地上
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著者名:島田清次郎 

「時ちゃん、お茂ちゃん、起きないの。もう遅いのよ、お茂ちゃん! 時ちゃん!」
 お幸の円い厚みのある声が店の方で聞えた。
「米子ちゃん、市子ちゃん、こら、お臀をこんなに出して、夜中に誰かが持っていったらどうするの。お起きなさいよ、こら!」ぴた/\小さい妓等の臀を叩くらしい音と、寝ぼけざましの哄笑が一斉に聞えた。店の女達はみな眼をさました。
「時ちゃん、自分の床だけは上げるといいわ」
「はい/\」
「昨夜はおかしな夢ばかり見ていたっけ」
「鶴子さんの夢なら大抵知れていますわ」
「そうでしょうよ――可愛いい男の夢ですよ」
 お幸がふだんの意気な単衣に博多の下帯をしめて、楊枝を使いながら出て来た。怜悧な彼女のよく動く生き生きした眼が、お光の上にじっと暫く止まっていたが、説明を求めるように冬子の方へ向いた。冬子はそのお幸の眼が嫌いでならなかった。怜悧な打算強いその眼、男が一度その眼にうたれてすぐある誘惑を胸に連想するようなその眼、冬子にはその眼が嫌いで堪らなかった。大抵の場合は冬子は沈黙した。お幸は冬子を高慢ちきだと言った。もしお幸が自分の男に対する或る種の自信が弱いか、毎月末における花高が冬子よりも下ででもあったなら、彼女の蛇のような邪智は冬子に対して悪辣さを発揮したか知れなかったが、冬子の客はある少数の範囲に限られていたし、それに彼女は夜泊まりすることが嫌いだったので、そしてその嫌いが大抵の場合押し通せる程に彼女の力量が認められていたので、冬子は花高はお幸に及ばなかった。そしてそれが彼女のためによかった。が、そうした冬子でも今は黙していてはお光が立ちゆかない。
「お幸さん、お早う」
「お早う」
「あのいつもお話しておったでしょう。大河の小母さんよ。お仕事に来て戴くことになりましたのよ。またどうぞよろしくね」
「そうなの。どうぞよろしく」
 お幸はお光をちらっと見た。彼女はお光が地味な、少し勝手のちがった、征服しようにも手がかりのないような多少不可解な四十女に見えた。しかし彼女の才気と聡明が、そして廓の女以外に対する無知が彼女の心を安心させていた。お光はそこに小造りなぴち/\と跳ねあがっている新しい小魚のような美しいお幸を見た。
「ゆっくりしていらっしゃるといいわ、小母さん」
 お幸は洗面所のほうへ去った。
「お茂さん、その紙屑を拾ってゆくといいわ」
 お茂が肌着を脱いで単衣にきかえて茶の間へ出てこようとするのを、時子が細帯をぐる/\巻きしめながらお茂を呼びとめた。その呼び止め方の気随(きずい)さがお茂の心に痛みを与えた。
「何を」
「その紙屑ですよ」
 時子がお茂の足下を指さした。そこに、丸められた、汚血のにじんだ紙くずが転がっていた。お茂ははっとしたらしかったが、非常な速力で、昨夜、悲しい暗鬱な気持で遅く帰って来てから床にはいったまでの間を反省してみるような目つきで、お茂は言った。
「これはわたしのではなくってよ」
「お茂ちゃんのでなくて誰の」
「誰なのかわたしが知っているものかね」
「ふん――」
 時子は、細帯をきゅうっとしめて、ふくらんだ乳房のあたりをぽんと叩いた。叩いた拍子に時子の※絹裏(もみうら)[#「糸+峰のつくり」、66-6]の袖からころころと同じような紙屑が畳の上へ転げ落ちた。お茂の眼は輝いた。が、その輝きは輝いたことを羞じらうようにまた持前の暗い容貌に逆戻りした。時子は不意な事実の前に忌々(いまいま)しさをこらえねばならなかった。(昨夜、若い高等学校の学生の一群の席で、眼鏡をかけた元気のいい生き生きした髭などの少し青みがかった男が――それをすっかり忘却してしまっていたのであった!)時子はちっと舌鼓をうって言った。
「お茂ちゃんは品がいいのですからね」
 お茂は辛そうに顔をゆがめて黙した。こんなとき冬子でもいてくれればと彼女は思った。お茂には、嫌だ嫌だと思う圧迫のみが強くて、その圧迫につき動かされて反抗し開拓してゆく力がなかった。小妻のようにあきらめ切って傍観する余裕をもつには年が若すぎ、冬子のように重苦しい威厳と沈黙で制えつけるには天稟が恵まれていなかった。お茂は泣きそうなのを堪えて茶の間へ出て来た。時子も出て来た。
「冬子姐さん、お早う」茂子は言った。
「お早う――あ、お茂ちゃん、わたしの小母さんよ。これから仕事に来て下さったのですの」
 冬子は、黙って怒ったように楊枝を使っている時子にも声をかけた。
「時ちゃん、あなたもどうぞよろしくね」
「ええ」
 時子とお茂は台所へ去った。お茂がお光に腰をかがめてゆくさまはいじらしかった。
「わたしも顔を洗って来ようかしら」
 と、小妻は身体の痛みをいたわるようにそおっと起きて、台所の方へ行った。
「おう眠い、眠い、何だってこんなに早く起きたのだね、本当にしょうがないね」
 大きな男のような鶴子の声がした。むっちりと肥えふとった上、半身を赤裸々に現わした鶴子は、茶の間に出て正面の時計の十一時近いのに頓狂な声を立てた。そしてだれ下った乳首を可愛そうに自分で吸ってみた。黒ずんだ乳首とだれた豊満な乳房とは、彼女が前生涯に子供を孕んだことを証明していた。
「こう見えても、まだ若いのだから」
 そういう鼻も大きく、眼も大きく、口も厚ぼったい、鶴子の上半身に光沢のないのにお光は物足りない悲しさを感じていた。
「早く顔を洗っていらっしゃいな――小母さん、この人が鶴子さんていうんですの」
 冬子は今度はお光の方に話しかけた。
「見ただけの女ですわ、小母さん、あははははは」
 鶴子が去った。米子と市子の二人の少女は、階段の横の火鉢棚の上から青銅の重い火鉢を下して、吸殻を取りよけたり灰をならしたりしながら、ちょいちょいお光の方を盗み見ていた。米子は瓜実顔の、鼻が少し透り過ぎてさきの方が垂れ下がっているようにさえ見えたが、一重瞼のいい眼をもっていた。市子は肉付の豊かな、眉毛と眼のところに穏やかな優しみのある、顎の丸い唇が少しお喋りらしく開いた、愛らしい少女であった。
「冬子姐さんの母さんなの」
「うそ、冬子姐さんの叔母さんなんよ。――そら、裏の中田の二階にいらしった、あのお仕事の小母さんなのよ」
「あ、あの小母さんなの。――そんならね、そら、平一郎さんて中学校へ出ている方の母さんなのね」
「ま、市子ちゃんは平一郎さんを知っているの」
「知っているわ」
「わたしだって知っているのよ」
 米子は少し不興らしげだった。(彼女はいつも用足しに出かけるとき、街路で球投げをしてにこ/\笑っている平一郎をよく憶えていたから、同じ平一郎を市子が知っていることを不快に思ったのだ。泥塗れの中に育っても少女の純真さは、毎夜の、酒を飲んで悪巫山戯(わるふざけ)する多くの男達を記憶に深く留めないで、近所の少年のふとした微笑を憶えしめていたとは!)
