芳川鎌子
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著者名:長谷川時雨 

       三

 さてそこで、家出当時の鎌子の服装が思いがけぬ疑惑を他人(ひと)に与えている。緋(ひ)ぢりめんの長じゅばん、お召(めし)のコートというところから、伯爵家の若夫人の外出の服装ではないといい、わざとああした目立たぬ扮装(ふんそう)をしたのであろうとも言い、取りいそいで着のみ着のまま出たのであろうとも言われた。そしてそれならば、最初家出の時には死ぬつもりではなかったろうといい、死をきわめていたからこそそのままで飛出したのだといい、死ぬのならば千葉までゆかずともの事であり、翌日を待たずともだとも難じられた。けれどその時間の長短は、その人たちには実に余儀ない推移で、思いきりや諦(あきら)めでは到底満足されない生死の葛藤(かっとう)が無論あったはずだ。決断がにぶいといったものもあるが、彼れらは決して拈華微笑(ねんげみしょう)、死を悦びはしなかったのだ。出来ることならば生のよろこびを祈ったのだ。充分に生の享楽を思う魂が二個結びついて、それをこの世に保存する肉体を捨てようとする愛着切離の葛藤。女が腹痛といって打伏していたのも、その姿をまとも見ているに忍ばれなくなって、男の頭が狂暴になり芸者にでも騒がせて、悲苦をごまかそうとしたに無理はすこしもなかった。
 男が一度跳(はね)飛ばされながら、瀕死(ひんし)の女を抱いて、決して一人では死なせないという事を耳に口をよせて繰返しきかせて後自刃したのは、彼れの品性の高く情操のいかに清らかで、純な情熱の所有者であったかという事を一般に認めさせ非常に同情を集めた。
 その当時、ある夜私は三人の青年文学者と、(三富朽葉(みとみきゅうよう)・今井白楊(いまいはくよう)・三上於菟吉(みかみおときち))ふとしたはめからその事について言争った。三人の男性も真剣になって説を通そうとした。へなへなした私も、へこまされまいとして自分の所信だけは曲げなかった。暁の鶏の声が聴(きこ)えるまで春の夜の寒さに顫(ふる)えながら、互いに論じ語った。もうなかごろから倉持と鎌子夫人の名は預けおかれて、高遠な芸術と理想論とになってしまったが、つまりいつも男性はあらゆる複雑さを通り越して、単純に帰一させようとする純粋性というものにむかって突(つき)進むが、女性はある事に触れるたびにその環境に動かされやすく、感情に殉じやすいのは当然である。それゆえに彼れらの同情は年若く、熱情に充(み)ちたらしい青年の方へばかり傾くと――しかし私はやっぱり鎌子のために、一切の彼女の生活の背景を考えてやらずにはいられない。女性として、女のために言い争った。
 またある日、ある宗教家に面会したおり、ふとその夜の論難を語ると、その人はこういった。もとよりその円頂黒衣の人は洒脱(しゃだつ)な気さくな人であったが、こともなげにその解決をつけてしまった。
「あなた方はあまり深く人心を洞察(どうさつ)しすぎるよ。あれは倉持が惚(ほ)れていたのです。それにちがいはありません。そして嫉妬(やきもち)も男の方が焼いたのさ。あの晩の酒だって、泣いていたのだって、みんな儘(まま)ならぬからこそ憤(いきどお)ろしくなったのです。私はそういう例を沢山に知っている。自分の方が愛されていると知っていながら妬(や)くのです。当然のことでありながら、主人の寝床をつくるということにさえ堪えられない憤懣(ふんまん)を忍ぶことが出来ないのです。なんであの晩、家を出る時から合意なものですか、女の方では、可愛いには可愛いが、どうして宜(よ)いか分らないほど困らせられてしまって、なだめるために外へ出たのです。だから女は帰ってくるつもりであった。男だって無論そのおりにどうしようと決心していたのではないが、どうしても抑(おさ)えられない本能から無理と知ってあんなところまで行ってしまったのです。心中なんていうのはそれらの絡(から)みあった結果で、都合よくゆけばああしようと思ったのでは決してない。女の方では困った事になってしまったなあと思った事もあるに違いない。男の方では段々と執着が増していったのだ」
と至極(しごく)ありふれた解釈を、手やすく下してしまった。普通それが早分りのする人情世故(せこ)に通じた一般的のものだけに、金持ちや、物分りのいいという世間(せけん)学通(がくつう)の人たちのいう事はこれと一致した。そしてこれらの人々の皮相な解釈ほど、人間本然の心の秘密から遠いものはなく、したがってこれらの人々の、その人自身の心の生活ほど貧しいものはない。

