自由の使徒・島田三郎
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著者名:木下尚江 

   幸福なる思ひ出

 若き友よ。
 僕が島田三郎先生を語るとなれば、直ぐに一つの場面が目に浮ぶ。
 大正十二年、この年は正月早々から先生は身心の疲労で、議会へも出なされず一切来客を謝絶して、番町の自邸で静養して居られた。かゝる時、僕のやうな世務に全く無交渉の者は幸福で、時々お邪魔して、自由にお話することが出来た。
 或日、先生は、この社会多事の時に、病体で引き籠つて居るのが如何にも恥づかしいと言はれるので、僕は強く頭を振つて反対した。
『僕は然うは思ひません。先生が過去幾十年、言論文章で奮闘なされたよりも、今日病んで黙つて居なさる方が、何程大事業か知れないと、僕は信じて居ます』
『それは、どう云ふわけですか』
と先生は不思議さうに僕の顔を見られるので、僕は、先年先生が始めて普通選挙問題を提出して、世上の物議を起しなさつた折の事を思出して、先生に言うた。
『あの時、僕は「先生は普通選挙に依て政治の頽廃を救ふことが出来ると云ふ御信念ですか」とお尋ねしました所、先生は「それは違ふ。普通選挙の主唱は政治上の義務である。政治は今後益々悪化する」かう仰つしやいました。この御一言で僕は先生の御胸中を明白に知ることが出来たやうに感じましたので、直ぐ話頭を転じて他の話に移つたことを記憶して居ますが――』
『然うです。私も能く記憶して居ります』
と先生は首肯かれた。そこで僕は突き込んでお尋ねした。
『然らば、何故に政治は益々悪化致しますか』
『それは、国民の道念が頽廃したからです』
『国民の道念は何故に頽廃しましたか』
『それは、儒教で言へば天、基督教で言へば神、この天若くは神と云ふ信念が破滅した為めです』
 僕は伸び上がつて言つた。
『御覧なさい。それ程の重い苦悩を、中に担うていらつしやるではありませんか。それが即ち今日先生の御病気ではありませんか。先生今日の御病気は、一個の島田三郎のものでは無い。国民の病を病んで居なさるのだ。更に大きく言へば、今日世界共通の人間の病を病んで居なさるのだ。故に僕は言ひます。先生今日の御病気は、過去一切の御活動よりも遙かに優りたる大事業である』
 僕は何時しか先生の病体と云ふことをも忘れ、朱檀の小卓を叩いて先生に迫つた。
 先生は両手を膝に置いた儘目を閉ぢて黙想して居られた。
 僕は語気を静めて、それから自分の貧弱な「信念」の経験を先生に告白した。先生も亦多年の実験を腹蔵なく語つて下された。僕が明治三十二年の春、毎日新聞で文筆生活に従事して以来、先生の恩誼に浴すること実に二十五年、然かも、先生に対してこの日ほどの幸福を感じたことを覚えない。
『先生は常に御多忙で、時を忘れてお話をお聞きすると云ふやうな、喜びを味ふことが出来ませんでしたが、今日は始めて、胸憶を全部開いてお話することが出来ました』
 かう言うて、「病気の賜物」を感謝した。
『私も誠に愉快です』
 かう云はれた先生の面貌には、一点憂愁の影も無く、晴れ渡つて、青春の光に輝いて見えた。
 君よ。これが僕の島田先生だ。
 この年九月一日が関東の大震災。猛火は島田邸の直ぐ裏まで迫つたが、急に風向が変つて、あのあたり数個の邸宅が沙漠のオアシスの如くに焼け残つた。
 十一月十四日の暁、先生は真に安らかに永眠に就かれた。享年七十三。葬儀は多年の昵近者の手で行はれた。内ヶ崎作三郎君が司会をした。吉野作造君が履歴を読んだ。石川安次郎君が遺文を読んだ。山室軍平君が説教をした。安部磯雄君が所感を述べた。遺骨は青山の次男悌二郎さんと同じ墓穴に納められ、石碑にはたゞ「島田家墓」と彫つてある。

