地上
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著者名:島田清次郎 

 廓もしばらくの間に寂(さ)びてしまった。広い路に立並ぶ宏壮な屋並には、喪章に掩われた国旗がどんより澱んだまま動かずに垂れていた。三味の音も鳴物の響も聞えなかった。ただ真夏の強烈な日光がじり/\と照りつけて、この人間の弱小を静かに見下ろしているような圧迫を与えた。春風楼もめっきり寂びて来ていた。女将でさえが、夏の身体のどうにも持ちようのない昼など、よくお光のこつ/\仕事をしている六畳の部屋へ何ということなしにねそべりに来た。杉葉の緑蔭を受けてこの家では一番涼しいお光の部屋は昼寝をするによかったせいもあろうが、そればかりとも言えないものがあった。お光は、自分の十数年来の生活のゆえに、崩御のことに対しても、静かな哀しみを感じこそすれ、今更のように驚く必要は少しも感じなかった。それは死に対する用意が無意識のうちに出来あがっているためであろうか。彼女は心底から「おいたわしいことでした」と思った。そしてあきもせずこつ/\縫物の針を真面目に運ばせた。真夏の濃緑と烈日が彼女にある圧迫を与えたが、静かな彼女の心はそっとその圧迫をやりすごしていた。
「ほんとに今年の夏は嫌なことばかりが多い」女将は青い眉あとの目立つ顔に、仰山らしい表情を浮かべてよくお光に言った。お光には何故かどんな人間でも甘えてみたいような気を起こさす穏やかな温かさが漲っていた。
「ほんとうにね、どうなってゆくのでしょうかね」お光は、そう言って、静かに仕上の鏝(こて)をあてた。廓の不景気がもっと四、五日早く来てくれたなら、そうしたら茂子や小妻も助かったかも知れない。茂子や小妻がああした残酷な死にようをしないで生き残っていたら、どれほどこの不景気なこの稼業(しょうばい)の暇を悦んだか知れまい。――悦ぶであろうと思われる二人はすでに死んでしまった。もう晩(おそ)い、おそい、とお光は考えて、涙ぐんだ。
 しかし一方、お幸や時子や菊龍や富江や鶴子には、暗い人気の少ない夜、酒に酔いしれない夜、男の膚(はだ)の温か味に眠らない夜を迎えることは一種の苦痛であった。アルコール中毒患者が、アルコールの気の感じないときは半死の状態にあるように、彼女等は一種の苦痛を伴ったぼんやりした倦(だ)るさに苦しめられた。
「随分つまらないじゃないの」
「もう三晩もつづけてぼんやりこうしているのじゃなくって、ほんとうに人を馬鹿にした」
「時ちゃん、××さんに電話をかけてお招(よ)びな」
「あたしも――ちゃんを招ぼうかしら、ね、富ちゃん」
 それはよい思案と言わなければなるまい。彼女等は各自に自分達のなじみを招びよせた。招ばれた男達は無銭で遊べることを「光栄」と考えてやって来た。そして、時にはこっそり裏座敷で目立たない遊興をして行った。目立たない、こっそり隠れた遊興の面白さが人々に知られると、暫くの間に、廓の家々では、歌舞音曲の響こそしないが、平常のように客は出入するようになってしまったのである。
「あれえ、およしなさいよ、ほんとうにおよしなさいよ!」
と奥座敷で菊龍のあげる誇張した嬌声を、「菊ちゃん、あんまり声が大きすぎますよ」とお幸が戒(いま)しめる。人々はいつしか、あの一とき感じた死の厳粛さを忘却してしまったのである。形式だけの哀しみの表現がようやく盛んになりかけているときにおいて――このように、天子の崩御は春風楼にとってよい結果をもたらしたわけであるが、またこの一事実が冬子やお光母子の運命に波のうねりのように重大な関係をもたらしたのである。
 八月中頃のある夜、いつものように春風楼の茶の間には電燈の輝く下に粧った女達が集まっていた。夏の夜風が明けはなした窓からそよ/\と流れ入る。
「じゃ、いってまいります」と先刻から姿見に帯の格好を直していた時子と菊龍と富江が、こう珍しくそこに坐っている冬子とお幸に言って外座敷に出て行ったあと、部屋はひっそりした。お幸は今宵も美しかった。彼女の小さな引き緊まった肉体が生み出す魅力と巧妙な化粧のあでやかさは、薄化粧をした地味好みの、美しいよりは綺麗な品のいい冬子よりは数段秀れて感じられるが、しかし二人が対(むか)い合っているときお幸は圧迫を感じていた。冬子の端然とした、色艶の目立たない寂びた美しさが彼女を圧して来るように感じられる。お幸は冬子と話することを避けた。
「市子ちゃん、米子ちゃん、店にいるの。こっちへ来てお習(さら)いをしないこと?」
「はあい」と燃ゆる緋のだらりの帯に、きら/\光る花簪が自分ながら素晴らしくてならない、米子と市子が出て来た。「わたし?」と市子は眼をいっぱいに輝かして「何?」と首をかしげた。それは可愛らしかった。お幸は有望な「芸妓」の未来を見、冬子は惜しい気のする「物寂しさ」を見出した。
「奴さんにして頂戴な、お幸姐さん」
「奴さん? よく/\奴さんが好きだと見えるのね。さ、いいかい――」
 お幸の低い唄につれて市子は、一つ一つの振りにこもる感情の含蓄は理解出来ないまでも、熱心にやりはじめた。すると電話室の方でけたたましく電鈴(ベル)が鳴った。
「米子ちゃん」とお幸が米子に注意すると、奥にいた女将がすでに「あ、どなた」と出たので、踊りはまたはじめられた。電話は随分永く、踊りがすんでもまだ切れなかった。
「え、分りました。わたしの方でも粗相のないように致しましょう。それじゃちょっと待って下さい。今すぐ御返事しますから」女将は髪を掻きながら茶の間へ来て、冬子とお幸を迷うように見比べながら、「古龍亭から、今っから泊まる用意をして来てくれないかっていうんだよ。何んでも東京の大した実業家だそうだから、めったな事があっちゃ金沢の市街の体面にもかかわるっていうんだから」
「女将さん、わたし、ゆきます」
 どうしてこの答が出たか。してしまってからも冬子自身にも了解出来なかった。つまり運命だったのだ。平常、お座敷を争ったことのない冬子であるだけにお幸にしても口出しが出来なかった。
「それじゃ冬子さん、行っておくれよね、あとから着物から何から持たしてやりますから。何んでも余程大したお方のようだったからそのつもりでね」
「ええ」
 冬子は立ち上がったとき一脈の身顫いを感じた。座の知れぬ深い夜の空に星辰が美しく輝いている下を冬子は俥を走らせたのである。古龍亭へ着くと顔馴染の女中が彼女を一室へと招き入れた。そこには宴会などで同座したことのある、鼻が高く大きく赤いために「天狗」と世間からいわれているこの市街の市長が立っていた。
「いや御苦労、御苦労。早速ですが、ここへ今夜お泊りの方は日本でも一、二と言われる有名な方ですがな、実は世間へも知らさずこうしてお呼びしたのは深い理由のあることで」と「天狗」の市長は次のようなことを語った。商工業の振わない金沢の市街で唯一の大工業である陶器会社に二、三年来種々の問題が起きて、三期も続いて欠損を続けているが、この六月職工の待遇でどうにかやりくりして五分の利益配当をやった。ところが職工がストライキを起こして未だに纏まりがつかない。そこへ明治天皇の御崩御があって、職工達も御遠慮申して仕事してはいるがいつどうなるか分らない。で、今のうちにどうにかしてしまうつもりで、「吾々が」「日本一の実業家の」天野栄介氏を内密でお招きしたのである。
「そういうわけだから、その辺をよく弁(わきま)えていて、長いことではない、三日ばかりの御滞在を退屈のないように身の廻りの御不自由のないようにやって貰いたいと思っているのです。な、分ったろうな」
 冬子はただ首肯(うなず)いて見せた。自分を道具に見ている老獪で卑しい市長を悲しく思わぬでもなかった。が、わけを聴いてみれば「自分の今の境遇と今の世間」では、寧(むし)ろ「光栄」であるのかも知れない。無限な人生の流れゆく相の一つ、その一つに冬子は自分の運命、お光母子の運命を負って流れ這入ったとは知らなかった。