 生命を取りとめた――再び春の日の光を、病院の窓に眺めた彼女の意識にのぼったものは、まず何であったろう。いうまでもない倉持の最後のきわの絶叫でなければならない。彼女は混沌(こんとん)たる状態のおりからも彼れの名を無意識に叫んだが、自分がこの世に生残ったと知ると、心にかかるのは彼れの身の上であった。けれども、彼女の恢復(かいふく)しかけた意識は例によって、血潮の洗礼を受けたあとでも因襲道徳に囚(とら)えられていた。それを明瞭(はっきり)と聞きただす勇気はなくって、いたずらに悶(もだ)え苦しんだ。彼女はおりおり堪(た)え兼(かね)たように、
「帰るのだから自動車を呼べ」
と附添いのものに命じた。
 自動車といえば倉持に密接な関係があるゆえ、それによって彼れの生死いずれかの安否が聞けるものと思ったらしかった。けれども附添っていたのは本邸から番人によこしてある書生だけで、看護婦たちと声をあわせて、よくなれば院長の方から退院を許すと、口止めをされた倉持の安否はすこしも彼女に知らせなかった。彼女がその場合欲したものは、厚き手当でも医薬でもなかった。たった一言(ひとこと)、彼れの安否を聞きさえすれば心は落ちついたのである。それは倉持が約束を変えず、後を追う気で自殺したといえば悲しみもし、気も狂わしく、医薬を尽しても助からなかったかも知れない。けれど、その場合、回復させるばかりが仁であろうか、長い恥辱をあたえてまで助けておくのが情であろうか?
「自動車を持って来い、退院するのだから」
と彼女は叫び、
「まだ御全快になりませんから」
と宥(なだ)めるのがいつもきまった文句であると新聞は伝えた。その悲しい叫びを駄々(だだ)といった。狂わしいほどに気に懸(かか)るものの安否は知れず、やる瀬なき絶叫は神に救いを求める讃美歌となって高唱された。

おもひいづるも はづかしや
ちちのみもとを はなれきて
あとなきゆめの あとをおひ
むなしきさちを たのしみぬ

ならはぬわざの まきばもり
くさのいほりの おきふしに
ひとのなさけの うすごろも
うき世のかぜぞ 身にはしむ

やれしたもとに おくつゆも
ちちのめぐみを しのばせて
無明のやみは  あけにけり
いざふるさとへ かへりゆかん。

 新聞紙は、この讃美歌は新約路加(ルカ)伝第十五章第十一節より第三十二節に亙(わた)り、放蕩児(ほうとうじ)が金を持ち、親や兄を捨て旅行して遊蕩に耽(ふけ)り、悉皆(すっかり)費消し尽して悲惨なる目に遭(あ)い、改心するまでを詠(よ)んだもので、鎌子夫人の身の上に似通う点があるから面白い――と言っている。面白いという言辞はかなしい。
いざふるさとへかへりゆかん――
という文句があるとて、彼女はのめのめと、父の邸(やしき)へ帰ってゆこうといってその節を唄(うた)ったのではない。彼女が父と呼んだのは天の父をさしたのである。彼女が唄った故郷は麻布の家ではなくて、霊の故郷、天国なのである。彼女は知っていたのだ。彼女の魂は彼れの霊に呼ばれていることを感じたのだ。

