地上
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著者名:島田清次郎 

「お早うございます」平一郎が着物を着替えているうちに玉は床をあげてしまった。階下には冬子は見えなかった。玉は飯台をだして平一郎に朝食をすすめた。小さい台所の瓦斯鍋に味噌汁がたぎっている。彼は大嫌いな濃いどろどろの味噌汁をすすった。彼が朝飯をおえたところへ玉が呼びに来た。三畳の部屋の「秘密の道」から別邸の庭園わきの廻廊に出て彼は座敷に導かれた。一もと深く庭園の地に根を下した松の樹は、太陽の光熱を慕うように屋根の上に伸びあがっていた。部屋は八畳だった。次の六畳も(そこは前蔵になっていた)明け放されて、かなり広い贅沢な段通や屏風や柔らかい蒲団類の豊饒の中に、かの天野栄介は伸びやかに身を横たえていた。かつて金沢の古龍亭で受けた豪勢な威圧的な力は感じられなかったが、ゆたかな頬、高い額、額と頬を統帥するように高くのび/\と拡がった鼻、――口と瞳はこの朝は柔しく、はる/″\故郷を出てきた少年を見戍(みまも)りいたわっているようだった。お辞儀して、自分の面倒を見てくれようとする、この巨人(頭髪や頬にはまばらに白毛が交っている)から「温かさ」を感じたく思った。冬子は部屋には見えなかった。
「もっとこっちへおはいり」
「はい」平一郎は敷居を越えて彼に近寄った。玉は平一郎に座蒲団をすすめた。平一郎は敷かなかった。天野は軽く「おしき」と言った。それが決してわざとらしいのでなく、真実平一郎を天野と同等に待遇する意志から生じているらしかったので彼はしいた。ついで玉が茶と菓子をもって来て、去ってしまった。五十近い天野と十七の平一郎とは暫く黙して対(むか)い合っていた。
「よく来たね」
「思い切って来ました」
「お前の母さんは泣きはしなかったかい」
「いいえ、母は早く行くがいいと申しました」
「そうか、あはははは。お前は大きくなって政治家になるのだったね」
「そうです」
「お前はそうして世を済おうと思っているのだったね」
「そうです」
「わたしもお前の年頃の時分には一流の大政治家になるつもりだった。ただわたしは世を支配したかった。違うのはそこだな。あははははは」
「――」
 平一郎は何故か天野を崇拝し親愛の情に充たされたい欲望と神秘な深い敵意とを同時に感じて来た。
「わたしはお前が志をとげるよう出来るだけの力を尽しましょう。わたしはお前を自分の真実の子のようにも思いましょう。しかし、お前も苦しかろうが、お前はわたしの邸の書生という形式でT街の邸で学生時代を暮して貰わなくてはならない。わたしには綾子という妻と、乙彦というお前より一つ年上の息子がいる。お前はわたしを信愛してくれるならこの二人に対しても相当の奉仕を心がけて貰いたい。――しかしこれはわたしが強いるのではない。すべてお前の自由な意思に任しては置くのだ。え、平一郎」
「はい」
「それから学校のことだが、わたしが青年時代のある時期――馬鹿な夢のような時代を過したM学院、あすこは自由でお前の性格にもふさわしく、邸からも近くてよいと思うが、それともお前に望みの学校があるかね」
「ありませんです」
「とにかくお前はお前が今燃ゆるように感じている志をのべるように全力を尽してくれればわたしはそれでよい。ただお前が多少心得て置いて欲しいことは、天野の家にはわたしの外に妻と子がいるということだけだ」
「分りました」
 平一郎は全身に異様な震撼を覚えた。光と暗の強猛な交錯だった。はじめ彼はこの一人の巨人に、「お前が志を遂げるよう出来るだけの力を尽しましょう」と言われ、「世を済おうと思っているのだったね」と言われ、そこに光と悦びに輝く親愛を覚えたのだ。しかし彼の内深のところでは、「わたしは世を支配したかった!」「わたしを信愛するなら相当の奉仕を心がけてもらいたい――」という同じ天野の言葉を見逃すわけにはならなかった。「世話はしよう。その代りに汝は奴隷であれ!」こう言っているのではあるまいか。
「この自分をそうさせようとしたってそれはだめだ!」平一郎は内心叫んだ。(救って頂戴、平一郎さん)と冬子の言葉が響く。――平一郎は天野をみつめた。
「玉」と天野は呼んだ。玉は両手をついてあらわれた。
「太助と芳を呼んでくれないか。そして冬子は土蔵でまだ何をしているのかね」
「御新造様は旦那様のお召物を捜していらっしゃいます」
 やがて太助とお芳が縁側へ現われた。太助は頭の禿げた頑丈な、それでいて垢ぬけのした五十男で、細っそりしたお芳とはいい夫婦であった。二人は平一郎に頭を下げた。平一郎も「どうぞよろしく」と言った。
「平一郎も遠いところから来たのだから、またお前達の方でお世話になることだから」
「いや、もう旦那様が仰しゃるまでもござんせん」と太助は禿げた頭をなでたが、顔は柔順と真情を表現していた。平一郎は、絶対的にお芳夫婦も玉も冬子も信順してしまっている天野のこの王国のうちへ今、自分自身が身を入れたのだと思った。この王国ではすべての人が「天野のために」生活しているのである。蔵前のがら/\戸をあけて冬子が衣類を手に捧げて出て来た。彼女は寂しげに微笑んだ。
「平一郎さんもうお目覚め? 昨夜、旦那様がお帰りになってから二階へ行ってみると蒲団をかぶって寝ていなすったのね」皆がしめやかに笑った。
「二、三日、見物がてら疲れ安めにここにいらっしゃるといいでしょ」
 半分平一郎に半分栄介に冬子は言った。栄介はうなずいた。冬子が平一郎を見た。その視線が彼にもうここを去るべき時であることを知らした。彼はみんなに会釈して廊下伝いに冬子の「隠れ家」に帰った。彼は二階の座敷一杯に仰向けに寝転がって遠雷のような電車の轟音と薄らな早春の日射しとの交錯を感じていた。そうしているうちに淡い夢の追憶のように天野に対する敵意が彼の意識に現われて来るのは不思議だ。彼は彼の一生に力を尽そうとする天野の恩義を思って自分の心を疑い、根拠のない妄想を消そうとしてみたが駄目であった。訳の分らない、はてしのない、口惜しい淋しさが滲み出て来る。それは堪えられない淋しさだった。人類生誕の劫初より縹渺(ひょうびょう)と湧いて来るような淋しさだった。平一郎はその淋しさを噛みしめながら、天野の「妾宅」であり、冬子の「家」であるところで三日間を過ごしたのである。
 その三日間は平一郎に冬子の生活が決して「思っていたように」幸福でもなく自由でもないことを知らしてくれた。彼女は実に「妾」であったのだ。天野は自分の経営する会社と高輪にある本邸とが離れているという理由のために、会社に近いこの町に別邸を設け、そこに隔晩毎に泊るのだった。別邸はつまり妾宅である。そして太助夫婦は十数年来の天野の腹心の家来で(太助はもと会社の小使、お芳はもと高輪の方の邸の女中であった)外部へは協力して冬子をかばっていたが、同じ協力の力は、「御新造様、御新造様」と礼儀と親愛をもって傅く裏に、絶えず「天野の代り」となって厳しい監視と干渉を固持するのである。恐らく冬子が天野を愛しているように天野は冬子を愛するのであろう。ただ天野の愛は同時に絶対的な支配を要求することである。冬子は捕えられて飼われる小鳥のように、生活には困らないが、しかし不自由で、真に孤独で、「道具扱い」をされていた。平一郎は、天野の来ない夜、はじめて見た東京の市街の話や、故郷の話、お光のことを語りながら、懐かしさに夜の更けるのを知らなかった。平一郎は冬子がやはり昔のように美しくて、気稟(きひん)があって、荘厳で、淋しそうであるのにどんなに悦んだかしれない。そして、平一郎は(冬子も)、もっと寛やかに、意識を渾一にして話したくてならなかったが、しかし何故かそれをさせない、冬子との話にある隔たりを強いる「無言の意志」が家一杯に充満しているように考えられてならなかった。「汝等は自分の奴隷である。汝等は自分の言葉の喇叺(ラッパ)であれ、汝等は汝等自身の天性を滅却して跪け」と大音声で叫んでいる精神が感じられた。お芳やお玉が用もないのに絶えず出入するのだ。そして監視の眼を光らすのだ。その光らせる源には「天野」がいる!
