地上
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著者名:島田清次郎 

虐げらるゝ者の涙流る
之を慰むる者あらざる
なり  ――傳道之書
[#改丁]
     第一章




 大河平一郎が学校から遅く帰って来ると母のお光は留守でいなかった。二階の上り口の四畳の室の長火鉢の上にはいつも不在の時するように彼宛ての短い置手紙がしてあった。「今日は冬子ねえさんのところへ行きます。夕飯までには帰りますから、ひとりでごはんをたべて留守をしていて下さい。母」平一郎は彼の帰宅を待たないで独り行った母を少し不平に思ったが、何より腹が空(す)いていた。彼は置かれてあるお膳の白い布片を除けて蓮根の煮〆に添えて飯をかきこまずにいられなかった。そうして四、五杯も詰めこんで腹が充ちて来ると、今日の学校の帰りでの出来事が想い起こされて来た。今日は土曜で学校は午前に退(ひ)けるのだった。級長である彼は掃除番の監督を早くすまして、桜の並樹の下路(したみち)を校門の方へ急いで来ると、門際で誰かが言いあっていた。近よってみると、二度も落第した、体の巨大な、柔道初段の長田が(彼は学校を自分一人の学校のように平常(ふだん)からあつかっていた)美少年の深井に、「稚子(ちご)さん」になれ、と脅迫しているところだった。
「いいかい、深井、な」と長田は深井の肘をつかもうとした。
「何する!」深井は頬を美しい血色に染めながら振り払った。
「え、深井、己(おれ)の言うことをきかないと為にならないよ」長田の伸ばす腕力に充ちた腕を深井はしたたかに打った。そうして組み打ちがはじまった。無論深井は長田の敵ではなかった。道傍の芝生に組み敷かれて柔らかくふくらんだ瞳からは涙がにじみ出ているのを見たときには、平一郎は深井の健気な勇気に同情せずにいられなかった。彼は下げていた鞄をそこに投げ出していきなりうしろから長田の頬を擲(なぐ)りつけた。
「誰だ□」
「己(おれ)だ!」振り向いた長田はそれが平一郎であるのに少したじろいだらしかった。腕力の強いものにあり勝ちな、権威の前に臆病な心を長田も持っていたのだ。そして平一郎が少なくとも級(クラス)の統治者であることをも彼は十分知っていたからだ。ひるむところを平一郎はもう一つ耳のあたりに拳固をあてた。「深井をはなしてやれ!」「ううむ」それで長田は手をゆるめて立ち上がった。
「大河だな」
「そうよ」平一郎は長田を見上げて、必死の覚悟で答えた。
「覚えておれ! 大河!」
「覚えているとも! 生意気だ、深井を稚子さんにしようなんて!」
 するうちに組み敷かれていた深井が起きあがって、黒い睫毛の長い眼に涙をにじまして、洋服の泥をはたいていた。長田は平一郎と深井を睨み比べていたが、「大河、お前こそ、おかしいぞ!」と呟いて、そして悠々と立ち去ってしまった。平一郎は自分が自分よりも腕力の強い長田を逃げ出さしたことに多少の快感を感じつつ、平生あまり親しくはしていないが深井を家まで一緒に送って行くことは自分の責任であるように感じた。二人は路々一言も口をきかなかったが、妙に一種の感情が湧いていて、それが一種の気恥かしさを生ぜしめていた。時折信頼するように見上げる深い瞳の表情は、平一郎にある堪らない美と誇らしさをもたらした。平一郎は実際、自分と深井とは少しおかしくなったと思った。寂しい杉垣の青々した昔の屋敷町に深井の家があった。平一郎は、その郊外の野に近い町はその頃自分が度々彷徨(さまよ)い歩いたことのある街であることを想いながら、深井の後から黙ってついていった。すると深井が黒い門のある家の前で、はじめてにっと微笑みながら、「ここです、僕の家は」と言った。平一郎はぎょっとした。そして思わずこう尋ねた。
「君の家の隣は吉倉さんといやしないかい」
「ええ、吉倉さんですよ」
「ほう――」と平一郎は自分の血の上気するのを覚えながら、「和歌子さんて居やしないかい」
「ああ、おとなりのお和歌さんかい」
「うん」
「いるよ、僕の家と庭つづきだからいつも遊びに来るよ、君、お和歌さんを知っているの?」
「――」
 平一郎は息苦しくなったが我慢して平気そうに、「さよなら」を言って自分の家の方へ引き返して来たが、彼は明らかに不安と嫉妬とが胸に充ちたことを否定できなかった。彼は路々考えて来た。自分は今のさき迄は美しい同級の少年のために戦った任侠な強者であったが、今はこの美少年を自分の恋の競争者として迎えねばならなくなったらしいことを。彼は同級の深井の美しさを長田によってはじめて今日知ったわけではなかった。彼は深井の美しさを本当に知っているものは自分一人かも知れない、とさえ思っている。ただ彼が意識的に近づかなかったのは、十五の彼の心にも浸み入っている深井が、「よい家庭」の少年であることであった。彼が平常(ふだん)長田の乱暴と馬鹿とを憎みつつもなお一味の好意を持ち得たのは、長田の家が貧困であること、そうしてその貧困な彼も学校という王国のうちでは、わりにその巨大な肉体の実力によって威張りちらし得ることにあった。その長田が、その深井を脅迫したのを見ては平一郎は黙っている訳にはゆかなかったのである。そうしてその結果が意外な発見をもたらしたのである。
「こうしてはいられない」平一郎は飯をすましたあとの茶碗や皿を小さな古びた棚にのせて、棚の中からもう一房残っているバナナ(彼はバナナが好きだった)をつかんで、奥といっても一室しかない八畳の、窓際に据えてある机に向った。窓からは晴れやかな青い五月の天と、軽げな白い雲の群と、樹々に芽ぐむ春の生気がのぞかれた。平一郎はバナナの柔らかいうちに弾力のある実をむさぼりつつ、どうもじっとしておれないような気がしてならなかった。彼は自分が和歌子とは未だ一度も話したこともないのに、あの深井が、あ、お和歌さんかい、庭つづきで遊びに来る、と言ったことが不安でならなかった。彼は苟(いやし)くも深井と自分とを対等に置いて考えることを恥辱だと考えた。しかもそう考えつつも、晴れやかな光った青空を眺めていると、想いはいつしか深井のことを、執拗に自分と比較しているのであった。自分と深井とを、和歌子はそのいずれを選ぶであろうか。彼は深井の美少年であることを内心恐れずにいられなかった。いつも桜色の生き生きした血色をして、黒い瞳はやさしい感情にうるみ、ほっそりした肉付と清らかな衣服は貴族的な気品を生ぜしめている。その上品な清純な美しさは自分なぞとても比べ物にならないと平一郎は考えた。しかし、と平一郎は考え直さずにはいられなかった。自分は浅黒い引き緊った顔、濃い秀でた眉毛、引き緊まった唇、鋭くて輝いた眼、男らしい鼻――もし和歌子が男らしいということを価値標準に置けば、深井よりも自分の方が上であろう。彼はまた学校における自分の位置と深井とを比較した。深井は決して学問の出来る方でなかった。席順も下の方であった。しかるに、と彼は考えた。自分は勉強の点数では級(クラス)で三番だが、級長をつとめているし、運動もかなりやっている。その点は単に美少年が特徴の深井に負けはしないと。
