ああ玉杯に花うけて
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著者名:佐藤紅緑 

手塚はこういう場所で、役者やなにかの事をくわしく知っているということを見物人にほこりたいのであった。
「手塚君」と光一は声をかけた。手塚はふりむいたがすぐ横を向いた。
「手塚君」と光一はそばへ歩みよったときろばのひざに足をあてた。
「痛えな、気をつけやがれ」とろばはいった。
「失敬」
 光一はあやまった、ろばは中学を二度ほど落第して退学してから、ぶらぶら家に遊んでは手塚とともにどこへでもいく男である。
「手塚君、ぼくはちょっときみに話したいことがあるんだが外へでてくれんか」と光一はいった。
「いやだ」と手塚はいった。
「ちょっとでいいんだよ」
「いやだというものを無理にひっぱりださなくたっていいだろう」とろばがいった。
「大事なことだからさ、でないときみの身体(からだ)が危ないんだ」
「いやにおどかしやがるね、どうしようてんだ、手塚をなぐろうてのか、面白いなぐってもらおう」
 ろばはほえた。
「おまえはだまってろ」と光一はきっといった。「おまえに用があるんじゃない、手塚に用があるんだ」
「なにを?」
「喧嘩か、喧嘩するなら外へでてやろう、ぼくが手塚と話をすますまで待て」
 光一はこういってじっとろばの顔をのぞいた、ろばはだまった、そうして隣席の女の子がかじりかけたりんごを取ってがぶりとかじった。
 手塚は光一の権幕(けんまく)におそれてしぶしぶ席を立った。ふたりは外へでた。と向こうのくだもの屋の前で彰義隊(しょうぎたい)がひとりの学生と話をしていた。光一はハッと思った。
「手塚隠れろ、荷車の横を歩いていこう」
 ふたりは彰義隊に見つからぬように群衆にまぎれて材木屋の前へ出た。
「なんの用だ」と手塚は不平そうにいった。
「きみは制裁を受けなきゃならなくなったんだ、その前にぼくは一応きみに忠告する、ぼくの忠告をきいてくれたらぼくは生命(いのち)にかえてもきみを保護しようし、また学校でもきみをゆるすことになっている」
「ゆるされなくてもいいよ、ぼくはなんにも悪いことをしない」
「それがいけないよ、なあ手塚、人はだれでも過失があるんだ、それを改めればそれでいい」
「ぼくに改めるべき点があるのか」
「あるよ、手塚、学校ではね、このごろ不良少年があるといってしきりにさがしてるんだ、その候補者としてきみが数えられている」
「ぼくが不良?」
「きみはよく考えて見たまえ」
「ぼくは考える必要がない」
「じゃ君、活動へいくのは?」
「活動へいくのが不良なら、天下の人はみな不良だ」
「そうじゃない、きみはなんのために活動へいくのだ」
「面白いからさ」
「面白いかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものが面白いかね」
「人はすきずきだよ、他人の趣味に干渉(かんしょう)してもらいたくないね」
「いやそうじゃない、ぼくはきみと小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、きみの堕落(だらく)を見すごすことはできない、ねえ手塚、きみは活動が好きだから見てもさしつかえないというが、好きだからって毒を食べたら死んでしまう、活動はもっとも低級で俗悪で下劣な趣味だ、下劣な趣味にふけると人格が下劣になる、ぼくはそれをいうのだ」
「活動は決して下劣じゃない」と手塚はいった、かれは光一のいったことが充分(じゅうぶん)にわからないのである。
「じゃきみは活動のどういう点がすきか」
「近藤勇(こんどういさみ)は義侠の志士じゃないか」
「そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたければ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役者が扮(ふん)した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、しずかに考える方がどれだけ面白いか知れない、活動の小屋は豚小屋のようだ、はきだめのようだ。あんな悪い空気を呼吸するよりも山や野やただしは君の清浄な書斎で本を読むほうがどれだけいいか知れない、活動なんていやしいものを見ずに、もっとりっぱな趣味を楽しむことはできないのか、高尚(こうしょう)で健全で男性的な趣味はほかにいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、きみはそれを考えないのか」
「ぼくは劣等だとは思わない」と手塚はくりかえした、光一はどうしても高尚な意義を理解することができない手塚の低級にあきれてじっと顔を見つめた。歴史を読み聖賢や英雄の伝記を読み、山に野に遊び、野球を練習する。それだけでも活動よりはるかに面白かるべきはずなのに、どうして見る見るはきだめの中におちていくんだろう。
「気の毒だ、かわいそうだ」
 光一は胸一ぱいになった。
「じゃ活動のことはそれでよしにしよう、第二にきみは飲食店へ出入りするそうだね」
「ああ、それがいけないのか、だれだって飲んだり食ったりするだろう」
「手塚君、ぼくだって人が洋食を食えば食いたくなる、そば屋へはいることもある、だがね、学生はどこまでも純潔でなければならないのだ、飲食店は大抵(たいてい)大人(おとな)にけがされている、不潔な女が出入りする、学生はそういう……少しでも不潔な場所へいってはいけないのだ、身体(からだ)がけがれるからだ、いいか、りっぱな玉はきりの箱に入れてしまっておくだろう、学生はけがれのない玉だ、それをきみはどぶどろの中に飛びこんでるのだ、きみは家にいれば洋食でもなんでも食える身分じゃないか、なぜ食べたければ家で食べないのだ、学校でやかましくいうのも形式ではない、そんなくさった趣味を喜ぶようにならないようにするためだ、きみのことばかりをいうのじゃないよ、ぼくだっておりおり大人のまねをしたいと思うことがある、だがそれはいやしいことだと思いかえすだけだ」
「いやだ、ぼくはぼくの銭でぼくの好きなところへゆくのに学校がなにも干渉(かんしょう)するにはあたらないじゃないか」
「手塚君、きみはどうしてもぼくの忠告をきいてくれないのか」
「いやだ、ぼくに悪いことがないんだ」
「それではきみ」と光一は憤然として目をみはった。「ぼくはきみを侮辱したくないからこれだけいって後はきみの反省にゆずるつもりでいたのだ。が、きみがあくまでもがんばるならぼくはいわなきゃならん」
「なんでもいうがいい」
「きみの心は潔白か」
「無論だ」
「良心に対してやましくないか」
「やましくない」
「きみは不良少女と遊んでるね、いまきみの隣にいてりんごをかじっていた女の子はなんだ」
「あれは……」と手塚はどもった。
「あれはどろぼうして二、三度警察へあげられた子じゃないか」
「あれは……ろばの友達だよ」
「ろばはきみの親友だろう」
