ああ玉杯に花うけて
著者名:佐藤紅緑
「待ちたまえ、さらに手塚君の説を駁(ばく)さねばならん、手塚君は英雄は個人主義である、英雄は民衆を侵掠(しんりゃく)したといった、侵掠か征服かぼくはいずれたるかを知らずといえども、弱者が強者に対して侵掠呼ばわりをするのは今日の悪思想であります、婦人は男に対して乱暴よばわりをなし、貧者は富者に対して圧迫よばわりをなし、なまけ者が勤勉者に対して傲慢(ごうまん)よばわりをなす、ここにおいてプロレタリアはブルジョアをのろい、労働者は資本家をのろい、人民は政府をのろい、人は親をのろい、妻は良人(おっと)をのろう、そもそもそれははたして正しきことであるか、思うに民衆といいデモクラシーと叫ぶこと今日ほどさかんなときはない、しかし心をしずめ耳をそばだてて民衆の声を聞きなさい、かれらはこういっている。『首領がほしい』『私達を指導してくれる人がほしい』『レーニンがほしい』『ムッソリーニがほしい』『ナポレオンがほしい』と、いかなる場合にも団体は首領が必要である。首領は英雄である。フランス人は革命をもって自由を得た、しかし革命には十人をくだらざる首領があった、ローマの国民はなにを望んだか、シーザーにあらずんばブルタスであった。日本の国民はなにを望んだか、源(みなもと)にあらずんば平(たいら)であった、ナポレオンを島流しにしたのは国民であったが、かれを帝王にしたのも国民であったことをわすれてはならない。しかるに手塚君はなんのために英雄を非認するか、英雄いでよ、正しき英雄いでよ、現代の腐敗は英雄主義がおとろえたからである、ぼくのいわゆる英雄は活動写真の近藤勇(こんどういさみ)ではない、国定忠治(くにさだちゅうじ)ではない、鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)ではない、しかもまた尊氏(たかうじ)、清盛(きよもり)、頼朝(よりとも)の類(たぐい)ではない、手塚君の英雄でもなければ野淵君の英雄でもない、ぼくは正義の英雄を讃美する、いやしくも正義であれば武芸がつたなくとも、知謀がなくとも、学校を落第しても、野球がまずくとも、金持ちでも貧乏でも、すべて英雄である、この故にぼくはこういいたい、『すべての人は英雄になり得る資格がある』と」
なんともいいようのない厳粛な気が会場を圧してしばらく水をうったように沈黙したかと思うと急に拍手喝采が怒濤のごとくみなぎった。手塚はどこへ行ったか姿が見えない。千三は呼吸もつけなかった。かれは光一の論旨には一点のすきもないと思った。
「畜生(ちくしょう)ッ、うまくやりやがった」
こう思うとせっかくの復讐心(ふくしゅうしん)も一半(いっぱん)はくじかれてしまった。
「つまらない、こなければよかった」
かれはいまいましさにたえかねて会場をでた。外は漆(うるし)のごとくくらい。ふりかえってみると学校の窓々からこうこうと灯(ひ)の光がほとばしっていた。千三は一種の侮辱を感じながら歩くともなく歩きつづけた。とかれは路傍(ろぼう)の石につまずいてげたのはなおをふっつりと切らした。
「大変だ」
かれは途方(とほう)にくれた。
「なわきれが落ちてなかろうか」
こう思って暗い地面を探り探り並み木の間を歩いた。いままで気がつかなかったがこのとき足の拇指(おやゆび)が痛みだした。手をやってみると生爪(なまづめ)がはがれてある、かれは大地に座りこんだ。そうしてへこ帯をひきさいて足を繃帯(ほうたい)することに決めた。
とどこからとなく人の声が聞こえる。
「きたか」
「まだまだ」
「気をつけろよ」
「にがしちゃいかんよ」
ひとりの声は手塚らしい。あとは四、五人、しのびしのびに三方に埋伏(まいふく)する。
「なにをしてるんだろう」
千三はこう思った。こういうことはめずらしくない。青年の喧嘩だ。毎日一つぐらいはあるのだ。
「だがねえ、文子はこのごろちっともこないじゃないか」
ひとりの声がきこえる。
「手紙を見られたらしいよ」と他の声。
「見られてもかまやしない、あれはねチビの名にしてあるんだから……はッはッはッチビのやつそれでひどくなぐられたっけ」
千三の総身がぶるぶるとふるえた。かれははじめてそれが手塚の奸策(かんさく)だと知ったのである。かれは立ちあがってかれらのあとを追いかけようと思った。が足の痛みは骨をえぐられるようにはげしい。
「待て畜生(ちくしょう)! ああいまいましいな」
千三は足をきびしくしばった。そうして残りの布(きれ)ではなおをすげた。とこのとき五、六間先に叫び声が起こった。
「なにをするんだ」
「たたんでしまえ、やれやれ」
「どこだ」
「ここだ」