「和歌子さんは己のものだ! どうしたって己のものだ! 自分と和歌子さんとは、そんな今日や昨日のことではないのだ!」
 彼はむく/\と湧き立ち燃え上がる烈しい情熱に顫(ふる)えずにいられなかった。しかしその熱情を、その初恋の熱情を、(お前は家もない、父もない、貧乏人の孤児でないか)という意識がじっと抑えるようにおおい被さって来た。ああ、そのためにのみ今まで黙って来た平一郎であった。彼はこの彼の全存在を揺るがす言葉の前に寂しい致命の痛みを感じつつ青い空を仰いだのだ。そうして、そこにはいろ/\の忘れがたい記憶が美しく想い起こされて来た。
 去年の春のことであった。中等程度の学校へはいっている小学校卒業生の談話会が小学校の唱歌室で開かれたことがある。黄金色の春光の射し入る窓際にポプラの平たい葉が早春の微風に揺らいでいた。五、六十人の少年と少女が夢みるようにお互いの話にききほれていた。どんなつまらない話もつまらないということはなかった。憂鬱な、悲壮な、壮大な、もしくは非常に滑稽な幻想がみんなを酔わしていた。平一郎は何故か難しい議論をする気になれず、アラビヤンナイトの「アリババ」の話をした。
「同時に兄の首は血に染みて土の上に落ちました――」と話して、森(しん)と静まった室内を見わたすと、窓からはそよ/\と揺れるポプラの葉が白く光り、得も知らぬ感激が彼のうちに高まって来た。ふと彼が「あやしい」気になって下を見下したとき、彼は威厳のある深い力に充ちた少女の瞳を見出した。先刻(さっき)から彼を視つめていたその瞳は彼の認識を認め感じて暫くたじろいだが、再び燃え立ち彼を襲うのであった。ああ、その瞳はこの時がはじめての瞳ではなかった。それは平一郎がまだ小学校の六年生の時であった。毎朝の朝礼式の行なわれる控室の正面に前年度の卒業生が一丈余りも丈のある大鏡を寄付していったのであるが、級長である平一郎は朝礼の時にはいつも列の一番前に並んでいた。ある朝、ふと眼をあげて大鏡の面を見ると、実にはっきりと、今燃え立ち襲って来ている瞳が写っていたのだ! 初めは幻覚かと思ったが、しかし和歌子も六年の女の組の級長なので、一番列の前にいる筈であった。和歌子に相違なかった。彼は威厳を含んだ秀麗な和歌子の鏡面のすがたを視つめていた。自分の立っている所から彼女の姿が見えるように、自分の姿も彼女のところから見えるに相違ない。こう彼は思って鏡面を視つめていた。奇蹟であった。じっと威厳を保っていた和歌子の映像が笑ったのだ! ああ、毎朝の鏡面を仲立ちにしての二人の対面よ! 毎朝、鏡面で互いににっこり笑(え)み合うことがいかに幼い頃の悦びであったろうか――その忘れがたい瞳が、今力強く彼を襲って来ているのだった。彼はその瞳が何を語るかを、全身をもって感じていた。全身が火焔を吹くように感じられた。しかも明らかに、彼女の豊かな黒髪を品のいい束髪(それは何とかいう西洋の結い方かも知れなかった)に結った髪、古英雄のように濃く秀でた眉毛、威厳と情熱に燃える瞳、ふっくらと弾力を湛(たた)えた頬の肉付、唇の高貴さと力強さ――要するに和歌子の美が燃えていたのだ。しかし彼は「男子の気象」を失わないために痩我慢ではあったが、話を最後まで続けたのであった。その話をしている間じゅうの、あの抑えても抑えても脈々と湧き来る光、歓びの波よ、湧き立ち、充ち溢れる深い魂の高揚よ、彼は話を最後までやるぞ、という意識はあったが、話を終えてからいつ壇を下りたか、いつ壇を下りて席についたかは、うっとりとした輝きに充ちた緑金の夢心地であった。しかもその夢心地の彼に「吉倉和歌子さん」と呼ぶ先生の声が銀鈴のように鳴り響いた。何という偶然。彼の次に和歌子が話をする順番であるとは彼も知らなかったことだった。瞳を上げると、正面の教壇の上には荘厳な感じのする彼女が、藤紫の袴の前に右手をそっと当てて立っていた。窓から入る早春の微風は、彼女の髪のほんの二筋三筋のもつれをなぶり、藤紫の袴のひもが軽やかに揺れているのを彼女の指が無意識に抑える。彼女の崇厳な美しい燃える瞳は、彼の上にぴったり据えられ、弾力ある頬は熱情に紅(あか)らんでいる。ああ永遠なるひとときよ! 力に豊かな、ややふるえた和歌子の音声が語ったその日の話は、微細な一言一句もはっきりと平一郎は憶えていた。
「わたしの父が七、八年前に朝鮮の公使館におりました頃でございました。ある寒い冬のことで、雪はそんなに降りませんでしたが、厳しい寒さで草木も凍ってしまっていました。ある朝、一人の日本人の卑しからぬ奥さんが、辺鄙(へんぴ)な町端れを何か御用があるとみえまして、急ぎ足で歩いておいでになりました。町の向うのすぐ近くには、赤い禿山が蜿蜒(えんえん)と連らなっているのでございました――」(ございました)と言うときの(ざ)のところで、強く揚がるアクセントは忘られないものだ。「その禿山の奥には、その頃虎が沢山住んでおりまして、時々朝鮮の方が食われたそうでございます。その奥さんが町端れへ出ますと、向うの方から何か黄色いものがのそ/\やってまいりました。奥さんは気がおつきになりませんでした。すると黄色いものが恐ろしい声で唸りました。虎なのでございました。何かよい食物がないかと虎はのそ/\町へ出かけて来たところでございました。そこで奥さんの気づかれたときと、虎の飛びかかるときとがいっしょでございました。奥さんはどうすることも出来ませんでした。奥さんはその時、奥さんの一人の子である女の子の新しい着物を持っていらっしゃいました。奥さんは自分は食われても、自分の子供の新しい着物をよごしてはならないとお考えになりまして、その着物の包みをしっかり抱きしめていらっしゃいました。虎は、奥さんの頭から食べかかりました。しかし奥さんは自分を食われている間もじっと地面にふして、まるで御自分の子供を抱くように、その包みを抱きしめていらっしゃいました。そして町の人達が鉄砲を持って集まって来ました頃は、血に染まって死んでいらっしゃいましたが、奥さんの御子さんの新しい着物だけは、奥さんの胸のところで温められて、まるで子供のようにそのままになっておるのでございました――」
「その子供が――」平一郎ははっとして直覚した。そしてその直覚が壇の上の和歌子にも伝わったのである。厳粛で、愛らしいより崇厳な和歌子の顔に、自然な微笑が現われたのである。ああ、そのひととき!
