地上
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著者名:島田清次郎 

「君は――吉倉の和歌子さんを知っていると言ったね」
「ええ――」と深井はいぶかしそうに、また、彼の内なる和歌子を護(まも)るような目付をした。
「これをね」平一郎はポケットから二つに折った手紙を取り出して木馬の背の上に置いた。「和歌子さんに渡してくれないか?」
 深井は雨にさらされて白くなった木馬の背の手紙を見つめていたが、暫くして耳の根まで紅くなった。平一郎はそれを認めるともう勝つか負けるかどっちかだというような気になった。
「僕は和歌子さんと仲よくなりたいと以前から思っているのだ。ね、渡してくれないか。僕は君の家が和歌子さんの家と隣り合っていることは知らなかったのだ。お願いだから渡してくれないか? ――それとも」彼はさすがに身慄いがした。祈りに似た感情が彼の内部に脈うつのだった。
「君は和歌子さんと仲よくしているのかい」
「いいえ」と深井は目を輝かしてきっぱり言った。
「渡しましょう」
「きっとだね!」
「ええ!」
「ありがとう!」平一郎は深井の手を握って、そして嬉しさは彼に、「僕はね、君ともこれから仲よくしてゆきたいと思っているのだ!」と言わしてしまった。深井の瞳に美しい火が燃えた。それはひとたびゆいてかえらぬ生命の炬火(たいまつ)の美しさだった。ああ、何という悦び! 愛するものを獲たのではないか! 和歌子と深井を獲たのではないか! 彼は靴音高く家へ帰って来たのである。
 家にはお光と冬子が待っていた。霽(は)れた晩春の青空から穏やかな陽が二人に射していた。
「やっぱり平一郎さんでしたこと」こう冬子がついていた右手でそっと、さらさらした豊かな鬢の毛をかきあげて、緋縮緬の長襦袢に紫がかった襟をつけようとこつ/\針を運んでいるお光を見上げた。平和な静けさがお光と冬子の微笑によって破られた。
「只今!」と彼はカバンを投げ出し、洋服を着替えて、いつものように大急ぎで膳に向わずにいられなかった。冷めた豆腐汁も彼にはうまかった。彼は、横向きになっているやや浅黒い引き緊った冬子の顔と艶々した島田髷とを見ながら、髪を結いにいった帰りだなと考えながら、襟頸から肩の辺りへの柔軟な線の美しさに引きつけられ、こうした女(ひと)が自分の姉のように親しくしていることを(それはいつも感じることだったが)誇らしく感じた。
「今日は遅かったじゃないかい」とお光は留針をしながら言った。
「今日は博物の寄り合いがあったのです」と彼は嘘を言って、すまない気のしただけ和歌子のことを思った。そして冬子に、「踊りのおさらいはまだなんですか」とたずねた。
「今月の二十八日ですよ。今度はわたしが出ますからいらっしゃいな」
「ええ」と平一郎が飯をかきこむのをお光は、「踊りや歌が好きだからおかしいですね」と冬子に言う。そうして、話はまた、お光と冬子に移ってしまった。
「お酒はやはりなるべくなら飲まない方がいいですわね」
「でも、お座敷に出ている時に、生きていることが少しもいいことでない、生きていることは実にたまらない、害のあることだというような気のする時に、盃洗にいっぱいぐうッと飲むと、そうするとすこし胸がすっきりしますの。それでなけりゃ、縁側へでも出て、鼓をさらえばまあそうですけれど――」
「それはもうそうでしょうともね。わたしもそういう気のするときはもう何度あったかもしれないけれど、しかしわたしにはまあ、平一郎(あれ)がいたものだからどうにかやっては来たものの――」
「それでも小母さんの方がわたしなんかよりか余っ程いいという気がしますわ」
「そうでしょうか」
「でも、小母さんも随分のお骨折だったという気がしますわ。十二年、そうでしょう、小母さん、乳を呑んでいた赤ちゃんが中学校で威張る位になるのですものね。でもこれからよ、小母さんの苦労甲斐が現われて来るのは。本当に羨ましい」
「さあ――」とお光は淋しそうに笑った。「貧乏のせいか何んだか、その平一郎(あれ)の一人前になる日に会われないような気がしきりにしましてね」
「そんなこと、小母さん!」冬子は本気で言った。「わたしだってこのままのわたしを小母さんに見せているだけでは小母さんに対してもすまないのですわ!」
 お光はにこやかに微笑みつつ、心からの歓びをかくしきれないように、
「今のままだってわたしは十分結構ですの。ほんとにあれからでさえもう三年経(た)ちましたっけ。随分あなたも立派な女になったものですよ。冬子さん」
「いけません、小母さん、冷やかしちゃ」冬子は顔を曇らせて苦いものを含んだように、切れ目の長い瞳を青い空に向けた。そして、「青い空ですこと――小母さんはまだお花見にいらっしゃらなかったはずね」
「ええ、仕事に追われてまだですよ」
「わたしも今年は行きたくなくて行きませんでした――ほんとに青い空」そして冬子はふいに言った。
「わたしのようなものでも、もし子供を持ちたいと思えば子供を授かることが出来るものでしょうか」
「――?」お光は冬子を見つめて黙っていた。
「子供を授かることを罪のように警戒しているわたし達にでも、心から子を授かりたいと思えば授かれるのでしょうか。それとも罰で一生子供は生まれないのでしょうか」
「あの方の子供ならと一心に想うような方が出来なすったの、冬子さん」
「いいえ、まだ、この方の子供ならどうしてでもいいから授かりたいと思うような人には一度も会いませんの。会う人も会う人もこうした人の子供を生んだら大変だと思うような人ばかり。でもわたしは一生に一人はこの人の子をどうか授けて下さいと祈るような方にあってみたいと思いますわ。たとえそうしたときがあっても、今迄の罰で、とても子供は授からないのではないでしょうか」
「それはわたし達には分るものじゃないでしょう。しかしわたしは、もしそういう時にあなたが一心にさえなればきっと子供が授かるような気がしましてよ。――わたしのようなものでさえが、どうにか平一郎(あれ)を育ててやって来ていることから考えてみましてもね」
「そうでしょうか」そして二人は淋しそうに沈黙してしまった。平一郎は飯をすまして暫く火鉢のところに坐っていたが、母と冬子の話が途切れたので、立って長四畳の机の方へ行こうとした。すると冬子が同じように立ち上って、「平一郎さん、ちょっとわたしの傍へ立ってごらん」と言った。平一郎は傍に立った。冬子は髪を結っているので高かったが、実際は一寸も違わなかった。「もうじきわたし位に成長(おお)きくなってしまうわね」と冬子は母と顔を見合わした。平一郎は(そうさ)というように壮快に笑って、冬子もすてきに美しいと思いながら机に向った。彼は、和歌子への手紙を深井に託したことの歓喜のあとに、異常な沈着さを感じて、代数の問題を考えていた。すると明日の日曜の朝の待遠しさが悪寒のように起きて来た。そして恥かしいことには、もし返事をくれなかったらという懸念さえが時々起こって仕様がなかった。