「冬子さん、どうぞこちらへ来て頂戴」
 女中が先に立った。幾度も通ったことのある畳廊下を冬子は沈着(おちつ)いた心持で歩くことが出来た。重厚なやや古びた造作が親しみ深い。そして川風がせせらぎの音につれて、そよ/\と流れ入って来た。大河を後ろに控えたこの家の好い座敷は、河流に近くとられてあった。やがて蒼い夜空、輝く星辰、水晶のような透明な山岳のうねりがくっきりと河流を越えて浮き出て来た。深い崖上に突き出た縁側へ、崖下の暗い森林の静寂から湧くように河瀬のせせらぎが昇ってくる。そして一室から漏れる明るみの流れが森林の上に映っている。(どんな男があの部屋に自分を待っているのか)冬子は暫く立ち止まらずにはいられなかった。(ああ、希(ねが)わくば尊敬するに足る男であってくれ! せめては心からお辞儀の出来る男であってくれ!)幾年の勤めの間に、絶えず裏切られては来たもの、あきらめ切れない「女としての」願いであった。
「あのさっきお話の――」と女中が囁くように言った。部屋では人の動く気配がした。敷居近いところに見覚えのある、この土地の素封家で鉱山主で、実業家の或る男爵と県会議長の某氏が坐っていた。冬子は軽く会釈して、敷居際に膝をつきそっと面を正しく上げて部屋全体を「白刃のような心」で見据えた。電光が輝いていて、薄暗い間を通って来た視覚は容易に部屋の中を明瞭にしなかった。やがてじいっと瞳を据えて見つめている冬子に、しみいるように一人の男のゆるやかな横臥している姿が映った。充実した寛(くつろ)ぎようである。六尺豊かな中肉の体躯を、悠々と部屋の一杯に伸ばしているのが、まるで畳をとおし、階下を通じ、大地の底にしっかり根をおろしたように静かに不壊である。足下に軽く乗せられた羽蒲団の上へ幽かに乗せた右手のふっくらと肥えた品の好い手頸、ゆるやかな肩から頸元への線、そして、左の肘が大きな頭蓋の重量をしっかり支えて、腹、胴、胸、肘が、ゆったりと一分の隙もなく落着いた静けさに動かない。冬子は暫く体躯全体から湧き立つ重みのある厳そかな強い力に打たれていた。二十幾年求めて与えられなかった性格上の饑(うえ)が津々(しんしん)と迫る力に充たされて来る。左の肘でしっかり大地に根をもった確かさで支えられた頭蓋――渦巻いた髪、高くて広い額は広大な智力に光り、濃く秀でた眉毛、暢(のん)びり拡がった命宮のところから、一筋に日本人には珍しく、透き徹った鼻の尊大な気象と意思の力。弾力に豊富な頬の円みは、浅黒く短い髭に掩われて、閉じるともなく閉じた唇は謎のような深みと柔らかさをもっている。そして眼は眠っているのか瞑(つぶ)っているのだ。じいっと見据えていると、偉大な、力に充ちた感じが脈々と冬子に迫ってくる。彼女は無意識に首を垂れて身を引きしめていた。
「御滞在中は、何かと、御不便かと、存じまして、――冬子という、金沢(こちら)では、二人といない、勝れた、女子ですが――」
 冬子は唇をかみしめてその男爵の切れ切れの「許しがたい」紹介の言葉を聞いていた。恥の感が彼女の身を引きしめて終(しま)いそうであった。しかし、ゆったりと臥(が)した「男」は答えなかった。
「それじゃ明日また参上しますことにして、今晩はこれで御免蒙ります」
「――じゃあなた、万事よろしく取り計らって」
 二人の「地方の代表者」は出て行った。冬子は取り残された自分を持てあつかいながら、ひとり静かに坐っていた。冷え冷えとした川風がせせらぎの音に連れて忍び入る。冬子は寧ろ厳粛な、気は澄みわたり、あの鼓を打つときの入神さを感じていた。男の立派さやにじみ出る人格的の力に対抗するような、平常「虚偽」の底深く遠のいている、犯しがたい「真の自分の力」が自分をすっくと立たせはじめたらしかった。男は重みのある静けさのうちで、半眼を夢のように見開いた。
「もっとこちらへお寄り」
「は」
「冬子といったね」
 ああ、ゆるやかにも力ある微笑よ。世界が根柢から揺り動かされる微笑よ。僅かに口辺に漂わす一、二辺の微笑みから覗かれる、底の知れぬ偉大な力の海が冬子に押し迫る。
(ああ、こうした男子もこの世にはいたのだった!)
 すると、自分の身分、自分の運命、自分の真価値が、到底、いま目前に悠然と寝そべっているこの男に対してはあまりに見窄(みすぼ)らしい、比べものにならないものだという羞恥がこみあげて来た。血が上気した。長い間、幾年の間、潜め隠していた冬子の熱情の泉が一斉に全身に溢れ出た。端厳な品位を、一生に一度の熱情の美しさが一斉に内から輝かしたのだ。彼女は俄かに能動的な力を得たように思えた。彼女のこの珍しい美は、厳粛なうちに、充ち溢れる若さに燃えた美しさは、彼女の生涯の奇蹟であった。夢みるような鈍い半眼は開かれ、鋭い眼光がこの女性、冬子の燃ゆる美しさをじっと見逃さずに吸収していた。名刀の冴えた刃が燃えているような美しさ。人間と人間が互いに互いの価値を認識するあの崇厳な一瞬間があった。それは人生の苦患にもまれつつ、なおそれらの苦しみに打ち克って来た人間相互の間に存在する、深くて、質実で、味わいの無限な感情である、と冬子は思った。同性においては知己となり、異性においては恋よりも深い恋となる感情である。
「お初にお目にかかります」冬子は粛やかに礼をした。そして、二人の土地の素封家が残して行った革蒲団や、小さな莨盆や茶椀を片隅へ仕舞いかけているところへ女中がはいって来て、自分の来ようの遅かったのを言い訳して茶道具などを運び去った。冬子は、人間の本質に触れた者の感じる慕わしさといそ/\した犠牲を拒まない心持になっていた。彼女は彼に茶をすすめた。彼は彼女の茶をすすめたのを知らないように見えた。真実に知らないのか、知っていて知らない振りをするのか、彼女には分らなかった。あまりに初心な生娘のような気配であることを自覚しながら彼女は「あのお茶を――」と言いかけて自分が今まるで無能力な状態になっていることを反省して自分に恥じた。
「ありがとう」
 彼は何事もなかったように茶を飲み干した。そしてまるで久しい馴染のように話しかけた。
「今夜の七時にここへ着いたばかりだよ」
「さようでございますか」
「もう何時かな」部屋の片隅の置時計が十時二十分を指していた。
「十時二十分過ぎでございます」
「暫く世話になるから――冬子と言ったね」
「はい」
 この部屋と簀戸(よしど)越しの次の室にこの時蚊帳(かや)を吊る吊り手の金環の触れ合う音や畳摺れの音が聞えた。簀戸が静かに開けられて、女中が手をついて「お床を敷きましてございます」と言った。草色の衣(きぬ)で蔽われた電燈の光は縫い目のない蚊帳を海底のように染めて、微風に衣が揺らぐ。冬子は敷かれた二つの床を見た。「思想」になりきらない異様な感情が胸のうちに圧迫して来た。
「あの、お風呂をわかしてございますから、一風呂お浴(あ)びになってお寝(よ)りなさってはいかがでございましょうか」
「入るよ」地面に食い入ったようだった彼の体躯が、むっくりと起きかえった。
「お前は――」
「わたし――」
「そうか、わたしひとりで入って来よう」
 女中に導かれて、六尺豊かな肉付のしっかりと肥えた体躯の持主が幽(かす)かな足音もさせないで部屋を出て行った。冬子はひとり坐ったまま、ほてった熱情の渦巻を感じていた。吹き入る川風の揺れる蚊帳の中の二つの床が彼女の目前にあった。その床が自分に何を暗示し要求するのか。自分があの男と同じ蚊帳の中で眠る。彼女はある一つのことに神経が触れたとき、全身の血行をじっと動かさずに考え込まねばならなかった。(ああ、あの男に今、旅の芸妓の自分として接することは苦しい!)
