兵馬倥偬の人
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著者名:塚原渋柿園 URL:../../index_pages/person934

兵馬倥偬の人塚原蓼洲 私(わたくし)は舊幕府の家來で、十七の時に京都二條(でう)の城(今の離宮)の定番(ぢやうばん)といふものになつて行つた。江戸を立つたのが、元治(ぐわんぢ)元年の九月で、例の蛤御門(はまぐりごもん)の戰(たゝかい)のあつてから二個月(かげつ)後(のち)の事である。一體私は親子の縁が薄かつたと見えて、その十七の時に兩親に別れてからは、片親と一緒に居る時はあつたが、兩親と一緒に居ることは殆んどなかつた。誠に私が非常な窮迫の折に死んだ母親の事などを考へると、今でも情けない涙が出る。 其中(そのうち)に將軍家の長州進發といふ事になつた。それが則ち昭徳院(せうとくゐん)といふ紀州(きしう)公方(くぼう)――慶喜(けいき)公の前代の御人(ごじん)である。頗(すこ)ぶる人望のある御人であつたが大阪の行營(ぎやうえい)で薨(こう)ぜられたので、そこで慶喜公が其後(そのゝち)を繼いで將軍となられたのである。 其頃、江戸の、今の水道橋内(すゐどうばしうち)三崎町(さきちやう)の所に講武所といふものがあつた。其所(そこ)は幕府の家來が槍だとか、劍だとか、柔(じう)だとか、鐵砲だとかを稽古するところで、私の親父は其の鎗術の世話心得(せわこゝろえ)といふ役に就いて居た。で講武所總體は右の御進發の御供(おんとも)、親父も同じく大阪に滯在するうち徒目附(かちめつけ)といふ役に轉じた。そこで私も京都の方を廢(よ)して、親父と一緒に大阪に來て居た。 丁度その時は親父の親友に御目附(おめつけ)の木城(きしろ)安太郎(やすたらう)といふ人が居た。私も其以前(そのいぜん)から知つて居る人。――何處(どこ)で聞いたか私の大阪に來てゐるといふことを知つて「直太郎(なほたらう)(私)も當地ださうだ。遊んでゐるなら私の家(うち)の書生に寄越(よこ)したら何(ど)うだ。」といふ話。親父も喜んで私(わし)に話す元來御目附といへば天下の樞機に與(あづか)る人。其人の家(うち)に居(を)れば自然海内(かいだい)の形勢も分かるであらう。私(わたくし)が京都を去つて大阪に來たのも一つは其の當時の形勢入求の趣意であるから、渡りに舟と喜んで、木城氏の所へ行つた。無論其時分は文學者にならう抔(など)といふ料見はない。(尤(もつと)も今も文學者のつもりでもないが。)むしろさういふ御目附、即ち當時の樞機に參する役人にならうと思つて居た。然しその時分の役人になるといふのは、今のそれとは心持に於いて違つて居る。其時分の我々は何處(どこ)迄も將軍家の譜代の家來だから、其の役人になるも、金を貰つて身を賣るではなく、主君なる將軍家に我が得た所を以て奉公をする。謂(いは)ゆる公儀の御役(おやく)に立たうといふ極(ごく)單純な考へであつた。然して此心は大抵な人が皆同じであつたらうと思つて居る。 兎角するうちに、木城氏は關(くわん)八州(しう)の荒地(くわうち)開墾御用係といふものを命ぜられた。そして御勘定奉行(ごかんぢやうぶぎやう)の小栗下總守(をぐりしもふさのかみ)といふ人と一緒に、大阪から江戸に下つて來た。私(わし)もその一行の中(うち)に居た。どういふ譯で關八州の開墾をするかといふと、其時分幕府の基礎が大分(だいぶ)怪しくなつて來たので、木城氏や小栗氏の考へでは、遠からぬ中(うち)に江戸と京都と干戈相見(あいま)みゆる時が來るであらう、愈々(いよ/\)然(さ)うなつたら仙臺(せんだい)、會津(あいづ)庄内(しようない)と東北の同盟を結んで、東海道は箱根、木曾街道は碓井(うすゐ)、この両口(りようぐち)を堅固に守つて、天下の形勢を見るより外はないといふ、つまり箱根から向う、碓井から先は、止(や)むを得ずんば打捨(うつち)やる覺悟であつたので、さてこそ關八州を開墾して兵食を足さうといふ考へが起つたのである。隨分泥棒を捕(つか)まへて繩を綯(な)ふと云ふやうな話であるが、然も其時は事實あれ程の急劇(きふげき)な變化、即ち三年後に江戸が東京になる程の變化が來やうとは思はなかつたので、悲しくても、まだ五年や十年の幕府の命脉はあるだらうと思つて居た。 