ああ玉杯に花うけて
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著者名:佐藤紅緑 

「今日(きょう)は日曜だからおまえは休め、おまえは今日大事な戦争にゆかなきゃならないじゃないか」
「野球は午後ですから、朝だけぼくは売りにでます」
「いやかまわない、わしもおひるからは見物にゆくぞ、しっかりやってくれ」
「ありがとう伯父さん、それじゃ今日は休ましてもらいます」
「うむ、うまくやれよ、金持ちの学校に負けちゃ貧乏人の顔にかかわらあ[#「かかわらあ」は底本では「かからあ」]」
 伯父さんはこういってらっぱをぷうと鳴らしてでていった。千三は井戸端(いどばた)へでて胸一ぱいに新鮮な空気を呼吸した、それからかれはすっぱだかになって十杯のつるべ水を浴びて身をきよめた。
「どうぞ神様、ぼくの塾(じゅく)をまもってください」
 じっと目を閉(と)じて祈念するとふしぎにも勇気が次第に全身に充満する。朝飯をすまして塾へゆくと安場がすでにきていた。一分時(ぷんじ)の違いもなく全員がうちそろうた。そこで先生が先頭になって調神社(つきのみやじんじゃ)へ参詣する、それから例の空(あ)き地(ち)へでて猛烈な練習をはじめた。
 春もすでに三月のなかばである、木々のこずえにはわかやかな緑がふきだして、桜(さくら)のつぼみが輝きわたる青天に向かって薄紅(うすべに)の爪先(つまさき)をそろえている。向こうの並(な)み木(き)は朝日に照らされてその影をぞくぞくと畑道の上に映(うつ)していると、そこにはにわとりやすずめなどが嬉しそうに飛びまわる。
 昨夜(ゆうべ)熟睡したのと、昨日一日練習を休んだために一同の元気はすばらしいものであった、安場はすっかり感激した。
「このあんばいではかならず勝つぞ」
 一同は練習をおわって汗をふいた。
「集まれい」と先生は号令をかけた、一同は集まった。
「みんなはだかになれ」
 一同ははだかになった。
「へそをだせい、おい」
 一同はわらった、しかし先生はにこりともしなかった。一同はさるまたのひもをさげてへそをだした。先生は第一番の五大洲(だいしゅう)(投手)のへそのところを押してみた。
「おい、きみは下腹(したはら)に力がないぞ、胸のところをへこまして下腹をふくらますようにせい」
「はい」
 先生はつぎのクラモウのへそを押した。
「おい、大きなへそだなあ」
「ぼくはいま力を入れてつきだしてるのです」
「いかん、へそのところをつきだすのじゃない、へその下へ食べたものをみんなさげてやるんだ、いいか、胸がせかせかして負けまい負けまいとあせればあせるほど、下腹がへこんで、肩先に力がはいり、頭がのぼせるんだ、味方が負け色になったらみんなへそに気をおちつけろ、いいか、わすれるな、黙々塾(もくもくじゅく)は一名へそ学校だぞ、そう思え」
 先生はひとりひとりにへそを押してみた。
「あまり押すと先生、小便がもります」と二塁手のすずめがいった。そこで先生もわらった。
 その日の試合は製粉会社の裏の広場でやることになった、中学の運動場は修繕のために使用ができなかった、朝からの快晴でかつ日曜であるために見物人はどしどしでかけた、豆腐屋の覚平は早く商売をしまって肩にらっぱをかけたままでかけた、見ると正面に大きな網(あみ)をはり、白い線を大地に引いて、三ヵ所に大きなまくらのようなものをおいてある、二本の長い線の両側に見物人が陣どっているが、草の上に新聞紙を敷いて座ってるのもあり、またむしろやこしかけを持ち出したのもあった。覚平はかくまで野球が人気をひくとは思いもよらなかった。かれは野球とはどんなことをするものか知らなかった。かれは豆腐おけをになって町を歩くとき、おりおり子供等に球を頭にあてられたり背骨を打たれたりするのでむしろ野球に対して反感をいだいていた。
「すりこぎをふりまわすなんてつまらねえまねをするもんだ」
 こうかれはいつもいった、だがいまきてみると子供等ばかりでなく、労働者も商人も紳士(しんし)も役人も集まっている。
「大変なことになったものだ」
 かれは肝(きも)をつぶしてまごまごしていると後ろから声をかけたものがある。
「覚平さん」
 ふりかえるとそれは八百屋の善兵衛であった、善兵衛はなによりも野球が好きであった、野球が好きだというよりも、野球を見ながらちびりちびりと二合の酒を飲むのが好きなのである、かれもあまり野球の知識はないほうだが、それでも覚平よりはすべてを知っていた。
「やあおまえさんもきてるね」と覚平がいった。
「おらあハア三度のご飯を四度食べても野球は見たいほうで」と善兵衛がいった。
「おれにゃわからねえ」と覚平がいった。
「じゃおらあ教えてやるべえ」と善兵衛はいった。
「ところで一杯どうです」
「これはこれは」
 ふたりは一つのさかずきを献酬(けんしゅう)した。善兵衛はいろいろ野球の方法を話したが覚平にはやはりわからなかった。
「つまり球を打ってとれないところへ飛ばしてやればいいんです」
「なるほどね」
 ふたりが草に座ってかつ飲みかつ語ってるうちに見物人は刻々(こっこく)に加わった。中学の生徒は制服制帽整然とうちそろうて一塁側に並んだ。その背後には中学びいきの大人(おとな)連が陣取っている、その中に光一の伯父さん総兵衛(そうべえ)がその肥(ふと)った胸を拡げて汗をふきふきさかんに応援者を狩(か)り集めていた、かれは甥(おい)の光一を勝たせたいために商売を休んでやってきたのである。
 この日師範学校の生徒は黙々塾(もくもくじゅく)に応援するつもりであった、師範と中学とは犬とさるのごとく仲が悪い、だがこの応援は中止になった、いかんとなれば審判者(しんぱんしゃ)は師範の選手がたのまれたからである、で師範は中立隊として正面に陣取った。
「早く始めろ」
「なにをぐずぐずしてるんだ」
 気の短い連中は声々に叫んだ、この溢(あふ)るるごとき群衆をわけて浦和中学の選手が英気さっそうとして場内に現われた、揃いの帽子ユニフォーム、靴下は黒と白の二段抜き、靴のスパイクは日に輝き、胸のマーク横文字の urachu はいかにも名を重んずるわかき武士のごとく見えた。
 見物人は拍手喝采(はくしゅかっさい)した、すねあてとプロテクターをつけた肩幅の広い小原は、マスクをわきにはさみ、ミットをさげて先頭に立った、それにつづいて眉目秀麗(びもくしゅうれい)の柳光一、敏捷(びんしょう)らしい手塚、その他が一糸みだれずしずかに歩を運んでくる。
「バンザアイ、浦中万歳」
 総兵衛はありったけの声で叫んだ。浦中応援隊は応援歌をうたった、手に手に持った赤い旗は波のごとく一起一伏して声調律呂(りつりょ)はきちんきちんと揃う。