「あの、お楼からの荷物は次の月の間(ま)に置いてありますから」
 さっきの女中である。冬子は「そう」と言ったきり答えなかった。(はやく次の間で着物を更(か)えて、彼の来ないうちに寝支度をしてくれ)の意味であろう。それは……出来ない。身体の工合が悪いといって無理にかえることも……出来ない。(芸妓として、自分のこの稀に生まれた真情を買われたくなさ)で冬子の胸は一杯になった。
「あの、冬子さん、着物を更えなさらなくては?」と女中がまた言った。
「わたしこのままで居りますわ」
「でも――それじゃ」
「これでいいですの」彼女は強く言い切った。星のきらめく青空が仰がれた。
「鼓はもって来てあるでしょうか」
「ええ、何から何までみな来ていますのよ」
 ああ、こうして澄んだ夜、思い切りあの壮快な鼓を、打って打って打ち明かしたいと冬子は思った。何んの宿屋の女中、ああ、たかが「有名な」実業家――身辺の一切を越えてあの天地に響く生物の皮の音色が彼女の身内から奔流のように湧きのぼるのだった。
「いい星空ですのね」冬子は傍の女中をかえりみた。すると天野が静かに縁側に来て立ったまま同じように広大な深い夜の空を仰いでいた。
「お星様が出ていますこと」女中の追従には答えないで、天野は冬子の方をじっと、大きな眼で見た。冬子はゆるやかな感情に身をまかせていた。川瀬の音が永遠の響きを高くする。
「冬子」
「はい」冬子は立って彼の傍に近寄った。
「向うの山脈はあれは何という山だ」
「あの近い方は医王山でございましょう」
 霞んだ深い夜気に山岳はくっきりと山肌を露わして、全山濃い紫紺色の綾のように光っている。天野が山を見ているのか、ただ、立っているのか、冬子には分らなかった。分らないところに微妙の力が彼女にしみわたった。
「寝るとしよう」
 彼は冬子を忘れたように部屋にはいって、次の寝室に行きかけた。
「あのお寝巻を」
「うん」彼は女中に着替えさせて、蚊帳の中へ這入(はい)った。
「冬子」
「はい」
「眠くなったら、ここの床へはいってねるがいいよ」
「はい、ありがとうございます」
 冬子は、自分の生涯に、今のような強くて温かで真情に溢れた言葉を聞いたことがなかったと思った。彼女はお光を想い起こした。お光の傍にいると自分が芸妓であることは自然に忘れてしまう。彼の前では自分は芸妓でありたくないと一心に思う。お光の傍にいては穏やかな平和に解け合う代りに、彼の前では自分などには量り知られぬ偉大な力に圧倒され、しかもその力に引きずられそうになる――(眠くなったらここの床へはいって寝るがいいよ。)蚊帳のうちは全く静寂になってしまった。冬子は蚊帳の中を見守った。呼吸さえ聞えなかった。彼女は妙に自分が不調法で、すまないように思われて来た。客に招ばれた芸妓が客を先に寝かしたまま放って置くということがあり得ようか。しかしそうなってしまった。彼女は立って自分の部屋にあててあるという壁一重隔てた次の間に去った。強烈な光の下に、鏡台やかけがえの着物や三味箱などが取り散らかされてあった。女中が妙な顔をして彼女を見た。彼女は帯を解いて、薄手な藤色の長襦袢に着替えた。博多の細帯できつく腹部をしめて、鏡台に対ってあっさりと薄白粉を施した。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 冬子は静かに蚊帳の中にはいって一方の床に身を横たえた。
 不思議な夜であった。最初彼女は或る屈辱を予期して身を慄わしていた。しかし、部屋は森として人気のないようだった。彼女は眼を開いて隣の天野の様子を見た。彼は覚めているのか眠っているのか分らなかった。ゆるやかに四肢を伸ばし、仰向けに正しく頭を整えて呼吸の音さえさせずに動かない。腰のあたりまで夏蒲団を軽く乗せ、右手を腹の上へそっと乗せて、ただ幽かな胸から下腹への緩かな高低のみが彼の生を表わしているに過ぎない。彼はもう寝いったのか。自分のことを少しも念頭に置かずに眠ってしまったのか。もしそうなら自分は彼のために、「芸妓」「婬売婦」よりももっと何んでもない人間にあたるのかも知れない。それとも彼は黙想に耽っているのか。それにしてもあまりに厳そかで寛ぎすぎた静けさである。冬子は瞳を開いて水中のような冷やかさを感じて眠られなかった。枕の下で川瀬の音が絶えなかった。神経が白熱して来た。幼い時分のこと、少女時代のこと、父の死、兄の失敗、自分がはじめて芸妓に売られた夜のこと、お光のこと、芸道の苦心、汚(けが)れた境界や周囲から自分を救おうための緊張と努力と苦しい涙、仕方のない屈辱、急流のように生涯の総勘定が体験されていった。そして思想の断(き)れ目毎に見える彼はもとのように静かで動かない。彼女はそのうちに異常な侮辱を感じて来た。そして硬張(こわば)った神経の疲労のために泥のように寝入ってしまったのである。
「冬子、冬子」
 朝の光が射していた。青い霽(は)れた空がめぐまれていた。隣の床で天野が腹這いになって、冬子の方へ首を向けて呼んでいる。
「はい」彼女は眼を開いて、床の上に起き直った。彼に起こされるまで寝入っていた自分が生涯にない失策だと考えられた。
「もうお目覚めでございますか」
「ううん、そうじゃない。眠かったらもっと寝ておいで――今日はね」
「はい」
「沢山人が訪ねて来るだろうから、お前御苦労でも一々もてなしてやってくれ」
「はい、かしこまりました」
 彼は莨盆を自分で持って来たらしく、葉巻をうまそうに喫(ふ)かした。
「お前、眠そうだな」
「いいえ」と言ったが冬子は当惑した。そして起きあがった。昨夜感じた自分の「侮辱」の感に対しあまりに見苦しい自分の失策である。それにしてもこの厭味のない温かさをどう享(う)け入れよう。(ああ、それにしても、一つ蚊帳に寝ながら、ある一事を強いられないうれしさよ。)彼女は恥と悦びとを同時に感じて自分の部屋に去った。彼女が化粧をすまし着物を着替えて、朝の新しい茶をもって座敷に帰って来ると、彼ももう起きて「山岳」のように坐っていた。窓外は一面の乳色の川霧が森林の上層を速やかに流れていた。
 朝飯もすまさないうちに訪問の客があった。市長、県会議員、市内の有力な実業家という人達が一日中をこの別荘の広間に過ごした。冬子はそれらの人達をもてなすうちにも彼等に対する彼の態度を注意深く見戍(まも)っていた。まるで彼は一日中を行ない澄ました修行者のように寝そべっているのだった。訪問が一しきり止む閑には女中に足から腰の辺をもまして、静かに瞑目している。そうして一日が暮れた。その夜、彼は女中にビールを命じて冬子を相手に静かに浅く酌み交わした。そして夜は前夜のように死んだような沈黙と静けさであった。
(ああ、このような男、このような男、このような男がこの世に生きていたとは!)
