地上
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著者名:島田清次郎 

 春風楼の茶の間の正面に懸けられてある大時計が、午前十時の音をごおん/\と響かせた。家のいっぱいに混沌とした濁った眠りが暗鬱にとざされている。さっき中途で眼を醒まして卵酒でいっぱい引っかけていた主人も快い朝の酔いをそのまま、昨夜晩くなって眠りほうけている女将の横にしがみついて寝入ってしまった。電燈は消滅して家中が薄暗く、そして静寂だった。灯の下に動いていた夜の華やかさは、何処に見出されようもなかった。表の細かい格子目の硝子越しに真夏近いじり/\と強烈さの増してくる太陽の光が、電燈の消えた店の部屋に射し入り、照らし出していた。女達はその朝の光に浮かぶように眠れる姿をあらわしていた。部屋いっぱいに並んだ八つの寝床、枕元近い板敷に並んだ鏡台、壁際に総桐の四台の箪笥、その上に二間の吊棚があって、使いこなした、くな/\の平常(ふだん)の帯らしいものが赤い下着と一緒に垂れ下っている。脱ぎすてたままの着物が幾重ねも、赤い裏を裏がえしにし、襟垢や白粉のついた黒い生繻子の襟がべと/\に光ったまま棚に押しこめてある。蔽を被せることを忘れた一台の鏡の面が照り返す白光が、その一枚の上にじっと止まって動かない。静かだった。すう/\と寝息がする。時々ううと唸るものもある。
 この朝のように八つも寝床が敷かれてあることは稀であった。いつの夜も三、四人か四、五人しか自分の寝床で泊るものはなかった。いかなるところで、いかなる人間と、いかなる夜を過すであろうかは分りすぎた事実である。午前十時の時計の音に眼を醒された冬子は、光に照らされた珍しくそろった朋輩の眠れる姿を床の中より見廻さずにいられなかった。
 壁際に水色の軽やかな夏蒲団を正しく身体半身にまとって、左枕に壁の方を向いて平静に眠っているのは冬子より二つ年下のお幸だった。寝化粧をすることを忘れない彼女の艶々した島田髷に日は照り、小刻みな規則正しい息づかいが髪の根を細かに揺がしている。背はやや低く小造りな身体だが、引き緊った円やかな肉付と、白く透きとおった肌理(きめ)の精密な皮膚とをお幸はもっていた。お幸は東京の生まれであった。彼女の母は東京柳橋でも名妓といわれた女だったが三十を越してから運が悪くなった。唯一の後援者であった政治家が死んだとき、そのまま芸者稼業をしているにはあまりに全盛期の我儘が敵をつくりすぎていた。お幸の母は廃れてゆく容色や、肉身の若さを感じはじめると、名人に今一歩だといわれた自分の芸道(踊り)で生活しようと金沢の街へ来たのだった。その時お幸は十五の娘だったが、母ゆずりの才気と幼時から仕込まれた踊りと、小造りながらぴち/\した肉体の艶やかさは、彼女をお師匠さんの娘として成長させなかった。お幸の母は廓近くに住むうちに自然、春風楼の主人と知り合いになった。男子に対する眼の肥えているお幸の母には彼のみが多少人間らしい苦労人に見えたのだ。廓の取締である春風楼の主人の後援で、お幸の母は藤間流の踊りの師匠としてこの街でいい地位を固めることが出来たが、そうした因縁からお幸も十七の頃から春風楼の一人として座敷に出るようになったのである。小柄な彼女は盛装して群の中に静かに坐っていても少しも目立たなかったが、一人一人の対坐になる時は、きび/\した溌剌たる挙措(ものごし)の底に、蕩(とろ)かすような強い力を燦(きら)めかして男の魂をとらえるらしかった。「わたしは、はじめにお客の心持と様子と金使いとを見きわめるの。学生や番頭に心をゆるすこっちゃない。立派な三、四十の金のある人に眼をつけることが一等ですわ」といつか冬子に言ったことがある。お幸は男を深く迷わし自分の方へ引きずりこむことに悪魔的な悦びを感じているらしかった。たとえ自分もずる/\引きずられてゆく場合にでも、あるレベルまでゆけば、すばしこい仔猫のように身を翻して残された男を冷やかに見送る妖婦的な残忍な快味をさえ知っていた。しかし彼女にも、たとえそれは極めてエロチックであるにせよ、熱烈な恋愛はなかったわけでもない。彼女がまだ十八の正月、三郎さんというこの街一の呉服屋の息子で、高等学校の学生が彼女にしきりに打込んで来た。若々しい力に充ちた三郎さんの坊っちゃんじみたところが、無性に彼女には恋しくなった。彼女は三郎さんに会うときだけは一切の手管を脱却して一筋な情熱に奮い立った。恋愛の力が妖艶な彼女をどれほど美しく輝かしたかは三郎さんのみが知ろう。お幸にとって肉欲の錯混が深いだけに一日中三郎さんを離されなくなってしまった。三郎さんは学校を休む、お幸は座敷に出ないで、毎日毎夜二人は熱病人のように一室に籠ったきりだった。しかし三郎さんの家の番頭が三郎さんを連れてゆき、電話で一日中話し合うので電話を一時取りはずしたりしているうちにお幸の情熱も沈潜してしまったのである。「三郎さんのことだけはいつまで経ったって忘れることじゃない!」と彼女は言ったが、それが最初のそして最後の「我を忘れた」恋愛であり快楽であった。いかな激しい快楽と情熱の渦巻きの中にでも聡明な勘定をするだけの恐ろしい修業が今は完成され、理想的な「いい女」として、今静かに小刻みな息づかいで、安らかに眠っているのだった。
 お幸の次には二十歳になる時子が、身体全体を反らしてやや高い不調な息を鼻の中で立てている。掛蒲団を足の間に丸め込んで双手を畳の上まで投げ出した寝様は、乱暴とのみ言えないものがあった。細面の、高い鋭い鼻筋、伸ばした喉の喉頭に光は強く射していた。剥げかけた白粉と生地の青みがかった皮膚とが斑になり、頸部から寝巻の襟のはだけた、やせた胸廓が黒く脂じみているのが不健康らしくはあったが、いい縹緻(きりょう)には相違ない。彼女は二十年の生涯を、記憶に残る時代を廓で成長して来た女だった。誰かに険しい山路を負(おぶ)ってもらって来たような憶えがあるきりだと彼女は言った。十三、四迄は使い歩きにこきつかわれた。朝は誰よりも早く起きて三十もある火鉢の灰を掃除をして、すぐ灰吹きを廓から離れた小川まで行って洗って来なければならなかった。どんなに雪の降る冬の朝でも止す訳にゆかなかった。それがすめば掃除の手伝い。ようやく朝飯がすむと師匠のところへ踊りや三味線の稽古に通わねばならない。それは彼女にとって苦痛だった。芸道は彼女に少しも楽しみを感ぜしめなかった。早く大きくなって姐さん達のようにいい着物をきてお酒を飲んだり、御馳走を食べたり、男の人達と一緒に騒ぎたいものだと一心に願った。彼女は早熟で十四の春にはもう事実上少女でなかった。白粉を塗り紅をつけ、縮緬の着物をきた舞妓姿で「旦那、今晩は」と座敷へ出たときには大変な出世をしたような気がした。男から「時ちゃんは俺のいい子だね」とか「可愛いいやつだ」とか言われるのが嬉しくて堪らなかった。彼女は夢中だった。虐げられていた一切の欲念がはじめて解放されたのだった。彼女は食い飲み、騒ぎ、またあの辛いこととせられる一つのことさえを貪るように受用した。賑やかな、気のさくい、そしてすぐある欲求を充たしてくれる若い女として、彼女は学生や青年の性欲に飢えた人間にもてはやされるようになって、しかもそれで満足していた。疲れた肉体と掻き乱された魂と、低級な満足とを抱いて、この朝をいぎたなく眠っている時子の姿は、冬子にとっては浅ましい哀れさとある悲しい反省とを喚び起こした。