「こん畜生(ちくしょう)!」
なぐり合う音、倒るる音、ばたばたと走る音。
「おいおいみんなこい」とよぶ声。
「生意気な、きさまは手塚だな」
こういう声は光一であった。千三ははっとおどりあがった。かれは片方のげたを手に持ったまま走りだした。と見ると三人を相手に光一は奮闘最中(さいちゅう)である。一旦(いったん)逃げたふたりは引きかえして共に光一につかみかかった。光一は一人(ひとり)の頭をけった。けられながらにその男は光一の脚(あし)を一生懸命につかんだ。背後(うしろ)から光一の喉をしめているのはろばらしい。手塚は前へ出たり後ろへ出たりして光一の顔を乱打した。五人と一人(ひとり)かなうべくもない。
「柳、しっかりしろ」
千三はこう声をかけて手に持ったげたで手塚の横面をしたたかに打った。
「チビ!」
手塚は叫んで鼻に手をあてた。千三はろばの顔を打とうとしたが小さいのでとどかなかった。かれはおどり上がった。が足の痛みがますますはげしい。かれは手塚に首根をおさえられた。手塚は力まかせにチビをなぐった。なぐられながらチビは手塚の手をしっかりとつかんではなさない。
「だいじょうぶか柳」とチビが苦しそうにいった。
「だいじょうぶだ。青木、すまないな」と光一はいった。そうしてもののみごとにろばを大地にたたきつけた、その拍子(ひょうし)にかれは片ひざを折った。三人はその上におりかさなった。
「なにを……くそッ」
こういう光一の声はおぼつかなく聞こえた。
「やられたな」
こうチビは思った。とたんに手塚の手がぐたりとゆるんだ。と思うやいなや手塚はさながら犬の屍(しかばね)のごとくたたきつけられた。
「青木じゃないか」
「ああ安場さん」
「うむ、おれだ」
「柳を助けてください」
「よしッ」
安場がひらりと動いた。ふたりの姿がもんどりうって倒れた。いまひとりは光一がしっかりとひざに組みしいていた。
「しばれしばれ」と安場がいった。
「しばるものがない」
「ふんどしでしばれ」
「ぼくはさるまただ」
「心がけの悪いやつだ」
「安場さんのは?」
「おれは無フンだ」
千三はまたしても帯をといて手塚をしばりあげた。投げられたろばといまひとりは安場がしばった。安場は三人を電柱にしばりつけた。
光一の横顔は腫(は)れ、手首はくじかれていた。千三にはなんのけがもない。
「おい青木」と光一は千三の前にひたと座っていった。「おれをなぐってくれ、おれは悪かった、さあおれがきみにしたようにおれの顔のどこでもなぐってくれ」
「なにをいうか柳」と千三は光一にひたとより添うて手をしっかりとにぎった。
「ぼくは今夜きみの演説で真の英雄がわかった、ぼくらはおたがいに英雄じゃないか、正義の英雄だよ」
「ゆるしてくれるか」
「ゆるすもゆるさんもないよ」
「ありがとう」
ふたりはふたたび手をにぎりしめた。
「やい、凡人主義のデモクラシーの偶像破壊者共」と安場は三人に向かっていった。
「平等と自由はどんなものか明日(あした)の朝までそこで考えて見ろ」
「なわだけはといてやってくれ」と光一が安場にいった。
「いやいや」と安場は頭をふった。「英雄にしばられてなわをとくのはデモクラシーの役目なんだ、さあゆこう」
こういって安場はマッチをパッとすって三人の顔を見た。手塚は涙ぐんでうなだれていた。ろばはきょとんとして首を上げて手塚をののしった。
「だからおれはいやだというにおまえが加勢してくれというもんだから」
「ざまあみろ」と安場はわらった。「それが平凡主義の本性なんだ」
安場は歩きだした。そうして快然とうたいだした。
「ああ玉杯(ぎょくはい)に花うけて、緑酒(りょくしゅ)に月の影(かげ)やどし、治安の夢(ゆめ)にふけりたる、栄華(えいが)の巷(ちまた)低く見て……」
読者諸君、回数にかぎりあり、この物語はこれにて擱筆(かくひつ)します。もし諸君が人々の消息を知りたければ六年前に一高の寮舎(りょうしゃ)にありし人について聞くがよい。青木千三と柳光一はどの室の窓からその元気のいい顔をだしてどんな声で玉杯をうたったか。それから一年おくれて入校した生蕃(せいばん)とあだなのつく阪井巌という青年が非常な勉強をもって首席で大学にはいったことも同時に聞くがいい。
さらに安場のことがしりたければ黙々(もくもく)先生をたずねなさい。先生は多分こういうだろう。
「安場ですか、あれはいまロンドンの日本大使館にいます」と。
さらに諸君は「安場はロンドンでなにをしてるんですか」ときいてごらんなさい。先生は多分こう答えるでしょう。
「へそをなでています」
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