 幾年の間、抑圧して来た情熱が一切の規約を越え破って冬子をわな/\顫えしめた。どうしてもじっとしていられない。手足が火のように燃えて来た。もう自分は芸妓でない。「情を売る」旅の女ではない。一人の勝れた女、一人の潜めた可能力を一斉に噴き出して、はじめて感じる恋の聖(きよ)い熱情に燃えた女だ。
 三日目の夜更けのことであった。冬子は生死さえ分らないような彼の動かない身体に力いっぱいしがみついて、全身、脈々と湧く焔の波に顫わせていた。鈍い半眼が、落着いたままに開いてじっと見据えた。「冬子か」
「お許し下さいまし」
「お前には両親がない筈だったね」
「は、い」
 ああ、燃ゆる生命よ。沈着な根強い男の認識に根柢より燃え上がる女の生命が移った。静かに眼を閉じた。一身を献ぐる女の真情に偉大な力は根柢から揺り動かされて来た。燃えさかる烈火を蔽い包むように巨人の力が冬子を抱いた。
「わたしを一生、一生お傍に置いて下さいまし」
「置いてやる。己ももうお前がなくては空虚を感じる」
「本当ですか」
「嘘は言わぬ。明日はもうお前は芸妓ではない。己が自由にしてやる。東京へ一緒に来る気があるか」
「――行きます。何処へでも、何処へでも行きます――」
「――」
「しかしあなたには立派な奥様も立派なお坊っちゃまもいらっしゃるではありませんか」
「己には妻子はある。しかしお前も必要なのだ」
「――?」
「妻の代りじゃない。妻とは別なお前だ。お前はお前で己には無くてはならぬ一人になったのだよ」
 次の朝、古龍亭の若い主婦(おかみ)さんに冬子の「身受け」が託せられた。春風楼へ楼主にすぐ来るように電話がかけられた。酒で眼を充血さした楼主がやって来た。冬子は主婦さんが楼主と交渉するのを襖を隔てて聴いていた。
「ほかでもありませんの。大変突然ですが、天野の旦那様が――冬子さんのお客様のことですよ――冬子さんの身の立つように世話をしてやろうということになりましたの。それであなたの御都合さえよろしければ明日にでも、早く話を決めてしまいたいと仰っしゃっていらっしゃるのですから。どうでしょうかしら。今日来て戴いたのはそのためですの」
「ほう」と楼主は驚いたようだった。「それはまあ結構なことで」
「それでね、つまりあなたの方の御都合はどんな工合なんですの。冬子さんを一生手離すのには、矢張りあなたの方でもいろ/\何があるでしょうから――」
「ええ、それはもう勿論、今冬子に行かれては実際、わっしの方も困るので――」
「それはもう、冬子さんからも聴いてみますと未だ二年ばかりも勤めなくちゃならないのだそうですから、その辺はお察ししますが、一体いくらで自由になさるおつもり?」
(一体幾千(いくら)で)ああその言葉に呪いあれ! と冬子は思った。
「それは――主婦さん、二箱より下では離せませんな」
「しかし、それでは冬子さんもあんまり立つ瀬がなくなりはしないでしょうか」
「さあ、安いもんですぜ。あれだけの女に仕上げる苦労を考えてごらんな」
 二箱――二千円。凡(あら)ゆる忍耐、凡ゆる屈辱、魂と生命の切り売り、その長い辛労の後ではないか。しかもさらに二千円の償いを取る理由がどこにあろう。二千円という金で価値づけられることも悲しいが、二千円を貪り取ろうとする楼主の心も憎い。
「二箱を欠けちゃ第一天野の旦那様にしてからが、みっともないではないでしょうかな」
 冷酷な、利害の要(かなめ)をしっかり把(と)って放さないような声である。
「それじゃ、ようございますわ。そう申し上げますから」
 主婦さんは天野の部屋へゆく道で冬子に、春風楼の楼主は「まだ訳の分る方」だといって聞かした。冬子は「身受け」が少しも嬉しくないとさえ思えた。とにかく楼主は冬子を「二千円で自由にして」そして「冬子によろしく」と言って帰って行った。

 この夜、二台の俥が春風楼の門口についた。天野と冬子であった。十時近い茶の間には菊龍とお幸と女将がいるだけだった。
「女将さん只今。天野の旦那様も御一緒にいらしって下さいました」
「これはまあお初にお目にかかります。さあ、どうぞこちらへ」
 白い浴衣がけの身軽な天野は二階へ上がった。上がりしなに冬子の方を見て、いいかいというようにうなずいて見せた。女将はお幸に莨盆を持たせて後についた。残っている冬子に楼主は、
「今朝はわしが古龍亭に呼ばれてな――まだ店の女共には言わないでいるが、えらい急なことになったじゃないか」そこへ女将が下りて来た。
「冬子さん、お前さん前もって電話でもかけて置いてくれれば妓共も揃えたりなんかして置くのに、ほんとにわたし気が気でありゃしない――とにかく二階へ上がって頂戴な」
「女将さん、ことによるとわたし――」
「まあ話はあとにしてさ」と言われて冬子は二階の奥庭に面した座敷へ来た。
 二階ではお幸と菊龍が天野の機嫌を取るのを、天野が静かな微笑であしらっていた。
「どうだった」彼は冬子に声をかけた。冬子はためらった。
「いいよ。言った方がいいよ」
「あの――まだ何も話は致しませんですの」
「――そうか」
 彼はむっくりと立った。冬子にその儘でいるように暗示して、階下へ下りて行った。二階ではお幸と菊龍と冬子が残された。お幸はいつものように艶々と美しかった。
「暫くでしたのね、冬子さん」
「ええ」
「何だか一月も会わなかったような気がしますのね」
 冬子は微笑した。一月どころでない。一生を新しくする改革の体験を自分はこの三日のうちに得たのである。永い間苦しめた自分の尊敬と愛を捧げるものをもたない寂しさが一人の男によって破られてしまったのだ。曠野に太陽は現われたのである。もはや寂しい孤独ではない、仰ぐべき太陽をもつ自分である。冬子には、それは寂しいことではあるが、その「寂しさ」は前の寂しさと違っている。
「わたし、ことによったらお別れするかも知れないの」
「あなたが? 本当? そう――それはおめでとう!」
 そこへ天野が戻って来た。女将が天野の後ろから、
「冬子さん、おめでとう! 天野の旦那様によくお礼を申し上げなさいよ、本当に」とさすがにこうした折の悦びも悲哀も味わいつくして来たらしい、涙含(ぐ)んだ陽気さで大きく叫ぶのだった。
「女将、妓達を七、八人招んでくれないか」
「は、今じき来るようにいいつけて置きましたから――お幸ちゃん、冬子さんはもう素人になったのですよ!」
「今晩は」
「今晩は」
 六、七人の若い芸妓が陽気な匂いと声音と熱とをともなってはいって来た。そして冬子に「おめでとう」を唱えた。
 月の澄んだ深い夏の夜である。この美しい夏の夜の世界に、ひとり冬子の運命が急激に変わったのである。誰も冬子のこの運命を切実に胸に感じるものはなかった。[#「なかった。」は底本では「なかった」]ありきたりの習慣として「おめでとう」をとなえ、普通な心持で冬子の幸運を羨む位に過ぎなかった。
(これが自由というものなのかしら!)冬子は独り呟いた。二千円の金で自分はもうこの瞬間から芸妓という勤めはしなくともよくなったのだ。妙に寂しい気がした。取りかえしのつかないことをしたような気もした。澄みわたった黒藍色の空から月光が白刃のように光っていた。彼女ははしゃぎ廻る同僚の姿を傍観した。心はすでに遠く離れてしまった。