「その奥さんの子供がわたしであったと、いつも父さんが話して下さいます」
 その日の夕暮、平一郎は学校の門前で彼を待つようにしている彼女に出遭った。和歌子は微笑した。それは自然に溢れ出る微笑であった。何か言おうとすると、彼女がすた/\歩みはじめた。もうかえろう、つまらない、何んだ女のために、と思って立ち止まると、和歌子が立ち止まってじいっと彼を待つようにした。そうして和歌子が何か言いたげに振り返って立ち止まると、今度は彼が不可抗な逡巡を感じて近づき得なかった。そうしたもどかしさを繰り返しつつ、平一郎は寂しい杉垣を廻らした邸町にまで引きずられて来ていた。そして、その町の彼方に野原の見えるはずれに近い家(そこは実にかの深井の隣家であったとは!)の前で和歌子が立ち止まった。そして振りむいた時の瞳の力強さ! 平一郎は恐ろしくて傍へ寄れなかった。が二人とも笑い合ったことは笑い合ったのだが。和歌子が生垣の門内に姿をかくしたらしかったので彼は思い切って家の正面まで行った。すると彼女は門口に身をひそめて彼を待っていた。
「ここですの、わたしの家は」
 彼女は真赤になってうなずくように顎を二、三度振って、そして鈴の音のする戸を開けて家の内へはいり、もう一度うなずいて戸を閉めてしまった。ああその後の寂しさともどかしさは嘗て恋した「身に覚えある」人でなくては知るまい。森(しん)とした夕景に物音一つしなかった。彼は家々に灯の点くまで前に佇んでいたが、心待たれる和歌子の声一つしなかった。彼はその夜、郊外の野原をさまよって家に帰ったのであったが、その日から彼には和歌子という少女が、忘れられない意識の中心位を占める人間となってしまったのであった。そうして、忘れられていた小学校の時分の和歌子に関する記憶が堪らない生気をもって甦って来るのだった。熱情を瞳いっぱいに燃えさした瞳、秀でた古英雄のもつような眉、弾力に充ちてふくらんだ頬、しなやかで敏捷で、重々しい肉体のこなし方――それは十分間の休み時間における控室の隅に、または微風に揺らぐ廊下のカーテンの傍に、運動場の青葉をつけた葉桜の木蔭に、ひっそりした放課後の二階の裁縫室の戸口に、またはオルガンの白い象牙の鍵をいじくっている四、五人の少女の群の中に、到るところ、いたる時に和歌子の美しさが彼に甦り圧倒して来た。殊に平一郎が自分と和歌子との恋は実に深いものであらねばならないと考えしめたのは、朝、始業の鐘の鳴らないうちは、小学六年生である彼は同級の少年達と控室で組み打ったり相撲したりして、空しい時の過ぎゆくのを充たしていたが、平一郎はいつも三、四人の少年を相手にしてその相手を捩じ伏せるのだったが、そうした折の朝の光を透して見える和歌子の賞讃と憧憬に充ちた瞳の記憶、また運動場の遊動円木に腰かけて、みんなして朗らかに澄んだ秋の大空に一斉に合唱するとき、平一郎の唱歌に聴きいる少女(和歌子だ)、その少女にあの「いろは」四十八字の歌を唄うとき、いろはにほへと、ちりぬるを、わかよたれそ、つねならむ……その「わかよ」のところを一と際高く唄った心持――平一郎には懐かしく思うのは自分のみではなく、和歌子もまた自分を懐かしく思ってくれているに違いないと考えられたのだ。そうして、学校の往き来に見交わすだけでは寂しさに堪えきれず、それとなく野原をさまよい歩いては、和歌子の家の前を胸を轟かして通って来るのをせめてものことと思うようになってからでさえ、すでに一年を経ているのであった。その大河平一郎にとって、深井が和歌子の隣邸であり、「あ、お和歌さんかい」という親密さであることは大した問題でなければならなかった。
「どうしたものだろうか」平一郎は飯を食い、バナナを食ったせいも加わって、机に頬杖ついたまま考え込むというよりも苛々(いらいら)しい心持で夢みつづけていた。外界はぽか/\と暖かい五月の陽春であった。庭の棗(なつめ)の白っぽい枝に日は輝き、庭の彼方の土蔵の高い甍に青空が浸みいっている。平一郎はこうした穏やかで恵み深い外界の中で、今、自分が堪らない苛立たしさに苦しまねばならないのが情けない気がした。耳を澄ましていると、裏土蔵の向うの廓の街からであろう、三味の音がぼるん/\と響いて来る。その三味の音は平一郎に母のことを連想させた。冬子姐(ねえ)さんの所へ行ってまだ帰らないのがまた不平で堪らなくなってくる。そうしてその底から和歌子のことがこみ上げてくる。彼は苦しくて堪らなかった。和歌子のことを想うと同時に深井のことが付き纏ってくるのだ。平一郎はまだ見習いの少女の弾くらしい三味のぼるん/\を聞きながら、自分の現在は到底母一人子一人の、他人の家の二階借りをしている貧乏人に過ぎないのだと考えた。それは分り過ぎるほど分り過ぎている事実ではある。しかもこの事実は世間的な解釈では一切の美と自由と向上とを奪われていることになるらしかったのだ。現に深井はいい家庭のお坊っちゃんである。そしてそのお邸を持っているという偶然の事実があの一年(いな、それよりももっと長い年月)以来荘厳な近寄り難いものとして来た和歌子と隣り合わせて、「ああ、お和歌さんかい」と言わしめているではないか。そうして更に考えてみれば、和歌子自身も父は今は退(ひ)いてはいるが二流と下らない立派な外交官である。とても自分などと比べものにはならない――この考えは常に平一郎にとって最も手ひどい打撃であるように、今の場合も致命的な打撃であった。自分が貧乏人であるという一事実のために、自分は自分の和歌子をただ黙して、なるがままに放って置かねばならないのだろうか。それは何ともいえない馬鹿らしい、しかも悲痛なことのような気がした。そんな訳がある筈がないという気がして来た。自分は恋しているのだ、和歌子を! この事実の方が貧乏である事実よりも更に有力で権威がなくてはならないはずだ。たとえお邸の坊っちゃんであろうとも、あの単に美少年で感情が優しいだけの深井に自分が和歌子を譲るわけは寸毫もない、と彼は考えて来た。平一郎は自分の心がどういう進み方を、どういう熱し方をして来ているかに気づかなかった。彼は常々「貧乏である」というだけのことで、世間が一切の自然な対等的な要求を踏み躙(にじ)ることを当然にしているような事実に反抗せずにはいられなかった。彼にはそれに反抗する、あの不可抗なる力を恵まれていたのだ。平一郎は長い間ぶる/\慄えながら考えていたが、もうじっとしている時でないという気がした。彼は手紙に自分の思う通りを書いて和歌子に送ろうと決心した。そうして、もし和歌子が返事をくれないか、冷淡なことをいってよこしたなら、もうあんな女一人位どうだっていい。自分は一生もう女のことは気にかけないで、その代り世界一の大偉人になってやるまでだ、という殺伐な気にさえ、彼は真剣になっていた。彼はペンでノートを切りさいた紙に書きはじめた。「小生は」と学校で習ったとおり書こうとしたが気にいらない、「私は」としても気にいらない、彼は平仮名で「ぼくは」と書きはじめた。