   未来への洞察と警告

 先生の全集刊行の際、僕も聊かそれに参加したが、山なす遺文を一々見て行く中、不図一つ講演の速記を手にして覚えず驚喜に打たれた。それは明治二十三年の三月、当時数寄屋橋教会堂に催された青年会での演説で、標題は「共同営業(コーペレーシヨン)」としてある。明治二十三年の春と言へば、前年の十月には大隈外務大臣が条約改正問題の為め、反対党の爆裂弾に打たれ、この年の七月には日本歴史未曾有の衆議院議員選挙が行はれる予定で、全国ただ政治運動に狂転して居る時だ。先生は去年の秋欧米漫遊から帰つて見えたばかりでこの演説が殆ど帰朝後の第一声と言うてもよからう。政治全能時代の青年に向て「今後は政治問題の時代に非ずして社会問題の時代也」と喝破された先生を君に知つて欲しいのだ。この演説は、全集の都合上、遂に刊行されず、今日我国に於ける社会思想史の研究者にも知られずに居る貴重な材料と思ふから、先生の弁舌のまゝ、抜き書きして、是非とも君に読んで欲しいのだ。少し長いかも知れぬが辛抱して呉れ。
「先づ今日の時勢よりお話申しますと、世人の社会を見ることが、簡単過ぎて居ると思ひます。欧羅巴の人々も過去の歴史に於て、矢張りこの過ちを重ねて居ります。それは何かと言ふに、政治上目に見える弊害があれば、その弊だけを止めれば、社会は大層良くなると思うて、尽力して弊を除きましても、社会は思つた程良くならない。こゝに於て大失望して大騒動となる。我国に於きましても、政治上に種々なる弊害があるから、欧羅巴の様に改革したならば、定めし黄金世界になるであらうと思つて居る者があるが、これは余りに政治に重きを置き過ぎたものと、私は考へます。社会を組立てるには色々道具がある。家族であるとか、国民の教育であるとか、これを集めて社会が出来て居る。この社会的原素の中に政治と云ふものがある。また政治の領分は、社会的事物の大なる者だが、社会全体から見ればその一部分である。されば仮令政治の弊害全部を破りました所で、社会の一部が良くならうが、全部は良くなりませぬ。
 フランスで申しますと、革命前は租税の割合が実に怪しからん有様で、官人貴族または僧侶が多くの不動産を所有し、自分の手に入れて居りながら租税も払はず、租税を払ふは僅かな土地を有つて居る貧民でありました。その他これに類する政治上の弊害は、革命の為に先づ破れた。然しながら黄金世界は来らずして、却て度々色々な困難を受けました。」
「日本もこれまでとは違つて、未曾有の政体が今年から成立ちますので、この政体に多くの望を嘱した人々は、立憲政体さへ成立てば非常に良い世界が来ると思ふでありませうが、私は然うは思ひません。然らば後来起るべき弊害は何かと云ふに貧富の間に一大戦争が起る。」
「欧米各国今日の問題は、貧富争闘の処分は如何になすべきか。何時にならばこの戦争が終るべきかである。欧羅巴が今日この問題に出会ふは、固より思ひかけざるものと思ひます。政治上の弊害が破れたならば、社会はずツと良くなるであらうと思つて居りました。これが一つ望み。今一つのは器械の発明である。器械の発明に依て、物が沢山に出来る、今まで苦み悩んで居た貧民も、肩が休まると思ひました。それは現在の欧羅巴人の考のみでなく、昔の欧羅巴人も矢張り然う思つた。希臘の昔時、東方から水車が来た。この水車に就て詩人アンチパトロスがかう謳うた。
『嗚呼労役者よ、粉車を廻す労役者よ。汝の手を休めよや。安眠して夜を過ごせよ。暁を告ぐる□声に気を止むるな。ジユピトルの命により、水神が汝の労苦を救ふを見よ。』
 現在の欧羅巴人もこの古代の詩人と同じ望を、器械の発明に嘱して居りました。普通人が器械の発明にかゝる望を嘱したばかりでなく、学者も器械が発明されるならば人間の苦は去らうと思ひましたが、実際皆な大に失望した。
 今一つある。前の社会には、うるさいことがありましても、例へば商売するにも免許を得なければならない。我国にも明治維新前には、商売上に特許があり、また才智あるものも、身分が良くなければ随意の仕事が出来なかつた。かゝることは道理に背くと言うて、学者政治家が攻撃した為に、所謂専売特許の制度は無くなりました。斯様に弊害ある制限も解けて、自由営業自由契約の世になつたらばと望を嘱して居りました。然るに今日迄の経験に依りますると、これも亦失望と言はねばなりません。
 政治の改良、器械の発明、経済上の特権撤去、三つ揃つたらば、人民安泰で何の不平も無からうかと思へば、然うで無い。この三つが揃つても、その後に劇しい戦争がある。資本家と労働者との間の戦争は、十層倍も劇しく、実に恐るべき戦争でござります。」
「かく考へれば、日本今後の運命に就て考を下すは必要なことゝ思ひます。或旅行家の記事中に『日本程下等人民に不平の顔色を見ない国は西洋に無い。』と言つたと聞きますが、これは決して過激な言葉でないと私は思ひます。凡そ富の額が多いのが良いに相違ないが、生産の道が充分に就て居ても分配の道が立つて居なければ必ず不平が起る。我国では富の額は未だ少いが、分つには平均に近づいて居る。西洋では富の額は多いが、分配に非常な懸隔がある。」
「我日本の有様を見るに、これまで総体に貧乏である。成程貧富の懸隔は無いではないが、これ迄の封建時代は、所謂国家社会主義のやうなもので、その上に例の支那流の経済家は兼併を禁じ、大地主大金持が出来るとその頭を叩き、或は諸侯が財産を取上げたり、棄損を唱へて貸借を無効にする。随分乱暴な仕方で、この事が非常に富む者と非常に貧しい者とを少くしました。
 この外にまた東洋のアセチツクの流儀で、富の外に人間の重んずべきものを置きました。諺に言ふ武士は食はねど高楊枝で、この一主義が富の勢力を制して居りました。これが世人の才能を富を得る一途に傾けさせずに、平均を取つて居た一原因と思ひます。」
「今後、日本は貧富の懸隔次第に甚しくなりませう。西洋が今日まで為し来たのと同じ事情を具へて居る。契約は自由であります。兼併を禦ぐ政略は勿論行はるべきでは無い。機械を採用して人力を省くことになる。今日西洋諸国が困難して居る有様に赴く道が具はつて居る。英人カルカツプは今日の有様を歎息して『欧羅巴人は政治上の民権を得たが、経済上の食客で、地面なく家もなし』と言うて居る。経済上の食客の増加するは機械の使用によつて、資本と労力とを分離させるより起ります。英国でも器械なき間は、資本と労力とは多く同一の人の手に在りました。我が今日の農家はそれに類して居ります。製造家もその通りである。この間は雇主も家族の如き関係を起すから、自然の人情、被雇者を見ること奴隷を見るやうな根性は余り起しませぬ。一たび強大なる器械を入れて数千の職工を集めれば、一つの国と同じで職工は主人の顔を見ることさへ無い。更に資本の勢力を以て機械を充分に入れゝば、一二人の財産では足りないから、会社の組織が起る。会社の組織が起れば、株主と職工と顔を合はせると云ふことは決して無い。さうなると資本と労力との競争のみで、人情の油はこの競争を緩めることは無い。この事が我国の経済社会に必ず起つて来ると思ひます。――興業上の兼併が行はれて多くの人が家来になる。この者が常に雇はれて居ればまだ良いが、決して然うは行かない。生産の競争が起れば色々制限を行ひます。少し出来過ぎて売口が遠くなれば、労役者を解雇します。賃銭はたとひ安くとも仕事があれば、パンを買ふ銭もあるが、雇を解かれゝば、パンを買ふ銭も無くなつて、たゞ坐食しなければならぬ。どうしても資本家と労働者と激戦をしなければなりません。望のある動物なら、何とかしてこの組織を破らうと云ふ考を起すは、已むを得ない。」
「私は社会党でも共産党でもないが、国として考へれば、百人の中一人は非常に富んで九十九人は極貧であるは、人情喜ぶべきでない、国の安全でもない。人民が殖えて分配も行き渉り、百人が略々同様に安楽なるは喜ぶべきことゝ私は思ひます。これが、私は日本の後来の為に注意すべき点と思ふ。私は斯様なる社会の有様に日本を置きたいと希望します。日本にバンデルビルトの如き人が出来ずとも衆人が不足を告げず、資本労力の戦争なき富国にしたいと、私は思ひます。さればとて弊害をのみ恐れて、現在のまゝ未開の有様に居ようと主張するではありません。矢張り大きな製造会社も起したい。今日のやうに熱天に汗をかいて一人でボツ/\仕事するよりも、器械を用ひてやるやうにしたいが、同時にこれに伴ふ弊害を避ける方法を講究したい。」
 かくて先生は、独逸の社会党を説き英国のツレードユニオンを説き、最後に「コーペレーシヨン」に就て実地見聞の説明をして、一大長講演を結んである。
 僕はこの速記録を読んで、時勢の変遷に驚愕した。「産業革命」の知識は、今や少年少女の常識になつて居る。けれど、明治二十年の頃には、大学生の頭にも未だ異聞怪談であつた。この時に於て、平明に豊富に、噛んで含めるやうに未来を警告された先生の知見と誠意と能弁とに、僕は心の底から感歎した。先生はこの時三十九歳だ。
 これを読んで、僕は更に一つの事を理解した。
 丁度十年を経て、明治三十四年僕等は社会民主党を造つた。憎悪と嫌忌と賤蔑との世論の中に立つて、先生は「社会主義と社会党」と題し、毎日新聞紙上月余に渉つて詳細慎密に評論された。後に「社会主義概論」と改題して出版されその頃普く愛読されたものだ。当時先生の態度は何と言うて可からう。今のハヤリ言葉を借用すれば、「シンパ」と言ふ所だらう。然れ共少し離れて疑はしげに眺める者には何と見えたであらうか。社会党の創立者中、安部磯雄、片山潜の二人は先生と親交ある友人だ。数にも足らぬ人間ながら、僕と言ふ者は現に先生に尤も親近な社中の者だ。貴族富豪等の目には先生が事実社会党の首領の様に見えたであらう。明治三十六年の、横浜の選挙と云ふ活劇には、この事が一つの大きな動機をなして居たやうに思はれる。三十六年の横浜の選挙は、単に先生一身上の劃期的事件であつた許りでなく、政治思想史上にも社会思想史上にも、注目すべき活きた運動であつた。然し、僕はそれを説く前に今一つ先生の思想問題上君に聴いて欲しいものがある。