 ああ、何んという孤独! また淋しさ! あのように立派で美しくて名妓とまで言われた冬子、その冬子が今はとう/\天野に支配されて、「別邸」に幽閉される囚人であろうとは!
「救って頂戴、平一郎さん」冬子の嘆きと念願が平一郎に聞える。平一郎はこれから天野の邸へ行こうとする自分もまた「囚人」になるのではあるまいかと考えてみた。
「この自分を虜(とりこ)にできるならしてみるがいい! 己だけはならないぞ!」
 四日目の午過ぎに奥山という四十二、三の背の高い男が来た。彼は平一郎と同じ金沢の生まれであった。冬子は彼に「どうぞよろしく」と会釈した。奥山は莨(たばこ)を吹かしてお世辞を言った。平一郎はこの厭な見知らぬ男の「身内」となって天野の邸へ行くのを厭なことだと思った。しかし彼はまた思い返した。「何も修行である」と。

 お光が金沢にひとり四十年の「埋れたる過去」を潜ませて淋しく居残っているその「過去の運命」を誰も知らなかった。天野も知らなかった。冬子も知らなかった。また天野の妻であるお光の姉の綾子も知らず、平一郎自身も知らなかった。彼等は遂に人間であるが故に、人間は遂に自分の真の運命には無知であるが故に。天野は冬子のため、また自分の息子が不良少年で後継者とするに足らないと考えて、冬子はお光への「恩返し」として、また一生自分には子が恵まれないことを知った頼りなさも加わって、天野の妻の綾子はどう考えたかは分らないまでも現在自分の甥であり、その昔、処女の一心に恋い慕っていた恋人大河俊太郎の忘れ遺子(がたみ)であろうとは知らなかったであろう。そして平一郎もまたこれらの事実には無知であった。彼にはただ神聖で荘厳で、熱烈な燃ゆる意思があるのみである。その意思こそは万人の心に響き万人を救おうとする意思である。万人のために僕(しもべ)とならん意思である。
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     第十章




 ほか/\と暖かさの感じられる四月初旬の午後は暖かだった。(一度でもこうした人間に頭を下げなくてはならないとは辛いことだ。)涙のにじむ瞳に、品川の海が黒藍色に輝いて映る。そこは東京もかなり中心を遠ざかった端っぱであった。欲求が広大な私有地と宏壮な邸宅を必要とする「富」の占有者達は止み難い欲求を高台の新しい土地に充たしていた。霽(は)れた穏かな青空には浮雲一つなく、平坦な大道が緩い傾斜をなして新開の空地と高い煉瓦塀との間にひらかれている。空地には地均(ぢなら)し工事の最中らしい切り倒された樹木の幹や泥のこびりついた生々しい木の根が春の日に晒(さら)され、深い杉林の陰影が半分あまりを暗くしている。奥山はステッキをふりながら、その杉林の中が明治維新の時分に徳川幕府を倒すに勢力のあったM公の邸であると知らしてくれた。緩い傾斜を中程登りつめると、黒板塀に西洋式の庭園の樹木の茂りの蔭に赤い壮麗な煉瓦の宮殿が聳えて見える。尖塔の窓の橙色の綸子(りんず)の窓掛に日の映るのさえが明らかに見える。Kという皇族の御殿であると奥山は知らしてくれた。青い空が永遠であるかのように美しくその上に輝いている。平一郎は哀愁を感じて来た。何故の哀愁であるかは分らないが、M公の邸を囲むセメントの塀を越えて深い森林の樹葉が路上に掩い被さっている街角から左に折れる暗い狭いやや急な坂路が続いている。奥山は「ここを折れるのです」と言い、M公の邸の対(むか)い合う竹藪をO子爵の邸だと教えた。春の日も杉林と竹藪に囲まれたその路上には射さず、寒い程に寂しかった。坂を登るにつれて陰鬱な樹林の間に薄赤い咲き乱れた桜の雲が美しく見えたとき平一郎は「ここだな」と直覚した。路上には、板塀の外へ枝を伸ばした桜の花弁が白く散り敷いていた。坂を登りつめて右手の街路には高雅な板塀が続いていて、大きな鋼鉄の門に「天野栄介」と門標が打ってある。傍の通用口を入ると花崗岩(みかげいし)を敷きつめた路が両側の桜の樹の下を通じている。玄関の横の格子戸を開けて奥山は案内を乞うた。女中が出て来て、「あ、奥山さん」と言った。
「奥さんはおられますか」
「はい、御在宅でございます」
「そう」と彼は靴を脱いで平一郎を忘れたように置き放しで奥へ入ってしまった。平一郎は拭き磨かれた上り口に腰かけて航海者が空模様を案じるような不安を感じていた。格子越しに見える桜樹の下の犬小屋を瞶(みつ)めながら自分の上京が取り返しのつかない失敗のようにも考えられたのだ。「大河さん、奥さんがお呼びでございます」顔の平たい細い瞳の奥に善良さが微笑んでいる女中が呼びに来たので彼はついて行った。十畳の茶の間には奥山が洋服のままで正坐して何かを喋っていた。「何分まだ中学を卒業しない少年でございまして――」
「ほんとに何故もっと早く連れて来ておくれでなかったい」と言う声は、重みがあり、ほがらかで、偉大な響きをもっていた。平一郎はその声を聞いたひととき自分の素質に微妙な索引力を感じて思わず座敷へ進み出た。