ぼくは大河平一郎です。あなたはきっと知っていらっしゃるでしょう。それでぼくはそれについては何も書きません。ぼくはあなたを知っています。ぼくはいつもあなたのことを思っています。苦しい程思っています。昨日も今日もぼくはあなたの家の近くを廻って歩きました。まる一年近くになります。あなたはあの小学校の談話会のことを憶えていらっしゃるだろうか。ぼくはあなたの話を今でもはじめからしまいまで暗誦することが出来ます。ぼくはあなたともっと仲よくなりたくてなりません。このままではぼくはやりきれません。あなたはどう思いますか、仲よくすることを望みませんか。ぼくは貧乏で母とぼくと二人暮しです。あなたはぼくのようなものと仲よくするのを恥だと思いますか。もしそうならそうだと言って下さい。しかしぼくは貧乏でもただの貧乏人ではないつもりです。ぼくはきっと貧乏でも偉くなります。きっとです。ぼくはあなたと仲よくしたいのです。仲よくしてくれれば、ぼくはもっと勉強します。そうして偉くなってあなたをよろこばします。どうぞ返事を下さい。日曜日の朝ぼくの家の前の電信柱のところに来ていて下さい。
大河平一郎    吉倉和歌子様


 彼は書き終って読み返すことを恐れて、そのまま封筒に入れて大きく習字の時のように楷書で「吉倉和歌子様、親展」と書いた。すると重荷を下ろして一休みする時のような澄みわたった気持がした。それは少年ではあるが一歩踏み出したときの自己感の強味であった。同時に未知に踏み出した臆病と不安が湧かないでもなかった。彼はどうしてこの手紙を渡そうかしらと、やがて考えはじめた。明日の朝和歌子に路で会えば渡せないこともなかったが、遇うかどうかは分らなかった。今夜にでも和歌子の家の前へ行くことも会えるかどうか分らなかった。しかし彼はじっとしておれない気がした。彼は今まで脱がずにいた小倉の制服を飛白(かすり)の袷(あわせ)に着替え、袴を穿(は)いて、シャツのポケットの中へ手紙を二つ折りにして入れたまま戸外(そと)[#ルビの「そと」は底本では「そよ」]へ出た。彼は和歌子の家へゆくつもりであった。戸外はもう夕暮近くで、空には茜(あかね)色の雲が美しくちらばっていた。彼は明らかに興奮していたが、路の途中まで来ると、また深井のことが彼に迫って来た。自分は深井に対してすまないことをしている。それに深井に秘密でこの手紙をやることはいかにも卑怯で面白くないという気がしきりにした。「それに――」と彼はある自分の心の中に発見をして、「自分は深井にある友情を、和歌子とは別な、友情を感じている」と叫ばずにいられなかった。そしてその友情の性質は非常に誇りの高い、盗犬のように、こっそり和歌子に手紙をやることを許さないものであった。「どうしたものか」と彼は十字街に立って考えこまずにいられなかった。十分間も彼は佇んでいた。路の正面は和歌子の家のある邸町へ、右へ下る坂は母がまだいるであろう、冬子のいる春風楼のある廓町へ、左手の坂は大通りへ通じていた。彼は往き来の人を見送り見迎えていた。すると電光のようにある悦ばしい考えが「踴躍」という言葉そっくりの感情と共に現われて来た。それは、深井自身に平一郎が自分の恋を打ち明けて、そうして自分の手紙を深井によって和歌子に渡して貰うことであった。「それがいい、それがいい……」平一郎は自分の家へ引き返しながら、それがいかに男らしい態度であるかに想い及んで嬉しくてならなかった。
「それがいい、それがいい、自分は和歌子を恋している、また自分は深井にも醜くありたくない。そうだ、これがいい、これで和歌子が自分よりも深井を選べば、もしくは選んでいるなら、自分は残念だが――」(思い切る)とまでは自分に明言できなかった。しかし自分が醜いことをしなくてもすむという心安さはあったのだ。
 平一郎が家へ帰っても母のお光はまだ帰っていなかった。彼はいつもひとりであるときするようにランプの掃除をして、薄暗い三分芯に灯をともして、そうして明日の代数の予習をはじめた。五月の日はとっぷり暮れてしまった。裏の廓の方からは、さっきとはちがった冴えた三味の調べがりょうりょうとしめやかな哀れ深いうちにもりんとした芸道の強味を響かせて聞えて来た。平一郎は何故か「偉くなる、偉くなる、きっと偉くなる」と呟かずにいられなかった。母を待つときの寂しさがやがて少年の胸に充ちて来た。
 夜がかなりに更けても母のお光は帰らなかった。そうして灯の下で夕飯も食べないで母を待っている平一郎には、いつも母の帰りの晩(おそ)いとき感じる、あの忌わしい、実に言葉に発表出来ない、鋭い本能的な疑惑を感じはじめて来た。恥かしいことであると思った。母が帰って来て穏やかな顔を見せてくれれば、すぐに消えてしまう、そしてすまないと考える忌わしい疑念。そうした恐ろしい疑念を現在自分の母に対して起こさなくてすむ人は幸福である。平一郎は刃のように寒く鋭くなる疑念を制し切れないままで、自分の「貧乏」を悲痛な念で反省せずにいられなかった。
 貧乏、貧乏! ああ貧乏であることがどれ程まだ十五の少年である彼のすなおに伸びようとする芽を抑制し、蹂み躙り、また鍛錬して来たであろうか。彼が自分の「貧」ということを身に沁みて感じたのは彼が十二の初夏のことであった。その頃までは彼にも自分の家というものがあった。この金沢の市街を貫き流れるS河の川べりに、塀をめぐらした庭園の広い二階建の家が自分の家として存在していた。無論自分の家ではあるが自分達の住む部屋は前二階の二室(ま)きりで、奥二階にも店の間にも幾多の家族が借りていたのだ。それでも自分の家であることにかわりはなかった。小学校の五年あたりまでは裕福でないまでも、彼はのんびり育って来ていた。川瀬の音がすぐ真下に聞かれる庭園の梅の樹や杏の樹や珊瑚樹の古木を、彼はどんなに愛したか知れない。父のいないということ、父が三つのとき亡くなったということ、その淋しさは無論彼に迫ったが、しかし父の生活していた家がこの家であるという自覚、父はこの辺りでも有力な貿易商であり、また町中での人望家であったということ、などがその淋しさを補わないでもなかった。息(やす)まず限りなく流れるS河の水音がそうした彼の感情に常に和していたことは言うまでもない。しかし、平一郎にも苦しむべき時がやって来ねばならなかったのだ。母のお光が彼の三つの時から十年近い年月を女一人の力で亡き夫の家に居据ったまま暮して来たことは、並大抵の苦労ではなかった。しかし人力もそう続くものではなく、ある限度を越えれば運命に負けねばならない。平一郎が成長するにつれ生活費もかさまり、また彼の前途に控えている「教育費」の心配も予めして置かねばならなかった。お光は十幾年住みなれた亡夫の唯一の遺産である「家」を売ったのである。そして平一郎は「父のない、そうして家のない」少年となったのである。平一郎は悲しい「零落の第一日」をよく憶えていた。梅雨上りの夕景の街は雨にぬれて空気は爽(さわ)やかであった。うるんだ空に五色の虹の光輪がかかっていた。家財とても荷車に積んでみるとそんなになかった。平一郎は三度目の、そして最後の移転車(ひっこしぐるま)のあとについて歩いた。零落したという感じ、もう家がないのだという心細さ、世間が急に狭く圧迫を強めて来るような淋しい感じ、それがその時の空にかかる虹を見ながら歩いた平一郎の実感だった。移転してしまってからも、長い間、平一郎は新しい家になじめなかった。あまりに前の家との相違がはげしかった。大きなS河のたゆみない流れの音の代りに廓の裏手から三味線の音が響いて来た。広い自分の家の代りに、八畳と四畳の二階借り、しかも階下は芸娼妓の紹介を仕事にしている家族であり、これまで手持ぶさたにしていた裁縫を、母は本気に仕事としてはげまなくてはならなくなっていた。彼は母に自分達はそれ程急に貧乏したのか、と尋ねたことがあった。母は「お前さんはこのさき中学校へはいり、高等学校へはいり、大学へはいって偉い人にならなくてはならないのです。それにはお金がいりますでしょう。だから今のうちになるべく倹約して置かなくてはいけませぬ」と言ってくれた。母は又、こうして廓の傍へ来たのは、する仕事(裁縫)の値がいいからで、お前は廓のそばにいても立派に勉強してくれなくてはいけないとも言ってきかした。平一郎はほんとに自分は偉くならなくてはならないと考えた。この精神が彼を小学校を首席で卒業させ、またこの精神が彼を単なる意気地なしの代名詞である優等生たらしめることなく、またこの精神が今彼をして男らしく和歌子に自分の真情を打ち明けようといたさしめていた。この精神はいずこより来たか。亡き父の意志よりか、母のお光の献身的な愛よりか、あるいは貧しい寂しい境遇の自覚よりか。そのいずれもであるには相違ない。しかしその根源にいたっては誰人(たれ)も知ることは出来ない。それを知るものは平一郎の内なる平一郎を生みたる宇宙の力そのものである。そしてそれは人間の言葉としては表現出来ないものである。