 夕方、冬子は淋しそうに「さようなら」を言って帰っていった。彼女は母のお光に、彼女のいる春風楼の今いる裁縫師がお盆限り止めるので、その代りにお光が来たらどうかしらという話をしていった。そして母と何かひそ/\話しながら、「そう、それがいいわね」などと言っていたのだ。冬子に対して何故か傲慢じみた態度に出てしまう平一郎は冬子が去ったあとでは、いつもなくてはならぬものを失ったような淋しさを感じるのだった。この日も夕暮のあの悲しい薄闇で、母に子供らしく甘えかかりたい気持になりかけていると、階下で主婦さんが「平一郎さん!」と呼ぶ声がした。階下の主婦さんが呼ぶことは珍しくなかった。平一郎は何か珍しいものでもくれるのか、郵便でも来たのかと考えて階下へ下りた。すると主婦さんは、
「誰だか呼んでいますよ」と言った。平一郎は何の予期もなしに戸をあけて外へ出ると、門口に深井が立っていた。
「深井君じゃないか、はいりたまえな」深井は涙ぐんだような瞳で彼を視つめながら黙って立っていた。そして、戸外の方を示すようにそっと顧みた。それは無言の紹介であらねばならなかった。次の瞬間平一郎は、家の前の電柱の下に少女が背をもたせて立っているのを見出した。和歌子だった。一切が了解された。彼は深井を見た。
「和歌子さんだね」と彼は深井に精いっぱいの声で言った。全身が、歓喜、驚き、恐怖、羞恥に震撼した。彼は電柱の傍まで駆けていったが三尺ばかりのところでぴったり立ち止まってしまった。柱に背をもたせていた和歌子は、身体を真っ直ぐにして、懐からそっと(ああ、その指先の透明で美しかったこと)水色の封筒を取り出して、平一郎に見せて、輝かに笑ったのである。どうしたものだろう。三尺ばかりの間を平一郎はどうしてもそばへ進むことが出来なかった。彼女の輝かな笑いが彼の情熱をせきとめてしまったのだ。熱情は身内に渦巻いて全身が異様に慄えて来た。すると深井が彼の前に来て軽く帽子をとって、「僕、失敬します」と言った。そして和歌子の方へはにかむような顔を見せて小走りに彼は去ってしまった。平一郎は自分の腑甲斐なさに堪えられない気がした。そしていかに自分が和歌子のために自分の全部を占有されているかをつくづく感じた。とにかく彼は自分の力の萎縮を認めた。すると彼は全身の熱情が悦ばしい羞恥となって顔面にのぼってくるのを制止できなかった。
「明日まで待っていられなかったのでしてよ」と和歌子も真赤になって言った。そして二人は同時に笑いあうことが出来た。その笑いが凍ったような「凝結」をゆるめさした。大河平一郎が解放された。彼は「ついでおいで!」と言ってすたすた歩き出した。晩春の夕暮の戸外はまだ明るくて、空には夕映が深い美しさを現わしていた。彼は狭い十字街を右に下りて、野原へ出ようと考えていた。一年もの間、彼女を偲(しの)んでさまよったなじみの深い野に、この最初の日の自分と彼女とを見せてやりたかった。紅殻格子をはめた宏壮な廓の家々を通りすぎると街は川べりに出た。彼は後ろを振り返ってみると、彼女がすぐ後ろに生き生きしてついて来ているのに驚かされ、ある圧迫と動乱とさえを得た。路は静かに流れに沿ってひろびろした耕地の間に展(ひら)けていた。彼は立ち止まった。和歌子の息づかいが聞え感じられるほど彼女は近くよりそって来た。二人はもう一緒に生まれた人間のように親わしさを感じていた。
「吹屋の丘へゆきましょうか」
「ええ!」
 ああ、またしても湧きくる、魂をゆるがす微笑よ。水流は無限のうねりをつくりつつ路に沿って流れていた。右手には田植を終えた耕地が、ひろびろしい曠野のはてにまでつらなり、村々の森が、日に蔭って黒ずんで見え、太陽はいつもより大きく、真っ紅に燃えていた。路は緩(ゆる)い傾斜をのぼって草原の丘に伸びてゆく。その丘は何んでも平一郎の父の友人のある商人が、日露戦争後の起業熱のはげしい折に、鋳鉄業を創(はじ)めた失敗のあとであった。生い茂った雑草の間には石ころや柱のくさったのや、錆びた金属の破片などが残っていて、それが平一郎には淋しい空想の種となった。春、夏、秋、冬、平一郎が和歌子を忘られなくなってから、彼は幾度この丘に立って寂しい自分の心をいとおしがったであろう。また幾度、涙にぬれて、「偉くなる!」と叫んだことであろう。河縁には楢(なら)の木が密生して、百舌鳥(もず)が囀(さえず)っていた。平一郎は丘の上にのぼって、さて草原に腰を下した。和歌子も側に坐って、二人は幸福なこの夕暮の野の空気にひたっていた。ゆるやかにも流れひびく永遠の水の音よ、大空にじっと動かない白雲よ、ようやく迫る夕べの気配に、薄暗さを増した曠野の豊かな土の色調よ、ああ、しなやかに二人のためにしとねとなる草原の草よ、楢の木林の蔭を、市街の裏手をよぎる鉄道馬車のラッパの音よ。さては今しも地平の彼方に没落しようとして、たゆとうている爛然たる、真紅の晩春の太陽よ――。和歌子はそっとさっきの水色の封筒を取り出した。
「今日、学校から帰ると深井の坊っちゃまがあなたのお手紙を下さいましてよ」
(深井の坊っちゃま)その坊っちゃまという言葉だけが今のこの世界でいけないと平一郎は思った。そして水色の封筒を受取った。手が慄えた。
「あとで読んで下さいましね」
「ええ」彼は言われるままにふところにしまった。
「お手紙には明日の朝と書いてあったけれど、わたし明日まで待っていられませんでしたの――それで、深井の坊っちゃまにあなたのお家を教えていただいたのよ」
 平一郎は不思議な気さえして仕様がなかった。美しく、気高く、荘厳で、しかもいい家の娘で、とても自分などは一生、話さえするおりを持つことは出来そうもないという懸念を持っていた和歌子、実に、その和歌子が自分に話しかけていることを信じていいのか。
「平一郎さん」と彼女は熱情的に昂奮して来たらしかった。「あなた、あの去年の同窓会のあの時のことを覚えていて下さって? わたし、あれからも時々学校へ行って控室にかけてある卒業記念のお写真を拝見していましたのよ」
(和歌子も覚えていたのだ)平一郎は考えると嬉しくて堪らなくなった。彼も熱情をぶちまけるように昂奮して来た。
「それじゃね、それじゃね、小学校にいるときのあの鏡ね、鏡のことを覚えている?」
「覚えていますわ! ほんとに、あの校長さんが永い間話をしていて鏡をふさいでいるときには、腹が立ってしょうがなかったのですわ。そのほか、ほんとに、わたしあなたとのことならどんな小さいことでも一つ一つみんな覚えていましてよ」
「――僕だって」と彼は呟いて熱い涙が眼ににじみ出るのをこらえていた。
「昨日は深井の坊っちゃまを助けておあげなすったのですってね」
「僕う? ええ、深井君が話していましたか」
「ええ――わたしは深井の坊っちゃまからあなたの学校の様子をいろ/\随分前からきいていましたの」
「僕のことも?」
「ええ、あなたのことも。でも、そんな風はしないでですよ。あなたの級長のことも、弁論会で演説をなさったことも、野球の級(クラス)試合に出て負けなすったことも」そして彼女は堪えきれないように情熱的に笑って、ふさ/\と頬にふりかかる髪の毛を後ろへのけるように、顔をそむけて、頭を強くゆすぶった。その荘厳で深刻な美しさ。