 昨夜、といっても今朝の午前二時過ぎにある家から帰って来て、冬子に泣くようにして、その夜彼女を呼んだ羽二重商のいどむのを逃れて来たことを訴えていた茂子は、時子の次に冬子の隣に眠っていた。冬子はわりにこの陰鬱な茂子に好意をもつことが出来ていた。どうしても芸妓などにはなりたくないと思って泣きながら母親に頼んでも、彼女がまだ嬰児であったとき、貰い受けたときから決定していた継母の意志をひるがえさせることは不可能だった。「もしわたしがお前を育てなければ、お前はどこかの山か川に白骨になっているはずだったよ」と言った義母(はは)の言葉は忘られない。彼女は仕方なしに芸妓になったのだ。彼女は婬らなことに身を任せたあとには精神が異様にたかぶって一夜中眠られなかった。眠られない夜に限って自分が痩せ衰えてしまったように考えられ、搾木にかけて毎夜心身の精粋を絞りとられる地獄だと考えられ、そうしてそのさきには真黒な死が手を伸ばしてつかみかかっているのだと考えられた。昨夜も彼女は冬子に、「死んだらどうなるのか」とたずねたり、「何だか悪い病気が身体中に循(まわ)っているようだ」と訴えたりして、寂しそうに寝入ったのだった。顔や頬の肉をぴく/\神経的にひきつらせながら――。店先から射す光には昼近い熱気を帯びて、冬子は苦しくなって来た。彼女は寝返りを打って、彼女の右手に並んでいる同じ女達を見つめた。黄金色の太陽の光は幅広い流れを溢れさしているのも知らずに、皆は夜の疲れで眠っているらしかった。
 小さな弁慶縞の掛蒲団の襟のところに二つの桃われ髪が行儀よく並んで、顔は蒲団にかくれて見えないのは、米子と市子の二人の赤襟の少女だった。米子は今年十四ではじめて赤襟になったのだが、「米ちゃんがなるならわたいもなる」と言って一つ違いの市子もとう/\赤襟になってしまった。米子は細身な静かな少女だったが、市子はややお転婆で、活気があって、花のように美しかった。市子は多くの客が可愛がったが、米子は少数ないいお客に愛せられていた。しかし二人自身はそんなことに無頓着であった。下手な踊りを踊って、そして賞められて喜んでいた。二人とも誰を明らかに父と指さしていいか分らないような芸妓の子として出生し、養われて来た女だったのだ。彼女等は人生に就いて廓より外に知らなかった。彼女等は職業、愛、道徳、――に対して一生正当な観念すら得られないのではないだろうか。
 この二人の少女に隣合って一つの寝床が空のままであった。汚れた敷布の上に丹塗(にぬり)の枕が二つ並んだままにある。それは仲のよい菊龍と富江の「共同の」床であった。彼女等は大抵一緒になることはなかったので一つの床を二人で使っていた。たまに一緒になったときは一つの床にもぐりこんで、夜がしらじら明けるころまで情人の噂などを話しながら寝入るのを常としていた。昨夜は恐らく何処かで外泊りするか、でなければ二階の一室に――かもしれなかった。
 空の床に離れて、襖をはずした敷居越しに、この家(や)の公娼が眠っていた。粗い黄色と黒と小豆色の縦縞の掛蒲団をまるめるようにして、ぶく/\肥った真っ白い太い双手を投げ出して、まるまる肉のついた横顔を見せて口をあけて本当に深く寝入っているのは鶴子という三十近い女だ。村の機織工場の女工、街の莨専売局の女工、彼女の少女から青春時代はそうして送られた。まるまる肥えたはちきれそうな肉付と滑らかな皮膚は先天的に飽くを知らぬ欲念の蔵だった。彼女は二十三のとき娼婦になった。それは彼女にとってパンを与える職業であり、快楽を与える貴重なる泉であった。彼女は職業のために疲労することがなかった。白い、生き生きした赤い血の色は失せてしまったが、肥えふとった肉体に薄青い静脈がしずかに波うっていた。「ひとり寝の朝はものうくってしょうがない」と彼女は冬子に言ってから/\笑ったことがある。
 こうした鶴子の大柄な身体の蔭に小さい痩せこけた一人の女が寝ているのを見逃すわけにはゆかない。頬のこけた、肉の落ちて小さく凋(しな)びた顔に、乱れかかった髪の毛の一筋を唇にかみしめながら、息する度にほっそりとした鼻がかすかに動く。日はその虐げられつくした暗鬱な顔を照している。額の深い皺の一筋一筋がはっきり浮き出して、女の苦艱を表現せしめている。小妻は不幸な女だった。自分を不幸と信じている冬子でさえが本当に不幸な、と考えたほど不幸な女だ。小妻は多くの女達のうちで唯一人のこの街の生まれで、ある中流な薬房の娘であった。小学校を終えてからこの市街の中流の娘がするように、毎日裁縫の師匠へ通っていた。彼女は内気な目立たない、人なつこい娘であった。師匠さんの家へは川岸伝いにゆかねばならなかったが、十六の頃いつも川岸で会う若い商人らしい青年があった。優しくて男らしい人のように小妻は思った。ある日の帰りのこと、にわか雨がぼつ/\降りはじめた。そこへその青年が来合わして傘の中へ入れて家まで送ってくれた。路々恥かしながら話してみると、彼女の家とは裏つづきの紙問屋の息子だったときの悦び。二人は仲よくなり、そして娘は孕んだらしかった。孕んだのではないかしら、とひとり思い煩っているうちに、親達が縁組を結んでしまった。行先は同じ薬屋の問屋であった。(「何故あのときはっきり親達に言わなかったのでしょう。矢張り叱られやしないかしら、というようなことが恐ろしかったのよ、冬子さん、随分可愛いことを思っていたじゃありませんか」と小妻はよく言った。)紙問屋の息子が心変りがしたものと信じて遊蕩をはじめる。そのうちに娘は孕んでいたことが隠しきれなくなって離縁される。内気な小妻は、内気で弱い心の持主であるために、家を逃げ出してひどい目に遇いどおしで、娼婦の群に入ってしまったのである。内気な、弱い、すなおな魂と、神経質な敏感な傷められ易い肉体をもつ彼女に、娼婦の勤めは惨酷な地獄だった。一と夜を明かせば、次の朝には烈しい熱に苦しまねばならなかった。そして熱苦がおさまる頃にはまた夜の恐ろしい忌わしい惨虐がやって来た。機械になり切れない小妻にとってはそれは惜しい惜しい生命の濫費だった。まだ二十五にもならない小妻は、やせこけて暗い凋びた容貌に変じてしまったのも無理でない。小妻は一日中忌わしい行為の追憶や脅迫につきまとわれ、恐ろしい暴力の虐げを呪っていた。「わたしはいつも眠ったまま、眼ざめるときがなければよいと思いましてよ」ああ、ひとり寝る夜の寂しい幸福よ――冬子がじいっと小妻をみつめていると、小妻の窪んだ瞳が、ぽっかり開いた。太陽の光がさっと眼にしみたらしかった。
「あ、お天道様」と彼女は微かに呟いたが、光を浴びた中から冬子を認めて淋しく笑った。「もうお目覚め?」
「ええ、今のさき、時計の音で目が覚めましてよ」
「そう――ああ、わたしいやな夢をみていましたっけ。わたし唸らなかったでしょうか」
「いいえ、よく寝入っていらしってよ――ほんとにいい朝ですのね、小妻さん」