 鎌子は自殺教唆罪(きょうさざい)だがとある法曹(ほうそう)大家は談じた。教唆は精神的関係、即ち脅迫して承諾させ、口説(くど)いて同意をさせたものを含むのであるゆえ、鎌子がさきに線路に飛込み、倉持がその後を追っているから地位資格上倉持はむしろ殉死したのだ。であるから法律上から見ると一種の脅迫的自殺と見なし、二百二条を適用して、六カ月以上七カ年以下の懲役または禁錮(きんこ)に処罰するのが相当だが、裁判所もこれまで充分に社会的制裁を加えられたものに対し、この上法律上の制裁まで加えまいと思うと述べた。
 同族間ではまた非常な非難で、宮内省ではどう処分するかという議論が沸騰した。華族監督の任にある宮内省では、芳川伯爵家が鎌子に対しどんな処分をとるかと注目していた。その上で、断乎(だんこ)たる処分に出ようとする意嚮(いこう)をほのめかした。やむをえない場合の手段とは、華族令の規程に則(のっと)る、宗秩寮(そうちつりょう)審議会に附して厳重な審議の上、処分法を講じて御裁可を仰ぎ、宮内大臣が施行するというのである。無論軽くてはすむまいとされたが、その前に伯爵家で適当な処置を取れば不問にしようとするのだと伝えられた。けれども、それは寛治氏から離婚をするだけではすまされない。伯爵家から籍を削除(のぞ)けば、そこではじめて平民になるのゆえ自然宮内省は管轄外となるのだとも噂された。
 千葉県警察部長の談では、警察官吏、及(および)警察医の報告によれば合意の心中であった事が明確ゆえ、たとい相手方の一人が仕損じて生存していたとて何らの犯罪も構成しない。ただ道徳上の責だけだと断定されていた。
 ただここに聞逃(ききのが)すことの出来ないのは、宮内省の法令に精通せる某大官曰(いわ)くということである。その人ははばかりもなくこう言っている。
「今回芳川家に起ったような事件に関しては、別に華族懲戒令というものがあって、もしその事件が訓戒すべきものならば宮内大臣の独断をもって、また譴責(けんせき)すべきものならば委員会の決議をへて取扱うことになっている。即ち芳川事件がもし懲戒すべき性質のものならば右の懲戒令によることだろうと思うが、それにしても従来この事件に比するものは華族間に決して例が少なくない。ただこんどはああして世間に知れ渡ったというにすぎぬから、従来の例から推考すると別に懲戒に附するほどのことはあるまいと思う」
というのである。
 明子(はるこ)氏の説は此処に来て意義あるものとなった。全く鎌子はそうした階級の迷夢を醒(さ)まさせる犠牲になったのである。そしておなじような位置に置かれてある人たちに、たしかに何らかの印象を与え、覚醒をうながしたことはいうまでもない。
 鎌子を生ました老伯爵のその間の心意はどんなであったろう。老後の悲劇である。明治維新のおり赤忠をもって贏(か)ち得た一切の栄誉は、すべてみな空(むな)しくされたものとなった。老後の栄職である枢密院の副議長の席も去らなければならなかった。彼の人は門戸を深く閉じて訪客を謝し、深く深く謹慎していた。そして一切弁解の辞を弄(もてあそ)ばなかった。この老伯のいたましい立場には、いかなものも同情せずにはいられなかった。誰れにもまして怒りも強かったであろうし、また悲しみも深かったであろうが、子の親である人のそうした場合には、明瞭(はっきり)と自分の不明であった事に頷(うなず)かなければならなかったであろう。そしてたしかに心の底には、何となく謝(あやま)りたい気持ち――対社会へではない、鎌子に謝りたい心持ちが湧(わ)いていたに違いないと思われる。それはあからさまに示されていた。
 鎌子の疵(きず)は癒(い)えかけた。その月の廿五日に倉持は郷里栃木県佐野町で、ささやかな葬儀が執行され、身寄りのない彼れの遺骨は、一滴の思いやりのある手向(たむけ)もうけないで土に埋められてしまった事を夢にも知らないで、その事を案じ悩みながらも疵は癒えかけた。健康な肉体が精神のいたみに負けず恢復(かいふく)していった。彼女として、その後をどうしようかと迷わぬ訳にはゆかなかったであろうが、芳川家にとってもそれはかなりの難問題であったに違いない。一日近親の者は寄集(よりあつま)って協議をこらした。そして結果は伯爵家を除籍して別家させなければなるまいという事になった。それから鎌子は世間から憎まれているゆえ、全治退院ということが洩れたならば、どういう暴行にあいもしかねないからというので、退院はごく秘密にし、加養する彼女の住居も、充分世間へ洩れぬことにしなければならないという事に協議はまとまった。
 ある夜二台の自動車は千葉病院へそっと横附けにされた。白い毛布に包みかくされて、自動車へ運びこまれたのは彼女であった。それを見て、直に新聞記者たちの幾台かの自動車も追駈(おいか)けて走ったが、東京へはいると突然、間を遮(さえぎ)る自動車が飛出して来て、目的通りに邪魔を入れてしまった。けれども彼女が青山の実姉の家にはいったという事が知れた。その家では、まるで交通遮断(しゃだん)とでもいうように表門には駒寄(こまよ)せまでつくって堅く閉じ、通用門をさえ締切ってしまった。それは老伯の昔気質(むかしかたぎ)から出た自ら閉門謹慎の意であったか、それとも世人の乱暴をおそれてであったかは知れなかった。尤(もっと)もそののち下渋谷(しもしぶや)の近くの寮に鎌子が隠れ住むという風説が立つと、物見高い閑人(ひまじん)たちはわざわざ出かけていって、その構えの垣の廻りをうろついていた。何のためにそうするのかは、うろついていた人たちにもわかるまいが、そうした煩わしさは彼女をいつまでも執拗(しつよう)なくらいにゆるさなかった。
 そうなってからの鎌子は、やっぱり病院にいた時通り、すこしも倉持の消息を知らなかったかどうだかは疑問である。とはいえ、もの憂(う)き月日であった事は察しられる。父の老伯は彼女を信仰によって復活させようとした。初夏の六月の上旬、あわれな親心は不幸な娘を伴って、本所(ほんじょ)外手町に天理教の教会をおとずれた。父親の温かい愛は、慈悲と慈愛をもって、幼女を抱いてゆくように保護していった。そんな優しい心持ちの湧(わき)だすのを老伯自身さえ不思議に思ったほどであろう。深い悲しみにあってはじめて知る親と子の融合は、物質に不足のないだけで、心の饑(うえ)をさとらなかった親子の間には、今までには酌(く)めなかったものであったかも知れない。子を信仰に導くために親も天理教の信徒となり帰依することを誓った。
 けれども、それだけで彼女の心に慰安があったか? 絶対に秘密をまもり、彼女の動作については、何一つ外部(そと)へ知らせまいとしても、そう容易(たやす)く意地悪な世人が忘れようとしない。下渋谷宝泉寺内の隠れ家(が)も、
「姦婦(かんぷ)鎌子ここにあり、渋谷町の汚れ立退(の)け」
と張札(はりふだ)をして、酒屋、魚屋、八百屋連の御用聞(ごようきき)たちが往来のものに交って声高(こわだか)に罵(ののし)りちらして、そこにもいたたまれないようにさせたが、やがてその侘住居(わびずまい)も戸を閉(し)めてしまった。釘(くぎ)づけにされた主なき空家(あきや)の庭には、真紅のダリヤが血の色に咲きみだれて残るばかりであった。
 彼女はやがて鎌倉辺に暑さと人目を避けていると噂されたが、その年の暮に、弱まりきった身を抱(かか)えられて、思出の多い過去の家へと引取られた。彼女は家出をした家へ帰らなければならない運命に遭遇した。除籍された家へ、離別した夫の住む家へと運ばれていった。彼女が神経過敏に陥って、とがもない召使いを叱(しか)りちらし、時々発作的に自殺の気色を見せたということは尤もなことで、夜は十二時をすぎても眠られず、朝は遅いというようなことをいって責めるのは、あまりに普通人の健康なものに比較したばからしさだ。平静な時は読書に一日を費しているが、挙措(きょそ)動作が何処やら異っているので警戒しなくてはならないと見られた。

