地上
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著者名:島田清次郎 

 ……おゆるし下さいまし、おゆるし下さいまし、わたしが悪いのです、わたしが弱いのです。「何を怕(こわ)がるのです、今に僕も成長(おお)きくなります)、と仰有(おっしゃ)ったあなたのお言葉はこの手紙を書いている時でさえ弱いわたしの心に鳴り響いています。しかし、わたしは、平一郎さま、おゆるし下さいまし、母の言葉に従って他所へ嫁入るのです。わたしを思う存分に憎しみなすって下さいまし。わたしはあの去年の秋の手紙のこと以来母の強い叱責を受け、東京へ送られてしまったのです。あなたにお手紙を差しあげなかったのは差しあげる気がどうしてもしなかった故です。おゆるし下さいまし。……しかし、平一郎様、わたしは平一郎様をどうして忘れることが出来ましょう。わたしは長生きいたします、きっと。平一郎さま、短気を起こさずにほんとにえらくなって下さいまし。そしてこの哀れな背いた女を見反(みか)えるようになって下さいまし。……わたしの夫になる人はあなたとは十も年上の洋画家です――

 誤りではないかと彼は思って幾度となく読み返した。しかし読み返す必要はなかった。一度でもう彼はこの手紙の事実が真実であることを知ってしまったのだ。彼が感じた空虚な感じを失望というのであろうか。彼は学校でも幾何の問題を解いているときも、東洋史のイギリス人の印度征服の答を叙述しているときも、彼は和歌子のことを想っていた。どう想っているのか彼には分らない。ただ想っているのであった。それはたとえようのない空虚感。
 印度の征服の問題にそれが歴史の答案であることを忘却して無茶苦茶に英国人の辛辣を攻撃して三枚ものべつに書いて彼は教室を誰よりも先に出て来た。控室から彼は運動場に出た。北国の冬に珍しい澄明な青い空だった。運動場一面に張り凍った氷に冬の陽光は輝いている。彼は和歌子の手紙をポケットからとり出して熟視せずにいられなかった。するとある一つの輝きが彼の頭脳に閃き彼は全身的に叫んだのだ。
「えらくなるぞ!」彼には和歌子を憎む情は微塵も起きなかった。彼は和歌子の(長生きいたします、きっと)を繰り返し読んでいると泉のように懐かしさが湧いて来た。えらくなる、えらくなる、えらくなって愛する和歌子と交わらずに置くものか! 彼は運動場を駈け廻りたくなった。氷はつる/\滑るによかった。彼は運動場の光った平面を滑って歩いた。全身が汗ばんで、新しい生気が溢れて来た。
「大河君」深井が近寄って来た。
「深井君。来たまえ!」深井が微笑を浮かべてやって来た。
「これを見たまえ」深井が受け取って読むのを、平一郎も息をはずませて見戍(みまも)っていた。
「和歌子さんは東京へ嫁に行ったのだ」こう言ったとき平一郎はさすがに寂しい取り返しのつかないことになった悲哀を感じた。深井は繰り返し繰り返し読んでいた。やがて頭を上げた彼の顔は蒼白であった。平一郎は深井から手紙を受け取ってもう一度、「えらくなるぞ!」と怒鳴った。
 冬の光は二人を照していた。ひろごる輝ける氷の平面の彼方には、E山脈の荘厳な峯が白光を放っていた。
「大河君」
「何だい」
「僕のことは一言も書いてないね!」
「え□」
 平一郎は深井の白い顔に溢れ出る涙を見た。深井は洋服の腕を顔にあててたまらないようにせき上げせき上げ泣いた。
「深井君、どうしたのだ」と平一郎は彼の背をさすっているうちに、無意識の世界から(ああ、そうであったのか)と新しい認識が光り出でた。彼は深井の背をさするのを止めて黙然と立った。複雑な悲哀が彼を囚えてはなさなかった。涙が彼の両目にも溢れて来た。(それを知らぬわけではなかった。深井、許してくれ、知らぬわけではなかった。)彼は深井の手を握って許しを乞うように堅くふった。
 自然の運行は無窮で始めなく終りはないであろうが、その廻り行く生成の姿は、ただ単調なリズムではない。ある時は全然無活動で平凡で単調であるが、ある時は嵐のように狂暴な力となって一時にあらゆる可能を尽さしめる。人間の運命にも、人が事件の過ぎ去った後で考えてみると、運命は実にそのリズムであることを信ぜずにはいられないことが多い。平一郎は和歌子の上京と結婚を知ってから、想いは未来の夢に燃えながら現実では空虚と暗鬱から到底逃れられなかった。――もし僕が二度この世に生まれて来るものなら、そして和歌子さんが同時に二度この世に生まれて来れるものなら、あるいは僕はこのままで思い切ることが出来るかも知れません。しかし僕には僕の一生は今のこの一つよりしかないものだと信じられます。僕は僕の生涯にどうあっても和歌子さんを求めます。この世の運命を僕は和歌子さんに結びつけずに考えることは出来ませぬ。ああ、僕には僕よりも十歳も年上の男の人妻である和歌子さんを想像することは出来ない。僕には和歌子さんはいつまでも頬を赤くする熱情的な少女です――こう平一郎は感激した文字を深井に送ったこともある。「男子が嘗めねばならない不幸と苦しみ」――独立期が晩成であるために初恋を奪われる苦痛を平一郎は嘗めねばならなかった。堪らないことであった。
「大河君、僕も苦しい」と深井は言った。
 苦しい熱病人のように夢中で試験をすましたその夜、平一郎は尾沢の家を訪ねる気になった。彼の精神に消化し切らない食物のように和歌子のこと、深井のこと、自分のことが未解決のままで渦巻いていた。
 二階では尾沢と高等学校の学生の宮岡が熱烈に話し込んでいた。
「しかしホイットマンが、我が祭歌を浮かべるは歓喜をもってだ、汝に歓喜をもってだ、死よ、と歌っているように、死はたしかに安らかに永遠の安息だと考えられますよ」
「宮岡君、もう止めてくれたまえ!」尾沢は眼をとじて堪らなさそうに宮岡の熱した言葉を止めさせた。宮岡は情熱をさえぎられて、眼鏡越しに尾沢をじろり睨みつけた。
「どうかしましたか」
「己には性に会わないようだから、止してくれたまえ! ホイットマンはそういう風な死の思想を抱いている人とは思われないが――いや有難う。もう止してくれたまえ――」
「どう君と合わないのです。昨日も友人と彼の『草の葉』を学校で読んで思わない発見に歓び合っていたのです、どう君に合わないのです」
「ホイットマンが詩人であるからだ。死と生とを別物のように考えているからだ。死といい生というのは人間の不完全な認識が勝手につけた名称に過ぎないのだと僕は信じます。こうしていることが生であるなら『死』といわれている現象も生の一部分です。死は休息じゃない。断じてない。死もまた生だ。だから死もまた苦痛だ。死んで己達が無くなると信ずることは人間が真理を認識する恐ろしさに堪えないで自分で自分の眼をかくすめかくしに過ぎないのだ。こうして己達であるこの己達がどこにどうして全然無くなることが出来ると思うのか。全然無くなることの出来るものなら、こうしてここに表われはしない。表われている限り己達は永遠に有ることの証拠だ。この有ることを生命だというなら生命と言ってもよい。クリストという男は永遠の生命に触れれば泉のごとく尽きずと言ったそうだが、なるほど泉のごとく尽きないことは真理だ。しかしその永遠であることが絶大な歓喜であると説くのは少なくとも己にとっては赤の嘘である。己達は永遠にある。どれ程無くなろうと思っても無であることは許されない。死という有に変り得ても全然無くなることは出来ないのだ。己達には全宇宙は知ることが出来ない。しかし全宇宙は遂に全宇宙で己達は知らないでも、それは永久の同じい有であることは確かである。己達はその全宇宙の一部として永遠に有であることも確かである。己達は死ぬ。しかしそれは決して己達が考えるような死ではない。だから死んで苦しみが脱却されるわけではない。宗教家は苦を脱した解脱を説くけれど、その解脱というものは生に対する死、苦痛を脱したと思う苦痛に過ぎないじゃないか。苦痛という苦痛を神もしくは救済という苦痛と置き変えるだけじゃないか。要するにどうにもならないのだ。どうかしたいということとどうかしたという、それはたま/\名称を置き変えたに過ぎないので、本質は同じ変らぬことをやっているのに過ぎないのだ。人類が滅亡すれば己達はまた何か別なものになっていることだろうよ」