「はじめてお目にかかります」と頭を下げ、火鉢を前にして坐っている夫人を正視したとき、彼は驚きのために、そうしてその驚きがあまりに急激で深く、凝結して、身動きがならなく感じた。彼は夫人に「母のお光」に生き写しの女を見たのだ! が、それは一瞬間のことで、平一郎が全力で綜合的に受容れた深い印象であった。人の生涯にあるかなしの本質と本質との照合だったのだ。彼は自分を疑うようにもう一度彼女を見直した。そして最早「母のお光」でなかった。お光とはまるで違った立派な女――背丈ののんびりした豊かな黒髪、やや脂肪のかったつや/\した皮膚と肉付のしっかりした男のような身体、切れ目の白刃のように凄艶な瞳、透き徹った鼻筋、品の好いふくらんだ鼻付、肥えた下唇、緩やかに垂れた顎と頬、血液の美しく透る耳朶――立派な女だ。偉大な天野夫人として恥かしくない充実した威厳と偉大性に輝いている。冬子のもつ美しさにはどこか陰性な淋しさがつき纏っているが、これは何という盛大な相であろう。平一郎は自分の母のお光の瘠せた有様を回想して、かりにも「母だ」と思えた自分の幻像を不快にさえ思った。しかし、驚いたのは平一郎のみではなかったのだ。ああ、同じく黙りこんで目をみはった綾子の深い魂の動乱を誰が知り得よう。生涯のいかなる時も忘れたことのない愛した男の「生き写し」を思いがけない平一郎に見出そうとは! 中庭の泉水に緋鯉の跳ねる音がぴっしゃり聞えた。「お前さんですかえ、平一郎さんは」
「はい、大河平一郎と申します。はじめて、お目にかかります」平一郎は答えながら何故か虚偽を自分は言っているのではないかという障礙(しょうがい)を内部に感じた。(何度もお会いしたような気がします)ああ、久し振りだったと、生を超ゆる幽かな遠い心内から言うものがあった。
「大河……」と綾子は小さく呟いて、平一郎を抱きすくめるように凝視した。白刃のような切れ目の長い瞳が円く大きく輝いて平一郎に迫って来る。複雑な思想が瞳の奥で奔湍(ほんたん)のように煌(きら)めき、やがて一束の冷徹な流れとなって平一郎を瞶(みつ)めるのである。
「母御お一人だというんでしたね」彼女は奥山に口先だけでたずねて平一郎を見つめていた。
「そうです、母一人子一人でこれまで生活して来ていたのですが、どうにも十分な教育が出来かねるというので、わたしが知り合いなものですから、こちらの御主人にお願いしたようなわけですので――」
(嘘を言っているな)と平一郎は浅ましい気がしてうつむいた。
 綾子はよくも聞かないで今度は平一郎に尋ねた。
「母さんはどんな方? なんという方?」
「母は光と申します――」と彼が言ったときの綾子の異常な感動は平一郎に生涯忘れることは出来まい。外部へ発すべき驚きが内部へ侵入して、複雑な彼女の内面生活へ脈々と波動して行く有様だ。夫人は灼きつくような瞳に非凡な彼女の全力を集中して平一郎を身動きもさせなかった。そして無言は彼に次を語ることを促した。彼は「母は今年四十で――」と言いかけたとき電光のように母の訓戒が閃いた。一大事であった。「母は金沢の生まれでございます。父は小さい時に死に別れたので何一つ記憶していませんがKという港の生まれだそうで、何んでも母の養子であったそうでございます」彼も一生懸命だった。宣言するように彼は強く述べずにいられなかった。彼自身自分の言うことが実在性をもつ真実のように考えられる程一心だった。綾子は疑うように瞳を動かしたが、崖の上から深淵を覗きこむ人のように瞳を落として「そう」と言った。そして、彼女は再び平一郎を見ることを恐れるように、「粂や」と女中を呼んだ。十六、七の円顔で人形のように色白で愛らしい粂は白いエプロンで手をもみながら廊下に跪いた。
「この間言って置いた玄関のわきの四畳半はよくなっているかえ」
「はい、すっかりもう出来ております」
「じゃ、大河を案内しておくれ」と綾子は辛そうに言った。
 玄関の傍の畳の新しい四畳半には、窓先には机が具えられ、壁際には書棚、欄間の端には帽子掛までが用意され、部屋の片隅には、彼が停車場から直送した柳行李が縄も解かずに置かれてあった。窓先の空地に植えられた山茶花と南天の樹が日に透されて揺らいでいた。粂は自身机の前に坐ってみせて、「大河さん、もうあなたさえいらっしゃればいいようにして待っていたのですよ」と言って微笑した。粂は右手の障子を開けた。縁側を越えて、奥庭の広い芝生にあたる日光の流れや、常盤樹(ときわぎ)の茂みに薄赤く咲き乱れる桜や、小鳥の囀りが聞える。何というおだやかな静かさであろう。彼は机の前に坐って、充ちわたる静寂にひたった。外界の静寂に似ず彼は自分の内面に不思議にひろがる「あやしげな」感じを抱きしめていた。
「随分いい部屋ですわ。ほんとに大河さんは幸福ですのよ。こちらのようなお邸から学校へ通わして戴けるなんて。それに本当にこちらのお邸のようにいいお邸はないことよ。奥様は立派な思いやりの深い方ですし、旦那様だってそれはいい方ですのよ。ただ若様は少しお身体が弱くって学校なんかも怠けていらっしゃるけれど、…………」粂は快活に下松町のお玉がそうであったように時々大げさな色眼を使って話したてた。平一郎はその色眼を快く思わぬでもなかったが、何故か頼りない寂しさが全身を揺り動かして来るのをどうにも出来なかった。(母を去って来たからだ。明日食う米がなくても母の傍にさえいれば感じなくともすむ淋しさだ。)それに何とも知れぬ天野夫人への執着が湧いて来た。彼はそうした複雑な感情で窓先の山茶花の葉を眺めていた。粂は彼の耳許で、彼は毎朝起きてから自分の部屋と廊下と前庭の掃除をすること、ときどき風呂の焚きつけをしなくてはならないこと、学校から帰ったあとはもう来訪者があればその取次をしなくてはいけないと話した。やがて邸中の女中が七人、一人ずつ初対面の挨拶をして行った。奥山が一々まことらしく、「よろしくたのむ」を繰り返したのである。
「何という己は意気地なしの馬鹿だろう! いけない!」彼は一人になったとき襲ってくる悪霊を払いのけるように手を振り廻して、柳行李の紐を解いて硯やペンを取り出した。そして、母と深井と尾沢へ東京へ来てはじめての簡単な通信を書きはじめた。(ああ和歌子へ知らしたい。彼女はとにかくこの東京にいるのだろうに!)