 選手は入場するやいなやすぐキャッチボールを始めた、それがすむと、一同さっと散ってめいめいのシートシートに走った。やがてノックが始まった。ノッカーは慶応の選手であった山田という青年である、正確なノックは士気を一層緊粛(きんしゅく)させた、三塁から一塁までノックして外野におよびまた内野におよぶまでひとりの過失もなかった、次第に興奮(こうふん)しきたる技術の早業(はやわざ)はその花やかな服装と、いかにも得意然(とくいぜん)たる顔色と共に見物人を圧倒した、ダブルプレー、トリプルプレー、その中に手塚のできばえはべっしてすばらしかった、かれはどんなゴロでも完全につかんだ、かれは頭上高き球をジャンプしてとった、左側に打たれた難球を転(ころ)んでつかんだ、つかむやいなや二塁に送った。その機敏さ、洒脱(しゃだつ)さはさながら軽業師(かるわざし)のごとく見物人を酔(よ)わした。
「手塚! 手塚!」
 の声が鳴りわたった。ちょうどそのとき黙々塾(もくもくじゅく)の一隊が入場した。
「きたきたきた」
 見物人は立ちあがってその方を見やった、同時に「わあッ」という笑声が一度に起こった。
 見よ! 黙々塾の一隊! それはマークの着いた帽子もなく揃いのユニフォームもない、かれらは一様にてぬぐいで鉢巻きをしていた、かれらのきたシャツにはメリヤスもあればねずみ色に古びたフランネルもあり、腕のないじゅばんもあった、かれらは大抵(たいてい)さるまたの上にへこ帯をきりきりと巻き、結び玉を後ろへたれていた、かれらのはいてるのは車夫のゴム足袋(たび)もあれば兵隊の古靴もある。九人はことごとくちがった服装、その先頭にコーチャーの安場は七輪(しちりん)のような黒い顔をしてこけ色になった一高の制服制帽で堂々と歩いてくる。
 いずれを見てもそれはいかにもみじめな一隊であった、かの花やかな浦中と対照してこれは何というきたならしい選手達だろう、見物人は戦わぬうちに勝敗を知った。
「だめだよ、つまらない」
 もう見かぎりをつけて帰ったものもある。一同は肩ならしをやったうえで、さっとシートに着いた、安場は上衣(うわぎ)を脱いでノックした。それはなんということだろう。
 元来晴れの戦場におけるノックには一種の秘訣(ひけつ)がある、それは難球を打ってやらぬことである、だれでも取れるような球を打ってやれば過失がない、過失がなければ気がおちつく、特に試合になれぬチームに対してはノッカーはよほど寛大に手心せねばいたずらに選手をあがらしてしまうおそれがある。
 なにを思ったか安場のノックは峻辣(しゅんらつ)をきわめたものであった、難球また難球! 第一番に三塁手がミスする、ついでショートの青木、これもみごとにミスする、やりなおす、またミスする、三度、四度! 千三は次第に胸が鼓動(こどう)した、見物人は口々にののしる。
「やあい、豆腐屋、だめだぞ」
 嘲笑(ちょうしょう)罵声(ばせい)を聞くたびに千三は頭に血が逆上(ぎゃくじょう)して目がくらみそうになってきた。かれが血眼(ちまなこ)になればなるほど、安場のノックが猛烈になる。やっと球をつかんだかと思うと一塁へ三尺も高い球をほうりつける。見物人はますますわらう。
 さんざんな悪罵(あくば)の中にノックはおわった。千三はいくどもいくども滑ったので身体(からだ)はどろだらけになった、その他の人々も同様であった。
 やがて審判者がおごそかに宣告した。
「プレーボール!」
 浦中は先攻である。黙々(もくもく)の投手五大洲(だいしゅう)ははじめてまん中にたった、かれは十六歳ではあるが身長五尺二寸、投手としてはもうしぶんなき体格である、かれは手製のシャツを着ていた、それは白木綿(しろもめん)で母が縫(ぬ)うてくれたのだが、かれはその胸のところに墨黒々と片仮名で「モクモク」と右から左に書いた。かれがこれを着たとき、すずめがそれだけはよしてくれといった、かれは頑(がん)としてきかない。
「おれは日本人だから日本の文字のしるしを書くんだ、毛唐(けとう)のまねなんか死んでもしやしないよ」
 これをきいて黙々(もくもく)先生は感歎した。
「松下! おまえはいまにえらいものになるよ」
 見物人はいまかれの胸の片仮名を見て一度にどっとわらった。
「やあい、モクモク」
「モクネンジンやあい」
「モク兵衛(べえ)やあい」
 だがかれは少しもひるまなかった、かれの鉄砲のごとき速球はまたたく間にふたりを三振せしめた、つぎは柳光一である。光一はボックスに立ってきっと投手を見やった、かれは速球に対して確信がある。千三は小学校にありしとき光一のくせをよく知っている、かれは光一がかならず自分の方へ打つだろうと思った。
「打たしてもいいよ」と千三は五大洲にいった。
「よしッ」
 五大洲はまっすぐな球(たま)をだした。戞然(かつぜん)と音がした、見物人はひやりとした、球ははたして千三に向かった、千三は早くも右の方へよった。
「しめたッ」
 と思う間もなくかれは足をすべらした、喝采(かっさい)の声が起こった、球は一直線に中堅(ちゅうけん)の方へ転がった。千三の目から涙がこぼれた。光一は早くも二塁に走った。
 つぎの打手は敵の主将小原である。ホームランか三塁か、いずれにしても一点は取るだろうと人々は思った、投手五大洲はじっと腕をくんで捕手のサインを見やった。第一球は高目のカーブであった。五大洲はそのとおりに球を投げた。小原はボールを取るだろうと思いのほか、かれはおどり上がってそれを打った、球はショートの頭をはるかに高く飛んだ、千三はうしろに走った、と球は伸(の)びるかと思いのほか、途中で切れてさか落としに落ちた、ハッと思う間もない、光一は疾風(しっぷう)のごとく本塁を襲(おそ)うた、千三はあわててホームに投げた、球は高くネットを打った。
 次の打者の三振でわずかに食い止めたものの、第一回において黙々(もくもく)は一点を負けた。千三は顔をあげることができなかった、かれはなくにもなけなかった。
 ぼんやりベンチへ帰ると安場はにこにこしていた。
「おい、だいじょうぶ今日の試合はこっちのものだぞ」
「ぼくはだめだ」と千三がいった。
「いやなかなかいい、すてきにいい」と安場はいった。
 柳がダイヤモンドに立ったとき群集は一度に喝采(かっさい)した。実際柳の風采、その鷹揚(おうよう)な態度はすでに群衆を酔(よ)わした。それに対して小原の剛健沈毅(ちんき)な気宇(きう)、ふたりの対照はたまらなく美しい。
「柳!」
「小原!」
 この声と共に学校の応援歌がとどろいた。黙々(もくもく)の第一打者は五大洲である。かれはかんかんにおこっていた。かれは頭の鉢巻きをかなぐりすてたとき、その斑々(はんぱん)たる火傷(やけど)のあとが現われたので見物人はまたまた喝采した。
 柳は静かに敵の姿勢を見やった、そうして美しいボディスイングを起こした。のびのびとした四肢(しし)や胴体のあざやかさ、さながら画に見るがよう、球が手をはなれた。五大洲がバットをふったかと見ると球は左翼の頭上はるかに飛んだ、外野手は走った、内野手も走った、陣営騒然(そうぜん)とみだれた、小原はあっけに取られてマスクをぬぎ捨てたまま本塁に立っている。
「ホームイン」
 五大洲の一撃で一点を恢復(かいふく)した。このとき三塁の背後の松の枝高くらっぱの音が聞こえた。ついで気違(きちが)いじみた声!