「冬子」
「はい」
「お前は鼓が上手だそうだね」
「はい」
「この月夜だ。聞かしてくれないか」
 なじみ深い芸道に対する熱愛が解放された冬子の心身に甦った。ああ、打とう、打とう、この好(よ)き夜を打って打って打ち明かそう! 彼女は凛然と言った。
「お幸さん、絃(いと)をお願いします」
「ようござんすわ、冬子さん」
 お幸の三味線と冬子の鼓が取り寄せられた。冬子は脈々と湧き立つ芸道の悦びの波を制しつつ、永年愛しているなつかしい大小の鼓をなでまわした。悪びれもせず、朋輩の幸運を祝うこの夜に、真面目に三味の音色を整えはじめたお幸の艶やかな姿には、同じ芸道に対する自信と熱情が漲(みなぎ)っていた。一座は粛然と静まりかえった。
 澄みわたった大空に月は明鏡の如く清く照っていた。大空いっぱいが寒い白光に明るめられ、下界は森然と水のように透明であった。静かに澄み切ったこの世界に、三絃の音調が緩やかに低く鳴りはじめた。音色は緩やかな平和な調べをようやくに強め、撥(ばち)の音が水を切るように聞えたとき、極めて柔しい小鼓(こつづみ)の音が、三絃の調べにからみ合った。奔流のように瀬波をつくって高くなり低くなり奔放な情調を伸べようとする三絃の音色の要々を、時には軽く時には重く、鼓の音が厳粛に引きしめ、制(おさ)えつけ、緊め上げつつ、音曲は悲壮に高められて行く。優婉な三味の音が、静かな夜気に顫えて人々を甘美な夢に引き入れようとするのを、蔽われていた鼓の響が力を潜ませつつ中空に高く踴躍する。長い間二つの音色は戦った。戦いつつ、微妙な悲壮さは悠々たる力に充溢する。音楽はやがて急湍(きゅうたん)のように迫り、二つの音調は急流のように争いつつ、いつしか渾一に融合するうちに、いつともしれず大鼓(おおかわ)の海鳴りの音が新しい根拠をもって轟いて来た。三味の音は次第に弱められてしまった。
「は、おえ、よおお!」
 ああ、一切を越えて迸る大音声よ、雄大な大音楽よ、もう三味の音は聞えずなった。勝利者の凱歌の大狂熱、雄大な、豊かで、荘厳な音調はひとり勝利の道を進んでゆく。ああ、長い長い苦しみの戦いだった。今、それに勝ち得たのだ。
 この燃ゆる鼓の音楽は、土蔵の裏手の座敷で、静かに独り子の寝顔を見戍(まも)りながら縫物をしていたお光にも響きわたった。お光は三日も冬子に会わなかった。お光は冬子に飢えていた。飢えた霊に熱烈な音楽が響いたのである。お光は縫物を止めて、暗いじめ/\した廊下伝いに、土蔵の前の裏梯子の下につくばって一心に聴きとれていた。音楽の一つ一つのリズムがお光の心にしみ入り、何とも知れぬ感激が火花のように身内から湧いてくる。
 するとばったり音が止まった。森然とした静けさだ。沈黙の音楽が鳴り響いて、お光はうっとりしていた。すると梯子を下りて来る足音がした。
「ここを下りて、右へ折れなさいますと――」冬子の声だ、とお光は思った。
「いや、いい、一人行くから」
 お光は梯子の方を感激の消え去らぬ瞳で仰いだ。のっしのっしときしむ音がした。そして次のひととき、一人の男が土蔵の前に下り立った。お光は何をまご/\しているのだろうと考えて思わず立ち上がったとき、お光は正面に男を見た。お光は(あっ)と全身氷のように冷えわたったような気がした。見覚えのある顔なのだ。
「あなたはあの、もしや天野――?」
「――?」天野はじいっとお光を恐ろしい力で睨まえていたが、「ううむ」と一つ唸った。「北野の……□」と彼は押しつぶされたような声で言いかけたとき、二階から「お分りになりまして?」と冬子が下りて来た。お光ははっと心を引きしめた。「埋(うも)れたる過去」の一切の力がお光を引きしめた。
「いえ、お人違いでございました。どうも相すみません」とお光は表面平静を取り返すことが出来た。
「あら、小母さんじゃないの」と冬子は嬉しそうに、幾分驚いて叫んだ。そして天野に、「わたしの親身の叔母のようにしている方でございますの」と、とりかくまうように言った。天野は沈黙のまま便所へ身を隠してしまった。
「小母さん、わたし、お別れして東京へ行かなくてはならないことになりましたの」
「――?」お光は恐ろしい戦慄に全身を寒くしていた。そして今、冬子の言葉を正当に了解できなかった。
「あの方」と冬子は眼で知らした。
「東京の方ですの。わたしあの方にお世話になることになりましたの。小母さんに御相談する暇がないほどに急でしたの」
「どなた、何という方?」とお光はたずねた。
「天野栄介という方」
「天野――?」お光は呟いた。(彼奴(あいつ)!)とお光の全存在が、四十年の生涯に秘められてある「埋れたる過去」が叫んだ。(十数年のむかし、自分の姉の綾子を、自分の亡夫から奪って行ったあの悪魔、天野め! そして彼奴は今また、冬子を奪って行くのか。)
「失礼します」とお光は冬子に一礼して転ぶように土蔵裏の室へかえって来た。意識の底深くに貯えられていた「埋れたる過去」が熱情を帯びて生きて来た。それは苦しかった。(あの天野が冬子を連れてゆく。何でも聞けば日本有数の大実業家だという。それは事実であろう。十数年前の「青年思想家の天野一郎」が、「日本の大実業家の天野栄介」になっていることは事実であろう。しかしあの姉の「きっと滅ぼしてみせます」と言って天野に連れられて行ったあの宣言は空しくなったのであろうか。現に天野は自分の前に堂々と立ったではないか。そして自分にとってかくことの出来ぬ三年来の深い馴染の冬子を唯の三日で永遠に奪って行くではないか? ……それに自分は、あの昔の北野家の富も地位も失った哀れな一裁縫女でしかない――)
 次の日の午後、冬子は天野に伴われて東京へ去った。冬子はお光の内生活に起きた深い大きな動乱や、その動乱の原因である天野とお光との過去の運命については少しも知らずに去ったのである。
「冬子も奪って行った、彼奴は!」お光はこう心から言った。こうお光は心から言わずにはいられないお光の生涯の「埋れたる過去」の事実は次の章に示されるであろう。人々はそこに人間の運命の恐ろしい相を見ることであろう。
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     第五章  ――埋れたる過去――