「また、いつもの君の哲学が出ますね、君の言うことは真理かも知れません。しかし僕はホイットマンの詩に歓びを感じることも事実です――それに、僕達は僕達以上の存在、神人もしくは人間神を予想し得ないでしょうか。例えば君の永遠の苦痛である生命も苦痛でないような――」
「馬鹿を言いたまうな。神人、人間神の苦痛が己達に分るものか。燃ゆる太陽を見たまえ! あの太陽が崩れる時が来たら、その破片から人間以上の怪物が生まれるかも知れない。神の国は苦痛の太極にあるのだ」
「――」
 宮岡は黙した。平一郎も黙していた。沈んだ尾沢の語調がひとり響いた。静寂をはた/\とかすれるような音のするのは雪が降り出したのであろう。火鉢の炭火は燃えさかって、ぱち/\火花を散らした。静かである。静けさは十分間ばかりも続いた。誰もものを言う気になれなかった。ものを言うことがこの厳かな静けさを汚すようで恐ろしかった。階下で足駄の雪をはらう音がしたのに、三人共助かったという風に顔を見合わした。ついで階段を昇る衣ずれの音が聞えた。それ程に静かな冬の深い夜であった。
「尾沢さん、いらしって?」静子が小さな声で言ってあがって来た。彼女の前髪に白い雪片が消えかかっていた。
「静子か」
「尾沢さん」彼女はぺたり尾沢の正面に坐った。彼女は笑わなかった。
「どうかしたのかい」
「尾沢さん、わたしと結婚して下さらない?」
「突然にどうかしたのかな」
「わたし銀行を出されてしまいましたの。――あなたのせいで。お腹ではもう時々動いていますわ」
「本当かい」尾沢は訊(き)いた。真面目だった。
「本当ですの」
「己は知らないよ」
 尾沢は冷やかに裁判官が審判するように言い放った。静子ははじめ真面目に受け取らないらしかったが、尾沢の冷やかな表情はそれを真面目にとらさずにおかなかった。静子の豊かな肉付の顔がはじめて蒼くなった。彼女は容易にものが言えないようであった。すると、超意識的に憑かれた人のような乾いた笑いが彼女の顔を歪めた。
「わたし、ここより行くところは無いのですから。今夜から泊めて頂戴! 半年やそこら遊んで生活して行く金は持っていますから」
 そう言って静子は羽織を拡げて尾沢に彼女の腹部を見せるようにした。
「もう五月ですわ」
 彼女の腹はよく見ると随分大きく膨れていた。尾沢は冷やかに視つめていた。
「己の子だというのかね」
「そうよ、あなたの子ですよ」
「あはははははは。…………………………………子が出来れば男の責任にしてしまうのかい。あははははは、尾沢が子持ちになるのか。あははははは」尾沢は虚しく笑いこけた。
 尾沢の家から烈しい吹雪の夜路を平一郎は帰って来ると母のお光が寝ずに待っていた。いつもなら彼女は寂しい顔をして平一郎を吐息と共に見るのであるが、今夜は彼女の顔は柔らいでいた。「平一郎、冬子さんがこの月末に久しぶりで金沢へ帰って来るそうですよ」
 それは平一郎にも意外な悦びであった。冬子が去ってから足かけ二年の歳月が経っていた。その間冬子の消息は時折ないではなかったが、東京日本橋の繁華な街の裏通りに、土蔵付きの小さな別宅を貰って、そこに婆やと小娘とに傅(かしず)かれて住んでいること、天野が隔日に泊りに来ること、天野の勢力の偉大なことなどより外に詳しい冬子の生活は知りようがなかった。一年半といえば随分短いようで、しかも平一郎母子には長い、変移の多い時日である。彼は冬子に会うのが恥かしいような切なさを感じた。お光はお光で苦しい独り子のための生活を振り返ってみた。冬子が去ってしまってから日々の生活に追われながら一日も忘れたことのないあの彼女一人の胸に秘めている「埋れた過去」の運命の秘密が、新しい苦痛と恐ろしさを持って甦って来た。(何という不幸な自分達だろう。)それにしても冬子に会えることは母子にとって悦びであった。
「一人で来るのかしら。え、母さん」
「いいえ」お光はためらって、「先方の、天野の旦那様のお供をして来るですってね」
「そうですか。それじゃつまらない」
(和歌子が東京へ嫁入った、そして今、冬子がやってくる。)平一郎は訳もなくそういうことを考えて、自分の行きづまった生気のない幽鬱な現在の生活を二人の前に羞じずにはいられない気がした。ああ、ほんとに、この同じ地上には和歌子もいれば冬子もいるのだ。どうして自分は立派な人間にならないでおこうか。彼には今のままで学校へ行くことが本能的に苦痛になって来ている。彼は自分はどうしたらよいのだろうと考えた。世界が暗くなって感じられた。彼は眠られない深夜、眼を開いたまま涙をこぼした。

 三月の三十日、ほんの二、三日のうちに暖かさを増した晩冬の太陽が街上を流れる雪どけの水に映る日であった。お光は寒気がするので離室で寝ていた。午後、赤々と太陽が障子に射しているのを夢心地で眺めていると、障子に人の影が映った。
「どなた」
「小母さん、わたしですの。冬子ですの」
「小母さん暫くでございました」
 障子が開けられた。冬子は長い間頭を上げなかった。
「まあ、おはいり。今日は寒気がしたものですから――」そして、お光は冬子と顔をあわした。涙がゆるやかに湧くのを止めるようにお光はにこやかに柔らいで、
「ほんとに、夢でないのかしら。でも、冬子さんは少しも変わらないで」と言った。
「小母さんも――」そして冬子は啜り泣きはじめてしまった。
 冬子は今のさき、春風楼の女達に会って心づくしの土産物などを差し出したのだが、皆がまるで異邦人のように隔って碌な挨拶さえしてくれなかった悲しさに胸が一杯になっているところへ、お光の変わらない静かな愛情に泣けたのである。
「ほんとに、ほんとに、いつまでも変わらないのは小母さんだけでございます」
(ああ、お光の胸にこそあの昔の故郷がある。)冬子は昨夜、天野と一緒に古龍亭へ着いたこと、二日ばかりこちらにいる筈のこと、どんなにこちらへ来ることを楽しみにしていたか知れないこと、しかし春風楼へ来ても皆があまりに無愛想で悲しくなったこと、でも「小母さん」に会えて嬉しいこと、東京の生活も決して楽ではなく、始終気苦労が絶えないこと、などをこま/″\言葉少なに話していたが、突然にお光の顔を見つめて、
「小母さん」と呼びかけた。
「何んですの」お光は微笑した。
「小母さんは天野の旦那様の奥さまによく似ていらしってよ!」
「どうして?」とお光は穏かに言いかえしたが、眼を伏せた。
「わたしがはじめて今いる日本橋の家へ落着いてから間もなく天子様がおかくれになったでしょう。あの御大葬の儀式をわたし日比谷公園の前――宮城の間近なんですのよ――に旦那様の会社の持地がありますので、そこで会社のお方と御一緒に拝まして頂きましたの。わたし、そのときは随分辛い思いを致しました。まるで旦那様と何の関係もない人間のように取り澄ましていなくてはならないのでしょう。夜も更けて、もう御霊柩が宮城を出なさろうという時分、ふと傍を見ますとフロックコートを着た会社の方の間に小母さんそっくりの女の方の顔が見えましたの。わたしはそのとき自分の眼の迷いではないかしらと思いましてようく見ていますと、その方は小母さんよりか肥っていて、小母さんよりか眼の怕い顔容(かおつき)で、小母さんよりか立派でだん/\小母さんに似ていなくなりましたが、あんまり不思議で傍の人にそっと聞いてみますと、小母さん、それが天野さんの奥様なのでした。――そのとき感じた水を浴びるようなすまないような情けないような妬ましいような心持は、わたし一生忘られません。それに小母さんにそっくりなんですもの、わたし何んと言って好いか分らない位、深い恐ろしさを感じたのでございますの」