 九時近くになってから母のお光は帰って来た。彼女は方々お得意先へお礼旁々廻って、仕事を集めていて遅くなったと言って、路であんまり甘そうなお饅頭があったので買って来たといって、卵形の饅頭を拡げて自分から先に食べるのであった。平一郎はその母の穏やかな様子を見ると、いままで忌わしい疑念を抱いていたことを恥じ恐れずにはいられなかった。彼は嬉しくなって、自分のために夜遅くまで仕事を集めに歩いている母の苦労が思われて、すまない気と、嬉しい気でいっぱいになった。彼は饅頭を食べながらもう少しで和歌子のことを打ち明けてしまうところだった。それ程彼は歓ばされていたのだ。
「ことによるとわたし達は冬子さんのいる春風楼へゆくことになるかも知れませんよ。あすこの離室(はなれ)が空いているから、そこをお前の勉強室なり、寝室なりにしておいてね」
「で、母さんは何をするのです」
「あすこの家のお仕事(裁縫)を一手ですることになるかも知れませんよ」
 こう寝しなにお光は平一郎に話した。次いで平和で健康な眠りが来た。

 平一郎母子(おやこ)が借りている家の階下(した)は芸娼妓の紹介を業としている人であった。遊郭の裏街、莨店(たばこみせ)や駄菓子屋や雑貨化粧品店や受酒屋や[#「受酒屋や」はママ]などが廃頽したごみ臭い店を並べている間に、古びた紅殻格子の前に「芸娼妓紹介業、中村太兵衛」と看板がぶら下げてあった。主人の太兵衛は生まれつき体格が逞しく力があって、青年時代は草相撲の関取であったというが、そして女と酒と博奕と喧嘩のために少しあった資産もなくしてしまった三十の頃、今の主婦さんに惚れられて世帯をもったのだというが、しかし今はもう五十を越して早衰した老爺にすぎなかった。芸娼妓紹介の仕事も、もと芸妓であった主婦さん一人でやっていた。主婦さんがお光に、もし今の亭主が自分から惚れた男でなかったなら、そして亭主を捨てることが昔羨しがらせた朋輩やお客の手前がなかったなら、そして亭主の巨大であった筋肉を奪い、聴覚を犯し、眼を悪くした悪い病気に対して多少の責任を自分に感じないなら、とうの昔に捨てて新しい生活の道を選んだろうと言ったことがあった。実際お光よりは三つ四つ若い主婦さんにとって、昔強かった時分のつもりで一日中怒鳴りちらして暮らしている亭主は重荷であるらしかった。お光は偶然ではあるが、こうした家へ住居を定めたことを後悔することも度々であったが、またこうした家の二階を借りたことがお光の生活に、また平一郎の生活に、二人にとって実に重大な、運命の力を感じしめることになろうとは後にいたって思いあたることであった。それは「冬子」とお光母子とを結びつけた偶然な事実であった。
 お光母子が芸娼妓紹介の家の二階に移り住んではじめての秋十月のことだった。お光は夕飯をすまして、食器を薄暗い台所で洗っていた。階下の茶の間ではその日午過ぎから高声で主婦さんが嗄(か)れた声の男と話している何かの話のつづきをまだ喋っていた。此家(ここ)へ来てからまだ五月とたたないのであったが、誘惑されて来たらしい色の黒い田舎娘を坐らせて置いて、
「九十六カ月の年期で五百円より出せぬ」
「いや、これで玉は上玉だあね、八百円出しても損はしない」
「――冗談でしょう。こんな代物に八百円出せとはそれあ無理でさあね」
「それじゃ七百七十円まで負けましょうや」
「どうして! 五百円が精いっぱいでさあね。お前さんだってそう骨折って育てた子供という訳じゃありますまいし、なんだね、思い切りの悪い。さんざ初物の御馳走を吸いつくしたかすをなげ出すからってさ!」
「御冗談でしょう。それじゃまあ六百円――」
「ええ、しかたがありませんや、もう五十両で手を打ちましょうや」
 こうして一人の女の五百五十円で売られてゆくような事実を幾度となく見せつけられている彼女は、またそうした話であろうと胸を痛めつつ聞かないようにしていた。何のあてどもなく田舎から出て来て行先に困った若い女、そうした女を再び浮かぶ望みのない深淵へ引きずり下すのみでなく、そうした深淵に生きる女達が、ふとした不注意から、思いがけぬ不意な熱情の迸(ほとばし)りから、また自然の苛酷な皮肉から、主の知れない呪われた子を生み下すとき、その不幸な子供を若干の金で貰い受けて、そしてじり/\餓え死にさせるようなこともするらしかった。大抵の嬰児は結核か梅毒で死んでしまった。死なねば、乳もやらずに放って置けば消えるように萎びて死んでしまった。――お光が聞くまいと努めても話し声は聞えて来た。それは自分の無力を自覚している彼女にとって、どうかしてやりたいという同情がおきるだけ、それだけ辛いことであった。
「それあもう万事わたしの胸の中にありますよ、そういうことにぬかりはありやしません」
「え、そりゃぁ主婦さんのことですから、それでもまあ念には念を入れろっていいますからな。えっ、はっはっはっは」
 お光は食器を洗い終えてしまってからも、悲しい忌わしい人達に会うのに気を兼ねて、暫く土間の薄暗がりに立っていたが、話し声はぴったりしなくなった。彼女は思い切って茶の間に出た。すると主婦さんと人相の卑しい四十男とひとりの女とが、赤暗い電燈の光に照らされているのを見た。白味のかったセルの単衣に毛繻子(けじゅす)に藤紫と紅のいりまじった友禅をうちあわせた帯をしめている、ほっそりした身体つきが、お光には卑しい身分でないことを知らしめた。お光が水にぬれた手を前掛で拭いつつ土間の片隅から上りかけると、隅に女のらしい水色の洋傘がよせてあった。傍を通るとき男は「いや、どうもすみません」と少し背を曲げるようにした。そのとき女はそっと顔をもたげて黙礼した。非常に美しいとはいえなかった。少し蒼味の勝った顔全体には、無愛想な精神的な上品さと、初心な純一さと、苦労して来たらしい淋しい神経質な陰鬱さが現われていた。女は何気なく黙礼したらしかったが、そこに予期しないお光を見出してはっと竦(すく)んだらしかった。赤くなるより青く沈む質(たち)であるらしかった。お光は二階へ上って、またひとりの女が深淵へ堕ちてゆくのだと思うといい気がしなかった。そして自分の無力が恨めしかった。平一郎ひとりを立派な人間に育てあげること一つさえ全力をつくして足りない自分がみす/\多くの人の堕落して行くのを見すごしていなければならない自分を悲しく思った。もっと世の金力、智力がこうした人間を助けることに用いられなくてはならない気がした。彼女は平一郎が昼の疲れで早く寝てしまったあとで、仕事する気になれず寝てしまった。疲労は彼女に熟睡を与えるに十分であった。