「平一郎さんもここへいらっしゃるの、え? 冬子姐さん!」こう市子が突然訊ねたが、冬子の答えないうちに、そのとき出て来たお幸に、
「早く庭の掃除をしなさいな。何、ぐず/\しているの」
 と叱られて、二人の少女は土間へ下りて、混乱した下駄を一足一足整えはじめた。店の間や茶の間にもはたきの音が聞えはじめた。掃除は鶴子と茂子と時子がはじめたのであった。(菊龍や富江がおれば彼女等も手伝った。)鶴子は一人で大声をあげて大ざっぱに掻き廻していた。茂子は黙然として掃いていた。時子はぶつ/\呟いてろくに掃除をしようともしなかった。(菊龍さんや富江さんは今頃はまだ暖かい床に眠っているのだろうに、ほんとにばからしい。今夜は電話をかけて昨夜のあの番頭をよんでやろう)などと考えていたのだ。台所では婆さんが(婆さんといってもまだ四十四、五の、つる/\した、――素質が恵まれていず、その数奇な生涯の一切の苦患から何一つも吸収摂受していないだけに、老いもせずに、丈夫な馬のようによく働いた)、瓦斯(ガス)の火を濫費して、ようやく水のようなおかゆを大きな二升釜に拵(こしら)えたところであった。廓では朝飯を一年中お粥をすする習慣である。
「みなさん、御飯ですよ」
 台所の横の中庭の奥座敷の間に、直角の線を形成して、この家の食堂があった。食堂の片隅に三尺四方ばかりの手摺を持って囲ってある穴倉の入り口があった。暗い穴の口から、地の底から昇騰する冷気がひえびえと室内に充ちて来る。婆さんは汗を滴らしながら、薄縁(うすべり)をしいて、中央へ大きなお粥の釜を据えた。そしてもう一度「みなさん御飯ですよ」と叫んだ。こうした世界にも階級があった。冬子とお幸が上席に向き合った。時子と茂子、菊龍と富江、鶴子と小妻、最後に米子と市子は一つのお膳を二人で半分半分に使用した。もう十二時近くであった。麗(うら)らかに霽(は)れた紺藍の輝く空に太陽の黄金光は、梅雨あがりの光を熱烈に慄えさせていた。窓から射し入る緑金の光輝は、外を黒塗りに内を丹塗りにした揃いのお膳の漆の色調に微妙な陰影を与えていた。静かであった。黒く煤けた大釜の蓋の隙間から白い粥の湯気(いきり)がすうっとのぼって、冷やかに地底の冷気に融けて、また、すうっとあがってくる。店で乱れた鬢などなでつけていた女達は、食欲も起こらなかったが「習慣にしたがって」この部屋に集まって来た。冬子はお光を皆に引き合わした一安心で、少し疲れを感じていた。朝早く起きたせいか気分が悪かった。彼女は小さい茶椀にお粥を盛って胡麻塩をかけてすすりはじめた。お幸も時子も茂子も小妻も鶴子も、まずそうに舐(なめ)るようにゆる/\と湯気の白くたつ粥をもてあつかっていた。本当に空腹からうまそうに啜っているのは米子と市子の二人の少女のみであった。自然はこの酷使されている、まだ魂も身体も泥劣なことから護られている二人の少女から健全な食欲を奪いはしなかった。二人は貪るようにずう/\音をさせて啜った。冬子はその様子を悦びをもって眺めていた。卑しそうに時子は眼でお幸に二人を指して笑っていた。そして自分は顔を顰(しか)めて、ようやく一杯の粥を啜るのが大変な仕事なのであった。
「菊龍さんと富江さんは随分遅いじゃないの」
 時子は自分の横の空席を流し目に見て言い出した。今朝からこれを言いたくてむず/\していたのだ。
「そうね」
 お幸は言った。
「望月(ぼうけつ)だから、きっと、吉っちゃんと丹羽さんなんでしょう」
「吉っちゃんと丹羽さん――あのねっつりやのことだもの、遅いのは、なる程、そうねえ」
「今頃はまだ金輪際離すものかとしがみついているのさね」鶴子が大きく言って独りであはははと笑った。時子はその鶴子の口出しを軽蔑するように顔を顰めた。その様子を鶴子は見逃さなかった。
「あはははは、三味線を引くと引かないだけの区別じゃないの。まだわたしの方がどんなに正々堂々としていて立派だか分りゃしない、あはははは」
「天下御免の御娼売ですとさ」
 お幸は時子に加勢して、彼女の怜悧はこうした小争闘に深入りせずに、そのまま店の方へ去った。時子も侮蔑するように鶴子を流し目に見て後につづいた。
「あはははは、碌な芸もないくせに、わたしよりは一かどえらいつもりでいるから、いじらしいじゃないの。あはははは、御自分の癈(すた)りかけているのも御存じなしにさ」
 誰も答えるものはなかった。小妻も茂子も冬子も別々な想いに深い暗鬱に沈潜して笑うことすら出来得なかった。(魂なきものは幸いなるかな。彼女等は絶えず笑い得るから、希(ねが)わくば笑うことを知らざる淋しき人達に恵あれ!)鶴子が茶の間へ帰りかけると、お幸と時子は化粧道具を下げて風呂へ行こうと土間に下りかけていた。
「腐った身体でも洗って来るがいい」
「鶴子さん、何ですって、もう一度言ってごらん」
「玉のみからだを磨いていらっしゃいな」
「余計なお世話じゃないの。どこかの人のような男泣かせの凄い芸当は出来ませんからね」
「それはそれはお気の毒さま。まだこう見えてもなか/\達者なものですからね」
「鶴子ちゃんあんまりよ」
 お幸はたしなめるように言葉をかけた。しかし一度行先を乱れた鶴子の感情はそうしたことで拒止され得なかった。ぶく/\肥えた全身にこじれた憤怒がしみわたっていた。
「あんまりだからどうしたのさ。口があるから喋るじゃないかね。わたしはあなたのように踊りは踊れませんよ。踊りを踊ってから何を踊るの? えらそうな口をお利きじゃないよ」
「何んとでも言うがいいさ。すべたのくせに」
「どうせすべたさね」
「すべたならもっとおとなしくしておいで」
「すべたとはお前さん達のことじゃないかよ。うぬぼれだけは一人前にもっていることね」
 お幸も時子も、全身を投げ出してかかった、異様な苦悶を基調に潜ませた鶴子の雄弁には敵わなかった。二人は不快そうに外へ出て行った。鶴子はその後を見送っていたが、そのまま店の間へ帰ってどったり仰向けに寝転がって、狂人のような空虚な哄笑を続けていた。泣こうにも涙が乾きはてて出て来ないような笑いを。小妻と茂子は冬子に何か話しかけようとしたが、冬子が厳かに取り澄ましていたので、黙って店へ帰って来た。小妻は身体中が物倦く節々がやめて起きていられなかった。床をしいて横になり、暗い何かを疑うような絶望的な眼を光らせていた。茂子は鏡台に向って髪をほぐしていたが、やがて風呂へ出かけてしまった。店には鶴子と小妻が残された。
「小妻さん」呼ばれて小妻はほおっと溜息をついて急には返事をしなかった。
「身体の工合はどうですえ?」
「あまりよくなくて弱っています」
「痛いの?」
「どことなく身体中がやめて、下腹が時々引きつけて来ますのよ」
(鶴子にはそうした病状は身に体験して来た。彼女は生来が強かったので、そうした内部に籠る状態が長続かないで一斉に外部へ吹き上るので、根本的に治すことも容易だった。)鶴子は小妻はもう長いことはあるまいと考えた。
「みんな何処へいったかね」
 奥座敷で楼主と御飯をすました女将(おかみ)が店へ顔を出した。若い頃はさぞ立派で美しかったのであろう、鉛毒で青みを帯びた、眉を剃った四十六、七の女将は、妓供達でさえの気を外(そ)らすまいとした。
「みんな風呂へいったのでしょう」
「菊龍と富江はまだ帰らないのかえ」