「わたし、冬子さん、笑いなすっちゃいけませんよ。ふっと眼がさめるとお太陽様(てんとうさま)の光がそれは美しく見えて、わたしはことによったら死んで極楽へ来ているんじゃないかと思ってよ。すると、横にこの人(鶴子を指さして)の太い腕が見えましたから、ああ、わたしはやっぱり地獄にいるのだっけと思いました」
 冬子はその時ふとお光はどうしているだろうと思った。大概部屋は片付いてはいるが、一人で淋しがっているに違いない。何んだか起きて顔がみたいと思った。冬子は起きて普段着に着かえて、小妻に「わたし、ちょいと用のあるのを忘れていましたの――もっとゆっくりやすんでいらっしゃいな」と言って、店の間を出てしまった。小妻と話すことは冬子にとっては、常に努力をもって征服し統一している自分の性格の弱い一面をまざ/\と見せつけられるようで堪えられなかったせいでもある。
 冬子の去ったのを寂しく思いながら、小妻はお幸、時子、茂子、米子と市子、鶴子と眺めつつ、富江と菊龍のいないのにある堪らない本能的な悲哀を感じずにいられなかった。二人とも昨夜はある料理屋に呼ばれて行ったのだが、恐らくはどこかで泊ったものだろう。
 二人とも丁度今の米子と市子のように幼い頃から春風楼に育てられて昨年ようやく一人前になったばかりのまだ十八の、普通なら生(うぶ)な娘の年頃であった。小妻は自分があの紙問屋の息子に恋したのは、丁度菊龍や富江の年頃だったのを思って深い悲しみを感じずにはいられなかった。自分の行き過ぎていった青春を歎く涙、さらには娘の頃の青春をこうした境界に身を置いて、あの純真な初恋らしい恋一つ知らないで、美しい肉体を毎夜毎夜の勤めに腐らしてゆく若い人達の身。まだしも自分の方が彼等よりも幸福であったかも知れないと思ってみた。がその僅かな小さい追想に伴うほこりに似た感情は、腰から下腹部にあたって引きつるような疼痛を感じたときに根柢から破れてしまった。太陽の光にさらされて脂じみた襦袢と色のさめた赤い下着との間からあらわれた自分の蒼白な胴や胸廓の痩せこけた肉や、萎びて皺のよった皮膚や、一枚一枚暗いひだをつくって見える肋骨の骨ぐみなどを見ていると、自分の多少幸福であった娘の頃はもう遠い別の世界での事実でしかなくなったことが確かめられた。今の自分は――、激烈な疼痛がきり/\と身を引きしめる。彼女は歯を喰いしばってその痛みを忍耐した。痩せ細った青白い萎びた小さな両手にねち/\した汗がにじみ出た。骨髄に沁みこんだらしい悪性な病患がもう汝は永いことはないのだと身体の深みから唸り声を発しているのだ。彼女は汗のにじみ出た全身を拭う気力もなくて、その汗が客をとる時の、あの死ぬ方がよいと思う汗にも似ていることに浅ましさを見出していた。そしてまた、枕に頭をつけて眼をとじて眠ろうと試みてみた。もう時は十一時近くであった。街のあっちこっちに戸を開け、雨戸を開ける音が響いた。あーふっと何処かで大きな欠伸をしているのが聞えた。小妻は気を取り直して、起き上がり、肌着の上から乳の下の辺へ赤い細紐をしめて、そっと茶の間へ出て来た。茶の間の囲炉裡には楼主が朝早くおこしておいたらしい炭火が焔を吹いておこっていた。彼女は莨を不味そうに吹かして、窓から射す光線の暖かみを身に快く感じていた。台所では婆やが今起きたらしく板を踏む音がぎし/\する。そのぎし/\に耳を澄ましていると、遠くから別な板を踏む足音が近づいて来た。小妻はぼんやりそれを聞いていた。考える力さえなかった。冬子が現われた。小妻は平常冬子を少し恐ろしく、しかし、自分の理想を実現する強者に対するような崇拝を秘めた愛を感じていたのである。
「小妻さん、お早う」こう冬子は改まってお辞儀をした。
「お早う」
 すると冬子の蔭に少し苦労に瘠せているが、鷹揚な品のよい四十あまりの女の人がどう自分の態度をきめてよいか迷ってるように、そして眼光の厳粛さはその迷っている自分の腑甲斐なさを怒っているようにそこに腰をかがめて立っているのを見出した。
「大河の小母さんよ、今度お仕事に来て下さった」
「どうぞまた、よろしく」とお光が言った。
 小妻はどこかで見た人のような気がした。鷹揚な温かさが彼女にはなつかしい気がした。こうした家のお仕事にくるような人柄でもないのにと思った。すると飛躍するように自分の今の身がこの人の前に羞かしくなった。彼女はうつむいて、
「わたしこそ」と小さく言った。冬子は黙ってしまった。
 冬子は少し上気していた。冬子は、お光に会うときはいつも快げに微笑んでいたが、春風楼へ来ると唇をかたく結んで静かにやや陰鬱に顔容(かおかたち)を乱さなかった。口もあまり利かない。こうした営業の女には不似合な無愛想な沈黙と威厳が彼女を妙に寂しい美しさに洗い清めていた。お光は小妻と冬子を見比べながら冬子の本来の美しさを見たような気がして嬉しかった。一緒に話していてはそう秀でた女とも思えないが、緊張した彼女は、廓でも名妓と立てられるだけに気象に凛としたひびくものがあるのだと、まるではじめて冬子を見たもののようなことを考えていた。とにかく、三人は朝の光を浴びて囲炉裡の辺に坐って黙っていた。こうした場合に何か言い得るものは魂なき無生物のみである。
「時ちゃん、お茂ちゃん、起きないの。もう遅いのよ、お茂ちゃん! 時ちゃん!」
 お幸の円い厚みのある声が店の方で聞えた。
「米子ちゃん、市子ちゃん、こら、お臀をこんなに出して、夜中に誰かが持っていったらどうするの。お起きなさいよ、こら!」ぴた/\小さい妓等の臀を叩くらしい音と、寝ぼけざましの哄笑が一斉に聞えた。店の女達はみな眼をさました。
「時ちゃん、自分の床だけは上げるといいわ」
「はい/\」
「昨夜はおかしな夢ばかり見ていたっけ」
「鶴子さんの夢なら大抵知れていますわ」
「そうでしょうよ――可愛いい男の夢ですよ」
 お幸がふだんの意気な単衣に博多の下帯をしめて、楊枝を使いながら出て来た。怜悧な彼女のよく動く生き生きした眼が、お光の上にじっと暫く止まっていたが、説明を求めるように冬子の方へ向いた。冬子はそのお幸の眼が嫌いでならなかった。怜悧な打算強いその眼、男が一度その眼にうたれてすぐある誘惑を胸に連想するようなその眼、冬子にはその眼が嫌いで堪らなかった。大抵の場合は冬子は沈黙した。お幸は冬子を高慢ちきだと言った。もしお幸が自分の男に対する或る種の自信が弱いか、毎月末における花高が冬子よりも下ででもあったなら、彼女の蛇のような邪智は冬子に対して悪辣さを発揮したか知れなかったが、冬子の客はある少数の範囲に限られていたし、それに彼女は夜泊まりすることが嫌いだったので、そしてその嫌いが大抵の場合押し通せる程に彼女の力量が認められていたので、冬子は花高はお幸に及ばなかった。そしてそれが彼女のためによかった。が、そうした冬子でも今は黙していてはお光が立ちゆかない。
「お幸さん、お早う」
「お早う」
「あのいつもお話しておったでしょう。大河の小母さんよ。お仕事に来て戴くことになりましたのよ。またどうぞよろしくね」
「そうなの。どうぞよろしく」
 お幸はお光をちらっと見た。彼女はお光が地味な、少し勝手のちがった、征服しようにも手がかりのないような多少不可解な四十女に見えた。しかし彼女の才気と聡明が、そして廓の女以外に対する無知が彼女の心を安心させていた。お光はそこに小造りなぴち/\と跳ねあがっている新しい小魚のような美しいお幸を見た。