 手塚はだまった。春の日は暮れかけて軒(のき)なみに灯(ひ)がともりだした、積みあげた材木にかんなくずがつまだちをして風にふかれゆくとはるかに豆腐屋のらっぱがあわれに聞こえる。光一は手塚の肩に寄り添うてその手をしっかりとにぎった。
「手塚! いま聞こえるらっぱはだれだか知ってるだろう、青木だ、青木は学校へ行きたくても銭がない、小学校にいたときはかれはいつも一番か二番であった、きみやぼくよりも頭がいいのだ、学問をしたらぼく等よりはるかにりっぱになる人間だ、それでも家が貧乏で父親がないために、毎日毎日らっぱをふいて豆腐を売り歩いている、きみやぼくは両親のおかげで何不自由なくぜいたくに学問しているが、青木は一銭二銭の銭をもうけるにもなかなか容易でない、きみが活動を見にいく銭だけで青木は本を買ったり月謝を払ったり、着物も買うのだ、きみの一日の小遣(こづか)いは青木の一ヵ月働いた分よりも多い、そんなにぜいたくしてもきみやぼくはありがたいと思わない、あんなに貧乏しても青木は伯父さんをありがたいと思っている、なあ手塚、青木は活動も見ない、洋食も食べたことはない、バイオリンもひかない、女の子と遊びやしない、かれはただ一高の寮歌(りょうか)をうたって楽しんでいる、不器用な調子はずれな声をだして、ああ玉杯(ぎょくはい)に花うけてとうたっている、それだけが彼の楽しみだ、この楽しみに比べてきみの楽しみはどうだ、活動、洋食、バイオリン、君の楽しみは金のかかる楽しみだ、青木は堤の草に寝ころんで玉杯をうたってるとき、きみはがま口から銀貨をつかみだして不良共にふりまいている、どっちの楽しみが純潔だろう、ぼくはきみを攻撃する資格がない、ぼくだって青木に比べるとはるかに劣等だ、劣等なぼくらが不自由なく学問しているのに、優秀な青木は豆腐を売っている、もったいないことだ、もしぼくらが親を失い貧乏になったら青木のごとく苦学するだろうか、きみはいつも青木を軽蔑(けいべつ)するが、それがきみの劣等の証拠(しょうこ)だ、活動に趣味を有するものは高尚(こうしょう)な精神的なものがわからない、なあ手塚、腹が立つなら奮発してくれ、ぼくのお願いだ、ぼくは一生きみと親友でありたいのだ」
 光一の言葉は一語ごとに熱気をおびてきた、かれは手塚の自尊心を傷つけまいとつとめながらも、次第にこみあげてくる感情にかられて果ては涙をはらはらと流した。
「柳!」
 手塚はぐったりと首をたれていった。
「堪忍してくれ、ぼくは改心する」
「そうか」
 光一は嬉しさのあまり手塚をだきしめたが急に声をだしてないた。手塚もないた。日は暮れてなにも見えなくなった。横合いの小路(こうじ)をらっぱをふきふきチビ公が荷をゆすってうたいゆく。
「……清き心のますらおが、剣(つるぎ)と筆とをとり持ちて、一たびたたば何事か、人生の偉業成らざらん、ぷうぷう、豆腐イ、ぷうぷう」

         十一

 柳一家はいつも幸福に満たされていた、光一の心はいつも平安であった、かれの一番好きなのは朝である。かれは朝に目をさますと寝床(ねどこ)の中で校歌を一つうたう、それから床(とこ)をでて手水(ちょうず)をつかい茶の間へゆくと父と母と妹が待っている。
「お兄さんは寝坊ね」
 妹の文子(ふみこ)はいつもこうわらう、兄妹の規約としておそく起きたものがおじぎをすることになっている、光一は毎日妹におじぎをせねばならなかった。癪(しゃく)にさわるが仕方がない。
 茶の間にはさわやかな朝日が一ぱいに射しこむ。飯びつやなべからあがる湯気はむつまじげに日光と遊んでいる、父はにこにこしてふたりの子を見くらべる、母は三人のお給仕にいそがしく自分で食べるひまもなかった。かの女は光一と文子の食力を計算する事を決してわすれなかった、今日はいつもより多く食べたといっては喜び少なく食べたといっては病気ではないかと心配する。大抵(たいてい)光一は五杯の飯を食べるが文子は三杯であった、5対3ではあるが、光一の方はスピードが速いのでほとんど同時におしまいになる、それから一緒(いっしょ)に家をでる。
「おまえ後からおいで」
「兄さんは男だから後になさいよ」
 この争いは絶ゆることがない、二、三年前までは一緒に肩を並べていったものだが、このごろではふたり揃うてゆくのはきまりが悪い。特に光一に取っては迷惑至極(めいわくしごく)であった。
「きみの妹は綺麗だね」
 こう友達にいわれてからかれはたとえ親父(おやじ)の葬式の日でも妹と一緒には歩かないと覚悟を決めた。
 だがかれは妹が好きであった、妹はすらりと姿勢がよく、おさげの脳天(のうてん)に水色のちょうちょうのリボンをつけているが、それが朝日に輝いていかにもかわいらしい、かれはまた文子の長いえび茶のはかまやその下から見えるまっすぐな脚(あし)と靴の恰好(かっこう)が好きであった。文子は洋服よりも和服が似合う。文子はまただれよりも兄さんが好きであった、野球試合のあるときにはかの女はいつも応援旗を持ってでかけた、兄さんが負けたときには家へ帰って夕飯も食べずに寝てしまうのでいつも母にわらわれた。
 そのくせふたりはおりおり喧嘩(けんか)をした、文子の一番嫌いなことは顔がふくれたといわれることである。
「おい、おまえの頬(ほ)っぺたがだんだんふくれてきたね」
「いいわ」
「後ろから見るとほっぺたが耳のわきにつきでてるぞ」
「いいわ」
「ぼくが八百屋の前を通ったらおまえの頬(ほ)っぺたを売ってたよ、買ってこようと思ったら丸いなすだった」
「いいわ、兄さんだって鼻の先にニキビがあるじゃないの?」
「これはじきなおるよ」
「口のはたに黒子(ほくろ)があるから大食いだわ」
「食うに困らない黒子(ほくろ)なんだ」
 喧嘩のおわりはいつも光一が母に叱(しか)られることになっている。だがふたりのむつまじさはよその見る目もうらやましいほどであった。文子は心の底から兄を尊敬していた、というのはかの女は学校から帰って兄に英語や漢文の下読みをしてもらう、それには一つもあやまりがないからである。かの女の友達もことごとく光一を好きであった、かの女等が文子のもとへ遊びにくると、文子は兄の書斎を一覧させる、大きな書棚に並べられた和洋の書籍を見てかの女等はいずれも驚歎(きょうたん)の声をあげる。兄がほめられるのは文子に取って無上の喜びであった。
 ある日文子は雑誌を買おうと思ってがま口を懐にして外へでた、雑誌屋の店頭に男女の学生が群れていた。この店は二年前までは至極(しごく)小さな店で文房具少しばかりと絵本少しを並べていたのだが、見る見る繁昌(はんじょう)しだして書籍や雑誌がくずれるまでに積まれてある。やせた神経質らしいおかみさんはひとりのいつも眠そうにしている小僧をひどくどなりつけてお客の手先と商品とを監視させているが、それでも毎日一冊ぐらいは盗まれるのである。