  「開国始末」執筆の頃

 先生を語る為めに、全集を彼れ此れ開いて居ると、第四巻予告の小さな印刷物が出て来た。僕が署名して居る。
「攘夷主義は、幕府の末黒船始めて来航した時のみの迷信ではない。時代と共に少しく言語を変へただけで、其精神は少しも変らずに今日我国民の血管を滝津瀬の如く音立てゝ流れ狂つて居る。攘夷思想は民族神的信仰の産児である。故に第一に宗教問題である、道徳問題である。斯くて内治外政一切の問題である。学者思想家政治家達が、皆な此の氷山の如き伝統的圧力の前に萎縮逡巡忌避諂佞、其の暴威に触れないやうにと努めた時、島田先生は常に其の独自中正の脚地に立ちて、堅信博学、機に会ひ事に遇ふ毎に此の固陋の民心を啓発することを怠りなさらなかつた。明治二十二年条約改正騒擾の際に於ける「条約改正及び内地雑居」、日清戦後我が国民が悪魔の如くに露国を憎む際に於ける「日本と露西亜」、日本が始めて内地雑居の幕を開く時、僧侶神官等が無智の民衆の恐怖心に投合して妄言誣説を流布せる際の「対外思想の変遷」、是等時代に先だちて、国民の進路と目標とを指示せる著作文章は、真に先生の為に不朽の自画像であると共に、今日、此の昏迷の社会の為に、自省と悔悟とを促がすべき、清鮮な大説教である。」
 大正十三年のことだ、僕は書いたことさへ覚えて居ないが読んで見ると僕の文章に相違ない。この不用意に書き捨てた十年前の駄文の中に、先生に対する僕の讃歎と評論とは尽きて居るやうな気がする。
 考へて見ると、明治二十年、先生が一時世上の交渉を絶つて、閑窓の下に「開国始末」の著作に没頭された時、攘夷論の犠牲となつて桜田門外の雪と消えた井伊大老の為に、雪寃の史筆を揮つて居られた時は、維新以来久しく窒息状態に潜伏して居た攘夷的感情が、機運一転して擡頭の時節接近した時であつたらしい。「国会開設」「条約改正」の二大要求は、今や政府の一手に収められて、民間の政客志士は、疲労と無事に苦んで居た。総理大臣伊藤博文は憲法起草中。外務大臣井上馨は条約改正の準備。天下泰平謳歌の春。
一、四月二十日、伊藤首相の主催で、日比谷の鹿鳴館に内外紳士貴婦人の仮装舞踏会。一、同じく二十七日から三日に渉り、麻布鳥居坂の井上外相邸で、初日は天皇、二日目は皇后、三日目は皇太后、三陛下の臨幸を仰いで演劇天覧。俳優は団十郎、菊五郎、左団次等、出し物は寺子屋と勧進帳。一、五月一日、かくて井上外務大臣は、各国全権公使を招いて、愈々正式に条約改正会議を開いた。 忽然として旋風が捲き起つた。改正条約案の中、外人関係の訴訟には外人法官を加へて法廷を組織する云々の事が英字新聞に掲載された。国家独立権の侮辱、民間の物論紛々囂々。
一、六月廿三日、農商務大臣谷干城、欧洲視察の旅行を了へて帰る。彼は明治十年熊本籠城の名将、国権主義の雄者。井上外相の条約案に反対意見書を提出す。一、七月廿六日、谷農相、依頼免官。一、同廿九日、条約改正会議無期中止。一、八月一日、志士の大群、市谷なる谷干城邸を囲んで、名誉表彰。一、九月十七日、井上馨外務大臣を辞め伊藤博文外相兼任。一、十月三日、投機的老政治家後藤象次郎、民間政客を芝三縁亭に饗応して、政府反対運動に着手。一、十一月十五日、浅草鴎遊館に全国有志大懇親会を開く、後藤参会。一、十二月廿五日、保安条例施行、民間政客五百七十人を東京三里以外に放逐。中島信行、片岡謙吉、中江篤介、尾崎行雄等知名者、逐客の中に在り。
  条約改正問題の禍乱