「まだでしょう」
「そう。お前さん達もお湯へつかっておいでな。ゆっくり暖まってさえおけば身体がつづくものだからね――小妻さん、お前身体の工合はどうかね」
「え、ありがとう」
「あんまりよくないようなら飯田さんへかかさず通ってすっきりさせないといけないよ、え」
「え、ありがとう」
 冬子がそこへはいって来た。
「お、冬子さん、お前さんまだお湯へ行かないのかね」
「ええ」
「そして、あの何はどうしているの」お光のことを言うらしかった。
「大河の小母さんは離室に休んでいらっしゃいます」
「御飯は」
「朝飯はすましていらしたのでしょう」
「それはそうだろうね、ここの朝は街の午(ひる)だものね、おほほほほ」
 女将は茶の間の横座に坐って、昨夜の客の台帳などを一通り調べはじめた。そして思い出したように「米子、市子」と呼んだ。二人の少女は白粉のはげかかった顎をなでながら「何ですか」と出て来た。
「もう踊りのお師匠さんのところへいっておいで」
「はい」
「そして、お師匠さんに夕方お閑になったらお遊びにおいでと言うのですよ、分ったかい」
「はい」二人は小ざっぱりした振袖の単衣に、帯も紅縮緬に黒繻子の打合せの美しいのを締めて、稽古扇で拍子をとりながら、「おっかさん行ってまいります」と出て行った。時計は午後一時を指していた。冬子は風呂へゆく前に女将にお光を引き合わして行こうと思って、長い暗い廊下を土蔵の裏の離室まで行った。青みがかった室の壁と、室の前のささやかな茂みの多い小庭と、古びた板塀が、青空をひろく受けて、そこに静寂な単一な世界を湛(たた)えていた。お光は縫物を拡げてこつ/\針を運ばせていた。
「まあ小母さん、仕事をしていらっしゃるの」
 冬子にはなじみの深いお光の穏やかな涙に、豊かな微笑がむくいられた。(ああ、いい小母さん)と彼女は思った。
「小母さん、どう思いなすって」
「何を?」
「わたし達のありさまを」
 するとまた、お光はゆるやかに微笑んでみせた。(小母さんはもう、わたし達の生活を根本から視透して、もうゆったりしたいつもの情け深さにかえっているのだ)と冬子は思った。(自分よりは、絶えず周囲の汚れに染むまいと自然に緊張しきっている自分よりは、一層上の境界にいる小母さん)と冬子は思った。冬子の感じていたいろ/\の危惧の不安はこのとき一掃されてしまった。小母さんはわたしなぞが気をもまなくとも大事に遭っても平気なしっかりした信念を持っているのだからと考えた。彼女はそう思うと自分の感情がゆるやかに融けて流れるのを見た。
「女将さんが起きなさったから、いま会っておきなすった方がよくはないでしょうか」
「そう、その方がいいでしょうね」
「小母さんよりか二つ三つも年上でしょうか。つきあいのいい、悪い人じゃないのよ」
「これだけの家をたててゆく人だもの、なか/\普通な人間には出来ないことですからね」
 お光は仕事を止めて立ち上がった。茶の間にはまだ女将がいた。
「女将さん、この方ですの、わたしが随分お世話になった小母さんは。――またどうぞよろしくお願いいたします」
「誰さん――お光さんでしたね。わたしはとみ。女将さんなんて言うのは止して、これからお富さんお光さんで若い人の向うを張ろうじゃありませんか。おほほほほ。なあにあなた、自分の家のような気でのんびりしていて下さいまし。――土蔵の後ろで少し陰気ですけれど、中学へ出る息子さんがいらっしゃるそうで、勉強の都合もあるだろうと思って、冬子と相談してあすこをお部屋に定(き)めて置きましたが、塩梅(あんばい)はどうでしょうか」
「ええ、結構でございます」
「あすこを息子さんの勉強室にしといて、仕事は前二階でも奥二階でも住みいいところで仕事して下されば――息子さんはおいくつで?」
「今年十五になったばかりで」
「それはまあ。わたしなんぞはこうした稼業の罰で未(いま)だに子無しでございますが。ほう、女の手一つで十五まで育てあげるのはどうしてなか/\並大抵な苦労じゃないのですわね。ほう、そしてお連合いはいつ頃亡くなりなすったので」
「もう十一、二年にもなりますでしょうか」
「えらい!」と女将はお世辞でなく驚嘆して、心からしげ/\と自分とはまるで異なった道を生きて来たお光を凝視した。穏やかな淋しげな微笑が唇のあたりに漂っているのを見た女将は、香ばしい薫の高い玉茶を入れてお光にもすすめ自分も喫(の)みもした。
「これからまた、話し相手になっていただけますかしら」
「わたしこそ」
 隣りの社の杉林の緑蔭が日に透されてうつらうつら三人の女性の上に揺らいでいた。珍しい静けさ、珍しい美しさであった。暫く静寂な美はつづいていた。個性をもつものの美と森厳を自然はここに現わしていた。暫くして軒先に俥(くるま)の鈴がなった。[#「なった。」は底本では「なった」]
「女将さん、只今」
「只今」
 菊龍と富江が帰って来たのである。二人とも美しい女でもなく、すぐれた性格の持主でもなかった。ただ二人とも若かった。自然が与えるほんの一瞬の青春の尊さ。それは何時いかなる処においても光り、充ち、美しさに輝く。二人の女に若さは咲き乱れていた。自分がどういう歩みをよろめいているかを無論二人は知るまい。若さは苦しみであるべき行為をもなお快楽として酔わしめるものだ。
「随分遅かったじゃないの」
「そんなに遅いかしら」乱れた島田髷をそっと抑えて、自分の若々しさを誇るように菊龍は、薄桃色の単衣紋付を裾長に引きずりながらそこに立っていた。同じ華やかな草色に装った富江は、小声に口三味線をとなえて、菊龍と内密に笑み交わしていた。
「もう二時近いよ。早く着物を着替えてお湯へでもいっておいで」
 二人はそれには返事をしないで、帛紗(ふくさ)に包んだ花札を女将の前にさし出した。
「誰だったい」
「吉っちゃんに丹羽さんでしたの」
「そうかい。あんまりお前達も深入りしたり、させたりしては取り返しがつかないよ」
「大丈夫ですわ、女将さん」
「それならいいけれどね――あ、それからこの方に今度、お仕事に来て頂いたのだから、お前達、暇なときにはお針の持ち方くらいは習うようにしなさいよ、ね」
「はい、はい、小母さん御免なさいよ」
 二人は店へ去った。
「若いものは仕方がありません」と女将は言った。冬子はいつか厳粛な犯しがたい凛とした容貌に変じてしまっていた。お光は何故か平一郎のことを考えていた。「今日はゆっくり休んでくれ」という意味の女将の言葉に、お光は土蔵の裏へ去った。冬子は風呂へ出かけた。
 女将は奥の室へ去って楼主と二人で花骨牌(カルタ)をはじめた。
「そうはゆきませんよ、青丹などとはどん欲すぎますよ」
「それもそうですかね、さあ、お正月様はこっちのものですよ」
「お生憎さま、そうそういつ迄もあなたの言うとおりにはなっていませんからね」
「や、それを取られては少し困る」
「少し位困るのじゃまだ駄目ですね、さ、どうですかね、あんまり薄情をするから罰があたるのですよ」
「罰はお前の方ですよ、この好色婆さんが」
「何んだよ、浮気なお爺さんが」
「その、そのお婆さんがお好きだから、それ、好きだからしょうがないんだよ」
「うまく、うまく言っているね、こんな爺さんに若いときはわたしが惚れたのが一生のあやまりだね、全く、あやまりだね」