 八時過ぎに天野は自動車で帰って来た。平一郎は女中達と一緒に彼を出迎えたが、彼は見向きもせずに奥へ入ってしまった。彼はその「冷淡さ」の裏に下松町があり、「妾の冬子」があることを考えて暗鬱な気がした。(いけない。どうもいけない。どうもこう虚偽が堅められていてはいけない!)と彼はとっさに思った。三十分経ってから女中が平一郎を「旦那様がお呼び」だと言った。天野はこの邸でも、かつて金沢の古龍亭であったように下松町の別邸においてあったように、茶の間の中央に毛布をかけてゆったり寝そべっていた。綾子は火鉢にもたれて黙していた。
「お前、話をしたのかい」
「ええ、ひる頃奥山が見えて紹介して行きました」
「学校のことは?」
「それはまだ」
「ふうむ」天野が平一郎を見て「学校は何年だったっけな」と聞いた。
「四年を終了して居ります」
「それじゃM学院がここから近くていいから、明日でもお前行ってくるがいい」そして彼は「田中に手紙を書こう」と言った。足をもんでいた粂は奥座敷から硯箱と巻紙を持って来た。天野は筆をなすりつけるようにして書き終えて封書を平一郎の前に置いた。
「明日これをもってお前自身M学院へ行ってくるといい。田中というのはわたしが以前から知っている人だから」
「はい」と平一郎は瞳を上げると、自分を火のように熱心に見つめている綾子の瞳を感じてはっとした。すると天野がじろり恐ろしいほどに睨みつけていた。「偉大な男と女」そう言ってよい天野と綾子が自分を力一杯に見つめていることは恐ろしかった。しかし、明日から新しい自由な学校へ行って勉強できることを思えば「少年の平一郎」は生き生きした歓喜と希望が湧いて来た。その浄い生き生きした感情は彼の奥深くに鬱屈しそうになる「わけの分らぬ暗鬱と恐ろしさ」に克つ力があった。彼は悦びに溢れて元気になった。
「ほんとに大河さんは羨ましいこと、わたしも男だったらお願いして学校へ上げて戴くんですけれど、ねえ、奥さま」粂は言って、「さっきもわたし大河さんは幸福(しあわせ)だわって言っていたのですのよ」
「お前だって女学校へ行ったらどうだい。靴を穿(は)いてさ」
「まあ、奥さま、わたし男だったら学校へ行きたいのですわ。女学生なんかもう死んでも大嫌い!」粂のいかにも嫌いらしい口ぶりにみんなは笑った。平一郎も笑った。そして笑いながら、綾子の電光のように強い速やかな視線を平一郎に投げるのは感じられた。天野のゆったりと充実した力を湛えた静かさは笑いながらも放れなかった。彼は女中達を軽いユーモアで笑わした。綾子も同じであった。粂が「本当にこんないいお邸はどこへいってもない」と言ったように、家庭の二人は女中達には寛厚で、しかも未発の偉大な力を源泉に蓄えている立派な「主人」であるらしかった。しかし、平一郎は、同時に彼等は女中達に絶対的な服従を要求しささげさしていることも認識せずにはいられなかった。その認識は平一郎には未明の反感を生ぜしめた。そればかりでなく、平一郎の純な認識に、天野と綾子が女中達へユーモアをもたらす余裕のあるだけ、二人の人格が渾然と一つにならずに、睨みあい対立しあっていることも明かに感じられた。――そして、彼自身の内には天野へのある意地が早くも伸びかけて来ているし、綾子の熱心な視線をも全身に感じられる。彼は二人の前にいることが苦痛になった。彼は「それじゃ明日は僕一人で行ってまいります」と言って天野の親書を懐にして自分の部屋へ去ろうとした。そのとき、障子をあけて覗きこんだ者があった。新しい大島絣(おおしまがすり)の袷をきた背の高い、そう瘠せてはいないが全体が凋(しな)びたように黒ずんで、落着かない眼付をした人相の悪い青年が懐手をして覗きこんでいる。
「あら、若様、お帰りあそばせ」と粂は言った。
「只今」と彼はうるさそうに言って火鉢の傍に坐りながら平一郎を見下ろした。
「誰だえ」天野も綾子も彼等にとっては一人子であるはずのこの青年乙彦には見むきもせず、冷淡に無関心に相手にしなかった。「今度来るはずになっていた書生なのかい」と乙彦は粂に言った。「はい、大河でございます」と粂は答えた。
「君かえ、大河は?」彼の声はしゃがれたように荒(すさ)んでいた。
「僕は大河です」
「僕は乙彦だよ」彼はうっそり笑った。平一郎はこの青年が天野と綾子との子であるのかと見上げた。広い額、のび/\と隆(たか)まり拡がった鼻、濃くて逞しい眉毛、――雄偉な天野の一つ一つの相を乙彦も具えていた。ただその一つ一つが小さく、内から湧く豊かな力がなく、全体が凋びているのである。疲労したような古びた皮膚の汚ならしさと老人のような色艶を見て平一郎は、(天野の子は早老している)と想わずにいられなかった。
「もう寝るのかい」と彼は平一郎に好奇心半分らしくたずねた。
「いいえ、まだ――」
「そう――父さん、蓄音機でもやりましょうか」と乙彦は嗄れた声で言ったが、天野は微かに両眼を開いたきり答えなかった。乙彦は大きな声で、「お雪、お雪、蓄音機を持っておいで!」と次の室の女中を呼んだ。その顔は両親の冷淡と無関心に傷つけられて、ゆがんでいた。お雪という顔中吹出ものの出た女中が蓄音機を持って来た。乙彦は針をつけながら「みんなこっちへ来て聴かないか」と言った。そのうちに蓄音機は滑稽な卑俗な、噴き出さずにいられないような「裏の畑に――」の唄を春の夜の一室で歌い出した。堪らないような肉的な哄笑が隣りの女中達からはじまった。綾子は仕方なしのように、「みんなこっちへおいで」と言った。さっきから来たくてむず/\していた女達は笑うことが茶の間へ来る資格かのようにげら/\笑いながら入って来た。そうして乙彦の存在が五人の女中と蓄音機の声音とによってぼかされると、天野も綾子も時折り軽いユーモアでみんなを興がらした。
「乙彦、今度は壷坂をやるがいい」と天野も、「群衆の一人としての」乙彦に話しかけるのである。綾子はしかし終(つい)に乙彦を顧みさえしなかった。
 平一郎は中途で自分の部屋へ帰った。母が彼の上京のために洗濯してくれた新しい蒲団を敷いてもぐりこんだ。茶の間からは女達の感嘆や哄笑が響いて来たり、蓄音機の高い肉声が響いて来たりする。彼は眠られなかった。祈ることも出来なかった。寝入り際に、楽しそうな女達の笑い声が聞えたが、彼にはそれを単純に楽しそうだと聞いている訳に行かなかった。笑い声は大海の面にわく小波であろう。その小波の底深くには、無限な深い海原が潜んでいるのであろう。平一郎にはその海の神秘と深さと恐ろしさが迫って感じられた。冴えた神経に涙がにじんで来た。母、冬子、和歌子、深井、天野、綾子、乙彦――ああ、自分は淋しいと彼は思った。