「恥さらしめが!」
 胸苦しい悪夢にうなされているお光の夢を声が醒ました。夢ではないかと首をもたげると硝子戸越しに下弦の月が寒く照っていた。
「年甲斐もない、今のざまになっていながら、よくもまあこんなことが出来るものだね、お前さんは!」たしかに階下の主婦さんの声である。
「うう、汝(われ)の知ったことかい」
「知るも知らんもありゃしない。せっかく納得して自分からゆこうと思い立った大切な女(ひと)に、お前さんが今夜のようなことをしかけちゃ、このさきどんなことがあるかも知れないという気になってしまうじゃないかい。なんぼわたしが毎日毎日欠かさず御飯を食べさしているからって、そうおかしな色気を出してもらっちゃ商売が出来ませんよ。女が欲しかったら下店(したみせ)へ五十銭もって行ってくるといいんだよ――ねえさん、気を悪くしないで下さいよ、ほんとにしょうがないのですから」
「黙っていろ! この己を耄碌(もうろく)扱いする気だな、貴様は」親爺が立ち上ったらしかった。主婦さんの甲高い声が聞えた。「あ、何を――」という慎しみを忘れないうちにも全力的な悲鳴に似た女の声がして、やがて、けたたましく階段をのぼって来た。細帯のままのさっきの女が、はげしい動悸と、恐怖と、怒りを、抑制しつつお光の傍へよって来た。お光は床に起き直った。秋の月の光がかすかに射し入っていた。
「こちらへいらっしゃい」
「は、どうも相すみません」
 女はしょんぼりそこに坐って慄えていたが、恐ろしさよりも怒りの方が勝っているらしかった。何もかもがあまりに明らかに判りすぎている事実であった。お光は自分の枕をずらし、座蒲団を円めて枕の形にして、自分の床の傍をあけて、「こちらへはいって、おやすみなさい」と言った。女は「すみません」と小声で言いながら、お光のわきに小さくかがまり横になった。お光も横になった。そして階下の物音に耳を澄ました。しかし階下はひっそりして、主婦さんも親爺も静まりかえってしまった。お光は女のほっそりした肩先の止め得ない戦慄を感じていた。偶然ではあったが、お光はこの時女と自分との心がぴったり融合し合っているのを感じないわけにゆかなかった。ああ、哀れな女よ、やがて戦慄の波が大きく刻みはじめてすすり泣きになった。お光も一緒に泣きそうになってしかたがなかった。お光は肩のあたりをさすってやった。「わたしは、不仕合です、ほんとに、ほんとに……」女は涙をこらえようとしてその度に一言ずつ呟いて、また泣いた。
 しかし涙は悲しみを温める力をもっている。泣くだけ泣けばあとには雨上りのような、はれやかさが生まれ出る。お光はそれを自分の体験で知っていた。
「さ、こっちをお向きなさいな、泣くのはよして。どうせ今夜は眠られないのだから、こっちを向いて話でもしましょう」
 女はやがて泣き止んでそっと寝返りをうった。お光は涙にぬれた蒼ざめた、品のある、淋しい女の顔と勝気な瞳とを見た。そして、二人は互いに深いところで了解し合っていることも確かめられた。女は二十歳であった。母は七つの時、父は今年の夏死んでしまったと言った。家は能登の輪島の昔からの塗師であるのだが、父の死後一人の兄がなまじっかな才気に累(わずら)わされて、輪島塗を会社組織にしようと思い付いて会社を創立したが、その株金を使いこんで、もしその金が無い時には監獄へ入れられる――つまり、その金をこしらえるために嫁入前の身体を芸妓に売ろうとするのだと女は言った。女は三味線も琴も生花も茶も娘の頃に習い覚えているし、ことに鼓(つづみ)に対しては興味もあり、自信もあり、修行ももっと積みたいと言った。最後に、自分はどうかして真実に芸ばかりで、芸妓としての生活を送りたいと言った。お光には女が本当に処女であるらしいことははじめから会得されていた。態度に一種の落着きのあるのは女の素質と知恵と教養の影響であって、「男を知った」すれっからしの故でないことも知ることが出来た。兄のために金をこしらえたい、という願い、その願いを身を売るということで充たす、そしてその芸妓稼業を芸ばかりで勤め上げたいという意気組、そこにはある厳粛な精神はあったが、同時に世間を知らない生気さがあった。お光は深い溜息をもらさずにいられなかった。女は次いで、自分の名は冬子であり、明日からこの裏手の廓の春風楼へ出ることを打ち明けた。
「冬子さん」とお光は言わずにいられなかった。「わたしは今、あなたをそういう商売をさせたくなさで胸いっぱいですが、しかしそれはどうにも仕方がありません。あなたの芸一つでやって行こうというお志は本当に好いことだと存じます。どうぞその志を捨てないでやって下さい。たとえ芸一つでやってゆけない破目になろうとも、そのお心さえ堅くもっていらっしゃれば――そりゃぁもう死ぬほど辛いことが多い――辛いことばかりでしょうよ。わたしも丁度あなたのお年の時分から苦労をしつづけで来ておりますが、肝心なことはやはりそうした一念を忘れないということが何よりの頼りになることではありますが――」
 お光は平一郎のこと、自分のこと、どうにか平一郎の成長を祈っていることを話した。そして、冬子に住居も近いことだから親身の叔母とはゆかなくとも、他人でない小母がいると思って訪ねて来てくれ、出来るだけのことはしましょうと言わずにいられなかったのである。二人は寒い下弦の月の暁近く濃霧にうるむ頃まで語り明かし、次の朝、冬子は春風楼へ「芸妓になる可く」行ってしまった。
 その夜から三年の時が過ぎていた。三年の時はあらゆる一切の万象に過ぎていた。平一郎をして中学三年生で恋愛の悩みを知るようにならしめた力は、冬子をして廓でも名妓の一人として立たしめていた。娘の時代に仕込み入れた人間としての教養と、天稟(てんぴん)のしとやかな寂しいうちに包んだ凛然(りんぜん)たる気象は、彼女をただのくだらない肉欲の犠牲者とのみはしておかなかった。芸ばかりで立ってみせる、ひとかどの名妓となってみせる、という意志が彼女を引き緊め、彼女の持つ真価値を十分に生かすことに力があった。彼女は無論「芸ばかり」で勤めることは不可能であった。朝、寝乱れ姿でお光のところへ「小母さん」と駈け込んで、仕立物に精出しているお光の膝に俯伏して初めてなめた地獄の苦痛を訴えたことも遠い時の彼方のこととなってしまった。ただ彼女にとってはそれは官能の満足とならずに精進の鞭撻となった。彼女は唄うことは上手でなかったが、三味線、琴、踊り、ことに鼓は、師匠も名人の素質があると賞め、彼女自身にも自信があった。彼女は辛い勤めのあとの悲しい想いを、凛然たる、は、おえ、よお! の懸声と森厳な鼓の音色とによって解脱することが出来た。そしてお光も針仕事には慣れて、街の人々にもなじみが深くなって来ていた。お光と冬子とのあの夜以来結ばれた交りは肉親の叔母と姪でない代りに、精神上の母子よりも深い仲となって来ていた。二人は互いに互いの苦しみを苦しみ合い、互いの楽しみを楽しみ合うことを悦ばずにいられなかった。平一郎にとってこのすぐれた女二人――母と冬子との愛が彼を培うに役立ったことは言うまでもない。そうして三年前にお光の寝床を唯一の避難所とした冬子は、「名妓」と言われるようになった今、お光のためにはよき生活上の相談相手となり得ていた。