 冬子はそれから、妾という生活の本当のどん底は頼りない寂しいものであること、今でもいつ捨てられはしまいかという不安の絶えないこと、社会的に常にある迫害と擯斥(ひんせき)が絶えないことを話した。
「何んだか、こう二年もお別れしていたような気がしなくなりましてよ、小母さん、何んと言ったらいいでしょう、ほんとに自分の母親に甘えているような気がしますのよ」
 お光は顔を伏せずにいられなかった。お光は自分の心に不可抗な不安と離隔と、一切を知るものの寂しさを感じて来たからだった。(天野の妻が自分に似ているのも無理はない。彼女は自分の同胞であるのだもの! ――そしてあの天野は自分の姉の綾子を抱く次の夜はこの冬子を抱いているのか□)
「小母さん、平一郎さんは?」
「何処へ行ったのか今朝から見えませんのです。わたしもあれのこの頃にはどうしてよいか困っております」とお光は日々の苦労を打ち明けずにいられなかった。お光は、平一郎が停学に処分されたことから、学校を厭がっていること、幽鬱で気が荒くなっていることを打ち明けた。
「どうしてよいかわたしにも分りません。ただ、あまり干渉がましいことをするよりか、なるべく自由にしとく方があの子の気象にも好いと思ってはおりますが、それに学資だって冬子さん、中学を卒業するまで続くかどうかさえが危ぶまれる位でしてね」
 お光はしみ/″\心配そうに話した。こうした苦しみは話するだけで、幾分軽くなるものである。冬子はお光の話を一生懸命に聞いていた。そして話の中途から、熱心さで瞳が輝きはじめた。
「小母さん、平一郎さんを東京へお出しになったらいかがでして? ――え、そうなさいましな、ね、小母さん」
「え?」とお光は眼を見はった。本能的な母親としてのみ動いていた意識がぱあっと展(ひら)けて、四十幾年の苦労を静かに堪えて来た全部のお光が冬子の言葉が意味する独り子の未来を洞察した。(決して平一郎を東京へはやれない!)
「そうなすってはいけないでしょうか。天野さんには坊っちゃまがお一人しかありませんですの。それで誰か一人、坊っちゃまのお相手をして、ゆく/\は杖とも柱ともなってくれるような人がいれば世話をしてみたいと仰(おっ)しゃっていらっしゃいますの。小母さん、平一郎さんならわたしどんなにでもして旦那様に申しあげますわ。わたしのお願いですから平一郎さんのお世話をやらして下さい」
(ああ姉を奪って行った天野、冬子を奪って行った天野、間接には兄を狂わせ夫を殺し、自分達の未来を保証する全資産を尽さしめた天野、その天野は今、また自分の独り子の平一郎をも奪って行こうとするのか。)不可思議な運命のはてしない曠野の道筋において「彼奴(あいつ)天野」が次第にまためぐりあわせ近づいてくる。
「小母さん、そうなすって下さい。いいえ、そうさせて下さいまし。暫くのお寂しいことは我慢なされば、そのうちに平一郎さんも大きくおなりなさるでしょうから。御自分の嫌な学校へ通わして置くのはわたしが考えても悪いことですわ。ね、平一郎さんを東京の中学へ入れなさった方がようござんしょう。――そのうちに半年も一年も経てば小母さんも東京へ出ていらっしゃるようになるとようござんすわ」
 明らかに冬子は昂奮した。(まだ娘であった時分に、誰一人頼るものもない自分の面倒をみてくれたお光でないか。)そのお光のために平一郎の一身の立つよう世話をすることは嬉しいことである。お光は冬子の言葉から熱烈な、峻酷な、運命の宣言を聞いた。破壊した平一郎の生活がこのまま過ぎて元通りになりそうに思われない。東京へ出して、大きな邸から東京の自由な学校へ通わしたならあるいは平一郎の心の傷も癒えるかも知れない。しかし、相手は「天野一郎」の「天野栄介」だ。自分達にとっては仇敵の「天野栄介」の世話になる? そういうことが出来ようか。しかも冬子の手から! 自分の同胞の夫(ああこの字に呪あれ)の妾から! 出来ない、出来ない!)
「小母さん、ほんとにそう決めて下さいまし。わたしに手柄をさせてやって下さいまし。平一郎さんだって可哀そうじゃございませんの。――それに大変失礼ですけれど、中学を出なさったあとまでも、しっかりしたおつもりもないのじゃありませんか。ね、平一郎さんのお世話をわたしにやらして下さいまし、お願いですの、小母さん」
(どうしたってお世話せずにおくものか)という決心が冬子に見えた。お光にはそれが(どうあったって汝の独り子を奪ってみせる!)と天野が宣言しているように見えた。
「平一郎に聞いてみましょう。冬子さん、そうより外にわたしも決心がつきません。もしあれが悦んで行くようでしたら、冬子さん、そうしたら、改めてお願いしますでしょう」とお光は言ってしまった。
(平一郎の運命は平一郎にまかそう)と彼女は思ったのだ。
 平一郎への土産を残して、冬子は夕景に春風楼を去った。平一郎が夕飯に帰って来たときお光は平一郎に留守中に冬子が来ていったことを話した。平一郎は寂しい顔をして何も言わなかった。お光は近頃平一郎がひどく痩せたのを今更のように見た。そして遂に上京の話はいわず仕舞にしてしまった。
 次の日の午過ぎ、平一郎とお光が食事をしていると、市子が、お光に平一郎さんを連れてすぐ古龍亭に来てくれとの冬子から電話だと知らして来た。お光は恐ろしいものにぶつかったように、慄えながら、重大な運命の岐れ路をはっきり見ながら、祈るように、
「平一郎、お前、もし世話してくれる人があったなら一人で東京へ行って勉強する気がありますかい」とたずねた。
「――?」
「冬子さんがね、お前が東京へ行って勉強する気があるなら天野という方に頼んでみるがどうかと話していたのですよ」
「――?」
「つまり天野さんのお邸に置いていただいて、学校へやっていただくのですからね」
「――僕、とにかく古龍亭へ行ってみましょう!」
「そう」お光はがっかりして喪神したように箪笥から新しい袴、羽織、袷を出して黙って彼の前に置いた。そして自分も着物を着替えてかなり遠い雪路を歩いて古龍亭へ出かけた。
 お光は門口まで来て、はいらなかった。女中は平一郎を鄭重に案内した。畳廊下を通って行くと、向うから冬子が微笑みつつ迎え出た。
「大きくなりなすって! もう平一郎さんはすっかり大人になってしまったのね」
 彼は笑った。そして(やはり美しい)と思った。
「天野の旦那様にあなたのことをお話ししたら、是非、会ってみたいと言われましたの。ね、よくはき/\とものを言わなくちゃいけませんのよ。――小母さんは?」
「どうしても中へはいるのは厭だといって肯(き)かないんです」
 十畳室は金台の屏風と色彩の燃えるような熾烈な段通とで平一郎にはもく/\ともれあがるような盛んな印象を与えた。彼はその室の中央に寝そべって、一人の女中に足をもましている天野を見た。彼は手をついてお辞儀をした。
「この人でございますの」と冬子が紹介した。
「お前は何という人かね」と天野は穏かに尋ねた。
「僕は大河平一郎と申します」
「学校は?」
「学校は――さっぱりだめです」と平一郎は言って、「今、中学四年を卒(おわ)ったところです」とつけ加えた。
 室内煖爐(ストーブ)の瓦斯の焔は青く燃え、熱気になれない平一郎は眩暈(めまい)を起こしそうでならなかった。彼はこの豪奢な生活の中に悠々と寝そべって自分に肉迫する巨人をじっと睨みつけていた。彼は生まれてはじめてこういう人間にあったのである。ある根強い圧力が彼を圧しつけようとして止まない。平一郎は自分の内部に超自然的にその圧力に抗してゆく力を感じた。(負けないぞ!)