「僕は深井君も愛します」こう彼は宣言した。
「わたしも、愛しますわ」と彼女が言った。
 楢の木林の向うを痩せこけた馬が黄色な馬車をひいて走るのが、ごおっという音で分った。馬車の窓に落日が血のように射していた。二人には小さい馬車の様子が哀れでもあり、おかしくもあった。
「ああ、汝旧時代の遺物たる馬車よ」こう平一郎は突然に演説口調で喋ったのが、彼自身にもおかしくて、二人は涙の出るまで哄笑した。
「あなたは母さんおひとり?」
「僕う? 僕は母ひとりきりですよ。家もないしお金だってありませんや」
「でも母さんがあって結構ですわ。わたしには母さんはないのよ」
「ああ、そうでしたね、虎に食われてなくなりなすったそうでしたね!」
 太陽が没してしまったとき、二人は丘を下りて野の道を街の方へ帰って来た。路で、平一郎が和歌子の封筒のことを想い出して、懐から出して「ひらいてみようかしら」と言ったとき、「いけません、平一郎さん、いけません」と封筒を開かせまいと努めたときの彼女のひや/\した髪の感触は忘られないものである。
「明日は返事をもって来ますよ」
「ええ、きっとですよ」
 二人は坂をのぼりつめた十字街で別れた。平一郎はもっと言わねばならぬ重大なことを一つも言わなかったような気がした。それが何であったかを反省すると、まるで頭脳が空虚だった。それは「混沌たる充実の空虚」であった。
 夜、彼は自分の机に書物を展(ひら)いた上に水色の封筒をのせて、惜しい気のするのを思い切って、封を切った。
今日わたしは学校から帰って庭に出てあなたのことを考えていました。今日はどうしてか学校からの帰り道でお会いしなかったのが気が悪くて仕方がございませんでした。すると隣りの深井の坊っちゃんがわたしをよびなさったのです。
わたしは何もかも存じております。ほんとうにわたしはすみません。でもわたしにはどうしてよいか分らなかったのでございますもの。ほんとにわたしはあなたのあれでございます。わたしは今、うれしくてじっとしておれないのです。わたしは仲よくしていただきたいのです。でもわたしはそんなに仲よくしていただけるのかしら。
気がせいて思うことが書けません。母は(わたしのほんとの母ではありませんのよ)じきに何をしているかのぞきに来ますのです。平一郎さま、わたしは今、あなたに会いたくてならなくなりました。今夜はわたし眠られないでしょう、きっと。以前も眠られないときはあなたのことをいつも思っておりましたのよ。あなたは御存じないかも知れませんが、わたしはよく深井の坊っちゃまからあなたのことを承っておりました。わたしは今ほんとにどうしたらよいのでございましょう
吉倉和歌子   なつかしき
     大河平一郎様
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     第二章




 春はすでに行き過ぎて、梅雨期の曇った空が北国の街に垂れ下がっていた。十五の大河平一郎は伸びゆく樹木のように健やかに成長して行った。母の献身的な愛のうちに、美しくて立派な冬子の愛のうちに成長して来た彼は、さらに愛する和歌子と深井とを獲た程に成長(おお)きくなったのだった。彼は習字や図画の手先の学科こそ並はずれて下手だったが、他の理論的な、もしくは情意的な学科には大きな能力の芽を現わすことが出来た。奔放な想像は外国地理の時間に、地球全体を自分の意志で調和あらしめ、和歌子が王妃で自分が帝王であったら実にいいと熱した。歴史の時間には時代興亡のあと、勝れた人格の生活のあとを自分の身に比べて、ある戦慄を止めることが出来なかった。あのように常に彼をして味気ない淋しさに堕す「貧乏」「家なし」「親なし」という哀れな境遇が彼には、大自然が自分にある使命を齎(もた)らしたしるしであるとさえ勇気づけられた。「自分は貧乏だ。しかしそのために自分は、自分本来の精神の伸びゆくさきを曲げるわけは毫もない!」彼は巨大な肉体の所有者でなかったので、無論選手級ではなかったが、野球も柔道も剣道もやった。
 しかし、お光母子には未だ数しれぬ試練が与えられねばならないのであろう。悲しいことには、お光には彼女一人の手で二人の生活費と平一郎の学費とを与えてゆくことが出来なくなって来ていた。亡き夫の唯一の遺品であった家を売った金も、もう残り少なになってしまっていた。どうにかしなくてはならなかった。先の見えすくのに、その不幸の来るのを待っているほど自棄な気持になるにはお光はあまりに平一郎の未来を信じ、祝福し、重大視していた。彼女は冬子に打ち明けた。冬子は春風楼の裁縫師が止めたから来てはどうかと言った。母子二人が食事して、月五円の手当だと言った。お光はどうしようかと長い間考えずにいられなかった。遊廓の近くに移って来たことさえが平一郎のためによいことでないと思えたのに、そうした廓の娼家に住むことが決してよい感化を与えないことは分りきったことのように考えられた。しかし、現在のままで生活することは残り少ない貯金を更に短い間に消費してしまうことでしかなかった。彼女は仕方がないと思った。また彼女の生きて来た生涯の体験に照してみて、たとえ娼家の一隅に生活しようともそれによって平一郎の人格が動揺するようでは頼母(たのも)しくないとも考えられた。冒険ではあった。しかし彼女はとにかく住みこんでみようと決心した。悪ければ悪いでどうにかしよう、少なくともこのまま滅亡するのを待っているよりはよい、と。そうしてこの生活の闘いと独り子の心配とが彼女の生来の娼婦や淫売に対する本能的な嫌悪と同情とを忘却せしめた。傍見をしているひまのない厳粛な生活だったのだ。相談相手を持たない彼女は平一郎に一応打ち明けた。
「僕はいやだ、僕は行くもんか!」こう平一郎はお光に家をかわることを打ち明けられたとき狂人のようにわめいた。(僕がもしそんな娼家に住居したら、和歌子や深井はどう考えるだろう。彼等は自分をもう相手にしないにきまっている!)そう彼は咄嗟に考えたのだ。お光もはじめは平一郎の反対の猛烈なのがもっともなのに当惑した。しかしもう事はきまってしまっていた。お光は平一郎に数字で示さないまでもいかに自分達母子の境遇がかわって来ているか、逼迫(ひっぱく)しているかを静かに語りきかせた。また、そうした娼家に住むといっても女達と一緒にいるわけでなく、また自分さえ勉強に一心であるなら、どこに住むも同じであるとも言ってきかした。平一郎は母の言葉をききながらも、言葉をとおして迫る「貧」の圧迫と痛さに堪えられなかった。しかし、ああ、彼に恵まれている彼自身の力は「娼家の軒」に日を送ろうと悲しくも決心させた。
(自分は和歌子にも深井にもその通り打ち明けよう。自分が貧乏でしかたなく替ったことを、どんなところに住もうと、この自分の精神は旺盛で健全で、かわらないことを、そして、自分は君達を愛し君達も自分を愛してくれることを!)