そこで農事に委しい人を頼まうといふことになつて相馬(さうま)藩から二宮(みや)金(きん)二郎(らう)(尊徳(そんとく)翁の子(し)、其頃五十餘の大兵(だいへう)な人)を喚(よ)び、伊豆の代官江川(えがは)氏の手附(てづき)の河野鐵平(かうのてつへい)といふ人をも召(めし)た。其外にも開墾水理に明るい人が幾らもやつて來た。兎に角、まだ其頃までは幕府の勢力があつたので其御用となることは、さういふ人達に取つては非常な榮譽であつたのである。それでわざ/\遠いところから來て呉れた。 さて小栗總州(そうしう)、木城安太郎を兩大將に、それに附屬する我々に至るまで――私(わたくし)はまだブランサンであつたが、一寸(ちよつ)とお目附方の息子といふので、參謀官の見習ひといふやうなところで居た。――で或る時は庄屋名主(なぬし)五人組などいふ人物と引合ふ、或る時は神主や和尚さんとも談判する。十一月の廿七日かに大山(おほやま)の(相州)後(うし)ろの丹波山(たんばやま)の森へ入(はい)つた時などは雪中(せつちう)で野宿同樣な目をした事もある。隨分酷(ひど)い目に遇ひながら、先づ相摸と武藏のあら方、それから上野(かうづけ)の一部を歩いて、慶應(けいおう)二年の暮おし詰めて江戸へ歸つた。其時に得た學問は、右の開墾や水理すべて地方(ぢかた)の事で、秣場(まつぢやう)を潰(つぶ)して畑地とする損益とか、河流の改修に就いての利害とか、その土地々々でいろ/\な問題に出遇つて、種々な研究をしつゝ歩いた。 當時私の考へでは、日本の農業位ゐ勝手我儘なものはない。水田は川から水を取つてかける。だから勾配は川より低いに極(きま)つて居る。然るに洪水の時は、其の出水を來(きた)させまいと云ふ。これ既に六づかしい註文である。洪水の時は、河流が眞直ぐでないから水ハケが惡いと言ひ、少し旱(ひで)りがつゞくと河筋にゆとりが無いから水落が早くていけないといふ實に手前勝手を極(き)めたもので、コンナ殆んど出來ない相談といふをぼやい[#「ぼやい」に傍点]て一年中泣いたり笑つたり、苦(くるし)んだりして居る。ソンな詰らぬ苦情を鳴らして居るよりも、私の考へでは陸穗(をかぼ)を作るがよい。陸穗を作るとそんな憂ひは一掃される、と斯ふいふのであつた。ところが、二宮といふ人も、それは面白いと私の流義でも右と同樣の説がある。決して足下(そくか)の鼻元思案(はなもとしあん)では無いと言つて大いに贊成して呉れた。 それから、も一つは、蕎麥(そば)と玉蜀黍(とうもろこし)を人間が常用食にして呉れると、一國の經濟が非常に助かるといふ説も出で、これには贊成もあり、反對もあつたが、蕎麥は知らぬが、玉蜀黍の方は今は亞米利加(あめりか)の常食だ。併し其の時分、玉蜀黍説には僕も驚かされた。先づ旅中、およそ六七十日のうち、三日にあげず寄合つて異な言(こと)を言ひ出して、互ひに意見を述べ合つて居たけれども、幕府に、肝腎の開墾資金がなかつたので、とう/\此論も沙汰止みの行はれず仕舞となつた。何しろ、それから右三年の後(のち)、慶慮四年の江戸城開け渡しといふ時に、御藏(おくら)の金(かね)がたつた三十六萬兩、即ち今の三百六十萬圓程しかなかつたといふのだから、實際幕府も情けない身上(しんじやう)であつたに違ひない。で金のかゝる割には、苦情の多い、荒向(あれむき)の利益が少ない開墾の、一時止(や)めになつたのも無理は無い。 その翌年、すなはち慶應の三年、僕の廿歳(さい)の年には所謂(いはゆる)時事益々切迫で、――それまでは尊王攘夷(そんわうじようゐ)であつたのが、何時(いつ)の間(ま)にか尊王討幕になつて了(しま)つた。所謂危急存亡の秋(とき)だ。で私(わし)も、それ迄は奧儒者の小林榮太郎(こばやしえいたらう)なる先生に就いて論語や孟子の輪講などをして居たが、もうソレどころで無い、筆を投じて戎軒(じうけん)を事とする時節だから、只だ明けても暮れても劍術を使ふ、柔術を取る、鐵砲を打つ抔といふ暴(あら)ツぽい方の眞似ばかりして居た。 する中(うち)に、其年の「慶應三年」の十二月二十五日に所謂薩州邸の燒打(やきうち)といふ事件が起つた。それは何故(なぜ)かと言ふと、其の夏頃から市中に盜賊が流行(はや)つて仕方がない、それがどうも長い刀を差して、五人、七人、十人十五人と徒黨を組んで押し込んで來る。大きな金持のところへ入(はい)つては、百兩二百兩といふ金をふんだくる。中には鐵砲を擔(かつ)いで入(はい)る者もあるといふ風で、深川(ふかがは)の木場(きば)や淺草(あさくさ)の藏前(くらまへ)で、非常に恐れた。 