 平一郎が和歌子への手紙を深井によって伝えようと決心した日の次の日の午後、彼は一事を敢行したことの英雄的な傲(おご)りを感じながら靴音高くかえって来た。なぜ靴音が高いか。彼は「こと」を敢行したからだ。朝、学校での運動場の芝生で深井に会ったとき深井は優しい感謝の微笑を送ったが、話をする勇気は持たないらしかった。彼自身もポケットの手紙を握りしめながらつい口一つ利(き)けなかった。一時間目の国語の間じゅう彼は自分の卑怯を責めつづけていた。そしてノートに「吉倉和歌子」の名を五十あまりも書いてしまったのに驚いた。機会は四時間目の体操の時についに来た。彼は鐘の音につれて校舎の方へ走り去ろうとする群の中の一人を「深井君」と呼びとめた。
「え?」と深井は頬をほてらした。
「ちょっと君に話したいことがありますから」さすがに彼も胸が鳴り響いた。彼は運動場を横ぎって、寄宿舎の横手の、深い竹藪に接した芝生に来た。そしてそこの木馬に腰かけて思い切って言ったのだ。
「君は――吉倉の和歌子さんを知っていると言ったね」
「ええ――」と深井はいぶかしそうに、また、彼の内なる和歌子を護(まも)るような目付をした。
「これをね」平一郎はポケットから二つに折った手紙を取り出して木馬の背の上に置いた。「和歌子さんに渡してくれないか?」
 深井は雨にさらされて白くなった木馬の背の手紙を見つめていたが、暫くして耳の根まで紅くなった。平一郎はそれを認めるともう勝つか負けるかどっちかだというような気になった。
「僕は和歌子さんと仲よくなりたいと以前から思っているのだ。ね、渡してくれないか。僕は君の家が和歌子さんの家と隣り合っていることは知らなかったのだ。お願いだから渡してくれないか? ――それとも」彼はさすがに身慄いがした。祈りに似た感情が彼の内部に脈うつのだった。
「君は和歌子さんと仲よくしているのかい」
「いいえ」と深井は目を輝かしてきっぱり言った。
「渡しましょう」
「きっとだね!」
「ええ!」
「ありがとう!」平一郎は深井の手を握って、そして嬉しさは彼に、「僕はね、君ともこれから仲よくしてゆきたいと思っているのだ!」と言わしてしまった。深井の瞳に美しい火が燃えた。それはひとたびゆいてかえらぬ生命の炬火(たいまつ)の美しさだった。ああ、何という悦び! 愛するものを獲たのではないか! 和歌子と深井を獲たのではないか! 彼は靴音高く家へ帰って来たのである。
 家にはお光と冬子が待っていた。霽(は)れた晩春の青空から穏やかな陽が二人に射していた。
「やっぱり平一郎さんでしたこと」こう冬子がついていた右手でそっと、さらさらした豊かな鬢の毛をかきあげて、緋縮緬の長襦袢に紫がかった襟をつけようとこつ/\針を運んでいるお光を見上げた。平和な静けさがお光と冬子の微笑によって破られた。
「只今!」と彼はカバンを投げ出し、洋服を着替えて、いつものように大急ぎで膳に向わずにいられなかった。冷めた豆腐汁も彼にはうまかった。彼は、横向きになっているやや浅黒い引き緊った冬子の顔と艶々した島田髷とを見ながら、髪を結いにいった帰りだなと考えながら、襟頸から肩の辺りへの柔軟な線の美しさに引きつけられ、こうした女(ひと)が自分の姉のように親しくしていることを(それはいつも感じることだったが)誇らしく感じた。
「今日は遅かったじゃないかい」とお光は留針をしながら言った。
「今日は博物の寄り合いがあったのです」と彼は嘘を言って、すまない気のしただけ和歌子のことを思った。そして冬子に、「踊りのおさらいはまだなんですか」とたずねた。
「今月の二十八日ですよ。今度はわたしが出ますからいらっしゃいな」
「ええ」と平一郎が飯をかきこむのをお光は、「踊りや歌が好きだからおかしいですね」と冬子に言う。そうして、話はまた、お光と冬子に移ってしまった。
「お酒はやはりなるべくなら飲まない方がいいですわね」
「でも、お座敷に出ている時に、生きていることが少しもいいことでない、生きていることは実にたまらない、害のあることだというような気のする時に、盃洗にいっぱいぐうッと飲むと、そうするとすこし胸がすっきりしますの。それでなけりゃ、縁側へでも出て、鼓をさらえばまあそうですけれど――」
「それはもうそうでしょうともね。わたしもそういう気のするときはもう何度あったかもしれないけれど、しかしわたしにはまあ、平一郎(あれ)がいたものだからどうにかやっては来たものの――」
「それでも小母さんの方がわたしなんかよりか余っ程いいという気がしますわ」
「そうでしょうか」
「でも、小母さんも随分のお骨折だったという気がしますわ。十二年、そうでしょう、小母さん、乳を呑んでいた赤ちゃんが中学校で威張る位になるのですものね。でもこれからよ、小母さんの苦労甲斐が現われて来るのは。本当に羨ましい」
「さあ――」とお光は淋しそうに笑った。「貧乏のせいか何んだか、その平一郎(あれ)の一人前になる日に会われないような気がしきりにしましてね」
「そんなこと、小母さん!」冬子は本気で言った。「わたしだってこのままのわたしを小母さんに見せているだけでは小母さんに対してもすまないのですわ!」
 お光はにこやかに微笑みつつ、心からの歓びをかくしきれないように、
「今のままだってわたしは十分結構ですの。ほんとにあれからでさえもう三年経(た)ちましたっけ。随分あなたも立派な女になったものですよ。冬子さん」
「いけません、小母さん、冷やかしちゃ」冬子は顔を曇らせて苦いものを含んだように、切れ目の長い瞳を青い空に向けた。そして、「青い空ですこと――小母さんはまだお花見にいらっしゃらなかったはずね」
「ええ、仕事に追われてまだですよ」
「わたしも今年は行きたくなくて行きませんでした――ほんとに青い空」そして冬子はふいに言った。
「わたしのようなものでも、もし子供を持ちたいと思えば子供を授かることが出来るものでしょうか」
「――?」お光は冬子を見つめて黙っていた。
「子供を授かることを罪のように警戒しているわたし達にでも、心から子を授かりたいと思えば授かれるのでしょうか。それとも罰で一生子供は生まれないのでしょうか」
「あの方の子供ならと一心に想うような方が出来なすったの、冬子さん」
「いいえ、まだ、この方の子供ならどうしてでもいいから授かりたいと思うような人には一度も会いませんの。会う人も会う人もこうした人の子供を生んだら大変だと思うような人ばかり。でもわたしは一生に一人はこの人の子をどうか授けて下さいと祈るような方にあってみたいと思いますわ。たとえそうしたときがあっても、今迄の罰で、とても子供は授からないのではないでしょうか」
「それはわたし達には分るものじゃないでしょう。しかしわたしは、もしそういう時にあなたが一心にさえなればきっと子供が授かるような気がしましてよ。――わたしのようなものでさえが、どうにか平一郎(あれ)を育ててやって来ていることから考えてみましてもね」
「そうでしょうか」そして二人は淋しそうに沈黙してしまった。平一郎は飯をすまして暫く火鉢のところに坐っていたが、母と冬子の話が途切れたので、立って長四畳の机の方へ行こうとした。すると冬子が同じように立ち上って、「平一郎さん、ちょっとわたしの傍へ立ってごらん」と言った。平一郎は傍に立った。冬子は髪を結っているので高かったが、実際は一寸も違わなかった。「もうじきわたし位に成長(おお)きくなってしまうわね」と冬子は母と顔を見合わした。平一郎は(そうさ)というように壮快に笑って、冬子もすてきに美しいと思いながら机に向った。彼は、和歌子への手紙を深井に託したことの歓喜のあとに、異常な沈着さを感じて、代数の問題を考えていた。すると明日の日曜の朝の待遠しさが悪寒のように起きて来た。そして恥かしいことには、もし返事をくれなかったらという懸念さえが時々起こって仕様がなかった。