「もくもく万歳! もくもく勝ったぞ」
「ぷうぷうぷうぽうぽうぷう」
 らっぱは千三の伯父覚平で、叫んでるのは善兵衛である。
 この声援と共にここにおどろくべき声援者が現われた、それは製粉会社の職工四、五十名と、木材会社その他の労働者、百姓(ひゃくしょう)、人足、馬夫(まご)! あらゆる貧民階級が一度にどっとときの声をあげた。
「もくもく勝った勝った」
 これに対して総兵衛ははじめは羽織(はおり)を脱ぎつぎは肌脱(はだぬ)ぎになりおわりにすっぱだかになっておどりだした。
「フレー、フレー、浦中!」
 野球場は見物人と見物人との応援戦となった。
 回が進んだ、一対一が二対二となり、五回、六回におよんだとき、浦中は五点、黙々(もくもく)は三点になった。二点の相違! このままで押し通すであろうか。千三は回ごとにミスをした、しかもかれは三振二つ、ピーゴロ一つを打っただけである。かれはすみに小さくなって涙ぐんでいた。覚平はもう松の枝に乗りながららっぱをふく勇気もなくなった。
「勝てないかなあ」とかれは善兵衛にいった。
「勝てそうもないなあ」と善兵衛がいった。すべての応援者も力が抜けてしまった。実際柳の成績はおどろくべきものであった、かれの球は速力において五大洲におとっているが、その縦横自在な正奇の球は回が重なるにしたがって熱気をおびてきた、どうかしてかれが敵に打たれこむときには小原がマスクをぬいでダイヤモンドへ進んでくる、そうしてこういう。
「おい、おれの鼻穴(はなのあな)になにかはいってないか見てくれ」
「なにもないよ」と柳は小原の鼻を見ていう。
「そうか、かにが一ぴきはいってるような気がするよ」
「そんなことがあるもんか」と柳はわらいだす。
 それを見て小原はまたいう。
「五大洲の頭にかにを這(は)わせてやろうか」
「なぜだ」
「天下横行だ」
「はッはッはッ」
 これで柳の気がしっかりとおちつくのである、柳は小原の老巧に感謝するのはいつもこういう点にある。
 柳ばかりでない、手塚もいろいろな快技曲技をやって見物人を酔(よ)わした、かれはもっとも得意であった、ファインプレーをやるたびに見物人の方を見やって微笑(びしょう)した、ときには帽子をぬいで応援者におじぎをした。
 千三は暗い暗い気分におされてだまっていた。かれはこのままこの場を逃げだしたいと思った。と安場がにこにこしてきた。
「そろそろいい時分だよ」
「なにが?」
「ラッキーセブンだ」
「ぼくにラッキーはない、だめだ」
「ばかいえ、きみはたしかに勝てるのに勝たずにいるんだ」
「どうして?」
「きみは大事なことをわすれてる」
「なにを? 大事なことを?」
「うむ、先生に教(おそ)わったことを」
 千三はじっと考えた。
「あッ、へそか」
「人間がへそをわすれたら、もうおしまいだ」
「そうか、うむ、ああへそだ、はッはッはッ」
 と千三はわらった。
「わかったか」
 安場はぐっと千三のへそを押した。ふしぎに千三は頭がすッと軽くなった、胸につかえたもじゃもじゃしたものが煙のごとく消えて、どっしりと腹の底に重みができた。
「見ろ! あの手塚てえやつはいまに大変なミスをやるぞ、見物人に賞(ほ)められることばかりを考えてるからね」
「やる! きっとやる」と千三はいった。このとき五大洲は安打して一塁をとった、つぎのクラモウはバントした、手塚はそれを取って二塁へ投げようか一塁へ投げようかと疑惧(ぎぐ)してるうちに双方を生かしてしまった。三番は千三である。
「ぷうぷうぽうぽう」とらっぱが鳴った。
「青木! 青木! フレイフレイ」と善兵衛がどなる。
「豆腐屋ア」と敵方がひやかす。
 千三はボックスに立つ前にバットを一ふりふった、それは先生の手製のこぶこぶだらけのバットである。かれは血眼(ちまなこ)になって光一をにらんだ。いままでかれは光一を見るとき一種の弱気を感じたのであった、かれはわが伯父が入獄中に受けた柳家の高恩を思い、わが貧をあわれんで学資をだしてやろうとした光一の友情を思うと、かれの球を打つ気合いが抜けてどうすることもできないのであった。
 いまかれは臍下(せいか)に気をしずめ、先生のバットをさげて立ったとき、はじめて野球の意義がわかった。
 私情は私情である、恩義は恩義である、だが野球は先生および全校の名誉を荷のうて戦うのである、私情をはなれて公々然と戦ってこそそれが本当の野球精神である、このバットは先生を代表したものである、ぼくが打つのでない、先生が打つのだ。
 こう思って光一の顔を見やると光一は微笑している、その男らしい口元、上品な目の中にはこういってるかのごとく見える。
「おたがいに全力を尽くして技術を戦わそうじゃないか、負けても勝ってもいい、敵となり味方となってもよく戦ってこそおたがいの本望だ」
 千三はたまらなく嬉しくなった、かれはボックスに立った。それを見て光一は思った。
「かわいそうに青木は今日(きょう)はばかにしょげかえっている、一本ぐらいは打たしてやりたいな」
 だがかれはすぐに考えなおした。
「いやいや、ぼくのお情けの球を打って喜ぶ青木ではない、そんなことはかえって青木を侮辱(ぶじょく)しかつ学校と野球道を侮辱するものだ」
 実際敵の走者が第一第二塁にある、少しもゆだんのならぬ場合である、かれは捕手のサインを見た、小原はすでに青木をあなどっている、かれは第一にウェストボールをサインした、第二もまた……第三には直球である。それは青木の予想するところであった。
 かれは光一の球が燦然(さんぜん)たる光を放ってわが思う壺(つぼ)をまっすぐにきたと思った、かれは八分の力をもってふった。
 わっという喊声(かんせい)と共に千三は球がたしかに手塚に取られたと思った、が球は手塚の靴先にバウンドした、手塚はダブルプレーを食わして喝采(かっさい)を博そうとあせったのでスタートをあやまったのである、かれはバウンドした球をつかもうとしてグローブの上ではね返した、ふたたび拾おうとしたとき二塁手と衝突(しょうとつ)して倒れた。かれは起きあがったがあわてたために球が見えなかった、球はかれの靴のかかとのところにあったのである。
「ボールがボールが」とかれは悲鳴をあげた。中堅手がそれを拾うてホームへ投げた、がこのときはすでにおそかった、五大洲とクラモウは長駆(ちょうく)してホームへ入り、千三は三塁にすべり込んだ。
「バンザアイ」
 天地をゆるがすばかりに群集は叫んだ、この叫びがおわらぬうちにすぐにふしぎな喝采が起こった。
 松の枝に乗っていた覚平と善兵衛はバンザイを叫んだ拍子(ひょうし)に両手をあげたので、松の上から転がり落ちたのであった。落ちたまま覚平はらっぱをふくことをやめなかった。
「ぷうぷうぽうぽう」
「バンザアイ」
 こうなってくると黙々隊(もくもくたい)は急に活気づいてきた。一塁手の旗竿(はたざお)は二塁打を打って千三が本塁に入った。黙々(もくもく)は一点を勝ち越した。つぎのすずめはバウンドを打って旗竿(はたざお)を三塁に進めた。
 とつぎには安場の作戦が奇功を奏(そう)し、スクイズプレーでまた一点を取った。
 浦中は必死になった、小原、柳は死に物狂いに戦った、が千三の快技はあらゆる難球を食いとめた、かれはしっかりと腹を落ちつけた、かれの頭は透明で気がほがらかであった。