 学生の中には毎日決まって雑誌を読みにくるのがある、それが一冊でも買うのかと思うと一冊も買わない、二時間も立って一とおり読みおわると翌日また別なのを読みにくる、こういうのはただ読んでゆくだけだから罪が軽いが、ひどいのになると五、六人団結してあれやこれやとひっくりかえしてその混雑にまぎれてふところへかきこむ。大抵(たいてい)はその顔を知っているものの、ことをあらだてるとかえって店の人気がなくなる。そこでおかみさんの癇癪(かんしゃく)が小僧の頭に破裂する。
「おまえがぼやぼやしてるからだよ」ぴしゃりッ。
 小僧だって朝から晩までどろぼうのはり番をするということはなかなかつらい、かれは十七になるが、十三か十四ぐらいにしきゃ見えない、毎日毎日頭をなぐられるから上の方へ伸びないのだとかれ自ら信じている。
 文子(ふみこ)は新刊の少女雑誌と英語の雑誌を買った、それから書棚を見ると漢文の字典があったのでそれを引きぬいた、それでやめにしようと思ったがこのときかの女は現代名画集というのを見た、それは叢書(そうしょ)の第一巻でかの女がつねにほしいほしいと思っていたのであった。かの女はそれもひきぬいておかみさんにいった。
「これだけでいくらですか」
 おかみさんはこれが柳家(やなぎけ)の令嬢だとは気づかなかった。
「五円六十銭です」とかの女はいった。
「そう?」
 文子はがま口をあけて銀貨を掌(てのひら)に数えた、一枚二枚三枚……。五円二十銭しきゃない。
「あら、たりないわ」
 文子は顔をまっかにしていった、かの女は周囲に立っている男女学生がみな自分の方を見てるような気がした。おかみさんは冷(ひ)ややかに文子を見やった。
 家へ帰ってお母さんにお銭(あし)をいただいてこようかしら、と文子は考えた、だがそのあいだにこの本が他人に買われると困る、かの女はまったく途方にくれた。もしかの女が私は柳(やなぎ)の娘ですから宅(たく)へ届けてくださいといったなら、おかみさんは二(ふた)つ返事(へんじ)で応ずるのであった、ところが文子にはそれができなかった。
「いくらお持ちなの?」とおかみさんがいった。
「四十銭足りないのよ」
「へえ」
 おかみさんはくるりと横を向いた。とこのときひとりの女学生が文子に声をかけた。
「文子さん、私だしてあげますわ」
 文子はその人を見た、それはかの女が小学校時代の上級生で染物屋の新ちゃんというのである、新ちゃんは桃色の洋服を着て同じ色の帽子をかぶり、きらきらした手提(てさ)げ袋(ぶくろ)から銀貨を取りだした。
「ありがとう……でもいいわ」と文子はいった。
「いいのよ、四十銭ぽちなんでもないわ」
「そう? それじゃ私すぐお返しするわ」
「あらいいわ」
 文子は新ちゃんに四十銭を借りて本と雑誌を紙に包んでもらった。
「ではねえ新ちゃん、私の家へちょっとよってくださらない? お金をお返しするから」と文子はもう一度いった。
「いやねえ、あなたは水臭(みずくさ)いわ」
 文子は水臭いという意味がわからなかった。
「でもお借りしたんだから」
「一緒に散歩しましょう」と新ちゃんがいった、ふたりは大通りからはすの横町に出た、そこの材木屋の材木の上に大勢の子供が戦争ごっこをしていた、それから少しはなれて生(い)け垣(がき)の下で三人の学生がなにやらこそこそ相談をしていた。
「いやだ」とひとりがいう。
「おれもいやだ」と他のひとりがいう。
「おれにまかせろ」と背の高いひとりがいう、それはろばというあだ名のある青年であった。かれらは新ちゃんと文子を見るやいなやだまった。
「なにをしてるの?」と新ちゃんがいった。
「ちょっとおいで」とひとりがいった。新ちゃんは三人のまどいにはいった。四人は顔をつきあわしてなにか語った。文子はろばをはじめとして他のふたりの少年とはあまり親しくなかったのでなんとなき不安を感じながら立っていた。
「いきましょう」と新ちゃんは文子に近づいていった。
「私の家へいってくださる?」
「ああおよりするわ、でもなにか食べてからにしましょうよ」
「なにを食べるの?」
「私ね、おしるこを食べたいわ、それともチャンにしましょうか」
「チャンてなあに」
「支那料理よ」
「私食べたことはないわ」
「おいしいわ」
 文子は学校で友達から支那料理のおいしいことを聞いていた。どんなものか食べてみたいと母にいったとき、母はそんなものはいけませんと拒絶(きょぜつ)した。
「だが食べてみたい」
 好奇心が動いた。
「でも私お金が……」
「私持ってるからいいわ」
「いけない」と文子は猛然(もうぜん)と思い返した、母に禁ぜられたものを食べること、他人のご馳走(ちそう)になること、これはつつしまねばならぬ。
「私叱(しか)られるから」
「叱られる?」
 新ちゃんはにやにやとわらったがやがてまたいった。
「じゃよしましょうね」
 ふたりは活動写真館の前へ出た、日曜のこととて館前は楽隊の音にぎやかに五色の旗がひるがえっている。新ちゃんは立ちどまった。
「はいってみましょうか、私切符(きっぷ)があるわ」
「ああちょっとだけね」
 文子(ふみこ)はこのうえ反対ができなかった、かの女は五、六度女中や店の者と共にここへきたことがあるのだ。写真を見たとて母に叱(しか)られはしまい。こう思った。
 新ちゃんと文子は暗がりを探(さぐ)って二階の正面に陣取った、写真は一向面白くなかった、がだんだん画面が進行するにつれて最初に醜悪と感じた部分も、弁士の黄色な声もにごった空気もさまでいやでなくなった、そうして家庭や学校では聞かれない野卑な言葉や、放縦(ほうじゅう)な画面に次第次第に興味をもつようになり、おわりには筋書(すじが)きの進行につれてないたりわらったりするようになった。
「面白い?」と新ちゃんはいくどもきいた。
「面白いわ」
 ぱっと場内が明るくなるといつのまにかさっきの三人が後ろにきていた。
「出ようよ」とひとりがいう。
「うむ」
 新ちゃんと文子も二階を降りた。
「こっちが近い」
 ひとりがいった、一同は路地口からどぶいたをわたった、そうして、とある扉(ドア)を押してそこから階段を昇った、昇りつめるとそれは明るいガラス戸のついた支那料理屋の二階であった、向こう側の呉服屋その隣の時計屋なども見える。
「私帰るわ」と文子はおどろいていった。
「いいじゃないの? ワンタンを一つ食べていきましょう」と新ちゃんがいった。
「でも……私」
「お金のことを気にしてるんでしょう、かまわないわ、この人達はねいま材木屋の前でお金を拾ったんですとさ、いくらおごらしてもかまやしない、ねえろば」
「ろばろばというなよ」とろばがいった。
 新ちゃんはだまってがま口をろばになげつけた。銀貨がざらざらとこぼれた。
「いくら使ったえ」と他のひとりがいった。
「二人前の切符(きっぷ)代だけもらったよ」と新ちゃんがいった。
「拾ったお金で活動を見たの?」と文子は仰天(ぎょうてん)していった。だれもそれには答えなかった。
「帰らして頂戴」と文子はなき声になった。
「帰ってもいいよ、どうせおれ達の仲間になったんだから、帰りたければ帰ってもいい」
「私が仲間?」
「おまえ達はだまっておいで」と新ちゃんは男共を制した、そうして文子にこうささやいた。