 お光は金沢の市街から五里ばかり隔った平野の果ての、大川村という海近い村に生まれた。村は杉や樅や樫の喬木林によって囲まれ、烈しい冬の風雪や、真夏の灼熱した日光から、それらの樹木は村と村人とを護って来ていた。それはいつの頃から知ったともなしに、お光が十六、七の娘の時分には、この村の久しい昔からの成立や村とお光の生家との関係がはっきり会得されていた。大川村はお光が生まれない昔の頃は同じ加賀平野に存在しながら付近の村々から孤立して生活していた。千年も二千年もの昔、まだ村一帯が雪の深い曠原であった頃、(平家の残党であるともいう)一群の南方より漂泊(さすら)い来た人達が、この辺の曠野の広大さに、放浪の草鞋を脱ぎ捨てたのがこの村の草創(くさわけ)であった。耕すに比類のない豊かな処女地、処女地に潜む新鮮な生産力、――しかし何分にも一群の人数が少なすぎた。人間の数が一群には必要だった。人間に人間を創る方法は一つしか授けられていなかった。交通しあう部落は大川村の近くに見出されない、少数の男と女は新しい同族の出生に、自分達して努力するよりほかに道がなかった。長い放浪の旅は女性の数を少なくしていた。親と子、兄と妹、姉と弟、叔父と姪、叔母と甥、祖父母と孫、友人の妻、友人の夫、主人の妻、臣下の青年――どうにも仕方なかった。男性と女性でありさえすれば、そして二人の交わりが新しい生命を創り出しさえすればそれでよいとせられた。生めよ、殖えよ、大川村の野に充てよ、と一族の者は心から祈った。こうして労力を惜しまず土地を耕す者が殖やされ、血と血が恐ろしい複雑ないりくりを錯乱して、濁って行った。食う欲望、住む欲望、婬乱な野獣のような渇望、子が親を殺したり、妻が夫を殺したり、友が友を殺したり、そうしてその殺し合う仇敵の間の悪血の交流。そのようにして時が過ぎて行った。太陽は日々に東方より平野を照らし、星辰は夜々空に輝き、恐らく同じ地の上には歴史が他の人々によって生活されている間を、大川村の人達は大川村より外の世界を知らずに生活して来ていた。春、夏、秋の期節には恵まれた北国の野には快い労働と快い婬楽が人々の魂を痺(しび)らしたけれど、あの暗鬱な圧し下がる十二月の空から昼夜の別もなく重い氷雪が降りしきり、西比利亜(シベリア)嵐が吹きつける恐ろしい冬は常に人々を脅かした。人間よ、汝等の地上に栄えることを誰が許したか。滅びよ、滅びよ、滅びつくせよ、と冬は語った。樹木の色の見えない三、四カ月の後、再び春が廻り来る頃、潰れた村の家の中に凍死した村人の骸(なきがら)が毎年五十人を下らなかった。しかし滅ぼす力も自然なら、生み殖える力も自然であった。村の人達はいつとしもなく大川村という一つの社会を組織して、ある統一を成立していた絶妙さ。お光の生家である北野家の先祖が、大川村の中心人物となったのも丁度そうした統一が完成しかけた時であった。それは、その頃の村人達は何も知らなかったが、卑しい身分から身を起こした一平民が地方に分裂していた日本の勢力を統一して、歴史上の戦国時代を最期にせしめた頃であった。血と血が入り乱れた長い年月の間にある性格、ある才能、ある体格の特徴がこの小さい村の住民達の間に繰り返されているうちに、勝れたもろ/\の血が、ある一人の子に恵まれたのだ。その一人が恵まれた体力と智力とまた努力によって村人との間にある種の優越を現わしたのだ。そして彼は富を得た。貧乏な意気地なしが彼の前に屈服した。彼は村全体を征服したくなった。そしてそれは彼にとって容易なことであった。――北野家は大川村の宗家(そうけ)である――こう彼が宣言してから、大川村は一切の権威を北野家に与えねばならなくなった。幾代の間北野家は大川村の宗家であることを村人の頭脳に浸み入らせるためにお光の祖先の意思に順(したが)って努力したことだろう。大川村の人達はすべて北野と同一血統で、したがって村の富栄は北野家の富栄であるように北野家の富栄は大川村の富栄である。大川村の住民は当然のこととして北野家の永遠を希い、そのためにはいかな犠牲も拒んではならないという一種の道徳が権威を帯びて村人に浸潤して行った。そうしてその結果は村一切の滋養は北野一家に吸収され、村全体は貧窮に苦しむようになり、しかもそれが感謝すべき自然な状態であるとさえ思い込むようになってしまった。お光がまた幼かった頃、終日を野に出て労働して日が海に没してしまう頃村の入口へ帰って来た百姓達の群が、自分達の泥まみれの仕事着も饑(ひも)じい空腹も忘れ果てたように、白壁の煉塀を廻らした宏壮な北野家の邸を仰いでいるのをよく見た。彼女が城門のような門際に佇んでいるのを、一人一人が心からお愛想を言って行った。村人達にはたとえどれ程彼ら自身の生活が貧弱化されても、北野家の富と栄えとは十分な報償であるらしかった。恐ろしいことにはお光達自身――北野家の子孫がこうした村の状態の源は遠い祖先の政略であったことを忘れて、それが正しいことのように思い込んでしまったことであった。お光でさえが後にひどい生活の苦労に洗われるまでは、それがどれほど悪い気の毒なことであったかに気づかなかった程であった。
 しかしお光が北野家の先人達のうちでやや詳しく知っているのはお光にとっては祖父にあたる伝右衛門の晩年以後からであった。伝右衛門が五十を過ぎた頃、その頃は大きな改革の波が日本を洗いかけている時代であった。彼はどんな改革が日本に起ころうとも彼自身の大川村における根底は深く揺るがないものだとの自信を抱いていた。政治上の実権が天子に返上されたとき五十八歳の彼は平気な顔をしていたが、暫くして彼はもう大川村の庄屋ではない。庄屋という役目さえもなくなったと聞いたときには、永久であるかのように信じていた自分の地位を一片の布告によって消滅せしめる新しい政府を不思議な眼で見ない訳に行かなかった。彼自身の立場がわりに浅いように思われて来た。彼は六十であった。人間としての活力は衰えかけていたが、ある種の知恵は老熟していた。彼は夢からさめたように全体を見廻した。どうにかしなくてはならないと彼は思った。彼は大川村の住民達があまりに貧しいのに驚いた。貧しいことはよいが、そのためにやがて他の村々との交通が開けるにつれて北野家への信従を失ってはいけないと彼は考えた。彼は最後の精力を振盪(しんとう)して清酒醸造の事業をはじめた。彼の計画は見事に的中して、新しい生気が村中に溢れて来た。村外れの空地に大きい酒蔵が建てられ、白壁がきら/\日光に輝く下で、若い村の青年が、かん、かん、かんと酒桶に輪を入れる音を響かしていた。多少の金廻りは村人の心を動揺させないために有効であった。「うまくいった。うまくいった、北野家の伝統の岩をゆるがし得るものがこの地上(よ)にあろうはずがない」伝右衛門は悦んだ。そうしてその悦びと共に、明治五年の春、伝右衛門は死んだのであった。
 伝右衛門には容太郎という一人の男子があった。彼は二十六の青年で、伝右衛門の先妻の子であった。容太郎の母は同じ村の青木という百姓の娘で、伝右衛門との間に容太郎を生んだきり子がなかった。容太郎が十五、六歳のとき母は子宮癌で苦しみ通して死んでしまった。しっかりした女手がなくなったために、青木の家の末の妹(容太郎の母の妹)が北野家へ来て家事の世話をすることになった。お信(のぶ)は細身ないつもは蒼白い顔で頼りない寂しい風をしていたが、何かの機会には情熱に燃えて美しく頬を染め出す女であった。伝右衛門はそうしたお信を美しいと思わぬでもなかったが、直接どうしようとする意思もなかった。そうした行為が生み出す不幸を知り過ぎている彼の聡明は静かに彼の欲念に打ち克って来ていたが、彼が清酒の醸造をはじめるようになってからは、彼は仕事のためにどうしても身肉を委ねての内助者が必要であった。彼はお信に結婚を強いた。どうしてそれがお信に断り得られよう! 五十八の伝右衛門と三十二のお信は結婚した! 恐ろしい悲痛はこの結婚によって育まれねばならなかった。