「冬子さん、何とした縁でしょう。ほんとに何とした不思議な縁でしょう」とお光は平一郎もどうにか承諾していよ/\相談が双方にまとまったとき、彼女の平常に似ず、涙ぐんだ感激で冬子に言った。
「小母さん、わたしこそですわ。もしも小母さんがいらっしゃらなかったら、わたしはどうなっていたでしょう。きっと今よりもずっとずっと悪いわたしになっていたに相違ありませんわ――今のままだってわたし小母さんにしょっちゅうすまない気がしていますのよ」と冬子は言った。
 六月中旬のある日曜日の朝早くから、お光は冬子と雇い男に手伝われながら、荷造りや掃除をどうにかすました。唯一つ残っている黒い漆塗りの箪笥と長持を人夫が車に運ぶのを見ていると何故か涙がにじみ出て来た。苦い流浪の悲苦とでも言おうか。最後の移転車に冬子がつきそっていったあと、道具の取り払われた荒廃した室内を見ることは彼女をしてとうとう泣かしてしまった。言いようのない頼りなさであった。夫の俊太郎の死後、後家としての彼女に深く浸みいる人生の孤独と淋しさとであった。彼女は「ほんとに人生はひとり生まれ、ひとり死ぬものだ」と思うと涙がわいて来た。そうしたところへ薄水色のネルの単衣にたすきがけに手拭を姉さんかぶりにした冬子が、今丁度春風楼の主人が起きているし、店の妓達はまだ眠っていて都合がよいから早く行こうと、急ぐようにはいって来たのが、お光には嬉しかった。二人は淋しいながら新しい昂奮を感じて、十字街を右へ折れて緩い坂を下りた。この市外の廓でも春風楼は第一流の家であった。宏壮の古めかしい家並の中ほどに、杉の森のこんもり茂った八幡宮の境内にとなりあって、三層の古代風の破風造りが聳えていた。その家の紅殻格子の扉の前に立ったときお光はいまさらのように全身がひきしまるのを覚えた。色硝子をはめた中戸の内部には高価な下駄や足駄や雪駄の類が、裏返しになったり、横に転がったり、はねとばされたりしていっぱいに乱れていた。
 主人というのは五十あまりの赤く禿げあがった頭顱(とうろ)に上品な白髪をまばらに生やした、油ぎった顔色の男であった。三尺四方の囲炉裡を控えた横座に坐って、熱く燗した卵酒を呷(あお)りながら主人は、細かいことはあとで家内が起きたら訊いてくれろ、心安い気で自分の家のようにして、家内の相談相手にもなってやってほしい、一人の息子さんがおありのようだが、土蔵の裏の離室(はなれ)が空いているから、そこを勉強室にした方がよかろう、と言った。思ったよりも苦労人らしい主人の言葉はお光には嬉しかった。隣の社の境内から朝日が静かに射しているのも嬉しいことの一つだった。
「それじゃ小母さん、離室へいきましょう。荷物はもうすっかり片付いていますから」
 広い台所の板敷、中庭の木立を通る長廊下、土蔵の前を折れて横手の薄闇を白壁に沿って薄暗くなる。「小母さん、そこは湯殿よ」紅や紫や橙色の色硝子の横手の細い板敷へ、明るみが微かに射していた。陽光は躑躅(つつじ)や南天の茂みをあしらった庭から射し、庭に面して離室があった。
「ここですのよ、小母さん!」
 お光は青壁の十畳敷に不調和に置かれた火鉢や棚や平一郎の机を見廻しつつ、ある淋しさと不安とありがたさをしみじみ感じずにいられなかった。
「これからは小母さんと始終住まえてわたしうれしい」と冬子は言った。「ほんとにはじめて小母さんを知ったとき、こうして一つ家に住もうと思ったでしょうか」
「ほんとに不思議な縁ですのね」とお光は悠久なある力に触れたような気がしきりにした。そして、永遠であり、不可知であり、一切の悦び、一切の悲しみの泉である生命の未来を仰ぎみるのであった。日はうららかに照って来た。
「わたし眠くなって来ました。小母さん、失礼ですがわたし一眠りして来ましてよ」と冬子は笑いながら去った。まだ春風楼にとっては真夜中であるべき午前八時であった。

 春風楼の茶の間の正面に懸けられてある大時計が、午前十時の音をごおん/\と響かせた。家のいっぱいに混沌とした濁った眠りが暗鬱にとざされている。さっき中途で眼を醒まして卵酒でいっぱい引っかけていた主人も快い朝の酔いをそのまま、昨夜晩くなって眠りほうけている女将の横にしがみついて寝入ってしまった。電燈は消滅して家中が薄暗く、そして静寂だった。灯の下に動いていた夜の華やかさは、何処に見出されようもなかった。表の細かい格子目の硝子越しに真夏近いじり/\と強烈さの増してくる太陽の光が、電燈の消えた店の部屋に射し入り、照らし出していた。女達はその朝の光に浮かぶように眠れる姿をあらわしていた。部屋いっぱいに並んだ八つの寝床、枕元近い板敷に並んだ鏡台、壁際に総桐の四台の箪笥、その上に二間の吊棚があって、使いこなした、くな/\の平常(ふだん)の帯らしいものが赤い下着と一緒に垂れ下っている。脱ぎすてたままの着物が幾重ねも、赤い裏を裏がえしにし、襟垢や白粉のついた黒い生繻子の襟がべと/\に光ったまま棚に押しこめてある。蔽を被せることを忘れた一台の鏡の面が照り返す白光が、その一枚の上にじっと止まって動かない。静かだった。すう/\と寝息がする。時々ううと唸るものもある。
 この朝のように八つも寝床が敷かれてあることは稀であった。いつの夜も三、四人か四、五人しか自分の寝床で泊るものはなかった。いかなるところで、いかなる人間と、いかなる夜を過すであろうかは分りすぎた事実である。午前十時の時計の音に眼を醒された冬子は、光に照らされた珍しくそろった朋輩の眠れる姿を床の中より見廻さずにいられなかった。
 壁際に水色の軽やかな夏蒲団を正しく身体半身にまとって、左枕に壁の方を向いて平静に眠っているのは冬子より二つ年下のお幸だった。寝化粧をすることを忘れない彼女の艶々した島田髷に日は照り、小刻みな規則正しい息づかいが髪の根を細かに揺がしている。背はやや低く小造りな身体だが、引き緊った円やかな肉付と、白く透きとおった肌理(きめ)の精密な皮膚とをお幸はもっていた。お幸は東京の生まれであった。彼女の母は東京柳橋でも名妓といわれた女だったが三十を越してから運が悪くなった。唯一の後援者であった政治家が死んだとき、そのまま芸者稼業をしているにはあまりに全盛期の我儘が敵をつくりすぎていた。お幸の母は廃れてゆく容色や、肉身の若さを感じはじめると、名人に今一歩だといわれた自分の芸道(踊り)で生活しようと金沢の街へ来たのだった。その時お幸は十五の娘だったが、母ゆずりの才気と幼時から仕込まれた踊りと、小造りながらぴち/\した肉体の艶やかさは、彼女をお師匠さんの娘として成長させなかった。お幸の母は廓近くに住むうちに自然、春風楼の主人と知り合いになった。男子に対する眼の肥えているお幸の母には彼のみが多少人間らしい苦労人に見えたのだ。廓の取締である春風楼の主人の後援で、お幸の母は藤間流の踊りの師匠としてこの街でいい地位を固めることが出来たが、そうした因縁からお幸も十七の頃から春風楼の一人として座敷に出るようになったのである。小柄な彼女は盛装して群の中に静かに坐っていても少しも目立たなかったが、一人一人の対坐になる時は、きび/\した溌剌たる挙措(ものごし)の底に、蕩(とろ)かすような強い力を燦(きら)めかして男の魂をとらえるらしかった。「わたしは、はじめにお客の心持と様子と金使いとを見きわめるの。学生や番頭に心をゆるすこっちゃない。立派な三、四十の金のある人に眼をつけることが一等ですわ」といつか冬子に言ったことがある。お幸は男を深く迷わし自分の方へ引きずりこむことに悪魔的な悦びを感じているらしかった。