 七==五
 黙々は勝った、波濤(はとう)のごとき喝采が起こった、中立を標榜(ひょうぼう)していた師範生はことごとく黙々の味方となった。安場が先頭になって一同は中学の門前で凱歌(がいか)をあげた、そうして町を練り歩いた。町々では手おけに水をくんで接待したのもあった。善兵衛は自分の店のみかんを残らずかつぎ込んでみかんをまきながら選手の後について行った。一同は喜び勇んで塾(じゅく)へ帰った。かれらは塾の前でみんなシャツを脱ぎ、へそをだして門内へはいった。
 先生は一帳羅(いっちょうら)の羽織とはかまをつけて出迎えた。
「勝ちました」と安場がいった。
「それは最初からわかってる」と先生がいった、そうして「ボールをやると同じ気持ちで学問をすれば天下の大選手になれる」とつけくわえた。

         十

 へその秘伝をおぼえてから千三はめきめきと腕が上達した。浦中と黙々は復讐戦(ふくしゅうせん)をやる、そのつぎには決勝をやる、復讐のまた復讐戦をやるという風にこの町の呼(よ)び物(もの)になった。
「チビ公のやつ、どうしておれの球をあんなに打つんだろう」
 光一はふしぎでたまらなかった、実際千三はいかなる球をも打ちこなした、対師範校との試合にはオールヒットの成績をあげた。それは光一に取ってもっとも苦しい敵であったが、しかし光一はそのためにおどろくべき進歩を示した、かれはどうかしてチビ公に打たれまい、チビ公を三振させようと研究した。昔武田信玄(たけだしんげん)と上杉謙信(うえすぎけんしん)はたがいに覇業(はぎょう)を争うた、その結果として双方はたがいに研究しあい、武田流の軍学や上杉風の戦法などが日本に生まれた。もっともよき敵はもっともよき友である、他山の石は相(あい)砥礪(しれい)して珠になるのだ。千三があるために光一が進み、光一があるために千三が進む。
 戦場においては敵となりしのぎをけずって戦うものの光一と千三は家へ帰ると兄弟のごとく親しかった。
「今日(きょう)は一本も打たせなかったね」
「このつぎにはかならず打つぞ」
 二人はわらって話し合う。どんなに親しい間柄でも公(おおやけ)の戦場では一歩もゆずらないのがふたりの約束であった。時として光一は家へ帰ってもものもいわずにふさぎこんでることがある、だが千三がたずねてくるとすぐ愉快な気持ちになるのであった。
 あるとき光一はまじめな顔をしてこういった。
「青木君、ぼくの学校へ入学したまえよ」
「いまさらそんなことはできないから、一高で一緒になろう、もう二、三年経てばぼくの家も楽になるから」
「検定(けんてい)を受けるつもりか」
「ああ、そうとも」
「じゃ一高で一緒になろう、きみがショートでぼくが投手で小原さんが捕手だったら愉快だな」
 ふたりは顔を見るたびにそれを語りあった。ふたりははたして一高で一緒になり得(う)るだろうか、いまは読者にそれをもらすべきときでない。とにかく花はさき花は散り、月日は青春の希望と共に伸びやかに輝きながらうつりゆく。柳光一は四年生になった。
 そのころ学校内で奇怪な風説が伝わった、生徒の中で女学生と交際し、ピアノやバイオリンの合奏をしたり、手紙を交換したり、飲食店に出入りしたりするものがある、いまのうちに探しだして制裁を加えなければ浦和中学の体面に関する。
 憤慨の声々が起こった。
「だれだろう」
「だれだろう」
 最初のうちはこの風評をとりあげるものはなかった。
「師範のやつらがいいふらしたんだ」
 実際それは師範生徒からでたうわさである、師範生徒は中学生にくらべると学資も少ないし、また富める父兄をもたぬところからなにかにつけて不自由勝ちである、それに反して中学生は多くは相当の資産ある家の子である、かれらは自由にぜいたくなシャツを買い、ハイカラな文房具を用い、活動や芝居などを見物し、洋食屋へも出入りする、そうさせることを不純だと思わない父兄が多いのである。
 寄宿舎に閉じこめられてかごの鳥のごとく小さくなっている師範生の目から見ると、中学生の生活はまったく不潔であり放縦(ほうじゅう)であり頽廃的(たいはいてき)である。
 久保井校長のつぎにきた熊田校長というのはおそろしく厳格な人であった、久保井先生は温厚で謙遜で中和の人であったが、熊田先生は直情径行(ちょくじょうけいこう)火のごとき熱血と、雷霆(らいてい)のごとき果断をもっている。もし久保井校長が春なら熊田校長は冬である、前者は春風駘蕩(たいとう)、後者は寒風凛烈(りんれつ)! どんなに寒い日でも熊田校長は外套(がいとう)を着ない、校長室に火鉢もおかない、かつて大吹雪(おおふぶき)の日、生徒はことごとくふるえていた日、校長は校庭にでて雪だるまを転がしまわった、その髪となく目となく口となく、雪だらけになったが少しもひるまなかった。
 久保井先生が去ってからつぎにきたるべき校長に対して生徒も町の人も一種の反感をもっていた、だが日を経(ふ)るにしたがって新校長の実践躬行(じっせんきゅうこう)的な人格は全校を圧し、町を圧しいまではだれひとり尊敬せぬものはない。
「黙々(もくもく)先生と熊田先生とどっちがこわいだろう」
 町の人々はこううわさした。それだけ厳格な熊田先生が今中学校内に不良少年があると聞いたのだからたまらない。
「厳罰(げんばつ)に処すべしだ、よく調べてくれ」
 校長の命令に職員は目を皿のごとく大きくしてさがしたてた。
 と、まただれがいうとなくそれは手塚だといううわさが立った。このことを申し立てたのは中村という同級生であった、中村は善良な青年だが、思慮にとぼしく言葉が多いのが欠点である、かれは学校中のすべてのことを知っているのでみながかれを探偵と呼んでいた、だがこの探偵は決して人に危害を加えない、口からでまかせにすきなことをしゃべりちらして喜んでいるだけである。中村は手塚が昨日(きのう)不良少女と活動写真館からでたのを見た、そうして後をつけていくと洋食屋へはいったというのであった。
 級の重なるものが五人集まって相談会を開いた、もし手塚であるなら同級の恥辱だからなんとかいまのうちに相当の手段を講じなければなるまい。これが会議の主眼であった。
「きゃつは一体生意気だからぶんなぐるがいいよ」
 と浜本という剣道の選手がいった。浜本はすべてハイカラなものはきらいであった、かれは洋服の上にはかまをはいて学校へ来たことがあるので、人々はかれを彰義隊(しょうぎたい)とあだ名した。
「なぐる前に一応忠告するがいいよ」と渋谷がいった、渋谷は手塚と親しかった、かれは日曜ごとに手塚の家へいってご馳走(ちそう)になるのであった。かれはまた手塚から真珠入りの小刀だの、水晶のペンつぼなどをもらった。かれが手塚をかばったことがかえって一同の憤激をたきつけることになった。
「ばかッ、きさまは医者の子からわいろをもらってるからそんなことをいうんだろう、だれがなんといってもおれはなぐる、あいつは一体小利口で陰険だぞ」
「そうだそうだ」とみなが賛成した。
「いつか生蕃(せいばん)カンニング事件のときにも生蕃は手塚の犠牲(ぎせい)にされたんだぞ」
 こういうものもあった。