誰も知らないうちに六つ年上の叔母のお信に恋する心を止め得なかったのは――伝右衛門の一子、お光の父容太郎であった。薄暗い土蔵の二階の冷たい静けさ。蒼白い肉体を内からの熱情で輝かすお信の美しさ。憂鬱な瞳の奥に閃く燐光のような気配の可愛さ。容太郎にはお信が忘れられなくなってしまった。気象の猛烈な容太郎は秘密な恋愛を嫌って、幾度となく伝右衛門に打ち明けようと焦るのをどうにか宥(なだ)めて来ていた時に、お信は、容太郎の父であり実姉の夫である伝右衛門と結婚しなくてはならなくなったのである。お信が伝右衛門の後添になってから、幾度容太郎は薄暗い湿った土蔵の中で彼女を捻じ伏せ擲りつけたか知れない。お信を殺すほどの痴(おろか)にもなれず、父を殺すだけの狂気も持てず、ずる/\お信の肉体に引きずられ、彼はやはり苦しい土蔵の秘密を秘密とする哀れな破廉恥な自分を見つめて二年の年月を送った。あるときはお信が懐妊して三月足らずで流産したとき、容太郎はその闇から闇へ往く生命が誰の子であるかを考えて狂いそうに悩みつづけた。「あなたの子よ。容太郎さん」お信のささやきを彼はぶちこわすように、「罰だ、罰だ! 誰の子だか分るものか」と考えた。そして同じお信の口から父の伝右衛門に、「旦那様、可哀いいことをいたしました」と言っている様子を想像すると堪らなくなった。こうした暗いじめ/\した恋であったが、何も知らずに伝右衛門が死んだ後に、容太郎とお信は忌わしい体感とともに残されたのであった。伝右衛門の死は二人に恐ろしい罪を犯していることの恐ろしさを、ひし/\と身にこたえしめた。一人にとっては実の父であり、一人にとっては実の夫であり、またその一人一人が実の叔母と甥である二人がこうまで愛し合わずには生きていられない事実。
 伝右衛門の死後何よりも容太郎の結婚問題が北野家に燃え上った。伝右衛門の遺書にはお信の兄であり、容太郎の母の兄である青木の家の二女のお里を貰ってくれとあった。そしてその第一の主張者はお信自身であったとは。
「お里さんを貰った方がようございましょう」
「それは本気だろうか。それで俺とお信さん、あなたとの間はどうするつもり」
「今まで通りでいいでしょう」
「馬鹿な!」
「どうして?」
「お信さんは一生土蔵の薄暗いところで俺と会うつもりかな」
 お光は、彼女の父母である容太郎とお信のこうしたシーンの心持を思いやって父母の苦しい心に息づまるような思いがした。
「そうでないとね、いつか二人の間が村の人に知れるか、どんなに用心していてもわたしに子でも出来てごらん、そうすれば二人は死ぬより外に道はなくなるでしょう」
「それじゃどうしろと言うのだ」
「それよりかお里さんを貰って村の衆達を納得させて置いてから、わたしをほんのあなたの召使のようにお傍に置いて下さったらよいでしょう。わたしは一生人に謗(そし)られて日影で暮すことを何とも思やしません。容さんの身分でわたし一人を世話する位は、お里さんを貰ったあとなら誰も見逃してくれることですから」そう言って辛そうに泣いたお信の切なさは一生お光にはわかるような気がした。
 お里は肉付のいい快活な田舎娘で、北野家に嫁入りしたことを一生の誉と思って、一日中快く働いた。お信を、「叔母さん、叔母さん」と母に仕えるように大切にした。しかしお信が次の年、どうにも妊娠をかくし切れなくなったとき、お里は初めお信の相手が誰であるか理解できなかったほどに単純な心の主であった。ある夜、恋しい夫である容太郎からお信の相手が実に彼自身であることを打ち明けられて、「仲よくしてくれ、な、お里」と言われたときのお里の世界が火焔を吹いて燃え上ったような感じは、お光が年とってからも涙ぐまずにいられないいじらしさをもって迫って来た。彼女は悲しい涙の味を知ったであろう。そして次の朝から世界は別な深味をまして彼女を迎えたであろう。田舎娘の単純な質朴さはお信に憎しみよりも妬(ねた)みを感ぜしめた。しかし妬んでも仕方がないと知ったとき、彼女は哀れ深い様子をして召使のような従順さでお信に奉仕した。お里のいじらしい心を見て、罪深い二人は深い溜息を漏すより外に道はなかった。しかも容太郎は新鮮な果実のようなお里の心や肉体よりも、廃(すた)りかけた蒼白な馴染深いお信の魂と体を愛さずにいられなかった。
 お信が中年の苦しい初産で生み落した嬰児は、頭ばかり青ぶくれな身体の小さい、泣声のひひひという汚ない男の児であったという。それがお光の兄にあたるのであった。お光はお光が生まれない以前のあるひとときを想像することが好きであった。それは丁度秋十月の末頃であらねばならなかった。一年の辛労の報償を暮れ易い秋の日に取り入れなくてはならない百姓達は晩(おそ)くまで野に働いていた。地は一面に誇らしい黄金色の稲穂の波をうねらせている野面が北野家の奥座敷から木の間隠れに見わたされる。
「お信さん、どんな工合ですかね」
「大分いいようですよ」お信は蒼白い痩せた頬にすまないような寂しい微笑を湛(たた)えて、お里が抱いている嬰児を見向きもしない。
「ちっとも自分の子のように可愛いい気のしない子だよ。その子はお前さんの子ですのね」
「そうして戴けたら、わたし嬉しいですけれど――いい子だこと」
 お里は青ぶくれのした嬰児の頬に自分の赤らんだぽた/\した頬をすりあてていた。
「おかしいのよ。ちっとも自分の子が可愛くないのだから――傍へよると何だかむさい匂いがするじゃないの?」
「ひどいお母さんだわね。わたしが可愛がってあげますから。容一郎さんというの、北野家の大切の大切のお世嗣(よつ)ぎですのね」お里は容一郎をあやしているうちに泣きたい気がして来た。お信も涙をにじませていた。庭園の立木を透して降りそそぐ秋の夕日は寂しく二人を照した。
「ほんとにその子をお里さんにあげましょうか」
「ええ、ええ、容一郎さんはわたしの子ですのよ」二人は憎み合えないだけ、それだけ胸の痛手を深く秘めて寂しがっていなくてはならなかった。もう叔母と姪でなく、女と女、一人の恋しい男を守る二人の女であった。
「お里さんにも一人出来てもよさそうなものですのに」
「ええ」お里は恥と口惜しさで俯(うつむ)いて心では祈っていた。しかしお里には子は授からなかった。
 次の年お信はまた生んだ。そうしてその出産はお信の生命の奪い手でもあった。しっかりと抱きあった、まる/\肥った健康らしい女の双児は、生まれ出るためにあまりに多くの血を母より奪ったのであった。忌わしい恋のために一生を捧げたお信は「あ」と言って閉じた双の瞳にちらと青白い燐光を燃やして息を引き取ったという。双児の一人は綾子であり、一人はお光なのであった。三十近くなっていた容太郎にとってお信の死は、忌わしい恋愛よりの解放であった。彼はまだ若かった。北野家に遺伝される善い素質が彼を彼の父が残した事業へ向かわしめた。彼はそうして救われるべきであった。彼一人はそうして救われるとしても、彼が犯した罪業の塊、あの年若い甥一人のために一生を捧げてそのためにはいかな罪悪も秘密も忍び終えたお信の血は、容一郎と綾子とお光との三人の生児として北野家に残されてあった。幸いにもお里は子がなかった。子のない女の寂しさは三人の子供を親身の母のように愛育した。お光は後に、お信がお里を北野家へ迎えようと主張したことを思い合わせて、何ともいえない微妙さを味わうことがあった。