たとえ自分もずる/\引きずられてゆく場合にでも、あるレベルまでゆけば、すばしこい仔猫のように身を翻して残された男を冷やかに見送る妖婦的な残忍な快味をさえ知っていた。しかし彼女にも、たとえそれは極めてエロチックであるにせよ、熱烈な恋愛はなかったわけでもない。彼女がまだ十八の正月、三郎さんというこの街一の呉服屋の息子で、高等学校の学生が彼女にしきりに打込んで来た。若々しい力に充ちた三郎さんの坊っちゃんじみたところが、無性に彼女には恋しくなった。彼女は三郎さんに会うときだけは一切の手管を脱却して一筋な情熱に奮い立った。恋愛の力が妖艶な彼女をどれほど美しく輝かしたかは三郎さんのみが知ろう。お幸にとって肉欲の錯混が深いだけに一日中三郎さんを離されなくなってしまった。三郎さんは学校を休む、お幸は座敷に出ないで、毎日毎夜二人は熱病人のように一室に籠ったきりだった。しかし三郎さんの家の番頭が三郎さんを連れてゆき、電話で一日中話し合うので電話を一時取りはずしたりしているうちにお幸の情熱も沈潜してしまったのである。「三郎さんのことだけはいつまで経ったって忘れることじゃない!」と彼女は言ったが、それが最初のそして最後の「我を忘れた」恋愛であり快楽であった。いかな激しい快楽と情熱の渦巻きの中にでも聡明な勘定をするだけの恐ろしい修業が今は完成され、理想的な「いい女」として、今静かに小刻みな息づかいで、安らかに眠っているのだった。
 お幸の次には二十歳になる時子が、身体全体を反らしてやや高い不調な息を鼻の中で立てている。掛蒲団を足の間に丸め込んで双手を畳の上まで投げ出した寝様は、乱暴とのみ言えないものがあった。細面の、高い鋭い鼻筋、伸ばした喉の喉頭に光は強く射していた。剥げかけた白粉と生地の青みがかった皮膚とが斑になり、頸部から寝巻の襟のはだけた、やせた胸廓が黒く脂じみているのが不健康らしくはあったが、いい縹緻(きりょう)には相違ない。彼女は二十年の生涯を、記憶に残る時代を廓で成長して来た女だった。誰かに険しい山路を負(おぶ)ってもらって来たような憶えがあるきりだと彼女は言った。十三、四迄は使い歩きにこきつかわれた。朝は誰よりも早く起きて三十もある火鉢の灰を掃除をして、すぐ灰吹きを廓から離れた小川まで行って洗って来なければならなかった。どんなに雪の降る冬の朝でも止す訳にゆかなかった。それがすめば掃除の手伝い。ようやく朝飯がすむと師匠のところへ踊りや三味線の稽古に通わねばならない。それは彼女にとって苦痛だった。芸道は彼女に少しも楽しみを感ぜしめなかった。早く大きくなって姐さん達のようにいい着物をきてお酒を飲んだり、御馳走を食べたり、男の人達と一緒に騒ぎたいものだと一心に願った。彼女は早熟で十四の春にはもう事実上少女でなかった。白粉を塗り紅をつけ、縮緬の着物をきた舞妓姿で「旦那、今晩は」と座敷へ出たときには大変な出世をしたような気がした。男から「時ちゃんは俺のいい子だね」とか「可愛いいやつだ」とか言われるのが嬉しくて堪らなかった。彼女は夢中だった。虐げられていた一切の欲念がはじめて解放されたのだった。彼女は食い飲み、騒ぎ、またあの辛いこととせられる一つのことさえを貪るように受用した。賑やかな、気のさくい、そしてすぐある欲求を充たしてくれる若い女として、彼女は学生や青年の性欲に飢えた人間にもてはやされるようになって、しかもそれで満足していた。疲れた肉体と掻き乱された魂と、低級な満足とを抱いて、この朝をいぎたなく眠っている時子の姿は、冬子にとっては浅ましい哀れさとある悲しい反省とを喚び起こした。
 昨夜、といっても今朝の午前二時過ぎにある家から帰って来て、冬子に泣くようにして、その夜彼女を呼んだ羽二重商のいどむのを逃れて来たことを訴えていた茂子は、時子の次に冬子の隣に眠っていた。冬子はわりにこの陰鬱な茂子に好意をもつことが出来ていた。どうしても芸妓などにはなりたくないと思って泣きながら母親に頼んでも、彼女がまだ嬰児であったとき、貰い受けたときから決定していた継母の意志をひるがえさせることは不可能だった。「もしわたしがお前を育てなければ、お前はどこかの山か川に白骨になっているはずだったよ」と言った義母(はは)の言葉は忘られない。彼女は仕方なしに芸妓になったのだ。彼女は婬らなことに身を任せたあとには精神が異様にたかぶって一夜中眠られなかった。眠られない夜に限って自分が痩せ衰えてしまったように考えられ、搾木にかけて毎夜心身の精粋を絞りとられる地獄だと考えられ、そうしてそのさきには真黒な死が手を伸ばしてつかみかかっているのだと考えられた。昨夜も彼女は冬子に、「死んだらどうなるのか」とたずねたり、「何だか悪い病気が身体中に循(まわ)っているようだ」と訴えたりして、寂しそうに寝入ったのだった。顔や頬の肉をぴく/\神経的にひきつらせながら――。店先から射す光には昼近い熱気を帯びて、冬子は苦しくなって来た。彼女は寝返りを打って、彼女の右手に並んでいる同じ女達を見つめた。黄金色の太陽の光は幅広い流れを溢れさしているのも知らずに、皆は夜の疲れで眠っているらしかった。
 小さな弁慶縞の掛蒲団の襟のところに二つの桃われ髪が行儀よく並んで、顔は蒲団にかくれて見えないのは、米子と市子の二人の赤襟の少女だった。米子は今年十四ではじめて赤襟になったのだが、「米ちゃんがなるならわたいもなる」と言って一つ違いの市子もとう/\赤襟になってしまった。米子は細身な静かな少女だったが、市子はややお転婆で、活気があって、花のように美しかった。市子は多くの客が可愛がったが、米子は少数ないいお客に愛せられていた。しかし二人自身はそんなことに無頓着であった。下手な踊りを踊って、そして賞められて喜んでいた。二人とも誰を明らかに父と指さしていいか分らないような芸妓の子として出生し、養われて来た女だったのだ。彼女等は人生に就いて廓より外に知らなかった。彼女等は職業、愛、道徳、――に対して一生正当な観念すら得られないのではないだろうか。
 この二人の少女に隣合って一つの寝床が空のままであった。汚れた敷布の上に丹塗(にぬり)の枕が二つ並んだままにある。それは仲のよい菊龍と富江の「共同の」床であった。彼女等は大抵一緒になることはなかったので一つの床を二人で使っていた。たまに一緒になったときは一つの床にもぐりこんで、夜がしらじら明けるころまで情人の噂などを話しながら寝入るのを常としていた。昨夜は恐らく何処かで外泊りするか、でなければ二階の一室に――かもしれなかった。
 空の床に離れて、襖をはずした敷居越しに、この家(や)の公娼が眠っていた。粗い黄色と黒と小豆色の縦縞の掛蒲団をまるめるようにして、ぶく/\肥った真っ白い太い双手を投げ出して、まるまる肉のついた横顔を見せて口をあけて本当に深く寝入っているのは鶴子という三十近い女だ。村の機織工場の女工、街の莨専売局の女工、彼女の少女から青春時代はそうして送られた。まるまる肥えたはちきれそうな肉付と滑らかな皮膚は先天的に飽くを知らぬ欲念の蔵だった。彼女は二十三のとき娼婦になった。それは彼女にとってパンを与える職業であり、快楽を与える貴重なる泉であった。彼女は職業のために疲労することがなかった。白い、生き生きした赤い血の色は失せてしまったが、肥えふとった肉体に薄青い静脈がしずかに波うっていた。「ひとり寝の朝はものうくってしょうがない」と彼女は冬子に言ってから/\笑ったことがある。