「待ってくれ」と光一はいった。「一体手塚のなにが悪いんだ、問題の要点がぼくにわからないから説明してくれたまえ」
「飲食店へ出入りするが悪いよ」と彰義隊(しょうぎたい)がいった。
「それはね、学生としていいことではないが、ぼくらだってそばが食いたかったり、しるこ屋へはいることもあるから手塚ばかりは責められないよ」と光一はいった。
「活動を見にゆくのはけしからん」
「しかし、諸君の中に活動を見ない人があるかね、どうだ」
 光一は四人を見まわした、一同はだまった。
「女と合奏したり、手紙をやりとりするのはどうだ」
「それはぼくもよくないと思う、しかしそんなことは忠告ですむことだ、一度忠告してきかなかったらそのときに第二の方法を考えようじゃないか、ぼくは生蕃(せいばん)のことでこりた、生蕃は決して悪いやつじゃなかった、だがあのとき諸君がぼくに同情して生蕃を根底からにくんだ、そのために彼はふたたび学校へくることができなくなった、ぼくはいつもそれを思うと、われわれは感情に激(げき)したためにひとりの有為(ゆうい)の青年を社会から葬(ほうむ)ることになったことが実に残念でたまらん、人を罰するには慎重(しんちょう)に考えなければならん、そうじゃないか」
 光一の真剣な態度は一同の心を動かした。
「そういえばそうだ」と彰義隊は快然といった。
「それじゃだれが手塚に忠告するか」
「ぼくでよければぼくがいおう」と光一はいった。
「よし、それできまった、だがもしそれでも反省しなかったらそのときにはだれがなんといってもぼくはあいつをなぐり殺すぞ」
「よしッ、ぼくはかならず反省さしてみせる」
 会議はおわった、光一はみなとわかれてひとり町を歩いた。悲しい情緒(じょうちょ)が胸にあふれた。かれは他人の欠点をいうことはなにより嫌いであった、ましてその人に向かってその人を侮辱するのは忍び得ざることである。
 だがいわねばならぬ、いわねば手塚はなぐられる、なぐられるのはかまわないとしたところで、手塚は自分の悪事を悪事と思わずにますます堕落(だらく)するだろう、かれには美点がある、だが欠点が多い、かれは美点を養わずに欠点をのみ増長させている、かくてかれは終生救うべからざる淵(ふち)にしずむだろう。
 こうかれは決心した。かれはすぐ手塚の家をたずねた。ちょうど勝手口に手塚の母が立っていた、光一は手塚の母がおりおり三味線(しゃみせん)を弾(ひ)いているのを見たことがあるので、いつもなんとなく普通の人でないような気がするのであった。
「手塚君は?」
「まだ学校から帰りません」と母がいった。
「いいえお帰りになりました」と女中が横合いから声をだした。
「そうかえ」
「お着かえになってすぐおでましになりました」
「どこへいったんですか」と光一がきく。
「さあどこですか、なんだか大変にお急ぎでいらっしゃいました」
「活動じゃないかえ」と母がいった。
「そうかも知れません」
 光一は一礼して外へ出た。
「活動だ、それにちがいない」
 光一は手塚の母が平気で、「活動じゃないかえ」
 といった言葉をおもいだした。
 あの家では活動を見ることを公然ゆるしていると見える、お母さんが承知の上なのだ、それに対して学校がいくら活動を禁じてもなんの役にもたたない話だ。
 一体あの家では手塚が学校から帰ったかどうかもよく知らずにいる、それでは手塚が外でなにをしてるかを知らないのも無理がない。
「手塚は不幸な男だ」
 光一はふとこう考えると目が熱くなった、家庭に楽しみがないから、外に楽しみを求めるのだ、活動、飲食店、不良少女、遊びの友達! かくてかれはなぐられねばならなくなる。
 いろいろな感慨が胸に溢(あふ)れた、かれはそのまま足を活動小屋に向けた。
 光一とても絶対に活動写真を見ないではなかった、かれは新聞や雑誌や世間のうわさに高いものを五つ六つは見にいった、だがかれはいつもたえきれないような醜悪(しゅうあく)を感じて帰るのであった。
 活動館の前に五色の旗が立って春風にふかれている、そこからいかにも無知な子守りや女工などが喜びそうな楽隊の音がもれて聞こえる、小屋の前の軒(のき)の下に写真がいくつもいくつも掲げられてその下に大勢の子供、米屋の小僧、小料理屋の出前持ち、子を背負う女中などが群れていた。光一が第一に不愉快なのは切符(きっぷ)の売り場に大きなあぐらをかいてしりまであらわしているほていのような男が横柄(おうへい)な顔をしてお客を下目に見おろしていることである、それと向かいあって栄養不良のような小娘が浅黄の事務服を着てきわめてひややかに切符を受けとる。光一はそれをがまんしなければならなかった。
 暗い幕をくぐって中にはいると正面のスクリーンに西洋人の女の顔が現われた、うす明かりに見物人の頭が見える、土曜日のこととてお客は一ぱいである。光一はようやく中ほどへ進んでようやくこしかけの端(はし)に腰をおろした、手塚がきていやしまいかとあたりを見まわしたが暗がりで見えない。
 場内にはたばこの煙がもうもうと立ちこもって不潔な悪臭が脳を甘くするほどに襲うてくる、こしかけといってもそれはきわめて幅(はば)のせまい板を杭(くい)にうちつけたもので、どうかすると尻(しり)がはずれて地にすべりこみそうになる、それを支えているのはなかなか容易なことではない、なぜこんな不親切な設備をするかというに、三等席を不自由にしておくとお客はすぐ疲れて二等席に移るからである。お客を苦しめて金もうけをしようという興行師の策略だからたまらない。
 実際興行師ばかりが悪いのでない、お客そのものも、そんなことは平気である、そのかわりにかれらはたばこものめば、物も食う、みかん、塩せんべい、南京豆(なんきんまめ)、キャラメル、かれらは絶えず口を動かしている。みかんなどは音がせぬから無事だが、隣席の人が塩せんべいをボリボリ食うのでその音だけでも写真を見る興味を減ずることおびただしい、いろいろな食物から発する臭気やたばこの煙や不潔な身体(からだ)から発する熱気が混合して一種のにごった空気となり、人間の鼻穴や口腔(こうこう)から侵入するために、大抵(たいてい)の人は喉(のど)の渇きを感ずる、ここにおいてラムネを飲んだりサイダーを飲んだりする。足元はどうかというとみかんの皮や南京豆(なんきんまめ)のから、あらゆる不潔物ではきだめのごとくみだれている。
 かくのごとく無知で不行儀な客を相手にするのだから興行師もそれ相当に不親切をつくすことになる。
「こんなきたないはきだめによくがまんができるものだ」と光一は思った。
 写真は西洋のもので、いやにきらきら針のような斑点(はんてん)が光って見えるおそろしく古いものであった、光一はだまってそれを眺めた。ひとりの男とひとりの女が現われて肩に手をふれあった。見物人は声を挙げて喝采した。光一は思わず目を閉(と)じた。それはいやしくも潔白な人間が目に見るべからざる不純な醜悪な光景である。
「ばかやろう!」
 見物人の拍手の音の中でわれがねのようにどなったものがある。
「毛唐(けとう)のけだものめ、ひっこめ」
 声は彰義隊(しょうぎたい)であった、かれは光一のちょうど鼻先にじんどっていた。
「おい」と光一は肩をたたいた。
「おう」
 彰義隊はふりかえった。
「きてるのか」