「こわいことはないのよ、あの人等はばかなんだから……でも文子さん、あなたも同じがま口の金を使ったんだからお友達におなりなさいね、そうしないとあの人等はお宅(たく)へいってお母(かあ)さんになにをいうか知れませんよ、ねえ、毎日でなくても、たまにちょいちょい私達と遊びましょう、ね、お母さんに知れたら困るでしょう」
 文子は呼吸もできなかった、実際すでに不正な銭のご馳走(ちそう)になったのである、こんなことが母に知れたら母はどんなに怒るだろう、怒られても仕方がないが、母が歎(なげ)きのあまり病気になりはしないか、それからまた兄さんは……兄さんの名誉にかかわることがあると……。
 哀(あわ)れ文子は四苦八苦の死地に陥(おちい)った、かの女は去るにも去られなくなった。と階段の音が聞こえてひとりの学生が現われた。
「やあ」
 文子は顔をあげた、それは兄の友の手塚であった。かれはロシアの百姓が着るというルパシカに大きな縁のあるビロードの帽子をかぶっていた。
「どうしたの? 文子さん」とかれはいった。文子は手塚の腕にすがりついてなきだした。
「お前達はどうかしたんじゃないか」と手塚はなじるように一同に向かっていった。
「なにもしないよ」とろばがいった。
「悪いことを教えると承知せんぞ」
 手塚の語気はますます鋭(するど)い。
「いやにいばるのね」と新ちゃんがいった。
「だまってろ」と手塚はどなりつけて文子の涙をハンケチで拭(ふ)いてやり、
「心配しなくてもいいよ、さあ僕と一緒(いっしょ)に行きましょう」
 手塚につれられて文子は外へ出た、文子は歩きながら一伍一什(いちぶしじゅう)を手塚に語った。
「わかってるよ」と手塚はいかにも侠客のような顔をしていった。
「あいつらはね、あなたをわなにかけて銭をゆすろうて計略なんだ、ぼくが引きうけていいようにするから安心していらっしゃい」
「でも私新ちゃんに四十銭と活動のお銭(あし)を返さなきゃならないわ」
「いいよ、それも僕が引きうけたから」
 手塚は文子の家近くまで送ってきた。かれはわかれぎわにこういった。
「兄さんに秘密だよ」
「ええ」
 読者諸君! 世に不良少年少女というものがある、かれらとても決して生来の悪人ではないのだ、だがそれらの多くは意志が薄弱で忍耐力がなく、健全な道徳観念がないところからわがままになり野卑になり学校が嫌いになり、そのかわりに娯楽を求める念が盛んになる、上品な娯楽は人間の霊(たましい)の慰安になるが、下等な娯楽は霊を腐食(ふしょく)する黴菌(ばいきん)である。
 読者諸君! 諸君は決してゆだんをしてはならぬ、諸君の前にいろいろな陥(おと)しあなが口をあいて待っているのだ、諸君は右を見ても左を見ても諸君を誘惑するものが並び立っているとき、自らの理性に訴えて悪をしりぞけ善を採用せねばならぬ、諸君の思慮にあまる場合にはそれを隠さずに父母や兄や姉や学校の先生に相談せねばならぬ。
 災難や過失は何人(なにびと)もまぬかれることはできない、が、その場合に父母に叱られることをおそれたり、先生にわらわれることをおそれたりして浅墓(あさはか)な自分の知恵で秘密にことを運ぼうとするとその結果たるやますます悪くなるばかりである。もし文子が早くも父母もしくは兄の光一にすべてを打ちあけたなら、災難はその日かぎりで無事にすんだのである。人の子たるものは父母に対して秘密を作ってはならぬ、人の弟や妹たるものは兄や姉に対して、そうして人の弟子たるものは師に対して秘密を作ってはならぬ、秘密を打ちあけることははずかしいが、打ちあけなければ罪が次第に深くなるのだ。秘密を打ちあけたとて決してそれをしかったりわらったりするような父母兄弟や先生はこの世にない。
 読者諸君! 少年時代に一番つつしまねばならぬのは娯楽である。娯楽にはいろいろある、目の娯楽、耳の娯楽、口の娯楽、それらよりももっとも有益なのは心の娯楽である。
 活動写真、飲食店、諸君がいつも誘惑(ゆうわく)を受けるのはこれである。娯楽には友達が必要である、諸君はこのために活動の友達や飲食の友達ができる。不良気分がここから胚胎(はいたい)する。そのうちに奸知(かんち)あるもの、良心にとぼしきものはこの娯楽を得るために盗賊を働く、ひとりでは心細いから相棒を作る、弱いものを脅迫して金品をまきあげる、他の子女を誘惑して同類にひっこむ、一度(ひとたび)この泥田(どろた)に足をつっこむともう身動きができなくなる。
 読者諸君! 孝子は巌牆(がんしょう)の下(もと)に立たずといにしえの聖人がいった、親のあるものは自重せねばならぬ、兄弟姉妹のあるもの、先輩のあるものは自重せねばならぬ、いやしい娯楽場へ足をふみ入れて生涯をあやまることは愚のきわみである。
 さて文子はどうなったか、文子の兄光一はそのころ野球にいそがしかった、かれの学業はますます進み同時に野球の技術がすばらしいものになった。かれの身の丈(たけ)は五尺四寸、腕は鉄のごとく黒く、隆々(りゅうりゅう)とした肉が肩に隆起し、胸は春の野のごとく広く伸びやかである。かれの母はいつもかれを見やって微笑した。
「私より首一つだけ大きくなった、この子はしようがないね、去年の着物がみんな間にあわなくなった」
 こうこぼしながらも心中の喜びは抑(おさ)えきれない。それと同時に文子も次第に美しくなった、が文子の顔に何やら一点の曇りがたなびきはじめた。
「おまえどうかしたのかえ」と母がきく。
「なんでもないわ」と文子はわらった。だが文子は決してなんでもなくはなかったのである。かの女は例の一件があってからその秘密を手塚ににぎられてしまった。もしかの女が家へ帰って母に打ちあけたなら、こんな苦しみはせずにすんだのである。
 手塚は一旦(いったん)光一に忠告されて改心したもののそれはほんのつかの間であった、かれはどうしても娯楽なしには生きていられなかった、活動写真で低級な演劇趣味をふきこまれたかれは自分で芝居をして見たくなった。かれは活動を見ては家へ帰ってそのまねをした、もしかれが恥を知る学生であったなら、本当の正しき魂がある少年であるなら、国定忠治(くにさだちゅうじ)だの鼠小僧だの、ばくち打ちやどろぼうのまねを恥ずべきはずだが、かれにはそんな良心はなかった、かれはただ人まねがしたいのである、実際かれはそれがじょうずであった、かれはしゃものような声で弁士の似声(こわいろ)を使ったり、また箒(ほうき)を提(さ)げて剣劇のまねをするので女中達は喜んで喝采した。
「坊っちゃまはお上手(じょうず)でいらっしゃること」
「男ぶりがいいから役者におなんなさるといい」
 この声々を聞くと手塚はすこぶる得意であった、それと同時に母は鼻の下を長くして喜んだ、かれの母はすべて芸事が好きで一月(ひとつき)に三度は東京へ芝居見物にゆくのである。
 父は患者をことわっておおかみのような声で謡(うたい)をうたう、母は三味線(しゃみせん)を弾(ひ)いてチントンシャンとおどる、そうして手塚は箒(ほうき)をふるって、やあやあ者共と目玉をむき出す。大抵(たいてい)この場合に箒で斬られる役になるのは代診の森君や車夫の幸吉である。だが森君も幸吉もそうそうはいつも斬られてばかりいられぬ、たまに癇癪(かんしゃく)を起こして国定忠治を縁側からほうりだすことがある。そこで手塚の機嫌が悪くなる、したがって奥様も、だんな様も一家が不機嫌になる。