「あやまりさね」
「あやまりだね」
「ところがだ、そのあやまりが、またいいのだからね」
「あやまりだね、と」
「ところが、そうれそのあやまりが生きてくるから妙だよ」
「その頃はまだ頭も禿げずいい若い衆だったから妙なのさ――おや、わたしを迷わして置いてさ、何だよ、存分に迷わして置いてさ」
 こうした言葉が奥座敷から聞えた。楼主も女将も自分が何を言っているのか全然無意識状態にあった。たるんだ静けさが家いっぱいに充ちていた。店の間では鶴子が仰向けになって寝入り、小妻は時々ううむ、ううむと唸った。その上に黄色い日光が漂っていた。一列に店先に並んだ端の方の二台の鏡台に向って鬢のもつれを撫でつけながら、若い菊龍と富江は止度(とめど)なく湧いてくる笑いに全身を波立たせて共通な何かを話しあっていた。
「覚えていらっしゃい、菊ちゃん、あたしが手水(ちょうず)に行って着物を着替えてもまだ次の室で寝ていたくせに、ひとのことを言えるわけじゃないわ」
「あっははははは、うそ/\、あたしと吉っちゃんがそっと襖の間からのぞいて見たら、二人ながら目をあけたまま一緒に寝ていたじゃないの。富ちゃんこそ着物を着替えてからでさえまた寝ているんだもの、あははははは」
「あたしと吉っちゃんですとさ、あははははは、吉っちゃんはいい男ね、菊ちゃんの大切の大切の――」
「富ちゃん、お止しなさいよ。丹羽さんこそ苦(にが)みばしって、会社員で御当世じゃないの。吉っちゃんなんかたかが西洋雑貨店の番頭さんですわ」
「そうでしょうよ、たかが雑貨店の番頭さんが、黄金の指環を買ってくれるのですから、大した番頭さんですよ」
「富ちゃん! そんなら、縮絞(ちぢみしぼり)の単衣を買ってくれたのは誰あれ□」
「あら、まあこの人はそんなことまで知っているの。まあこの人は本当に油断もすきもありゃしないのね」
 二人は笑いこけた。七月近かった。熱気が地より湧きたち、人身の底からじく/\汗がにじみ出た。
「菊ちゃん富ちゃん、お楽しみ! よく今日帰って来たのね。あたしもう帰って来ないのかと思っていたわ」
 川岸沿いの大きな鉄冷鉱泉にゆっくりと肉体を温めて、襟頸から頬にかけて湯上りの白粉を一刷毛真白く塗って、一日中で一番生心地(いきここち)のある感じを保ちながら時子とお幸は帰って来た。菊龍と富江を見出して声をかけたのは時子だった。彼女は感じたことをことごとく言い現わしてしまわなければ承知できなかった。お幸もずるそうな微笑を含んで二人を見戍(まも)っていた。
「随分家の中は暑いのね」
 時子はお幸の言葉に返事をしないで濡手拭を鏡台の鏡の上から裏へ拡げて富江に隣りあって坐った。そして石膏のように白い膚を脱いで暫く鏡面にうつる自分の映像に見とれていた。肉付は豊かだし、顔はほんのり血色がよいし、身体全体が石膏のように白く、ただそこに町方の娘に見出されるゆるやかに流れる鮮かな血潮の色あいと皮膚ににじみ出る青春の光沢がなかった。時子はそっと自分の小さい堅いぽっとふくらんだ乳を抑えてみた。乳房の表に繊細な静脈が青く透きとおって見える。指先に感じられる乳の感触は冷たかった。胸廓から腹部にかけての少しばかりの肉の緊張が彼女に若いことを保証していた。
「丹羽さんと吉っちゃんなの?」時子は鏡面から眼眸(まなざし)をはずして彼女には不似合な、そっとした優しみで二人を流し見た。十八の富江と菊龍は乱れた髪やはれぼったい眼縁などでひどく不縹緻(ぶきりょう)に見えたにもかかわらず、その脈うちはちきれるような頬の赤らみと張りかたや、後髪へ伸ばした腕のむっちりした肉付がもつ新鮮な血のめぐり方やを時子は見逃さなかった。彼女は嫉ましく思った。二人が持つ、持ち得る快楽の量を無意識に計量することによって、彼女は嫉妬を憶えたのだ。二人は時子の内面にそれだけの争闘があろうとは知らなかった。顔見合わして内密な微笑をとりかわしたあとで、
「丹羽さんと吉っちゃんでしたわ」と言った。お幸はいつものように単衣を脱ぎすてて、さわやかな軽い緋色の下帯一つになって鏡台にむかっていた。小さなくり/\した肉体、小さいながらに充実したお幸の肉体は、骨格というものがまるで表われていなかった。薄紅い血色が滑らかな豊かな肉付の表面に、美しく漂い現われている。円(まど)らかにふくらみ充ちた肉の上に日が美しく流れた。その肉は若い生命が溢れている美しさではなく、衰亡してゆく最後の肉の美しさでもなかった。お幸の蛇のような聡明が神経の端々にしみわたってしっかり喰いとめているような、一分の隙もないしっかりした弾力性のある、肉の発育した美しさであった。お幸はふっくらと円らかにもれあがった自分の乳房をじっと制えているうちに、自足と自負の感情が滾々(こんこん)と湧いて来た。
「本当にあすこの湯は温まるのね」お幸は時子に言った。
「そうですわね」時子はクリームを伸ばしたあとへ、水白粉を顔へなすりこんでいた手を止めてお幸の方を向いた。
「お幸姐さん」と富江が話しかける。
「何ですの、富ちゃん」
「あのね、丹羽さんと吉っちゃんがよろしくって」
「おのろけもいい加減になさいな――早くお湯へ行って来て、晩までに昼寝でもしておかないとまた居眠りが出ますよ」
「はい、はい」
 富江は思いがけないお幸の言葉に急に小さくなってしまった。男の傍にいて甘やかされていた心と肉のほどけたしまりがお幸の一言に常態に復帰したのだ。彼女はそっとお幸を見返した。お幸は小(ち)っちゃいしなやかな掌へ白粉下をぬらしつつ、顔一面にたたきこんでいた。右手の指の指環の宝石が輝く。(姐さん風を吹かして)と想いながらも、お幸の肉体を美しいと思った。ああした小さい肉体でありながら舞台に立って勢獅子(せおいじし)でも踊りぬくときは六尺豊かな男のように見えさせる、お幸の身体に秘めた芸の力をも想ってみた。
「菊ちゃん、お湯へ行かない?」
「ええ、ゆきましょう」
「お湯へいって来ます」
「いっておいで」
 二人は出て行った。二人の出て行ったあとへ茂子が暗鬱な顔をして、黙然と這入って来た。彼女は湯の中に温まっていると、凝結して硬ばった全身の神経が異常な溶けるような痛みを覚えつつゆるんでゆくのを知っていた。彼女は他の芸妓達のように化粧したり膚(はだ)を磨いたりする気にはなれなかった。浴槽から上がって、湯気に包まれて心臓の鼓動を休ませている。少し寒気がすると浴槽に這入って眼をつむっている。そうしたことを繰り返しているうちに頭脳も身体も無気力な無為なゆるみに休息してしまう。茂子はぼんやりした様子でいつも家へ帰って来て、鏡に向っても化粧一つしようとしなかった。色黒な眼尻のやや釣上った容貌を自覚している彼女は、白粉を塗るよりもさっぱりした薄化粧の方が本来の性にかなっていると考えていた。茂子の鏡台はお幸と時子の鏡台の間にあった。時子とお幸は茂子を中に坐らせておいたまま勝手に話し合った。茂子は何もせずぼんやり坐ったまま黙っていた。
「米子と市子ちゃんはどうしたのかしら」
「踊りの稽古じゃないの」
「踊りの稽古にしちゃ長すぎますね。ほんとにしょうがない。また道草をくってぐず/\しているんだよ」
 時子がこう呟いて新しいタオルで肌の水気を柔かく吸い取らせている時、店前の街路で市子の厚味のある声が聞えた。
