時折見かける、盲目(めくら)で坊主頭(ぼうさん)のおばあさんが、おしょさんのうちにも時々来てとまっていた。
 紺ぽい麻の単物(ひとえ)を着て、唐繻子(とうじゅす)の細い帯をキチンとしめている盲目のお婆さんは、坊主頭でもいきな顔立ちだった。彼女は縁側にちかい伊予簾(いよす)のかげに茵(しとね)を敷いていて――縁側には初夏ならば、すいすいと伸びた菖蒲(しょうぶ)が、たっぷり筒形の花いけに入れてあったり、万年青(おもと)の鉢があったり石菖(せきしょう)の鉢がおいてあったりした。おばあさんは長刀(なぎなた)ほおずきを鳴らすのが好きで、
「おッさん、あっしにも一本おくれよ。おやおや、こりゃばかにいいんだね。」
なんて、楽しんで、さきを切ってもらって器用に鳴らした。丈(たけ)が二寸からある、長刀(なぎなた)ほおずきは、その時分でも一本一銭五厘から二銭位した。
 その坊主頭の盲目のおばあさんが、キンボウとヤイチャンを前にならべて、銹(さび)た渋いのどで唄の素稽古(すげいこ)をする。そばで聞いていて二絃琴の唄はすっかり暗唱しているのだ。おッさんの――おしょさんというのがそうきこえる――あすこんとこは巧(うま)いね、好(い)い節(ふし)だなんていう。この坊さん昔はよっぽどそれ者だったのに違いない。横網河岸(よこあみがし)の備前家(びぜんさま)(今の安田公園の処)のお妾(めかけ)お花さんが、毎日水門(すいもん)から屋根船を出して、今戸河岸(いまどがし)の市川権十郎(かわさきや)の家へいったのでお家騒動が起り、大崎の下邸(しもやしき)へ移転するという噂(うわさ)から、この坊さんもそんなような前身で、大崎の下邸には由縁(ゆかり)のお墓もあるといった。
「御前様(ごぜんさま)はお美しい方だったね、殿様が知事様におなりになった時、御一所にお立(たち)になるので両国の店の前で、ちょいと御挨拶もうしあげた時見上げた事があるけれど、大きなお眼で、真っ黒なお髪に、そりゃあ鼈甲(べっこう)の笄(こうがい)がテラテラして、白襟に、藍(あい)色の御紋附きだったけれど、目が覚めるようだった。」
とおしょさんもいった。両国の店ってなあにと聞くと、
「困ったねえ。」
と母娘(おやこ)して笑った。おしょさんの家(うち)の軒燈(けんとう)には山崎(やまざき)としてあるが、両国の並び茶屋の名も「山崎」だったと坊さんのおばあさんがいった。
 あんぽんたんの好奇心は拡大(ひろげ)られた。並び茶屋を出したおしょさんの若い時分はどんなだろう、盲目のおばあさんの、大名のお部屋さま時代はどんなだろう。そこに、くさ草紙(ぞうし)の世界が現われ綿絵の姿が髣髴(ほうふつ)とした。田之助(たのすけ)が動き、秀佳(しゅうか)が語る――
「ヘイ、お暑う、伝吉でございます。」
 芝居茶屋の若い衆――といっても、もう頭の禿(はげ)ている伝さんが、今戸(いまど)のおせんべいを持ってくる。
「いい香(にお)いだね。」
 おしょさんは袋をあけて見ながらいう、そこのおせんべいは、持ってくる時間をいって、頼んで焼いておいてもらうのだから、ほんとの親切を悦(よろこ)んですぐお茶を入れさせる。
「こんどはひとつどうぞ。」
 芝居の話と伝さんの娘の話をして、さんざい袋をもらってかえる。と、入れちがいに、
「へえ、伝さんが来ましたか?」
と女中さんと話ながら清(せい)さんが入って来た。伝さんとおなじの、黒い、麻の着物の尻(しり)はしょりをおろして、手ぬぐいで、麻裏草履を穿(は)いて来た足前(つまさき)をはたいて、上って来て、キチンとお辞儀をした。
「お暑うございますな。」
 茶献上(ちゃけんじょう)の帯の背にはさんだ白扇をとって、煽(あお)ぎながら、畳んだ手拭の中をかえして頸(くび)を拭(ふ)いた。小判形の団扇(うちわ)が二本、今戸名物、船佐(ふなさ)の佃煮(つくだに)の折が出される。
「川崎屋までまいりましたから、これは私のわざっとお土産(みやげ)で。」
 清さんの兄貴は、川崎屋権十郎の古い男衆だった。
 こういう人たちは、中村座が閉場(あけ)ば中村座の何屋へ、新富座ならば何処(どこ)と、三、四軒の芝居茶屋を助けもするが、歌舞伎の梅林(ばいりん)とか三洲屋とか、一、二の茶屋で顔のうれている男衆たちだった。
「毎年是真(ぜしん)さんでござんすから、今年は河竹さんのにお頼みいたしまして――」
 それは団扇の絵のことだった。河竹さんとは、本所(ほんじょ)に住む黙阿弥翁(もくあみおう)のことで、二人娘の妹さんが絵をかき、姉さんはお父さんの脚本のお手伝いをした。
 おしょさんの家(うち)には、そうした団扇に虫がつかないように、細い磨竹(みがきだけ)に通して、室(へや)の隅に三角に、鴨居(かもい)へ渡してあった。
「おしょさん、今年のお浴衣(そろい)は、大層好(い)いっておはなしですから、夜(よ)芝居で、お浴衣(ゆかた)見物でございますから、ひとつどうぞ、御見物を――」
 おしょさんは、今年も船で納涼の催しをと考えていたのをやめて、自慢の、その頃ではめずらしい素鼠地(すねずみじ)の、藤の揃い浴衣で見物することにきめる。
 二絃琴を拡(ひろ)めようとする気持ちと、おしょさんの派手ずきとから、引幕(ひきまく)を贈ることもあった。藤の花の下に緋(ひ)の敷もの、二絃琴を描いてあとは地紙(じがみ)ぢらしにして名とりの名を書いたりした。
 お坊さんのお婆さんは、――伊藤凌潮(いとうりょうちょう)という軍談読みの妻君になって、おしょさんや、おしょさんの姉さんで、吉原で清元で売った芸者――古帳面屋のお金ちゃんの義母(おっか)さんや、末の妹の、その時分には死んでしまってたが、阪東百代(ばんどうももよ)という踊りの師匠のお母さんになったのだ。おしょさんが若かった時、太政官の参内の馬車の腰かけの下へかくれていったと、やかましく噂(うわさ)された事もあったそうだ。お若い××様が御巡幸の時、百代と二人ならんだ姿をお見詰めになって――たしかにお目にとまったのだが、まだお歯黒をおつけになって、お童様(ちごさま)だったから――なんて話もきくともなくきいた。




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