「そしてお前は何になろうと思っている」
「僕は真の政治家になってこの不幸な世を済(すく)いたいと思います」
「世を済うには金が要るようだね」
「金――は要ります。しかし金は第二です。僕は貧乏でも――」
「貧乏でも済ってみせるか。あはははは、――東京へ来て勉強してみる気はないのかい。大河君」
「母さえ許せば僕は行きたいです」

 桜の蕾のあからむ四月のはじめ、平一郎は母に別れてひとり上京することになった。上野駅へは冬子が出迎える筈だった。(さようなら、母さん、御機嫌よう、僕は母さんの独り子であることを忘れますまい! ああ、ほんとに御機嫌よう! たとえどのようなことがあろうとも、僕は僕の志をきっとやりきってお目にかけます! ああ、ほんとに御機嫌よう)――平一郎は東京へ去ったのである。
「とう/\本当に自分一人になってしまった!」お光は囁いた。(姉を奪われ、兄を奪われ、夫を奪われ、冬子を奪われ、そして今また、平一郎をさえ奪われてしまった。)憎しみもなく悲しみもなかった。寂しさが静かに湧くのみである。そして、何んとも知らず、
「天野に勝つものは平一郎だ」と呟いた。
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     第九章




 早春の夜更けである。雪も降らず風も烈しくなかった。碧深の夜空は穏かに澄んでいた。その空の下に、東京。華やかな灯と暗との交錯を走る電車の中で、平一郎は今より彼に開かれる新しい生活と新しい人間に祈りを籠めた。量り知られぬ人間力の大潮、大いなる都会は未来を蔵してどう/\と永遠の騒音を響かしている。車窓からは高層な建築、広い道路の石畳、街路樹の濃い常磐葉、電燈と瓦斯の赤光白光の入りまじり、行き交う市民の群、自動車の攻撃的で威嚇するような探光と轟音。何んというすばらしい豪壮さだ! こう彼は思って傍に坐っている冬子の横顔を見ずにいられなかった。この大都会の只中に自分の知っているのはこの冬子一人であるのだと考えながら、多くの昇降する婦人達の中で冬子の端厳な美しさが少しも落ちて感じられないのを誇らしく思った。(東京へ来たって冬子はやはり美しく――自分だって、たかが…東…京――)市街の中央地らしい、両側の建築が宏壮で威厳と重厚を現わしている、その屋並の深い水色に荘重な五層の石造建築を冬子はそっと指さして、「旦那様の会社よ」と言ってくれた。やがて車掌が「M街三丁目」と呼ぶ声がした。平一郎と冬子はそこで下りた。平坦な大路に早春の微風が暖かく吹いていた。平一郎は黙って冬子の後について歩いた。卵黄色の陶煉瓦の四層の貴金属商の建物が赤い煉瓦の貿易商会と対(むか)い合っている横路、その横路には格子戸をいれたしもたやや土蔵造りの問屋が並んでいた。横路にまた細い横丁があった。その小路の一筋へ、溝板(どぶいた)を踏んで冬子は入った。右手は高い黒板塀で、左手に、路の中ほどに新しい精巧な格子戸を入れた家の軒に電燈が灯いていた。冬子は「ここですのよ、わたしの家は」と言った。
「玉や、いるの、お留守番御苦労様」
「はい」と上り口の磨硝子のはいった障子を十七、八の女中が開けた。
「お帰りあそばせ。随分待ち遠しうございました。御新造様」
「そう、御苦労だったわね」冬子について平一郎もあがった。上り口が三畳でそこは押入らしく襖になっている。次の室が八畳でやはり押入らしく襖がとってある。平一郎は黙って三畳に佇んでいた。
「玉や、すぐに鴨南蛮を四つ言って来ておくれ」
「はい」
「それから、旦那様はまだいらっしゃらないかい」
「はい。今日は少し遅くなるかも知れないってさっきお電話でございました」
「そう」
 玉は外へ出て行った。平一郎は八畳の明るい部屋に出て、一体「電話」が何処にあるのかしらと部屋中を見廻した。電話らしいものは見えなかった。ただ、部屋中があまりに磨かれ、調度が精巧すぎ繊細すぎて、大らかな感じが少しもしないのを認識した。彼は小さい光った長火鉢の前に冬子と正面に向い合って、さてどうしたものか(気の毒さ)を感じたのである。彼が感じたはじめての感銘が(気の毒さ)であったとは。
「ここは貴方のお住居ですか」と平一郎は思わずたずねた。
「ここ? そうですの。どうして?」
「随分狭いですね」
「そう、随分狭いわね」冬子は微笑して、「まだこの後ろにね、大きな家があるんですのよ。ここはほんのわたしの寝所ですの、ね」
 冬子は囁くように話したが、あたりがあまりに静寂で、高く響いた。今のさき過ぎて来た都会の騒音はなかったことのようにここへは響かなかった。都会の中央の激しい渦巻きの中にこのような静かな空間と時が潜んでいることを知る人は知るであろう。冬子は茶を入れたり菓子を出したりした。平一郎は空腹を感じていたのでその菓子を残らず食った。
「腹が空いてしまった」平一郎が言ったので冬子もこれには吹き出してしまった。そしてこの偶然な笑いが、平一郎が上京しない前からどうしても平一郎にゆっくり了解させて置かねばならないと思案していたことを自然に言い出す機会となった。
「お腹が空いて? 今すぐ玉がお蕎麦を持って来ますからね。それよりか平一郎さん、わたし少し平一郎さんに承知して戴いて置きたいことがありますのよ――」と冬子ははじめた。彼女は伏目になって、言葉の切れ目切れ目に平一郎を真率(しんそつ)に見上げた。
「こんなことを言わなくても平一郎さんは何もかも承知していらっしゃるでしょうけれど――わたしという人間はつまりこの世に生きていないものと常々思っていなくてはいけませんのですよ。わたしは天野の旦那様のかくし女(め)――ね、分ったでしょう。そのわたしが平一郎さんをお世話するということは、出来ないことでしょう。生きていない『幽霊』が人のお世話をすることは出来ないはずですわね。それで今度も表向きは平一郎さんをお世話したのは、同じ国から出なさった奥山さんのお世話という風になっているのですからね。その辺の弁(わきま)えをよくして戴かないとわたしも平一郎さんも旦那様も奥山さんも皆が途方にくれるようなことが起きるのですから。――分ったでしょう。冬子という人間は居ないものと思っていて下さればよいのです」平一郎は冬子の言葉に悲しい感情を得た。「天野様のお邸には若様と奥様と女中さんが五人ばかりと爺やさんがいるのですから、下々の人達に憎まれないように、奥様や若様にも一生面倒を見て頂く気でなじんでゆくようにしてね、――そうでしょう、若様はたしか慶応の理財科へ行っていらっしゃるのですから、仲良く勉強なすって、ね、――いまに旦那様の片腕になるようにならなくちゃ、平一郎さん、いけませんのよ。ほんとに旦那様のお骨折といったら大したものなんですから、ね」