「ここですのよ、平一郎さん」すると米子の金属性な高い調子が顫えた。
「小母さんは朝から冬子姐さんと一緒に来ていらしってよ」
「ありがとう」それは平一郎であった。彼は学校が退けてから、忘却してもとの住居に帰って階下の主婦さんに笑われたのだ。彼は春風楼はよく知っていたが廓の街を一々知らなかった。それに彼はよく通りつけている坂を下りずに、別な入口の青柳の生えている広小路から這入りこんだので、途中で見当がつかなくなった。それ程にどの家も同じように紅殻格子の二階建だった。彼は小倉の白地の夏服にゲートルをつけた制服姿で、街の十字街に、疲れた足を休めていたのだ。すると右手の細い小路から、桃割に、白の奉書の根付をした、見覚えのある少女市子と米子が踊りの扇を持って出て来て、彼を見て微笑んで二人で何か囁いて行き過ぎようとした。彼は思いきって、「春風楼はどちらでしたっけ」と訊ねた。
「春風楼はあたしの家よ」円顔の毛深な眉毛や睫の鮮やかな背の低い方の少女――市子が答えると、細顔の鼻の高い目のちら/\と動く背の高い方の米子がぽっと頬を染めて、
「平一郎さんでしょう」と言ったのだ。平一郎は嬉しかった。地獄で仏だと思った。三人は親しくなってしまった。三人ともそう深くはないものの、純白な心の一隅にお互いの印象を信じていたのだ。それがこうもたやすく偶然と親しくなり得ようとは思っていなかった。あくまで微妙で必然で壮大な運命のめぐりあわせの片鱗である。とにかく三人は非常な歓喜を感じて歓喜のうちで、平一郎はちら/\と和歌子のことを想い起こし、米子と市子はちら/\とお互いにお互いのうちに自分の敵と友とを同時に見出しながらやって来たのだった。
「二人とも何しているの。早く帰らないで今まで何していたの。用があったらどうするつもりなの」時子の声が家の中から戸外に響いた。
「誰だい」平一郎は家の中をにらむようにして言った。
「時子姐さんよ」このささやくような少女の答が示す感情を具象的にはっきり感じられる準備は平一郎になかった。
「あのね、僕のお母さんをここまで呼んで来てくれないか」
「あたし呼んで来るわ」市子は家の中へ駈け入った。米子は平一郎に「おはいり」と言った。平一郎は家の前に立って、さて這入る気がしなかった。平一郎にとって未知の世界であった。恐ろしいような気さえしたが、心の底では無理に平気に構えていた。彼は口笛で野球の応援歌を歌いはじめたが、周囲に不調和なのに気づいてすぐに止めてしまった。彼は格子の前の鉄柵につかまって靴の泥をがじり/\落としはじめた。
「平一郎さんじゃない?」それは湯上りの帰りらしい上気した冬子だった。
「さ、おはいり。今、学校から帰ったの。おはいり」平一郎は冬子から発散するいい香料の匂いを快く味わった。冬子の後について土間へはいってゲートルの釦をはずしているところへ、母のお光が出て来た。
「冬子姐さん、お帰りなさい」市子が元気よく冬子を迎えた。
「小母さん、平一郎さんはここにいらしってよ」お光にさらに市子は言う。
「え、ありがとう。平一郎、お前遅かったじゃないか」
「うむ」
「今、わたしが帰って来ると、家の前につくねんと立っていらしったのですよ」
「そうですの――こっちへおいで」
「うむ」
 彼はお光にしたがって長い廊下、土蔵の前、暗いじめ/\した土蔵の横を通って、土蔵裏の一室に自分の古机を見出した。彼は寂しい気になった。洋服のまま、室の中央に仰向けになって深い溜息をもらした。彼には人生は堪えられない苦痛なものに思われたのだ。(こんなにまでしなくては、生きていられないのか!)と彼は幼い心に叫んだのだ。その苦しい沈黙と静寂を、室の横手で火の出るような哄笑が破った。声は米子と市子のたまらない、堪えきれなくなって発した笑いらしかった。大方忍び足で平一郎のあとをついて来て身をひそめていたのが、こらえきれなくなった笑いであろう。
「誰だ!」
 するとまた、たまらなそうな、熱情的な笑いが破れて、廊下を逃げてゆく乱れた足音が響いて来た。
「くそ、悪戯をしやがる」平一郎は腹立たしい、自分の領分へ侵入されたような不快を感じた。寂しくなって来た。自分のおちぶれたことが瞭(はっき)りして来て、彼は涙を止められなかった。
「えらくなるぞ! えらくなるぞ!」涙のうちから踴躍するは、ただこの言葉のみだった。
 彼は和歌子に送った。
 ぼくの家は今日から廓の春風楼へ引っ越しました。随分とつぜんで驚かれることと考えます。また何故こんな家へ移ったのかと不思議に思われるでしょう。正直のところぼくの家が貧乏で今までのようにしていてはぼくが学校へ出れないからなのです。春風楼の冬子ねえさんはぼくの母の仲よしで、今度もその人の世話になったのです。いい人です。ぼくはあなたに一度どうかして見せたいと思います。なおぼくはたとえ廓のなかに住居していてもぼくの精神はつねにつねに偉大であり真実でありたいと思っています。あなたもぼくが境遇に余儀なくされて住居をかえた位でぼくを疑ったりなぞはしないでしょう――しかしぼくも今のところ何だかあまり好いてはおりません。
平一郎    和歌子様
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     第三章




 お光母子が生活の根を春風楼に下ろしてから一月もたたないうちに春風楼の女達の間に恐ろしい事が起きた。時は七月、廓にとってはありがたい真夏近い、深い青々した夜の出来事である。
 その夜、市街を貫流するS河の水源地からはる/″\送られる電流は春風楼の茶の間にも強烈な白光を輝かに照していた。悦ばしい夜である。黒々した深い夜の光沢、冷やかで柔らかく吸いつくような初夏の微風の肌ざわりの夜がめぐり来たのである。白日の太陽の下に照されては、瘠せ細った骨格、露わな肋骨、光沢のないもつれ毛、血色の悪い蒼白な肉身も、夜の無限な魅力のうちに、エレキの白光に照らし出されては、一切は豊潤な美とみず/\しさを現わすのである。くろぐろと宝玉のような光輝をもつ黒髪も美しければ、透明で白い肉身の膚に潮のように浮かぶ情熱の血の色も美しい。軽やかな水色、薄桃色、藤紫色の色彩に包まれた肉体の動揺の生み出す明暗の美しさを何にたとえようか――時は午後九時であった。普通の民家では夜も更けかける時分ではあるが、この家、この街では今ようやく「昼が明け」かけた頃である。[#「である。」は底本では「である」]
 春風楼の茶の間の大きな古代青銅の鉄瓶に白い湯気が旺(さか)んに立って、微妙な快い音が鳴っていた。そこに坐っている女将の、夕方洗ったままの束髪に、単衣に黒繻子の帯を軽く巻きつけた清い単純な姿が、青ずんだ眉あとと共に洗煉された美しさを現わしている。楼主は廓の事務所の用事で外へ出ていなかったので、彼女は帳面を調べたり、客帳に夕方浅く酌み交わして直ぐに帰った二人連れの客の名をつけたりした。職業は会社員だと言ったが、様子から会話の模様からが教育のある学校の先生だと彼女はにらんでいた。帰りがけに、「じゃ九月、また会いましょう」と二人が言い合ったことが何よりの証拠だと彼女は思った。
「さっきのお客ね、たしかにあれは高等学校の先生だよ」と彼女は、彼女の前に坐っている女達に話しかけた。電光の光線の一条一条に白熱したぴり/\する神経を宿しているような電光をあびて、部屋の中央に茂子と時子と菊龍とお幸が十字形に向い合っていた。