「ゆっくりしていらっしゃるといいわ、小母さん」
 お幸は洗面所のほうへ去った。
「お茂さん、その紙屑を拾ってゆくといいわ」
 お茂が肌着を脱いで単衣にきかえて茶の間へ出てこようとするのを、時子が細帯をぐる/\巻きしめながらお茂を呼びとめた。その呼び止め方の気随(きずい)さがお茂の心に痛みを与えた。
「何を」
「その紙屑ですよ」
 時子がお茂の足下を指さした。そこに、丸められた、汚血のにじんだ紙くずが転がっていた。お茂ははっとしたらしかったが、非常な速力で、昨夜、悲しい暗鬱な気持で遅く帰って来てから床にはいったまでの間を反省してみるような目つきで、お茂は言った。
「これはわたしのではなくってよ」
「お茂ちゃんのでなくて誰の」
「誰なのかわたしが知っているものかね」
「ふん――」
 時子は、細帯をきゅうっとしめて、ふくらんだ乳房のあたりをぽんと叩いた。叩いた拍子に時子の※絹裏(もみうら)[#「糸+峰のつくり」、66-6]の袖からころころと同じような紙屑が畳の上へ転げ落ちた。お茂の眼は輝いた。が、その輝きは輝いたことを羞じらうようにまた持前の暗い容貌に逆戻りした。時子は不意な事実の前に忌々(いまいま)しさをこらえねばならなかった。(昨夜、若い高等学校の学生の一群の席で、眼鏡をかけた元気のいい生き生きした髭などの少し青みがかった男が――それをすっかり忘却してしまっていたのであった!)時子はちっと舌鼓をうって言った。
「お茂ちゃんは品がいいのですからね」
 お茂は辛そうに顔をゆがめて黙した。こんなとき冬子でもいてくれればと彼女は思った。お茂には、嫌だ嫌だと思う圧迫のみが強くて、その圧迫につき動かされて反抗し開拓してゆく力がなかった。小妻のようにあきらめ切って傍観する余裕をもつには年が若すぎ、冬子のように重苦しい威厳と沈黙で制えつけるには天稟が恵まれていなかった。お茂は泣きそうなのを堪えて茶の間へ出て来た。時子も出て来た。
「冬子姐さん、お早う」茂子は言った。
「お早う――あ、お茂ちゃん、わたしの小母さんよ。これから仕事に来て下さったのですの」
 冬子は、黙って怒ったように楊枝を使っている時子にも声をかけた。
「時ちゃん、あなたもどうぞよろしくね」
「ええ」
 時子とお茂は台所へ去った。お茂がお光に腰をかがめてゆくさまはいじらしかった。
「わたしも顔を洗って来ようかしら」
 と、小妻は身体の痛みをいたわるようにそおっと起きて、台所の方へ行った。
「おう眠い、眠い、何だってこんなに早く起きたのだね、本当にしょうがないね」
 大きな男のような鶴子の声がした。むっちりと肥えふとった上、半身を赤裸々に現わした鶴子は、茶の間に出て正面の時計の十一時近いのに頓狂な声を立てた。そしてだれ下った乳首を可愛そうに自分で吸ってみた。黒ずんだ乳首とだれた豊満な乳房とは、彼女が前生涯に子供を孕んだことを証明していた。
「こう見えても、まだ若いのだから」
 そういう鼻も大きく、眼も大きく、口も厚ぼったい、鶴子の上半身に光沢のないのにお光は物足りない悲しさを感じていた。
「早く顔を洗っていらっしゃいな――小母さん、この人が鶴子さんていうんですの」
 冬子は今度はお光の方に話しかけた。
「見ただけの女ですわ、小母さん、あははははは」
 鶴子が去った。米子と市子の二人の少女は、階段の横の火鉢棚の上から青銅の重い火鉢を下して、吸殻を取りよけたり灰をならしたりしながら、ちょいちょいお光の方を盗み見ていた。米子は瓜実顔の、鼻が少し透り過ぎてさきの方が垂れ下がっているようにさえ見えたが、一重瞼のいい眼をもっていた。市子は肉付の豊かな、眉毛と眼のところに穏やかな優しみのある、顎の丸い唇が少しお喋りらしく開いた、愛らしい少女であった。
「冬子姐さんの母さんなの」
「うそ、冬子姐さんの叔母さんなんよ。――そら、裏の中田の二階にいらしった、あのお仕事の小母さんなのよ」
「あ、あの小母さんなの。――そんならね、そら、平一郎さんて中学校へ出ている方の母さんなのね」
「ま、市子ちゃんは平一郎さんを知っているの」
「知っているわ」
「わたしだって知っているのよ」
 米子は少し不興らしげだった。(彼女はいつも用足しに出かけるとき、街路で球投げをしてにこ/\笑っている平一郎をよく憶えていたから、同じ平一郎を市子が知っていることを不快に思ったのだ。泥塗れの中に育っても少女の純真さは、毎夜の、酒を飲んで悪巫山戯(わるふざけ)する多くの男達を記憶に深く留めないで、近所の少年のふとした微笑を憶えしめていたとは!)
「平一郎さんもここへいらっしゃるの、え? 冬子姐さん!」こう市子が突然訊ねたが、冬子の答えないうちに、そのとき出て来たお幸に、
「早く庭の掃除をしなさいな。何、ぐず/\しているの」
 と叱られて、二人の少女は土間へ下りて、混乱した下駄を一足一足整えはじめた。店の間や茶の間にもはたきの音が聞えはじめた。掃除は鶴子と茂子と時子がはじめたのであった。(菊龍や富江がおれば彼女等も手伝った。)鶴子は一人で大声をあげて大ざっぱに掻き廻していた。茂子は黙然として掃いていた。時子はぶつ/\呟いてろくに掃除をしようともしなかった。(菊龍さんや富江さんは今頃はまだ暖かい床に眠っているのだろうに、ほんとにばからしい。今夜は電話をかけて昨夜のあの番頭をよんでやろう)などと考えていたのだ。台所では婆さんが(婆さんといってもまだ四十四、五の、つる/\した、――素質が恵まれていず、その数奇な生涯の一切の苦患から何一つも吸収摂受していないだけに、老いもせずに、丈夫な馬のようによく働いた)、瓦斯(ガス)の火を濫費して、ようやく水のようなおかゆを大きな二升釜に拵(こしら)えたところであった。廓では朝飯を一年中お粥をすする習慣である。
「みなさん、御飯ですよ」
 台所の横の中庭の奥座敷の間に、直角の線を形成して、この家の食堂があった。食堂の片隅に三尺四方ばかりの手摺を持って囲ってある穴倉の入り口があった。暗い穴の口から、地の底から昇騰する冷気がひえびえと室内に充ちて来る。婆さんは汗を滴らしながら、薄縁(うすべり)をしいて、中央へ大きなお粥の釜を据えた。そしてもう一度「みなさん御飯ですよ」と叫んだ。こうした世界にも階級があった。冬子とお幸が上席に向き合った。時子と茂子、菊龍と富江、鶴子と小妻、最後に米子と市子は一つのお膳を二人で半分半分に使用した。もう十二時近くであった。麗(うら)らかに霽(は)れた紺藍の輝く空に太陽の黄金光は、梅雨あがりの光を熱烈に慄えさせていた。窓から射し入る緑金の光輝は、外を黒塗りに内を丹塗りにした揃いのお膳の漆の色調に微妙な陰影を与えていた。静かであった。黒く煤けた大釜の蓋の隙間から白い粥の湯気(いきり)がすうっとのぼって、冷やかに地底の冷気に融けて、また、すうっとあがってくる。店で乱れた鬢などなでつけていた女達は、食欲も起こらなかったが「習慣にしたがって」この部屋に集まって来た。冬子はお光を皆に引き合わした一安心で、少し疲れを感じていた。朝早く起きたせいか気分が悪かった。彼女は小さい茶椀にお粥を盛って胡麻塩をかけてすすりはじめた。お幸も時子も茂子も小妻も鶴子も、まずそうに舐(なめ)るようにゆる/\と湯気の白くたつ粥をもてあつかっていた。本当に空腹からうまそうに啜っているのは米子と市子の二人の少女のみであった。自然はこの酷使されている、まだ魂も身体も泥劣なことから護られている二人の少女から健全な食欲を奪いはしなかった。二人は貪るようにずう/\音をさせて啜った。冬子はその様子を悦びをもって眺めていた。卑しそうに時子は眼でお幸に二人を指して笑っていた。そして自分は顔を顰(しか)めて、ようやく一杯の粥を啜るのが大変な仕事なのであった。