 次の朝平一郎はM学院へ行った。監獄のように廻らした木柵の代りに荊棘(いばら)が自然に垣根をなしていた。門の扉ははずれたままで、門側には伸び放題に伸びたポプラが微風にそよいでいた。右手の新しい赤煉瓦の会堂の、青空に聳える渋紅い尖塔、大理石の石柱の重厚さと雄渾さ、窓の色硝子に映る日光のゆらぎの美しさ。緩やかな坂路が門から伸びているその左手は、大地は円やかに膨れて高台となり青々した芝生に包まれてテニスコートがある。花色の服を着た金髪の一少女が学生らしい青年とラケットをもって競っている。
 "Never! Only one Error!" 平一郎は西洋の少女の上気した肉声を聞いた。芝生の向うには荊棘や常盤樹やポプラの垣根を廻らして邸宅風の洋館が三棟並んでいる。坂を登り切ると右手に薄水色の高い三層の建物に「高等学部」と書かれてある。建物の後ろは深いどんぐり林で、建物の前方に拡がる芝生には桜の花が咲き乱れ、二階建の新しい褪赭色の建物が芝生を越えて見られた。
 一人の黒いガウンを纏った髭を生やした温厚らしい人が運動場を横ぎって平一郎の方へ歩んで来た。平一郎はお辞儀して「あの、普通部はどちらでしょうか」と訊いた。
「どういう御用?」
「少し田中さんという方に――」
「あ、田中はわたしです」と彼はにこやかに笑った。
「天野さんに聞いて来ましたが」と平一郎は手紙を差し出した。田中は分厚な洋書らしい書物を持ちかえて手紙を読んでいたが、大きく「そう」と言った。
「四年をしまっていらしったのですね」
「はい」
「それじゃわたしの方からあなたのもとの学校へ証明書を送るよう申してやります。授業は今月の十日から始めますから、いらっしゃい」彼は気軽にしかし親切に言った。
「それじゃこれでよろしいでしょうか」
「ええ、いいですとも。十日までに教科書を揃えて置かないと後で困りますよ。――それじゃ天野さんによろしく。ほう、天野さんのお世話で、大河君というのですね」
 田中は一礼して高等学部の建物の中へはいって行った。平一郎はしばらく朝の光のうららかさに浸ってひらかれた新しい世界の風光に見とれて、自分がこの世界で生活することが出来るのだという喜悦に充たされた。
若き生命(いのち)の朝ぼらけ……
 テニスコートの方で西洋の少女と学生の合唱が聞えて来た。彼はかくて四月十日に基督教主義のM学院普通部五年生として登校することになった。
 平一郎を囲繞(いにょう)する不可解な根深い煩いに圧倒されるには余りに彼の生命の力は若く強い。彼の生命が地上へ出現しない以前から待ち設けられていた運命の重負と不可思議が彼を陰鬱に引き入れようとしても、彼にはそれと戦う力がある。彼は煩わしい自分の根深い環境の圧迫に打ち克ち、理由なしに湧く暗い不安と混迷とを征服しようとした。彼の前にあたらしい学校生活が待っていた。ともすれば内と外から圧倒する滅却の力と戦い、自分の使命を成長させるにそれは有効だった。学校がなかったら滅びたかも知れない。
 彼が金沢の中学でどうしても行く気になれなかったのは、自身に湧いて来る自然な天性を「教育」と「教育者」は制抑し枯死させようとすることが見えすいたからである。彼は無論そのとき意識はしない。しかし彼の意識よりも深いところで自分の生来の素質を殺す教育ならむしろ「無教育」を望むものがあったのだ。彼が求めたのは真に愛する少女を愛すると言い得る「真正の自由」である。(ああ「真正の自由!」恵まれた力の可能を地に現わさしめ、つくさしめる真正の自由! 一切の人類の偉大の源である真正の自由! それを自分は欲したのだ。)これは他の者であるなら、屡々間違いであり、あるいは他の卑しい不道徳的な欲望の仮面となり得たかもしれない。しかし平一郎においてはそれは大地に潜む芽生えが水分を欲するように、若葉が太陽の光熱を欲するようにそれは真実であり、無条件的な要求であり、「自然の命令」であった。(ああ、自分は真の自由という太陽を渇望する!)もしこの地上の文化がもっと進歩し人類の思想がもっと向上していたなら、おこさなくともよい平一郎の破壊である。あるいはそうした人類の生活を求めての平一郎の戦いかも知れない。
 朝六時頃に彼は目覚める。もし彼が自分で目覚めず朝寝している時には粂がそっと起こしてくれた。彼は床をあげてすぐに長い縁側の雨戸を全部繰り開ける。一枚開ける度にさあっと流れ入る太陽の光を浴びる壮快さ。階下の雨戸を開け終ると彼は二階の雨戸も開けるのである。二階からは邸のうしろにある西洋館へ通じる廊下がある。彼は西洋館の窓も開ける。西洋館の窓を開けて、窓から眺める外の朝景色は何とも言えない。邸内の桜の花雲を超えて朝靄に包まれた高輪の一台が見渡され、人家の彼方に浅黄色の品川の海が湛えられている。そして黄金色の春の光が靄を破って輝いて出る荘厳さ! 夜寝るのが遅くなって眠くてたまらない朝は彼は客室の長椅子(ソファー)の柔らかいクッションの弾力を楽しみつつ二十分ほどもいねむることもあった。それから彼は自分の部屋を掃除し、廊下に乾雑巾をあてねばならない。彼にはこの仕事が何より厭だった。自然彼は粗末にして、お年という髪の毛の薄いそっぱのひどく縹緻(きりょう)の悪い三十過ぎた女中頭に小言を言われた。しかし、前庭の花崗岩を敷きつめた門内を掃くことは彼には一つの楽しみだった。薄い桜の花片が湿った土の上や花崗岩の上に散り布いているのを掃き清めて水をうったあとのすがすがしさ。彼がはじめての朝、竹箒を杖のようにして道側の桜樹を見上げていると彼の足に温かいなつかしい異様な感触がした。それはこの家の飼犬のポチが新米の彼の足に接吻したのである。栗毛の、白い斑点のある肥えた、ふさ/\した豊かな耳と、人間の眼のように表情深い眼をもったポチは、彼の足をなめてはふさ/\した頭を彼の踝(くるぶし)におしつけた。彼は思いがけぬ可愛い動物の好意をうけいれて、彼の頭をなでてやった。彼の朝の最後の用事はこのポチに昨日のあまりの飯と牛肉の煮出しとを混ぜてやることである。