 それやこれやで家の中ばかりの芝居は面白くなくなった、そこで手塚は同志を糾合(きゅうごう)して少年劇をやろうと考えた。幸いなことにろばの父は製粉工場の番人である、この工場は二年前に破産していまではなかば貸し倉庫のようになっている、その一部分だけでも優(ゆう)に芝居に使用することができる。
 手塚は毎日そこへ出張して芝居の稽古をした、かれは監督であり座長であった、ろばは敵役(かたきやく)や老役(ふけやく)を引きうけた、新ちゃんは母親やお婆さんになった、若くてきれいで人気のある役は手塚が取ったが、ここに一番困ったのは若い娘に扮(ふん)する女の子がないことである、手塚はそれを文子にあてた。
「いやよ、私いやよ」と文子は顔をまっかにして拒絶(きょぜつ)した。
「いやならいいよ、ぼくはあなたのお母さんにたのんでくる、これこれのわけで文子さんはぼくらの仲間になったのだからってね」
 文子は当惑(とうわく)した、母に秘密をあばかれては大変である。
「じゃ私やるわ」
 毎日集まるたびに一同は何か食べることにきまっていた、うなぎやてんぷら、支那料理、文子はいろいろなものをご馳走になった、それらの費用は大抵(たいてい)手塚からでた。だが手塚とても無尽蔵ではない、かれも次第に小遣(こづか)い銭に困りだした。
「文子さん、どうにかならないか」
 毎日人のご馳走になってすましているわけにゆかない、文子は母に貰った小遣(こづか)い銭を残らずだした、二、三日すぎてかの女は貯金箱に手をつけた、それからつぎに本を買うつもりで母をだました。そうしなければ秘密をあばかれるからである。こういう状態をつづけてるうちにかの女はだんだんこの団体の不規則で野卑な生活が好きになった、母の前で行儀(ぎょうぎ)をよくしたり、学校の本を復習したりするよりも男の子と遊んで食べたいものを食べているほうがいい。
 文子の母はいままでとうってかわった文子の態度に気がついた。かの女は文子をきびしくいましめようと思った、だがその原因をきわめずにいたずらにさわぎを大きくしてはなんの役にも立たぬ、これにはなにか力強い誘惑(ゆうわく)があるにちがいない。
 こう思うものの悲しいかなかの女はそれを探偵すべき手がかりがないのであった、父にいえばどんなに叱(しか)られるかしれない、十六にもなれば人の目につく年ごろだからめったなことをして奉公人共に後ろ指をさされることになると、あの子の名誉にもかかわる、さりとてうちすておくこともできない。
 わが子を叱りたくはないが、叱らねば救うことはできない、母は思案に暮れた。かの女はとうとう光一の室(へや)へいった。
「光一、おまえに相談があるんだが……」
「なんですか、なにかうまいものでもぼくにくれるの?」と光一は微笑していった。
「それどころじゃないよ、文子のようすがこのごろなんだか変だとおまえは思わない?」
「変ですな」
「そうだろう」
「ほっぺたがますますふくれる」
「そんなことじゃない、学校の帰りが大変におそい」
「居残りの稽古があるんです」
「でもね、お金使いがあらいよ」
「本を買うんです、いまが一番本を買いたい年なんです、ぼくにも少しください」
「おまえのことをいってるんじゃないよ、本当に文子が本を買うためにお金がいるんだろうか」
「そうです」
「でも毎晩なんだか手紙のようなものを書いてるよ」
「作文の稽古ですよ、あいつなかなか文章がうまいんです」
「このあいだ男の子と歩いているのをお松が見たそうだよ」
「男の子とだって歩きますよ、ぼくも女の子と道づれになることがある、隣の珠子(たまこ)さんが犬に追われたとき、ぼくはおんぶして帰ってきた」
「おまえはなんとも思わないかね」
「だいじょうぶですよお母さん、文子は決してばかなことはしませんよ、ぼくの妹です、あなたの娘です」
「そうかね、それならいいが」
 母は安心して室(へや)をでた、あとでひとり光一はテーブルにほおづえをついて考えこんだ、文子が毎日晩(おそ)く帰る、たまに早く帰っても道具をほうりだしたままどこかへでてゆく、それについては光一も面白からず思っている、のみならず、このごろはしみじみと話をしたこともない、母の言葉によってさてはなにかよからぬことがあるかも知らぬ、と思ったものの、母に心配をかけるのはなによりつらい、できることなら自分ひとりで事の実否(じっぴ)をきわめてみたい、そうして不幸にも妹に危険なことがあるなら母にも父にも知らさずに、自分ひとりで万事を解決してやろう、こう思ってわざと平気を装(よそ)うて母に安心さした。
 だが文子ははたして悪魔の手に落ちたであろうか。
 光一は、じっとそれを考えつづけるうちに階下(した)の方で文子の声がした。
「ただいま!」
 光一は立ちあがった、二階を降りると文子は靴をはくところであった。
「文さん」と光一は呼びとめた。
「なあに?」
「どこへいくの?」
「お友達が待ってるのよ、テニスよ、今日は復讐戦(ふくしゅうせん)よ、大変よ」
「ちょっと待ってくれ」
「だって、もうおそいんですもの、ああ暑い、私汗がびっしょりよ」
 かの女は風呂敷包みをほうりだしてさっさとでていった。光一は風呂敷包みを持ったまましばらく妹の後ろ姿を見送ったが、急に二階の書斎へかけあがった。かれは風呂敷包みを解いた、中から歴史や地理や図画や筆箱などがでた、かれはそれらを一つ一つしらべると雑記帳の間から一封の手紙が落ちた。封筒にはただ「文子様」と書いてある。
 かれは中をひらいた。
「一昨日(おととい)逢って昨日(きのう)逢わなかった、いつものところへ来てください、今日(きょう)は大事な相談があります。文子さん……千三より」
「あっ」とばかりに光一は思わず声をあげた。
「千三! 千三! 青木か、ああ青木が……あのチビ公が、畜生(ちくしょう)!」
 茫然(ぼうぜん)としりもちをついた光一の顔は見る見る火のごとく赤くなった。畜生! 恩知らず! あいつが文子を誘惑(ゆうわく)しているのだ、あいつが文子を誘惑しているのだ、あいつがおれもおれの父もあれだけにつくしてやったにかかわらず妹を誘惑して妹から銭を取りやがった、ああチビ公! そんなやつだとは思わなかった、おれは売られた、おれは……おれは……。
 光一はそのまま二階を降りるやいなや、ぞうりをつっかけたまま家を出た、かれはまっすぐに千三の家へ走った。
「まあ坊ちゃん、せっかくおいでくだすったのに、千三は留守(るす)ですよ」と千三の母がいった。
「商売から帰らないのですか」
「今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか」
「さようなら」
 光一はすぐ引きかえして黙々塾(もくもくじゅく)へでかけた。塾(じゅく)にはだれもいなかった。光一はひっかえそうとすると窓から瘠(や)せたひげ面(づら)がぬっと現われた。