 冬子は宵からある大川縁(べり)の大きな料理屋へ招ばれてまだ帰って来なかったし、富江と市子米子の二人の舞妓は賑やかな遊びの好きな、県会議員で、素封家で、羽二重商で知られている男の座敷に招ばれていなかった。鶴子は明朝までの約束で出かけてしまっていた。お幸と時子はさっきの二人づれの客が風采の好いのを見て、そのとき電話で招びかけて来た座敷を断わって出たのだが、お客は静かに酒を酌させるだけで愛想一つ言わずにじきに帰ってしまった。お幸と時子はそれが不快で不平であった。
「ほんとにわたしあんなお座敷へ出るんじゃなかった、つまらない」と時子が答えた。お幸は細口の金の煙管(きせる)にゆっくり煙草を填めて、ゆっくり鼻から、格好のよい円味を帯びたすぐれた鼻から、紫の閃きのある煙をすうっと吐き出した。煙は彼女の活々した顔面を洗うように昇ってゆく。ふっくらと重厚さを見せたいちょうにゆった髪が彼女の容貌を異常に強烈に生気あらしめている。彼女は時折下の眼縁と鼻の根本のところに皺をよせて、擽(くすぐ)ったい顔をした。(彼女は静かに坐っている暇に、数知れぬ男を、浮いた恋で欺した記憶に伴う滑稽な、いかに男が馬鹿であるかをまざ/\表わしたような場面を想い起こしていつもくすぐったい顔をするのだ。)そして時々、金と銀の平打の簪(かんざし)で頭を小刻みに掻いた。時子は時子でこうしているつまらなさを種々な取りとめもない淫奔な妄想にすごしているらしかった。顔を動かす度に、顔が紫色に光り、口紅の濃い色が鬼のように大きく濡れて光る。
「もう何時なの」時子は菊龍に訊いた。菊龍は眠気がさして困っていた。坐っていると結い立ての島田髷が重苦しく、根本から頭の髄が重い鉛玉でも乗せたようにしかまってくる。すると身体全体が溶けるような倦怠と痛みを覚えて、無意識な昏迷に引きずり入れられようとする。白光はうつむきがちな彼女の頸のきめの粗いざら/\した白粉膚に紫光を放って反映した。
「菊ちゃん、居眠りなんかして不景気じゃなくって!」
「はあっ?」菊龍は顔をあげて、
「まだ九時すぎだわ」と言った。
「なんだか今夜は暇じゃないの」
「だって、まだ時間も早いんだわ」
「さっきはほんとに馬鹿馬鹿しかった。ほんとうに」
「だって、時ちゃんはまだいいわ。わたしはまだ何処からも言って来やしないわ」
「菊ちゃんはこの間から嫌という程招ばれたからいいじゃないの」
「ま、またあんな悪いことを言うのよ」
 菊龍は眠気で動かない顔面の筋肉を不器用にゆがめて笑った。それを見て情けない、嫌あな顔をするのは茂子だった。彼女はうつむいて、小さな莨盆の小さな赤い火をみつめていた。(こうした夜、こうして閑であることは、ああ何というかけがえのない恵みであろう!)彼女にとっては客席に出て男に接することは苦痛である。その苦痛を堪え忍ばねば生きてゆけない彼女である。彼女には夜は呪わしいものであった。(昼とても彼女には悦びをもたらしはしなかったが。)彼女は輝いた白光の下に厭あな気になって暫くの休息と平和を享受していたのだのに、時子と菊龍の会話が彼女のこの暫くの平和をも擾乱する。茂子は顔をあげて菊龍の円々した顔を流し見た。そのひとときの視線は、彼女が経て来た、通らねばならなかった、蹂み躙られ、虐げられねばならなかった、傷つけられて来た、そしてこれをじっと忍耐して生きて来た、生涯の泣き明かしても足りない怨恨の全力量が恐ろしい淵を開いて睨みつけたものであった。茂子は無意識だったが、無神経な菊龍も吾知らずぞうっとするほど恐ろしかった。
「茂子さん」
「なんですの」
「何んですの、今のあなたの顔は」
「わたしがどうかしましたの」
「どうかしましたもないじゃありませんか、何んですの、その顔は。怖(おっ)かない顔をしてわたしを睨んでさ。わたしはお転婆ですけれど、あなたに恨まれる覚えはありませんよ。それともあったら言ったらいいじゃないの」
「――」
 茂子ははっとした。いかにも自分は恐ろしい顔をしていたらしく思われたからだ。彼女は顔を伏せた。(ありますとも、ありますとも、恨むだけの覚えはあなたにありますとも。あなたは知らない許りですとも!)むく/\と憤怒が逆流しかけたが、(菊龍じゃない、あなたはほんのはしくれ、仇敵(かたき)のはしくれ)と何処か底に囁くものが彼女を再び沈鬱な柔順に返らしめた。
「堪忍して下さいな」下手に出られて、なおそれを根にもつほど悪人でもなかった。
「ほんとに気をつけて下さらないと困るわ」
 それに加勢するようにお幸は煙管の金色を閃かして莨をはたいた。時子はさも世界にこれほど厭らしい、憎悪に堪えぬ生物はないかのように茂子を五分間許りも睨みつけていた。三人の女の客のない暇な間に湧き生ずる不平な倦怠の感情が、茂子一人に異常な憎悪を集注して消費の路を発見していた。彼女らは明らかに意識して自分達の虐げられている現実を知ってはいない。しかし純な少女の心と肉が今の様な状態に魂も肉体も変えるまでには無意識の裡に数知れない苦痛と悩みを忍耐して来たに相違はない。各人の素質には賢さや愚さの相違はあろう。その相違は男を弄ぶか、男を楽しむか、男に弄ばれるか、男を嫌うかのちがった道をとらせはしても、心の根底には、意識を超絶した奥深いところではくみ尽すことの出来ぬ悲哀と憎悪が凝結しているのだ。その感情は個人が感じる小さな感情ではあるが、同時に全人類が感ずる悲痛である。唸きは思わぬところに吐き口を見出すものである。
「ほんとにじめ/\した人間ほど嫌なものはないわね」時子だ。
「あたし大嫌い、どことかの人のように物も碌に言わないでぐず/\しているのは」
「気どっているのさ」
 お幸は菊龍に断定的な答を与えたつもりで煙管をはたいた。故意であり、また故意でなかった。莨の火が弾いて茂子の膝の辺りに飛んだ。白い煙がかすかに一条のぼった。茂子は黙ってその火をはたいた。膝のあたりに小豆粒程の茶色の焦げが出来た。
「あら、すみません、どうかなって――あら、焦げたのね、すみません」
「いいえ」
「茂子ちゃん、着物を着変えてこなくちゃいけないわ」
 あまり流行らない茂子が着変えの夏物の座敷着をもっていないことを知っていながら時子は付け加えたのである。茂子の膝の焦げあとへ小さい涙の滴がぽたり落ちた。それを見て二人はすまないような、それでいてどこか満足したような快さを味わった。それはしびれた自分の手足をつねって感じる快さであろうとは彼女達は知るまい。――よいことにはそこへ、「只今」「只今」と富江と米子と市子が帰って来たことだ。
「女将さん只今――外花(そとばな)がついてあたしが十二枚、米子ちゃんと市子ちゃんが二十四枚。三十六枚ありましたのよ」
 妓達の争いには最後まで沈黙して、仲へ這入らないで見過す女将はさっきから帳面をいじくって過ごしていたが、富江のさし出す花札を手にとってはじめて顔をあげた。
「わりに早かったじゃないか」
「途中で旦那は電話がかかって帰ったのよ。それでももう十時近いじゃないの」
「もうそんな時間かえ」と彼女は呆(とぼ)けたように言った。