「菊龍さんと富江さんは随分遅いじゃないの」
 時子は自分の横の空席を流し目に見て言い出した。今朝からこれを言いたくてむず/\していたのだ。
「そうね」
 お幸は言った。
「望月(ぼうけつ)だから、きっと、吉っちゃんと丹羽さんなんでしょう」
「吉っちゃんと丹羽さん――あのねっつりやのことだもの、遅いのは、なる程、そうねえ」
「今頃はまだ金輪際離すものかとしがみついているのさね」鶴子が大きく言って独りであはははと笑った。時子はその鶴子の口出しを軽蔑するように顔を顰めた。その様子を鶴子は見逃さなかった。
「あはははは、三味線を引くと引かないだけの区別じゃないの。まだわたしの方がどんなに正々堂々としていて立派だか分りゃしない、あはははは」
「天下御免の御娼売ですとさ」
 お幸は時子に加勢して、彼女の怜悧はこうした小争闘に深入りせずに、そのまま店の方へ去った。時子も侮蔑するように鶴子を流し目に見て後につづいた。
「あはははは、碌な芸もないくせに、わたしよりは一かどえらいつもりでいるから、いじらしいじゃないの。あはははは、御自分の癈(すた)りかけているのも御存じなしにさ」
 誰も答えるものはなかった。小妻も茂子も冬子も別々な想いに深い暗鬱に沈潜して笑うことすら出来得なかった。(魂なきものは幸いなるかな。彼女等は絶えず笑い得るから、希(ねが)わくば笑うことを知らざる淋しき人達に恵あれ!)鶴子が茶の間へ帰りかけると、お幸と時子は化粧道具を下げて風呂へ行こうと土間に下りかけていた。
「腐った身体でも洗って来るがいい」
「鶴子さん、何ですって、もう一度言ってごらん」
「玉のみからだを磨いていらっしゃいな」
「余計なお世話じゃないの。どこかの人のような男泣かせの凄い芸当は出来ませんからね」
「それはそれはお気の毒さま。まだこう見えてもなか/\達者なものですからね」
「鶴子ちゃんあんまりよ」
 お幸はたしなめるように言葉をかけた。しかし一度行先を乱れた鶴子の感情はそうしたことで拒止され得なかった。ぶく/\肥えた全身にこじれた憤怒がしみわたっていた。
「あんまりだからどうしたのさ。口があるから喋るじゃないかね。わたしはあなたのように踊りは踊れませんよ。踊りを踊ってから何を踊るの? えらそうな口をお利きじゃないよ」
「何んとでも言うがいいさ。すべたのくせに」
「どうせすべたさね」
「すべたならもっとおとなしくしておいで」
「すべたとはお前さん達のことじゃないかよ。うぬぼれだけは一人前にもっていることね」
 お幸も時子も、全身を投げ出してかかった、異様な苦悶を基調に潜ませた鶴子の雄弁には敵わなかった。二人は不快そうに外へ出て行った。鶴子はその後を見送っていたが、そのまま店の間へ帰ってどったり仰向けに寝転がって、狂人のような空虚な哄笑を続けていた。泣こうにも涙が乾きはてて出て来ないような笑いを。小妻と茂子は冬子に何か話しかけようとしたが、冬子が厳かに取り澄ましていたので、黙って店へ帰って来た。小妻は身体中が物倦く節々がやめて起きていられなかった。床をしいて横になり、暗い何かを疑うような絶望的な眼を光らせていた。茂子は鏡台に向って髪をほぐしていたが、やがて風呂へ出かけてしまった。店には鶴子と小妻が残された。
「小妻さん」呼ばれて小妻はほおっと溜息をついて急には返事をしなかった。
「身体の工合はどうですえ?」
「あまりよくなくて弱っています」
「痛いの?」
「どことなく身体中がやめて、下腹が時々引きつけて来ますのよ」
(鶴子にはそうした病状は身に体験して来た。彼女は生来が強かったので、そうした内部に籠る状態が長続かないで一斉に外部へ吹き上るので、根本的に治すことも容易だった。)鶴子は小妻はもう長いことはあるまいと考えた。
「みんな何処へいったかね」
 奥座敷で楼主と御飯をすました女将(おかみ)が店へ顔を出した。若い頃はさぞ立派で美しかったのであろう、鉛毒で青みを帯びた、眉を剃った四十六、七の女将は、妓供達でさえの気を外(そ)らすまいとした。
「みんな風呂へいったのでしょう」
「菊龍と富江はまだ帰らないのかえ」
「まだでしょう」
「そう。お前さん達もお湯へつかっておいでな。ゆっくり暖まってさえおけば身体がつづくものだからね――小妻さん、お前身体の工合はどうかね」
「え、ありがとう」
「あんまりよくないようなら飯田さんへかかさず通ってすっきりさせないといけないよ、え」
「え、ありがとう」
 冬子がそこへはいって来た。
「お、冬子さん、お前さんまだお湯へ行かないのかね」
「ええ」
「そして、あの何はどうしているの」お光のことを言うらしかった。
「大河の小母さんは離室に休んでいらっしゃいます」
「御飯は」
「朝飯はすましていらしたのでしょう」
「それはそうだろうね、ここの朝は街の午(ひる)だものね、おほほほほ」
 女将は茶の間の横座に坐って、昨夜の客の台帳などを一通り調べはじめた。そして思い出したように「米子、市子」と呼んだ。二人の少女は白粉のはげかかった顎をなでながら「何ですか」と出て来た。
「もう踊りのお師匠さんのところへいっておいで」
「はい」
「そして、お師匠さんに夕方お閑になったらお遊びにおいでと言うのですよ、分ったかい」
「はい」二人は小ざっぱりした振袖の単衣に、帯も紅縮緬に黒繻子の打合せの美しいのを締めて、稽古扇で拍子をとりながら、「おっかさん行ってまいります」と出て行った。時計は午後一時を指していた。冬子は風呂へゆく前に女将にお光を引き合わして行こうと思って、長い暗い廊下を土蔵の裏の離室まで行った。青みがかった室の壁と、室の前のささやかな茂みの多い小庭と、古びた板塀が、青空をひろく受けて、そこに静寂な単一な世界を湛(たた)えていた。お光は縫物を拡げてこつ/\針を運ばせていた。
「まあ小母さん、仕事をしていらっしゃるの」
 冬子にはなじみの深いお光の穏やかな涙に、豊かな微笑がむくいられた。(ああ、いい小母さん)と彼女は思った。
「小母さん、どう思いなすって」
「何を?」
「わたし達のありさまを」
 するとまた、お光はゆるやかに微笑んでみせた。(小母さんはもう、わたし達の生活を根本から視透して、もうゆったりしたいつもの情け深さにかえっているのだ)と冬子は思った。(自分よりは、絶えず周囲の汚れに染むまいと自然に緊張しきっている自分よりは、一層上の境界にいる小母さん)と冬子は思った。冬子の感じていたいろ/\の危惧の不安はこのとき一掃されてしまった。小母さんはわたしなぞが気をもまなくとも大事に遭っても平気なしっかりした信念を持っているのだからと考えた。彼女はそう思うと自分の感情がゆるやかに融けて流れるのを見た。