ポチと彼とは仲よくなってしまった。よくいけば女中達と一緒にすますこともあったが、大抵は台所の横の、O伯爵家の暗い竹藪に接した長四畳の片隅で、急ぐときはポチに食わした残りの冷飯に生煮えの熱い味噌汁を添えて食うのであった。彼は女中の腹を立てたような顔が嫌だったが、まずい食物を不平に思ったことはなかった。学校は八時に始まった。慶応義塾へ出ている乙彦は彼が飯を食っている時分にもう出て行く。平一郎は乙彦のお古にM学院のボタンをつけ直した紺ヘルの洋服に新しく買った靴を穿いて大急ぎで出かける。出しなには粂がいっていらっしゃいと言った。門を出て左手の坂を下りればM公爵の家の横道だが、彼は右に折れて同じ邸街をO伯爵の深い林を廻って二本榎のK宮殿下の宮殿の通りに出る。広大な邸ばかりの街を通りながら感じることは(これでいいのか?)という想いである。彼は自分の母や春風楼や『底潮』の人々のことを考えたからである。彼はまた若い少女の群に出あう度にもしや和歌子が居やしまいかしらと振り返ってみた。あまりによく似ているようで、「あなたは和歌子さんではないですか」と言おうとして、嫁にいった和歌子が女学生であるわけがないと思い返して寂しくなったりした。学校へみちびく坂を下りると、新しくはいった平一郎をまるで知らない筈の人達がみな「お早う」と悦ばしげに礼をして行く。平一郎には嬉しいことだった。(まだ誰一人なじみのない彼は、毎朝校舎の横手の青々した芝生に坐ってみたり、高等学部の前の記念樹の間をぶらついて、運動場でキャッチボールをしている人達を見やって親愛と征服の想いに瞳を輝かせたりして響きの懐かしい鐘の音を待った。(本当の精神的な力はどうか知らない。温かい若々しさに恵まれていることはたしかだ。)ああ、そう考え批判しているとき、澄んだ朝の空気を顫わせる始業の鐘の音は忘られないものだ。それは急きたてる鐘の音でない。懐かしい暖かい聴く者の心に悦びを呼び起こす。そうして集まらずにいられないような鐘の音であった。鐘の音につれて人達は一人一人自分の教室へはいる。平一郎の教室は階下の東端で、窓から広い運動場を越えて神学部の渋赤いギリシャ風の建物が見え、そして明快な心持の部屋だった。平一郎にはあまりに軽快すぎるような気もしたが悪い気はしなかった。彼が教授を受けながら感じた歓喜は、この学校に溢れる「若さ」であった。教師の多くは大学を卒業したばかりの、東京に踏み止まってもっと勉強しようとしている青年が多かった。数学の教師のO氏は、現に数学の哲学的根拠の意義について日本未曾有の論文を創作中であり、また彼は音楽の能才で教会堂のピアノは大抵彼が演ずるのである。西洋史の教師のM氏は、まだ本当の文学士ではなく七月にならなければ大学を出られないのだが、坊っちゃんじみた腕白気のある彼はよく平一郎の横の机の上に腰かけて、
「つまらない奴の事蹟を覚える必要はない。しかしアレキサンダー大王の真の理想を知らないようではだめだ!」と一時間をアレキサンダーの話でうずめること位は平気だった。E氏という二十二、三にしか見えない教師は英文法の講義しながら、
「僕の言っていることにどれだけ信用がおけるかは疑問である。この秋には僕もアメリカへ行きますから、帰ったら少しは本当のことを言えるかも知れません」と言った。京都の同志社を出たばかりの青年だったのだ。みな教師と言う気はしないらしかった。学校を出たのが昨日のような気のする連中だった。平一郎にはそれが嬉しかった。中年以上の人では学校の幹事の田中氏が聖書を、漢文をもと熊本の士族で同じく幹事であるK氏、自分一人で基督教主義の小学校を経営している柔和な老人の習字の教師、フランスへ青年時代に洋行して来たという古びた天鵞絨(ビロウド)の服を着て来る古い洋画家のF氏――そうした人達が平一郎に教えた。彼らは快活で楽天家だった。
 それよりも平一郎に深い印象を与えたのは、「礼拝」と「聖書の講義」である。高等学部裏のどんぐり林を横ぎって、新しい会堂の地下室の薄暗を通って階段を上ると、高い丘陵と橙色、紫、青、深紅の色硝子の窓の照り返しと、雄渾な大理石の円柱とによって森厳化された会堂の内部に出る。祭壇と壇下のピアノと壇上の大きなバイブルが、ひきしめている。学生は静かに椅子を占有する。黒いガウンを着た教師達が集まってくる。西洋人の教師も六、七人集まるのである。一しきりしいんと静まりかえるころきまって地下室から、花色の軽装をした金色の髪の毛の縮れた美しい西洋の女があがって来てピアノに坐るのだった。白皙(はくせき)な額と澄み切った眼とが深い学者的な感銘を与えずにおかないO氏が、白色の指揮棒を取って「讃美歌――番」と囁く。そしてピアノの伴奏と白い指揮棒の波動に導かれて教師も学生も各々がつくる大交響楽に聞きとれ、唱って止まなかった。これが宗教的熱誠だとは平一郎に思われなかった。しかし芸術的な陶酔には似通っている。彼は会堂に溢れる甘美な愉悦を見つめながら、彼自身それに酔う気はしなかった。
(女性的で、楽天的で、悦びが自分には浅すぎ、軽すぎる!)そう考える平一郎の精神を、ときわもかきわも、御栄えあれ! 御栄えあれ! と合唱は廻るのだった。(とに角いいことには違いない。教師も学生も異邦人も男女も一緒に悦び和らぎつつ唱うことは! ただそのいっしょさが浅すぎる……)
 学校を終えて天野の邸へ帰ればもう日暮れである日が多い。平一郎はほとんど天野や綾子に会うことが稀だった。朝から午後一杯は学校で、夜は自分の部屋に籠って勉強をする。用事があれば粂が取次いでくれた。二人に会えない、それは平一郎にはよかったのだ。天野に会って、天野の力を身に感じ容れることは、平一郎に冬子を思い出させ、お光を思い出させ、底恐ろしい憎しみを恩人であるはずの天野に感ぜしめて仕方がなかったし、綾子に会うときは何故か引きずり込まれるような恐ろしさを感じてならなかった。お光と冬子と和歌子とから受ける感情を一緒にしたような感情――恩人の夫人という気持は微塵もしないことが平一郎に苦しかった。しかしこの二人に会わないで一人いるときは、平一郎は使命に燃える一青年ではあったのだ。平凡で何事も起こさず、彼ははやくも七月を迎えたのである。