「やあ柳君、ちょっとはいれ」
「ぼくは急ぎますから失礼します」
「なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の大事な場合にのみ用うべしだ」
「ですが先生、ぼくは……」
「敵に声をかけられておめおめ逃げるという卑怯者(ひきょうもの)は浦中にあるかも知らんが、黙々塾(もくもくじゅく)にはひとりもないぞ」
「じゃ簡単にご用向きをうかがいましょう」と光一は中腹(ちゅうっぱら)になっていった。
「よしッ、じゃきみにきくがきみは水を飲むか」
「飲みます」
「一日何升(なんじょう)の水を飲むか」
「そんなに飲みません」
「いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、顔回(がんかい)は一瓢(ぴょう)の飲といったが、あれは三升入りのふくべだ、聖人は」
「さようなら」
 光一はたまらなくなって逃げだした。
「ばかにしてやがる、塾長(じゅくちょう)があんな風だから弟子共までろくなものがない、あん畜生! チビのやつ、どこへいったろう」
 光一は赫々(かっかく)と燃え立つ怒りにかられながら血眼になって千三を探しまわった、かれは大抵(たいてい)千三が散歩する道を知っていたので調神社(つきのみやじんじゃ)の方へ走った。かれは夢中に並み木と並み木の間をのぞいたりお宮をぐるぐるまわったりした。と、かれはふと大きな松の下で人影を見た。

         十二

 わが妹を誘惑(ゆうわく)して堕落(だらく)の境(さかい)にひきこもうとしつつあるチビ公をさがしまわった光一がいま松の下陰で見たのはたしかに妹文子の片袖(かたそで)とえび茶のはかまである。
「ひとりだろうか、ふたりだろうか」
 かれにはそれがわからなかった。十幾本(いくほん)となく並んだ松と松との間はせまい。
「どうしてこんなところへ来てるんだろう、多分チビと一緒だろう」
 光一はこう考えた、だが急にふたりの前へ出たらふたりはおどろいて逃げるかもしれない。かれはこう思ってしずかに足をしのばした。と突然(とつぜん)横合いの松かげから口笛が起こった。と思う間もなく石のつぶてが四方から飛んできた。
「だれだ」と光一は背後を向いていった。が人の姿は見えない。菜の花畑の間や肥料小屋の間からさかんにつぶてが飛んでくる。
「卑劣なやつだ、でてこい」
 かれはこういいながら八方を睨(にら)んだ。そうしてふたたび文子の方を見やると文子の姿はもう見えない。
「しまった、どこへ逃げたろう」
 かれは血眼になってさがした。もうつぶては飛んでこないが、お宮の境内(けいだい)はしんとして人の音もない。風が出て松のこずえをさらさらと鳴らした。こまかい葉の影のところどころに春の日がこぼれたように大地に光っている。光一はお堂の前にでた。そこの桜(さくら)の下に千三が立っている。光一は赫(かっ)とした。かれは野猪(のじし)のごとく突進した。
「おい、チビ!」とかれは叫んだ。千三はおどろいて顔をあげた。かれはいま石獅子(いしじし)の写生をしていたのであった。
「やい、きさまはおれをだましたな、きさまはおれの妹をきさまは……きさまは……」
 あまりにせきこんだので光一の声が喉(のど)につまった。千三はあきれて目をきょろきょろさせた。かれは光一がいたずらにこんなことをいってるのだと思った。
「やい、きさまはここでなにをしてるんだ」
「ぼくは高麗(こま)犬の写生をしてるんだよ、どうもね、一つの方が口をあいて一つの方が口をしめてるのがふしぎでならねえ」と千三はいった。
「なにがふしぎだ、きさまがここにいる方がよっぽどふしぎだ、ばかやろう!」
「きみは本当にそんなことをいってるのか」と千三は改まった。
「あたりまえだ、きさまはおれの妹を誘惑したろう」
「ぼくが!」
「あそこの松のところで妹と話をしていたのだ、それをおれが見た、きさまから妹にやった手紙も見た、知らないとはいわせないよ、ばかッ」
「おい柳! どうしたというんだ、ぼくがきみの妹を? きみ! きみ! それは嘘(うそ)だ、とんでもないことだ、きみ、誤解しちゃいけないよ」
「白ぱっくれるなよ、おれには証拠がある」
「じゃ証拠を見せたまえ」
「証拠はこれだ」
 光一は拳骨(げんこつ)を固めて千三の横面をなぐった。あっと千三は頬(ほお)に手をあてた。かれは火のごとく顔を赤くしたがやがて目に一ぱいの涙をためた。
「きみはぼくをなぐったね」
「無論だ、文句があるならかかってこい」
「柳君!」と千三は光一の腕(うで)をとった。「きみは後悔(こうかい)するぞ、きみはぼくをそんな人間だと思っていたのか、きみは……」
「なにを? 生意気な」
 光一は千三を横に払(はら)った。千三は松の根につまずいて倒れた。筒袖(つつそで)の袷(あわせ)にしめた三尺帯がほどけて懐(ふところ)の写生帳が鉛筆と共に大地に落ちた。このときお宮の背後から手塚が現われた。
「やあ柳! どうしたのだ」と手塚がいった。
「こいつはね、不都合なことをするからこらしてやったんだ」
「チビじゃないか、おいチビ、おまえ一体生意気だよ、おまえはなんだろう、いま、ここで文子さんと話していたんだろう」と手塚はいった。
「ぼくはひとりだよ」と千三は起(た)とうともせず大地に座りながらいった。
「隠すなよ、おれがちゃんと見ていたんだ、なあ柳、こいつはゆだんがならないよ、気をつけたまえね、しかしこのくらいやっつけたら二度と悪いことはしまいから堪忍(かんにん)してやれ、可哀(かわい)そうに、おいチビ、改心しろよ」
 手塚は光一をなだめなだめして手を曳(ひ)いて去った。境内(けいだい)はふたたびもとの静寂(せいじゃく)にかえった。さらさらさらと動く松の梢(こずえ)の上に名も知らぬ小鳥が一つどこからともなく飛んできてさえずりだした。その間から遠くの空の白い雲が見える。千三は座ったまま動かなかった。かれはなにがなにやらわからなかった。かれの第一に感じたのは光一の乱暴! そのつぎに起こったのは金の力と腕の力の相異によってだまって侮辱に甘んじなければならぬ悲しさであった。柳は財産家の子だ、それに腕力が強い、貧乏で身体(からだ)が小さいおれはかれに対して抵抗することがない。
 いやいやとかれは思い返した。これにはなにか事情がある。おれが第一になすべきことはおれの潔白を明らかにすることだ。もし文子さんを誘惑したという疑いがおれにかかってるものとすればおれはその事実をきわめて柳に謝罪させなければならぬ。そのときこそはおれは決して一歩もゆずらない。かれがいま、おれをなぐったほどおれもかれをなぐってやる。
 このことがあってから光一と千三は仇敵のごとくになった。ふたりは道で逢(あ)っても顔をそむけた。
「いまに復讐(ふくしゅう)してやるぞ」
 千三はこう肚(はら)の中でいった。文子は光一にきびしく説諭されてふたたび手塚の許(もと)へゆかなくなった。月日はすぎて、暑中休暇が近づいた。するとここにめずらしい事件が起こった。
 浦和学生弁論会!