 自分は、頼りとする冬子の生存を常に否定していなくてはならない。そしてその冬子は、天野の愛する女であり、自分はその冬子の世話で天野の邸にはいって天野の世話で学問するのである。そして邸の天野の夫人や息子には冬子の生存をまるで知らないものとして虚偽を犯し、同時に彼等と一生を共にする覚悟で親しみ合わなくてはならない。――そうした複雑な虚偽と真実をよりまぜた芝居じみたことが自分に出来るであろうかという疑迷が黒雲のように平一郎の心に湧いて来た。彼は当惑したように冬子を見上げた。冬子の瞳はうるんで涙を湛(たた)えていた。彼は首を垂れて沈黙した。冬子も黙ってしまった。静けさが二人には恐ろしく感じられて来た。ほんとに自分達は危い険しい路に深入りして来たのでないかと思われた。しかし後戻り出来る運命でない。善いにしろ悪いにしろ進むより外に道のない自分達である。彼はこのとき、金沢を去るときの母の「秘密の戒め」を想い起こした。
 母は言った。「お前の先祖は金沢の街を離れた大川村の北野家という豪農であったのだ。それがわたしの兄の時代に滅びてしまったのである。またお前の父もお前の幼い時になくなってしまったが、父は常に多くの人間のために働きたいと考えていた人であるが、中途で死んでしまったのである。お前は自分一人の手で育てられて来たので、世間でいう(女親育ち)であり、(貧乏人の子)である。お前は世間の人に、滅びた北野家、亡くなった父、またお前のために一生を捧げているこのお光の意思と力が、たとえ貧乏人の子でもその貧乏や悪い境遇に克ち得ることを示す責任がある。――それからもう一つは、常に右のことを精神の根本に沈めていると同時に、お前は天野の家へ行っても決して母の生地が大川村の北野家であることを明かしてはならない。母は金沢の生まれであると信じさせなくてはいけない。また父は山国の人間であると言わねばならない。この二つのことを心の根に据えて一生懸命勉強して、お前が常々言ってるように『真の政治家』になることを母は(生命にかけて)祈っていよう――」
 こうした「母の戒め」に今また「冬子の戒め」が重なるのである。幾重もの秘密、幾重もの「見えざる運命」の重荷を負わねば生きてゆかれぬ自分。平一郎は暗い気にならずにいられなかった。まっくらな闇に迷いこむような佗(わび)しい気が平一郎に起きた。無論、そうした「迷い」のもう一つ底には充実した輝かな力が根を張ってはいたけれど。
「旦那様の力をいれていらっしゃることはそれはもう大したものなんですから。もう御自分で学校まで探して下さっているんですから、平一郎さんも少し苦労なことがあってもそこは忍耐して下さるでしょう、ね。わたし達のように十分な家庭に生まれなかった者はどうしたって一度は辛い涙を噛みしめてじいっと忍従していなくちゃならないのです。それは辛いことが多いのですよ。死ぬよりも辛いことがあるのですよ。それをじいっと忍んでいるうちに、平一郎さん、人間の骨が鍛えられるのじゃなくって? ね、わたしだってはじめて悲しいということを知ってからもう十年近い年月が経っていても、未だに毎日泣かない夜はないのですものね。本当に平一郎さんは羨ましくてなりませんのよ。男に生まれて来たことは何よりの光栄じゃなくって? 暫くの間の辛い忍耐を土籠りをしていれば、時が来れば世界中を相手に晴々しく暮らせるのじゃないの。ね、ほんとに平一郎さんはいまにえらい政治家になってわたし達のように貧乏なため辛い苦労をして一生を終らねばならないようなもののないように救って頂戴」
 冬子の瞳は涙ぐんでいた。低声に語る言葉の一つ一つには彼女の生涯の悲しみが浸みついていた。平一郎は崇厳な美しさを冬子に感じた。冬子がこの美しさを見せることは珍しい。それは人間の最高の美である。平一郎は冬子に潜む熱情を全身で受け容れた。暗い「迷い」が払いのけられて、青年の浄い情熱が内から白光を放って充溢しはじめて来た。(ああ、何を恐れよう。恐ろしいものがこの世に在り得ようか。自分は母と父の秘密を守る。自分は冬子を自分の魂の奥深くに湛えている。自分は天野氏に対して尊敬と親愛の情を深くしよう。自分は天野氏の妻子に対して純情をもって接しよう。そうして自分は一生懸命勉強するのだ。恐ろしいのは勉強しても実のある勉強を忘れることだ。恐ろしいのは成長の後に真に人間を救う大政治家になる志を失うことだ。ならずにはいられない。ああ、自分はどうあってもこの地上から不幸な人達を根絶して、自分のために力を尽してくれる人、自分を愛してくれる人、母や、冬子や、また、和歌子や深井の喜ぶ顔が見たいのだ。さらには自分自身が自分に向って、よく生れ甲斐があったと言いたいのだ。ここまで出て来た自分である。自分はあくまで清純で正直で全力的であろう)平一郎は想いつつ黙した。
「もうこうした話は止しましょうね。何もかも承知していらっしゃるでしょうから。今夜は疲れていらしっても少し我慢して下さいね。旦那様に会って少しお話ししてた方がいいでしょうから。そして二、三日ここで方々見物してから、奥山さんに連れ立って高輪のお邸へいらっしゃった方がいいでしょう。――お玉はどうしたのかしら。随分遅いこと」
 静けさが黙せる二人に迫った。平一郎は冬子にこのように沁々(しみじみ)と物語られるのははじめてであった。彼は冬子と彼との間にあった「大人と子供」の隔てが全くとれてしまったのを感じた。母に対する心持でもなく和歌子に対する心持でもない、和歌子と母とを一緒にした心持である。その時、上り口の三畳の押入のあたりでこと/\戸をたたく音がして「御新造さま、すみませんがちょっとあけて戴けませんでしょうかしら。御新造様」とお玉の呼ぶ声がした。冬子は立ち上がって、「表から来たのかえ」と言いつつ三畳の片隅の押入のようになっている三尺戸を引くと、お玉が「どうも相すみません」と出て来た。
「隠れ道なんですのよ、平一郎さん――そこからは旦那様の別邸なんですの」と冬子は笑ってみせた。色の白い、頬の林檎のように張ったお玉は、重そうに大きな鴨南蛮の丼をそこへ下ろした。冬子はお玉にも一つをすすめ、平一郎にもすすめた。平一郎は二杯目の蕎麦を食い終わったとき、冬子の隠家と天野の別邸との「秘密の道」から、一人の五十を越した品のいい女の人が現われた。彼女は襷(たすき)をはずしてきちんと手をついて坐った。