 米子と市子は鏡に自分達の艶麗な姿を写しあって、子供らしい、虚栄な悦びを感じあった。無理に飲まされた一杯の酒がまだ身内にこもっていて、熱が全身に脈うってくる。二人は台所へ水を飲みに行った。
「今夜は何故かみんな不景気なのね」
 富江が菊龍の横へ坐ったとき十時が鳴った。同時に門口で大勢の男のはいってくる足音がして、「ここだ、ここだ」と言う声が聞えた。皆の神経が緊張した。そこへ、土間へ、一群の洋服を着たのや、浴衣がけのや、二十人近い人間が、十分に酒を飲んでいるらしく、髭を生やしたもの、眼鏡をかけたもの、まだ生(なま)若そうなやつなどが、みな酒に酔っぱらって、顔を赤くしてはいって来た。
「お幸いるか、お幸!」
 金縁の眼鏡をかけ、肉の豊かな頬を青く剃り、髭を短く刈った四十前後の、乳色の背広を着た男が怒鳴って這入って来た。
「川村さんじゃないの」
「そうだ、そうだ、その川村だ。今日は己の課の奴を皆連れて来たんだ――さ、皆上りたまえ――おい時子、大広間へみんなを案内しないか――おう、これは、これは、女将さん、相変らず達者で、あはっはっはっはっ」
 女将はいそ/\と立ち上がった。あまりいい客ともいわれないが、川村が県庁の土木課の課長で、重要な地位にいることを知っている女将は、まるで歓迎しないわけでなかった。時子も菊龍も富江も立ち上がった。茂子も立ち上がらねばならなかった。
「さ、どうぞ此方へ」
 四人の芸妓がすらりと褄(つま)をとり、いい立姿を見せて階段をのぼるのに引きずられるように、はじめは入ることを渋っていたもの共も一斉に二階にあがった。二十畳近くしける大広間に十八人の人間がずらりと並んだわけである。眩惑(まぶ)しそうな電光が白光を放ち、春風楼は俄かに生き生きして来た。台所では瓦斯の火で湯がわかされ、酒の燗がはじまった。茶の間では川村が胡坐(あぐら)をかいて、酔いのためにたるんだ舌を動かしてお幸に内密の相談をしはじめた。
「ね、分ったかね、己が課長をしている土木課にだね、二、三の己に反対する奴がいるんだ、ね。其奴(そいつ)を別に恐れるわけではないが、それでは円満に事務がとれないだろうじゃないか。そこで己がつまり今日は課一同の懇親会を開いたのだ。どこでって、料理屋はT――さ。何、何故招(よ)ばなかったって。それは帰りにここへ来るつもりだったから招ばなかったのさ。ね、小言はようきいてからにするがいい。ところでだ、今夜は一つ君達美人がみんなして、一同を飲みつぶさして、その上で、ね――ちっと耳をおかし」
 お幸のふさ/\した髪に酒臭い口をよせて、川村は囁いた。
「――ね、つまり一人残らず君達の方でどうにかしてやってくれればいいのだ、ね、分ったかい」
「さ、でも人が足りないかも知れないわ」
「足りなけりゃ招べばいいじゃないか」
「そううまくあいていればいいけれど。一体何人?」
「みんなで――十八人さ」
「それじゃ難しくないかしら」
「だからその辺は君がうまく取り計らってくれなくちゃ困るじゃないか、人が足りなければ足りないように――」
 彼はまた何かささやいた。
「ね、酔っていて何を知るもんかね。ね、要するに何んだ。一人一人が今日己と一緒にここで遊んだということを憶えてしまえばいいんだ。ね、御褒美はまた、ゆっくり山中の温泉へでも連れてってやるから、な」
 そして彼は階段を上がって行った。二階では彼を迎える一同の、酒に酔いしれた、群集心理に濁っただみ声と拍手が起こった。お幸は暫く一人首をかしげて茶の間に坐っていた。川村が頼みいった事柄がどういうことであるかを彼女は洞察していた。それは彼女の社会では珍しいことではない。つまりは一種の「去勢政策」なのである。しかし彼女はさらに十八人の多人数の人間に一時にある種の満足を与えねばならないことを考えたとき、当惑せずにはいられなかった。大抵多くて四、五人の人が寄ることはさほどに珍しいことでないが、二十人近い人数はちょっと工合が悪かった。芸妓の数が足りなかった。十時から十二時までの廓の最高潮のこの時刻に何処の家でも芸妓があいてるわけがなかった。殊に今のようなある行為を必要とする場合では難しかった。彼女は、時子、茂子、菊龍、富江、小妻、と指を折って数えてみた。五人しかいなかった。自分自身を交えても六人にしかならなかった。彼女は立って電話室にはいって心あたりの家へ電話をかけた。何処にも人が空いていなかった。といってむやみに二流三流の家へ交渉することは家の沽券(こけん)がゆるさなかった。どうにかして、娼妓を三人見出すことが出来た。彼女はすぐに来るように急きたてた。これで九人、どうにか切りぬけられるだろうと彼女は考えた。彼女は茶の間へ来て、自分はどうあっても川村一人に任せなくてはなるまいが、あと八人で十七人の男をどうにかしなくてはならないのだが、二人ずつとしても誰か一人は三人の男を相手にしなくてはならない。三人の男を一夜に相手にすることは公娼にとってはさほど珍しいことでもあるまいが、短時間のうちに、一どきに三人の男を相手にすることの経験は少なくともお幸自身にもない。彼女はどう振り当てたものか分らなかった。そこへ女将が一杯のまされたらしく顔を赤くして下りて来た。
「お幸ちゃん、お前さん上がらないのかえ」
「女将さん、それどころじゃないのですよ」
「何んだえ」
「あの人達はね、みんな川村さんの課の役人なんですって、そしてその中には川村さんに反対する人もいるのですって、ね、それでつまり今夜はあの人達にうんとお酒を飲ましてその上――を取り持ってぐうの音も出ないようにしてしまいたいのだってさ――」
「ふうむ――」
「ところが困ることには、あたしはまあ川村さんのお相手をするとしても、あと十七人の人に菊ちゃんに時ちゃんに富ちゃんに、茂ちゃんにそれから小妻さんにも出てもらうとしても、うちの妓(こ)ばかりで五人しかいないでしょう。わたし今電話をかけてやって――屋の奴さんに××楼の桃太郎さんに○○楼のひよ子さんの三人だけを今すぐ来てもらうことにしたけれど、それでも八人しきゃいないわ」
「いいさね、しかたがないからくじ引きして負けたものが損なのさ。そんなに男嫌いばかりでもなさそうじゃないかね。おほほほほ」
「でもいくら男好きでもこんなのはみな嫌がりますからね、女将さん」
「ね、そうおしよ、わたしが今くじをこしらえるからね」
 お幸も仕方がなかった。それに彼女の利己主義は自分だけは川村一人を相手にすればよかった場合だけに、強いて深い思案をする必要もないとした。彼女は鏡で襟を直して、そして二階へ上がっていった。暫くして「今晩は、女将さん」と三人の若い、しかしあまり美しくない妓(こ)が三味線も持たずに上がって来た。
「御苦労さん」女将は三人を手招きしてよびよせた。そして微かな声で五分間もこの夜のわけを話した。三人とも嫌な顔をしたが口では、「ええ、ようござんすわ」と答えた。三人は女将の出した観世縒(かんぜより)を抜きとった。三人共二人の籤にあたった。まだしものそれが悦びでもあるような顔を三人はした。
「それじゃ二階へあがって頂戴」
 三人は階段をあがっていった。二階では狂暴な、野獣性の叫びが一斉にあがった。
「さ、のまなくちゃいかん。我輩のさした盃を受け取らんちゅう法があるか!」