 野球の試合ばかりが学生の興味でない。体力を養成するとともに知識を求めなければならぬ。浦和各中等学校の学生が一堂に会して弁論を研究しよう、これが目的で学生弁論会なるものが組織された。元来浦和に他山会(たざんかい)なるものがあって、師範学校と中学校の学生有志が一つの問題を提供して両方にわかれて討論したのであった。だがこの会には弊害があった。師範学校と中学校と、学校によって議論をわけたので、つまり対校試合と同じものになった。それがために中学生が師範生の説に賛成することができなかったり、師範生が自分の校友の説に反対することができなかったりそのために個人個人の自由意志が束縛(そくばく)されて弁論の主義が立たなくなった。そこで浦和弁論会はいずれの学校に属する学生でも自由に所懐を述べてさしつかえないことにした。そうして黙々塾(もくもくじゅく)をも勧誘した。いよいよ当日となった。場所は師範学校の大講堂である。時は夕方から。
 この催(もよお)しを聞いて浦和の町の父兄達も定刻前に会場へつめかけた。各学校の先生達はわが生徒に勝たせようとしのびしのびに群集の中にまぎれこんでいった。時刻になると師範生のおそろしく丈の高い男が演壇に現われた。かれはすこぶる愛嬌者で頭の横に二銭銅貨ぐらいのはげがあるので銅貨のあだ名があった。かれは妙にきどって両手を腰の左右にくの字につっぱった。
「玩具(おもちゃ)の兵隊!」とだれかが声をかけた。かれはそれを聞いて脚(あし)を固くつっぱって歩くまねをしたので群集はどっとわらった。こういう滑稽な男が司会をしたということは会の威厳を損じたに違いないが、しかし二つの学校の生徒がしのぎをけずって戦おうという殺気立った会場を春のごとく平和にしたのはこの男のおかげである。
 弁論の題はこの席上で多数決で決めることになっている。
 各自の抱負(ほうふ)をのべること、
 科学について、
 英雄論、
 この三つが提出された。英雄論を提出したのは手塚であった。司会者は採決した。英雄論が大多数をもって通過した。それはいかにも青年にふさわしき題であった。学生の眼はことごとく異様に輝き、その呼吸が次第にせまってきた。しかしだれあってまっさきに立つ者がなかった。すべてこういう場合に先登をする者はきわめて損である。いかんとなれば後の弁士に攻撃されるからである。中学生はことごとく手塚と柳の方を見やった。手塚はしきりにノートをくっている。光一は微笑している、師範学校側では野淵(のぶち)という上級生と矢島というのが人々に肩をつかれていた。黙々塾(もくもくじゅく)ではみながチビ公をめざした。チビ公は頭を縮(ちぢ)めてひっこんだ。と、突然演壇に立った青年がある。それは例の浜本彰義隊(はまもとしょうぎたい)であった。かれは剣道の稽古着に白いはかまをはき、紐(ひも)の横にきたない手ぬぐいをぶらさげたまま、のそのそとテーブルの上の水さしからコップで水を飲んだ。
「水を飲みにあがっちゃいかん」とだれかがいった。実際彰義隊は弁舌がへたなので何人(なんぴと)もかれが演説をすると思わなかったのである。
「満場の諸君!」
 彰義隊はきっと直立して両手をはかまの紐(ひも)の間にはさみ、おそろしく大きな声でどなった。会衆はわっとわらいだしたがすぐしずかになった。
「満場の諸君!」とかれはふたたびいった。そうしてまた「満場の諸君!」とどなった。会衆はわくがごとくわらった。
「わが輩(はい)は英雄を崇拝する、わが輩は英雄たらんとしつつある。わが輩は諸君が英雄たることを望む、小説や音楽や芝居やさらにもっとも下劣なる活動写真を見るようなやつは到底(とうてい)英雄にはなれない。わが輩はそいつらをばかやろうと呼ぶ、今夜ここに英雄もきているだろうが、ばかやろうもなかなか多い、わが輩は片っ端からぶんなぐって首を抜いてやるからそう思え」
「脱線脱線」と叫んだものがある。
「なにを? ……」
「暴言はやめてください」と司会者の銅貨が注意した。
「よしッ、わかりました、そこで満場の諸君!」
 彰義隊(しょうぎたい)はこう向きなおってなにかつづけようとしたがなにをいうつもりであったか忘れたのでしきりに頭をかいた。
「おわりッ」
 かれは壇を降りた、拍手と笑声とが一度にとどろいた。
「ただいまのは少し脱線しました、次は……」と銅貨がいった。このとき手塚がみなに押されて座席をはなれた。会衆は波の如く動いた。手塚は器用で頓知がある、人まねがじょうずで、活動の弁士の仮声(こわいろ)はもっとも得意とするところであり、かつ毎月多くの雑誌を読んであらゆる流行語を知っている。かれは新しい制服を着てなめらかに光る靴をはいていた。
 拍手に送られてかれは演壇に立った。
「私は英雄を非認(ひにん)するためにこの演壇に上がりました、私は歴史のあらゆる頁(ページ)から英雄を抹殺したいと思います。英雄なる文字は畢竟(ひっきょう)奴隷(どれい)なる文字の対象であります、私共の祖先は英雄の奴隷(どれい)であったのです、個人の権利を侵掠(しんりゃく)して自己の征服欲を満足させたものは英雄であります、もし今日……デモクラシーの今日においてなお英雄を崇拝するものあらばそれは個人の生存権利を知らない旧(ふる)い頭の持ち主であります」
 一気にすらすらといいだした流暢な弁舌はさわやかに美しい、彼の目はいかにも聡明に輝き、その頬(ほお)は得意の心状と共にあからんだ。
「よくしゃべる奴だ」と彰義隊(しょうぎたい)が叫んだ。
「しッしッ」と制する声。
 手塚は会衆を満足そうに見おろしてつづけた。
「一将(しょう)功(こう)成りて万骨(ばんこつ)枯(か)るという古言があります、ひとりの殿様がお城をきずくに、万人の百姓を苦しめました、しかも殿様は英雄とうたわれ百姓は草莽(そうもう)の間につかれて死にます、清盛(きよもり)、頼朝(よりとも)、太閤(たいこう)、家康(いえやす)、諸君はかれらを英雄なりというでしょう、しかしかれらがどれだけ諸君の祖先を幸福にしましたか、個人がその知力と腕力をもって他の多くの個人を征服し、侵掠(しんりゃく)し、しかもその子孫にまでおよぼすということは今日の世にゆるすべからざることであります、すでに世界においては欧州戦争以来すべてがデモクラシーになりました、民衆がすなわち国家であります、民衆の意志が国家の意志であります、ここにおいて昔のように英雄なる一人の暴虐者(ぼうぎゃくしゃ)の下に膝を屈するということは断じてやめなければなりません。諸君はナポレオンを英雄なりという、しかしナポレオンのためにフランスはどれだけ英国やロシアやドイツの圧迫を受けたか、一英雄のために国は疲れついにめめしくも城下のちかいをなして彼の英雄をセントヘレナへ流したではないか、おそるべきは英雄である、忌(い)むべきは英雄である、現代の日本は英雄崇拝の妄念(もうねん)を去って平等と自由に向かって進まねばならぬ、すべての偶像(ぐうぞう)を焼いて世界の趨勢にしたがわねばならぬ、私の論はこれをもっておわりとします」
 会衆は恍惚(こうこつ)としてかれの声をきいていた、それはきわめて大胆で奇抜で、そうして斬新(ざんしん)な論旨である、偶像破壊(はかい)! 平等と自由! デモクラシーの意義!