「うむ、きみが忠告するはずだったが、おれはどうしてもあいつをぶんなぐらなきゃ腹の虫がおさまらないからやってきた」
「待ってくれよ、ね、決議にそむいちゃいかんよ」
「いや、おれはなぐる、忠告なんて手ぬるいことではだめだ、あれを見い、毛唐人(けとうじん)は犬やねこのようなまねをしてそれが愛だというんだ、おれはそれが気に食わねえ、日本の写真はそのまねをしてるんだぜ、日本の役者……そうだおれはなにかの雑誌を読んだがね、米国では人間のうちで一番劣等なものは活動役者だって……そうだろう、劣等でなければ、あんな醜悪な動作をしてはずかしいとも思わず平気でやっておられんからな、けだものめ」
 あたりの人はみなわらいだした。
「なにをわらうかばかやろう、おまえ達は趣味が劣等だから劣等なものを見て喜んでるんだ、うじ虫がくそを臭(くさ)いと思わないように、おまえたちは活動写真を劣等だと思わないんだ、気の毒なやつだ、ばかなやつだ、死んでしまう方が国家の経済だ、やいそこにいる会社員見たいなやつ、帽子をぬげよ、そんな安っぽい帽子をおれに見せようたっておれは見てやらないぞ、インバネスを着やがってするめじゃあるまいし、やい女、ぼりぼりせんべいを食うなよ」
 彰義隊(しょうぎたい)はすっかり昂奮(こうふん)してどなりつづけた。
「もういいよ、どなるのはよせよ」と光一はなだめた。
「おれだってどなりたくはないさ、だが……ああ女がでた、あれはなんとかいう女なんだね、どうだ、毛唐(けとう)の面(つら)はみんなさるに似ているね」
 写真はおわった、場内が明るくなった。彰義隊(しょうぎたい)は立ちあがって前後左右を見まわした。光一も同じく見まわした。かれは二階の欄干(らんかん)にひたと身体(からだ)を添えて顔をかくしている手塚の姿を見た、はっと思ったがすぐ思い返した、いまここで彰義隊に知らしたら大さわぎになる。
「いないね」と彰義隊がいった。
「いないよ」
「畜生(ちくしょう)め、どこかにかくれてるんだ」
 こういったときふたたび電灯が消えた。
「この間に手塚が逃げてくれればいい」と光一は思った。とこのとき彰義隊は拍手喝采した。
「やあやあ、近藤勇(こんどういさみ)だ、やあやあ」
 かれは「幕末烈士近藤勇」という標題を見て拍手したのであった。とすぐちょんまげの顔が現われた。
「あれは近藤勇か」と光一がきいた。
「ちがう、近藤勇はあんな懦弱(だじゃく)な顔をしておらんぞ」
「きみは近藤勇を知ってるのか」
「知らんよ、だがあんな下等ないものような面(つら)じゃない」
「元来ちょんまげの頭は下等なものだよ、ぼくはあれを見るとたまらなくいやになる」
「それでも近藤勇ならいいよ、国定忠治(くにさだちゅうじ)だの鼠小僧だの、博徒(ばくと)やどろぼうなどを見て喜んでるやつはくそだめへほうりこむがいい、おれは近藤勇だ」
 だが彰義隊(しょうぎたい)君の期待するような近藤勇は現われなかった、のどに魚の骨を刺(さ)したような声で弁士は説明した、それによるといものような面(つら)は近藤勇なのである。
「だめだだめだ」と彰義隊はまたもや憤慨した。
「そら敵がきた、足をくばって、足、足! 足を……右足を軽くせんと横から斬りこまれたときに体が固くなるぞ、ああああだめだ、あの役者はすきだらけだ、あんな近藤勇があるもんか、ああばかッ、上段にふりかぶるやつがあるか、手元につけこんで胴を斬られるぞ、ばかッ切っ先がさがってる、切っ先が、そんな剣客が、ああああばかばかばか」
 彰義隊があまりに憤慨するので周囲の人々はこそこそと逃げてしまった。実際彰義隊の目から見ると……光一の目から見てもこの役者の剣闘はめちゃめちゃなものであった、それでも見物人は喝采していた。
「おれは帰る」と彰義隊は立ちあがった、「ばかばかしくて見ておられん」
 彰義隊はかんかんにおこって帰った、光一はほっと溜(た)め息(いき)をついた。そうしてしずかに二階へあがった。暗がりの欄干(らんかん)のそばに手塚は頭から羽織をかぶって一生懸命にスクリーンを眺めながら声をかけている。
「いよう、大統領!」
 その隣にいた小さい女の子が皮もむかずにりんごをかじっている、その隣で手塚より首一つだけ背の高いろばとあだ名されてる青年が奇妙な声で叫んだ。
「いよう、せいちゃん!」
「清(せい)ちゃん、しっかり!」と手塚は叫んだ。近藤勇(こんどういさみ)に扮(ふん)した役者は清ちゃんという名前なのだ。手塚はこういう場所で、役者やなにかの事をくわしく知っているということを見物人にほこりたいのであった。
「手塚君」と光一は声をかけた。手塚はふりむいたがすぐ横を向いた。
「手塚君」と光一はそばへ歩みよったときろばのひざに足をあてた。
「痛えな、気をつけやがれ」とろばはいった。
「失敬」
 光一はあやまった、ろばは中学を二度ほど落第して退学してから、ぶらぶら家に遊んでは手塚とともにどこへでもいく男である。
「手塚君、ぼくはちょっときみに話したいことがあるんだが外へでてくれんか」と光一はいった。
「いやだ」と手塚はいった。
「ちょっとでいいんだよ」
「いやだというものを無理にひっぱりださなくたっていいだろう」とろばがいった。
「大事なことだからさ、でないときみの身体(からだ)が危ないんだ」
「いやにおどかしやがるね、どうしようてんだ、手塚をなぐろうてのか、面白いなぐってもらおう」
 ろばはほえた。
「おまえはだまってろ」と光一はきっといった。「おまえに用があるんじゃない、手塚に用があるんだ」
「なにを?」
「喧嘩か、喧嘩するなら外へでてやろう、ぼくが手塚と話をすますまで待て」
 光一はこういってじっとろばの顔をのぞいた、ろばはだまった、そうして隣席の女の子がかじりかけたりんごを取ってがぶりとかじった。
 手塚は光一の権幕(けんまく)におそれてしぶしぶ席を立った。ふたりは外へでた。と向こうのくだもの屋の前で彰義隊(しょうぎたい)がひとりの学生と話をしていた。光一はハッと思った。
「手塚隠れろ、荷車の横を歩いていこう」
 ふたりは彰義隊に見つからぬように群衆にまぎれて材木屋の前へ出た。
「なんの用だ」と手塚は不平そうにいった。
「きみは制裁を受けなきゃならなくなったんだ、その前にぼくは一応きみに忠告する、ぼくの忠告をきいてくれたらぼくは生命(いのち)にかえてもきみを保護しようし、また学校でもきみをゆるすことになっている」
「ゆるされなくてもいいよ、ぼくはなんにも悪いことをしない」
「それがいけないよ、なあ手塚、人はだれでも過失があるんだ、それを改めればそれでいい」
「ぼくに改めるべき点があるのか」
「あるよ、手塚、学校ではね、このごろ不良少年があるといってしきりにさがしてるんだ、その候補者としてきみが数えられている」
「ぼくが不良?」
「きみはよく考えて見たまえ」
「ぼくは考える必要がない」
「じゃ君、活動へいくのは?」
「活動へいくのが不良なら、天下の人はみな不良だ」
「そうじゃない、きみはなんのために活動へいくのだ」
「面白いからさ」
「面白いかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものが面白いかね」
「人はすきずきだよ、他人の趣味に干渉(かんしょう)してもらいたくないね」