 夕方、冬子は淋しそうに「さようなら」を言って帰っていった。彼女は母のお光に、彼女のいる春風楼の今いる裁縫師がお盆限り止めるので、その代りにお光が来たらどうかしらという話をしていった。そして母と何かひそ/\話しながら、「そう、それがいいわね」などと言っていたのだ。冬子に対して何故か傲慢じみた態度に出てしまう平一郎は冬子が去ったあとでは、いつもなくてはならぬものを失ったような淋しさを感じるのだった。この日も夕暮のあの悲しい薄闇で、母に子供らしく甘えかかりたい気持になりかけていると、階下で主婦さんが「平一郎さん!」と呼ぶ声がした。階下の主婦さんが呼ぶことは珍しくなかった。平一郎は何か珍しいものでもくれるのか、郵便でも来たのかと考えて階下へ下りた。すると主婦さんは、
「誰だか呼んでいますよ」と言った。平一郎は何の予期もなしに戸をあけて外へ出ると、門口に深井が立っていた。
「深井君じゃないか、はいりたまえな」深井は涙ぐんだような瞳で彼を視つめながら黙って立っていた。そして、戸外の方を示すようにそっと顧みた。それは無言の紹介であらねばならなかった。次の瞬間平一郎は、家の前の電柱の下に少女が背をもたせて立っているのを見出した。和歌子だった。一切が了解された。彼は深井を見た。
「和歌子さんだね」と彼は深井に精いっぱいの声で言った。全身が、歓喜、驚き、恐怖、羞恥に震撼した。彼は電柱の傍まで駆けていったが三尺ばかりのところでぴったり立ち止まってしまった。柱に背をもたせていた和歌子は、身体を真っ直ぐにして、懐からそっと(ああ、その指先の透明で美しかったこと)水色の封筒を取り出して、平一郎に見せて、輝かに笑ったのである。どうしたものだろう。三尺ばかりの間を平一郎はどうしてもそばへ進むことが出来なかった。彼女の輝かな笑いが彼の情熱をせきとめてしまったのだ。熱情は身内に渦巻いて全身が異様に慄えて来た。すると深井が彼の前に来て軽く帽子をとって、「僕、失敬します」と言った。そして和歌子の方へはにかむような顔を見せて小走りに彼は去ってしまった。平一郎は自分の腑甲斐なさに堪えられない気がした。そしていかに自分が和歌子のために自分の全部を占有されているかをつくづく感じた。とにかく彼は自分の力の萎縮を認めた。すると彼は全身の熱情が悦ばしい羞恥となって顔面にのぼってくるのを制止できなかった。
「明日まで待っていられなかったのでしてよ」と和歌子も真赤になって言った。そして二人は同時に笑いあうことが出来た。その笑いが凍ったような「凝結」をゆるめさした。大河平一郎が解放された。彼は「ついでおいで!」と言ってすたすた歩き出した。晩春の夕暮の戸外はまだ明るくて、空には夕映が深い美しさを現わしていた。彼は狭い十字街を右に下りて、野原へ出ようと考えていた。一年もの間、彼女を偲(しの)んでさまよったなじみの深い野に、この最初の日の自分と彼女とを見せてやりたかった。紅殻格子をはめた宏壮な廓の家々を通りすぎると街は川べりに出た。彼は後ろを振り返ってみると、彼女がすぐ後ろに生き生きしてついて来ているのに驚かされ、ある圧迫と動乱とさえを得た。路は静かに流れに沿ってひろびろした耕地の間に展(ひら)けていた。彼は立ち止まった。和歌子の息づかいが聞え感じられるほど彼女は近くよりそって来た。二人はもう一緒に生まれた人間のように親わしさを感じていた。
「吹屋の丘へゆきましょうか」
「ええ!」
 ああ、またしても湧きくる、魂をゆるがす微笑よ。水流は無限のうねりをつくりつつ路に沿って流れていた。右手には田植を終えた耕地が、ひろびろしい曠野のはてにまでつらなり、村々の森が、日に蔭って黒ずんで見え、太陽はいつもより大きく、真っ紅に燃えていた。路は緩(ゆる)い傾斜をのぼって草原の丘に伸びてゆく。その丘は何んでも平一郎の父の友人のある商人が、日露戦争後の起業熱のはげしい折に、鋳鉄業を創(はじ)めた失敗のあとであった。生い茂った雑草の間には石ころや柱のくさったのや、錆びた金属の破片などが残っていて、それが平一郎には淋しい空想の種となった。春、夏、秋、冬、平一郎が和歌子を忘られなくなってから、彼は幾度この丘に立って寂しい自分の心をいとおしがったであろう。また幾度、涙にぬれて、「偉くなる!」と叫んだことであろう。河縁には楢(なら)の木が密生して、百舌鳥(もず)が囀(さえず)っていた。平一郎は丘の上にのぼって、さて草原に腰を下した。和歌子も側に坐って、二人は幸福なこの夕暮の野の空気にひたっていた。ゆるやかにも流れひびく永遠の水の音よ、大空にじっと動かない白雲よ、ようやく迫る夕べの気配に、薄暗さを増した曠野の豊かな土の色調よ、ああ、しなやかに二人のためにしとねとなる草原の草よ、楢の木林の蔭を、市街の裏手をよぎる鉄道馬車のラッパの音よ。さては今しも地平の彼方に没落しようとして、たゆとうている爛然たる、真紅の晩春の太陽よ――。和歌子はそっとさっきの水色の封筒を取り出した。
「今日、学校から帰ると深井の坊っちゃまがあなたのお手紙を下さいましてよ」
(深井の坊っちゃま)その坊っちゃまという言葉だけが今のこの世界でいけないと平一郎は思った。そして水色の封筒を受取った。手が慄えた。
「あとで読んで下さいましね」
「ええ」彼は言われるままにふところにしまった。
「お手紙には明日の朝と書いてあったけれど、わたし明日まで待っていられませんでしたの――それで、深井の坊っちゃまにあなたのお家を教えていただいたのよ」
 平一郎は不思議な気さえして仕様がなかった。美しく、気高く、荘厳で、しかもいい家の娘で、とても自分などは一生、話さえするおりを持つことは出来そうもないという懸念を持っていた和歌子、実に、その和歌子が自分に話しかけていることを信じていいのか。
「平一郎さん」と彼女は熱情的に昂奮して来たらしかった。「あなた、あの去年の同窓会のあの時のことを覚えていて下さって? わたし、あれからも時々学校へ行って控室にかけてある卒業記念のお写真を拝見していましたのよ」
(和歌子も覚えていたのだ)平一郎は考えると嬉しくて堪らなくなった。彼も熱情をぶちまけるように昂奮して来た。
「それじゃね、それじゃね、小学校にいるときのあの鏡ね、鏡のことを覚えている?」
「覚えていますわ! ほんとに、あの校長さんが永い間話をしていて鏡をふさいでいるときには、腹が立ってしょうがなかったのですわ。そのほか、ほんとに、わたしあなたとのことならどんな小さいことでも一つ一つみんな覚えていましてよ」
「――僕だって」と彼は呟いて熱い涙が眼ににじみ出るのをこらえていた。
「昨日は深井の坊っちゃまを助けておあげなすったのですってね」
「僕う? ええ、深井君が話していましたか」
「ええ――わたしは深井の坊っちゃまからあなたの学校の様子をいろ/\随分前からきいていましたの」
「僕のことも?」
「ええ、あなたのことも。でも、そんな風はしないでですよ。
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