「御新造様、お帰りなさいまし。――平一郎さんはこの方でございますの。よくいらっしゃいました」
「田舎をはじめて出て来たんですから、小母さん、また面倒を見てやって下さい」
 眼の細い人のいいらしい正真の江戸っ子であるお芳は、会社の小使をしていた太助と一緒にこの別邸に住っているのであった。女中のお玉はお芳と太助との間に出来た一人娘である。――これは後に平一郎が知ったことである。
「旦那様はまだお帰りじゃなかったかえ」
「はい。さっき電話をおかけなさって今夜は少し遅くなるかも知れないから、風呂を沸かして置いてくれろって仰しゃいましたので、さっきから太助が湯加減をしてお待ちしておりますが、まだお見えになりませんようでございます。何んなら御新造さん、一風呂お先きに使いなすったらいかがでございます」
「わたしはいいけれど――」と冬子は平一郎を見た。彼女は平一郎に使わしたいと思った。が言い出さなかった。平一郎にそれが分った。四人は平一郎を中心に他愛もない世間話に時を過し始めた。平一郎をお芳小母さんによく思わせようとする冬子の密かな努力、純粋な江戸生まれで気立の美しい小母さんのおい/\に傾く好意、若い有望な異性として平一郎を認めるお玉の微笑や可愛いその場かぎりの色眼、それは或いは平一郎に浅ましい気を感じさせ、或いは悦ばしめ、或いはくすぐったくもあらせた。そして、底には遠い旅に出ていることの寂しさが絶えず流れた。
 十時を過ぎ十一時になっても天野は帰らなかった。そのことで、冬子があるたとえようのない不安に苦しめられはじめたのを平一郎は知った。冬子のこの不安を感じることは浅ましくてそして「気の毒」なことだった。そしてお芳やお玉が冬子に対して示す一種の同情と慰めは、平一郎には敵意より苦痛で屈辱だと感じられもした。
「どこかへお寄りになっていらっしゃるのじゃないでしょうか」
「そうね」と冬子は静かに答えた。そしてお芳に、「夜具は一揃い出ているはずだね」と言った。
「はい、出ております」
「今夜はなんですから平一郎さんを先きに休ませようかと思いますの。――お玉、お前さん二階へ床を敷いて下さらない?」
「その方がようございますわね」とお玉は答えて、茶の間の押入のようになっている襖をあけた。そこには二階への階段がついていた。平一郎は冬子の家の造作が何処までも秘密じみているのに「気の毒さ」をまた感じた。
(こうまでしなくては生きられないのか□)
「床をしきましてございます」
「そう、じゃ平一郎さん、今夜はゆっくり寝(やすみ)なさったらいいでしょう。明日の朝旦那様にお目にかかることにしてね」
「ええ、じゃおやすみなさい」
「おやすみなさい」
 平一郎はお玉に導かれて狭い階段をのぼると、そこには新しい、床と戸袋のついた赤壁の十畳の一室が開かれていた。床の置物や部屋の造作や重厚な趣味からが黄金を惜しまないで建てた部屋であることは推察された。お玉は「お休みなさい」と言った。
「ここは平常使わないのですか」と平一郎は思い切って尋ねた。
「ここはね、旦那様と御新造様が日曜の昼などお話しなさる部屋ですの」
「冬子ねえさん――」と言いかけた平一郎はあわてて、「御新造さんはいつもここで寝(やすみ)なさるんですか」と訊いた。お玉はにこやかに笑って、
「旦那様のおいでにならない日はここでおよんなさるの。旦那様のいらっしゃる夜は、さっきわたしが出て来たでしょう、あのお邸の二階でおよんなさるの。ね、分ったでしょう」
 お玉はさらに「お休みなさい」と言って階下へ下りて行った。平一郎はシャツ一枚になって絹物の蒲団の中へ潜りこんだ。芳しい甘美な香料の匂いが、蒲団の中から匂ってくる。彼は電燈を消した。遠くの方で電車の響きらしいものが聞えた。彼は母のことを想い起こした。別れて来るとき、あの汽車が動き出したときの悲しい涙が彼に再びめぐまれた。涙を流し、ほんの僅かの間であるが、冬子の「妾としての生活」が苦しいものであるように思われてならなかった。(一体天野は本当に冬子を愛しているのだろうか。冬子は本当に幸福なのであろうか? ……幸福だとは思われない!)
 早春の朝、平一郎は目覚めた。彼は母を求めて、そこにむずかる独り子の自分を揺すって起こす慈母の愛を求めて無意識に手を伸ばしたが、手答がなかった。窓の硝子越しに射す早春の覚束ない光が薄らに彼を照した。平一郎の魂が空虚に驚いて目を開いたのだ。(ああ自分はもう母を離れて遠い旅に来ているのだった。)彼は全身一種の緊張と霊感と寂しさに奮いたった。
「平一郎さん、もうお目が覚めなすって?」と玉が来た。
「お早う」
「お早うございます」平一郎が着物を着替えているうちに玉は床をあげてしまった。階下には冬子は見えなかった。玉は飯台をだして平一郎に朝食をすすめた。小さい台所の瓦斯鍋に味噌汁がたぎっている。彼は大嫌いな濃いどろどろの味噌汁をすすった。彼が朝飯をおえたところへ玉が呼びに来た。三畳の部屋の「秘密の道」から別邸の庭園わきの廻廊に出て彼は座敷に導かれた。一もと深く庭園の地に根を下した松の樹は、太陽の光熱を慕うように屋根の上に伸びあがっていた。部屋は八畳だった。次の六畳も(そこは前蔵になっていた)明け放されて、かなり広い贅沢な段通や屏風や柔らかい蒲団類の豊饒の中に、かの天野栄介は伸びやかに身を横たえていた。かつて金沢の古龍亭で受けた豪勢な威圧的な力は感じられなかったが、ゆたかな頬、高い額、額と頬を統帥するように高くのび/\と拡がった鼻、――口と瞳はこの朝は柔しく、はる/″\故郷を出てきた少年を見戍(みまも)りいたわっているようだった。お辞儀して、自分の面倒を見てくれようとする、この巨人(頭髪や頬にはまばらに白毛が交っている)から「温かさ」を感じたく思った。冬子は部屋には見えなかった。
「もっとこっちへおはいり」
「はい」平一郎は敷居を越えて彼に近寄った。玉は平一郎に座蒲団をすすめた。平一郎は敷かなかった。天野は軽く「おしき」と言った。それが決してわざとらしいのでなく、真実平一郎を天野と同等に待遇する意志から生じているらしかったので彼はしいた。ついで玉が茶と菓子をもって来て、去ってしまった。五十近い天野と十七の平一郎とは暫く黙して対(むか)い合っていた。
「よく来たね」
「思い切って来ました」
「お前の母さんは泣きはしなかったかい」