「いやそうじゃない、ぼくはきみと小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、きみの堕落(だらく)を見すごすことはできない、ねえ手塚、きみは活動が好きだから見てもさしつかえないというが、好きだからって毒を食べたら死んでしまう、活動はもっとも低級で俗悪で下劣な趣味だ、下劣な趣味にふけると人格が下劣になる、ぼくはそれをいうのだ」
「活動は決して下劣じゃない」と手塚はいった、かれは光一のいったことが充分(じゅうぶん)にわからないのである。
「じゃきみは活動のどういう点がすきか」
「近藤勇(こんどういさみ)は義侠の志士じゃないか」
「そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたければ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役者が扮(ふん)した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、しずかに考える方がどれだけ面白いか知れない、活動の小屋は豚小屋のようだ、はきだめのようだ。あんな悪い空気を呼吸するよりも山や野やただしは君の清浄な書斎で本を読むほうがどれだけいいか知れない、活動なんていやしいものを見ずに、もっとりっぱな趣味を楽しむことはできないのか、高尚(こうしょう)で健全で男性的な趣味はほかにいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、きみはそれを考えないのか」
「ぼくは劣等だとは思わない」と手塚はくりかえした、光一はどうしても高尚な意義を理解することができない手塚の低級にあきれてじっと顔を見つめた。歴史を読み聖賢や英雄の伝記を読み、山に野に遊び、野球を練習する。それだけでも活動よりはるかに面白かるべきはずなのに、どうして見る見るはきだめの中におちていくんだろう。
「気の毒だ、かわいそうだ」
 光一は胸一ぱいになった。
「じゃ活動のことはそれでよしにしよう、第二にきみは飲食店へ出入りするそうだね」
「ああ、それがいけないのか、だれだって飲んだり食ったりするだろう」
「手塚君、ぼくだって人が洋食を食えば食いたくなる、そば屋へはいることもある、だがね、学生はどこまでも純潔でなければならないのだ、飲食店は大抵(たいてい)大人(おとな)にけがされている、不潔な女が出入りする、学生はそういう……少しでも不潔な場所へいってはいけないのだ、身体(からだ)がけがれるからだ、いいか、りっぱな玉はきりの箱に入れてしまっておくだろう、学生はけがれのない玉だ、それをきみはどぶどろの中に飛びこんでるのだ、きみは家にいれば洋食でもなんでも食える身分じゃないか、なぜ食べたければ家で食べないのだ、学校でやかましくいうのも形式ではない、そんなくさった趣味を喜ぶようにならないようにするためだ、きみのことばかりをいうのじゃないよ、ぼくだっておりおり大人のまねをしたいと思うことがある、だがそれはいやしいことだと思いかえすだけだ」
「いやだ、ぼくはぼくの銭でぼくの好きなところへゆくのに学校がなにも干渉(かんしょう)するにはあたらないじゃないか」
「手塚君、きみはどうしてもぼくの忠告をきいてくれないのか」
「いやだ、ぼくに悪いことがないんだ」
「それではきみ」と光一は憤然として目をみはった。「ぼくはきみを侮辱したくないからこれだけいって後はきみの反省にゆずるつもりでいたのだ。が、きみがあくまでもがんばるならぼくはいわなきゃならん」
「なんでもいうがいい」
「きみの心は潔白か」
「無論だ」
「良心に対してやましくないか」
「やましくない」
「きみは不良少女と遊んでるね、いまきみの隣にいてりんごをかじっていた女の子はなんだ」
「あれは……」と手塚はどもった。
「あれはどろぼうして二、三度警察へあげられた子じゃないか」
「あれは……ろばの友達だよ」
「ろばはきみの親友だろう」
 手塚はだまった。春の日は暮れかけて軒(のき)なみに灯(ひ)がともりだした、積みあげた材木にかんなくずがつまだちをして風にふかれゆくとはるかに豆腐屋のらっぱがあわれに聞こえる。光一は手塚の肩に寄り添うてその手をしっかりとにぎった。
「手塚! いま聞こえるらっぱはだれだか知ってるだろう、青木だ、青木は学校へ行きたくても銭がない、小学校にいたときはかれはいつも一番か二番であった、きみやぼくよりも頭がいいのだ、学問をしたらぼく等よりはるかにりっぱになる人間だ、それでも家が貧乏で父親がないために、毎日毎日らっぱをふいて豆腐を売り歩いている、きみやぼくは両親のおかげで何不自由なくぜいたくに学問しているが、青木は一銭二銭の銭をもうけるにもなかなか容易でない、きみが活動を見にいく銭だけで青木は本を買ったり月謝を払ったり、着物も買うのだ、きみの一日の小遣(こづか)いは青木の一ヵ月働いた分よりも多い、そんなにぜいたくしてもきみやぼくはありがたいと思わない、あんなに貧乏しても青木は伯父さんをありがたいと思っている、なあ手塚、青木は活動も見ない、洋食も食べたことはない、バイオリンもひかない、女の子と遊びやしない、かれはただ一高の寮歌(りょうか)をうたって楽しんでいる、不器用な調子はずれな声をだして、ああ玉杯(ぎょくはい)に花うけてとうたっている、それだけが彼の楽しみだ、この楽しみに比べてきみの楽しみはどうだ、活動、洋食、バイオリン、君の楽しみは金のかかる楽しみだ、青木は堤の草に寝ころんで玉杯をうたってるとき、きみはがま口から銀貨をつかみだして不良共にふりまいている、どっちの楽しみが純潔だろう、ぼくはきみを攻撃する資格がない、ぼくだって青木に比べるとはるかに劣等だ、劣等なぼくらが不自由なく学問しているのに、優秀な青木は豆腐を売っている、もったいないことだ、もしぼくらが親を失い貧乏になったら青木のごとく苦学するだろうか、きみはいつも青木を軽蔑(けいべつ)するが、それがきみの劣等の証拠(しょうこ)だ、活動に趣味を有するものは高尚(こうしょう)な精神的なものがわからない、なあ手塚、腹が立つなら奮発してくれ、ぼくのお願いだ、ぼくは一生きみと親友でありたいのだ」
 光一の言葉は一語ごとに熱気をおびてきた、かれは手塚の自尊心を傷つけまいとつとめながらも、次第にこみあげてくる感情にかられて果ては涙をはらはらと流した。
「柳!」
 手塚はぐったりと首をたれていった。
「堪忍してくれ、ぼくは改心する」
「そうか」
 光一は嬉しさのあまり手塚をだきしめたが急に声をだしてないた。手塚もないた。日は暮れてなにも見えなくなった。横合いの小路(こうじ)をらっぱをふきふきチビ公が荷をゆすってうたいゆく。
「……清き心のますらおが、剣(つるぎ)と筆とをとり持ちて、一たびたたば何事か、人生の偉業成らざらん、ぷうぷう、豆腐イ、ぷうぷう」

         十一

 柳一家はいつも幸福に満たされていた、光一の心はいつも平安であった、かれの一番好きなのは朝である。かれは朝に目をさますと寝床(ねどこ)の中で校歌を一つうたう、それから床(とこ)をでて手水(ちょうず)をつかい茶の間へゆくと父と母と妹が待っている。