 一年はたった。鎌子はその後どこか近県の別荘にあって、寛治氏の思いやりのあるはからいのもとに、病後の手あてと、心のいたみの恢復をはかっていると聴いた。そして彼女は羊を飼っているとも聴いた。暖かい土地で、人に顔をあわさず、朝(あした)夕(ゆう)べに讃美歌を口ずさみながら、羊の群をおっているのは、廃残の彼女にはほんに相応(ふさわ)しいことだと思った。が、嘘かまことか、五月のある日の『東京日日新聞』紙面の写真版は、歌舞伎座がえりだという彼女が、自動車へ乗るところの姿をだした。そして疵(きず)あとは綺麗(きれい)にぬぐったように癒(なお)った彼女は、寛治氏と同道にて歌舞伎座の東の高土間(たかどま)に、臆面もなく芝居見物に来ていたという事を報じた。すこしは気咎(きとが)めがするようで、幕間(まくあい)にはうつむきがちにしていたが、見物が「鎌子だ」といって視線をむけても格別恥らいもしなかった。寛治氏はさすがに座に堪えかねて、中ごろから姿を消してしまったが、彼女は取すまして最後まで見物してのち、歓楽につかれた体を自動車で邸へと急がせたというのである。
 またしても世間は湧立った。不埒(ふらち)な女だというさげすみが此処かしこできかれた。
 けれども私はそれは彼女の姉達(きょうだい)の見あやまりではなかろうかと思ってやまないのである。
 そしてまた彼女は、千葉の病院に在院中も、若き助手などを見ると騒ぎまわって見苦しかったと語った看護婦があった。もしも彼女にそうした行為が誠にあったのならば、それはもう病的なもので、医学上、他の見方があるだろう。私は私としての考察を記して見たまでである。
――大正七年――
附記 五、六年後に、横浜郊外に由緒(ゆいしょ)ありげに御簾(みす)などさげた小家があった。その家の女主人は隠遁した芳川鎌子で、若い運転手と同棲していると新聞消息子は伝えた。その後、芳川鎌子死すと報じられた時は人々が見おとしたほどささやかな記事だった。




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