「いいえ、母は早く行くがいいと申しました」
「そうか、あはははは。お前は大きくなって政治家になるのだったね」
「そうです」
「お前はそうして世を済おうと思っているのだったね」
「そうです」
「わたしもお前の年頃の時分には一流の大政治家になるつもりだった。ただわたしは世を支配したかった。違うのはそこだな。あははははは」
「――」
 平一郎は何故か天野を崇拝し親愛の情に充たされたい欲望と神秘な深い敵意とを同時に感じて来た。
「わたしはお前が志をとげるよう出来るだけの力を尽しましょう。わたしはお前を自分の真実の子のようにも思いましょう。しかし、お前も苦しかろうが、お前はわたしの邸の書生という形式でT街の邸で学生時代を暮して貰わなくてはならない。わたしには綾子という妻と、乙彦というお前より一つ年上の息子がいる。お前はわたしを信愛してくれるならこの二人に対しても相当の奉仕を心がけて貰いたい。――しかしこれはわたしが強いるのではない。すべてお前の自由な意思に任しては置くのだ。え、平一郎」
「はい」
「それから学校のことだが、わたしが青年時代のある時期――馬鹿な夢のような時代を過したM学院、あすこは自由でお前の性格にもふさわしく、邸からも近くてよいと思うが、それともお前に望みの学校があるかね」
「ありませんです」
「とにかくお前はお前が今燃ゆるように感じている志をのべるように全力を尽してくれればわたしはそれでよい。ただお前が多少心得て置いて欲しいことは、天野の家にはわたしの外に妻と子がいるということだけだ」
「分りました」
 平一郎は全身に異様な震撼を覚えた。光と暗の強猛な交錯だった。はじめ彼はこの一人の巨人に、「お前が志を遂げるよう出来るだけの力を尽しましょう」と言われ、「世を済おうと思っているのだったね」と言われ、そこに光と悦びに輝く親愛を覚えたのだ。しかし彼の内深のところでは、「わたしは世を支配したかった!」「わたしを信愛するなら相当の奉仕を心がけてもらいたい――」という同じ天野の言葉を見逃すわけにはならなかった。「世話はしよう。その代りに汝は奴隷であれ!」こう言っているのではあるまいか。
「この自分をそうさせようとしたってそれはだめだ!」平一郎は内心叫んだ。(救って頂戴、平一郎さん)と冬子の言葉が響く。――平一郎は天野をみつめた。
「玉」と天野は呼んだ。玉は両手をついてあらわれた。
「太助と芳を呼んでくれないか。そして冬子は土蔵でまだ何をしているのかね」
「御新造様は旦那様のお召物を捜していらっしゃいます」
 やがて太助とお芳が縁側へ現われた。太助は頭の禿げた頑丈な、それでいて垢ぬけのした五十男で、細っそりしたお芳とはいい夫婦であった。二人は平一郎に頭を下げた。平一郎も「どうぞよろしく」と言った。
「平一郎も遠いところから来たのだから、またお前達の方でお世話になることだから」
「いや、もう旦那様が仰しゃるまでもござんせん」と太助は禿げた頭をなでたが、顔は柔順と真情を表現していた。平一郎は、絶対的にお芳夫婦も玉も冬子も信順してしまっている天野のこの王国のうちへ今、自分自身が身を入れたのだと思った。この王国ではすべての人が「天野のために」生活しているのである。蔵前のがら/\戸をあけて冬子が衣類を手に捧げて出て来た。彼女は寂しげに微笑んだ。
「平一郎さんもうお目覚め? 昨夜、旦那様がお帰りになってから二階へ行ってみると蒲団をかぶって寝ていなすったのね」皆がしめやかに笑った。
「二、三日、見物がてら疲れ安めにここにいらっしゃるといいでしょ」
 半分平一郎に半分栄介に冬子は言った。栄介はうなずいた。冬子が平一郎を見た。その視線が彼にもうここを去るべき時であることを知らした。彼はみんなに会釈して廊下伝いに冬子の「隠れ家」に帰った。彼は二階の座敷一杯に仰向けに寝転がって遠雷のような電車の轟音と薄らな早春の日射しとの交錯を感じていた。そうしているうちに淡い夢の追憶のように天野に対する敵意が彼の意識に現われて来るのは不思議だ。彼は彼の一生に力を尽そうとする天野の恩義を思って自分の心を疑い、根拠のない妄想を消そうとしてみたが駄目であった。訳の分らない、はてしのない、口惜しい淋しさが滲み出て来る。それは堪えられない淋しさだった。人類生誕の劫初より縹渺(ひょうびょう)と湧いて来るような淋しさだった。平一郎はその淋しさを噛みしめながら、天野の「妾宅」であり、冬子の「家」であるところで三日間を過ごしたのである。
 その三日間は平一郎に冬子の生活が決して「思っていたように」幸福でもなく自由でもないことを知らしてくれた。彼女は実に「妾」であったのだ。天野は自分の経営する会社と高輪にある本邸とが離れているという理由のために、会社に近いこの町に別邸を設け、そこに隔晩毎に泊るのだった。別邸はつまり妾宅である。そして太助夫婦は十数年来の天野の腹心の家来で(太助はもと会社の小使、お芳はもと高輪の方の邸の女中であった)外部へは協力して冬子をかばっていたが、同じ協力の力は、「御新造様、御新造様」と礼儀と親愛をもって傅く裏に、絶えず「天野の代り」となって厳しい監視と干渉を固持するのである。恐らく冬子が天野を愛しているように天野は冬子を愛するのであろう。ただ天野の愛は同時に絶対的な支配を要求することである。冬子は捕えられて飼われる小鳥のように、生活には困らないが、しかし不自由で、真に孤独で、「道具扱い」をされていた。平一郎は、天野の来ない夜、はじめて見た東京の市街の話や、故郷の話、お光のことを語りながら、懐かしさに夜の更けるのを知らなかった。平一郎は冬子がやはり昔のように美しくて、気稟(きひん)があって、荘厳で、淋しそうであるのにどんなに悦んだかしれない。そして、平一郎は(冬子も)、もっと寛やかに、意識を渾一にして話したくてならなかったが、しかし何故かそれをさせない、冬子との話にある隔たりを強いる「無言の意志」が家一杯に充満しているように考えられてならなかった。「汝等は自分の奴隷である。汝等は自分の言葉の喇叺(ラッパ)であれ、汝等は汝等自身の天性を滅却して跪け」と大音声で叫んでいる精神が感じられた。お芳やお玉が用もないのに絶えず出入するのだ。そして監視の眼を光らすのだ。その光らせる源には「天野」がいる!
 ああ、何んという孤独! また淋しさ! あのように立派で美しくて名妓とまで言われた冬子、その冬子が今はとう/\天野に支配されて、「別邸」に幽閉される囚人であろうとは!