「女将さんが起きなさったから、いま会っておきなすった方がよくはないでしょうか」
「そう、その方がいいでしょうね」
「小母さんよりか二つ三つも年上でしょうか。つきあいのいい、悪い人じゃないのよ」
「これだけの家をたててゆく人だもの、なか/\普通な人間には出来ないことですからね」
 お光は仕事を止めて立ち上がった。茶の間にはまだ女将がいた。
「女将さん、この方ですの、わたしが随分お世話になった小母さんは。――またどうぞよろしくお願いいたします」
「誰さん――お光さんでしたね。わたしはとみ。女将さんなんて言うのは止して、これからお富さんお光さんで若い人の向うを張ろうじゃありませんか。おほほほほ。なあにあなた、自分の家のような気でのんびりしていて下さいまし。――土蔵の後ろで少し陰気ですけれど、中学へ出る息子さんがいらっしゃるそうで、勉強の都合もあるだろうと思って、冬子と相談してあすこをお部屋に定(き)めて置きましたが、塩梅(あんばい)はどうでしょうか」
「ええ、結構でございます」
「あすこを息子さんの勉強室にしといて、仕事は前二階でも奥二階でも住みいいところで仕事して下されば――息子さんはおいくつで?」
「今年十五になったばかりで」
「それはまあ。わたしなんぞはこうした稼業の罰で未(いま)だに子無しでございますが。ほう、女の手一つで十五まで育てあげるのはどうしてなか/\並大抵な苦労じゃないのですわね。ほう、そしてお連合いはいつ頃亡くなりなすったので」
「もう十一、二年にもなりますでしょうか」
「えらい!」と女将はお世辞でなく驚嘆して、心からしげ/\と自分とはまるで異なった道を生きて来たお光を凝視した。穏やかな淋しげな微笑が唇のあたりに漂っているのを見た女将は、香ばしい薫の高い玉茶を入れてお光にもすすめ自分も喫(の)みもした。
「これからまた、話し相手になっていただけますかしら」
「わたしこそ」
 隣りの社の杉林の緑蔭が日に透されてうつらうつら三人の女性の上に揺らいでいた。珍しい静けさ、珍しい美しさであった。暫く静寂な美はつづいていた。個性をもつものの美と森厳を自然はここに現わしていた。暫くして軒先に俥(くるま)の鈴がなった。[#「なった。」は底本では「なった」]
「女将さん、只今」
「只今」
 菊龍と富江が帰って来たのである。二人とも美しい女でもなく、すぐれた性格の持主でもなかった。ただ二人とも若かった。自然が与えるほんの一瞬の青春の尊さ。それは何時いかなる処においても光り、充ち、美しさに輝く。二人の女に若さは咲き乱れていた。自分がどういう歩みをよろめいているかを無論二人は知るまい。若さは苦しみであるべき行為をもなお快楽として酔わしめるものだ。
「随分遅かったじゃないの」
「そんなに遅いかしら」乱れた島田髷をそっと抑えて、自分の若々しさを誇るように菊龍は、薄桃色の単衣紋付を裾長に引きずりながらそこに立っていた。同じ華やかな草色に装った富江は、小声に口三味線をとなえて、菊龍と内密に笑み交わしていた。
「もう二時近いよ。早く着物を着替えてお湯へでもいっておいで」
 二人はそれには返事をしないで、帛紗(ふくさ)に包んだ花札を女将の前にさし出した。
「誰だったい」
「吉っちゃんに丹羽さんでしたの」
「そうかい。あんまりお前達も深入りしたり、させたりしては取り返しがつかないよ」
「大丈夫ですわ、女将さん」
「それならいいけれどね――あ、それからこの方に今度、お仕事に来て頂いたのだから、お前達、暇なときにはお針の持ち方くらいは習うようにしなさいよ、ね」
「はい、はい、小母さん御免なさいよ」
 二人は店へ去った。
「若いものは仕方がありません」と女将は言った。冬子はいつか厳粛な犯しがたい凛とした容貌に変じてしまっていた。お光は何故か平一郎のことを考えていた。「今日はゆっくり休んでくれ」という意味の女将の言葉に、お光は土蔵の裏へ去った。冬子は風呂へ出かけた。
 女将は奥の室へ去って楼主と二人で花骨牌(カルタ)をはじめた。
「そうはゆきませんよ、青丹などとはどん欲すぎますよ」
「それもそうですかね、さあ、お正月様はこっちのものですよ」
「お生憎さま、そうそういつ迄もあなたの言うとおりにはなっていませんからね」
「や、それを取られては少し困る」
「少し位困るのじゃまだ駄目ですね、さ、どうですかね、あんまり薄情をするから罰があたるのですよ」
「罰はお前の方ですよ、この好色婆さんが」
「何んだよ、浮気なお爺さんが」
「その、そのお婆さんがお好きだから、それ、好きだからしょうがないんだよ」
「うまく、うまく言っているね、こんな爺さんに若いときはわたしが惚れたのが一生のあやまりだね、全く、あやまりだね」
「あやまりさね」
「あやまりだね」
「ところがだ、そのあやまりが、またいいのだからね」
「あやまりだね、と」
「ところが、そうれそのあやまりが生きてくるから妙だよ」
「その頃はまだ頭も禿げずいい若い衆だったから妙なのさ――おや、わたしを迷わして置いてさ、何だよ、存分に迷わして置いてさ」
 こうした言葉が奥座敷から聞えた。楼主も女将も自分が何を言っているのか全然無意識状態にあった。たるんだ静けさが家いっぱいに充ちていた。店の間では鶴子が仰向けになって寝入り、小妻は時々ううむ、ううむと唸った。その上に黄色い日光が漂っていた。一列に店先に並んだ端の方の二台の鏡台に向って鬢のもつれを撫でつけながら、若い菊龍と富江は止度(とめど)なく湧いてくる笑いに全身を波立たせて共通な何かを話しあっていた。
「覚えていらっしゃい、菊ちゃん、あたしが手水(ちょうず)に行って着物を着替えてもまだ次の室で寝ていたくせに、ひとのことを言えるわけじゃないわ」
「あっははははは、うそ/\、あたしと吉っちゃんがそっと襖の間からのぞいて見たら、二人ながら目をあけたまま一緒に寝ていたじゃないの。富ちゃんこそ着物を着替えてからでさえまた寝ているんだもの、あははははは」
「あたしと吉っちゃんですとさ、あははははは、吉っちゃんはいい男ね、菊ちゃんの大切の大切の――」
「富ちゃん、お止しなさいよ。丹羽さんこそ苦(にが)みばしって、会社員で御当世じゃないの。吉っちゃんなんかたかが西洋雑貨店の番頭さんですわ」
「そうでしょうよ、たかが雑貨店の番頭さんが、黄金の指環を買ってくれるのですから、大した番頭さんですよ」
「富ちゃん! そんなら、縮絞(ちぢみしぼり)の単衣を買ってくれたのは誰あれ□」
「あら、まあこの人はそんなことまで知っているの。まあこの人は本当に油断もすきもありゃしないのね」
 二人は笑いこけた。七月近かった。熱気が地より湧きたち、人身の底からじく/\汗がにじみ出た。
「菊ちゃん富ちゃん、お楽しみ! よく今日帰って来たのね。あたしもう帰って来ないのかと思っていたわ」
 川岸沿いの大きな鉄冷鉱泉にゆっくりと肉体を温めて、襟頸から頬にかけて湯上りの白粉を一刷毛真白く塗って、一日中で一番生心地(いきここち)のある感じを保ちながら時子とお幸は帰って来た。菊龍と富江を見出して声をかけたのは時子だった。彼女は感じたことをことごとく言い現わしてしまわなければ承知できなかった。お幸もずるそうな微笑を含んで二人を見戍(まも)っていた。
「随分家の中は暑いのね」