 先生の「開国始末」は、十二月に脱稿し、翌二十一年三月出版。同時に先生は予定の如く欧米漫遊の途に上られたが二十二年八月帰朝の際、日本は再び条約改正問題の為め鼎沸の如き禍乱の最中であつた。
一、二十一年二月一日、大隈重信外務大臣就任。一、二十二年二月十一日、憲法発布。一、四月、大隈外相の条約改正案、例に依てロンドンタイムス紙上に現はれ、外人法官問題に対し、異論再び官民の間に起る。一、八月十八日、江東中村楼に条約反対者大懇親会を開く。一、九月廿五日より三日間、改進党の条約賛成大演説会。一、十月七日、帝国大学教授等条約改正案反対の意見書提出。一、同十一日、枢密院議長伊藤博文辞表を上る。一、十五日、御前会議。一、十八日、大隈外相重傷、一脚を失ふ。 かく打ち続き二度までも条約改正問題で勝利を味つた「保守」的精神は、今や「国権」「国粋」など云ふ大旗幟を飜へして堂々と進出して来た。

  変装した攘夷論

 大隈の条約問題の時、井上哲次郎と云ふ大学の哲学教授が、独逸の留学から帰つて来た。それから直ぐに「内地雑居論」と云ふ小冊子を発売した。西洋人に内地雑居を許せば、日本民族は消滅してしまふと云ふ議論だ。井上と云ふ男が真にさう信じて書いたのか否かは知らぬが、この変装した攘夷論が馬鹿に勃興しかけた保守的心理に投合した。
一、二十三年十月九日、議会召集令が出て、十一月廿五日を以て愈々多年の民望たる国会が始て開かれることになつた。一、同三十日、教育勅語。 すると、井上がまた「教育と宗教の衝突」と云ふものを書いた。基督教は教育勅語と衝突するから容赦すべきものでないと云ふのだ。「切支丹禁制」の復活だ。凡そ明治時代の文章で、この井上の「教育と宗教の衝突」ほど粗末なものは無かつた。而かもこれほど珍重がられたものも無かつた。日本全地「神道」と「仏教」に関する雑誌で、この井上の衝突論を護符の如くに転載せぬものは無かつたらう。
一、二十六年九月、山県系の政党国民協会は九州に東北に大会を開いて「非内地雑居」を決議した。一、同年十月一日、阿部井[#底本は「阿部井」が正しくは「安部井」である旨を注記]磐根、神鞭知常等「非内地碓居」を標榜する大日本協会組織。一、十二月十九日、衆議院に於て、阿(ママ)部井磐椴が条約励行建議案の説明中、十日間停会の詔勅下る。一、同二十九日、外務大臣陸奥宗光、衆議院に於て条約励行反対の演説。一、三十日、衆議院解散。
  「条約励行」の主唱者

 君等のやうな若い人達にはこの「条約励行」と云ふことが解らない。
 安政年間に締結した外国条約には、外国人の居住は特定の居留地内に制限せられ、この居留地域は治外法権で、日本の法律も警察も権力が無い。この治外法権が、日本の独立権を侮辱するものだと云ふのが、維新以来明治の政治史上に八釜しい「条約改正問題」であつた。外国人は条約上表面は居留地以外の居住が出来ないわけだが、事実は「旅行免状」と云ふ便法で、内地居住の自由もあれば、商買の自由も持つて居た。例へば宣教師が内地に教会を建てゝ定住伝道をする。山奥の学校へ外国語の教師に聘されて定住する。皆な旅行免状だ。而かもこの外人の身上には日本の法権は手を着けることが出来ない。軽井沢の外人避暑地にはアベコベに「此処日本人入るべからず」と云ふ立札をさへするやうになつた。
 島田先生は最初からの条約励行主唱者であつた。条約改正の出来ないのは、外国人がかく事実上内地雑居の自由と利便とを享有しながら、日本の法律に服従しないと言ふ特権を持つて居るからだ。故に条約改正を速成する為めには、居留地制を励行して、現条約の不便を実感させねばならぬと云ふので、この事は既に二十二年の著作「条約改正論」に書いてある。
 二十六年の衆議院に出た「現行条約励行建議案」にはかう書いてある。
「衆議院は、政府が現行条約の実施上我帝国の権利を汚損する所あるを認む。故に衆議院は切に政府に望む、政府が条約の権利を明確にしてこれを励行せられんことを。敢て建議す。」
 先生もこの建議案賛成の一人だ。然れ共この一つの建議案の内容には黒白氷炭相容れざる思想と感情とが流れて居る。
一、内地雑居主義の自由派――島田先生等。一、非内地雑居主義の国権派即ち攘夷派。 現にこの建議案の説明者たる阿(ママ)部井と云ふ老人は、「非内地雑居」を唯一の主張とする大日本協会の領袖だ。