 こうした鶴子の大柄な身体の蔭に小さい痩せこけた一人の女が寝ているのを見逃すわけにはゆかない。頬のこけた、肉の落ちて小さく凋(しな)びた顔に、乱れかかった髪の毛の一筋を唇にかみしめながら、息する度にほっそりとした鼻がかすかに動く。日はその虐げられつくした暗鬱な顔を照している。額の深い皺の一筋一筋がはっきり浮き出して、女の苦艱を表現せしめている。小妻は不幸な女だった。自分を不幸と信じている冬子でさえが本当に不幸な、と考えたほど不幸な女だ。小妻は多くの女達のうちで唯一人のこの街の生まれで、ある中流な薬房の娘であった。小学校を終えてからこの市街の中流の娘がするように、毎日裁縫の師匠へ通っていた。彼女は内気な目立たない、人なつこい娘であった。師匠さんの家へは川岸伝いにゆかねばならなかったが、十六の頃いつも川岸で会う若い商人らしい青年があった。優しくて男らしい人のように小妻は思った。ある日の帰りのこと、にわか雨がぼつ/\降りはじめた。そこへその青年が来合わして傘の中へ入れて家まで送ってくれた。路々恥かしながら話してみると、彼女の家とは裏つづきの紙問屋の息子だったときの悦び。二人は仲よくなり、そして娘は孕んだらしかった。孕んだのではないかしら、とひとり思い煩っているうちに、親達が縁組を結んでしまった。行先は同じ薬屋の問屋であった。(「何故あのときはっきり親達に言わなかったのでしょう。矢張り叱られやしないかしら、というようなことが恐ろしかったのよ、冬子さん、随分可愛いことを思っていたじゃありませんか」と小妻はよく言った。)紙問屋の息子が心変りがしたものと信じて遊蕩をはじめる。そのうちに娘は孕んでいたことが隠しきれなくなって離縁される。内気な小妻は、内気で弱い心の持主であるために、家を逃げ出してひどい目に遇いどおしで、娼婦の群に入ってしまったのである。内気な、弱い、すなおな魂と、神経質な敏感な傷められ易い肉体をもつ彼女に、娼婦の勤めは惨酷な地獄だった。一と夜を明かせば、次の朝には烈しい熱に苦しまねばならなかった。そして熱苦がおさまる頃にはまた夜の恐ろしい忌わしい惨虐がやって来た。機械になり切れない小妻にとってはそれは惜しい惜しい生命の濫費だった。まだ二十五にもならない小妻は、やせこけて暗い凋びた容貌に変じてしまったのも無理でない。小妻は一日中忌わしい行為の追憶や脅迫につきまとわれ、恐ろしい暴力の虐げを呪っていた。「わたしはいつも眠ったまま、眼ざめるときがなければよいと思いましてよ」ああ、ひとり寝る夜の寂しい幸福よ――冬子がじいっと小妻をみつめていると、小妻の窪んだ瞳が、ぽっかり開いた。太陽の光がさっと眼にしみたらしかった。
「あ、お天道様」と彼女は微かに呟いたが、光を浴びた中から冬子を認めて淋しく笑った。「もうお目覚め?」
「ええ、今のさき、時計の音で目が覚めましてよ」
「そう――ああ、わたしいやな夢をみていましたっけ。わたし唸らなかったでしょうか」
「いいえ、よく寝入っていらしってよ――ほんとにいい朝ですのね、小妻さん」
「わたし、冬子さん、笑いなすっちゃいけませんよ。ふっと眼がさめるとお太陽様(てんとうさま)の光がそれは美しく見えて、わたしはことによったら死んで極楽へ来ているんじゃないかと思ってよ。すると、横にこの人(鶴子を指さして)の太い腕が見えましたから、ああ、わたしはやっぱり地獄にいるのだっけと思いました」
 冬子はその時ふとお光はどうしているだろうと思った。大概部屋は片付いてはいるが、一人で淋しがっているに違いない。何んだか起きて顔がみたいと思った。冬子は起きて普段着に着かえて、小妻に「わたし、ちょいと用のあるのを忘れていましたの――もっとゆっくりやすんでいらっしゃいな」と言って、店の間を出てしまった。小妻と話すことは冬子にとっては、常に努力をもって征服し統一している自分の性格の弱い一面をまざ/\と見せつけられるようで堪えられなかったせいでもある。
 冬子の去ったのを寂しく思いながら、小妻はお幸、時子、茂子、米子と市子、鶴子と眺めつつ、富江と菊龍のいないのにある堪らない本能的な悲哀を感じずにいられなかった。二人とも昨夜はある料理屋に呼ばれて行ったのだが、恐らくはどこかで泊ったものだろう。
 二人とも丁度今の米子と市子のように幼い頃から春風楼に育てられて昨年ようやく一人前になったばかりのまだ十八の、普通なら生(うぶ)な娘の年頃であった。小妻は自分があの紙問屋の息子に恋したのは、丁度菊龍や富江の年頃だったのを思って深い悲しみを感じずにはいられなかった。自分の行き過ぎていった青春を歎く涙、さらには娘の頃の青春をこうした境界に身を置いて、あの純真な初恋らしい恋一つ知らないで、美しい肉体を毎夜毎夜の勤めに腐らしてゆく若い人達の身。まだしも自分の方が彼等よりも幸福であったかも知れないと思ってみた。がその僅かな小さい追想に伴うほこりに似た感情は、腰から下腹部にあたって引きつるような疼痛を感じたときに根柢から破れてしまった。太陽の光にさらされて脂じみた襦袢と色のさめた赤い下着との間からあらわれた自分の蒼白な胴や胸廓の痩せこけた肉や、萎びて皺のよった皮膚や、一枚一枚暗いひだをつくって見える肋骨の骨ぐみなどを見ていると、自分の多少幸福であった娘の頃はもう遠い別の世界での事実でしかなくなったことが確かめられた。今の自分は――、激烈な疼痛がきり/\と身を引きしめる。彼女は歯を喰いしばってその痛みを忍耐した。痩せ細った青白い萎びた小さな両手にねち/\した汗がにじみ出た。骨髄に沁みこんだらしい悪性な病患がもう汝は永いことはないのだと身体の深みから唸り声を発しているのだ。彼女は汗のにじみ出た全身を拭う気力もなくて、その汗が客をとる時の、あの死ぬ方がよいと思う汗にも似ていることに浅ましさを見出していた。そしてまた、枕に頭をつけて眼をとじて眠ろうと試みてみた。もう時は十一時近くであった。街のあっちこっちに戸を開け、雨戸を開ける音が響いた。あーふっと何処かで大きな欠伸をしているのが聞えた。小妻は気を取り直して、起き上がり、肌着の上から乳の下の辺へ赤い細紐をしめて、そっと茶の間へ出て来た。茶の間の囲炉裡には楼主が朝早くおこしておいたらしい炭火が焔を吹いておこっていた。彼女は莨を不味そうに吹かして、窓から射す光線の暖かみを身に快く感じていた。台所では婆やが今起きたらしく板を踏む音がぎし/\する。そのぎし/\に耳を澄ましていると、遠くから別な板を踏む足音が近づいて来た。小妻はぼんやりそれを聞いていた。考える力さえなかった。冬子が現われた。小妻は平常冬子を少し恐ろしく、しかし、自分の理想を実現する強者に対するような崇拝を秘めた愛を感じていたのである。
「小妻さん、お早う」こう冬子は改まってお辞儀をした。
「お早う」
 すると冬子の蔭に少し苦労に瘠せているが、鷹揚な品のよい四十あまりの女の人がどう自分の態度をきめてよいか迷ってるように、そして眼光の厳粛さはその迷っている自分の腑甲斐なさを怒っているようにそこに腰をかがめて立っているのを見出した。
「大河の小母さんよ、今度お仕事に来て下さった」
「どうぞまた、よろしく」とお光が言った。
 小妻はどこかで見た人のような気がした。鷹揚な温かさが彼女にはなつかしい気がした。こうした家のお仕事にくるような人柄でもないのにと思った。すると飛躍するように自分の今の身がこの人の前に羞かしくなった。彼女はうつむいて、
「わたしこそ」と小さく言った。冬子は黙ってしまった。