 時子はお幸の言葉に返事をしないで濡手拭を鏡台の鏡の上から裏へ拡げて富江に隣りあって坐った。そして石膏のように白い膚を脱いで暫く鏡面にうつる自分の映像に見とれていた。肉付は豊かだし、顔はほんのり血色がよいし、身体全体が石膏のように白く、ただそこに町方の娘に見出されるゆるやかに流れる鮮かな血潮の色あいと皮膚ににじみ出る青春の光沢がなかった。時子はそっと自分の小さい堅いぽっとふくらんだ乳を抑えてみた。乳房の表に繊細な静脈が青く透きとおって見える。指先に感じられる乳の感触は冷たかった。胸廓から腹部にかけての少しばかりの肉の緊張が彼女に若いことを保証していた。
「丹羽さんと吉っちゃんなの?」時子は鏡面から眼眸(まなざし)をはずして彼女には不似合な、そっとした優しみで二人を流し見た。十八の富江と菊龍は乱れた髪やはれぼったい眼縁などでひどく不縹緻(ぶきりょう)に見えたにもかかわらず、その脈うちはちきれるような頬の赤らみと張りかたや、後髪へ伸ばした腕のむっちりした肉付がもつ新鮮な血のめぐり方やを時子は見逃さなかった。彼女は嫉ましく思った。二人が持つ、持ち得る快楽の量を無意識に計量することによって、彼女は嫉妬を憶えたのだ。二人は時子の内面にそれだけの争闘があろうとは知らなかった。顔見合わして内密な微笑をとりかわしたあとで、
「丹羽さんと吉っちゃんでしたわ」と言った。お幸はいつものように単衣を脱ぎすてて、さわやかな軽い緋色の下帯一つになって鏡台にむかっていた。小さなくり/\した肉体、小さいながらに充実したお幸の肉体は、骨格というものがまるで表われていなかった。薄紅い血色が滑らかな豊かな肉付の表面に、美しく漂い現われている。円(まど)らかにふくらみ充ちた肉の上に日が美しく流れた。その肉は若い生命が溢れている美しさではなく、衰亡してゆく最後の肉の美しさでもなかった。お幸の蛇のような聡明が神経の端々にしみわたってしっかり喰いとめているような、一分の隙もないしっかりした弾力性のある、肉の発育した美しさであった。お幸はふっくらと円らかにもれあがった自分の乳房をじっと制えているうちに、自足と自負の感情が滾々(こんこん)と湧いて来た。
「本当にあすこの湯は温まるのね」お幸は時子に言った。
「そうですわね」時子はクリームを伸ばしたあとへ、水白粉を顔へなすりこんでいた手を止めてお幸の方を向いた。
「お幸姐さん」と富江が話しかける。
「何ですの、富ちゃん」
「あのね、丹羽さんと吉っちゃんがよろしくって」
「おのろけもいい加減になさいな――早くお湯へ行って来て、晩までに昼寝でもしておかないとまた居眠りが出ますよ」
「はい、はい」
 富江は思いがけないお幸の言葉に急に小さくなってしまった。男の傍にいて甘やかされていた心と肉のほどけたしまりがお幸の一言に常態に復帰したのだ。彼女はそっとお幸を見返した。お幸は小(ち)っちゃいしなやかな掌へ白粉下をぬらしつつ、顔一面にたたきこんでいた。右手の指の指環の宝石が輝く。(姐さん風を吹かして)と想いながらも、お幸の肉体を美しいと思った。ああした小さい肉体でありながら舞台に立って勢獅子(せおいじし)でも踊りぬくときは六尺豊かな男のように見えさせる、お幸の身体に秘めた芸の力をも想ってみた。
「菊ちゃん、お湯へ行かない?」
「ええ、ゆきましょう」
「お湯へいって来ます」
「いっておいで」
 二人は出て行った。二人の出て行ったあとへ茂子が暗鬱な顔をして、黙然と這入って来た。彼女は湯の中に温まっていると、凝結して硬ばった全身の神経が異常な溶けるような痛みを覚えつつゆるんでゆくのを知っていた。彼女は他の芸妓達のように化粧したり膚(はだ)を磨いたりする気にはなれなかった。浴槽から上がって、湯気に包まれて心臓の鼓動を休ませている。少し寒気がすると浴槽に這入って眼をつむっている。そうしたことを繰り返しているうちに頭脳も身体も無気力な無為なゆるみに休息してしまう。茂子はぼんやりした様子でいつも家へ帰って来て、鏡に向っても化粧一つしようとしなかった。色黒な眼尻のやや釣上った容貌を自覚している彼女は、白粉を塗るよりもさっぱりした薄化粧の方が本来の性にかなっていると考えていた。茂子の鏡台はお幸と時子の鏡台の間にあった。時子とお幸は茂子を中に坐らせておいたまま勝手に話し合った。茂子は何もせずぼんやり坐ったまま黙っていた。
「米子と市子ちゃんはどうしたのかしら」
「踊りの稽古じゃないの」
「踊りの稽古にしちゃ長すぎますね。ほんとにしょうがない。また道草をくってぐず/\しているんだよ」
 時子がこう呟いて新しいタオルで肌の水気を柔かく吸い取らせている時、店前の街路で市子の厚味のある声が聞えた。
「ここですのよ、平一郎さん」すると米子の金属性な高い調子が顫えた。
「小母さんは朝から冬子姐さんと一緒に来ていらしってよ」
「ありがとう」それは平一郎であった。彼は学校が退けてから、忘却してもとの住居に帰って階下の主婦さんに笑われたのだ。彼は春風楼はよく知っていたが廓の街を一々知らなかった。それに彼はよく通りつけている坂を下りずに、別な入口の青柳の生えている広小路から這入りこんだので、途中で見当がつかなくなった。それ程にどの家も同じように紅殻格子の二階建だった。彼は小倉の白地の夏服にゲートルをつけた制服姿で、街の十字街に、疲れた足を休めていたのだ。すると右手の細い小路から、桃割に、白の奉書の根付をした、見覚えのある少女市子と米子が踊りの扇を持って出て来て、彼を見て微笑んで二人で何か囁いて行き過ぎようとした。彼は思いきって、「春風楼はどちらでしたっけ」と訊ねた。
「春風楼はあたしの家よ」円顔の毛深な眉毛や睫の鮮やかな背の低い方の少女――市子が答えると、細顔の鼻の高い目のちら/\と動く背の高い方の米子がぽっと頬を染めて、
「平一郎さんでしょう」と言ったのだ。平一郎は嬉しかった。地獄で仏だと思った。三人は親しくなってしまった。三人ともそう深くはないものの、純白な心の一隅にお互いの印象を信じていたのだ。それがこうもたやすく偶然と親しくなり得ようとは思っていなかった。あくまで微妙で必然で壮大な運命のめぐりあわせの片鱗である。とにかく三人は非常な歓喜を感じて歓喜のうちで、平一郎はちら/\と和歌子のことを想い起こし、米子と市子はちら/\とお互いにお互いのうちに自分の敵と友とを同時に見出しながらやって来たのだった。
「二人とも何しているの。早く帰らないで今まで何していたの。用があったらどうするつもりなの」時子の声が家の中から戸外に響いた。
「誰だい」平一郎は家の中をにらむようにして言った。
「時子姐さんよ」このささやくような少女の答が示す感情を具象的にはっきり感じられる準備は平一郎になかった。
「あのね、僕のお母さんをここまで呼んで来てくれないか」
「あたし呼んで来るわ」市子は家の中へ駈け入った。米子は平一郎に「おはいり」と言った。平一郎は家の前に立って、さて這入る気がしなかった。平一郎にとって未知の世界であった。恐ろしいような気さえしたが、心の底では無理に平気に構えていた。彼は口笛で野球の応援歌を歌いはじめたが、周囲に不調和なのに気づいてすぐに止めてしまった。彼は格子の前の鉄柵につかまって靴の泥をがじり/\落としはじめた。