  政府の圧迫に勝つ

 この時は第二次伊藤博文内閣で、陸奥宗光が外務大臣であつた。陸奥はこの励行案を鎖国論だと言うて攻撃し、これが為めに議会は解散となつた。次の選挙の第一目標は無論条約励行論だ。政府の手は先生の選挙区へも潜入した。政府の目から見たらば、横浜と云ふ日本の玄関に条約励行論者が居ると云ふことは、非常な障碍であつたに相違ない。その事は二十七年二月二十五日、立候補演説の速記の中に見える。先生は冒頭にかう言うて居る。
「今回、木村利右衛門君と私との競争に就て、その争点を申す必要があると考へます。木村君よりの申込に対し本月八日某々二君に面会致しました。その趣意は、『足下の人となりに就ては不同意はないが、二つの条件がある。その一つは監獄費国庫支弁案に賛成して呉れい。今一つは条約励行案の賛成を取消して貰ひたい。この二件は横浜市の利益であるから、さうすれば競争しない』と、かう云ふことでござりました。私は『左様なる条件を付けたる約束は一切出来ない。と云ふものは、私の心を欺いて可い加減のことをするわけには参らぬ。その事が果して必要な条件であり、また私の方針持論が国の不利益横浜市の不利益と云ふことなればその理由を悉く話され、互に胸襟を開いて講究するは別段なれど、只理由なく申込まれ、私が木村君の競争を避ける為に、条件付の申込にお答へ申すことは出来ない。国家公共の利害横浜市実際の利害と云ふ明瞭なる理由から互に説を尽すは宜いが、たゞ円滑の為に事情の為に抂げることは出来ない。私は何時の競争でも負けることのあるを覚悟して居る。少数で負けたら、尚ほ多数の同意を得るまで待つのが、代議政体の本体で、内閣が国会で負けて潔く辞職すると同じ道理だから、負けるのは恥でないが、故なく説を抂げるのは、この上もなく良くないことゝ思ふ。――一生の働から見れば、一時負けた方が、説を曲げて勝つより宜いと覚悟して居る。一時の為に条件を承諾し、それで嘘言を吐くと云ふことは、後来私の一身に関することであるから出来ない』かう云ふのが初めの挨拶であります云々」
 此時、反対派の木村候補者からの「無競争」と云ふ申込には、実は深酷な意味があつたのだ。前年即ち二十五年の有名な選挙干渉の時、民党の驍将島田三郎の地盤横浜の戦争は実に火の出る接戦であつた。
 この頃の選挙法は、選挙資格が直接国税十五円と云ふ高い制限で、当時の横浜は地域も狭く人口も少く、選挙人の総数は多分三百人内外のものであつたらう。且つ記名投票なのだから、勝敗は選挙前から予知することが出来る。反対派の候補者木村利右衛門と云ふは正金銀行の重役で、年齢は先生よりも上だ。一点の差で先生が敗けるか、同点で年少の為に敗けるのか、何れにしても先生の落選と云ふことは、敵味方の一致する予定成績であつた。然るに開票の結果は、一点の差で島田三郎の当選となつた。実に意外、全く意外――然しこれには悲壮な一美談がある。正金銀行の有権者は、無論悉く木村に投票するものとして、何人も疑はなかつた。然るに一人の若き島田崇拝者があつた。選挙の朝、彼は島田に投票し、直ぐ其足で銀行へ赴いて予め認めて居た辞職届を出して帰宅した。この一票で生死の運命が全く転換した。僕は今この人の名を失念して君に語ることの出来ないのを遺憾に思ふ。未だ血も乾かぬこの苦戦の実況を頭に置いて見る時、今度木村からの「条件付無競争」と云ふ申込に、如何ばかり大きな誘惑力を包んで居るかが解る。またそれを即座に理智的に裁断して、寸毫の躊躇も無い所に島田三郎と云ふ人の性格が見える。

  政党への訣別

 これ以後の政治界は、「条約励行」を楔子にして、離合集散が行はれた。一方伊藤内閣と自由党と提携し、これに対して条約励行の六派(この中には先生等の改進党も、非内地雑居の大日本協会もある)が提携した。
 二十七八年、日清戦争。
 二十九年三月、条約励行六派は解体合体合同して進歩党を組織し、大隈伯がその実際的党首となつた。
 その九月、伊藤内閣辞職の後を受けて、松方正義を総理大臣に、大隈重信を外務大臣に、所謂薩摩閥と進歩党との聯合内閣が出来た。両者の裏には三菱が居て岩崎弥之助が自ら出でて日本銀行総裁になつた。薩派政治家の暴政と、進歩党員の猟官運動との為に、この内閣は極めて醜悪な最後を遂げたが、三十年十一月七日進歩党代議士会で政府との提携問題に関する最後の相談の席上、先生はかう云ふて居る。これは当日の演説を文章に書き替へて毎日新聞に発表されたものだ。
「今日は政府と提携を絶つや否やが問題となり居れり。予は昨年総務委員諸君が提携を首唱せし当時より、提携其事に反対したるものなり。予が今日の問題に於ける一己の位地より見れば、冷眼看過すべきものにして、更めて喋々論弁するの必要なし。予は常議員に選ばるとの通知を得たるも、昨年以来一回も本部に出でたることなし。促がされたるも、本部の依頼は一切峻拒して之に応ぜざりき。是れ予が意を政界に絶ちたるが故に非ず、また社会を度外に置くが為に非ず。予が良心の指導する処は、進歩党の誤れる方針、特に本部諸君の方針と反対なるが為にして、予は初より政府と提携するの不可なるを確信したり云々」
 政党が「政権」と云ふものを中心にして進退する時代には、先生のやうに主義政見で動くと云ふ人は、一個の邪魔物だ。三十一年十二月の議会で、先生が財政意見で憲政本党と相容れず、遂に全く党界を脱して、一個独立の島田三郎になられた時「政友諸君に告ぐ」と題して発表された文章には、次のやうに書いてある。
「予は遂に憲政本党を脱し、議会に於ては独立の議員となれり。近時不幸、政友諸氏と意見を異にして歩武を共にするを能はず、故を以て党中の要局に当りて責任の位地に立つことを固辞したり。人或は予に党外に退かんことを勧むるあり。然れ共予の本党に対する関係極めて旧く、明治十五年改進党組織の初より諸氏の後に随つて鞅掌し、其の一変して進歩党となり、再変して憲政党となりまた憲政本党となるの今日に至る迄、先輩の訓を奉じ、同列と喜憂を共にし、諸氏と進退を同じくし、自ら紹介せし議員も亦少しとせず。予の頑硬を以て屡々諸氏に逆ひしと雖も、諸氏能く包容して予と絶つに至らず。其の友義交情久しく且つ深きこと此の如し。仮令小事の意見牴牾するも、豈俄に党外に退くこと、其の経歴を異にする田口卯吉の如くするを得んや。而して今や財政問題に於て党議と相反するものあり、遂に已むを得ずして党籍を脱す。豈今昔の感慨無からんや。」
 然れどもこれは単に形式上の問題で、例の六派が解体して進歩党の出来た時が即ち先生が政党を脱退した時である。