 冬子は少し上気していた。冬子は、お光に会うときはいつも快げに微笑んでいたが、春風楼へ来ると唇をかたく結んで静かにやや陰鬱に顔容(かおかたち)を乱さなかった。口もあまり利かない。こうした営業の女には不似合な無愛想な沈黙と威厳が彼女を妙に寂しい美しさに洗い清めていた。お光は小妻と冬子を見比べながら冬子の本来の美しさを見たような気がして嬉しかった。一緒に話していてはそう秀でた女とも思えないが、緊張した彼女は、廓でも名妓と立てられるだけに気象に凛としたひびくものがあるのだと、まるではじめて冬子を見たもののようなことを考えていた。とにかく、三人は朝の光を浴びて囲炉裡の辺に坐って黙っていた。こうした場合に何か言い得るものは魂なき無生物のみである。
「時ちゃん、お茂ちゃん、起きないの。もう遅いのよ、お茂ちゃん! 時ちゃん!」
 お幸の円い厚みのある声が店の方で聞えた。
「米子ちゃん、市子ちゃん、こら、お臀をこんなに出して、夜中に誰かが持っていったらどうするの。お起きなさいよ、こら!」ぴた/\小さい妓等の臀を叩くらしい音と、寝ぼけざましの哄笑が一斉に聞えた。店の女達はみな眼をさました。
「時ちゃん、自分の床だけは上げるといいわ」
「はい/\」
「昨夜はおかしな夢ばかり見ていたっけ」
「鶴子さんの夢なら大抵知れていますわ」
「そうでしょうよ――可愛いい男の夢ですよ」
 お幸がふだんの意気な単衣に博多の下帯をしめて、楊枝を使いながら出て来た。怜悧な彼女のよく動く生き生きした眼が、お光の上にじっと暫く止まっていたが、説明を求めるように冬子の方へ向いた。冬子はそのお幸の眼が嫌いでならなかった。怜悧な打算強いその眼、男が一度その眼にうたれてすぐある誘惑を胸に連想するようなその眼、冬子にはその眼が嫌いで堪らなかった。大抵の場合は冬子は沈黙した。お幸は冬子を高慢ちきだと言った。もしお幸が自分の男に対する或る種の自信が弱いか、毎月末における花高が冬子よりも下ででもあったなら、彼女の蛇のような邪智は冬子に対して悪辣さを発揮したか知れなかったが、冬子の客はある少数の範囲に限られていたし、それに彼女は夜泊まりすることが嫌いだったので、そしてその嫌いが大抵の場合押し通せる程に彼女の力量が認められていたので、冬子は花高はお幸に及ばなかった。そしてそれが彼女のためによかった。が、そうした冬子でも今は黙していてはお光が立ちゆかない。
「お幸さん、お早う」
「お早う」
「あのいつもお話しておったでしょう。大河の小母さんよ。お仕事に来て戴くことになりましたのよ。またどうぞよろしくね」
「そうなの。どうぞよろしく」
 お幸はお光をちらっと見た。彼女はお光が地味な、少し勝手のちがった、征服しようにも手がかりのないような多少不可解な四十女に見えた。しかし彼女の才気と聡明が、そして廓の女以外に対する無知が彼女の心を安心させていた。お光はそこに小造りなぴち/\と跳ねあがっている新しい小魚のような美しいお幸を見た。
「ゆっくりしていらっしゃるといいわ、小母さん」
 お幸は洗面所のほうへ去った。
「お茂さん、その紙屑を拾ってゆくといいわ」
 お茂が肌着を脱いで単衣にきかえて茶の間へ出てこようとするのを、時子が細帯をぐる/\巻きしめながらお茂を呼びとめた。その呼び止め方の気随(きずい)さがお茂の心に痛みを与えた。
「何を」
「その紙屑ですよ」
 時子がお茂の足下を指さした。そこに、丸められた、汚血のにじんだ紙くずが転がっていた。お茂ははっとしたらしかったが、非常な速力で、昨夜、悲しい暗鬱な気持で遅く帰って来てから床にはいったまでの間を反省してみるような目つきで、お茂は言った。
「これはわたしのではなくってよ」
「お茂ちゃんのでなくて誰の」
「誰なのかわたしが知っているものかね」
「ふん――」
 時子は、細帯をきゅうっとしめて、ふくらんだ乳房のあたりをぽんと叩いた。叩いた拍子に時子の※絹裏(もみうら)[#「糸+峰のつくり」、66-6]の袖からころころと同じような紙屑が畳の上へ転げ落ちた。お茂の眼は輝いた。が、その輝きは輝いたことを羞じらうようにまた持前の暗い容貌に逆戻りした。時子は不意な事実の前に忌々(いまいま)しさをこらえねばならなかった。(昨夜、若い高等学校の学生の一群の席で、眼鏡をかけた元気のいい生き生きした髭などの少し青みがかった男が――それをすっかり忘却してしまっていたのであった!)時子はちっと舌鼓をうって言った。
「お茂ちゃんは品がいいのですからね」
 お茂は辛そうに顔をゆがめて黙した。こんなとき冬子でもいてくれればと彼女は思った。お茂には、嫌だ嫌だと思う圧迫のみが強くて、その圧迫につき動かされて反抗し開拓してゆく力がなかった。小妻のようにあきらめ切って傍観する余裕をもつには年が若すぎ、冬子のように重苦しい威厳と沈黙で制えつけるには天稟が恵まれていなかった。お茂は泣きそうなのを堪えて茶の間へ出て来た。時子も出て来た。
「冬子姐さん、お早う」茂子は言った。
「お早う――あ、お茂ちゃん、わたしの小母さんよ。これから仕事に来て下さったのですの」
 冬子は、黙って怒ったように楊枝を使っている時子にも声をかけた。
「時ちゃん、あなたもどうぞよろしくね」
「ええ」
 時子とお茂は台所へ去った。お茂がお光に腰をかがめてゆくさまはいじらしかった。
「わたしも顔を洗って来ようかしら」
 と、小妻は身体の痛みをいたわるようにそおっと起きて、台所の方へ行った。
「おう眠い、眠い、何だってこんなに早く起きたのだね、本当にしょうがないね」
 大きな男のような鶴子の声がした。むっちりと肥えふとった上、半身を赤裸々に現わした鶴子は、茶の間に出て正面の時計の十一時近いのに頓狂な声を立てた。そしてだれ下った乳首を可愛そうに自分で吸ってみた。黒ずんだ乳首とだれた豊満な乳房とは、彼女が前生涯に子供を孕んだことを証明していた。
「こう見えても、まだ若いのだから」
 そういう鼻も大きく、眼も大きく、口も厚ぼったい、鶴子の上半身に光沢のないのにお光は物足りない悲しさを感じていた。
「早く顔を洗っていらっしゃいな――小母さん、この人が鶴子さんていうんですの」
 冬子は今度はお光の方に話しかけた。
「見ただけの女ですわ、小母さん、あははははは」
 鶴子が去った。米子と市子の二人の少女は、階段の横の火鉢棚の上から青銅の重い火鉢を下して、吸殻を取りよけたり灰をならしたりしながら、ちょいちょいお光の方を盗み見ていた。米子は瓜実顔の、鼻が少し透り過ぎてさきの方が垂れ下がっているようにさえ見えたが、一重瞼のいい眼をもっていた。市子は肉付の豊かな、眉毛と眼のところに穏やかな優しみのある、顎の丸い唇が少しお喋りらしく開いた、愛らしい少女であった。
「冬子姐さんの母さんなの」
「うそ、冬子姐さんの叔母さんなんよ。――そら、裏の中田の二階にいらしった、あのお仕事の小母さんなのよ」
「あ、あの小母さんなの。――そんならね、そら、平一郎さんて中学校へ出ている方の母さんなのね」
「ま、市子ちゃんは平一郎さんを知っているの」
「知っているわ」
「わたしだって知っているのよ」
 米子は少し不興らしげだった。(彼女はいつも用足しに出かけるとき、街路で球投げをしてにこ/\笑っている平一郎をよく憶えていたから、同じ平一郎を市子が知っていることを不快に思ったのだ。泥塗れの中に育っても少女の純真さは、毎夜の、酒を飲んで悪巫山戯(わるふざけ)する多くの男達を記憶に深く留めないで、近所の少年のふとした微笑を憶えしめていたとは!)