「平一郎さんじゃない?」それは湯上りの帰りらしい上気した冬子だった。
「さ、おはいり。今、学校から帰ったの。おはいり」平一郎は冬子から発散するいい香料の匂いを快く味わった。冬子の後について土間へはいってゲートルの釦をはずしているところへ、母のお光が出て来た。
「冬子姐さん、お帰りなさい」市子が元気よく冬子を迎えた。
「小母さん、平一郎さんはここにいらしってよ」お光にさらに市子は言う。
「え、ありがとう。平一郎、お前遅かったじゃないか」
「うむ」
「今、わたしが帰って来ると、家の前につくねんと立っていらしったのですよ」
「そうですの――こっちへおいで」
「うむ」
 彼はお光にしたがって長い廊下、土蔵の前、暗いじめ/\した土蔵の横を通って、土蔵裏の一室に自分の古机を見出した。彼は寂しい気になった。洋服のまま、室の中央に仰向けになって深い溜息をもらした。彼には人生は堪えられない苦痛なものに思われたのだ。(こんなにまでしなくては、生きていられないのか!)と彼は幼い心に叫んだのだ。その苦しい沈黙と静寂を、室の横手で火の出るような哄笑が破った。声は米子と市子のたまらない、堪えきれなくなって発した笑いらしかった。大方忍び足で平一郎のあとをついて来て身をひそめていたのが、こらえきれなくなった笑いであろう。
「誰だ!」
 するとまた、たまらなそうな、熱情的な笑いが破れて、廊下を逃げてゆく乱れた足音が響いて来た。
「くそ、悪戯をしやがる」平一郎は腹立たしい、自分の領分へ侵入されたような不快を感じた。寂しくなって来た。自分のおちぶれたことが瞭(はっき)りして来て、彼は涙を止められなかった。
「えらくなるぞ! えらくなるぞ!」涙のうちから踴躍するは、ただこの言葉のみだった。
 彼は和歌子に送った。
 ぼくの家は今日から廓の春風楼へ引っ越しました。随分とつぜんで驚かれることと考えます。また何故こんな家へ移ったのかと不思議に思われるでしょう。正直のところぼくの家が貧乏で今までのようにしていてはぼくが学校へ出れないからなのです。春風楼の冬子ねえさんはぼくの母の仲よしで、今度もその人の世話になったのです。いい人です。ぼくはあなたに一度どうかして見せたいと思います。なおぼくはたとえ廓のなかに住居していてもぼくの精神はつねにつねに偉大であり真実でありたいと思っています。あなたもぼくが境遇に余儀なくされて住居をかえた位でぼくを疑ったりなぞはしないでしょう――しかしぼくも今のところ何だかあまり好いてはおりません。
平一郎    和歌子様
[#改ページ]
     第三章




 お光母子が生活の根を春風楼に下ろしてから一月もたたないうちに春風楼の女達の間に恐ろしい事が起きた。時は七月、廓にとってはありがたい真夏近い、深い青々した夜の出来事である。
 その夜、市街を貫流するS河の水源地からはる/″\送られる電流は春風楼の茶の間にも強烈な白光を輝かに照していた。悦ばしい夜である。黒々した深い夜の光沢、冷やかで柔らかく吸いつくような初夏の微風の肌ざわりの夜がめぐり来たのである。白日の太陽の下に照されては、瘠せ細った骨格、露わな肋骨、光沢のないもつれ毛、血色の悪い蒼白な肉身も、夜の無限な魅力のうちに、エレキの白光に照らし出されては、一切は豊潤な美とみず/\しさを現わすのである。くろぐろと宝玉のような光輝をもつ黒髪も美しければ、透明で白い肉身の膚に潮のように浮かぶ情熱の血の色も美しい。軽やかな水色、薄桃色、藤紫色の色彩に包まれた肉体の動揺の生み出す明暗の美しさを何にたとえようか――時は午後九時であった。普通の民家では夜も更けかける時分ではあるが、この家、この街では今ようやく「昼が明け」かけた頃である。[#「である。」は底本では「である」]
 春風楼の茶の間の大きな古代青銅の鉄瓶に白い湯気が旺(さか)んに立って、微妙な快い音が鳴っていた。そこに坐っている女将の、夕方洗ったままの束髪に、単衣に黒繻子の帯を軽く巻きつけた清い単純な姿が、青ずんだ眉あとと共に洗煉された美しさを現わしている。楼主は廓の事務所の用事で外へ出ていなかったので、彼女は帳面を調べたり、客帳に夕方浅く酌み交わして直ぐに帰った二人連れの客の名をつけたりした。職業は会社員だと言ったが、様子から会話の模様からが教育のある学校の先生だと彼女はにらんでいた。帰りがけに、「じゃ九月、また会いましょう」と二人が言い合ったことが何よりの証拠だと彼女は思った。
「さっきのお客ね、たしかにあれは高等学校の先生だよ」と彼女は、彼女の前に坐っている女達に話しかけた。電光の光線の一条一条に白熱したぴり/\する神経を宿しているような電光をあびて、部屋の中央に茂子と時子と菊龍とお幸が十字形に向い合っていた。
 冬子は宵からある大川縁(べり)の大きな料理屋へ招ばれてまだ帰って来なかったし、富江と市子米子の二人の舞妓は賑やかな遊びの好きな、県会議員で、素封家で、羽二重商で知られている男の座敷に招ばれていなかった。鶴子は明朝までの約束で出かけてしまっていた。お幸と時子はさっきの二人づれの客が風采の好いのを見て、そのとき電話で招びかけて来た座敷を断わって出たのだが、お客は静かに酒を酌させるだけで愛想一つ言わずにじきに帰ってしまった。お幸と時子はそれが不快で不平であった。
「ほんとにわたしあんなお座敷へ出るんじゃなかった、つまらない」と時子が答えた。お幸は細口の金の煙管(きせる)にゆっくり煙草を填めて、ゆっくり鼻から、格好のよい円味を帯びたすぐれた鼻から、紫の閃きのある煙をすうっと吐き出した。煙は彼女の活々した顔面を洗うように昇ってゆく。ふっくらと重厚さを見せたいちょうにゆった髪が彼女の容貌を異常に強烈に生気あらしめている。彼女は時折下の眼縁と鼻の根本のところに皺をよせて、擽(くすぐ)ったい顔をした。(彼女は静かに坐っている暇に、数知れぬ男を、浮いた恋で欺した記憶に伴う滑稽な、いかに男が馬鹿であるかをまざ/\表わしたような場面を想い起こしていつもくすぐったい顔をするのだ。)そして時々、金と銀の平打の簪(かんざし)で頭を小刻みに掻いた。時子は時子でこうしているつまらなさを種々な取りとめもない淫奔な妄想にすごしているらしかった。顔を動かす度に、顔が紫色に光り、口紅の濃い色が鬼のように大きく濡れて光る。
「もう何時なの」時子は菊龍に訊いた。菊龍は眠気がさして困っていた。坐っていると結い立ての島田髷が重苦しく、根本から頭の髄が重い鉛玉でも乗せたようにしかまってくる。すると身体全体が溶けるような倦怠と痛みを覚えて、無意識な昏迷に引きずり入れられようとする。白光はうつむきがちな彼女の頸のきめの粗いざら/\した白粉膚に紫光を放って反映した。
「菊ちゃん、居眠りなんかして不景気じゃなくって!」
「はあっ?」菊龍は顔をあげて、
「まだ九時すぎだわ」と言った。
「なんだか今夜は暇じゃないの」
「だって、まだ時間も早いんだわ」
「さっきはほんとに馬鹿馬鹿しかった。ほんとうに」
「だって、時ちゃんはまだいいわ。わたしはまだ何処からも言って来やしないわ」

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