 七月初旬のある日、学校では高等学部全部と普通部五年生に、世界の基督教界の第一人者であるアメリカ人のA氏の講演が、高等学部の階上の学生集会所で催された。その日、第五時間目は体操の時間であった。東京の七月の暑い真紅な太陽と燃える大空と万物が生気に喘ぐ異常な天地とが、運動のために汗ばんだ肉身には脈打つように感じられた。第六時間には集会所でA氏の話があるので、彼は仕方なしに級の者と一緒に三階の大広間へ入って、窓に近い椅子に腰を下した。そこからは運動場や校舎や青い空が見渡され、夏の微風が熱い頬を吹いたのである。はじめ彼は全身の血が烈しく廻っているので、自分の周囲も燃えて、音響だって聞えたが、血が静まるにつれて四辺がひっそりしているのに気づいた。彼は自分の周囲を見廻した。高等学部の学生と五年生とが二百人ばかり実際静粛にしている。やがてドアがあけられて黒いガウンを着た、背の低い、瘠せた、髪の毛をのばした、眼の小さく窪んだ教会の長老で英語科の主任のK氏がはいって来た。そのK氏の後ろからでっぷり肥えた、背の高い、偉大なアメリカ人が大股に無遠慮に歩んで来た。二人は演壇に登った。二人は立ったまま久しい間沈黙していた。アメリカ人のA氏はハンカチで赤いてら/\健康そうな血の漲った大きい造作の顔の汗を拭きながら、鼻眼鏡をかけ直したりしていたが、K氏が窪んだ瞳をしば/\させているのに辛抱しきれなくなったように突然、
 "My dear young gentle-men! I am very glad to have an opportunity to speak my thought of our Christ……" とはじめた。
 恐ろしい声だった。精力に充溢した声だった。室中の硝子がびり/\慄える程大きい声であった。その大きい声の言葉をK氏の貧弱な乾からびたような声が日本語に通弁した。
「エス・クリストは学者ではなかった。エス・クリストは国家要路の大臣、軍人ではなかった。無論、彼は貴族でもなく金持でもなかった。彼は貧しい、地位もなく財宝もなく真に地上の、物質的富においては何一つ誇るべきものを持たない一青年に過ぎなかったのであります。ユダヤの一大工の子。そうです、真に一大工の子でした。彼が長い放浪と苦悶の旅の後にようやく彼自身のうちに神の子の自覚と確信が充実し、新しい人類への救済、神の国の信仰が完成して、もういても立ってもおれず、大地より湧出する火焔のような精神に充されて『神の国は近づけり』と言わずにいられなかったのがようやく三十歳の時でありました。その時のエス・クリストの内的高揚と充実とを吾々の(Our American)体験をもってしましても全身火焔を噴き出し全世界は白光白熱に遍照するようであります。しかし、こうした荘厳なエス・クリストの内生活とその力も当時の多くの人達には感じられなかった。多くの人達には、貧しい大工の子で青年時代を定まった職業もなく過ごした一個の落ちぶれ者か不良青年にしか見えなかった。彼らははじめ彼を狂人だと罵りました。しかし、神、絶対者に選ばれたる神の子、真理そのものの体現者であると信じた彼の霊妙な性格にひきつけられ、彼の宜(の)べ伝える心理に随順する、新鮮な精神、若い精神、世俗の灰汁に染まない精神、もしくは洗い磨かれ、悲しみの涙に潤うた心――青年や、貧しい境遇に泣く人や、病に苦しんだ人達やの何かを求めてやまない心に、彼の涙にみちて、しかも勇猛な教えはどれほど微妙な力を与えたことでしょう。まことに足なえは立ちて歩み、癩病人は健やかになり、盲目者は目が開いたのであります。それは奇蹟ではなかった。当りまえ過ぎる程に当然のことでした。わたくしは盲目者が目を開いた喜びよりも、若くして生死を超えたる真理の実現者、エス・クリストの喜びを想うとき涙ぐまずにいられません。しかし、その当時、ユダヤの国の政治家や学者達にはこのクリストの生活は不可解でありました。たかが大工の子ではないか。食うや食わずの放浪的な不良青年ではないか。其奴(そいつ)が気違いじみたことを言って多くの青年や婦人や、時には堂々たる一かどの人物をも帰依せしめ、性格を一変せしめる不思議な力をもっている。はじめ彼等は放任して置きました。しかし放任して置けないほどに、クリストの力は人々の間に根を張って来ました。殊にユダヤの古い予言者の予言が彼を救世主と信ぜしめるに力がありました。ソロモンの栄華も一本の百合の花に如かない。彼等はその言葉の深い美と真を味わう前に危険だと考えました。クリストにはその時分十二人の弟子達が常に身辺におりました。みな有為な浄い青年達でした。その十二人の勝れた弟子達の一人がクリストを官府に売り渡そうとは誰人(たれ)も思わなかったでしょう。自分の愛する弟子に売られるところにエスの偉大があるとわたくしは思いますが――とにかくエスはユダに少しの銀で売られました。その前にエスは弟子達と悲しい最後の晩餐であろう集合の席で、君達のうちに自分を売る人があると言われ、また或る一人に君は鶏が鳴かない前に自分を知らないと三度言うであろうと予言されました。エスは自分の死をすでに知っていたのです。エスがその国の役人共に引張られて行き、その国の群衆がその後から押しかけ、さて、裁判官がエスをどうしようかと申したときに群集は『十字架にせよ』と叫んでやまなかった。悲しい無知であります。二千年前の人間の無知の悲劇は今にいたるまで絶えませぬ。エスは愛する人々、それ等の人々のためにつかわされたと信ずるその人々から死刑を求められました。その死刑を求めた人々のために、その死刑を求める人類の罪悪のために、やがて近づきせまっている真理を示そうと、――いえ、もうそうした深い人間全体の罪を自分の一身をもってあがないたい一念に燃え立って来ました。森厳な死でした。しかも、彼は一人の死刑囚でした。貧しい人心を惑わす不良青年でした。彼を死刑にする多く群集、多くの学者、多くの政治家は、この厄介な死刑囚の死をどれほど喜んだことでしょう。まずこれで己達も枕が高いと考えたことでしょう。しかし、生涯寂しい孤独に住まわれた神の使命の体現者クリストのその信仰は、万人の胸に生き来る真理でありました。ユダヤの国は亡びました。その頃クリストを死刑にした政治家や学者や群集は今日全く亡びてしまいました。しかし彼が十字架につけられ、肉身より血を滴しつつ、ああ神よ、あなたはこの自分を捨て給うか、と叫んだその切ない叫びは未だに人間という人間をさえ涙ぐませる力を持って生きております。十字架に登って行くエスの心持、人類永遠の未来を信ずる一念と悲しい別離の涙。わたくしどもは厳粛なクリストの寂しい生涯を想うとき、感ずるものは寂しさ、腑甲斐なさ、情けなさ、やるせなさ、そうして最後には火の信仰であります。神の国の実現を地上に望み得る、現に実現しつつあるという信仰であります。そうして、その信仰の国はアメリカのみであります」