  変形切支丹禁制思想との抗争

 今この「政友諸君に告ぐ」の一文を見ると、十二月二十三日、新聞紙上に発表されて居る。すると、僕が番町邸へ始めて参上して、毎日新聞入社の承諾を得たのは、その前日二十二日であつたのだ。重荷を下ろしたと言つた態度で快談された先生の第一印象が、判然と目に残つて居る。「学生」「労働者」「婦人」この三つが今後自分の三題目であると云ふ先生の御意見であつた。あの時、先生は四十七、僕もまだ三十であつた。
 日清戦争の余勢、多年の難題たる条約改正も行はれて、三十二年七月十七日から、愈々外人の内地雑居自由と云ふ期が近づいた時、切支丹禁制思想の変形で、仏教徒の間に公認教制定と云ふ政治運動が起り、寺院の余力の尚ほ盛な地方では、代議士選挙の上にまで、大なる圧迫となつて現はれた。この時先生は啓蒙の為に「対外思想の変遷」と云ふ題目で、一大長論文を発表された。東西両洋に於ける政治と宗教との関係を一目の下に解得せしめる名文章で、先生の学問と見識とを知る上に最も適当な資料であると思ふ。先生の全集第四巻「政教史論」を、僕は諸君に一度見て貰ひたい。

  貴族と富豪との激争

 然らば君よ。予約の如くこれから三十六年の横浜の選挙を語る。日清戦争の後三菱の肝煎で、薩摩と進歩党との聯立内閣を造つたことは先きに語つたが、今や三菱は再び内閣改造劇の新脚本を書いた。
一、三十五年十二月六日が第十七議会召集の予定。桂太郎内閣時代。一、三日夜、三菱の女婿加藤高明の市谷邸に、政友会総裁伊藤博文、憲政本党総理大隈重信の二頭会談。一、翌四日、両党各々大会を開き、両首領の演説ありて、政府総攻撃の対議会策決定。一、十二月十六日、衆議院予算委員会は、政府の財政案を否決すると同時に、直に、日程を変更して本会議に上程。将に決議に入らんとする時、五日間停会の詔勅。一、停会また停会、二十八日遂に解散。一、三十六年三月一日、選挙予定。一、その一月七日、岩崎弥之助が、大磯の別荘へ、横浜の朝田某を呼んで、横浜から、加藤高明を選出することを指命した。 従来横浜には商人派と地主派との二派があつて、島田先生の地盤は主として商人派の方に在り、朝田は商人派の巨頭なのだ。
 一方横浜有力者達から、先生への候補辞退の勧告運動となり、渋沢栄一も、先生とは旧い個人的親交があるので、二度迄も番町邸に馬車を駆つて、候補辞退を熱心に勧告した。

  一世の恐怖・島田三郎

 僕は、先生が貴族富豪に嫌忌されるのを至当であると思つた。最近数年先生の社会的政治的の運動は、悉く貴族富豪の目には恐怖であつたに相違ない。試にその特に世の視聴を驚かした一二を挙げるならば
 一、足尾鉱毒事件。
 二、星亨事件。
 三、社会党事件。
 社会党に対する先生の境界は、先に既に言うたから、今、他の二件に就てその経過を語る。