 しかしお光が物心がつきはじめる頃の父の容太郎の印象はそうした前生涯を通って来た人とは思われないほどに功利的でより実業的(マアチャント)であった。容太郎はお信の死後、再生したといってよかった。長い間の奇怪な幽鬱な肉欲と蒼白な魂の感化から解放された彼に、抑制されていた英雄的な物質主義が生きて来た。憂鬱はお信のもので、彼自身のものでなかった。精悍な体躯と容貌をお光はよく記憶していた。百畳は十分敷ける広大な茶の間(天井のないその部屋の高い屋根裏を橋梁のように太い梁が走り、片隅の一間四方の囲炉裡には純銀の茶釜が黒ずんだ自在にぶら下げてあった)の正面に坐って来客に応対している父のどっしり落着いた態度はお光に忘られなかった。大抵の来客は、ひっそりした広い部屋内の静けさと、容太郎の態度とに脅かされて半分の力も使えないらしかった。「あはっはっはっ……」と何かの拍子に彼に一つ哄笑されるともう大抵の者は逃げ帰ってしまうらしかった。そうした風になりきった容太郎はかつては彼の父の伝右衛門が熱中したように、事業欲に熱したのであった、酒の醸造、大仕掛の漁猟、付近の村や町との取引――という風に、明治も十四、五年になる頃は、彼の威勢は付近の村々にも鳴り響いていた。そうして彼の家庭の内部を一切しめくくったものは哀れな生まず女のお里であった。お光は幼い時分のことを想うごとに柔しいお里の生涯に感謝せずにはいられなかった。
 お光が彼女の兄姉やお里に関する最初の記憶は妙に一生忘られない暗示に充ちたものであった。冷たい感触の漂う奥の仏室で、まだ五つになるかならずの彼女は姉の綾子(双児ではあったがお光は妹分にされていた、それは一生そうであった)と二人で紅椿の花で飯事(ままごと)をして遊んでいた。障子に薄日が薄赤く射していた。綾子に対しては何故か受動的であるお光は綾子の言うままに花弁(はなびら)を一枚一枚揃えていたのだ。綾子はお光の揃えた花弁を糸でつなぎあわしていた。すると後ろで不意に綾子を擲りつけるものがあった。それは兄の容一郎が、青ぶくれのした大きい頭を重そうによち/\歩みよって、お光だと思って綾子を擲りつけたのであった。しかし次の瞬間容一郎はそれが綾子であったことを発見して蒼くなって立ち竦(すく)んでしまった。お光に対して生来強者である彼は綾子に対してはまるで弱者であったのだ。彼はお光の穏やかな哀れを乞うような涙の代りに、綾子の恐ろしい侮蔑の眼光を得ねばならなかった。「容一郎の馬鹿!」それはお光が年とってからも忘られなかったほどに恐ろしかった。無論容一郎は力を限りに泣き出したのであった。こうした三人の子供を育てて行かねばならないお里も可哀そうであった。お光はよく奥の薄暗い納戸の蔭でお里がしょんぼり涙ぐんでいるのを見た。お光が年をとってからお里が「お前さんの父はわたしを一度でも本気に愛したことがあるのだろうかしら。一度でもあるならわたしだって一度位は自分の子を生んでもよさそうなものだのに――」と言ったことがあった。「お信さんは生んでくれたのだわね。わたしは育てる方の役目らしいのね。ほんとにお前さん達は母親を二人もった果報者というわけだったのね」と言ったこともあった。そしてそうした事を言う程にお里が三人のうちでお光を誰よりも愛したことも事実であった。お光はまた、父の容太郎が急がしい事業に暇々に虚弱な、我儘で、小心な容一郎が泣いてぐずっているのを「ああ、北野家も己限りかなあ」という風にじっと見守っている寂しそうな姿も覚えていた。生まれた子の劣悪を非難できない父の心中を思いやるとお光は淋しく、そうして自分の肉心にめぐる血に異様な恐ろしさを感じずにいられなかった。父はお光をも愛したが、勝気で男勝りな、強い綾子の、豊麗な少女と成長して行くのにある希望を見出していた。
 三人の兄妹が七、八つになった時分、隣村にはじめて小学校のようなものが創立された。誰一人村では通わそうというもののないその学校へ容太郎は召使をつけて毎日三人を学校へ通わした。お光には知らない他所の子供達と一緒に椅子に腰かけて、年老いた先生から難しい漢文や算数を習うことが厭でたまらなかった。どうかして学校へ行きたくないものだと、その頃お光はどんなに思ったろう。それに引きかえ容一郎と綾子は学校へ行くことを喜んだ。容一郎の学問に対する進境の速かなことは学校の先生を驚かした。彼は家へ帰ってからも一人黙って書物をいじくって日を暮らすようになった。豊かな黒い髪、豊麗な肉付、切れ目の長い瞳、透き徹った骨の硬い鼻筋、品のいいふっくらとした鼻付、肥えた下唇、緩やかな顎、血色のうるわしい耳房――人々はお光と綾子を瓜二つのような美しいお嬢さまと言ったが、お光自身は自分が綾子のように美しい少女であるとは信じられなかった。学校でお光は他人と話するのが辛いために部屋の隅に隠れているにもかかわらず、綾子は十日も経たないうちに三十人近い年上の生徒達をいつしか自分の身辺に集めて「綾子さん、綾子さん」と皆に崇拝されていた。お光も内心綾子を崇拝していた。しかしお光には学校は面白くなかった。春になると彼女は学校への道の中途で忘れ物をして来たと嘘をついて、麗(うらら)かな春の日の照っている菜の花畑で、雲雀の声を聞きながら、幸福な春の半日を静かな野に送るのを常としていた。
 お信が苦しい恋愛の胎内から生み下した三人の児は、北野家の勢威とお里の愛のうちに長閑(のどか)な平和な日を育って行った。悩みというも、悲しみというも、平和な大海の面に騒ぐ小波にすぎなかった。幸福なうちにお光達の青春がやって来ていた。お光は彼女の青春が来ない少女の時代に対してはそう大した記憶がなかった。
「ほんとにお前さんと綾さんとはよく似ていましたよ。二人が眠っている寝顔を見るとどちらがどちらか分らない位でした。でも、そんなときにはどっちか一人を起こせば分りました。お前さんであれば起こされてはじめはぼんやりしているが、わたしだと分れば穏やかに笑ったけれど、綾子さんだと厳しく怒るように瞳をみはって、それからひきつったように顔を歪めましたっけ」とお里がお光に二人の少女時代の話をした。
 少女時代にお光が唯一つ忘られない事実がないでもなかった。それは村の貧しい小作人の一人(背の低い陰鬱な、貧乏のために結婚をせずに一生いた男だという)がある夏の夜、村の娘を無理に関係をつけてしまった。娘は月足らずの男の児を生んだ。その児を仕方なしにその男が育て上げねばならなかった。成長するにつれてその少年はどこか普通の少年と異常で、何よりも労働を嫌がった。野良へ追い出しても草原に寝そべって青い空に吸われるように見入っていて草一つ□(むし)ろうとしない。彼が十六の年、彼の親の小作人は「乾鰮(ほしか)のように」黒く瘠せ枯れて死んでしまった。親が死んでから彼は小さな家に閉じ籠って仕事をしようとしなかった。
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