 巨大な体躯から、巨大な肺臓、巨大な気管、巨大な舌――から吐き出される偉大な雄弁をK氏も熱して通弁した。荘厳であった。平一郎は二千年の昔ユダヤの野に生きた一人の青年の生命をしみじみ身に感じていた。彼は止め度もなく流れる涙を我慢できなかった。すると、「その信仰の国はアメリカのみであります!」と繰り返す言葉が雷のように響いた。
「何故アメリカのみであるか? そうだ、何故アメリカであるのか?」こう奔流のように批判が働きはじめると、平一郎には、汗を拭きながら巨大な肉身をもてあつかっている、毎食牛肉の血の垂れるようなのをむしゃぶりつくような彼Aが「貧しい大工のクリスト」を説いていることが実に不調和で滑稽に見えて来た。金縁の鼻眼鏡、さっき出して見た金時計、太い指にはめている金指輪! (ああ汝、偽善者よ!)二千年の昔クリストを揺り動かした精神が平一郎をすっくと立たした。
「K先生!」
「何です」とK氏はじろり平一郎を見た。この不意の平一郎の起立に一同はひっそりとして瞳を彼に集めた。
「質問があります」
「あとになさい」
「いえ、これ以上A氏に言わすことはクリストに対する冒涜です!」
「――」
「何故、クリストの精神、人類の真の文化、神の国の実現を信ずるものはアメリカばかりなのです。僕にはそれが理解できませぬ。すでにここに一日本人である自分、大河平一郎はクリストの生活の真実さに涙を流し、クリストが信ずる神の国の地上に実現されることを信ぜずにはいられませぬ。そして自分は日本人です。自分は日本が神の国を実現することを信じたい。アメリカのみであるとの宣言は、アメリカがクリストの精神を生かしていないことの証拠であります。黄金づくめの装飾を身につけながら、クリストの生涯を説くことは僭越すぎることであります。説くよりも汝のその金の指輪を貧しき人に心より贈れよと自分は叫びたいのであります!」
 平一郎は身を慄わして、壇上のA氏の碧眼を睨みつけていた。全精神が宇宙とともに燃えあがる。彼はこのとき恐ろしいもののない「権威」を全身に感じていた。はじめ人々は突然のことに静まり返っていたが、やがて一斉に騒ぎはじめた。彼等は若いが故に平一郎の悲壮な英雄的態度にすっかりまいったのである。
 夕ぐれ、平一郎は寂しいさびしい心を抱いて天野の邸へ帰って来た。彼は雷にうたれた人のように打ち沈んでいた。彼は世界的の基督教者を「やりこめた」勝利者だったが、彼は学校からの帰り路で自分が今どこへ帰ろうとしているのかと自分に尋ねたとき、彼は苦しくなった。天野へ! ああ、A氏の金の指輪を偽善者! と叫ぶことの出来たこの自分は、更に浅ましい偽善者ではないか。「天野の世話」になることがすでに何となく心咎(とが)めのすることであるのに、「冬子」の存在! 母の戒め! 平一郎は淋しい、「神」に見放された「自信」のない心を抱いて、夕飯も食わずに自分の部屋に閉じ籠ってしまった。苦しい戦いが彼のうちで渦巻いた。
(汝は天野の世話になってはならない! 汝は天野夫妻に一切の事実、冬子のこともお光のことも正直に打ち明けなくてはならない! まず汝自身を清くせよ! 汝自身を清くしたるのちにはじめて汝の使命を全うするがいい!)
「それは、それは出来ない――」(そうすることは冬子、母、天野、自分の破壊になってしまいはしまいか□)
 平一郎は机に頭をかかえて悶えていた。
「大河、いるかえ」としゃがれた声がして乙彦がはいって来た。平一郎は返事する気もせず振り向いただけだった。本能的な嫌悪が押し寄せてくる。
「お前、どうして飯を食わないのだい」
「少し気分が悪いですから」答える平一郎の顔をじろ/\見ていたが乙彦は突然、意地の悪い表情で「お前は実に僕の母さんに似ているね」と言った。
「そうですか」と平一郎は答えた。それどころでなかったのだ。
「顔色が悪いよ。西洋館の屋上広場へ行って涼んで来よう。おいで、大河!」
 乙彦は引きずるように平一郎を西洋館へ連れて行った。真暗な狭い螺旋形の階子を登って二人は屋上へ出た。深い蒼い夏の夜空がそこにあった。星が輝いて見えた。夜風が冷やかだった。東京の市街が一切の人間の悲しみと苦しみと歓びとを深い夜に包んだまま夜霧を通して下に見え、灯があか/\と人間の思慕のように空を染めていた。
「むこうのあの黒藍色が太平洋だよ」と乙彦が言った。「己は早く親爺が死ねばいいと思っているのさ。そうすればこの邸もこの家も金も皆己の心のままだからね!」
 あか/\と空に燃える都会の灯を眺めていると淋しい涙が平一郎に湧いて来た。
「そうしたらね、己だってすきな女を囲ってさ。――大河、お前が父さんの妾の世話で来たこと位は己はすっかり知っているんだからね!」
「失敬します! 僕はここにいる閑がありません!」平一郎は狂ったように屋上を駈け下り、廊下を小走りに自分の部屋へはいって襖をぴっしゃり閉めきった。
「ああ、自分はどうしよう」(獣には穴あり空とぶ鳥は巣あり、されど人の子は枕するに所なし)――熱い涙が制し切れなかった。「ああ、この感情、この真理、これは自分一人ではあるまい。自分のこの涙は万人の涙であろう。自分は自分一人の寂しさに泣いていてはならない。ああ、自分はどうなっても構わない。願わくば、今ひし/\と身に迫り感じる万人の涙のために戦おう! ああ、自分には万人の悲しい涙にぬれた顔を新しい歓喜をもって輝かすことは出来ないのだろうか。自分の生はそれのみのための生涯であり、自分の使命はそれよりほかにはない! ああ、この大いなる願いが、自分の一命を必要とするならば、自分は死ぬべき時に死にもしよう!」



「地に潜むもの」完



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