「お兄さんは寝坊ね」
 妹の文子(ふみこ)はいつもこうわらう、兄妹の規約としておそく起きたものがおじぎをすることになっている、光一は毎日妹におじぎをせねばならなかった。癪(しゃく)にさわるが仕方がない。
 茶の間にはさわやかな朝日が一ぱいに射しこむ。飯びつやなべからあがる湯気はむつまじげに日光と遊んでいる、父はにこにこしてふたりの子を見くらべる、母は三人のお給仕にいそがしく自分で食べるひまもなかった。かの女は光一と文子の食力を計算する事を決してわすれなかった、今日はいつもより多く食べたといっては喜び少なく食べたといっては病気ではないかと心配する。大抵(たいてい)光一は五杯の飯を食べるが文子は三杯であった、5対3ではあるが、光一の方はスピードが速いのでほとんど同時におしまいになる、それから一緒(いっしょ)に家をでる。
「おまえ後からおいで」
「兄さんは男だから後になさいよ」
 この争いは絶ゆることがない、二、三年前までは一緒に肩を並べていったものだが、このごろではふたり揃うてゆくのはきまりが悪い。特に光一に取っては迷惑至極(めいわくしごく)であった。
「きみの妹は綺麗だね」
 こう友達にいわれてからかれはたとえ親父(おやじ)の葬式の日でも妹と一緒には歩かないと覚悟を決めた。
 だがかれは妹が好きであった、妹はすらりと姿勢がよく、おさげの脳天(のうてん)に水色のちょうちょうのリボンをつけているが、それが朝日に輝いていかにもかわいらしい、かれはまた文子の長いえび茶のはかまやその下から見えるまっすぐな脚(あし)と靴の恰好(かっこう)が好きであった。文子は洋服よりも和服が似合う。文子はまただれよりも兄さんが好きであった、野球試合のあるときにはかの女はいつも応援旗を持ってでかけた、兄さんが負けたときには家へ帰って夕飯も食べずに寝てしまうのでいつも母にわらわれた。
 そのくせふたりはおりおり喧嘩(けんか)をした、文子の一番嫌いなことは顔がふくれたといわれることである。
「おい、おまえの頬(ほ)っぺたがだんだんふくれてきたね」
「いいわ」
「後ろから見るとほっぺたが耳のわきにつきでてるぞ」
「いいわ」
「ぼくが八百屋の前を通ったらおまえの頬(ほ)っぺたを売ってたよ、買ってこようと思ったら丸いなすだった」
「いいわ、兄さんだって鼻の先にニキビがあるじゃないの?」
「これはじきなおるよ」
「口のはたに黒子(ほくろ)があるから大食いだわ」
「食うに困らない黒子(ほくろ)なんだ」
 喧嘩のおわりはいつも光一が母に叱(しか)られることになっている。だがふたりのむつまじさはよその見る目もうらやましいほどであった。文子は心の底から兄を尊敬していた、というのはかの女は学校から帰って兄に英語や漢文の下読みをしてもらう、それには一つもあやまりがないからである。かの女の友達もことごとく光一を好きであった、かの女等が文子のもとへ遊びにくると、文子は兄の書斎を一覧させる、大きな書棚に並べられた和洋の書籍を見てかの女等はいずれも驚歎(きょうたん)の声をあげる。兄がほめられるのは文子に取って無上の喜びであった。
 ある日文子は雑誌を買おうと思ってがま口を懐にして外へでた、雑誌屋の店頭に男女の学生が群れていた。この店は二年前までは至極(しごく)小さな店で文房具少しばかりと絵本少しを並べていたのだが、見る見る繁昌(はんじょう)しだして書籍や雑誌がくずれるまでに積まれてある。やせた神経質らしいおかみさんはひとりのいつも眠そうにしている小僧をひどくどなりつけてお客の手先と商品とを監視させているが、それでも毎日一冊ぐらいは盗まれるのである。
 学生の中には毎日決まって雑誌を読みにくるのがある、それが一冊でも買うのかと思うと一冊も買わない、二時間も立って一とおり読みおわると翌日また別なのを読みにくる、こういうのはただ読んでゆくだけだから罪が軽いが、ひどいのになると五、六人団結してあれやこれやとひっくりかえしてその混雑にまぎれてふところへかきこむ。大抵(たいてい)はその顔を知っているものの、ことをあらだてるとかえって店の人気がなくなる。そこでおかみさんの癇癪(かんしゃく)が小僧の頭に破裂する。
「おまえがぼやぼやしてるからだよ」ぴしゃりッ。
 小僧だって朝から晩までどろぼうのはり番をするということはなかなかつらい、かれは十七になるが、十三か十四ぐらいにしきゃ見えない、毎日毎日頭をなぐられるから上の方へ伸びないのだとかれ自ら信じている。
 文子(ふみこ)は新刊の少女雑誌と英語の雑誌を買った、それから書棚を見ると漢文の字典があったのでそれを引きぬいた、それでやめにしようと思ったがこのときかの女は現代名画集というのを見た、それは叢書(そうしょ)の第一巻でかの女がつねにほしいほしいと思っていたのであった。かの女はそれもひきぬいておかみさんにいった。
「これだけでいくらですか」
 おかみさんはこれが柳家(やなぎけ)の令嬢だとは気づかなかった。
「五円六十銭です」とかの女はいった。
「そう?」
 文子はがま口をあけて銀貨を掌(てのひら)に数えた、一枚二枚三枚……。五円二十銭しきゃない。
「あら、たりないわ」
 文子は顔をまっかにしていった、かの女は周囲に立っている男女学生がみな自分の方を見てるような気がした。おかみさんは冷(ひ)ややかに文子を見やった。
 家へ帰ってお母さんにお銭(あし)をいただいてこようかしら、と文子は考えた、だがそのあいだにこの本が他人に買われると困る、かの女はまったく途方にくれた。もしかの女が私は柳(やなぎ)の娘ですから宅(たく)へ届けてくださいといったなら、おかみさんは二(ふた)つ返事(へんじ)で応ずるのであった、ところが文子にはそれができなかった。
「いくらお持ちなの?」とおかみさんがいった。
「四十銭足りないのよ」
「へえ」
 おかみさんはくるりと横を向いた。とこのときひとりの女学生が文子に声をかけた。
「文子さん、私だしてあげますわ」
 文子はその人を見た、それはかの女が小学校時代の上級生で染物屋の新ちゃんというのである、新ちゃんは桃色の洋服を着て同じ色の帽子をかぶり、きらきらした手提(てさ)げ袋(ぶくろ)から銀貨を取りだした。
「ありがとう……でもいいわ」と文子はいった。
「いいのよ、四十銭ぽちなんでもないわ」
「そう? それじゃ私すぐお返しするわ」
「あらいいわ」
 文子は新ちゃんに四十銭を借りて本と雑誌を紙に包んでもらった。
「ではねえ新ちゃん、私の家へちょっとよってくださらない? お金をお返しするから」と文子はもう一度いった。
「いやねえ、あなたは水臭(みずくさ)いわ」
 文子は水臭いという意味がわからなかった。
「でもお借りしたんだから」
「一緒に散歩しましょう」と新ちゃんがいった、ふたりは大通りからはすの横町に出た、そこの材木屋の材木の上に大勢の子供が戦争ごっこをしていた、それから少しはなれて生(い)け垣(がき)の下で三人の学生がなにやらこそこそ相談をしていた。
「いやだ」とひとりがいう。
「おれもいやだ」と他のひとりがいう。

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