「救って頂戴、平一郎さん」冬子の嘆きと念願が平一郎に聞える。平一郎はこれから天野の邸へ行こうとする自分もまた「囚人」になるのではあるまいかと考えてみた。
「この自分を虜(とりこ)にできるならしてみるがいい! 己だけはならないぞ!」
 四日目の午過ぎに奥山という四十二、三の背の高い男が来た。彼は平一郎と同じ金沢の生まれであった。冬子は彼に「どうぞよろしく」と会釈した。奥山は莨(たばこ)を吹かしてお世辞を言った。平一郎はこの厭な見知らぬ男の「身内」となって天野の邸へ行くのを厭なことだと思った。しかし彼はまた思い返した。「何も修行である」と。

 お光が金沢にひとり四十年の「埋れたる過去」を潜ませて淋しく居残っているその「過去の運命」を誰も知らなかった。天野も知らなかった。冬子も知らなかった。また天野の妻であるお光の姉の綾子も知らず、平一郎自身も知らなかった。彼等は遂に人間であるが故に、人間は遂に自分の真の運命には無知であるが故に。天野は冬子のため、また自分の息子が不良少年で後継者とするに足らないと考えて、冬子はお光への「恩返し」として、また一生自分には子が恵まれないことを知った頼りなさも加わって、天野の妻の綾子はどう考えたかは分らないまでも現在自分の甥であり、その昔、処女の一心に恋い慕っていた恋人大河俊太郎の忘れ遺子(がたみ)であろうとは知らなかったであろう。そして平一郎もまたこれらの事実には無知であった。彼にはただ神聖で荘厳で、熱烈な燃ゆる意思があるのみである。その意思こそは万人の心に響き万人を救おうとする意思である。万人のために僕(しもべ)とならん意思である。
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     第十章




 ほか/\と暖かさの感じられる四月初旬の午後は暖かだった。(一度でもこうした人間に頭を下げなくてはならないとは辛いことだ。)涙のにじむ瞳に、品川の海が黒藍色に輝いて映る。そこは東京もかなり中心を遠ざかった端っぱであった。欲求が広大な私有地と宏壮な邸宅を必要とする「富」の占有者達は止み難い欲求を高台の新しい土地に充たしていた。霽(は)れた穏かな青空には浮雲一つなく、平坦な大道が緩い傾斜をなして新開の空地と高い煉瓦塀との間にひらかれている。空地には地均(ぢなら)し工事の最中らしい切り倒された樹木の幹や泥のこびりついた生々しい木の根が春の日に晒(さら)され、深い杉林の陰影が半分あまりを暗くしている。奥山はステッキをふりながら、その杉林の中が明治維新の時分に徳川幕府を倒すに勢力のあったM公の邸であると知らしてくれた。緩い傾斜を中程登りつめると、黒板塀に西洋式の庭園の樹木の茂りの蔭に赤い壮麗な煉瓦の宮殿が聳えて見える。尖塔の窓の橙色の綸子(りんず)の窓掛に日の映るのさえが明らかに見える。Kという皇族の御殿であると奥山は知らしてくれた。青い空が永遠であるかのように美しくその上に輝いている。平一郎は哀愁を感じて来た。何故の哀愁であるかは分らないが、M公の邸を囲むセメントの塀を越えて深い森林の樹葉が路上に掩い被さっている街角から左に折れる暗い狭いやや急な坂路が続いている。奥山は「ここを折れるのです」と言い、M公の邸の対(むか)い合う竹藪をO子爵の邸だと教えた。春の日も杉林と竹藪に囲まれたその路上には射さず、寒い程に寂しかった。坂を登るにつれて陰鬱な樹林の間に薄赤い咲き乱れた桜の雲が美しく見えたとき平一郎は「ここだな」と直覚した。路上には、板塀の外へ枝を伸ばした桜の花弁が白く散り敷いていた。坂を登りつめて右手の街路には高雅な板塀が続いていて、大きな鋼鉄の門に「天野栄介」と門標が打ってある。傍の通用口を入ると花崗岩(みかげいし)を敷きつめた路が両側の桜の樹の下を通じている。玄関の横の格子戸を開けて奥山は案内を乞うた。女中が出て来て、「あ、奥山さん」と言った。
「奥さんはおられますか」
「はい、御在宅でございます」
「そう」と彼は靴を脱いで平一郎を忘れたように置き放しで奥へ入ってしまった。平一郎は拭き磨かれた上り口に腰かけて航海者が空模様を案じるような不安を感じていた。格子越しに見える桜樹の下の犬小屋を瞶(みつ)めながら自分の上京が取り返しのつかない失敗のようにも考えられたのだ。「大河さん、奥さんがお呼びでございます」顔の平たい細い瞳の奥に善良さが微笑んでいる女中が呼びに来たので彼はついて行った。十畳の茶の間には奥山が洋服のままで正坐して何かを喋っていた。「何分まだ中学を卒業しない少年でございまして――」
「ほんとに何故もっと早く連れて来ておくれでなかったい」と言う声は、重みがあり、ほがらかで、偉大な響きをもっていた。平一郎はその声を聞いたひととき自分の素質に微妙な索引力を感じて思わず座敷へ進み出た。
「はじめてお目にかかります」と頭を下げ、火鉢を前にして坐っている夫人を正視したとき、彼は驚きのために、そうしてその驚きがあまりに急激で深く、凝結して、身動きがならなく感じた。彼は夫人に「母のお光」に生き写しの女を見たのだ! が、それは一瞬間のことで、平一郎が全力で綜合的に受容れた深い印象であった。人の生涯にあるかなしの本質と本質との照合だったのだ。彼は自分を疑うようにもう一度彼女を見直した。そして最早「母のお光」でなかった。お光とはまるで違った立派な女――背丈ののんびりした豊かな黒髪、やや脂肪のかったつや/\した皮膚と肉付のしっかりした男のような身体、切れ目の白刃のように凄艶な瞳、透き徹った鼻筋、品の好いふくらんだ鼻付、肥えた下唇、緩やかに垂れた顎と頬、血液の美しく透る耳朶――立派な女だ。偉大な天野夫人として恥かしくない充実した威厳と偉大性に輝いている。冬子のもつ美しさにはどこか陰性な淋しさがつき纏っているが、これは何という盛大な相であろう。平一郎は自分の母のお光の瘠せた有様を回想して、かりにも「母だ」と思えた自分の幻像を不快にさえ思った。しかし、驚いたのは平一郎のみではなかったのだ。ああ、同じく黙りこんで目をみはった綾子の深い魂の動乱を誰が知り得よう。生涯のいかなる時も忘れたことのない愛した男の「生き写し」を思いがけない平一郎に見出そうとは! 中庭の泉水に緋鯉の跳ねる音がぴっしゃり聞えた。「お前さんですかえ、平一郎さんは」
「はい、大河平一郎と申します。はじめて、お目にかかります」平一郎は答えながら何故か虚偽を自分は言っているのではないかという障礙(しょうがい)を内部に感じた。(何度もお会いしたような気がします)ああ、久し振りだったと、生を超ゆる幽かな遠い心内から言うものがあった。
「大河……」と綾子は小さく呟いて、平一郎を抱きすくめるように凝視した。白刃のような切れ目の長い瞳が円く大きく輝いて平一郎に迫って来る。複雑な思想が瞳の奥で奔湍(ほんたん)のように煌(きら)めき、やがて一束の冷徹な流れとなって平一郎を瞶(みつ)めるのである。
「母御お一人だというんでしたね」彼女は奥山に口先だけでたずねて平一郎を見つめていた。
「そうです、母一人子一人でこれまで生活して来ていたのですが、どうにも十分な教育が出来かねるというので、わたしが知り合いなものですから、こちらの御主人にお願いしたようなわけですので――」
(嘘を言っているな)と平一郎は浅ましい気がしてうつむいた。
 綾子はよくも聞かないで今度は平一郎に尋ねた。
「母さんはどんな方? なんという方?」
「母は光と申します――」と彼が言ったときの綾子の異常な感動は平一郎に生涯忘れることは出来まい。外部へ発すべき驚きが内部へ侵入して、複雑な彼女の内面生活へ脈々と波動して行く有様だ。夫人は灼きつくような瞳に非凡な彼女の全力を集中して平一郎を身動きもさせなかった。そして無言は彼に次を語ることを促した。彼は「母は今年四十で――」と言いかけたとき電光のように母の訓戒が閃いた。一大事であった。「母は金沢の生まれでございます。父は小さい時に死に別れたので何一つ記憶していませんがKという港の生まれだそうで、何んでも母の養子であったそうでございます」彼も一生懸命だった。宣言するように彼は強く述べずにいられなかった。彼自身自分の言うことが実在性をもつ真実のように考えられる程一心だった。綾子は疑うように瞳を動かしたが、崖の上から深淵を覗きこむ人のように瞳を落として「そう」と言った。そして、彼女は再び平一郎を見ることを恐れるように、「粂や」と女中を呼んだ。十六、七の円顔で人形のように色白で愛らしい粂は白いエプロンで手をもみながら廊下に跪いた。
「この間言って置いた玄関のわきの四畳半はよくなっているかえ」
「はい、すっかりもう出来ております」
「じゃ、大河を案内しておくれ」と綾子は辛そうに言った。

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