で、さういふ者を檢擧する爲に、新徴組(しんちようぐみ)といふものが出來た。その中(うち)には、彼(か)の有名な土方歳三(ひぢかたとしざう)や、近藤勇(こんどういさむ)といふやうな人も入(はい)つて居た。そして其の支配が出羽(では)の庄内の酒井左衞門尉(さかゐさえもんのじやう)。それが頻(しき)りに市中を巡邏(じゆんら)する。尚ほ手先を使つて、彼等盜賊の迹(あと)を附けさせると、それが今の芝(しば)の薩摩(さつま)ツ原(ぱら)の薩州屋敷に入(はい)るといふのでこの賊黨はとう/\薩藩(さつぱん)中(ちう)の溢(あふ)れ者(もの)だといふことが分つた。 ところで、一方の京都に於ては、慶喜公は既に大政(たいせい)を返上された。けれども以後の政治には、御自分等(ごじぶんら)も與(あづ)かつて、天下の公議で事を裁決しやうといふ御腹(おんはら)であつたのに、其年の十二月九日の夜(よ)。かの有名な小御所の會議で王政一新の議を決められた。處が慶喜公を初め、會津も桑名(くはな)も其會議に省かれた。のみならず、其の前後、徳川征討の密勅が薩長二藩に下つた。といふ噂が立つた。それが其頃大阪に居た慶喜公の耳に聞えた。そこで公は心大(おほい)に平(たひらか)ならず、更に薩長彈劾の奏を上(たてま)つる、さアそんな事を聞くと江戸でもじツとしては居られない。そんな此んなで、やつつけるといふことで、とう/\薩州邸の燒打となつたのである。併し其時の騷ぎは大きくは無かつた。 右の燒打を初(はじめ)として、翌年正月の鳥羽(とば)、伏見(ふしみ)の戰ひ、其他すべては「文藝倶樂部(ぶんげいくらぶ)」の臨時増刊、第九年第二號「諸國年中行事」といふ中(うち)に、「三十五年前(ねんぜん)」と題して私は委しく話した事がある。又た先頃の毎日電報(まゐにちでんぽう)に「夜長のすさび」として月曜毎に掲載した事があるから、今更改めて言ふにも及ぶまい。 兎に角、そんな風であるから、私(わたくし)の青年時代は中々文筆に親しむどころの騷ぎではない。すなはち十七年の秋(とき)から明治元年の二十一歳まで、東奔西走、居處なしといふ有樣だつた。ソレから其年靜岡に行くまでには馬鹿な危險の目にも自(おのづ)から出遇ツたし、今考へて見るとお話しをするにも困る程の始末だが、たゞ其頃は些(すこ)しも山氣(やまぎ)なし、眞面目に其の事(つか)ふる所に孤忠を盡すつもりであつた。 斯くて江戸は東京となり、我々は靜岡藩士となつて、駿州(すんしう)の田中(たなか)に移つた。其の翌年、私(わし)は沼津(ぬまづ)の兵學校の生徒となつて調練などを頻りに遣らされた。けれども間もなく出て、靜岡の醫學校に入(はい)つたが、其處(そこ)から藩命で薩摩に遊んで、諸藩の書生と付き合つたが、それが私(わし)の放浪生活の初めでもあつたらう。それから歸つて、人見寧(ひとみやすし)、梅澤敏(うめさわとし)などゝいふ人の取り立てた靜岡の淺間下(あさました)の集學所といふに入(はい)つた。其の集學所に居る人間は函館(はこだて)の五稜廓(ごりやうかく)の討ち洩らされといふ面々だ。總勢すぐツて百四五十人ばかり。毎日軍(いくさ)ごツこ[#「ごツこ」に傍点]のやうな眞似ばかりして居たが、其(その)うち世は漸次(しだい)に文化に向つて、さういふ物騷(ぶつさう)な學校の立ち行かう筈もないので、其中(そのうち)に潰れて了つた。それから私(わし)は田舍の學校の教師になつた。 初めて横濱毎日新聞(よこはまゝいにちしんぶん)に入(はい)つたのは、明治七年である。それが今日(こんにち)のそも/\で、それから十一年に東京日々新聞(とうきやうにち/\しんぶん)に來た。そして職業として文筆に親しんだ。そんな風だから、美學や哲學の規則立つての修養もなく、唯(ただ)昔から馬琴(ばきん)其他の、作物は多く讀んだが、詰りが明窓淨几の人で無くつて兵馬倥偬(へいばこうそう)に成長(ひとゝな)つた方のだから自分でも文士などゝ任じては居らぬし、世間も大かた然(さ)うだらう。それだから今日(こんにち)書く小説もやはり其通り、迚(とて)も戀愛や煩悶の青年諸氏に歡(よろこ)ばれるやうな品物を、書けもしなければ、又た書かうといふ野心も起らない。僕はやはり僕だけの僕で居る。(明治四十二年八月「文章世界」第四卷第十一號)  
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