「平一郎さんもここへいらっしゃるの、え? 冬子姐さん!」こう市子が突然訊ねたが、冬子の答えないうちに、そのとき出て来たお幸に、
「早く庭の掃除をしなさいな。何、ぐず/\しているの」
 と叱られて、二人の少女は土間へ下りて、混乱した下駄を一足一足整えはじめた。店の間や茶の間にもはたきの音が聞えはじめた。掃除は鶴子と茂子と時子がはじめたのであった。(菊龍や富江がおれば彼女等も手伝った。)鶴子は一人で大声をあげて大ざっぱに掻き廻していた。茂子は黙然として掃いていた。時子はぶつ/\呟いてろくに掃除をしようともしなかった。(菊龍さんや富江さんは今頃はまだ暖かい床に眠っているのだろうに、ほんとにばからしい。今夜は電話をかけて昨夜のあの番頭をよんでやろう)などと考えていたのだ。台所では婆さんが(婆さんといってもまだ四十四、五の、つる/\した、――素質が恵まれていず、その数奇な生涯の一切の苦患から何一つも吸収摂受していないだけに、老いもせずに、丈夫な馬のようによく働いた)、瓦斯(ガス)の火を濫費して、ようやく水のようなおかゆを大きな二升釜に拵(こしら)えたところであった。廓では朝飯を一年中お粥をすする習慣である。
「みなさん、御飯ですよ」
 台所の横の中庭の奥座敷の間に、直角の線を形成して、この家の食堂があった。食堂の片隅に三尺四方ばかりの手摺を持って囲ってある穴倉の入り口があった。暗い穴の口から、地の底から昇騰する冷気がひえびえと室内に充ちて来る。婆さんは汗を滴らしながら、薄縁(うすべり)をしいて、中央へ大きなお粥の釜を据えた。そしてもう一度「みなさん御飯ですよ」と叫んだ。こうした世界にも階級があった。冬子とお幸が上席に向き合った。時子と茂子、菊龍と富江、鶴子と小妻、最後に米子と市子は一つのお膳を二人で半分半分に使用した。もう十二時近くであった。麗(うら)らかに霽(は)れた紺藍の輝く空に太陽の黄金光は、梅雨あがりの光を熱烈に慄えさせていた。窓から射し入る緑金の光輝は、外を黒塗りに内を丹塗りにした揃いのお膳の漆の色調に微妙な陰影を与えていた。静かであった。黒く煤けた大釜の蓋の隙間から白い粥の湯気(いきり)がすうっとのぼって、冷やかに地底の冷気に融けて、また、すうっとあがってくる。店で乱れた鬢などなでつけていた女達は、食欲も起こらなかったが「習慣にしたがって」この部屋に集まって来た。冬子はお光を皆に引き合わした一安心で、少し疲れを感じていた。朝早く起きたせいか気分が悪かった。彼女は小さい茶椀にお粥を盛って胡麻塩をかけてすすりはじめた。お幸も時子も茂子も小妻も鶴子も、まずそうに舐(なめ)るようにゆる/\と湯気の白くたつ粥をもてあつかっていた。本当に空腹からうまそうに啜っているのは米子と市子の二人の少女のみであった。自然はこの酷使されている、まだ魂も身体も泥劣なことから護られている二人の少女から健全な食欲を奪いはしなかった。二人は貪るようにずう/\音をさせて啜った。冬子はその様子を悦びをもって眺めていた。卑しそうに時子は眼でお幸に二人を指して笑っていた。そして自分は顔を顰(しか)めて、ようやく一杯の粥を啜るのが大変な仕事なのであった。
「菊龍さんと富江さんは随分遅いじゃないの」
 時子は自分の横の空席を流し目に見て言い出した。今朝からこれを言いたくてむず/\していたのだ。
「そうね」
 お幸は言った。
「望月(ぼうけつ)だから、きっと、吉っちゃんと丹羽さんなんでしょう」
「吉っちゃんと丹羽さん――あのねっつりやのことだもの、遅いのは、なる程、そうねえ」
「今頃はまだ金輪際離すものかとしがみついているのさね」鶴子が大きく言って独りであはははと笑った。時子はその鶴子の口出しを軽蔑するように顔を顰めた。その様子を鶴子は見逃さなかった。
「あはははは、三味線を引くと引かないだけの区別じゃないの。まだわたしの方がどんなに正々堂々としていて立派だか分りゃしない、あはははは」
「天下御免の御娼売ですとさ」
 お幸は時子に加勢して、彼女の怜悧はこうした小争闘に深入りせずに、そのまま店の方へ去った。時子も侮蔑するように鶴子を流し目に見て後につづいた。
「あはははは、碌な芸もないくせに、わたしよりは一かどえらいつもりでいるから、いじらしいじゃないの。あはははは、御自分の癈(すた)りかけているのも御存じなしにさ」
 誰も答えるものはなかった。小妻も茂子も冬子も別々な想いに深い暗鬱に沈潜して笑うことすら出来得なかった。(魂なきものは幸いなるかな。彼女等は絶えず笑い得るから、希(ねが)わくば笑うことを知らざる淋しき人達に恵あれ!)鶴子が茶の間へ帰りかけると、お幸と時子は化粧道具を下げて風呂へ行こうと土間に下りかけていた。
「腐った身体でも洗って来るがいい」
「鶴子さん、何ですって、もう一度言ってごらん」
「玉のみからだを磨いていらっしゃいな」
「余計なお世話じゃないの。どこかの人のような男泣かせの凄い芸当は出来ませんからね」
「それはそれはお気の毒さま。まだこう見えてもなか/\達者なものですからね」
「鶴子ちゃんあんまりよ」
 お幸はたしなめるように言葉をかけた。しかし一度行先を乱れた鶴子の感情はそうしたことで拒止され得なかった。ぶく/\肥えた全身にこじれた憤怒がしみわたっていた。
「あんまりだからどうしたのさ。口があるから喋るじゃないかね。わたしはあなたのように踊りは踊れませんよ。踊りを踊ってから何を踊るの? えらそうな口をお利きじゃないよ」
「何んとでも言うがいいさ。すべたのくせに」
「どうせすべたさね」
「すべたならもっとおとなしくしておいで」
「すべたとはお前さん達のことじゃないかよ。うぬぼれだけは一人前にもっていることね」
 お幸も時子も、全身を投げ出してかかった、異様な苦悶を基調に潜ませた鶴子の雄弁には敵わなかった。二人は不快そうに外へ出て行った。鶴子はその後を見送っていたが、そのまま店の間へ帰ってどったり仰向けに寝転がって、狂人のような空虚な哄笑を続けていた。泣こうにも涙が乾きはてて出て来ないような笑いを。小妻と茂子は冬子に何か話しかけようとしたが、冬子が厳かに取り澄ましていたので、黙って店へ帰って来た。小妻は身体中が物倦く節々がやめて起きていられなかった。床をしいて横になり、暗い何かを疑うような絶望的な眼を光らせていた。茂子は鏡台に向って髪をほぐしていたが、やがて風呂へ出かけてしまった。店には鶴子と小妻が残された。
「小妻さん」呼ばれて小妻はほおっと溜息をついて急には返事をしなかった。
「身体の工合はどうですえ?」
「あまりよくなくて弱っています」
「痛いの?」
「どことなく身体中がやめて、下腹が時々引きつけて来ますのよ」
(鶴子にはそうした病状は身に体験して来た。彼女は生来が強かったので、そうした内部に籠る状態が長続かないで一斉に外部へ吹き上るので、根本的に治すことも容易だった。)鶴子は小妻はもう長いことはあるまいと考えた。
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