地上
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著者名:島田清次郎 

「何故アメリカのみであるか? そうだ、何故アメリカであるのか?」こう奔流のように批判が働きはじめると、平一郎には、汗を拭きながら巨大な肉身をもてあつかっている、毎食牛肉の血の垂れるようなのをむしゃぶりつくような彼Aが「貧しい大工のクリスト」を説いていることが実に不調和で滑稽に見えて来た。金縁の鼻眼鏡、さっき出して見た金時計、太い指にはめている金指輪! (ああ汝、偽善者よ!)二千年の昔クリストを揺り動かした精神が平一郎をすっくと立たした。
「K先生!」
「何です」とK氏はじろり平一郎を見た。この不意の平一郎の起立に一同はひっそりとして瞳を彼に集めた。
「質問があります」
「あとになさい」
「いえ、これ以上A氏に言わすことはクリストに対する冒涜です!」
「――」
「何故、クリストの精神、人類の真の文化、神の国の実現を信ずるものはアメリカばかりなのです。僕にはそれが理解できませぬ。すでにここに一日本人である自分、大河平一郎はクリストの生活の真実さに涙を流し、クリストが信ずる神の国の地上に実現されることを信ぜずにはいられませぬ。そして自分は日本人です。自分は日本が神の国を実現することを信じたい。アメリカのみであるとの宣言は、アメリカがクリストの精神を生かしていないことの証拠であります。黄金づくめの装飾を身につけながら、クリストの生涯を説くことは僭越すぎることであります。説くよりも汝のその金の指輪を貧しき人に心より贈れよと自分は叫びたいのであります!」
 平一郎は身を慄わして、壇上のA氏の碧眼を睨みつけていた。全精神が宇宙とともに燃えあがる。彼はこのとき恐ろしいもののない「権威」を全身に感じていた。はじめ人々は突然のことに静まり返っていたが、やがて一斉に騒ぎはじめた。彼等は若いが故に平一郎の悲壮な英雄的態度にすっかりまいったのである。
 夕ぐれ、平一郎は寂しいさびしい心を抱いて天野の邸へ帰って来た。彼は雷にうたれた人のように打ち沈んでいた。彼は世界的の基督教者を「やりこめた」勝利者だったが、彼は学校からの帰り路で自分が今どこへ帰ろうとしているのかと自分に尋ねたとき、彼は苦しくなった。天野へ! ああ、A氏の金の指輪を偽善者! と叫ぶことの出来たこの自分は、更に浅ましい偽善者ではないか。「天野の世話」になることがすでに何となく心咎(とが)めのすることであるのに、「冬子」の存在! 母の戒め! 平一郎は淋しい、「神」に見放された「自信」のない心を抱いて、夕飯も食わずに自分の部屋に閉じ籠ってしまった。苦しい戦いが彼のうちで渦巻いた。
(汝は天野の世話になってはならない! 汝は天野夫妻に一切の事実、冬子のこともお光のことも正直に打ち明けなくてはならない! まず汝自身を清くせよ! 汝自身を清くしたるのちにはじめて汝の使命を全うするがいい!)
「それは、それは出来ない――」(そうすることは冬子、母、天野、自分の破壊になってしまいはしまいか□)
 平一郎は机に頭をかかえて悶えていた。
「大河、いるかえ」としゃがれた声がして乙彦がはいって来た。平一郎は返事する気もせず振り向いただけだった。本能的な嫌悪が押し寄せてくる。
「お前、どうして飯を食わないのだい」
「少し気分が悪いですから」答える平一郎の顔をじろ/\見ていたが乙彦は突然、意地の悪い表情で「お前は実に僕の母さんに似ているね」と言った。
「そうですか」と平一郎は答えた。それどころでなかったのだ。
「顔色が悪いよ。西洋館の屋上広場へ行って涼んで来よう。おいで、大河!」
 乙彦は引きずるように平一郎を西洋館へ連れて行った。真暗な狭い螺旋形の階子を登って二人は屋上へ出た。深い蒼い夏の夜空がそこにあった。星が輝いて見えた。夜風が冷やかだった。東京の市街が一切の人間の悲しみと苦しみと歓びとを深い夜に包んだまま夜霧を通して下に見え、灯があか/\と人間の思慕のように空を染めていた。
「むこうのあの黒藍色が太平洋だよ」と乙彦が言った。「己は早く親爺が死ねばいいと思っているのさ。そうすればこの邸もこの家も金も皆己の心のままだからね!」
 あか/\と空に燃える都会の灯を眺めていると淋しい涙が平一郎に湧いて来た。
「そうしたらね、己だってすきな女を囲ってさ。――大河、お前が父さんの妾の世話で来たこと位は己はすっかり知っているんだからね!」
「失敬します! 僕はここにいる閑がありません!」平一郎は狂ったように屋上を駈け下り、廊下を小走りに自分の部屋へはいって襖をぴっしゃり閉めきった。
「ああ、自分はどうしよう」(獣には穴あり空とぶ鳥は巣あり、されど人の子は枕するに所なし)――熱い涙が制し切れなかった。「ああ、この感情、この真理、これは自分一人ではあるまい。自分のこの涙は万人の涙であろう。自分は自分一人の寂しさに泣いていてはならない。ああ、自分はどうなっても構わない。願わくば、今ひし/\と身に迫り感じる万人の涙のために戦おう! ああ、自分には万人の悲しい涙にぬれた顔を新しい歓喜をもって輝かすことは出来ないのだろうか。自分の生はそれのみのための生涯であり、自分の使命はそれよりほかにはない! ああ、この大いなる願いが、自分の一命を必要とするならば、自分は死ぬべき時に死にもしよう!」



「地に潜むもの」完



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