 (一) 足尾鉱毒事件と先生
 三十四年の十一月、先生は田中正造翁と同伴で、渡良瀬川沿岸の鉱毒地を視察された。帰つて見えてのお話に、『驚いたのは、二三年前に見た村々が、殆ど跡方もなく零落して居る。この窮民は懶惰でもなく、天災でもなく、全く政治の罪悪の結果で、社会はこれが責任を負担せねばならぬ。特に寒天を眼前に控へた今日、食なき者に食を分ち、衣なき者に衣を分つは急務の人情である。従来の鉱毒問題と云ふものは、有志家の政治運動であつたが、これとは全く関係なく、同胞愛の発動として、婦人の手に信頼したい』
 僕は熱心に賛成した。
『然らば何人の手に托したらば可いでせう』
 当時、かゝる社会的方面に希望ある婦人と言へば、基督教婦人矯風会の外には何も無い。婦人矯風会と云ふものは、随分長い歴史を持つて居るものだが、年々公娼廃止及び禁酒の請願書を議会へ儀式の如く提出する外には、殆ど何もして居ない。僕はこの矯風会と云ふものに一つ精気を吹き込んで、社会の活力にしたいと云ふ希望を抱いて居たので
『婦人矯風会が宜しいでせう』
と提言した。
 かくてその月十六日、矯風会の矢嶋楫子、潮田千勢子両老婦人を始め四五の人々の鉱毒地視察が行はれ、潮田夫人を会長として鉱毒地婦人救済会と云ふものが出来た。矢嶋夫人は大きい所のあつた人で、この人の名は世に伝へられて居る。潮田と云ふ婦人は仕事の出来た人で、この救済会の金品募集から分配、病人の治療等一切が、この婦人の頭と手とで計画され実行された。
一、十一月二十九日夜、救済会第一回演説会を神田美土代町の青年会館に開く。聴衆満堂、霊火に打たる。一、第二回、本郷春木町中央会堂に開会。一、十二月十日、田中翁直訴。「田中の鉱毒か」と、半ば嘲笑と共にひやかして居た足尾鉱毒問題が、全く清鮮な光輝となつて、新たに社会の心情を照した。
 婦人救済会から一つのものが生まれた。或日の会合で、今の青年学生に、鉱毒地を見せることが、実地の学問になるのではないかと言ふ話が出た。その結果、
一、十二月二十七日、都下学生の鉱毒地視察。学校の種別で言ふと、帝国大学、学習院、各私立大学、仏教基督教の各学校。一、翌二十八日、青年会館に学生視察の報告会。一、翌年元日から学生の路傍演説。一、一月七日、帝国大学生発起の鉱毒地視察。一、その前夜、文部大臣菊池大麓は大学総長山川健次郎を招きて、大学生の鉱毒地視察禁止。一、潮田会長が東海道を経て、京都大阪まで演説旅行。特に大阪中の島の集会の如きは、聴衆感激、狂するが如し。一、九州より、奥羽より、青年婦人等、鉱毒地視察。一、鉱山主古河市兵衛の老夫人、神田川に水死。 この時も渋沢栄一は人を介して先生に鉱毒運動の中止を勧告した。