 酒と女の香が十八人の男の理性、習慣をふみにじり吹き倒してしまった。暴風のような乱調子な三味の音響につれて、男の濁った胸の引きさけるような吠えるような野卑な声音(こわね)が、無茶苦茶な流行唄を怒鳴った。そうした嵐の間を一人一人芸妓がそうっと下りて来た。そして女将の手からこの夜の運命を決定する観世縒を抜きとっていった。時子は二人のをとったとき、さすがに悦しそうに白い歯を出して笑った。菊龍も富江も深い溜息をついて、そして仕方なさそうにのぼって行った。茂子は容易に下りて来なかった。女将は思い出して、店に身体が悪くて寝ている小妻を、「小妻さん、小妻さん」と呼んだ。
「はあい」弱々しい返事だ。
「ちょっとここへ来ておくれ」
「はあい」
 小妻はまだ昼からの寝巻姿でひどく蒼ざめて、凹(くぼ)んだ眼縁に暗い蔭を見せながら、腰をかがめるようにして出て来た。
「身体はどうだい」
「――」あまりよくないと言おうとしたが、小妻は女将の眼色から何を言おうとしているかを推察すると、「大分いいようです」と言ってしまった。取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。(実際それは取り返しのつかないことであったことは後に知られる。)女将はささやくように幾度もくりかえした事情を細々と語りきかした。そして観世縒を、もう二本になった、そのどっちかには三人の男を割りあてられる、恐ろしい運命の観世縒を差し出した。小妻はどうしてもぬきとる気になれなかった。彼女はさしうつむいていた。恐ろしい感動の伴った争闘が胸中に戦っていた。ああ弱い心! 彼女はとうとう手をさし出してその一本の観世縒を抜きとった。観世縒には不幸な結び目があった。「まあ」と彼女は言って青褪めた顔に、死相を帯びた眼をどんよりすわらせたままがっかりしてしまった。茂子がやって来た。彼女は万事を察してしまった。あまりに悲惨な事実であった。「いいわ」と茂子は言った。彼女は無理に酒を強いられて、今、大きな盃洗に反抗するように満々と注いで一杯飲んで来たところだった。彼女は酔っていた。
「いいわ! わたしが、小妻さんの分も引き受けてあげるから。小妻さん休んでいらっしゃい。いいわ、わたしが引き受けたわ。五人でも十人でも来れたら来てみるがいい。死んでしまうまで、息の止まるまで何十人でも何百人でもわたしのところへ列をつくって、いっときにやってくるがいい!」
「茂子さん、またお酒をあおったの。いいことよ、わたしもうどうなったっていいことよ」
 小妻はしなびた顔に涙を光らせた。
「小妻さん、茂子さん――来て頂戴な!」
 それは米子と市子であった。階段のところまで誰か追っかけて来たのを振り放って、まだお酌である二人はどうにか下へ逃れて来た。
「今、行きますよ!」
 茂子は追いつめられた。猛虎が死物狂いで追いかけて来た敵に跳びかかるように、階段をのぼっていった。哀れな小妻も、歩むことさえ十分でない小妻も、茂子がどれほど止めようとも、止められれば止められるだけ弱い心の持主であるために、「死」を目前にゆらめかしつつ、とぼ/\と二階の暗にのぼってゆかねばならなかったのである。それからどういうことが起きたかはしるすに忍びない。

 午前四時の薄明け、春風楼の店の間には、お幸も時子も菊龍も富江も泥のようにむさ苦しい深い眠りに沈み入っていた。冬子も二人の少女も寝入っていた。肉身を虐げつくし、精力を絞りつくした疲労が彼女等を死んだようにさせていた。しかし、まだ疲れはてた末、眠られ得る彼女等は幸福と言わねばならなかった。眠ろうとして眠り得ない者の苦痛、火焔にあぶられるような責苦をどうしよう。茂子は眠られなかった。強健な体質でない彼女は一升近い酒を呷(あお)った上、虐(しいた)げられて、外に溢れ出ようとするアルコールの異変が、狂した神経に収縮して身体じゅう五臓六腑に浸み入り凝結して、たとえようのない苦悩がそこから湧き立ち、のたうち廻っていた。白刃のように鋭い神経、身内に悶えるアルコールの狂い、口惜しい口惜しい、死んでも生きても消滅のしようのない口惜しい屈辱。彼女はその苦痛のうちに、ふと、何処からともなく起こる「ううむ、ううむ」という唸り声を聞いたように思った。しかし耳を澄ますと何も聞えなかった。すると又「ううむ、ううむ」と聞えた。ふと眼を横にやると、小妻のいるはずの床が空になっていた。彼女の全身が震撼した。茂子以上の茂子が全身にしみわたって来た。茂子はすっくと立った。そして巨人のようにのっしりのっしり歩いて、立ち止まって唸り声を聞き澄ましながら、のっしりのっしり、悠々と充実した歩みを続けた。唸りは廊下の方から聞えた。夏であるので、中庭には雨戸がいれてなかった。薄明りを受けた廊下の中央に何かがうずくまって「ううむ、ううむ」とうなっていた。茂子は歩みよった。(小妻か)と彼女は思った。そして茂子は肩に手をかけて起こしにかかった。ああ、その時、小妻の苦しみ悶えた恐ろしい死相がじろり茂子をみた。「ううむ!」歯が渾身の力でくいしばられている。全身がじわ/\湧く油のような汗でねち/\濡れている。細い青白い腕が最後の力をこめてわな/\と慄える。そして空間ににゅっと片手を白くさしあげてがっくりもとのままに倒れてしまった。茂子は立っていた。すると足の裏がぬる/\と異様な温か味が感じられた。薄明りでよく判らなかった。よく見つめているうちに茂子は「おっ!」と叫んだ。その「おっ!」という茂子の叫びは複雑なたとえようのない叫びであった。絶望、怨恨、恐怖、驚異、呪い、それらを融け焦がしたただ一図な絶叫。温かいものは血であったのだ。小妻が、哀れな小妻がこの苦しかった人生の最後の名残に滴り流して行った恐ろしい悪血であったのだ! ああ、血であることを認識した瞬間、茂子は、薄明りの冷たい大気をとおして、天地の間より殷々(いんいん)として響き来る警鐘の音響が自分の聴覚に無限的な圧迫を与えて来るのを感じた。それは恐ろしく大きい音であった。彼女は両手でしっかり両耳をおさえ、聴くまいとして身を躍らして家のうちをその音から逃げようと駈けはじめた。
「じゃん/\/\/\/\/\/\/\/\………………………………………………………………………………………………………………………」
 茂子は全身の力ですばらしい速力でどなりながら、四辺から圧迫してくる彼女の一人に聞える警鐘の音からのがれたい一念で、超人間的な力をもって戸障子を踏み破り家中を荒れ廻った。大騒乱が家中の者を一人残らず懶(ものう)い疲労した夢から奮い立ててしまった。白熱した昂奮が一しきり人々を内から照らしたのである。
 その朝、茂子は内よりの火焔で焼かれた枯木のような肉体を荒縄で縛られて、二十幾年の苦しい生涯を生きた人生から切り離されるために、暗い狭い護送馬車に乗せられて郊外の狂人病院へ送られて行った。同じ朝、悪い病患に癈(すた)り切った全身の汚血を、惨めな三十幾年の生涯の最後の夜に、恐ろしい憎むべき、とても大地の上における事実と信じられないような暴虐を受け、そのためにその呪われた汚血を一斉に流出して、血みどろの中に死んで行った小妻の死骸が、小さい棺に入れられて春風楼の裏口から火葬場へ送られて行った。
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