 わるるばかりの拍手に送られて手塚は壇をおりた。かれの左右から校友がかわりがわりに握手するやら肩を打つやらした。手塚は揚々として席についた。
「反対!」と叫んだものがある。人々はその方を見ると師範学校の野淵であった。野淵というのは模範生と称せられている青年で、漢文や英語に長じその学問の豊かな点において先生達も舌を巻いておそれている。かれは底力のある声量と悠然(ゆうぜん)たる態度でまずこういった。
「ただいまの弁士の新知識を尊敬するとともにわが輩はその論旨に大なる疑いをはさまねばならないことを遺憾(いかん)に思います、弁士は英雄不必要を唱(とな)えました。英雄の対象は奴隷(どれい)であるといいました。偶像を破壊して民衆的にならねばならぬといいました。はたしてそうでしょうか、ああはたして然(しか)るか」
 語調は一変して大石急阪を下る勢いもって進行した。
「もしこの世に英雄なかりせば人間はいかにみじめなものであろう、古人は桜(さくら)を花の王と称した、世の中に絶えて桜のなかりせば人の心やのどけからましと詠(えい)じた、吾人は野に遊び山に遊ぶ、そこに桜を見る、一抹(いちまつ)のかすみの中にあるいは懸崖千仭(けんがいせんじん)の上にあるいは緑圃黄隴(りょくほこうろう)のほとりにあるいは勿来(なこそ)の関(せき)にあるいは吉野の旧跡に、古来幾億万人、春の桜の花を愛(め)でて大自然の摂理(せつり)に感謝したのである、もし桜がなかったらどうであろう、春風長堤をふけども落花にいななける駒(こま)もなし、南朝四百八十寺、甍(いらか)青苔(せいたい)にうるおえども鎧(よろい)の袖(そで)に涙をしぼりし忠臣の面影(おもかげ)をしのぶ由もなかろう、花ありてこそ吾人は天地の美を知る、英雄ありてこそ人間の偉(い)なるを見る、人類の中にもっとも秀(ひい)でたるものは英雄である、英雄は目標である、羅針盤(らしんばん)である、吾人はその経歴や功績を見てたどるべき道を知る、前弁士は清盛(きよもり)、頼朝(よりとも)、太閤(たいこう)、家康(いえやす)、ナポレオンを列挙し吾人の祖先がかれらに侵掠(しんりゃく)せられ、隷使(れいし)されたといったがいずれのときに於(お)いても民衆の上に傑出せる英雄が生ずるのである。清盛(きよもり)、頼朝(よりとも)、太閤(たいこう)、家康(いえやす)、ナポレオンが生まれなければ、他の英雄が生まれて天下を統一するであろう、非凡の才あるものが凡人を駆使(くし)するのは、非凡の科学者が電気や磁気や害虫や毒液を駆使すると同じである。露国(ろこく)はソビエト政府を建てたがかれらを指揮するものはレーニンとトロツキーである。イタリーはデモクラシーを廃してムッソリーニを英雄として崇拝している、英雄主義は永遠にほろびるものでない、英雄のなき国は国でない、宇宙に真理があるごとく人間に英雄があるものである、いたずらに英雄を無視せんとするものは自ら英雄たるあたわざる者の絶望の嫉妬(しっと)である」
「そうだそうだ」と彰義隊(しょうぎたい)は頭に鉢巻きをしておどりあがった。「おれのいいたいことをみんないってくれた」
 人々は野淵の荘重(そうちょう)な漢文口調の演説を旧式だと思いつつもその熱烈な声に魅(み)せられて、狂するがごとく喝采した、手塚はきまりわるそうに頭を垂れた。実をいうとかれの論旨はある社会主義の同人雑誌から盗んだものなので、その新しそうに見えるところがすこぶる気にいったのであった。かれはこの演説で大いに「新人(しんじん)」ぶりを見せびらかすつもりであったが、野淵に一蹴(いっしゅう)されたのでたまらなく羞恥(しゅうち)を感じた。そうして救いを求むるように光一の方を見やった。
 光一はだまって演壇の方へ歩いた。人々はさかんに拍手した。光一は平素あまり議論をこのまなかった。かれは自分でも演説はへただと思っている。だがみなのすすめをこばむことはできなかった。かれは演壇にのぼったとき胸が波のごとくおどった。そうして自分ながら顔がまっかになったことを感じた。だがそれを制することもできなかった。かれは躊躇(ちゅうちょ)した。それはさながら群がるとらの前にでた羊(ひつじ)のごとく弱々しい態度であった。
 千三はじっと目をすえて光一をにらんでいた。
「畜生! あいつなにをいやがるだろう、へんなことをいったらめちゃめちゃに攻撃していつかの復讐(ふくしゅう)をし、満座の前で恥(はじ)をかかしてやろう」
 おそらく当夜の会場で千三ほど深い注意をもって光一の演説を聴いていたものはなかったろう。
 一方において手塚はほっと息をついた。救いの船がきたのである。師範の野淵をやっつけてくれるだろう。
「ぼくは演説がへたですからよくしゃべれません」
 いかにもおずおずした調子でしかも低い活気のない声で光一はいった。
「へたなやつだなあ」と千三は肚(はら)の中でいった。
「ふだんにいくらいばっても晴れの場所では物がいえないだろう、へそに力がないからだ」
 会衆もまた光一が案外へたなのに失望した。
「しかしぼくは野淵君の説に賛成することはできません、野淵君は英雄と花とを比較(ひかく)して美文を並べたがそれはカアライルの焼きなおしにすぎません、いかにも英雄は必要です、だが野淵君のいうような英雄は全然不必要です、いかんとなれば昔の英雄は国利民福を主とせずして自己の利害のみを主としたからです、豊臣(とよとみ)が諸侯を征した。家康(いえやす)が旧恩ある太閤(たいこう)の遺孤(いこ)を滅ぼして政権を私した、そうして皇室の大権をぬすむこと三百余年、清盛(きよもり)にしろ頼朝(よりとも)にしろ、ことごとくそうである、かれらは正義によらざる英雄である、不正の英雄は抜山倒海(ばつざんとうかい)の勇あるももって尊敬することはできません、武王(ぶおう)は紂王(ちゅうおう)を討った、それは紂王(ちゅうおう)が不正だからである、ナポレオンは欧州を略(りゃく)した、それは国民の希望であったからである、木曽義仲(きそよしなか)を討ったとき義経(よしつね)は都に入るやいなや第一番に皇居を守護した、かれは正義の英雄である、楠正成(くすのきまさしげ)の忠はいうまでもない。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の忠もまたいうまでもない。そもそも諸君は足利尊氏(あしかがたかうじ)、平清盛(たいらのきよもり)、源頼朝(みなもとのよりとも)をも英雄となすであろう。かれらは国賊である、臣子の分をみだすものは他に百千の功ありとも英雄と称することはできない、古来英雄と称するものは大抵(たいてい)奸雄(かんゆう)、梟雄(きょうゆう)、悪雄の類である、ぼくはこれらの英雄を憎む、それと同時に鎌足(かまたり)のごとき、楠公(なんこう)のごとき、孔子(こうし)のごとき、キリストのごとき、いやしくも正義の士は心をつくし気を傾(かたむ)けて崇拝する、それになんのふしぎがあるか、万人に傑出する材ありといえども弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を英雄となし得ようか、三帝を流し奉(たてまつ)りし北条(ほうじょう)の徒を英雄となし得ようか、諸君! 諸君は西郷南洲(さいごうなんしゅう)を英雄なりと称す、はたしてかれは英雄であるか、かれは傑出したる人材に相違ないが、いやしくも錦旗(きんき)にたいして銃先(つつさき)を向けたものである、すでに大義に反す、なんぞ英雄といいえよう」
 ひつじは俄然(がぜん)虎になった。処女は脱兎(だっと)になった。いままで湲々(えんえん)と流れた小河の水が一瀉(いっしゃ)して海にいるやいなや怒濤(どとう)澎湃(ほうはい)として岩を砕(くだ)き石をひるがえした。光一の舌頭は火のごとく熱した。
「野淵君は漫然と英雄のご利益(りやく)をといたが、いかなるものがこれ英雄であるかを説(と)かない、正しき英雄とよこしまなる英雄とを一括(いっかつ)して概念的にその可(か)不可を論ずるは論拠においてすでに薄弱である」
「ひやひや」と手塚は立ちあがって叫んだ。

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