 (二) 星亨と先生
 三十一年六月、進歩党自由党合同して憲政党内閣成立するや、陸奥外相の下に公使として米国に在勤して居た星亨急遽帰朝して、入閣を迫つた。当時の策士犬養木堂は、星を入れゝば必ず内部から破裂があるので、これを峻拒した。星は入閣の駄目なことを見るや、「尾崎文相の共和演説」など誇張して、到頭外部からの破壊を成就し自由党の実権者となつた。
 三十二年、東京市会議員の改選に際し、星は麹町から出でて議員になつた。当時は三級制度で、麹町に於ける一級納税者は三井某一人。井上馨の口入で、星は此の一級議員で市会に入り、参事会員となり、こゝに得意の手腕を揮ふ幕が開いた。その頃東京の第一問題は「市街電気鉄道」の敷設で、市会は既に市の経営を決議して居たのだ。然るに三派の私設会社の運動が勃興し、三十二年九月二十九日市参事会は街鉄私設を決定し、十月十日の市会には公然暴力を以て議員を強迫し私設案を通過した。
 伊藤博文が官僚を率ゐ、自由党を基礎として、三十三年九月十五日、立憲政友会を組織するや、山県首相は伊藤を推薦して、二十六日辞表を提出した。内部の整理未だ就かざる政友会は、半ば狼狽、十月十九日に至つて始めて新内閣の成立を告げ、星は入閣して逓信大臣となつた。
 その二十日、「東京市民に檄す」と云ふ一文が毎日新聞に出た。
「先に市民が特別市制を廃して独立市政を布かんと運動するや、自ら揚言して曰く、輦轂(れんこく)の下、首都の地、学芸の淵叢、政権の中心たる東京にして、自治の権を許されざるの義あるべからずと。今や此権を得たる市は、如何に之を運施するや。市の公機関は腐敗漢に把握せられ、利刃を倒持して市民の胸に擬せらるゝに非ずや。先には星亨雨宮敬次郎等が、公会を腐蝕し、賄賂を公行して、市街電気鉄道の醜怪運動をなし、以て一大紛擾を醸出したり。爾来醜類の跳梁日に益々甚だしく、糠を貼りて米に及び、或は築港事業に藉口して破落戸(ごろつき)を豢養し、或は学校統一を名儀として、市費を貪婪の手に糜せんとす、彼等姦徒醜類の汚行、一々之を記するにたへず。其九牛の一毛を録するも尚ほ我筆を汚すの歎なきこと能はざる也。予輩、故に唯僅に其一例を挙げて、我言責を明証せざるべからず。
 鉛管会社より収賄したる事実は、再三之を報道したり。請ふ詳状を左に挙げん。
  第一案 水道給水用鉛管購入の件
一、金拾万四千二百七円四拾五銭也。
是は鉛管百七万八千七百五十封度の代価、但一封度に付金九銭六厘六毛。
主任者は夏目金次郎。三十三年六月十二日起草。同月十四日上局裁決。同日参事会収受。直に主査会に提出。
同月十五日、長谷川より書類稽留。
同十九日、本会に提出。同日太田より書類稽留。
  第二案 水道給水用鉛管変更値上げ代価を以て購入の件
一、金拾万七千八百七拾五円也。
是は鉛管百七万八千七百五十封度の値上げ代価、但し一封度に付金拾銭也。
主任者は夏目金次郎。三十三年六月三十日起草。同日上局裁決。七月二日参事会収受。同日主査会に提出。翌三日、参事会にて確定。
 是れ大日本帝国の首都たる東京市の名誉職が、白昼公然他を脅嚇して盗賊を行へる顛末書なり。一封度九銭六厘六毛の物品を十銭に値上げしたる結果、増加の差額三千六百六十七円を盗奪せしものなり。
 市民諸君。此文書に就て経過の要点を見よ。書類稽留は決して澹泊無味のものに非ず。賄賂を強迫する日子を経過する所以のものにして、参事会員太田直次は六月十九日此の第一案を抑留し、自ら鉛管会社々長郷誠之助に談判し、賄賂を納れざれば購入せざるべしと脅嚇したるなり。会社元と製産費外に賄賂を見込むの計算なし。此に於て価格引上の談判となり、長松某証人として密約成り、六月三十日の定案となりたるもの。奇なる哉、安価の見積書は六月十九日に提出せられ太田に稽留せられて三十日に至りしに、値上げの案は、七月二日に提出せられて翌三日に可決せられたり。――」
 市参事会員は皆な星の乾児だ。
 毎日新聞が「公盗の巨魁星亨」と題して連日攻撃の記事を掲げ、且つ司法権の発動を促がすや、星は忽ち逆襲の兵法を執つた。左に星と先生との往復の書翰を示す。
星亨の来書。
 島田三郎足下
 足下の主宰する毎日新聞は、近日連りに虚妄の事項を登載し、言を極めて予を讒毀せり。予は世上多くの新聞記者が自ら知らず、而して犠牲責任者の背後に潜みて唯徒らに紙上に呶々するの陋を見、常に其言ふ所に放任し、之を弁駁咎責するの要なしとせり。然れ共足下は其流を異にし、平生道義徳操を標榜とし、士君子を以て自ら居る。然るに今回の事たる、足下其平生に反し、虚妄無責任の事実を濫記し一に予を讒誣し、狂呼暴言殆ど常感の外に逸する観あらしむ。思ふに足下必ず確信する所あるによるべし。
 足下果して予を以て言ふが如き汚涜の事実ありとせば、宜しく公然自ら名を署し其責を明にせよ。若し既記の事実を再説するの要なしとせば、従前の記す所、足下の手に成れるを明示せよ。予亦足下の責任に対し、相当の敬意を以て進で此が虚妄讒誣を証明するの手段を講ずべし。此れ足下平生の主張に於て必ずや否む能はざる所なるべし。若し夫れ尚依然として自ら韜晦し漫に無責任の呼号を事とするの陋に出でんか、足下平生の主張は矯飾自ら衒ふものにして従来記する所は悉く確信拠守する所なき妄誣に過ぎざるを表白するものなるべし。
  明治三十三年十一月十六日星亨先生の返書。
 星亨足下
 昨十六日附足下の名を以て予に寄せたる書面、或は足下の配下が足下の名を騙て予に寄せたるものに非るかを疑ひ一応足下に向ひて、足下が真に予に此書面を寄せたるや否やを質せしに、足下は今十七日付を以て、彼の一書は確に足下より出でたることを明かにせり。
 予は今初めて足下に答ふべし。足下は毎日新聞の記事に対する予の責任を問ふの前、先づ足下自ら其良心に対する足下の責任を一考し、然る後足下が公人として社会に対する責任如何を反省することを望む。
 足下が東京市参事会員として汚涜の行為ありたりとの事は、独り毎日新聞之を記せるのみならず、都下地方幾百の新聞之を記載し、帝国四千五百万の民衆之を口にし、復足下の為に其妄を弁ずる者を見ざるは何ぞや。予は心窃に足下の境遇の甚だ悲むべきを察せざるを得ず。足下若し法律に問はれずんば、何事をなすも可なりと考ふるならば、是れ大なる誤謬なり。足下若し法網を免るゝの道を講ずるに敏ならば公罪を犯すも可なりと信じ居るならば、是れ大なる誤謬なり。足下夙に欧米に遊学し、欧米の社会に於て社会的道徳は遙に日本より高く、社会的制裁は遙かに日本より厳なることを知らん。予は平生、日本の社会的道徳を高め、日本の社会的制裁を厳にし、若し証拠の不充分なるが為に法網を免かるゝ犯罪者あるも、断然之を社会の外に、排斥せんことを期するものなり。
 足下若し良心あらば、今に於て足下が公人として、社会に対する責任を明かにし、四千五百万民衆が足下に対して抱ける疑惑を消散するに勉めよ。
 予は足下に向ひ、足下の現時の要務は、他の責任に就て云為するの前、先づ足下が公人として社会に対する責任を尽し得たるや否やを反省するに在ることを教示せんと欲するものなり。
  十一月十七日島田三郎 司法権も漸く動き出して、利光某中島某等市会及市参事会に於ける星の腹心の人達が陸続と監獄裡の人となつた。
 帝国議会の召集は、十二月二十二日に迫つて居る。政党改善を標榜して起つた伊藤首相は煩悶した。二十一日、星は遂に逓信官を辞して、原敬が是に代つた。
 翌三十五年六月二十一日午後、伊庭想太郎と云ふ剣客の為に星は市会議場に非命の最期を遂げた。
 血は一切の罪を拭ふ。世論は忽ち頭を転じて、毎日新聞の詭激の言論を非難した。かくて島田三郎と云ふ名は一世の恐怖となつた。

  普選論にこめたる感激

 今や選挙法の改正、選挙権の拡張に伴ふて、横浜市は二人の代議士を出すことになつた。二人の議員に三人の候補者。曰く三菱の代表者加藤高明、曰く伊藤政友会総裁指名の奥田義人、及び単身孤独の島田三郎。
 二月十四日、「横浜市民諸君に告ぐ」の一文を公にして、先生は戦闘を開始した。全国の視線は横浜の一点に集中した。
 三月一日、選挙。投票総数二千四百何十。先生の得票一千四百何十――然らば他の一人は誰か。奥田が当選して加藤が落ちた。この時先生五十二歳。
 大正九年二月十五日の衆議院で、先生丁度七十歳、普通選挙法案の演説中に
「明治の初年は如何なる人に依て改革を遂げられたかと申しますと、青年先づ活動して、壮年これに応じ、老年の人これに追随すると云ふことが、明治初年の改革の大に振うた所以であります。――明治初年の先輩に対して、今日この議会に居る所の御同様、甚だ相済まざる感が起つて、吾輩先づこの怠慢を謝さなければならぬ。」
 かう言うて居られる。
『普通選挙の主唱は政治上の義務です』
と言はれた先生の真意を、首肯くことが出来る。「義務」の一語には幾多の感慨が籠つて居るだらう。而かも明治三十六年の選挙の感激が、中心の動力であることを、僕は窃かに想像する。〔『中央公論』昭八・五〕



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